はてなキーワード: 生糸とは
いっぱいあるとわかんなくなるよね
でもわかるようにかんたんにするとまちがっちゃうからがんばろうね
実物的要因
戦争や産業構造破壊により、供給が需要を大幅に下回ることによって発生するインフレーション。第二次大戦終戦後の日本では、1945年の水準からみて1949年までに約70倍(約6900 %)というハイパーインフレーション[注釈 1] となった[13]。
また、ジンバブエでは、政策により白人農家が国外に追い出され農業構造が破壊されたところに旱魃が追い討ちをかけたことにより極度の物不足が発生、最終的に2億3000万%という超ハイパーインフレーションとなった[14]。
需要側に原因があるインフレーションで、需要超過インフレーション(需要牽引型インフレーション、ディマンドプル・インフレーション、demand-pull inflation)とも呼ばれる。需要の増大(需要曲線の上方シフト)により、価格が高くても購買意欲が衰えないので物価は上昇する。この場合、供給曲線が垂直である(すなわち価格の変動によって供給量が変化しない)場合を除いて景気はよくなる。
1973年から1975年にかけての日本のインフレ要因は、オイルショックに注目が集まるが、変動相場制移行直前の短資流入による過剰流動性、「列島改造ブーム」による過剰な建設需要も大きな要因である[要出典]。
供給曲線の上方シフトに原因があるインフレで、原価上昇インフレーション(コストプッシュ・インフレーション、cost-push inflation)とも呼ばれる。多くの場合、景気が悪化しスタグフレーションか、それに近い状態になる。通常為替レートが下落すると、輸入物価が上昇してインフレを引き起こすと同時に、企業が抱える外貨建ての債務の返済負担が膨らむ[15]。
原価上昇は総供給が上方にシフトするので、実質GDPは減少する[16]。一方で、需要超過は総需要が上にシフトするので、実質GDPは増加する[16]。つまり、実質GDPの動きで原価上昇か需要超過かは判別できる[16]。景気の過熱によって物価が上昇しているのかどうかを判断するには、消費者物価指数ではなくGDPデフレーターを見なければならない[17]。
賃金・材料等の高騰によって発生する。原油価格の高騰によるインフレーションや消費増税によるスタグフレーションが典型的な例である。
産業によって成長に格差がある場合、生産性の低い産業の物価が高くなり発生する。例えば効率の良い製造業で生産性が上がり賃金が上昇したとする。これに影響を受けてサービス業で生産性向上以上に賃金が上昇するとサービス料を上げざるを得なくなるため、インフレーションを招く。
輸出インフレーション
輸出の増大により発生する。企業が製品を輸出に振り向けたことにより、国内市場向けの供給量が結果的に減って発生する。幕末期に生糸などの輸出が急増し、インフレーションが発生している。このパターンは乗数効果で総需要が増大しているため、需要インフレの側面もある。
他国の輸入を通じて国外のインフレーションが国内に影響し発生する。例えば穀物を輸入していた国が、輸出元の国の内需が増加したり輸出元が他の需要国へ輸出を振り分けた場合などに穀物の輸入が減少し、穀物価格が上昇するといった具合である。実際に中国が穀物純輸入国に転じた際、トウモロコシ市場で価格急騰が起きたことがある。
賃金や物価統制を行っている体制が、市場経済に移行する際に発生することが多い。米国および日本で1970年代にかけて発生した。欧州では冷戦の終結および欧州中央銀行(ECB)拡大による東欧諸国の自由主義諸国への経済統合により、低賃金諸国での賃金・サービス価格の上昇によるキャッチアップインフレが発生している[18]。
貨幣の供給量が増えることによって発生する。貨幣の供給増加は、他のあらゆる財・サービスに対する貨幣の相対価値を低下させるが、これはインフレーションそのものである。さらに、貨幣の供給増加は貨幣に対する債券の相対価値を高めることになり名目金利を低下させる。このため通常は投資が増大し、需要増大をもたらす。そのプロセスが最終的に、需要インフレに帰結することでもインフレーションに結びつく。公開市場操作などの中央銀行による通常の貨幣供給調節以外に、貨幣の供給が増える特段の理由がある場合には、「財政インフレ」「信用インフレ」「為替インフレ」などと呼んで区分けることもある。
政府の発行した公債を中央銀行が引き受けること(財政ファイナンス、マネタイゼーション)により、貨幣の供給が増加して発生するインフレーション[19]。金融政策を経由した効果に加えて、財政政策による有効需要創出効果によって需要インフレも発生する。
信用インフレーション
市中銀行が貸付や信用保証を増加させることによって信用貨幣の供給量が増大することから発生するインフレーション。
外国為替市場を経由して通貨が大量に供給されることで発生するインフレーション。戦前の金解禁における「為替インフレーション論争」を特に指す場合もある[20][21][22][23]。なお、当時は固定相場制であり、現在の変動相場制とは、外国為替市場の動きが貨幣供給量に与える影響が異なることに留意が必要である。
現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料も税金もお金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。
「加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地の経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。
また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼが領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります。自給率の考えに似ているところがありますね。
江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。
一方で、災害や異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり大飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉の経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培が奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります。
明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業と貿易促進に力を入れていましたが、生糸やお茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。
どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。
輸出先は、主に英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアやスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。
明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。
このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率が100%を超えていたのです。
(図1)明治時代のお米の需給と輸出
お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。
お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。
(図2)お米の輸入量の推移
(図2)お米の輸入量の推移
明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。
いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村の米食率が上昇するとともに米食中心だった都市の人口が増大したことで、お米の消費量はわずか20年で約1.5倍に増えたのです。
明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています。
人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。
5. 輸入に頼らざるを得なかった時代 ~大正時代・昭和初期~
お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島・台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土に朝鮮半島・台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インド(ビルマ)、仏領インドシナ、タイ)が21%となっていました(*8)。
大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限や輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。
また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内の食糧不足が深刻になりました(*9)。
6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~
昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島・台湾等からの輸移入に頼っていた需給構造が崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイ、ビルマ(ミャンマー)、米国、エジプト等からお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。
昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。
増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活が多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。
生産が需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年からは生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率(カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。
「豊田市民芸館・民芸の森」と「豊田市近代の産業とくらし発見館」に行ってまいりましたわ。
「豊田市民芸館・民芸の森」はたくさんの建物があって、それぞれで展示がされていました。
民芸の森では明日イベントがあるらしく、たくさんの人が作業をされていて、
このあたりでは民芸と陶磁に造詣が深い本多静雄という方が活動していらして、
彼に招かれるようにして加藤唐九郎氏ら、著名な陶芸家があつまって
コミュニティを作っていらしたそうですの。
民芸館のひとつでは陶芸家河村氏三代の作品が企画展で展示されていました。
ひとかかえあるラスター彩壷が綺麗だったのですわ。
棚に並べて置かれていて三百六十度から観察できなかった点は残念でした。
二階建てで三つの部屋があるのですが、机と椅子ばかりで生活感が
まったくありません。
明治時代の西洋館は打ち合わせ用で、生活の場は和風の屋敷だったという
陶芸などの教室では多くの人が活動されていて、活気がありました。
「豊田市近代の産業とくらし発見館」は豊田市で生産されていた生糸関係の展示をメインにしています。
ちょうど実習室で生きたお蚕さんの展示がされていて、
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170310114512のブコメが地味に誤解が混ざってるので細かく正していこう
フィリピンは資源がもの凄く豊かだよ!かつては東南アジア最大の鉱産国だったほどだよ!
今は政情不安のために産出量がガタ落ちだけどね
イギリスの例もあるよ
イギリスの産業革命を牽引したのは自国で獲れる石炭である。鉄鉱石もボチボチとれていた(質はよくない)
ブコメで日本は結構資源はとれていたよという例があがってるが、銅も輸出していたことがあるのがあがってないな。江戸時代、オランダ相手の輸出品は最初は銀でしばらくすると銀の輸出はされなくなったというあたりは皆歴史で習うだろうが、その後に輸出されるようになったのは銅であった。
足尾銅山は鉱毒事件で有名だが、その生産規模まではあまり教えられていないようだ。
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_244/yj24428.pdf
明治 10 年(1877 年)の年間生産量 はわずかに 47 トンだったが、10 年後には3千ト ンを超え、その5年後にはさらに倍増する勢いで あった。 生産した銅はほとんどが輸出に回された。
銅は生糸・絹製品に次ぐ第二の輸出品の位置を 占めていた。日清戦争(1894 年8月〜 1895 年3 月)、日露戦争(1904 年2月〜 1905 年9月)の 装備は、銅輸出の収入によって整えたという。
正直おじさんぐらいの年の人間にとっては「○○鉱山が閉山しました」というニュースをしばしば聞いていたものだから日本に資源がないというのが非常に違和感があるのである。
もしかして昔の日本を過剰に美化してる人が増えてるのかな?と思ってしまうエントリを最近いくつか見かけた。
http://anond.hatelabo.jp/20151022043900
「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情
http://anond.hatelabo.jp/20151027104900
SF作家 山本弘先生の「日本人のモラルが昔から高かったと思うな」「日本人のモラルは昔より格段に向上している」
明治時代はともかく、戦後の日本製品の品質についても最初から高かったと思ってる人をたまに見かけたりする。実際には日本の製品の品質が良くなったのは1970年頃になってからで、それ以前は安かろう悪かろうだった。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100020158
また昔の日本の生産性は高かったと思ってる人が居るが、実際はそんなことはない。
http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2014_3.pdf
図3-4に1970年からの労働生産性の、OECD加盟国内での順位の変遷があるが、日本は18-19位だったのがバブル期に13位に、その後は現在まで21-22位で安定している(OECDの国数が時期によって違うことに注意)。
「本当に共働きが必要か」のエントリでは専業主婦世帯が日本に合っていたのでは?と言っている。共働きになったからいろいろ大変になってしまった、専業集世帯がメインになれば改善する、と言いたいのだろう。
このような発想が出てくるのはそのような社会形態だった頃に景気が良かったことからきてるのだろうが、実際には因果関係は逆で、景気が良かったから専業主婦が成り立っていただけである。
これと似たような話として、終身雇用・年功序列を復活させるべき、ということを言う人がけっこう居たりする。これも同じく経済が成長期だったからこそ終身雇用・年功序列でいけてただけに過ぎない。
そもそも、日本は終身雇用だったというのが幻想で、実際に終身雇用の対象だった人は労働者の1割も居なかったわけで。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141109-00040587/
ここら辺、解雇規制に関する勘違いと似ていて、日本は解雇規制が厳しいと言われるがそれは大企業の正社員のみの話であり、それ以外の人との格差が問題になってたりするのだが、勘違いしてる人は結構いたりする。
なぜこのような勘違いが発生するかと言えば、マスコミで取り上げられるのが大企業ばかりだったからではと思う。ほんらい少数派のはずがマスコミによってさも日本の代表値のように扱われ、それを信じてしまったのではないだろうか。
最近の若者は終身雇用を望む人が増えている、という調査がある。今の時世では安定を求めたくなるのは当然だよね、と思っていたのだが、もしかすると皆が終身雇用な社会、皆が専業主婦世帯な社会が成り立ちえると勘違いしてるから、そういう意見が増えてきてるのかもと考えてしまった。
もともと日本の蚕糸業は国内向けだったため、品質も価格も国際標準に届いていなかった。
しかし、蚕病により海外の生産量が減っていたことから、日本の生糸は世界の注目を集めることになる。
また、高品質な生糸よりも安価な物が求められていて、日本の低品質な生糸でも十分に需要があった。(日本の糸は、海外では横浜での相場の2倍ほどで取引されていた)
機織りの工程では縦糸は強く引っ張るが、横糸は縦糸にくぐらすだけなので品質の悪い糸でも問題なかったりする。
1840年頃 | フランスで蚕病が発生 |
1853年 | フランスの蚕病がピーク |
1860年 | 横浜港開港 生糸輸出開始 蚕病の影響で日本の輸出増 |
1868年(明治元年) | イタリアで蚕病ピーク |
明治3年 | 藩営藩営前橋製糸所を開設(日本で初の洋式器械製糸所) |
明治5年 | 富岡製糸場操業開始 "官営で"初の洋式器械製糸を導入した(日本で初とは言ってない) |
明治6年 | 星野長太郎が前橋製糸所を参考に、水沼製糸所建設(民間洋式器械製糸所) |
明治11年 | 水沼製糸所製、パリ万博で一等賞金牌を受賞) |
「諸外国に不当に安く買い叩かれている」
と発言。
「水沼村に器械製糸所を作った」と紹介されていることから、明治6年~の場面だろう。
日本全体で見れば嘘。
これは本当。
前述したとおり、海外では2倍で取引されていた。
しかし、外国人技師を招き、洋式器械をそのまま導入した「前橋製糸所」「水沼製糸所」「富岡製糸場」においては品質は世界にもひけをとらなかったのではないか、と推測している。
事実、星野の水沼製糸所は建設からわずか5年でパリ万博でのお墨付きを得るほどだ。
あの発言は星野長太郎が「せっかく高品質な生糸を作っても、日本の糸というだけで外商に買い叩かれてしまう」という状況に苛立ちを見せたセリフであって、(そして現地で直接取引という話につなげるためで)
脚本家が「日本の製糸技術は昔から世界一ィィィィーーーー!」という認識を与えたかった、と考えるのは少々うがった見方ではないか。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」(群馬・桐生市 水沼製糸所跡) 生糸輸出切り開いた2人の兄弟
http://www.sankei.com/premium/news/151025/prm1510250007-n1.html
http://www.pref.gunma.jp/07/p20210002.html
http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html
http://www.sukima.com/35_maebashi_ito/08hanei.html
星野長太郎とは【日本人による日本製生糸の輸出を実現した先駆者】
生まれた時からずっと森のなかで暮らしてきたんだけど、16歳になったからお父様とずっと暮らせるの!
今日の夜はお城で私の誕生日を祝う晩餐会。今朝出会った彼もお祝いに来てくれるんですって!
でも、なんだろう、こう、すごく右手の人差指がかゆいの。なにか、尖ったものとかないかしら?
いや、そうじゃない、もっと、尖った、糸車!そう、糸車の棘がいいの!
いやでも、何を考えているのだ私。これでは変態ではないか。
糸車。一目見るぐらいいいじゃない、なにしろ生まれてこの方見たことないのだ。そう、これは純真な好奇心だ。糸車の棘がどれぐらい鋭いか確かめたいだけなのだ。
侍女の人がおしゃべりしてた。宝物庫にもお父様の部屋にもないけれど、お城の地下にはたくさんの糸車があるんだって。みんな、ずるい。私に隠れてこっそりみんなで糸車の棘に刺されて楽しんでるんだ。
ひたひたひた。人の目を盗みながら、冷たい廊下、薄暗い階段を駆け下りて、ここが地下室か。
地下室の扉を開けると、そこには。
よく見たらわかる、いや見ないでもわかる。あれは糸車の残骸だ。ひどい、一体誰がこんなことを。私が糸車に指を刺されないじゃないか。
なんとなく、ここにはもう指に刺さるような糸車は残っていない気がしたけれど、私は涙目でうろうろと山の間をさまよう。ないか、糸車、きっと1台ぐらい無事なのがあるんじゃないのか棘。ぐすっ。
あった。それもとびっきりぴかぴかの。これですよ、これ。見た瞬間、グッときた。
私は駆け足で糸車に近づく。そうして右手の人差指をゆっくりとその棘に
待て私、何かこう、これはとてもいけないことではないか?怪我をするとかではなくて、何か大変なことが起きたりするんじゃないか?
3人のおばさま方も言っていた。母さまは糸車に刺されて死んでしまったの、だから一生糸車に近づいてはいけないんだって。ほんまかいな。
がし。悩んでる間に勝手に伸びていた右腕を左手で懸命に止める。沈まれ私の右腕!
だからそう、これは糸車の棘に刺されてもなんでもないということを証明するための!行為なの!カガクですよこれからの時代。
しかし、たまらんですよ糸車の棘。なんかこう、そそるものがありますよね。あれで右手の人差指を刺したらきっとすごい幸せになれる気がする。
糸車の棘。いけない。お父様。糸車。わたしなまえはおーろら。とげ。いとぐるまのとげのみぎてのとげのひとさしゆびをとげのいとぐるまのわたしはいとぐ
そして私は糸車の棘にそっと指を押し当「そぉい!!」
私見だが、夏目漱石の三四郎が文壇で評価され、「日本近代文学の祖」になった理由は、案外単純な理由な気がする。
「三四郎に描かれてる帝国大学の学生模様が、文壇主流派にとって『インナーな話』で懐かしかった」から、
分かりやすく書くと、文壇の大御所たちも東京帝国大学の出で、だから夏目漱石の三四郎は「東京帝国大学物語」で、心地良かった。
それまで「東京帝国大学物語」を書いた作家はいなかったから、その意味では夏目漱石の目の付け所はシャープだった。
よく考えたら、東大生の日々を描いた小説って、「三四郎」以降、存在しないんじゃないか?
東大生自身にも責任があるが、東大OBは、「三四郎」みたいなリアルな「東京大学物語」の小説化を怠ってきた、
一方で、ライバルである京大は、最近「鴨川ホルモー」で登場したりしてるのが羨ましい。
実際、東大が舞台の小説は後森鴎外と大江健三郎にしかないようで、このままでは世間は東大は「江川達也のマンガの世界」と誤解しちゃう。
※いや、東大の様子は、東大OBの「私の履歴書」を断片的に繋ぎ合わせれば、判るかな?
「三四郎」時代の東大は、あれはあれで趣きはあるが、工学系統が全く描かれてない点で今の東大とは別物。
せいぜい生糸工業と綿紡工業しか日本になかった三四郎当時の東大工学部と、現代の東大工学部で、「プレゼンス」が雲泥の差なのは当然。
絹はカイコの吐く糸から作ります、カイコはカイコガっていうガの幼虫で蚕と書きます…くらい小6なら別に知っててもいいだろ。
小6じゃなければいつなら妥当と思ってるのか知らんけど、後で改めて習うより、もの覚えのいい年齢なんだから歴史の教科書に出てきたついでに漢字なんか覚えちゃえばいいと思うけど。
子供(小学校3年生)が漢字検定5級(小学校終了レベル)を2月3日に受けることになった。
10月時点で6級(5年生終了レベルを受験)に合格したのだが、さすがに5級は「手強い」。
5級の問題集をやらせてみても、なかなか合格レベル(70%)に達しない。
6級までの場合、「小学校3年でも聞いたことある言葉に関する漢字」の出題だから、
「小学3年だと、聞いたことない言葉に関する出題」だから、非常に難しい。
例えば、「皇」「后」「陛」などは、天皇制を学習しないと、その字を用いた2字熟語などを知らない。
「裁」なんて字もそうで、小学校5年だか6年だかの社会の授業で、「政治・裁判の仕組み」「歴史」を
3年生だと、これらの字を覚えるのに、ハンディがあるのは、まあ、仕方ない。
逆に言えば、ちゃんと「どの字を何年生で教えるべきか?」というのは、
他の教科(社会・理科)の進捗とリンクさせて考えているのだろう。
(理科もリンクしているようだ。「磁」とか「宙」とか、磁石や宇宙の仕組みを学習しないと
とっつきにくい字も6年生時点で学習する。)
ということで、大半の漢字については、
「これらの字を、6年生で習うのは、まあ当然だろう」という字が並んでいるのだが、
唯一「この字は小学生が習わなくてもいいのでは?」と疑問に思った字があった。
それが「蚕」という字。
「小学校レベルでも、蚕の字は、習わなくちゃならない」ということで、蚕の字を小学生の漢字に指定したのだろう。
当時としては、それはそれなりに合理性があったと思うのだが、それから60年以上経過して、
国内の養蚕産業は、殆どゼロ、伝統工芸・重要文化財レベルにまで落ちてしまった。
小学生にしても、養蚕はもはや「明治の日本は養蚕⇒生糸工業で工業化しました」という
「歴史教科書の中だけにしか存在しないシロモノ」になっていて、実際の蚕を見たことある小学生は、数%もいないだろう。
そういう状況下で、「惰性」で、蚕という字を小学生学習漢字に指定し続ける意味って、どれだけあるのか?
「養蚕業界、生糸業界が、蚕の字を小学生漢字に指定し続けるように、文部科学省に圧力を掛け続けている」という