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はてなキーワード: 体制とは

2024-06-17

トリオじゃなくてコンビじゃね?



特に20ドラフトトリオ”のゲームメークが光った。1位の早川は1勝ながら防御率0・39で、14日広島戦は10回無失点の力投。3位の藤井球団左腕初の交流戦3勝、防御率1・56で、6位の内も2勝、防御率1・06と、それぞれ好投した。

 リリーフ陣の運用もはまった。今季は一貫して3連投を回避。7回が酒居、8回が宋家豪、9回が則本と勝利の方程式確立も、時には好調鈴木翔を組み込むなど勝ちパターンを使い分けた。一時、救援陣は22回2/3を連続無失点。2連投中の則本に代わり、鈴木翔を代役守護神で起用した試合もあり、誰が出ても抑えられる体制が整った。

フルリモートメンタルを病んで辞めていく人

コロナ以降、リモートでもできる事務作業をする事務員を定期的に採用しているが、

年に数人が辞めていく。

最初はみんな喜んで在宅勤務してくれるが、そのうち

「たまには出勤したい」」

「みんなと雑談したい」

と言い出す。

オフィスが手狭なので断り、仕事上、必要なことはいつでもチャットメール電話でしてくれていいよ〰、と言っているが、

結局診断書を提出してきて、そのまま休職退職してしまう。

フルリモートだとやりにくいこともあるだろうから、といつでも質問ウェルカム体制をとっているが、

勝手に自滅していく模様。

不思議な話である

リベラル」の無敵さ

俺「◯◯(リベラルの行動を具体的に指摘し、その問題点を語る)について何か釈明は?」

リベラル「…………(無視)」

 

俺「◯◯(リベラルの行動を具体的に指摘し、その問題点を語る)を反省しないかリベラルネトウヨと同じカス

リベラル「ああああああこれはワタバウティズム! DD論! 体制擁護! 誹謗中傷!!!!!!!!!

 

こればかりで、もはや奴らにこういう行動に対する躊躇が一ミリもないことがわかって、単に何も期待しなくなってきた。

あれは、「リベラルごっこ」という大人子供ごっこ遊び。

2024-06-16

anond:20240613203515

追記)ユロックの母さんの記事面白かったので続きを書いた。

https://anond.hatelabo.jp/20240619014605

本文)

キャンセルカルチャー問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。

どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものからキャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。

まり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。

その程度の教養正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャン謝罪に追い込む社会なわけだね。

かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的正義感情的正義区別し、自分のことでもないくせに感情的共感によって主語がでかくなるのが感情的正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。

もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、

共感にあらがえ - 内田樹の研究室

のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。

増田へのレスなかに

コロンブスナポレオン他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw

というのがあるね。

正直、なんとも思わないねというのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省まり

俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないもの批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判内面化されていないわ。

そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。

しろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆハチマキをした類人猿兵士を抱きかかえる類人猿兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍兵士連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。

類人猿ベートーヴェン指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。

そう、まさに「つまり解釈余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。

rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。

Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments


もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権歴史教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。

https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301

みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。

しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に歴史修正主義というドイツで使われた文脈言葉安易日本南京虐殺否定文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。

俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史文脈のなかで生まれ言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか教養」として普遍化するなかで、その歴史固有性が失われ、あたかハンディ批判ツールになり下がることだった。

村上春樹2009年、イスラエル文学賞を受賞したときはてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯意味するとまで言った人もいた。そのとき村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹言葉のほうがよっぽど覚悟必要だ。それでも村上春樹攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。

追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。

???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。 - tick2tack のブックマーク / はてなブックマーク

tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。

すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれ修正主義はその後、ソ連中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。

まり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態からな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。

(/追記2)

お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史知識開陳する態度。

てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。

サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。


言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹文章

そのなかで対談相手永井陽右氏は次のようにいう。

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います大学1、2年の頃、大学平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。

じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います

「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。

そういう義憤の正体って何だろう。

最近朝日新聞人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者コメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。

[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン

元の人生相談とその回答はこちら。

https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA

不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性相談

個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから

これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。

新聞で得た世界出来事いか正義言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。

現場にくると世界は反対側からみえることもある。

かつて、北アフリカスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺国際問題となったことがある。

日本ブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。

最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域仕事上関与するようになってからスーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブダルフールキャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。

それは当時のバシール大統領断罪をはじめ、現地武装組織悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカNGOキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争実態はもう終わっているにも関わらず紛争継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGO広告費に回っているという話まで聞いた。

正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。

弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。

今、現在スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争ときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいか危機的かがわかる。

しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトトルコスーダン国軍支援アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的顧客武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争様相を呈している。





ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義歴史を知るとか、外付けの倫理いか理解しているかという意味ではない。

普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本である自分自身いかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。

そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。

表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍価値から、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。

なぜアメリカ判事歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。

なぜドイツではホロコースト否定表現の自由に当たらないのか。日本公共の福祉解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会文脈がある。少なくとも自分社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的共感というものだと思う。

少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義ますます膨れ上がるだろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単プロパガンダ誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。

MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員不倫していたことをネタ糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。

世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMV植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。

サヨク知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。

朝日新聞人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端ポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。

最近クリエイティブ企業って法務弱いの?

俺の時代クリエイティブプロジェクトガンガン勧告入ってたぜ!

マスコミにすっぱ抜かれる前に処分された従業員は両手で数えられないほどいる。

著作権に関しては時代的に甘かった気もするが、それでも剽窃に関してはよく内々で処分されていた。

特に芸能系の領域だと人間=商材なので、勝手に食うやつが多いから大変だった。

今はコンプラとかモラルがある程度浸透したから、そうした小悪党犯罪に大きいも小さいもないが)を摘発する体制が縮小し、

部門自体が小さくなって内部統制をするための実力や影響力が失われたんじゃないかなあと思ってる。

あと師弟関係崩壊

別に法務が絡まんでも、親分子分を"詰めて"詫び入れてきたとか、平成の世でもあったからなー。

会計上どうしようもない現ナマオフィスに転がってて、法務に詰められた思い出もある。

公の司法/警察に委ねずに事実上の社内司法独自処分するってのも、今の世の中よくないってのもあるよな。隠蔽とか言われるし。

でも結果として中間領域無法地帯になってるんじゃないかな、と思う。

検閲が好きなクリエイターなんていないし(個人の感想です

モラルのない大多数がいた時代は、大多数を抑圧するための社内統治機能していたけど、

モラルのある大多数の時代には抑圧装置は失われ、モラルのない少数を阻むものがいない。

バランスって難しいよな。

2024-06-15

コロンブスの話さ「ダメなのは大前提なんだからもっと考察しようよ

しっかしよく「コロンブス」を通したよな。作者本人がやり口を教えてるけどバラしてレビュー通してガッチャンコしたときヤバい表現にしたんだろ?やり方がゴルゴだよゴルゴ

あのな「コカ・コーラが『コロンブス』とタイアップした」時点でそれが一つの重大な意味を持った表現なんですよ。なので「差別的ですね」ってのは出発点で、MV考察するのが「文化人」ではないですか?(文化人類学の文化人の部分)

人選について

コロンブス」は一番押し付けたい嫌味だったかタイトルにもなったんだろうけど…よく通したな根回しがすごい2024

ベートーヴェン」はロックンロールの始祖(諸説あり)のチャック・ベリーの曲から取ってるだろうし

ナポレオン」は、なんか、革命っぽいから置いたんじゃないでしょうか。島流しにされてたからさ、日本人名誉白人みたいな部分を揶揄してんじゃない?知らんわ

皮肉の数々

あとはみんなの目で確かめろ!

よくわかりませんでした。

https://bunkaonline.jp/archives/5214/3 こういう感じの記事を書きましょうよ

2024-06-14

ていうかみんな他者に高いレベル要求しすぎなのでは

セスMV炎上で「たくさんの人が関わってるはずなのに誰も気づかなかったのか!」「謝罪文がなってない。やり直し」とみんなぶっ叩くけどさ

世の中そんなもんじゃいかと思う

表向きちゃんとした名のある企業も裏側はバタバタしてるもんだし

大企業でも一つのプロジェクトに関わる人員体制中小とそう変わらない規模だったりする

中身はどこも普通にみんな人間が頑張ってなんとかしてるよ

失敗もしょうもないミス普通にある

ま、世界的超大企業!みたいなのには足を踏み入れたこともないので世の中にはそんな所もあるのかもしれないけどさ

ほとんどの所は違うでしょ?

皆さんの所も顧客に見せてるイメージ実態が天と地だったりするでしょ?

それが分からないのは働いてない人ぐらいだと思うんだけどな

失敗してもやり直せる社会をとみんな口では言うけどさ

失敗した相手をみんなで叩いてネチネチ責めたりバカにしたりするネット社会真逆の方向だよなーと思う

https://anond.hatelabo.jp/20240614204953勝手タグ付けソースだよ

1996年 (第1巻) 5月 特集:脳の科学こころ問題医療人間
1996年 (第1巻)11月 特集高齢者介護医療人間
1996年 (第1巻) 4月 (創刊号) 特集戦略研究と高度研究体制学術教育
1996年 (第1巻) 6月 特集:第3回アジア学術会議学術教育
1996年 (第1巻) 8月 特集日本国際賞受賞記念講演会から学術教育
1996年 (第1巻) 9月 特集:若手研究学術教育
1996年 (第1巻)12月 特集:第124回日本学術会議総会学術教育
1996年 (第1巻) 7月 特集地球環境問題を考える環境
1996年 (第1巻) 特集:転換期にある工業産業工学
1996年 (第1巻)10月 特集女性科学研究ジェンダー
1997年 (第2巻) 2月 特集パラダイムの転換学術教育
1997年 (第2巻) 3月 特集大学改革任期制学術教育
1997年 (第2巻) 6月 特集伝統と新しい地平 ―第4回アジア学術会議学術教育
1997年 (第2巻) 7月 特集:第125回日本学術会議総会学術教育
1997年 (第2巻) 8月 特集:第16期から17期へ学術教育
1997年 (第2巻) 9月 特集:第17期の発足 ―第126回日本学術会議総会学術教育
1997年 (第2巻)10月 特集:高度研究体制確立を目指して学術教育
1997年 (第2巻)11月 特集地域における学術活性化を目指して学術教育
1997年 (第2巻)12月 特集:第127回日本学術会議総会学術教育
1997年 (第2巻) 特集:2国間学術交流レイシア派遣団報告学術教育
1997年 (第2巻) 4月 特集地球食料問題を考える環境
1997年 (第2巻) 1月 特集平和共生歴史政治・国際
1997年 (第2巻) 5月 特集グローバリゼーション産業空洞化歴史政治・国際
1998年 (第3巻) 3月 特集クローン羊"ドリー":遺伝子科学のはかり知れないインパクト    化学生物
1998年 (第3巻) 特集クローン羊"ドリー":バイオテクノロジー最先端で今、何が、どうなっているか    化学生物
1998年 (第3巻) 2月 特集二国間学術交流 スイス及びスウェーデン派遣団報告学術教育
1998年 (第3巻) 6月 特集21世紀科学への視点 ―第128回日本学術会議総会学術教育
1998年 (第3巻) 7月 特集アジアにおける学術の直面する課題 ―第5回アジア学術会議学術教育
1998年 (第3巻)12月 特集:新たなる研究理念を求めて ―第129回日本学術会議総会学術教育
1998年 (第3巻) 1月 特集地球未来 ~人間の存続環境
1998年 (第3巻) 5月 特集地球惑星宇宙科学の現状環境
1998年 (第3巻)11月 特集食品研究の新領域をさぐる ―食とからだの科学を中心に環境
1998年 (第3巻) 4月 特集ジェンダー   ―社会的文化的性別」と現代ジェンダー
1998年 (第3巻) 8月 特集日本経済課題展望日本ビックバンに向けて社会
1998年 (第3巻) 9月 特集行政改革課題展望社会
1998年 (第3巻)10月 特集ライフスタイルの転換と新しい倫理 ―21世紀社会に向けて社会
1999年 (第4巻) 4月 特集生殖医療とその社会的受容医療人間
1999年 (第4巻) 1月 特集21世紀に向けた学術の新たな改革学術教育
1999年 (第4巻) 3月 特集国民の期待に応えて ―科学最前線から学術教育
1999年 (第4巻) 6月 特集:IGBPの研究成果の統合に向けて ―第130回日本学術会議総会学術教育
1999年 (第4巻)10月 特集日本学術会議創立50周年学術教育
1999年 (第4巻)12月 特集:わが国の大学等における研究環境改善について(勧告) -第131回日本学術会議総会学術教育
1999年 (第4巻) 2月 特集ごみを考える環境
1999年 (第4巻) 8月 特集海洋環境
1999年 (第4巻)11月 特集科学技術社会社会
1999年 (第4巻) 特集少子化問題社会
1999年 (第4巻) 5月 特集学会インターネット情報
1999年 (第4巻) 9月 特集学術からみた「美しさ」について人文
1999年 (第4巻) 7月 特集人口環境 ―持続的発展に不可欠なアジア役割 ― 第6回アジア学術会議歴史政治・国際
1999年 (第4巻) 特集科学技術の発展と新たな平和問題歴史政治・国際
2000年 (第5巻) 1月 特集学術研究の国際ネットワーク学術教育
2000年 (第5巻) 3月 特集:第7回アジア学術会議学術教育
2000年 (第5巻) 4月 特集世界科学会議21世紀のための科学学術教育
2000年 (第5巻) 7月 特集:第17期を締めくくる成果 ―第132回日本学術会議総会学術教育
2000年 (第5巻) 8月 特集:第17から第18期へ学術教育
2000年 (第5巻) 9月 特集:第18期始まる学術教育
2000年 (第5巻)10月 特集俯瞰研究プロジェクトへのアプローチ学術教育
2000年 (第5巻)11月 特集研究業績評価 ―実態問題学術教育
2000年 (第5巻)12月 特集:第18期活動計画の全容学術教育
2000年 (第5巻) 特集各部抱負学術教育
2000年 (第5巻) 特集:第8回アジア学術会議学術教育
2000年 (第5巻) 特集世界科学アカデミー会議学術教育
2000年 (第5巻) 2月 特集安全災害
2000年 (第5巻) 6月 特集男女共同参画社会における日本学術ジェンダー
2000年 (第5巻) 5月 特集司法改革課題展望社会
2001年 (第6巻) 2月 特集21世紀とヒトゲノム医療人間
2001年 (第6巻) 4月 特集21世紀と新エネルギーエネルギー
2001年 (第6巻) 1月 特集21世紀科学役割を問う学術教育
2001年 (第6巻) 3月 特集21世紀科学アカデミーデザインする学術教育
2001年 (第6巻) 5月 特集学術活動のための次世代育成学術教育
2001年 (第6巻) 6月 特集:「科学技術」の概念を人文・社会科学へと拡張学術教育
2001年 (第6巻) 7月 特集大衆化された大学での教育はいかにあるべきか学術教育
2001年 (第6巻)11月 特集日本学術会議改革に向けて学術教育
2001年 (第6巻) 特集:常置委員会の目指すもの学術教育
2001年 (第6巻) 特集日本社会の変容と教育の将来学術教育
2001年 (第6巻) 特集:第1回アジア学術会議学術教育
2001年 (第6巻) 特集特別委員会活動経過学術教育
2001年 (第6巻) 8月 特集遺伝子組換え食品をめぐる最近の動向環境
2001年 (第6巻)10月 特集:食から見た21世紀課題環境
2001年 (第6巻) 9月 特集10代は変わったか!こども
2001年 (第6巻)12月 特集データベースの新たな保護権利制度導入反対への初の声明情報
2001年 (第6巻) 特集21世紀IT社会情報
2002年 (第7巻) 5月 特集医療最先端医療人間
2002年 (第7巻) 8月 特集ナノテクノロジー化学生物
2002年 (第7巻) 9月 特集動物実験化学生物
2002年 (第7巻) 1月 特集新世紀の日本学術会議学術教育
2002年 (第7巻) 3月 特集科学技術新世学術教育
2002年 (第7巻) 6月 特集:新しい日本学術会議に向けて!学術教育
2002年 (第7巻) 7月 特集ノーベル賞100周年記念国際フォーラム創造性とは何か」学術教育
2002年 (第7巻)11月 特集:変革をめざす国立大学 ―学長たちは考える学術教育
2002年 (第7巻)12月 特集日本学術会議の今後の方向に向けて!学術教育
2002年 (第7巻) 特集:「大学の自立」と「学術経営」のあり方を探る学術教育
2002年 (第7巻) 特集:第2回アジア学術会議(SCA)学術教育
2002年 (第7巻) 特集学術科学研究の成果と社会学術教育
2002年 (第7巻) 4月 特集学術の再点検  ―ジェンダー視点から(1)ジェンダー
2002年 (第7巻) 2月 特集創造性と日本社会社会
2002年 (第7巻)10月 特集:「身体障害者との共生社会」の構築に向けて社会
2002年 (第7巻) 特集日本計画社会
2002年 (第7巻) 特集グローバル化時代対応する高等教育課題歴史政治・国際
2003年 (第8巻) 2月 特集研究教育現場から見た国立大学改革学術教育
2003年 (第8巻) 3月 特集科学社会 ―いま科学者とジャーナリストが問われている―学術教育
2003年 (第8巻) 7月 特集私立大学さらなる発展学術教育
2003年 (第8巻) 8月 特集:第18期から第19期へ学術教育
2003年 (第8巻) 9月 特集:第19期始まる学術教育
2003年 (第8巻)10月 特集:新しい学術の体系学術教育
2003年 (第8巻)12月 特集:第19期活動計画学術教育
2003年 (第8巻) 特集活動計画各部抱負学術教育
2003年 (第8巻) 特集:第3回アジア学術会議(SCA)学術教育

anond:20240614133609

割とそうなんだけど

安倍ぴょんじゃないかネトウヨも歯切れ悪いんだよ

アメリカみたいに数十年後にそこそこ公開できる体制になってればここまで言われなかったと思うね

anond:20240614113248

俺はこれがけっこう衝撃だった

https://x.com/kohkiwatabe/status/1801152810458956215

こういう深いところまで知らなかったというのはあるけど、会社側でこういうチェックできる体制があればよかったのにと思ってる

やっぱり日本学術会議っていらないんじゃね?

日本学術会議の発行する、学術の動向という機関誌がある。毎月、特集という形で日本世界学術の動向や社会との関わりが紹介されている。

ここではどのようなことが特集されていたか、全てだと長くなるので例示を挙げて見ていきたい。

ジェンダー男女共同参画関係

女性政治参画を進める(2023/2)
コロナ禍における社会の分断 ─ジェンダー格差に着目して─(2022/5)
理数系教育ジェンダー(2021/7)
壁を越える ─ジェンダーがつなぐ未来へ─(2020/12
人間安全保障」とジェンダー再考(2019/6)
ジェンダー視点が変える社会および科学技術未来(2018/12
高齢者貧困人権ジェンダーバイアスに着目して─(2018/5)
ジェンダー科学の新しい取り組み(2017/11
卵子の老化」が問題になる社会を考える ─少子化社会対策医療ジェンダー─(2017/8)
日本戦略としての学術科学技術における男女共同参画 ―「第4次男女共同参画基本計画」との関わりで―(2016/10
若手研究者養成ジェンダー ─人文・社会科学領域における女性・若手研究者養成支援―(2016/10
減災の科学を豊かに多様性ジェンダー視点の主流化に向けて-(2015/4)
教養教育は何の役に立つのか? -ジェンダー視点からの問いかけ-(2014/5)
災害復興ジェンダー(2013/10
雇用崩壊ジェンダー(2013/5)
災害紛争復興ジェンダー人間安全保障新地平- JAPAN PRIZE(2011/8)
日本ジェンダー平等の達成と課題を総点検する -CEDAW(国連女性差別撤廃委員会)勧告2009を中心に-(2010/9)
学術分野における男女共同参画促進のために(2009/7)
人口ジェンダー少子化対策可能か―(2008/4)
ジェンダー学と生物学対話2006/11
どこまで進んだ男女共同参画(2005/4)
学術の再点検ジェンダー視点から(その3)-(2004/4)
学術の再点検  ―ジェンダー視点から(2)(2003/4)
学術の再点検  ―ジェンダー視点から(1)(2002/4)
男女共同参画社会における日本学術(2000/6)

ジェンダー特集するなとは言わない。たださすがに多すぎないか

リンク先の目次を見てもらえればわかるが、執筆者も「不利なエビデンスは隠す」「自閉症マザコン少年の末路」の上野千鶴子さんなど典型的リベラル左派の論者が並ぶ。

また、その他の記事でもジェンダーに注目した記事がやたらと多い。

日本学問にはジェンダーしかないのかというくらいに特集されているが、まさかそんなことはないだろう。自らの思想開陳がしたいなら自身で発行されてはいかがだろうか。

ロシアウクライナ侵攻)

ロシアウクライナ侵攻に際して、日本学術会議わずか5行の声明https://www.scj.go.jp/ja/head/pdf/20220228.pdf)を出したことで有名だが(それも「対話交渉による平和解決を強く望みます。」と締められており、ロシア軍の撤退を求める内容ではないのは驚きだった)、その分機関誌では特集されているだろうと思って調べてみた。結論からすると全く特集されていない。関係あるかなと思って覗いてみたのが以下だ。

いま「戦争」を考える─社会学・社会福祉学の視座から─(2022/12

中身は「戦争ジェンダー・性暴力」があり、おいおいまたジェンダーかよまぁウクライナ侵攻では女性も大きな被害受けてるしなと思っていたら、「ポスト体験時代戦争研究」「「戦後の終わり」にどう向き合うか」「沖縄の“いま”からみる戦争歴史記憶」っておいWW2それも日本のみ、かな?と不思議特集になっている。

歴史認識と植民地責任(2022/12

こちらの中身は「朝鮮近代史立場から──「植民地戦争」の視点から見た日本植民地支配責任」「戦争責任植民地支配責任──サンフランシスコ講和体制から考える」「東アジアにおける「植民地責任」を考える」とウクライナ占領地域ことなんか全く出てこない、日本責任を追及するための特集となっている。

結論として、ロシアウクライナ侵攻に関する特集はなく、何故か同時期に日本戦争責任を追及するための特集を組んでいた。やるなとは言わないが、それは本当に特集としてふさわしかったのか?ロシアウクライナ侵攻よりも?

(その他学術関係すると思われるトピックス)

福島の処理水問題放射線に関するデマHPVワクチンなどまさに科学的な知見が求められるものに関する特集は組まれていなかった。また、コロナ特集複数回まれているものの、ワクチン安全性や反ワクチンデマに関するものは見られなかった。

これは直接知り合いの大学教授に聞いた話だが、「ワクチンに関しては人文系の一部の強烈な反対があって意見がまとめられないんだよね」とのことだった。個人的にはコロナジェンダー(2022/5)を特集するよりは反ワクチンデマについて述べてほしいと感じている。

その他、処理水や放射線デマについても特集できなかったのは一部左翼系の学者が強すぎるせいだろうか。

(余談)

学術会議が嫌うのが防衛に関する研究だ。防衛研究に関して否定的声明https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gunjianzen/index.html)を出したことでも有名だが、例えば複数大学で見られた、自衛官大学大学院への入学拒否について声明特集は見られなかった。

本当に学問の自由を守るつもりだったのか甚だ疑問だ。

結論

いずれもやるなとは言わないがここまで左派的な思想に偏ったことをしたいなら、政府から独立した完全な民間団体としてやっていけばいいのではないだろうか。

もちろんこれは個人的感想で、これこそが日本学術会議なすべき特集だとする人がいても否定するつもりはないが。

追記

○1〜2年に一本、これで多すぎると感じるなら、増田バイアス問題でしょ「ジェンダー特集するなとは言わない。たださすがに多すぎないか?」

○実際に「学術の動向」のリンクに飛んでみて、この増田と同じ印象を持つ人が実際にいるんだろうか。チェリーピックして「チェリーが多すぎる!」って文句言ってる変わり者なのでは

特集で年1回くらいならまあ、そんな目くじら立てることもないんじゃないの?とは思う。読んでないのでわからんけど

年に一回くらいならと言ってる人、正気

他の分野がこの2000年以降何回特集されてる?ジェンダー論こそが2000年以降の、他の分野の何倍も特集するに値する学術的なトピックだと?このブコメの方々はそう言いたいんだよね?

例えば「雇用崩壊」「災害復興」だけで特集すればよくて、その中の1トピックジェンダーに触れるのならわかるけどジェンダーのみを焦点に当ててるのは違うだろと

ジェンダー関連を扱うのは外圧とかもあって自民党政府が進めてるんだよね。あとは東大圧力もある。学術会議必死に阿っているだけ。

そんな阿るような組織なら尚更政府から切り離したほうが良いよね、御賛同ありがとう

ジェンダー以外にも変なところ挙げたから是非感想を聞きたいね

というか他のブコメも含めてジェンダー以外は概ね賛同でいいのかな?

24年間500件弱のうちの25件。増田フェミのことばかり考えているから多く見えたのだろう。DV男が女に執着するのと同様、アンフェもフェミへの異常な執着心を見せることがあり、この増田もそういう類なのだろう。

それなら25件も特集されている記事ジェンダー以外で挙げてみなさいよってね

自分で言いだしたんだからできるでしょ?

2000年代以降の学術的に最も重要問題が、他を圧してジェンダーだってのが学術会議の総意なら消えてくれて構わんよ。

2024-06-13

こんだけ炎上して、あちこち記事になって、ヤフートップにまで掲載されてるのにノーリアクションって逆にすげえよ

内部体制どうなってんだろ?

権限がただ一人に集約されてて、その人と連絡つかないとか?

2024-06-12

麴町中学校には「裏ヒップホップ部」があるので実はあまり困ってない

俺の従姉妹の弟の姉の従兄弟の息子の知り合いが通っているか情報が入ってくるんだけど、麹町中では禁止された活動郊外で行う「裏部活」がいくつか生まれているらしい。

部活と言うよりも自称に近いんだけど、元々学校から承認下りないような「音ゲー全国大会を目指す部」みたいなコミュニティがちょこちょこあり、それらが「裏部活」を前から名乗っていたらしい。

ただここに来て表の部活動で規制を受けて逃れたきた生徒が立ち上げたのが「本格的裏部活」であり、「裏ヒップホップ部」もその一つだ。

彼らの活動方針は「大人から評価されたがるな」だそうだ。

そんな気持ちを俺の従姉妹の弟の姉の従兄弟の息子の知り合いが歌にしたのが以下となる。

体制から評価され たいせいかな? 自分がないね

他人いいね しか見てないんだろ 見てられないね

反省がないせいだな 上手くいかなきゃ誰かのせいだ

大成はもう見られないね 何をしたいか忘れたせいだ

大勢はもう決しているから ママの所に撤退せい

だそうだ。

ウクライナロシア戦争悪者を一人上げろと言われたらNATOじゃないかっていう気がしてきた

戦前夜、ゼレンスキーNATO入りするかもーと言っていて、ロシアNATO当方拡大やめてくれよーとなっていたあたり、とはいえウクライナNATOに入ることをロシア内政干渉してまで止めることはできない程度にルールを守っていたのだろう(なので入ったら戦争という権利行使をしている)が、このときプーチンが言っていた

「だったらNATOロシアに対する敵対姿勢を解除してくれないか

黙殺されていた気がする。もともとNATOは対東側勢力として作られたもので、東側ワルシャワ条約だっけか、があって、東西冷戦時代にこれらがにらみ合いをしていたというのがある。

ソ連崩壊に伴ってワルシャワ条約はなくなりNATOけが残った。

NATO東側勢力に対する集団的自衛権だけを保持してアレヤコレヤとずっと延命をし続けている。

ソ連崩壊したときとかプーチン就任したときに「我々もNATOに入れておくれよ」と言っていた時期もあったがNATOはやっぱり入れていない。

結局東側勢力に対する敵対姿勢を崩さないことをずっとやってきているということでもある。

プーチンからしたら自分たち公然敵対する勢力、だけと資本主義的な先進国がたくさん参加している勢力自分たちのかつての子分が取り込まれて言っているさまを見てどう思うだろうか、プーチンじゃなくてもロシアはどう思うだろうか。

ゼレンスキーロシアに上等かました、ロシアはやる国だ、ウクライナが悪い、だとか、ロシアが悪いだとかっていう話はあちこちで見かけるんだが、NATOがもしウクライナちょっかいかけるなら承知しねーぞと事前に言っているわけでもない。

これについては核戦争リスクがあるとか、NATO諸国にはそもそも底までやる覚悟がないとか色々言われているのだが、とにかくNATO曖昧だった。

ただ、ウクライナがいざ戦争になったら、NATOウクライナ支援し始めた。

直接軍隊を送るのではなく、兵器をさしあげるという方法支援だ。

おかげで戦争がちっとも終わらない。

戦争が始まった以上決着がついてしまったら、仮に誰も助けないならロシアが勝つだろうと思うが、NATOにとっては好ましくない事態になるのだろう。だからNATO永遠に戦争を続けてもらうことにしたのかもしれない。

陰謀論だけどな。

まりウクライナNATO入りするときにでもウクライナ戦争しているじゃないかとか、ロシア要望である東側体制でなくなってほしいとかをマルムシするとかで渦中に居るくせに傍観者を気取ったNATOが結局一番悪いんじゃないかという気がしてきた。

2024-06-11

クリエイター自由責任

クリエイター自由責任、というテーマについて色々考えたことをつらつらと書いてみる。長文。



俺は大学在学中から、もうずっと長いこと個人ゲームを作っている者だ。仕事をしつつ余暇ゲームを作り、すでに何作も公開している。大して売れてはいないので、あまり偉そうなことを言える立場ではない。

これまでしてきた仕事は、ゲームとはまったく関係がない。俺がゲーム業界に入らなかったのは、そこに入っても俺が作りたいものを作れないことを知っていたからだ。会社という組織は、自分の作りたいもの自由に作れる場所ではない。

俺には明確に作りたいものがあって、それは個人でも作れるものだったので、ゲーム業界に入る意味が俺にはなかったのだ。



本業の方では、いくつかの組織渡り歩き、それなりに人を束ねる立場になってきて、組織の仕組みというものがある程度分かって来たところだ。

日本企業は……いやもう少し主語を小さくしようか、俺が見てきた組織は、末端の従業員裁量はとにかく小さく、何をするにも上司承認を通さなければならない。個人自由創造性を発揮できる機会などはほとんどない。

そういう体制ディスりたいわけではなくて、それによるメリットもある。

上司承認を取ることで、自分の行動で何か問題が起きても、その責任上司転嫁することができる。そして上司さら上司承認を取ることで、その責任転嫁する。

そのように組織の中で責任を広く薄めることで、特定個人責任回避する。これは責任曖昧にして、組織社員保護するための仕組みだ。

しか普通会社はそれでよくても、自由創造性が必要な分野では、そういう体制はすこぶる相性が悪い。



クリエイター創造性を最大限発揮するには、何よりも自由必要だ。その点で、うまくやっていると思うのは漫画業界だ。

俺は、日本漫画成功している要因の一つは、漫画家が組織に属さず、組織から自由であるおかげだと思っている。もし漫画家がサラリーマンだったなら、漫画の内容をまず企画書にまとめて稟議にかけたり、1コマ修正するにも上司承認を通したりといった世界になるだろう。

編集者がそれに近いことをしているのかもしれないが、漫画家本人はしていないはずだ。もし漫画家本人がそんなことをさせられたら、稟議を通りやすテクニック組織の中での立ち回りばかりが優先されることになり、自由創造からかけ離れてしまう。

出版社漫画家にある程度自由裁量を与え、漫画家が創造性を最大限発揮できる体制を整えている。しかしそのためには、漫画家を組織の外に置く必要があるのだろう。

漫画家のような存在は、組織にとっては異端者であり、組織の中に組み込むことができない。漫画家がいなければ事業が成り立たないにも関わらず、その主役を組織の中に置くことができない。この辺に、日本組織運営の難しさがある気がする。



しか自由の代償として、漫画が売れなかった場合漫画家は収入の大幅減、連載打ち切りといった形で、その責任ダイレクトに負わされることになる。

サラリーマンであれば、たとえ大きな失敗をしても降格程度が済むことが多く、日本はいきなりクビになることは少ない。サラリーマン自由制限される代わりに、ここでも保護されている。

サラリーマンであってもかなり上の役職であれば大きな裁量が与えられるが、その代わりに大きな責任も取らされる。結局、自由が欲しいなら責任を負う必要があるのだ。



ゲームの話から少し逸れたが、ゲーム業界においても80年代頃のゲーム会社自由が気風が強かったのではないかと思う。いわばゲーム業界のもの異端だった頃の方が、ゲーム業界は元気があった。新しいものを作るのは、いつだって異端者だったのだ。

俺はゲーム業界いたことはないのでこれは想像なのだが、当時から残っている大手には、事業の規模が大きくなるにつれて社会責任が大きくなり、多様なメンバーが集まり大企業病に冒され、だんだん普通会社になっていったところが多いのではないか

任天堂なんかは今でも元気があるが、他に元気のある日本ゲーム企業は少ない。クリエイター自由ものを作れない環境から創造性は生まれない。



ともあれ、いまゲームを作るなら昔から存在するゲーム企業ではなくインディーズで作るのが一番だと思う。それがもっと自由創造性を発揮できる環境だ。

俺なんかは、別の仕事をやりながら余暇ゲームを作るという、いわば美味しいとこ取りでやっている。しかしそういうやり方では、所詮大したものは作れないとも思っている。本業ゲームを作っている人には、やはり及ばない。

それは創作に掛けられる時間の長さという意味でもそうだが、それ以上に、本業ゲームを作っている人は覚悟が違う。

これが売れなければ倒産する、失業する、借金を背負う、そういうプレッシャーを負うからこそ作れるものがある。自由責任は表裏一体だが、大きな責任クリエイターを追い込み、本気にさせる。それで潰れる人も多いが、それを乗り越えて初めて達成できるものがある。

俺にそこまでのことはできないので、それができる人は素直に尊敬するし、感服する。俺は、彼らと同じ土俵には上がらず、慎ましく自分の作りたいものを作っていようと思う。

夫が産前うつかもしれない

結婚して2年

30代共働き(夫:教員、妻:公務員

妊娠6か月(多胎)

夫はうつの既往歴ありで過去に3か月休職

夫が産前うつかもしれない。

誰にも相談できないから良かったら聞いてほしい。

夫が、1か月ほど前から夜寝つきが悪くて、朝は早く目覚めるみたい。

朝早く目覚めるもののベッドからは起き上がれなくて、ちょくちょく1時間休みをとってから出勤している。

元々あった肩こりもひどくて、長時間寝ても倦怠感があって、いつも疲れているように見える。

特に低気圧の日はひどくて、調子の悪い休日の午後は2~3時間ほど寝てる。

1年前に仕事が激務で休職した時と同じような症状のように思えて、再発したのかはたまた産前うつというやつなのかと私が不安になっている。

夫は自己管理が下手というかセルフケアに割く時間お金をもったいなく感じてしまうようで、病院整体や休息のための時間をとるよう促してもなかなか重い腰を上げない。

けれど責任感は強いので、多少体調が悪くても家事はおろそかにしないし、夫担当家事を取り上げようとすると睡眠時間を削ってでもこなそうとする。

家のことはしなくていいか睡眠時間を増やすなりストレッチをして睡眠の質を改善するなりしてほしいと何度訴えても全く響いていないように見える。

しかも春頃はつわりで私の体調が悪く、私は休職して家にいたものの、家事は夫の言葉に甘えてほぼ全てやってもらってしまっていた。

夫は家庭のことを最優先にしたいらしい。

家事も率先してやってくれるし、出産後は育休をとって完全2人体制でがんばろうと言ってくれているし、育児ことなども勉強してくれている。

仕事のほうは、今年は担任業務を外してもらったので傍目にも忙しさはかなり軽減されているように見える。

休職前後は楽しめていなかった仕事も復帰後は楽しそうにしていた。

ただ、かなり頻繁に残業や持ち帰りの仕事はしているので、全く負担がないわけではない。

こういう状況なので、家か仕事か何が原因なのかは分からないけれど、夫のうつが再発もしくは産前うつのような状態になりかけているような気がしている。

多胎なこともあり早めに色々と準備しておきたくて、夫に色々と不安なことを相談していたのも重荷だったのかもしれない。

すぐに頭痛肩こりしんどいと言われると、「またか」「こちらも妊娠してからずっと体調が悪いのに」と言葉にはしなくても一瞬思ってしまうのが伝わってしまっているのかも。

夫のことはもちろん心配しているし、夫がうつになりそうなら休んでほしいと思う。

けれど、今また再発したらこの後の子育てなんてできなくなるのではないか出産後の私は夫と子供ケアをしないといけないのか、という考えが頭をよぎってしまう。

100%気持ちで夫を心配できなくなってしまっている。

夫はがんばってくれているのに私は結局自分のことしか心配していない自己中心的な人間だ、と鬱々とした気持ちになってくる。

とりあえず、こういう兆候うつ再発のサインみたいだから医者相談してみたらどうかと朝LINEしてみたけど既読はついていない。

こうやって色々口うるさくお節介を焼くのも良くないのかもな~でも言わないと限界までセルフケアせずにがんばることになってより悪化していくもんな~とまた悶々としている。

私はどうしたらいいんだろう…

2024-06-10

中国に代わって日本世界工場になる時代

下請けメリットって、儲けは少なくとも確実に儲かる、というところにあると思う

ゲーム開発に例えるのが分かりやすいと思う

下請けゲームの当たり外れに関係なく報酬が得られる

発注する側はゲームが外れたときにはダメージを被るが、当たったときの儲けはそのまま得られる

ゲームが当たっても下請け報酬には反映されない

その代わり、ゲームが外れたときダメージレベル下請けでは吹き飛んでしま

最近、つくづく中国の方が製品的に面白いものが出てる気がする

中国面白い所は、思い付きで作ったような製品を小ロットで、最初10個作ってみよう、100個作ってみよう、とりあえずそれを売ってみよう、ができるところにあると思う

法律的にも良くも悪くも緩いので、とりあえず小ロット市場に流して反応を見れる

そして、好反応が得られれば、小ロット生産体制のまま量産体制に移行してしま

日本では考えられない発想である

日本だと、とりあえず100個作って売ってみた、みたいなのは会社でも企画自体が通らないであろう

そんな町のパン屋さんみたいなことは許されない

日本だと、まず確実にこれぐらい売れる、という市場調査があって、そこから研究開発して、ラインを組んで、という話になる

中国だけではなく、どちらかというと日本以外、最近はその辺をすっ飛ばして、いきなり変な製品市場に入ってくることが増えた

結局、日本だと良くも悪くも、それって売れるの?なんかおいしいの?みたいなツッコミばかりになってしま

まり、発想が完全に下請けなのである

確実に儲からないことはやらない、単に面白いだけなんでしょ?という反応をされてしま

なんとなくだが、自分子供の頃のファミコンとかMSXにはそういう雰囲気は感じられなかった気がする

コストながら面白いことを実験的に市場に流してやろう、という意気込みを子供ながら感じることができた気がする

ゲーム産業成熟したため、そんなことを考えるような余地はなくなってしまったが、当時はあったはずだ

ゲームウォッチのような、枯れた技術の水平思考みたいな発想もあったはずだ

TSMCのみならず、円安もあるし、日本が目指すべきなのは下請けなのだろう

中国に代わって、安い人件費で、人海戦術で、期間工という名前で半永久的に安価人材使い捨てにして、

確実に儲かるものづくりをするのがこれから日本役割なのだろう

面白い製品日本以外の、東南アジアとかからも登場してきてるし、日本海外のための下請けに徹するべきなんだろう

夢のない話だが、自国で大型航空機も巨大空母も作れる余力があるわけでもない、

ドローンレベルさえ米国中国に頼っているこの国の実態がそれを示している

山奥SEO問題点 課題改善案について

先日『山奥SEO』なるもの話題となりました。そこで、個人的に取り組んでみたところ問題点が見えてきました。

前回の”山奥SEOを実践してみた ニッチなキーワード策定から結果まで”を踏まえた上で解説していきます

(なお、山奥SEOに関して柏崎氏の記事を参考にしてください)

山奥SEO問題点

1.競合の少なさと限定的市場
2.コンテンツ品質維持と更新負担
3.基本的SEO対策の徹底の必要

課題改善

課題①: 競合の少なさと限定的市場
改善

市場調査分析: 定期的に市場調査を行い、新しいニッチ市場発見や成長の兆しがある分野に対して、柔軟に戦略を調整する。

課題②: コンテンツ品質維持と更新負担
改善

課題③: 基本的SEO対策の徹底の必要
改善

まとめ

山奥SEOは競合が少ないニッチ市場ターゲットにすることで、比較簡単上位表示を狙える一方で、検索ボリュームが少ないことや市場の成長限界コンテンツ品質維持と更新負担基本的SEO対策の徹底の必要性といった課題があります

これらの課題を克服するためには、複数ニッチ市場ターゲットにする戦略や、ユーザー生成コンテンツ活用SEOチェックリスト作成など、多角的アプローチが求められます

2024-06-08

最初期の警察24時系番組はかなり酷かった

テレ東警察24時が遂に終了との事だが、これ系の番組の初期はまぁ本当に酷かった。

1990年代の後半あたりに始まったのだが、なにぶんにも報道の訓練も体制もない部署下請けが撮るので問題だらけの映像をそのまま流してしまうというトンデモ状態

番組終了の理由撮影時間が掛かる事、時間掛けても空振りのことも多くてそれで無理をして捏造的な場面を作ってしまうなどが挙げられていたが、まぁそうだろうね。

 

悪を断罪!という図式

最初期の番組兎に角撮影側が警官と一体になりナレーターで悪を断罪」というモチーフで撮られていた。

このモチーフの元はズバリ時代劇だろう。「この紋どころが目に入らぬか!」「余の顔を見忘れたか?」「おぅ、この桜吹雪が全てお見通しなんだよ!」と悪を断罪悪人は「へへぇ!」と平伏して視聴者カタルシスを得る。

 

だが警察24時で映しているのは近代法支配する現代日本である

もう一つの問題はそんなに判り易い事件は起きないという事だ。フィクション遠山の金さん将軍様も数日~数週間に亘る地道な取材や潜入捜査の末に処断してるのに、複雑な現代社会で偶然舞い込んだ事件をその場で処断できるわきゃない。

そこでやはりというか、一番多い交通事故処理を撮影するのが専らとなる。そしてその交通事故ナレーションで「断罪!」してしまうのであった。

例えば首都高で3台ほど絡んでしまった事故処理であれば、「スピード違反が招いた悲劇である!」という風に。

地方の人や免許がない人には判りずらいだろうから説明すると、首都高というのは大部分が60キロ制限になっている。だがこの速度を守って走っている車というのは皆無なのだ制限速度が遅いのは高度成長期に低い規格で作ったためで仕方がない。道路規格によって制限速度の縛りがあるので自動的に60キロとなってしまうのだ。

それで直線区間では全部の車が速度違反して走っているという状態になっている。路線バスでさえ守っていない。

そこで事故が起きたら警察は原因の一端に速度違反を挙げるのは当然で、それが主原因とは言えないわけだ。

なのにほぼ意味のない断罪ナレーションを被せてしまう。

 

これ以外の事故でも「確認の不注意が招いた事故であった!」とナレーションが次々に断罪していくのだが、事故の原因なんて複合的で、事故処理の警官確認遺漏で後からひっくり返る事もあるし、その為に当事者はかなりの労力と時間を使う。それをその場のノリだけで断罪しまくっていた。当事者が見たら憤怒間違いなしだ。

 

警察犯罪行為善意放送

当時、日産スカイラインGT-RBNR32型)という車種を出していて、これはアウトバーンでも300キロ出る、ガチで早いスポーツカーだった。

そこで交通機動隊や各県警の高速道路交通警察隊がGT-Rパトカーを導入した、というのが車好き向け媒体のみならず一般ニュースでも取り上げられていた。「GT-Rから逃げられない、という威嚇効果も大きい。

 

そこで当然のように24時のカメラマンは高速隊のGT-Rの後部座席に乗り込む。すると通報が入り、現状へと急行するGT-R景色は飛ぶように流れ、速度計は190キロを指している。国産車ECUエンジン制御コンピュータ)のリミッターカットだ!

…という映像を流した。

 

ところで道交法上の緊急自動車最高速度というのはご存じだろうか?一般道では80キロ高速道路では120キロである。但し例外があり、速度違反者を追尾計測するパトカーはそれ以上出しても良い。そうじゃないと速度違反検挙できないからね。

この高速隊GT-Rは追尾計測中ではなくて臨場する為の緊急走行であるから190-120キロで、70キロ超過となり、赤切符+一発免停で、刑罰も6ヵ月以下の懲役又は10万円以下の罰金となる。現行犯人だ。

別に増田パトカー消防速度違反して緊急走行していても構わんのだが、証拠映像電波に乗せて流してそのままで済むわけがないな。

報道畑じゃ無い奴がカメラ持って取材の真似するといこういう事をやるというリスク典型例だし、後ろでカメラまわしてるのにマッドマックス1のインターセプターみたいだろー的にアクセル踏んでRB26DETTをぶん回してる警官もアレだし両者色々アホすぎるとしか言いようがない。

 

警察24時系の元祖モンド映画に続くショッキング映像

ドキュメンタリというのは今では真面目なものだが、昔はいい加減で捏造まみれのものだった。ディズニーが『白い荒野 』というインチキ動物ドキュメンタリ映画で、レミングスは増えすぎると入水自殺する、というインチキ映像を撮る為に崖の上からレミングをポイポイ放り投げて殺していたというのが有名だ。

60年代に『世界残酷物語』という、エログロインチキドキュメンタリ映画がヒットすると、次々に同じような映画が作られ、エスカレートしていった。世界残酷物語原題は『Mondo Cane』なので、この手の下世話なインチキ映画モンド映画と呼ばれるようになった。

最初世界習俗と題して未開部族残酷処刑残酷儀式でっち上げものを繋げていたのだが、やがて観客の「リアルな死や本物の死体が見たい」という欲求に応えて、事故暴動で実際に人が死ぬ映像を繋げたショッキング映画が作られるようになった。因みに実際の映像だけでは尺が足りないのででっち上げインチキ処刑シーンとかも紛れ込ませているのが多い。

 

やがてモンド系もショッキング系もTV番組化するようになる。モンド系のインチキ成分だけを掬ったのが『川口浩探検隊』などだ。ショッキング系は苦情が来る事を恐れ、人体が千切れる場面や脳が飛び出すシーン等はカットして直前で映像を途切れさせたり、人体破壊の瞬間だけカットして死体を映すなどの手法が取られた。番組名はそのまま「ショッキング映像100連発」等。

たこれら番組には顕著な特徴があり、必ず番組最後消防隊や救急隊の訓練シーンで終わる。基本的に下世話な欲求に答える番組であって、その後ろめたさを誤魔化す為に取ってつけた映像を入れるのだな。

 

警察24時系も必ず最後に交機の訓練映像で終わるであろう。つまりはモンド~ショッキング系の系譜に則ったフォーマットなのである正義行使カタルシス時代劇から番組ターゲットが野卑な欲求ではないかとの疑問はモンド系の〆映像フォーマットで誤魔化し。それが警察24時系の構造だった。

 

因みにこんな取ってつけたような訓練映像付加手法だが、それを見て正義だと考えるリテラシー人間ちゃんと居るのだ。今ニコ動が全部落ちていてURLを貼れないが、ニコ動には例えばアメリカ精神問題がある人間刃物を手放さず警官隊に射殺される、というようなショッキング映像があるのだが、それには映像最後に州警察の訓練風景を入れてある。単に事件現場で殺人映像が撮れただけなのだが、モンド系フォーマット最後に訓練風景を取ってつけると正しさが保証されると考えているのだ。あれを本気にする者もいるというのがモンド系ドキュメンタリ的でありますな。アメリカに赴任してて厨房の心根は侵されずと言ったところか。

 

結局モンド系が内包する問題で倒れる

警察24時系は結局モンド番組なのだが、元のモンド系が虚実入り交じりのインチキ映画だったのは製作費と製作日数の問題でもあった。真面目なドキュメンタリは撮るのに時間が掛かりすぎて一部の意識高いしかみてくれないからペイしない。だから人目を惹くエログロインチキ映像を撮る。

警察24時も最初期にかなり問題になった筈だ。同乗させてもらった警官免停とか色々だ。すると地道に長時間警察に同行するしかない。歩留まりが悪くなる。しか映像パンチが無い。

ヤクザ事務所ガサ入れとか映像的にパンチがある事件はある。でもそういうのはマジな方の報道部門が呼ばれてモンド系バラエティ取材班は呼んでもらえない。カメラ持ってても素人なんだから報道マン暴力性に負けてゴミ扱いされて追い出されてしまう。

そんな状態視聴率上げようとしたら数多のワイドショーやらかしたように捏造っぽい方向に行っちゃうのは仕方ないね

 

んでもこの手の番組培養してしまった視聴者は「報道番組がモンド系と違う」ので報道を信用しなくなり、「川口市クルド人傍若無人治安崩壊!」とか「安芸高田市市長論破!」というショート動画クリックしてモンド系の毒に身をうずめるのでした。なんつーかペニシリン必要だな。

 

警察24時の初期は無茶苦茶だったぞーという話でした。

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-07

anond:20240607124108

疑ワク、という立場は認めない挙国一致体制だったもんなぁ

進め一億火の玉だ、で薬害まっしぐら

anond:20240607091607

障害児の殺処分体制づくりとかはまさに行政しかできないことだよ

茹で鶏が美味しくできて嬉しい増田住まい指令的で駆使井尾苅土で湯(回文

おはようございます

急になんか暑くなってきたような

まだ蒸し暑いとまではいかないもの

これ身体が急にぐーっと気怠さなのは

気候のこの暑くなってきかけていることへ対応出来ていない身体の変化なのかしら?

気怠いわー眠いわーってな具合で、

睡眠はいくらとっても眠いシーズンがあるのはあるのよね。

まだ梅雨入りはしてないものの、

ぼちぼちまた梅雨入りしたらそうなったらなったで気怠さがアップしまくりまくりまくりすてぃーなのかしら?と懸念を唱えるわ。

電車の中で空調が涼しいちょっと楽チンよね。

最近私茹で鶏をよく作るようになって

帰ってきて大量の塩コショウを鶏ムネ肉や鶏モモ肉なりにして、

その間にお風呂入っておいて

風呂上がりにサッとその塩コショウを洗ってボウルにお湯を張って1時間ぐらい熱湯につけておくの。

その間はゲームしたり洗濯したりして自由に過ごせて

そろそろお腹空いたかなーって良い時間の頃合いにちょうど出来上がんのよね!

かなり塩コショウ強めに本当に鶏肉コショウで真っ黒になっても平気なぐらいふりかけ

最後どうせ洗っちゃう塩は落としちゃうからいいんだけど、

それでもいい微かな短時間でも塩味がついて

私的にはもうそれ以外の調味料をなにも加えることがなくそのまま食べて美味しい茹で鶏が作れるのよね。

これが美味しいわー。

我ながら手前味噌というか我引水田とうか自分で言いながらとても良い仕上がりなのよ。

しか調理という調理じゃないし。

そこでまた冬に買ってちょっと使ってなかった間があった電気ポットの大活躍

そう私は2リットルじゃなくて3リットルちょっと大容量のポットは余してしまうかと思っていたけれど、

大量のお湯は文字通り湯水のようにお湯が使えて

いままではティファールで何回かに分けて沸かしていたけれど、

これは一気に大量にお湯が沸かせるし、

しかもその間ほかの用事が済ませられるので、

私の優秀なお湯沸かしロボットなのよ!

お湯沸かしロボットって言い方するとなんか近未来アイティーAIみに溢れている感じだけど

このお湯沸かしロボットが大活躍

茹で鶏をより効率化して生産できるファクトリーオートメーションを地で行くような

効率化を図ることができているのよ。

夏になったら電気ポット使い道ないんじゃね?って思っていたけれど、

逆よ逆

夏の美味しいシーズンの茹で鶏を作るに最適なのよ!

果たして自分が言ってて気付いたけど

茹で鶏のベストシーズンって今なの?って思ってしまっちゃったわ。

そのぐらいのベストシーズン

ベストな味わいのベストな茹で鶏が

いとも簡単にできちゃうから

ほぼ私の手仕事は塩コショウを振るだけ!って言うこれは料理とは言っていいにはほど遠いぐらい簡単なのよ。

味噌汁を作るよりも簡単

新垣結衣ちゃんもぎりぎり面倒くさくないチキンラーメンのお湯を沸かすよりも面倒くさくない塩コショウを振るだけ!

れいま2枚いっぺんに作るのが私の生産ラインなんだけど

最大で鶏モモ肉4枚同時製造できるくね?って

一気に大量生産作り置きは保存容器に入れておいていつでも茹で鶏が食べられる体制に持っていけばペキカンじゃね?って思うの。

その計画中よ!

上手くいったらまた報告するわ。

でもーさ

鶏肉のものを買っても

鶏肉惣菜を買ってもなんか値段的にはそんなに変わんないのよねーって思いつつ

自炊からって急激に節約できるかって言われたらそうでも無いけれど

一気に作り上げるというメリット自炊で活かせば

時間単位辺りの作業単価も安くなるから

しかしたら効率がよくなるかも!

ってまずは茹で鶏を一気に生産規模を2倍にしてみようかなって思う、

2枚から4枚へとチャレンジを試みて目論んでみるわ。

茹で鶏が電気ポットで捗るわー。

そんなベストシーズン到来の茹で鶏が美味しくできて嬉しいのよ。

うふふ。


今日朝ご飯

昨日の晩お味噌汁作ったので、

それを朝温めていただいてきたわ。

豆腐美味しいわー。

木綿豆腐使ってんだけど美味しいわー。

我ながら美味しいわーって感激してしまうわ。

なので

最近茹で鶏で塩コショウ消費とこのお味噌汁味噌消費が多いです。

簡単なことを簡単にすればいいのよって思ったわ。

もちろん時間気持ちの余裕があればのことだけれどね。

いまはそのシーズンの夜だったのかも。

デトックスウォーター

水出しルイボスツーウォーラーしました。

地味にたくさん買っておいてあるルイボスティーウォーラーのパックも使わなくっちゃってことで

今回は水出しルイボスティーウォーラーね。

暑くなってきたので、

水分補給はしっかりとね。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2024-06-06

anond:20240606155134

集団育児体制が崩れたのってここ50年ぐらいの話だからな。核家族化と言われる時代

それ以外は概ね集団地域子育てしてた。

それを修復する方法必要だと思うけど、集団育児みたいなのは社会主義国家でわりと失敗してる。

じゃあどうするかというとその再構築が子ども食堂とかなんだろうけど。

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