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2013-03-22

アナトリー・ルイバコフ 「アルバート街の子供たち」 登場人物

サーシャ パンクラート
主人公大学新聞反党活動処分(退学)。
ソフィア アレクサンドロヴナ
サーシャの母、離婚
パーヴェル ニコラエヴィッチ
サーシャの父、離婚
マルク アレクサンドロヴィッチ リャザーノフ
サーシャの叔父さん、母の弟、35歳、工業部門指導者、15大会中央委員候補、オルジョニキッゼの部下。
カーチャ
サーシャの恋人(当初)。
ルーシ
カーチャの友人。離婚歴。子あり。
ワシーリー ペトローヴィッチ
ルーシャの男。
ユーリー シャローク
サーシャの同級生、レーナと恋仲、同じアパート、仕立屋(今は縫製工場)の息子、法学部卒、検察庁就職、OGPU勤務。
ヴラジミール シャローク
ユーリー シャロークの兄、強盗で8年収容所経歴、レストランコック。
ハイル ユーリエヴィチ
サーシャ宅の隣人、独身インテリ書籍と版画を収集
マクシム コスチン
軍学校生、サーシャの同級生、同じアパート
ニーナ イヴァノーヴァ
学校教師、サーシャの同級生、同じアパート
ワーリャ イヴァノーヴァ
ニーナの妹。
レーナ ブジャーギナ
技術図書館翻訳業、ユーリーと恋仲、サーシャの同級生、同じアパート、プジャーギンの娘。
ワディム マラセーヴィチ
美学専攻、医者の息子、サーシャの同級生、同じアパート
ヴィーカ マラセーヴィチ
ワディムの妹、ユーリーシャロークへの内通者、建築家イーゴリ ウラジーミロヴィッチを通じてとある著名建築家と密会。
ゾーヤ
ワーリャの友達設計事務所勤務。
セラフィム
マクシムの軍学校の友人。
ゲーラ トレチヤク
レーナの友達大使娘。
ヴィターリー
ヴィーカの友人、40歳代。
エリク
ヴィターリーの仲間、ヴィーカの友人。スウェーデン人電話会社社長の息子、技師
リョーバ シニャフスキー
ワーリャがメトロポーリで出会った、設計工房製図工。
リーナ
リョーバと一緒にいた製図工、ふとっちょ女の子
イーゴリ ヴラジーミロヴィチ
ワーリャがナショナルホテル出会った、ヴィーカの友人、有名な建築家、35歳ほど、後日彼の設計事務所にワーリャが就職
コースチャ
玉突き師、ワーリャと同棲ソフィア アレクサンドロヴナ宅を間借り)。
イワン グリゴーリエヴィチ ブジャーギン
中央委員、15大会で解任、元大使重工業人民委員代理
アナトリー ショームシキン
オルジェニキッゼ秘書
ロミナッゼ
元中委員、旧反対派、旧コミンテルン指導者左遷されウラルの市・工場党委書記
ベリョージン
OGPU、中央委員、ディヤーコフの上司
ソリツ
中央統制委員会、サーシャらへの処分撤回
ディヤーコフ
審判事、ユーリー シャロークの先輩。
イワン ザポロージェ
レニングラードOGPU次長キーロフ派遣要請したアルフョーロフの代わりにレニングラードに赴任、レニングラードへ連れて行く部下を選定。
フィリップ メドヴェーディ
内務人民委員レニングラード本部長・州党委員
ボローソフ
キーロフの警護隊長
バウリン
大学ビューロー書記
クリヴォルーチコ
学長、旧労働者反対派、大学建設遅れの件で除名、逮捕
ヤンソン
学部長、ラトビア人、クリヴォルーチコ除名時棄権
グリンスカヤ
学長ポーランド社会党左派コミンテルン活動家グリンスキー(ロミナッゼと共謀して新コミンテルン設立したとの疑惑)の妻。
ロズガチョフ
大学院生
アジジャン
社会主義会計学講師
ルーチキン
大学新聞反党活動処分(譴責)。
ローザ ボルジャン
大学新聞反党活動処分(譴責)。
ナージャ ボズドニャコーヴァ
大学新聞反党活動処分(譴責)。
コヴァリョフ
大学新聞反党活動処分(戒告)。
ストルペル
大学を所管する地区委員会第一書記
ザイツェヴァ
大学を所管する地区委員会でのサーシャの事件担当
マーロフ
サーシャが大学入学前に積荷人夫として働いていた機械工場監督。今は工場書記
ボリス サヴェーリエヴィチ ソロヴェイチク
流刑囚仲間、自称党員・元ゴスプラン、ロジコーヴォ在住、逃亡を図る。
イーゴリ ヴラジーミロヴィチ
流刑囚、建築家、白系亡命ロシア人の息子、パリコムモール加盟とのこと。
ヴォロージャ クヴァチャーゼ
流刑囚、グルジア人、美男子トロツキスト
イワーシキン
流刑囚、ミンスク出身初老印刷工。
カルツェフ
流刑囚、モスクワコムモール元専従。
ニル ラヴレンチェヴィチ
郵便屋、コルホーズ員。
マリヤ フョードロウナ
ゴリチャーヴィノ村の流刑囚、旧社会革命党員
アナトーリー ゲオルギエヴィチ
ゴリチャーヴィノ村の流刑囚、旧アナキスト
フリーダ
ゴリチャーヴィノ村の娘さん。
エフロシーニャ アンドリアーノウナ
ゴリチャーヴィノ村の住民、ニルの宿泊先。
ワシーリー
モズゴーヴァ村の最初下宿先の次男。
チモフェイ
モズゴーヴァ村の最初下宿先の長男
アルフョーロフ
内務人民委員部ケジマ地区全権代表キーロフレニングラード派遣要請したがなぜか東シベリア派遣された。
フェージャ
協同組合店舗職員40歳台。
ラリースカ
フェージャの出戻り娘。
ルーシ
フェージャの妹。
ヌウルジーダ ガジーゾウナ
ジーダと呼ばれている、モズゴーヴァ村学校教師タタール人トムスクに5歳の娘あり。
フセーヴォロド セルゲーヴィッチ ジリンスキー
モズゴーヴァ村在住、流刑者、モスクワ出身ベルジャーエフ弟子哲学者、35歳。
イワン パルフョーノヴィッチ
モズゴーヴァ村コルホーズ議長
ハイルハイロヴィチ マスロフ
モズゴーヴァ村在住、流刑者、元将校
オリガ ステパーノヴナ
ハイルハイロヴィチの妻、カりーニンから会いにきた。
ピョートル クジミチ
モズゴーヴァ村在住、流刑者、元商人、ボロネジ州出身
ユーロ
ロジコーヴォから移送された流刑囚。
リディヤ グリゴーリエヴナ ズヴャグーロ
ロジコーヴォから移送された流刑囚、1905年から党員
タラーシク
リディヤの養子、6歳、元富農の子

実名政治指導者は除いている

2009-12-08

シモ・ヘイヘ

シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランド軍人、狙撃手。フィンランドソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、フィンランドが生んだもう一人の天才スナイパー、スロ・コルッカと並んでソビエト赤軍から恐れられ、史上最多の確認戦果2505名射殺の記録を残している。




当時のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれ、幼い頃から猟師を営む。1925年に軍へ入営。1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に所属し、故郷の町に近いコッラー河付近での防衛任務に就いた。

ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によりソビエト軍兵士からロシア語で"白い死神"を意味する "Белая Смерть"(ビェラーヤ・スミェールチ。フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”等と仇名された。

戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32名が64000名のソビエト連邦軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。

ヘイヘは冬戦争中、防寒着の背中を砲弾の破片がかすめて切り裂かれた以外はほぼ負傷する事はなかったが、終戦直前の1940年3月6日ソヴィエト軍兵士の銃撃を頭部に受け、あごを撃ち抜かれる重傷を負う。友軍に救出されて一命を取り留めたが、意識不明のヘイヘを回収した兵士は「彼の頭は半分なくなっていた」と述べており、後年の写真でも傷痕が確認される。3月13日意識を回復したものの、すでに冬戦争はその前日のモスクワでの講和条約締結を以て終戦を迎えていた。

戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、コッラー十字章を受勲、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たしたが、その後戦場に出ることは無く猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごし、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くのルオコラハティで、2002年に96歳でこの世を去った。




ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時、物資や銃弾が極端に不足していたフィンランドは、戦前からソビエトの軍事的影響を受けていた為、多くの制式装備がソビエト製だった。このため戦場で鹵獲した敵の装備をそのまま使用でき、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄ながら、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガン[1]を与えられている。

モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[2]と装備の軽量化に加え、レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。当時の狙撃にはスコープの使用が当たり前になっていた中で、あえてこれを用いずに多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在フィンランド国立軍事博物館に展示されている。

ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だったソビエト軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリアSAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に46発の射的に成功したという逸話[3]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。

ヘイヘが狙撃で殺害した人数は最終的に24500名から25540名と言われ、いずれにしても世界記録となる[4]。この中には狙撃銃以外の火器によるものや、未確認の殺害数は含まれていない。またヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では3200名以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した10505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年クリスマス直前の12月21日だけでも525名の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が4138名に達していたという。

1998年晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際、一言「練習だ」と答えたという。また、自らの残した記録については、「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98

 
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