はてなキーワード: 学校現場とは
・殴る蹴る。
・おはよう、に返事をしない。
・テストの点数を覗き見る。
ここで学校現場を拘束する法令「いじめ防止対策推進法」の第二条で規定される定義を引用する。
この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
つまり、心身の苦痛があれば全ていじめ認定が成され、加害者と被害者というカテゴリを前提とした調査や指導、対応を行う。
学校がブラックであるとの共通認識が出来て久しいが、子どもの成長のために必要のない仕事をするよう強制されるシステムに問題がある。
一応中高の免許は持っているが、特別支援学校の免許は持っていない。無免許教員だ。
特別支援学校といっても、障害の種類によって実態は様々である。
そのうち、身体障害者は知的に障害を持たないため、高等学校に準ずる教育をしなければならないことになっている。つまりは、高校と同じ教科指導を行う必要があるのだ。
特別支援学校の免許をとるためには、基礎免許状といって小中高のいずれかの免許をとらなければならないが、だいたいの人は小学校免許をとる。
高校の免許を持っている人間は結構レアだ(自分の周りでは)。そのため、身体障害者の特別支援学校では常に人手不足の状態に陥っている。
ではどうやって人材を確保しているのかというと、うちの自治体は高校枠の教員が教科指導のために特別支援学校で勤務させられている。
学校の枠を超えて、高校にいくらでもいる教科指導ができる人間を引っ張ってくることが認められているのだ。
だが、高校生に教えたくて教員になった人間が特別支援学校を希望することはほぼありえない。
希望者なんか募ってもゼロに近いだろう。それに、ちょうどよく不足している教科の教員が来るとは限らない。
だから自治体は、どこに配属されても文句を言えない初任者を特別支援学校で勤務させるのだ。
自分は運悪く、初年度に特別支援学校に配属されてしまった一人だ。
一応、教科の免許は持ってはいるが、障害がある生徒を相手にしているので、普通に授業をするわけにいかない。
障害を理解し、個々に応じた指導をしなければならない。そのために何時間も残業することは当たり前。
右も左もわからない状態でなんとかやっているのに、ベテランからは支援がなっていないとボロクソに詰られる。
研究授業でも褒められるポイントは授業内容ではなく、支援策。やってられるか。
そして、勤務校は身体障害者がメインの学校とはいえ、最近は知的障害を併せ持つ生徒が増えてきている。
障害の程度は様々だが、中にはトイレの世話を見なければいけないような生徒もいる。
特別支援の免許を持っている人間にとってはそんなのは当たり前だと思うかもしれないが、仕事先で生徒のケツを拭く(物理)なんて思ってもいなかった高校枠の人間としては、かなりキツいものがある。初めてトイレについていかなければならないと知ったときのなんとなくわかってはいたけどマジか…という感覚は今でも忘れられない。
コロナ禍に学生生活を送っており、介護等体験でも特別支援学校に行けなかったので、本当に初めての特別支援学校で、自立活動なんて言葉も初めて聞いたレベルだ。
それなのに、かなり課題があるであろう生徒の自立活動をマンツーマンで持っていたりする。
本来、高校免許では教科指導しかできず、重複障害学級の授業は特別支援の免許を持っていないとできないはずなんだが、人手不足だからと見逃されている。
人事異動でどうしても高校に行きたいと毎年訴えているが、うちの自治体の初任者は最低3年勤務しなければいけないというルールがあるため、異動は厳しいといわれる。
しかも、最低年数を超えていても異動できないこともある。そして異動できたとしても、なぜか次も特別支援になる可能性もある。
ちなみに、最初から高校に配属された教員は特別支援に異動したい場合、かなり複雑な手続きが必要らしい。なんだこの不平等は。
正直メンタルが限界で、心療内科に通院していることを伝えているが、労働者の健康よりも自分たちで作ったルールのほうが大事なようで、校長からは軽く流されている。
だから学校現場は人手不足なんだなと納得している。休職の可能性をほのめかしたところ、「異動は健康な人がするものだからね、高校に異動するのが長引くだけだよ(笑)有給をうまく使って頑張ってください(笑)」と自分の高校に行きたい気持ちを人質に、休職をとらないよう脅すようなことを言われたので、もう来年退職することも考えている。
本命の高校で教育ができなかったことは残念だが、これ以上専門知識もない自分のような人間が障害者の教育に関わることに耐えられない。
そういえば、本採用前に人事面談があった。そこで希望を書いた用紙に「特別支援での勤務を希望するか」という欄があり、自分は「希望はしないが不可ではない」にチェックしてしまった。
「不可」にチェックした場合、不可の理由を書かなければならず、どうしても障害者差別的な内容になってしまう気がしたからだ。
なので自分はまだ自業自得という感じがしている。その場で良い人ぶろうとして相手の罠にハマったのだ。
ただ、同僚で「不可」にチェックしていたのに、勝手に「希望有り」に変えられたという話も聞いた。
自分もやたら特別支援学校で勤務するならどの障害種がいいですか?などと、希望していないと言っているにも関わらず、やたら深堀りされた記憶があるので、人事は気が弱そうな人間を狙って言質をとろうとしているのではないかと思う。
そろそろどの自治体も合格発表があると思う。高校枠で採用されたみなさんには、絶対に特別支援学校を希望しませんと強い意志で言い切ってほしい。
障害者差別だなんだと言われても、もう受かっているのだから今更不採用なんてことにはならない。その場で取り繕うよりも、4月からの自分の生活を優先してほしい。
特別支援に興味がある人もいるかもしれないが、ちゃんとトイレの世話や生徒のよだれ拭きといった仕事があることも覚悟したうえで希望してほしい。
初任者研修も特別支援学校枠で受けることになるので、他の人が当たり前に身に着けている高校で必要な知識はひとつも教えてもらえません。
自分が失敗しているので、他人には失敗してほしくない。何を言われても絶対に拒否してください。自分の後任がいなくなるので、自分が異動できる可能性は低くなりますが、人事が困るなら本望です。地獄に落ちろ。
これを読んでいる特別支援学校の生徒の保護者がいたら、教育委員会に問い合わせるなどしてほしい。
無免許であなたの子供に教育してます。障害の知識なんかないので、常に探り探りやってます。あなたよりも障害の知識が乏しい可能性もあります。
同じような無免許教員が何人もいます。なんやかんやみんな責任感があるので、文句を言いつつ仕事はちゃんとやっています。
なので現状を誰も問題にしてくれません。
助けてください。
原因
フェミニズムが浸透して男女の賃金格差が縮んだのにも関わらず、下方婚を志向する女性が極めて少ない
フェミニズムが浸透して男女の賃金格差が縮んだのにも関わらず、相変わらず専業主婦を希望する女性が多すぎる
フェミニズムが浸透して女性の発言が力を持つようになった一方、男性の声を軽視するようになった結果、男性が結婚するメリットが少なくなった
フェミニズムが浸透した結果、男性が恋愛の主導権を握りにくくなった一方、相変わらず生物的な傾向として女性は受け身でいる人のがほうが多い
フェミニズムが浸透した結果、年齢差のある男女の恋愛の成立が困難になった
SNSの普及で女性による男性憎悪が可視化されたので恋愛や結婚を諦める男性が増加した
低賃金の派遣社員の増加とそれを良しとする政策が続いているので結婚に踏み切れない者が多くなった
高齢化社会に伴い、税金、社会保険料の納付額が増加して可処分所得が減っているのにも関わらず、大学授業料は高騰を続けているので子供を複数人育てにくくなった
メディアの発達に伴い、ルッキズムが浸透したので伴侶にもそれ相応の容姿を求める人が多くなった
男性の実家との同居を拒む女性の声が大きくなり、核家族化が進んだのと、地域コミュニティの役割も縮小したため、祖父母や隣近所に子守を頼めなくなり、夫婦で子供の世話をする負担が増大した
企業が就職希望者に求める学歴のハードルが高くなった結果、子供の自立時期が遅くなり、養育費が跳ね上がった
都心への一極集中が進んだ結果、都心では居住スペースの縮小、田舎では就労機会の減少が起こり、どこに住んでも子育てがしにくくなった
発展途上国であれば貴重な収入源にもなる児童の労働が規制されているので「ヤングケアラー」ですら社会問題化し、子供が純粋な負担でしかなくなった
きれいな人間のモデルが繰り返しメディアで取り上げられることで「完璧な人間」を求める願望が広汎になり、社会的に許容される「人間の幅」が狭くなった結果、「優秀な子供、充実した育児環境が望めないのであれば子供を持たない」という選択肢を選ぶ人が増大した
企業に中高卒枠の採用で税金を減免し、大学の数を暫時淘汰していく、最終的に大学進学率は2割くらいを目標にする
同一労働であれば派遣社員の賃金を正規社員より高額にするよう規制する
保育施設、赤ちゃんポストなどを拡充し、職員の待遇を改善して核家族化と地域コミュニティの縮小によって荒野になった子育て環境の回復を図る
児童労働をある程度許容し、子供を過度に家庭の負担にさせないようにする
ルッキズムは政策としては打つ手がないので個々人の努力や諦観に任せる
子供が増えなければ「完璧な人間」とは程遠い発展途上国の人間が大量にやってきて社会が蹂躙されて治安が悪化する、という未来予測を周知し、日本人の不完全な子供が増えることを許容できるような世論を形成する
不完全な子供が増えると学校現場が荒れるので教員の権限と人員を強化し、責任を軽減し、待遇を改善する
みんな、信じられますか?
いま僕40歳で、今年息子が小学生にあがるんですけど、30年以上前に自分が小学校の算数で使った「算数セット」なるものを今も小学校では使ってるみたい。
しかも、こんなちっちゃいものに、全部名前を書くか、お名前シールを貼らなきゃいけない。 ※写真のおはじきにはピンセットで名前シールを貼りました。名前は消しています。
みんな、信じられますは大仰です。ものが小さいがために名前を書かなくてはいけません。
親業をやってきているのであれば、このほかにもこのような作業は当然たくさんあって、
40歳で親業がそこそこになっているのに、それを幾度となく感じずに過ごしてきているわけではないので、
それを思い出して欲しいです。
ちなみに、このおはじきは算数セットのほんの一部で、他にも小さいものがたくさん入ってて、その全てに一個一個名前を記す必要が。
先ほどと同様に親業として行なってきた、
同種の名前書き作業についてのこなしかたの選択を思い出せば良いかと思います。
https://x.com/xusa2023/status/1758005370973454495?s=20
そのほか多くの方がこの問題との自分なりの折り合いについて付けられていて、
それを親業を日々こなされているのであれば、
ネットや日々の親業でつながるネットワークの中でお話を聞いてると思います。
思い出して欲しいです。
名前なんて書かなくてよくね?
どれほど助かることか。
名前を書くことで自身のものが戻ってきた経験を思い出しましょう。
そんな、なくす?
そんな、落とす?
そんな、無くすし、落とします。
親業をされているうちに目にしたことはありませんか。
それを思い出しましょう。
仮に、1つや2つ落としたり無くしたとて、そんな困る?
授業に支障でる?
1つや2つ落としてたり、無くしたりしたとて、
ただし、ここでいう支障を支障と呼称することは
少し待って欲しいものです。
というのも、この落としたり無くしたりという事象が
そういって学校現場ないし学校という世界観は形作られています。
2017年の出生数は94万人ちょい、2018年の出生数は91万人ちょい。なので、今年日本で小学校に上がる子、つまり2017年度生まれの子はおそらく91〜4万人の間。
その保護者が日本中で日々の暮らしだけでも忙しい中、貴重な時間を削り出して、夜な夜なシール貼ったり名前書いてると思うとマジで無駄。愚の骨頂。日本人の生産性が低いって言われてるのそゆとこじゃないの?って思う。
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」という言葉があるように、
発言でデータを持ち出すときは、その奥にある何が言いたいのかという意図に
目を向けなければならないように思います。
効率を重視したいというのであれば、
今までのその日々の暮らしの中で悩んできた中で
それを思い出して欲しいです。
もちろん、同じように考えている人もいるのか、自治体によっては算数セットが学校にあらかじめ置いてあって、貸し出してくれるところもある。ただ、僕が居住している自治体では買わされた。
30年前も同じような状況があったように思います。
どういった事情が背景があり、貸し出すのか否かは個別具体になります。
が、
その地域の貧困率とそれに対する向き合いかたが昔ながらの事情というのであればあります。
現場サイドとして、どう解決していくのかということ中で生み出されたこともあります。
発言者はお住まいの自治体のすべての小学校で買わされることを確認された上での発言のようです。
ここにも、親業として今まで培ってきた情報が生かされていません。
児童の教材についての選定は各学校の実態に応じて、校長の裁量で行われます。
校長が変わり校長が貸し出しが必要であると判断し、校長が判断を起こせば、貸し出しにできるのです。
お住まいの自治体すべての小学校は算数セットは購入となっていることを確認することだったのか、
それとも、校長の現状の判断を変えるように働きかけることだったのか。
「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」
誰に対してどんな知恵をあなたは出し、隣の親や目の前の担任やその他の先生に知恵を出してもらうのを促すのか、
「サンデーモーニング」ではなく、当事者性の高いことなのだから、頑張っていきましょう。
あんま使った記憶も残っていないこの算数セット。日本中で毎年何十万セット買わされている人がいるのか、正確な数字は分からないけど、使われなくなった算数セットはきっと毎年数十万セット捨てられてるんだよね?
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」を繰り返しが行われているように印象付けられます。
意図的に自身が有利になるようにデータの提示をするのはあまり褒められたことではないと思います。
それってかなりのプラゴミの量だし、もう日本中の小学校に必要な数だけ置いといて、レンタルにして欲しいって思うのは自分だけ?
大雑把にプラゴミの量を減らせばいいという発言を無批判に垂れ流すには注意が必要な発言です。
レンタルにして欲しい、どなたからか借りたいという要望はあり、その具体的な解決の方途については返信で行くつも示されている通りです。
ご自身がコスパ、タイパが高いと思われるものに各自の判断で使えばよろしいかと思います。
すごい通知くるなぁと思ってミュートしてたら、ちょびっとバズってましたww
お疲れ様です。
親業として貴重な経験でこのような苦労を親にもかけていて、
その上で自分が今我が子に手間暇をかけてやれると思えて幸せな時間だったと思います。
多すぎて全部は見れてないものの、リプやら引用などをざっと見た感じ、結局算数セットを毎年各家庭に買わせて、名前を書かせることに関して納得できる合理的理由を述べているものは一つもなかったです。
何を持ってご自身が「納得できる合理的理由」と判断されたかを示されていないのでその部分については、なんとも言えませんが、
「納得できる」というところをわざわざ付けておられるところから、首肯しそうになってしまったリプや引用があったのでしょう。
親業って本当にそんなことばかりですよね。そして、通り過ぎると確かにその通りかもなあということ本当に多いです。
親業をやって数年経ち、就学前を終えようとしているステージならば、実感がこもって首肯できることのように思うのですが、
親業における子どもとの関わりって「納得いかない非合理なこと」しかないですよね。
子どもは非合理でしかないですよね。その非合理の最中の中でどうにかこうにか合理的だったり最適化されたりしたものに
日々そんな物心ともに周りとの関わりでどうにかこうにか生かされていることを実感する日々です。
まず、「算数セットをなくすに反対」については、僕は算数セット自体をなくせとは一言も言ってなくて、むしろ肯定派。算数セットが担っていたことをタブレットにしちゃうのも反対。手を使うのって大事だから。なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした。学校に人数分プラス余分に算数セットを揃えておいて、貸し出すのがいいと思っています。
文脈としては、「算数セットをなくす」という思いを持ちながら書いていると読めます。
「手を使うのって大事だ」は返信等を読んだ上で、先ほど書いた通り、うっかり首肯してしまいそうになったものの中から取り入れ、
「なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした」
書き始めを大仰に書くのでなく、修正でないのならば、上記の主張をはじめに明示してから始めると
先に述べた印象は薄らいだと思われます。
「学校の先生が忙しすぎて、今のあり方を変える余裕がない」については、そもそも算数セットを採用することを誰主導で(文科省なのか、自治体なのか、校長なのか、現場の先生なのか)決定してるのかよく知らないですが、文科省主導で貸し出し統一すればいいと思っています。僕は教師じゃないので現場のことはよく知らないし、「知らないお前が偉そうなこと言うな」というのもごもっともですが、教師ではない以上現場レベルの問題解決策までは提案しようがないです。そこまで提案しないと問題提起しちゃだめってなると、たぶん世の中何も好転しない。それは「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」かなと思っています。
ここがいただけない部分の根幹にあり、「サンデーモーニング」です。
算数セットを採用するのは、誰主導の選択肢から言えば、現場の先生の意見を吸い上げた校長です。
親業の中で情報を収集してきた中でそれはご存じであるかと思います。
無知を装うのは、卑怯だと思われかねないので宜しいことではないと思います。
文部科学省からの貸し出しの通知文を出すように要請をしているように見受けられますが、
通知文については効力がどの程度あるのかは不確かなところがあります。
お住まいの自治体の状態を具に調べるほど、親業としての手腕をお持ちのようなので、
「なくすし、おとすし、盗まれるから名前書きが必要」に関しては、だからこそ学校から貸し出すほがメリットは大きい。貸し出しなら各家庭で膨大な量の名前を書く必要もないし、先生たちの名前のない落とし物の持ち主探しの時間も節約できる。盗むに関しても対学校になるので、生徒間・保護者間のいざこざもない。
親業をやられている数年というところなので、
今までご自身の経験の中から「自分の落とし物があったら、名乗り出ることができる」ことや
「友人が落とし物をしたら、一緒に探してあげる」ことなどいわゆる非認知スキルの大切さについては、
実感しきりなところかと思います。それを思い出して欲しいです。
親業をやられていればこれも感じることかと思いますが、
自身の子どもが「盗まれる」だけでなく「盗む」側になるかもしれないということ。
また、その「盗む」ということをする場合に、早期にその行動について変容を促さなければならないことに
そして、「生徒間のいざこざ」が発生し、それを未然防止するために集団の一員としてどうするのか、
どのように全体最適を集団の一員として寄与するのか学ぶこと。これこそが、公教育の公教育たる意味です。
親業をしていく中で育児方針等を立てる上で、目にしたかと思います。
それらを思い出しましょう。
「保護者間のいざこざ」という部分については、まさに「子育ては、自分育て」なのだと思います。
蛇足ですが、小学生のことは「生徒」とは呼称しません。「児童」です。
「消毒云々、数年で足りなくなる云々」の運用上の問題は確かにあるとは思うけど、そもそもみんなで共有してる学校備品なんて他にもあるわけだし、どんな方法を選択するにしろ問題ゼロはありえないので、そこは運用しながら問題解決していくしかない。
学校備品ではなく、消耗品になります。そこは民間と理解は変わりません。
多くの学校では、予算が厳しくなっていることはありますが、消耗品になるので、必要性を論理的に主張することができ、
且つ校長と事務官のモチベーションが高ければ通りやすい部類になるかなあというのが実感としてあります。
もう一つは、良くも悪くも地域からの熱い要望があれば、通りやすいです。
あと珍リプ的なとこで言うと「名前書き不要=お前は子供が嫌いな人間」にまで飛躍したものもあった。そもそものスタートが名前書きに膨大な時間を奪われて、子どもとの時間が奪われていることに起因する主張だったんだよなぁ...って感じ。
語勢からそう読み取るのは容易でありました。子供との時間の中で名前かきをしている方も大勢いるのが返信からもわかったのではないかと思います。
親業をやっているのであれば、知り得る情報についても意図的になのか隠されているところもそう読み取らせることを容易にさせることに寄与しました。
もし、意図的に隠したのでなく、情報を得ていなかったのであれば
「子どもが好き嫌いかはわからないが、パートナーとともに一緒の目線に立って育児をしていない人なのだろうな、パートナー大変そうだな」
ということは言えるかと思います。どちらにしても、ざんねんな感じです。
私も残念なところばかりで、「余計なお世話だよ」と言いたくなることも他人から言われます。一緒に頑張っていきましょう。
「子どもの持ち物に名前を書く余裕もないのか」については、ひとり親世帯数の推移はひとまず確認した方がいいと思う。その主張はひとり親世帯ではない人のものだったけど、僕の姉はシングルマザーで働きながら二人の子育てをしてて、本当に大変そうな姿を見てるから「そんな余裕あるわけねーだろ」と声を大にして言いたい。
姉が睡眠時間を削ってこんな膨大な量の名前書きをやっていたかと思うと...言葉にならない。てか、それが根底にあったから怒り爆発したってのはある。
当事者としてそこに切実なニーズがあることを感じているところのようですので。
頑張って欲しいです。
ただ、結構たくさんの人から「学校から貸し出しでした」という声をお寄せ頂いたので、それは素晴らしいと思いました!ちょっとずつ変わってることを感じました。
学校教育に関する認識の誤解あるあるで十人十色経験は違うのに、自分の経験が絶対だと思うのはよしてほしいです。
30年前から貸し出しのところは貸し出しだし、そうじゃないところはそうじゃないです。それだけです。
算数セットを各家庭に買わせるか否か決定する立場にある人に、この一連のポストが届き、来年以降に小学校入学を控える子を持つパパさんママさんの負担が減り、家族の時間が増えると嬉しいです
自戒を込めて、
「半径0mの世界を変える」には
「(30年前に)こんな酷いいじめシーンがギャグとして放送されていた。だから私は(見てないけどどうせ今も同じような内容を放送しているに違いないから)テレビを批判する」
「(30年前に)少年漫画で性加害シーンがギャグとして肯定的に軽く描かれていた。だから私は(読んでないけどどうせ今も同じような内容ばかり描かれているに違いないから)少年漫画を批判する」
「(30年前に)教師からこんな酷い扱いを受けた。だから私は(今の学校現場はどんなものか知らないけれどどうせ今も同じような体罰や恫喝ばかりしているのだろうから)教師を批判する」
何でさも最近被害を受けたかのような言い方するの?何で何の関係もない現代を生きている人を恨んで足を引っ張ろうとするの?
「これは30年前の出来事です」「現在の状況はよく知りません」、その情報を伏せて正義棒を振り回して相手を、しかも直接加害されたわけでもない人を属性でくくって殴ろうとするのは卑劣な行いだ
作品名とかも伏せるなよ、人名だってイニシャルトークでもなんでもいいから特定個人を指せよ
30年経った今でも酷いトラウマなんです~~って泣き付けばお仲間がよしよししてくれるだろ
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231216182406
このトピックで最後である。そんな不愉快な出来事が、私が指導課長として勤めていた三年間ずっと続いた。多い時だと、週に二度も三度も、人間としてあまりにレベルが低い言動を間近で見ることになった。これなら中学生の方がまだマシだと思えるほどの。
三年目のことだった。腹に据えかねた私は、教育長や教育局長も交えての会議の折に、別件として提案したのだ。「社会教育課を本庁部局に移管できませんか?」と。2人とも賛成のようだった。だが、案の方は当然ながら私の方で考え、提示する必要があった。
次の人事異動を見据えると、部局レベルの人事案は秋までに固まる。それまでになんとかする必要があった。時間の合間を縫って、休日にも出勤して、社会教育課を教委事務局から出すための方策を考えた。
本来、こんなことをしている時間はない。本当にやらないといけない教育行政上の課題はいくつもあった。学校の統廃合案を考える必要があったし、文科省に上申すべき学校教育の新制度のこともあった。
そんな中、校内暴力という至急の案件が生じた。特に時間を食わされた。
あれは秋頃だった。全校集会の際、体育館の中で男子生徒同士が喧嘩になった。片方はいわゆる不良タイプで、もう片方は学級委員を務めるなど真面目な子だった。
後者の子が、整列の仕方や身だしなみについて注意をしたところ、不良タイプの方が激高してしまい、取っ組み合いとなった。そして、顔を蹴って下顎を骨折させたという。その場で教師が止めに入り、ケガをした子は病院に運ばれ、不良の方は別室に隔離して事情聴取をしたという。
ただ、そのケガをした子の父親が、「どうして警察を呼ばなかったのか?」と教委事務局の窓口に苦情を申し立てた。窓口で話を聞いた一職員で対応できるはずもなく、私を含めた指導課の数人で親御さんから話を聞くことになった。
・校内暴力について、学校として警察に通報する基準を教えていただきたい
・再発防止策を教えてほしい
親後さんの主張は尤もだった。私はこの手の問題に対処したことがある。この案件においても、誠意によって説明した。私個人の手帳にメモが残っている。
「この度はこのようなことになって申し訳ない。お子さんには全力でフォローします」
「教育活動の一環だからです。なぜ暴力という罪を犯してしまったのか、保護司やスクールカウンセラーなども交えて加害生徒と話し合い、正しい方向に導くことが第一です」
「でも、犯罪ですよね。公務員には通報する義務があるんじゃ?」
「警察というのは、犯罪を捜査するための組織です。学校内でのことは、犯罪以前の段階であると考えます。まずは学校が、教育者という立場で解決に当たるのが本来の姿です。T区の警察の方とも、過去にそのような認識を共有しています」
「呼んでいただいてもかまいません。ただ、家庭裁判所への送致が必要な、いわゆる少年審判によらねば収まらない案件でない限りは、警察は教育現場に介入しません。私たちに解決を委ねます。経験上はそうです。当方としましても、警察への通報というのは、学校が教育理念に基づいた人間教育を怠ることだと考えます。暴力という結果だけで法律を適用し、犯罪事件として生徒が裁かれることがあってはなりません。2人とも、当校の生徒なんです」
「絶対に、以後このようなことがないよう、加害児童への指導を徹底します。お約束します。お子さんには誠心誠意、教育の専門職による面談・フォローをします」
「絶対に、再発だけはさせないでよ」
※ここで親御さんが退席
要約こそしたものの、この話し合いは午後八時~十時に及んだ。
「お約束します」と言ったが、むろん約束などできない。だが、ああ言わねばならなかった。教育者としての、教師としての『矜持』の問題である。
上の話し合いだけではなく、それに付随する学校への聞き取りや報告用の記録作成など、業務は多岐に及んでいた。事件から三週間が経つ頃には時間外勤務から解放された。あのような月日は久々だった。トラブル対応に心は踊って燃え上がるが、残念ながらこの齢になると身体がついていかない……。
しかし得られた成果もあった。社会教育課を放逐することについての気づきを得られた。事件性である。事件性があれば本庁人事部局も動く。それこそ、新聞沙汰やニュース報道されるほどのリスクがあると人事部局が認識すれば、事は進むに違いないと感じた。一般的に、社会教育というのは教育委員会にあるべき事務分掌である。覆そうと思えば大きな何かが必要になる。
それから時間は経ったが、二方向からのアプローチを採ることで教委内の意思形成が図られた。一応は、社会教育課にも本庁移管について話を通した。本庁の人事部局にこのような提案をしようとしていることを社会教育課長に協議したところ、「それで問題ない。私も基本的には賛成である。ほかの課を観察していても、ウチの課は異常である。残念なことだが……今の構造では、なにをしようが変わらない」という答えがあった。個人的な範囲であれば、協力もしてもらえるという。
【アプローチ1】
これまでの社会教育課の問題行動およそ30点ほどを報告にまとめる。趣旨は「教委事務局というのは、良くも悪くも縛りや監視が少ない。社会教育課を管理統制の取れた本庁に移すことで問題の芽を摘むべき」
【アプローチ2】
全国の自治体の例を調べたところ、社会教育に関する業務を首長部局に移管している例が見られた。学校教育以外の教育活動については、市長の指揮の元、自治体が一体として取り組むべき~という観点から全国的なトレンドになりつつあるようだった。社会教育課長からの応援もあり、こちらの方向をメインに据えた。
残念ながら、私が教委から異動して学校現場に戻る方が早かった。それから一年後、社会教育課は今時風の部署名になって市長部局に移管された。
望みが叶った。教委事務局にとっても、本庁にとってもこの方がよかったに違いない。それから何度か、本庁に寄って元社会教育課を眺めたことがある。心なしか、以前に比べると雰囲気が違った。いい意味でピリッとしていた。
周囲の監視の目があると違うということか。教委事務局の庁舎には、あまり多くの人が来ることはなかった。職員が伸び伸びとすることができるが、反面やりたい放題ということでもある。
相当の文量になった。これを書くのに丸一日かけている。始めは、この記事を書こうか否か迷っていた。当方は、40代の頃からはてなのブログサービスを利用しているけれども、このような内容は個人ブログで書けるものではない。書くとしたら、このはてな匿名ダイアリーしかなかった。
気分を害された人もおられただろう。申し訳ない。その場合は、容赦なくコメントにて叱責をお願いする所存である。ここまでお読みいただき感謝する。
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231213191557
直情的なタイプだった。怒りだろうと悲しみだろうと、感情の振れ幅が大きいタイプである。
最初の方で説明した場面で、職場のコピー機が置いてある台を蹴っていたのが彼になる。傍目から見ても、「どうして採用されたのだろう……」と疑問が湧いてくるほどだった。
ストレスには耐えられないし、自分勝手なスタンドプレーは多いし、立場が弱い人間には辛く当たるし、自分は凄いといった主張をしていた(「俺の親、若くして自治会長だから!!」など)。相手の意見を曲解することが多かった。
私も手痛い思いをしたことがある。私がいた指導課には住民基本台帳ネットワークシステム(戸籍課や税務課の職員が使っているものと同じ)があったのだが、B君は特に許諾もなくそれを操作し、職務遂行に必要な個人情報を入手していた。本来であれば事前申請を要するし、厳しい自治体だと戸籍課以外の職員によるシステム操作を認めない。これが普通である。
ただ、ほかの部署から個人情報取得の依頼があった場合でも、身内だからということで、口頭による承認で住基システムを使わせることはあった(課員への一言)。能率を考えてのことだ。が、B君の場合は明らかに一線を超えていた。職務遂行に必要であることがわかるが……一度だけ、彼を思い切り叱り飛ばしたことがある。以降は、口頭で課員の承認を得てからシステムを使うよう徹底させた。
ところで、あなたの職場にもいるのではないか? 仕事でも家庭でも趣味でも、何でもいい。ストレスで精神的に潰れかけた人間の姿である。B君は、元々コミュニケーション能力に難があった。いわゆる話がわからないタイプだった。
残業も多かった。指導課や学事課の教員出身者と同程度と仮定すると、おそらく月60h~70h程度か。彼の上司は「仕事をたくさん振っていないのに……なぜ?」というスタンスだった。
市職員の場合は、予算がある限り時間外勤務手当が支給されるという。私が若い頃だと、時間外勤務をしていないのに、予算消化のために闇残業を認めるという慣習があったほどだ。
教員出身者の場合は、月20hまで支給されていた。学校現場から教育事務職に移った者にとって、長時間労働やサービス残業は避けて通れない。この試練があるからこそ、一定の基準に達した教育人材を育成することができている。
人は光を求める。そして、その光の見える方向へ動いていく。教職員にとっては、教育に関する哲学、という光を見出すための修行の場こそが教育委員会である。量・質ともに圧倒的なレベルでの修行。厳しい体験を幾度となく積み重ねるから人格や能力が磨かれ、玉になっていく。
さて、彼の上司はB君を徹底指導して残業縮減に務めた。だが結果は出ない。残業縮減の効果は僅かだった。ところで、B君の場合は学校歴がよかった。地元の名門公立高校を卒業して、大学も相応のところを出ていた。地元的には血筋もいい。それが採用に繋がったのだろう。
縁故が悪いか? といえば時と場合による。一概に悪いとは言えない(ex.公共の学童クラブの指導員は、その多くがスカウトである。特に、男性の場合はほぼ100%だ)。教職員の採用試験においても、学科・面接試験の点数以外で、非公式に評価すべき点というのは確かにある。
行政一般事務の職員のことはよく知らないが、彼らと仕事をしていると、確かに地元において血筋がいいとされる人に仕事のできる人が多かった。※主観的な統計である。
高等学校の入学試験ですらそうだ。学科試験以外で評価される要素がある。内申点などは、その典型である。本人の人柄や人格、学習態度や常識力、社会への順応性が点数化される。内申点以外にも、+-の評価がされる要素も一応はある。
プラス評価の例としては……今では絶滅した慣習であるが、昔は公立校でも縁故による入学があった。とある高等学校の名門運動部などが、どうしても○△中学校のあの子がほしいという場合、事前に保護者・児童や中学校側と話をつけておく。かくして3者が合意に至った場合、入試前に合格が決まっていた。内申点は中三期を満点にするなどして対応する。
マイナス評価の例としては……生活習慣だろうか。公立高校の入学試験の基本は、学科試験+内申点の合計で決まる。とはいえ、点数に関わりなく不合格になるケースもある。こちらは犯罪行為であるとか、補導されるのを繰り返したとか、入学試験の際に相当奇抜なことをしない限りは関係ない。
ただ、その子が合格基準点に達していた場合でも、入学試験の要綱要領に定めのある範囲で不合格になることはありうる。欠席数が極端に多かったり、在学中に異常な行動を繰り返したなどが内申書に書いてある場合だ。学校教育とはいえ、高校側も不用なリスクを取りたくない。名門とされる公立高校に問題児が少ない理由のひとつである。
B君の話に戻ろう。その年の夏頃に聞いたところだと、どうやら事件を起こしたらしい。
梅雨が明けた頃に、霞が関の新卒キャリア官僚が研修にやってきたという。T区の各部署を廻って地方行政の実務を学習するのだ。T区は、その年の中央省庁の研修先のひとつに選ばれていた。
キャリア官僚達は、ごく普通にT区の歴史や成り立ちを勉強して、地方行政の実務を視察して、心ばかりの現場仕事をこなして、一週間ほどで霞が関に帰る――はずだった。
最後の日に行われた交流会(飲み会)で、B君はやってしまった。喫煙所のよもやま話で聞いたところだと、以下の流れだ。
ex.研修先部署の部長の肩に手を置く、女性職員の体に何度も触る、別省庁のキャリア官僚に「ぶっ殺す」と発言するなど
③国交省キャリアが「お前の区の国庫補助金ゼロにするからな」と言ったところで、B君がキャリア官僚を蹴り飛ばし、馬乗りになる
④ほかのキャリア官僚とB君の部署の係長が、彼を羽交い絞めにして止めた
……気持ちはわかる。侮辱されて悔しかったのだろう。だが、いくら何を言われようと、暴力だけは駄目だ。確かに、若手官僚の場合、調子に乗っている者は一定数いる。子どもの頃から勉強に勉強を重ねてきた自負があるとともに、仕事では自分の親ほどの年代から神輿を担がれるような扱いを受けるのだから。調子に乗るのも当然である(上に出てきた国交省キャリアは東京大学卒だった)。
かくいう私自身も、文部科学省の事業査定担当官であるとか、会計検査院の検査官から相当辛辣なことを言われたことがある。だが、怒りの感情に囚われてはいけない。駄目なのだ。
人間はいかなる状況の下においても、自己の衝動をそのまま表に出してはならないし、出すべきでもないし、さらに言えば、出したいとも思わない、という主張はまったくの真実であり、妥当な見解であると私は考える。衝動は制御することができるし、制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。突き詰めて考えるならば、人生には実存的葛藤や解決不能な問題、さらには、あることのためには別の何かを諦めなければならないというような状況が数多く存在しているのだ。こうした状況こそ、人間が生きる上での本質的条件となっているのである。何らかの葛藤が常につきまとい、ある方向へ進もうとすれば別の道を諦めざるをえない。人間はこうした状況に苦悶しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。 完全なる経営(2001) A.H.マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.295
私とB君が教委事務局で一緒だったのは一年だった。その年は、社会教育課にとって厳しい年だったらしく、彼は相当追い詰められていた。年度末の三月時点では、まるで50代のごとく自分が思ったことを脊髄反射で口に出すようになっていた。
声をかけようか、とも思った。あまりに辛そうだったからだ。係長も課長も、彼を見放しているところがあった。どれだけ残業が積み重なろうと、仲間によるフォローを呼び掛けたりはしなかったし、むしろ失敗に対して反省文を書かせていた。
B君は、口に出すのが憚られるほど救いようがなかった。もし、上司や仲間にとって彼が『かわいい奴』だったら、こんな事態にはなっていない。彼は、実際に不良な人間だった。職場の仲間から非人格的な言動を咎められるのはまだいい方で、はっきりいって見捨てられていた。自業自得だった。
しかし、やはり可哀想に感じることがあって、廊下をすれ違う時やトイレなどで「元気?」「今日は温かいね」「辛くないですか」など声をかけることがあった。
それから、彼がどうなったかというと、真相を確かめたわけではないのだが……私が定年になる前に退職したらしい。別の部署に異動しても活躍できず、しかしながら、何の因果だろうか――霞が関への出向を命じられたという。省庁までは不明。
本来名誉であるはずだが、その出向期間中に退職を申し出たということだ。もしや、生贄型の出向だったのだろうか?
現代社会において、感情が表に出るタイプの人間はしんどいのだと思う。彼が今、どうしているかはわからない。ほどほど幸せにやっていることを祈っている。
先ほどの2.3.でいうところの係長にあたる人物だ。この人は、冷血漢と呼ぶにふさわしい人間だった。サイコパスとは書いたが、私は臨床心理学の碩学ではない。仕事熱心で、結果を求めるタイプだったのかもしれない。目的のためであれば何でもする人だった。思い出してみる。
例としては、部下の叱責だ。普段は物静かで、部下の相談や報告を聞いている。が、一定レベルの何かに触れると怒号を発する。
C係長「お前、こないだできるっていったよな!」
若手部下「すいません」
「なんでできねーんだよ」
「……なんとかします」
「言ったな? じゃあしろよ。今週末までだ」
※部下ができなかった場合は、定時を過ぎても何十分でも説教していた。そして、できるまで残業をさせる。
後は、イベントだろうか。市区町村においてイベントを主催する部署はいくつかあるが、教委事務局もそのひとつである。教育○○大会などの厳かな発表会もあれば、○○総合フェアなど若い人や家族連れが多く集まる文化的なものもある。
さて、そのT区にとっての○○総合フェアの時だった。毎年過ごしやすい季節に、とある大公園で実施されるのだが、50以上もの出店が立ち並ぶ大イベントだった。
その年のイベントは、残念ながら雨天だった。初日は少雨で済んだものの、翌日以降の天気は崩れる可能性が高い。社会教育課は、教育総務課・指導課と並んでイベント主管課のひとつだった。
その初日の、夕方~夜にかけてのことだった。教育長を始めとする幹部級職員が現地に残って、明日以降の対応を話し合っていた(ほかの教委スタッフは全員帰っていた)。主な論点は次のとおりである。
□ イベント会場は維持できるのか?
上記3点のうち、2点目がなかなか結論に至らなかった。イベント会場には、テントも備品も野外展示物も並んでいる。風雨によって損傷する可能性があった。そして、2点目の解決手段を提示したのがC係長だった。
彼は、「業務委託している会場警備員がいるでしょう。数十人。彼らにやらせましょう。折り畳み式テント(※鉄パイプではない)の屋根を低くする作業や、野外展示物の収納もです」といったことを述べた。
私は「それは契約内容に入っているのですか?」とC係長に問うた。すると、彼は「緊急事態です。契約内容にあろうがなかろうが、現場の指示に従ってもらわないと」と言っていた。
教育局長は「後で問題にならないか?」と聞いたが、「私の責任で収めます」と彼は返した。教育長に「本当にできるんだな?」と聞かれると、「問題ありません。警備の発注は当課です」と返していた。ここから先はうろ覚えだが、C係長は警備会社の現場責任者と交渉を始めた。
夜7時頃だったか。私がトイレに行く途中で、社会教育課長とC係長、警備会社がロビーで交渉しているのを見た。当然ながら、相手方は渋い反応だった。
私はそのままトイレに行って、また帰り際にロビーを通りかかったところ、「契約切るぞ。ええんか!?」というC係長の声が聞こえた。この人は、気分が高まると大体こうなる。
以下、会話を手帳にメモしているわけではない。思い返してはいるが、やはりうろ覚えである。
「切るといっても来年からね。今年はもう契約してるし。来年は、こちらの権限でほかの警備会社と契約します。それでいいなら、あなたの判断で断ってください。テントの作業OKなら、これから私の責任で指示しますが」
「いや、でも。ちょっとの量じゃないでしょ? テントの数は何十個もあります。それをひとつひとつ、高さを下げていくんでしょ? それはもう――」
「あなたが決めるしかないでしょ。責任者なんだから。この時間、あなたの会社に上司がいるんなら電話で伺ってください」※このあたりから方言になる
「判断ができません」
「毎年、あんたの会社と契約しとるんやぞ。しっかも言い値で。本来なら正式に競争入札せんといかん金額やのに。こういう時のために、うちは権限使っとるんやぞ。官製談合みたいなこと、してやっとるんやぞ。俺らとあんたの会社のためを思って。で、上の人間に電話するか、あなたの判断で決めるかのどっちかや。あなたが決める場合は、契約切られても全部責任とるんやぞ」
「……」
「俺が責任を持つ。あんたが上司に怒られんようにする。後で言っとく。知り合いだから。頼む!」
「わかりました。指示をお願いします」
C係長のこの判断が正しかったのか、誤っていたのか。今でもわからない。
結果だけ見れば正しかった。その夜は雨も風も激しかった。(鉄パイプ式でない)テントを張ったままだと、風雨で確実に潰れていた。テントや野外展示物を片付けるといった作業は絶対に必要だった。それを怠って、一般スタッフを帰した私たち幹部の落ち度である。
手続き的には違法である。正しくない。警備会社をロハで使ってしまっている。C係長のことだから、きっと事後処理はうまくやったのだろう。あの後、彼やその上司が処分を受けたという話は聞いていない。
個人的には、C係長の行いは正しかったように思える。実際、あの場面だとああするしかなかった。組織のために泥を被ってくれたとも言える。ただ、それが未来に繋がる行為だったかというと怪しい。
例えば、テントが崩壊する未来を選んでいれば――教委事務局が「組織として学習」することができていた。それがいい未来につながった可能性もある。
(次part)
約三ヶ月前、社会人生活に区切りをつけた。当方は、はてなユーザーの中でも高齢である。一般的な定年はとうに過ぎている。社会人として40年以上生きてきて、得られた知見といえば……大したものはない。
ただ、今回どうしても書き綴ってみたいことがあり、筆をしたためることにした。書式については、ほかの増田の方に合わせるものとする。難しい漢字も、できる限り平仮名とする。
書き上げたのは本日12/12だが、推敲の関係で五回に分けて投稿する。土曜日には終わるだろう。
私の教員としてのキャリアは、都内にある中学校から始まった。大学を出てすぐだった。今思えば懐かしいが、あの時代に戻れたとしても今の方がいい。時代は進んでいる。
あの当時はアナログだった。電話はあるが、パーク保留(1機で複数保留ができる)といった機能はないし、パソコンは事務所に1台あるかないかだった。各学校にコピー機はあったが、今と違ってコピーされた物のコピーは悪手だった。印刷すればするほど色が薄くなる。濃淡調整機能などあるはずもなく。
学童についても、今に比べれば悪ガキがたくさんいた。今の子どもに比べると、暴言や暴力が明らかに多い。「人は教育を受けることで初めて人間になる」というのは、初等教育学のテキストにある基本的な考え方である。
さて、昔ではなく今の時代を観ていたいのだが、心がどうしても時代を遡ろうとする。この日記で表現したいことは、今から約十年前の出来事である。この度日記にまとめたのは、教委事務局に勤めていた時に最後に取り組んだ仕事のひとつである。残念ながら、教育そのものに関することではない。※当時の関係者は全員退職している。
要約すると、某地方自治体にある教育委員会の中に社会教育課というのがあった。その部署というのが、区役所の中のいわゆる問題のある職員が集まるところだった。区内の教員を指導する部門の長をしていた頃の私は、すぐ近くで醜い言い争いや、低次元な行為がなされているのを幾度となく目の当たりにした。
彼ら彼女らの言動には、ほかの教委職員も腹に据えかねていた。そして、ある年を境として、何度も本庁と協議・交渉を重ねた結果、教育委員会という組織から社会教育課を放逐することができた。
本当に苛々とした日々だった。その分、悲願が叶ったと知った時の喜びは至高だった。今でも解放感が脳裏に蘇ってくる。
これから私が話すことは、人によっては相当厳しい。負の次元に堕ちた地方公務員の姿を垣間見ることになる。それでもよければ、読み進めていただきたい。
私はもう経済社会を完全に引退している。書き綴る出来事もだいぶ前のことだから、元いた組織の迷惑にはならないだろう。何かあった場合は、私が責任を取る所存だ。
トピックについては、1.から6.まで用意している。具体的な職員のエピソードは2.~5.である。6.において、社会教育課との決着について書かせてもらう。
教育委員会(≒教委事務局。教委。以後は同じ意味として扱う)とはどんな組織か? というと、早い話が地方自治体の学校教育に関する意思決定と事務(企画・調整・一般的な管理行為)を行う組織である。
第180条の8 教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他教育、学術及び文化に関する事務を管理し及びこれを執行する。
教育長が責任者となって所掌事務や教育改革・首長への提言その他を総理し、教育委員が集まる会議(議会のようなもの)で可決された教育内容が自治体内の学校において実施される。
かつての戦争の折、行政の暴走行為によって学校教育が歪められてしまった経緯がある。地方行政の主体から教育の機能を切り離して、教育活動全般に関する権限を有する行政委員会としての役割を与えた。
実際のところは、市区町村の本庁舎の一部を間借りしている教委が大半である。役所の中に多くある部署のひとつとして位置付いている。
(指導課)…都道府県教委が教員の中から高査定者を人事異動させる
(学事課)…指導課のような教職員出身者と市区町村職員による合同チーム
(学童クラブや児サポ)…教委が有望者の中から採用・選定をして運営
そういうわけで、私の場合は上記でいうところの指導課(各学校の指導方針を所管)や学事課(学校事務を所管)に籍を置いていた。あれは、新卒で教育現場に配属になって十年少々だったか。ある年の人事異動で、そろそろ別の学校に異動になるかと考えていたところ、教委事務局への配属を告げられた。
それから数十年、学校現場に戻ったのは二度だけだ。一度目は中学校の教頭として、二度目は校長として。その前後にも、私はやはり教委に籍を置いていて、より高い視座から教育活動のあり方を見直すことや、新しい学校を作る、あるいは廃止するといった仕事に取り組んだ。
最後は課長級職員としてキャリアを終えた。その後は、いわゆる名誉職といった扱いの教育の仕事に数年だけ取り組んで、先日正式にこの仕事から引退した。
タイトルにある出来事は、社会人生活の中でも相当後半にあたる。都内にある中学校で教頭としての務めを果たした後、ある年の人事異動で教委事務局に課長職として配置された頃の話である。期間としては三年間だ。
教委事務局の中でも、ほぼ真ん中あたりの奥側に指導課長である私の席があった。「ようやくここまで来たか」と思いつつ、課員全員が見渡せるデスクに腰掛けようとした時だった。言い争う声が聞こえるではないか。何時かは忘れたが、おそらく正午前だった。
社会教育課の事務スペースで、複数の職員が言い争いをしていた。若い子と、中年ほどの男性・女性の職員だった。どういう構図かは全く覚えていないが、低い次元の話をしているのはすぐにわかった。公務員以前に、社会人として使うべきではない語彙や、極めて高圧的な物言いが見て取れた。
話し合い(口論)を少しばかり眺めていたが、最後は男性職員が女性職員から詰問を受け、ちょうどかかってきた電話を取る形で逃げて終わった。若い職員は、舌打ちをしてその場を後にしつつ、コピー機が設置してある台を蹴っ飛ばして事務室を出て行った。
『なんだ、こいつらは?』
心の中でそう思った。これまで配属された教委事務局の中に、こんな連中はいなかった。この市区町村の教委事務局で働いていた時もあったが、社会教育課は別のオフィスにあった。
社会教育課、という部署名は伝統的である。霞が関にも同名の部署があるほどだ。本来であれば、歴史と実績のある部署のはず。では、なぜこんな連中が……? と思って気になったが、その時は時間の無駄であると考えた。
だが、そういうことにならなかった。社会教育課は、私のいる課長机から10mも離れていない。しかし、毎週のように何度も何度も、大きい声で怒鳴るわ、悪態をつくわ、イベント行事で問題を起こすわ、用事で来られた区民を怒らせるわで、こちらとしても仕事がやり辛かった。
私と同じ教職員サイドの職員に詳しい者がいた。この教育委員会(T区とする。豊島区は関係ない)の社会教育課について聞いたところ、なんとなく経過がわかった。
・その場所ではひとつの課として独立していたが、不祥事が多かった
・監視の意味も兼ねて、本庁総務部の人事課が教委事務局の中に移した
といったところだった。この時は、まさかこの連中のためにあれほど頭を悩ませることになるとは思わなかった。
ここから先は、個別職員の話になる。2.以降に譲りたい。長く詳細に書いても読者が不愉快になるだけだ。できれば各三千字以内でトピックを終わらせたい。
話があちこちに逸れることも多々あろうが、何卒お許しを願いたい。
(次part)
うん、だから財務省がおかしいのでは、というかそもそも財務省も学校現場が危機的なの分かってるのに量より質とか言い出したの!?って言いたいの
そもそも量より質と言っても常に1割くらい戦力欠いた状態で組織運営って無理じゃね?と
量より質というなら穴開ける女なんてクビにして男の採用優先するべきですよね、でもそれできませんよねって話でさー
そもそも教員は子供が男女比大体半々だから、男女同数くらい雇うのがベストだしね
そもそも1割常に足りてない状態で成り立つならそもそも1割定員減らすし、その状態を天下の財務省様がお目溢ししないよね?て話よ
成り立ってないことは財務省だってわかってると思うのに、量より質とか言い出したからファーーーwwって話
多分教員の勤務形態を給与を下げた上でシフト制にするとか、親からのニーズが高い子供への躾やケアや居場所問題とかは全部家庭でやってね!学校は授業しかやらない場所だよ!って切り分けやらないといけないんだろうけど、そうなるといよいよ男性が受けにこなくなったり、より一層少子化貧困家庭が増えたりして、めちゃくちゃ難しいと思う
テストアンケートのICT化とかいますぐやれ案件も多いけどさ、それも予算つけないといけないし、予算つけたら教員の人件費の方が安いとかいう笑えない状況なんじゃないの、今、って気もする
「シンプルに言ってしまえば、詐欺の上に成り立っている性行為です」――子どもを手なずける「グルーミング」とは #こどもをまもる
https://news.yahoo.co.jp/articles/527805a30cc3f103a5bec08280572b6bafe0ad20
では、グルーミングの被害から自分自身、あるいは子どもを守るには、どうしたらいいのだろう。西田さんは、次の3点をあげる。
1. グルーミングという手法の存在を、未成年者に知ってもらう。その場合、「自分の言うことさえ聞いていれば、うまくいく」といった言い方をする人は怪しいといったように、具体的に説明する。
2. たとえ信頼している相手でも、裸の画像を送れと言ってくるなど性的な要求や話題を振ってきた段階で、「これを受け入れてはいけない」とシャットアウトすることの重要性を繰り返し伝える。また、そういうことがあった場合、親か第三者に報告か相談するよう教える。
3. 学校やスポーツクラブ、なんらかの集団の場合は、集団としてグルーミングから未成年者を守ることを責務とする。具体的には、1対1の個別指導はしない、常に第三者の目が入るような組織にしておく、など。
これだけ危険が蔓延しているので、生徒にはとにかく身を守るように理解させる。
大人たちが先回りして生徒を守る。
https://news.yahoo.co.jp/articles/144435d08e6ae72b9998ac729fb94e5636ee0fc0
知的障害のある生徒が在籍している特別支援学校高等部の学年主任を対象にした調査で、約7割が男女交際を禁止または制限していることが24日までに分かった。北海道のグループホームで昨年明らかになった不妊処置問題では、知的障害者の性的関係をタブー視する風潮が背景に指摘されており、専門家からは学校現場に対応を見直すよう求める声が出ている。
逆に、知的障害がある生徒の性的関係についてはタブー視を見直して、本人たちの自由に任せるべきだろう。
そこで、健常児の交際に警鐘を鳴らし、知的障害児の交際はより強い姿勢で大人が介入しつつ、パターナリズムを止めて本人たちの自由に任せるべきだと考える。
最初におかず、次に汁物という具合に1品ずつ順に食べ切るのが「ばっかり食べ」。一方、おかず、ごはん、汁物、牛乳などの飲み物を一口ずつ行ったり来たりするのが「三角食べ」と呼ばれます。
三角食べは1970年代ごろから一部地域の学校で推奨されたといわれます。給食行政に詳しい専門家は「『完食させたい』という学校現場のニーズから出た指導では」と推測します。ちなみに東海地方出身の記者(40代)は小学校で三角食べを指導され、今もその習慣が抜けません。
文部科学省が2007年に発行した「食に関する指導の手引」には、「主食とおかずは交互に食べる」の記載がみられます。では、ばっかり食べは良くないのでしょうか?
「どちらにもメリット、デメリットがある」と話すのは、管理栄養士の成田崇信さん。
三角食べの長所は、並行して食べ進むため、残しても比較的栄養バランスがとれること。また硬さが異なるものを混ぜて食べるとかむ回数が増え、肥満防止に役立ちます。ただ、混ざると味が薄まるため味付けが濃くなりがち。また食材が混ざるのを嫌う子は食事が苦痛になる、という短所も指摘します。
ばっかり食べも、懐石料理のように、一つ一つの食材の味を楽しめる利点はあるものの、嫌いなものや後回しにしたものの食べ残しにつながる欠点も。
近年、学校での三角食べ指導は「行きすぎた管理教育」などと批判され、衰退気味。成田さんも「食べ方に正解や優劣はない。子どもの成長に必要な栄養をとれていれば、どちらも問題ない」と指摘します。「ご飯と一緒に食べておいしい献立もあれば、単品で味わうものもある。決め付けず、料理に合った食べ方を勧めるのも良いと思います」
学校の体育祭や球技大会、日本代表戦といった、「自分がいるところを応援しよう」的なムードにどうしても嫌悪感を感じてしまう。
理由はわからないが、否が応でもこの状況を見せられ、そういうことを強制されるような雰囲気になるのが受け入れられない。
ここでは、そのエピソードを紹介する。
小学校は赤白に、中学以降は多数の色に分かれて多くの競技より得点を競う体育祭。
士気を鼓舞すべく、組ごとに黒板に絵を描いたり有名歌謡曲の替え歌を作ったり掛け声を挙げたりで絶対優勝しようと騒ぐ。
私は、小学校のころから、なぜそこまでして優勝を目指したいのか、なぜ別に優勝などどうでもいいと考えている人まで巻き込もうとするのか理解ができなかった。
ここでは体育祭の話のみをするが、球技大会などその他チームを組んで競い合う行事すべてにいえることである。
時は流れ、何の因果か、私は教育実習生として、体育祭前の学校にいた。
生徒だけでなく教師も絶対優勝しよう的なことを言っていたが、ますます理解できなかった。
あまりに嫌悪感が激しいので、終業前の学活でこんなことを言った気がする。
「負けろ」だとか「優勝は諦めろ」みたいなことは言わない。
だが、優勝に固執したり、その結果他のクラスとの関係が悪くなったり見下してはいけない。
もしかしたら優勝できない、場合によっては最下位のこともあるだろうが、もしそうなったとしても「これでよかったんだ」と思えるようになってほしい。
自分より上位のクラスに対しても、下位のクラスに対しても、惜しみない拍手を送ってほしい。
他のクラスも「敵チーム」ではなく、同じ仲間だ。
その相手に対して負けろだとか自分のクラスが勝つだとか思わず、お互い応援しあって、楽しんで体育祭を終えてほしい。
それと、体育祭へのモチベーションは生徒によってさまざまだが、くれぐれも優勝しようというムードを強制するようなことはしないでほしい。
幸い内心は指導教員にはバレず、怒られたり大学にクレームを付けられたりすることはなかったが。
どこもそうなのかもしれないが、やはり生徒も教師も似たようなことを言っていた。
バカバカしいので授業の際に「あんまり無理すんなよ。優勝なんかより心身の健康が大事だから」的なことを繰り返して言った。
同じチームの教師からは「チームが優勝できるよう応援してください」と言われたが、ハイハイとだけ言って、あとは見守るだけに徹した。
2年に一度(夏季・冬季)のオリンピックに加え、ワールドカップやWBCその他において、日本代表というチームがあって世界各国の代表チームと試合を行う。
これはスポーツだけでなく、ノーベル賞など、日本人が参加するあらゆる競技や賞で起こる話である。
テレビ、新聞、インターネット…あらゆるメディアでこのことが取り上げられる。外出してもビルや電車の画面に映ってくる。
否が応でも見せられるのだ。
しかも、どのメディアも最初から最後まで口をそろえて日本側を応援する。一見中立そうに見えても最終的には日本側の勝利に言及する構成となる。
中には日本が負けそうになると中継を別の競技に変えたり、負けると(ノーベル賞の場合は日本人候補者が選外になると)軽く扱って次の話題にすることもある。
つまり日本に肩入れしない取り上げ方をしているところ、あるいは相手チームを応援しているようなメディアはないものか。
(日本の負けを望んだり、日本が負けて喜ぶのはまあいいとして、個人的にはそれで相手を全速力で煽るシバターみたいなのはいただけないが)
なぜ、そこにいるというだけで、同じところのチームを応援しないといけないのか、理解に苦しむ。
あくまでただ偶然彼らと同じところにいただけであり、彼らやチームとは何のつながりもない。それなのに、なぜ応援しなければいけないのか。
(別に愛着を持ってここにいるわけではないので、勤務条件や文化などでもっといいところが見つかればさっさと移住したいとも思っている)
自分がいるところ以外を応援してはいけないのか。一歩離れたところから傍観するだけではいけないのか。
なんというか、自分がいるところ(特に日本)だけを応援するムードが気持ち悪くて仕方ない。
どうすればいいんだろう。
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/273916
この件、やたら赤木さんが叩かれてるけど、
11万冊破棄して、11万冊分赤木さんの本を買わせたわけじゃないし、
今回買ったのは1万冊で、そこにほんの少し赤木さんの本が入っていただけに過ぎないのよね。
そして、高校生に児童書を買うとは何事か?とお怒りのブクマカを見かけるんだけど、
将来、児童書を書こうと思って読む人もいれば、
子供の世話をする人が子供向けの本を探すために読むこともある。
蔵書の半分が児童書だったら、ドン引きだけども、ほんの少し児童書が入ってるくらいの話しなら
何の問題もないと思うんだよねぇ
このごろナニワに流行るモノ
私学無償化助かるわ
吉村さんのおかげです
大阪住みよくなりました
ところが事実はすべて嘘
所得制限きびしいわ
無償化なんて夢の夢
悪いのすべて前任者
豪華絢爛新事務所
夕暮れ時になりぬれば
「昔の公園怖かった」
「今は家族で楽しめる」
誰が信じるそんな嘘
みんなの思い出踏みにじる
嘘の演説言いふらす
一日100万吉村さん
原資は国から出てるのに
入院できるは身内だけ
塾代助成15億
手数料分5億円
学校現場は大変よ
住民投票うるさいな
やるかやらぬは維新が決める
負ける勝負はしたくない
コロナの弱点見えてきた
売り抜け終了爆下がり
インサイダーは誰ですか?
儲けた人は誰ですか?
大阪府民よ目を覚ませ
身を切る改革全部嘘
身を切られるのは市民たち
参院選はもうすぐだ
大阪このまま滅ぼすの?
昔の大阪とりもどせ
維新の奴らを吹っ飛ばせ
返してください大阪を
カジノではなく花をください
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/986138/
「高校の体育の授業で女子はダンス、男子は武道と決まっている。納得できない」。福岡県内の公立高校に通う女子生徒が本紙「あなたの特命取材班」に疑問を寄せた。国の学習指導要領では中学や高校の体育の授業は性別などにかかわらず同じ種目を楽しむ「共習」が原則だ。だが取材すると、指導要領と学校現場との格差が浮き彫りになった。
男女で分けている19校のうち少なくとも3校は「見直しを検討する」と回答。「変えてほしいという生徒の声がある」「性的少数者への配慮」などとした。
柔道もプールもハンドボールも重量挙げも、この際すべて「共習」に切り替えたらどうか。
子殺しの上で死体遺棄して母親が逮捕されるのは当然のことでは?父親にも何らかの罪をというのはわからないでもないが。乳幼児の人権を認めてないのは怖すぎる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721804662898478082/comment/augsUK
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られていたら、母親に責任があるとは思うが、現在の日本では、学校で「性交」や「妊娠経過」を教えることは、文科省により禁止されている。
これは、自民党・公明党が撤廃を拒否している歯止め規定によるもの。
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られなかった母親が死体遺棄をしてしまったのは、自民党や公明党に責任がある。
「乳幼児の人権を認めてない」のは、性教育で「性交」や「妊娠経過」を教えることを禁止している自民党や公明党であり、自民党や公明党に投票した人物の方である。
【質問】
文部科学省が推進する「生命(いのち)の安全教育」では、性交や妊娠経過について教えないなどといった「はどめ規定」があり、性に関する知識と理解が十分に得られない内容になっています。
「はどめ規定」を撤廃し、人権尊重と科学的根拠に基づく包括的性教育を推進しますか?
【自由民主党の回答】
✕(ばつ)
性教育は児童生徒の発達段階を考慮しながら、学校全体の共通理解を図り、保護者や地域の理解を得ることが必要です。不適切な性教育やジェンダーフリー教育などは行わせません。
【公明党の回答】
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△:中学校1年生の保健体育科の授業においては、「心身の機能の発達と心の健康」について学習する中で、思春期には生殖機能が発達し、妊娠が可能となることを理解できるようにするため、主に多くの生徒が直面する思春期の体の変化について学ぶこととしています。平成10年の学習指導要領改訂時の背景として、この内容について指導を行う場合に、生徒の発達の段階を踏まえない、いわゆる過激な性教育(性行為をイラストで示すなど)が行われており、行き過ぎた指導にはどめをかけるため、当該規定を設け、その扱いを継続しているものです。
子どもたちを性犯罪・性暴力から守るための「生命の安全教育」については、より多くの教育現場で実施されるよう推進します。
【立憲民主党の回答】
○(まる)
学校教育や社会教育で、男女ともに性暴力の加害者や被害者にならないように、性についての正しい知識を身に付けられる人権としての包括的性教育を推進し、生に対する正しい知識と理解とともに、子どもたちへの犯罪を根絶します。
【日本共産党の回答】
○(まる)
1992年改訂の学習指導要領で小学生から「性」を教える転換がはかられました。しかし、1998年改訂の学習指導要領で妊娠の過程を扱わないとする「はどめ規定」がもうけられ、2003年に都立七生養護学校での性教育に自民党都議などが介入し、自民党国会議員なども加わる性教育バッシングがおき、学校現場の性教育は委縮・後退しました。その結果、多くの子どもたちが性についての知識をもたないまま、互いの心身を傷つけてしまう多くの悩みや問題をかかえています。国連子どもの権利委員会は日本政府に「思春期の女子および男子を対象とした性と生殖に関する教育が学校の必修カリキュラムの一部として一貫して実施されることを確保すること」を勧告しています。「はどめ規定」をなくし包括的性教育をすすめることが強く求められていると考えています。
日本共産党は党綱領で「ジェンダー平等社会の実現」をかかげている政党です。人権とジェンダーの平等を大事にしながら、人間の生理や生殖や避妊についての科学的知識、性の多様性、互いを尊重しあう人間関係を築く方法、自分の心や体を傷つけるものから身を守るすべを学ぶなどの包括的な性教育の推進を提案しています。
【社会民主党の回答】
○(まる)
「性交」の説明なくして、子どもたちが性に関する知識や性暴力や性被害についてしっかりと理解できません。平等・人権の視点を入れた包括的性教育の推進が不可欠です。
【日本維新の会の回答】
○(まる)
「はどめ規定」撤廃が適切かどうかは検討を要するが、性教育については今よりも踏み込んだ対応が必要である。
【国民民主党の回答】
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(その他)
授業内容、性教育、生理教育等、学校生活全体を通じて、人権が尊重され、学校と地域が協力して子どもの成長に伴走する環境を創ります。
○(まる)
“性交”や妊娠経過を説明せずして、性暴力や性被害というのが何なのか、ということは子どもたちは理解できません。すでに2009年にユネスコが「国際セクシュアリティ教育ガイダンス(2018年に改訂)」を出しており、ヨーロッパの国々はガイダンスを踏まえて性交や避妊方法を小学校高学年・中学校で教えています。
今はどうか知らんが20年ほど前、学校の家庭科教育はもっぱら「食品添加物は毒!!」「清涼飲料水は悪!!」という論調だった。
「皆さんが大好きな市販のジュースやお菓子にはこ〜んなにお砂糖が入っているんですよ〜〜飲みたくなくなっちゃいますよね~~」みたいな感じ。
小中高と、一貫校などではないのでそれぞれ担当教師は別だがだいたいそんな感じ。
ただ、何故かどの教師も似たようなチビデブブスヒスと三拍子ならぬ四拍子揃った、子供が見て憧れる筈もない状態だったので、適度に食品添加物やら砂糖やら摂らないとあんな風になるのかと子供心に思っていた。
そんだけアレコレ排除した結果がチビデブブスヒスなら、モー娘やジャニーズがコマーシャルやってるジュース飲んで菓子食うわ、と。
結局、体型だの性格だのは遺伝要素も大きいと知るのはもっと先の話だが、少なくとも多感な時期の子供に対して食育系統をやるのは十人並み以上の容姿の教師じゃなきゃ説得力に欠けるのではないか。
気持ちはわからなくはないんだけど、看護助手がたくさんいる的なのっては必ずしも悪いことではないんじゃないかな
多分、看護助手でもできる作業ってことは要するに資格がなくてもできる仕事ってことじゃん。
全員看護師に対して、助手でもできることも資格者にやらせるなんてことになったら、それこそ
はてなーの嫌う専門家の専門性を尊重した仕事をさせなくてケシカラン的状態になるような気がする。
現状、学校現場なんかは資格がなくてもできるはずの事務作業の類を教員にやらせすぎて叩かれているわけで。
もっと学校事務職員などをたくさん配置しろと言われてるという状態。
大学の先生なんてこないだの共通テストの件を筆頭に、博士号持ってる専門家にやらせるべきとは思えない仕事が多すぎて色々言われている。