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季刊誌「Yaponesian」第4巻なつ号
ことばめぐり
言語学は何ができるのか?
最初、この科研に参加した時からこの分野における言語学の貢献の可能性については疑問を感じていた。
文献や記録がない限り、過去の言語のことは知りようがなく、日本語については古事記・日本書紀・万葉集の時代(8世紀)以前のことは基本的にわかりようがないのだ。
卑弥呼や古墳時代の言語はもちろん、縄文などとなればもうお手上げである。
基本的に無文字言語で、現在の諸方言のデータしかないツングース諸語を専門にしている私は、内的再建に頼らざるを得ない面が多々ある。
しかし日本語とアルタイ諸言語の関係、のような巨視的なレベルでこの手法を使うことはまずもって無理だ。
ただ万葉集には東歌・防人の歌というものがあり、方言差の記録もある。しかも現代もなおその特徴を維持している方言がある。
そこで何とかならないだろうかと、去年の言語学会のワークショップのためにいろいろ勉強してみた。
そうしているうちに、言語学・日本語学側の問題点(偏見?)や視野の狭さというものにいろいろと気がつくようになった。
そしてそれに対してごく最近、これまでの殻を破った核心的な研究も現われてきた。このことについて以下に4つの問題点に分けて記す。
学生と話していると、中国には中国語、ロシア語にはロシア語、韓国には韓国語だけが話されていて、過去にもずっとそうだったと思っている者がたくさんいる。
方言も同様で、彼らは最初はもう日本全国ほとんど標準語なんだと思っていて、そこで青森や鹿児島の方言を紹介すると、今度は47都道府県に47の違った方言があると思い込んでしまう。
蝦夷征伐の時代、(アイヌだったのかもしれないが)蝦夷の人々とは通訳が必要だったのに、百済とのやりとりは全く通訳不要だった。
白村江以前、朝廷にとって朝鮮半島は取り返すべき本拠地で、他方東国は全くの異国の世界だった。
そういうことを考慮に入れていない日本語研究者の方がほとんどであると思う。
私も勉強してみるまでは、現在と同じように大河川の河口には広い土地があって、山国の日本にあってはもっぱらそこで大昔から稲が育てられてきたんだと思っていた。
しかし大河川の河口の平野はかつては治水がままならず氾濫すればすぐ水浸しになり、大湿地帯も多かったという。
さらに富士や阿蘇は噴火していたし、火山による黒ボク土は稲作に適さなかったんだという。
決して現在の水田地帯すべてに弥生人が広がって今と同じように稲作をしていたとは言えないのだ。
これまでの日本語アクセント研究では、平安時代の類聚妙義抄(11c-12c?)に記されているかなり複雑な体系のアクセントに近いものが祖体系であると考えられてきた。
これには「理由なく分裂することは比較言語学の方法論上、慎まなければならない、だから複雑な体系こそ祖体系で、だんだん簡単になり、無アクセントは「なれの果て」である」という金田一春彦先生以来の考えが金科玉条のようにみなされてきた。
一方で文献のない時代の日本語の起源について、南方の言語(オーストロネシア)に北方のアルタイ系が被さったんだとか、インドのタミル語が関係あるとか、眉唾な説を怪しげな音対応で説明する者がいろいろあって、多くの日本語研究者は文献以前の日本語に心を閉ざしてしまったようだ。
そしてもっとも古いアクセントの記録(の一つ)である類聚妙義抄の体系がより神聖視されたようにも思う。
(中略)
ところがつい最近(今年の春の言語学会のワークショップ3で)、すばらしい発表があった。五十嵐陽介氏の「2音節名詞第4/5類に対応する琉球祖語B類は改新であるとする仮説」である。
これは本土と琉球で異なるアクセント類に分けられている諸語群について、それぞれの語群への分裂が①狭母音か非狭母音か、②かつて複合語であったか否か、という条件によって説明できることを提案したものである。
つまりは日本語アクセントにおける声調発生論がついに登場したのだ!! したがって祖体系はもっと簡単なものになる可能性が出てきた。
他の学問分野も多かれ少なかれ同じかもしれないが、言語学はますます細分化していて、扱う言語の違いよりも方法論の違いの方が大きな距離を感じるほどになっている。
そして、ある一言語しか扱わない、とか、文法、それも受身しかやらないとか、音声、それもアクセントしかやらないとか、そういう研究者も多い。
いわゆる蛸壺状態だ。しかし上記の五十嵐さんによるような研究成果はアクセントと共に子音や母音の配列や、語構成、琉球諸言語と本土諸方言の音対応などを総合的に考察していないと到達することはできない。
日本語学は寺村秀夫の出現で1970年代に活用重視の国語学から脱皮し、最近は琉球諸方言の「体系的」研究の進展などによって再び新たなステージを迎えようとしているように見える(、だといいんだけど)。
桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。
諱は山部(やまのべ / やまべ)。
いいですか!日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したのはもはや定説なんですよ!
なんか!勢いと!おふざけで!書いたら!書いたらですよ!意外にブクマが付きました!
なので!なのでですよ!お返事いたしましょう!
いいですか!日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したのはもはや定説なんですよ!
nt46 朝鮮半島は日本のライフスペース。いいですか、それは継体天皇の勝手なんですよ。
Tmr1984 ここから発展して、朝鮮半島は元々は日琉語族の土地。エルサレムを熱望するユダヤ人のごとく日本人は朝鮮半島(高天原)の奪還を望んで良い、とならない?日本人南洋ルーツ説も太平洋戦争の時にどう使われた?
いまこそ!いまこそですよ!国土回復運動!レコンキスタ☆彡!を行うべきです!
朝鮮語族に支配された!支配されたですよ!高天原を!奪還するのです!
くらえぇぇぇぇぇえぇえぇぇぇぇぇえぇ!!!!ハッピーーーーー!!!!!!!!!!!ヴァレンタイーーーーーンンーーーーーーーー!!!!!!
tigercaffe 先行研究と史料の提示を。せめて索引くらいつけて欲しい。この3つのない歴史記事は読み物以上の価値はない。
先♥行♥研♥究と史♥料♥の♥提♥示!!?!?!?!?!?!?!
こーーーれだーーーーー!!!!!!!!!!!!!ここの参考文献でも読んでろやーーー!!!!!
https://anond.hatelabo.jp/20211121124146
ええええ?????
だって!だってこれって「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」」ってのに反論してるんでしょ~~~????
トランスユーラシアに疑義を呈しただけで、日琉語族が列島外から流入してきたってことは否定してないんですよ!
この「まったくの素人」増田さんもね!「日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来した」ってのには賛成ないし、賛成寄りになるはずですよ!
Nfm4yxnW8 定説とまではいわないけど日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したというのは一番可能性が高い学説だと思う。あと10年もすれば定説になるかも。「大王たちのルーツ」は地理的な意味ならYES、国家という意味ならNO 歴史
そやな!大王たちのルーツのくだりは勢いやで!なんせ考古学的な証拠があらへんのや!
Cunliffe 日琉祖語の単一起源説はまだちょっと保留かなあって思ってる。クレオールだっていう仮定は結構魅力的なんだよね。
そやな!クレオールの可能性は高いな! しかしな!「どこで」クレオールになったかというと、列島外でクレオールになった可能性が高いんやないかと思うわ!
https://anond.hatelabo.jp/20220215160324 に書いた通りや!
death6coin “そしてAD663年の白村江の戦いで大王たちのルーツであった伽耶任那、百済が滅亡したことをきっかけに「日本」を名乗るようになるのです。”あー、そういう説の本を読んだことはあるな。通説とは思えんが。
そやな!「大王たちのルーツであった伽耶任那、百済」はネタや。しかし白村江の戦いの敗北がきっかけで「日本」と言う概念ができた!これは事実なんや!
unakowa 記紀の歴史書的信用はもっと議論されるべき。少なくとも記紀を真実かのように皇位継承問題を議論するのは愚の骨頂。
そやな!まあ神はおらんでも宗教には価値はあるんで!いんやない!
anmin7 よしんばそうだとして君は何を求めているのかね? 現状の何を変更したいのかね。
そやな!「名前を隠して楽しく日記。」が目的やで!そう怖がらんでもええんやで!
El_Fire “縄文人の遺伝子を最も強く受け継ぐアイヌの言語が日本語と全くの別系統である説明がつかないわけですよ。”縄文時代の長さと広さを考えると、異なる語族と判定せざるを得ない変化が起こっててもおかしくないのだが
な!なにーーーーーー!!!!!日本語とアイヌ語を同系論だとーーーーー!!!!
そ!それは!さすがに無理があろうかと思われます!試しに!試しにですよ!
何でもいいので学術論文を探してみるんだ!そこは!そこは!まともな学術論文が一つもない魔境ですぞ!!!
the_sun_also_rises この投稿に賛成する者も反対する者も裏側に現在の政治性を帯びていることが問題。1500年以上前のことはアカデミアに任せそれに対して政治性を帯びさせてはならない。こんな投稿をしても今の日韓関係は何ら変わらない
そやな!わいは!わいは!政治的なこと触れたつもりはなかったんやが!なかったんやが!それでも政治的に見えたんか!?
実際はおんどれの!おんどれの眼鏡に色がついとるんやないか!?
ysync で?既存資料をチェリーピックしたエビデンスに欠ける定説通説に何の意味が?新資料をもとにした珍説奇説の方が面白いだけマシだな。 /過去の出来事教訓としての歴史はおもろいが、現在に影響与えるものでもなかろ。
おりゃーーーー!!!!!!!!!チェリ~~~~~ピック!ピック!ピック!
でもな!定説はネタやけど!ネタなんやけど!「日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来した」ってのは最も可能性が高いもんやで!
逆にそれ以外の学説は圧倒的に信頼性が低いんや!特に縄文語ってのは超超激激やばやばやで!
memorystock ponponなんとか先生が諦めきれずにまだやってんのかな?ああいう人の動機って反転ネトウヨと言うか韓国ネトウヨと言うか、結局は民族主義とレイシズムなんだもん。
ちがうで!わいはponponではないで!
いいですか!日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したのはもはや定説なんですよ!
仮に文字として記録に残っていない縄文時代の言語が日本語の起源であるならば、縄文人の遺伝子を最も強く受け継ぐアイヌの言語が日本語と全くの別系統である説明がつかないわけですよ。
アイヌ語族は鎌倉時代に現ロシア沿岸部、サハリンから流入した言語?何を馬鹿なこと言ってるんですか!
そしたら東北地方に残るアイヌ語族の地名が説明つかないし、大陸にアイヌ語族の痕跡がないのもおかしいじゃないですか!
そもそもですよ!日琉語族の痕跡が残っているのは唯一朝鮮半島だけなのです!
朝鮮半島の歴史書である三国史記に地名としての日琉語族の痕跡が残っている!
それ以前は各地の豪族の集合体、大王の連合が倭国だったのです。
そしてAD663年の白村江の戦いで大王たちのルーツであった伽耶任那、百済が滅亡したことをきっかけに「日本」を名乗るようになるのです。
崇神天皇が「実在した可能性のある最初の天皇」って言われてるけど、やっぱ初代って継体天皇でしょ。
BC37年頃 高句麗が成立
近畿地方を中心に銅鐸、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。
階層の秩序化すすむ。
関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。
北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。
8年 前漢の滅亡
25年 後漢の成立
147年頃-189年頃 倭国大乱
220年 後漢の滅亡
239年 邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う
248年頃 女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる
266年 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)
日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。
316年 西晋が滅亡
空白の4世紀
463年 吉備氏の乱
457年-479年(日本長暦) 雄略天皇 考古学的に実在が実証される最古の天皇
479年 星川皇子の乱
大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。
日本では倭国の古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史の記述に残されており、倭の五王として知られている。
507年-531年 継体天皇
527年 磐井の乱
531年-535年 安閑天皇
538年 仏教伝来(552年説あり)
536年-539年 宣化天皇
539年-571年 欽明天皇
572年-585年 敏達天皇
581年 隋の建国
585年-587年 用明天皇
587年-592年 崇峻天皇
それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
593年-628年 推古天皇
603年 冠位十二階を制定
618年 隋の滅亡、唐の建国
629年-641年 舒明天皇
642年-645年 皇極天皇
645年 乙巳の変
645年-654年 孝徳天皇
646年 大化の改新
655年-661年 斉明天皇
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦い
668年 高句麗滅亡
673年-686年 天武天皇
国立遺伝学研究所の斎藤成也は、1991年に埴原和郎が提唱した縄文人と弥生人が交わることで日本人が誕生したという二重構造説に対し、縄文人弥生人古墳人の三重構造ではないかという新説を提唱している。
弥生人はBC1100-700に遼河流域にあった夏家店上層文化を源流として、朝鮮半島西岸を伝って日本に水稲工作を持ち込んだ。このグループが現代の日本語の祖であり、その言語の痕跡は高句麗百済新羅の地名として残っている。ミシシッピ、札幌など先住民の言語は地名に残るのだ。半島日本語として研究が進んでいるが、三韓の言語資料が少ないため決め手にかける。最終的な結論を出すには朝鮮半島の古代人骨の収集を待つしかない。
次に古墳人とは何か。これはおそらく任那、伽耶諸国の人々であろう。弥生、漢人、韓系民族の混血であると思われる、現代日本人に最もDNA的に近いグループだ。朝鮮半島南部には前方後円墳が残っており、当時の中国の資料でも韓系の新羅百済とは異なる言語を話しており、倭人のように刺青をしていたと記録に残っている。
古代の日本は朝鮮半島と極めて深い関係を有している。領土を持ち、百済王族との婚姻関係を結び、百済が唐と新羅に滅ぼされた折には海外出兵するという歴史上極めて稀な行動をとった。何故朝鮮半島の権益に対してこれほどまでに執着したのか、それは伽耶諸国こそ古墳人の故郷だったからだ。
1世紀、前漢・後漢のあいだの20年ほど、新という国があり、亀貨が使われていた。そのころ淡路島に日本初の鉄器工場ができた。赤色塗料あり、赤眉軍あり、薩摩の隼人は顔を赤塗りしていた。そして2世紀、魏から卑弥呼と呼ばれた天照大神は亀の甲羅で政策を占ったといわれている。
ただそんな原始的な国が諸国に進出するだろうか。そこで推測してみる。
天照大神は、亀貨が戦火焼失に耐えるか試していた。天岩戸に籠ったのは鉱物を探すためだった。魏の帯方郡と赤色塗料(丹)貿易をし、帯方郡が滅びれば百済人や新羅人に鉱山開発をさせた。出雲にも銅や銀があるのを知り、大国主命を送り込んだ。
飛鳥に29、40、41代天皇の墓があって大阪、奈良に16代天皇家族の墓があるのは変だなと思って経済史的に考えてみた。
4世紀、帯方郡と卑弥呼が滅び、渡来人が辰砂利用技術を持ってきて、初代天皇が立つ。天照・卑弥呼から曾孫の代は出雲にも進出。
5世紀、貿易で成功した15〜16代天皇は大阪と奈良盆地に進出して栄える。巨大古墳を作る。
6世紀、29代のとき任那が滅びて百済貿易が中心になる。渡来人が増えたので32代までに飛鳥京が開発される。それで銀山も開発されたが、場所は秘密。
7世紀、33代は遣隋使を送り、34代は遣唐使を送ってまた大陸貿易栄える。36代のとき百済が滅びて渡来人が増えたので38〜41代が奈良を再開発。飛鳥京は国内統一のための機関になり、統一後は廃止。
8世紀、渡来人がいるので43代に古事記(たぶん百済系)、44代に日本書紀(たぶん漢人系)ができる。45代が奈良大仏。47〜49代あたりに続日本紀ができる。50代(平家祖のひとり)が長岡京、平安京を開発。しばらくすると、インフレが酷くなりしばしばデノミをする。
平安時代は長いので飛ばして11世紀、唐と平家が滅びて道教の公家が衰退、仏教の武家が台頭。大陸も日本も諸国分立時代。
古墳の年代が正しいなら、天皇は4世紀からで、5世紀に大阪・奈良時代が始まり、任那滅亡のあとしばらく飛鳥京がある。飛鳥京の謎の石造物は任那系渡来人が来る前のものだろう。そもそも2世紀に福岡伊都国に千如寺が建ったときは天皇がいないだろうし、新羅系渡来人も鉱山開発をしてる。
天皇陵のある奈良や飛鳥や古墳作りがが廃れたのは、国内統一し終わって割の良い古墳作りを村人にさせる必要がなくなったとか、そのあたりの銀山が閉山したとか、任那や百済が滅びて古墳が流行らなくなったとか、産廃の利用方法を古墳作りの他に見つけたとか、唐辛子や香辛料が入ってきて、料理に忙しくなったとか。
初代天皇の父親の墓が鹿児島にあるとされているが、だったら隼人の反乱が起きるはずがないと思う。
だいたい古墳の主は仮託もできるし、もしかすれば戦争の死者が埋められてるかもしれないわけだ。律令制のあとは古墳がないんだろ。