はてなキーワード: 旧幕府軍とは
明治維新(めいじいしん)は、1868年から始まった日本の大きな変革のことや。
江戸時代が終わって、武士の時代から近代国家へと移り変わる大改革やったんや。
まず、江戸時代は長いこと続いたけど、外国が日本に「開国せぇへんか?」って迫ってきたんや。
特にアメリカのペリーさんが「ドン!」って黒船でやってきたんが大きなきっかけやな。
その後、薩摩藩や長州藩を中心に「このままじゃアカン!新しい政府を作ろう!」ってなって、徳川幕府を倒す動きが強まっていったんや。
それで、天皇を中心にした新しい政府ができて、これを「王政復古」言うんや。
明治維新では、封建制度が廃止されて、武士の特権もなくなったんや。
さらには、学校も作って、外国の技術や文化をどんどん取り入れていったんやで。
簡単に言うたら、江戸時代の古いシステムを壊して、新しい時代を作ったんが明治維新やな。
これで、日本は急速に近代化していって、世界の仲間入りを果たしたんや。
戊辰戦争は1868年から1869年にかけて起こった戦いやねん。
徳川幕府を倒して新しい政府を作ろうとする側(薩摩藩や長州藩が中心やった)と、幕府側の勢力がぶつかり合ったんや。
この戦いは京都の鳥羽・伏見から始まって、東北地方まで広がったんやで。
特に会津戦争や函館戦争が有名やな。会津藩は幕府側を支援して戦ったんやけど、最終的には負けてしまったんや。
また、函館では旧幕府軍の榎本武揚(えのもとたけあき)が五稜郭(ごりょうかく)で最後の抵抗をしたけど、こちらも新政府軍に敗れてしまったんや。
この内乱は、ただの権力争いだけやなくて、日本全体が新しい時代に進むための大きな痛みとも言えるんや。
結果的に、天皇を中心にした新政府が勝利して、日本は中央集権化と近代化に向かって進んでいったんやな。
(その時西郷隆盛は何してたの?)
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新の中心人物のひとりで、戊辰戦争の間もめちゃくちゃ大きな役割を果たしてたんや。
まず、西郷は薩摩藩のリーダーとして、新政府を作ろうとする側に立ってたんや。
鳥羽・伏見の戦いでは、幕府側と戦って新政府軍を勝利に導いたんや。
彼は戦術にも長けてたし、部下たちにも慕われてたから、戦争の勝利に大きく貢献したんやな。
戊辰戦争が進む中でも、西郷は東北地方や函館方面に派遣される新政府軍の指揮を取ったり、旧幕府側との和平交渉にも関わってたんや。
特に江戸城無血開城(江戸城を戦わずに明け渡すこと)では、西郷と勝海舟(かつかいしゅう)が話し合って、江戸を戦火から守ることができたんや。
これは西郷の人間的な魅力や度量があったからこそ、実現できたもんやね。
ところが、明治維新が進んで新しい政府ができたあと、西郷は新政府の方針と対立するようになってくんや。
特に西郷は、急速な近代化や中央集権化の進み方に対して反感を抱いてたんや。
そして、最終的には西南戦争(1877年)で政府に反旗を翻すことになったんや。
この時、西郷は薩摩の士族たちを率いて、武士の伝統や誇りを守ろうとして立ち上がったんやけど、結果的には政府軍に敗れてしまい、自ら命を絶つことになったんや。
簡単に言うと、西郷隆盛は維新の立役者でありながら、最終的にはその維新の流れに反発して戦った、というめっちゃドラマチックな人生やったんやな。
(あと伊藤博文についても解説して。なんか悪いイメージもあるよね)
伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣や憲法の制定に深く関わった人物やけど、確かに彼に対する批判的なイメージもあるんや。
まず、伊藤博文は明治政府の中で「近代化」を進めた立役者やけど、その一環として朝鮮半島への介入や植民地政策に深く関わってたんや。
特に、伊藤が朝鮮に対して行った政策や、朝鮮を日本の保護国にしたことで、彼は後の日本の植民地支配の基盤を作ったと言われてるんや。
伊藤は、1905年に日本が韓国を保護国化した際、初代韓国統監(かんこくとうかん)に就任したんや。
この統監府は、事実上日本が韓国を支配するための機関で、伊藤はそのトップとして韓国の内政に強く介入したんや。
この時期に韓国の独立や自主権が大きく損なわれたことが、彼に対する批判の大きな要因や。
その結果、1909年に伊藤博文は韓国のハルビン駅で、独立運動家の安重根(あんじゅうこん)に暗殺されてしまったんや。
安重根は伊藤を、韓国を侵略し独立を奪った人物として憎んでおり、この暗殺は日本と韓国の歴史に深く影響を与えたんや。
また、国内でも彼が明治政府の中枢で権力を握ってたことから、一部の人々からは「藩閥政治」を進めたと見られ、権力を一部の有力者たちで固めたことに対する批判もあったんや。
つまり、政治が一部の人たちの手で動いていて、庶民の声が届きにくいっていう不満があったんや。
総合的に言うと、伊藤博文は日本の近代化に大きく貢献した一方で、朝鮮や韓国との関係、そして国内外での権力集中に対する批判があるから、マイナスのイメージが残ってるんやな。
(女癖も悪かったと聞いてるけど)
ああ、そういう話もあるな!伊藤博文は「女癖が悪い」って噂がよく出る人物でもあるんや。
彼は若いころからかなり遊び好きで、特に女性関係にはだいぶ自由奔放やったらしいで。
彼は明治時代の政治家の中でも、遊び人として知られとったんや。例えば、若い頃から遊郭に出入りしてたし、いろんな女性と関係を持ってたっていうエピソードも多いねん。
噂によると、50歳を超えてからも若い女性に夢中になってたとか、何度も結婚と離婚を繰り返したりして、結構な数の女性と浮名を流してたんや。
特に彼の「芸者好き」は有名やったんや。政治家としての公の顔とは別に、夜はよく芸者遊びをしてたというエピソードがたくさん残ってるんや。
これが「女癖が悪い」という評判の元になってるんやろな。
さらに、晩年でもそうした生活を続けとったみたいやから、一部の人々からは「品がない」とか「節度がない」とか批判されることもあったんや。
ただ、そういう奔放な生活があっても、政治家としては一流やったんやけど、そのプライベートの部分があまり良いイメージを持たれてないってことやろな。
だから、伊藤博文には偉大な政治家としての側面と、ちょっとだらしない私生活の一面があって、それが「女癖が悪い」という評価に繋がってるんやろうな。
明治時代に新撰組が庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌の記事だとか読み物だとかを抜粋していく。
『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄と明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇」とある。
近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。
同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。
このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。
まずは近藤勇について。
近藤勇は武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる
新徴組と間違えられとるやんけ!
新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。
土方歳三も紹介されている。
土方歳三は幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。
新撰組について何も触れられてねえ!
とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。
『汗血千里駒』は坂本龍馬を主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬の暗殺犯として近藤勇が登場する。
縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと
近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品に踏襲されていったようだ。
当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん
時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。
偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん
お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。
こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。
近藤勇の話
江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。
武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護の干将莫耶とは成りたりけり。
めっちゃ褒めるやん。
土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。
国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。
コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。
著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。
是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三のことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。
として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三の少年時代」が掲載されている。
婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇の知名度は高かったのだろうか。
花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。
かっこいい。
松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組を講談の主人公とした最初期の人物だったという。
巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体に成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇と海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱。
本編では、坂本龍馬を暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸で近藤勇と坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。
『少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌に掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。
人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷、大久保、坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中、龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。
として近藤勇と土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。
前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司や永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組十勇士伝』には登場する。
ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。
芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹、伊東甲子太郎との敵対、池田屋事件などのエピソードはある。
また、こちらでは龍馬暗殺が近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。
京都見廻組の佐々木只三郎らが龍馬を暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。
京都の観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組に言及がある。
節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇、土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない
当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派の武装集団なので新撰組とは正反対の存在である。
単なる勘違いなのか、それとも庶民のあいだでは混同されていたのか。
松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。
こちらには沖田総司・永倉新八・斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、
中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした
とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。
同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。
ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛『新選組始末記』の元ネタらしい。
・明治の始めにはまず「近藤勇」個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。
・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬を暗殺した男」として近藤も知名度を上げた。
・近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。
・近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。
・しかしエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。
・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇を主人公とした講談が演じられるようになった。
「侵略された場合は何も応戦せずに降伏する」事がこそが平和主義の理念であり、これ以外に「敵味方問わず人命尊重を最優先する」方法などありはしない。
新政府軍に対して江戸城無血開城を選択した旧幕府軍よろしく、全力で戦って人命を消耗し都市を灰燼に帰するより、互いの武士としてのプライドを捨ててまで人民を守る、
これこそが「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」して戦争を放棄する事である。
「おとなしく言うことを聞いて抵抗しなければ決して悪いようにはしない」といって攻撃してくる相手を信頼できるのかという話かと憤慨する向きもあるだろうが、究極的にはそうだと思う。
アフガニスタンの女性の未来のためには、一度タリバンに徹底的に抑圧させてみる以外にないと思う。
近代のアフガニスタンはイギリスやソ連、アメリカといった「西洋」の侵略者に苦しめられてきた歴史を持つ。アフガニスタンの国家形成には常に「西洋」からの介入が伴っていた。彼らはここ数十年、自分たちだけで国を作り運営し改善していくといった「ふつう」の国作りをできたためしがない。
それは、子供が新しいことに興味を持つたびに介入しやめさせようとする親のもとで育ったようなものだ。
子供時代にアニメやゲームを禁止された反動でディープなオタクになった、という話はネットでよく見る。もしも子供時代に望むだけアニメを見られていたら、そのひとは途中でアニメに飽き、そこまでアニメに執着することもなく、ほどほどにアニメを楽しむ「ふつうの人」になることができたかもしれない。親の介入と強制が子供をアニメに執着させたのだ。
きっと、タリバンにとっての「イスラムに則った国作り」というのは、一部のオタクにとってのアニメと同じだ。かつて奪われたものだからこそ彼らは執着するのだ。
この気持ちは、日本人にはわからないだろう。日本人は、西洋人にさんざん脅され屈辱的な不平等条約を押し付けられたりしたが、国家運営の自主性までは奪われなかったし、内戦に介入されることもなかった。アメリカに占領されたのも、自主性を発揮して精強な近代軍を育て上げ外国を侵略した末のことだったから、因果応報だと納得することができた。
それに比べてタリバンはどうだろう。ソ連の侵略に立ち向かう中でパシュトゥーン人の民族運動として誕生し、全国に勢力を広げ、いよいよ統一政権を樹立する間近まで行ったところでアメリカの侵略を受けて敗北した。一度も祖国を自分たちの力だけで統治する機会を得ないまま、外部の侵略者によって権力を奪われたのだ。「権力を持っていたらやれたはずのこと」に執着するのは当たり前だろう。
現在アフガニスタンにおいて「女性の権利」が危ういのもそういう心理を考慮する必要がある。彼らにとってそれは侵略者が押し付けてきたものなのだ。武力で押し付けられたものだからこそ反発される、というのは、しごく当然の心の動きだと思う。女性の権利が重要なことは否定しないし、アフガン女性の権利は守られるべきだが、問題は、「侵略者によって押し付けられた」と感じているうちは、アフガン人が「女性の権利」の重要性を納得なんてできるはずがないということだ。
薩長が戊辰戦争に勝ちかけていたのに、イギリスあたりが介入して無理やり旧幕府軍を勝たせて新政府を作らせたと想像してみてほしい。どちらの側にとっても納得できないだろう。現実には、会津が落城し函館に逃れた幕府軍の残党が降伏したことで、つまり、両勢力ともに力を尽くして戦い勝敗を決したことで戊辰戦争は終わった。それは特に東北の人びとにとっては悲劇だったかもしれないが、少なくとも、「本当は私たちが勝っていたはずなのに」という未練と執着を生み出すことなく、日本を新しい国作りへと導く結果になったといえるだろう。
私たちはタリバンに機会を与えるべきだ。アフガン国民自らの手で国を建設し、統治し、人びとに納得させるという新事業が必要であり、各地の武装勢力が降った現状で、それをする資格があるのはタリバンだけだ。アフガニスタンから未練と執着を消し去ることで、ようやく女性の権利を「侵略者による押し付け」ではなく「アフガン社会の課題」として見ることが可能になる。そしてそれは、武力介入によっては決して成し遂げられないことなのだ。
「ゴールデンカムイ」見てますか? 面白いですよね! 原作全部読んじゃって「もっと・・・」状態
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そんなあなたに明治維新前後(18世紀~20世紀前半)の北海道を舞台にした伝奇/アクション作品を紹介してみようと思います。
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1)
「地の果ての獄」
”北海道が一般の人にとって地の果ての島だった明治19年。薩摩出身の青年、有馬四郎助は月形の樺戸集治監の看守に着任した。そこは刑期12年以上の凶徒を集めた人間の運命の吹きだまりであった。正義感あふれる四郎助は、個性的な囚人たちが起こす奇怪な事件に厳しく対しようとする。だが、元与力のキリスト教教誨師・原胤昭との出会いがその運命を変え始め...。明治に生きる人々の姿をつぶさに拾い上げた圧巻の人間ドラマ。”
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2)
「旋風(レラ=シウ)伝」
北海道出身の朝松健先生の作品。本作はクトゥルーネタはあんまりない。
”明治二年、箱館・五稜郭は陥落し、戊辰戦争最後の戦いは終わった。南部藩出身の若き遊撃隊士・志波新之介は、古参の兵士たちのはからいで死をまぬかれ、榎本武揚から手渡されたスペンサー・カービン銃を手に北へ向かう。前途に広がるのは、コロポックルが邪悪な罠を仕掛け、犬神が姿をあらわし、淫魔が歌声を響かせる、いまなお伝説が息づく蝦夷の大地。残虐きわまりない北海道開拓使・仙頭左馬之介が率いる討伐隊と死闘を繰り広げながら、新之介は自由の地を目指して歩を進める。”
現代北海道ものでは「魔犬召喚」「凶獣幻野」がお勧めです。北海道こわい!
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3)
”戊辰戦争もあと二日を残し、五稜郭で幕を閉じようとしていた。「降伏はせぬ。」と、陥落前夜、自由を求めて脱出した旧幕府軍の凄腕狙撃兵、蘇武と名木野。逃げのびる二人は、アイヌの土地を蹂躪する新政府の画策を知り義憤に燃えた。だがその背後に迫る、新政府軍残党狩り部隊の足音。酷薄で執拗な追撃戦が開始された…。広大な北海道を血にそめて追われる者と追う者が、男の誇りを賭けて戦う冒険小説。”
佐々木氏は北海道舞台のキング風の現代ホラー「白い殺戮者」で「アイヌ・ライケ・ウパシ」=「人を殺す雪」というアイヌの民話について登場人物に語らせていたりします。
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4)
「蝦夷地別件」
”十八世紀末、蝦夷と呼ばれるアイヌ民族は和人の横暴に喘いでいた。商人による苛烈な搾取、謂れのない蔑みや暴力、女たちへの陵辱…。和人との戦いを決意した国後の脇長人ツキノエは、ロシア人船長に密かに鉄砲三〇〇挺を依頼する。しかし、そこにはポーランド貴族マホウスキの策略があった。祖国を狙うロシアの南下政策を阻止するべく、極東に関心を向けさせるための紛争の創出。一方で、蝦夷地を直轄地にしようと目論む幕府と、権益を死守しようとする松前藩の思惑も入り乱れていた。アイヌ民族最後の蜂起「国後・目梨の乱」を壮大なスケールで描きだす超大作。”
脇長人て何?って思って検索したら 夷酋列像 が はてなキーワードに登録されていました。
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5)
「天動説」
山田正紀作品。山田氏の北海道舞台の作品というと「謀略のチェスゲーム」「人喰いの時代」なんかがすぐ思い浮かぶけど、昭和なんですよ。時代を合わせると「ツングース特命隊」「崑崙遊撃隊」あたりになるんですが…
本作は第一部が江戸編(ザ・”江戸時代”)、第二部が蝦夷編の伝奇小説。ラストはむりくり明治維新期まで到達。あんまりアイヌは出てきません。
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6)
「カムイの剣」
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7)
「王道の狗」
”明治時代中期、北海道開拓に使役させられていた若い囚人二人は脱獄し、それぞれの道を歩み始めた……。壮大なスケールで描く歴史長篇漫画”
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どうでしたか? アフィサイト並みに読んでない作品も挙げてみました。
ちなみに「ゴールデンカムイ」読んでません! ごめんなさい!!