はてなキーワード: リエゾンとは
まず、災害派遣は都道府県は全国知事会、市は全国市長会、町村は全国町村会経由で派遣要請が来て派遣するから、「県からお願い」は違うと思う。
災害が発生すると、まずはリエゾンと呼ばれる情報連絡員が派遣される。災害対策についての知識を持った精鋭が派遣され、現地の情報を外向けに発信するとともに、必要な支援が何かを派遣元に伝え、支援の内容(物資か、人員か、それぞれどんな内容か)を調整する。
神戸市から珠洲市への派遣の例 https://www.city.kobe.lg.jp/z/kikikanrishitsu/r6noto_kikikanri2.html
よく言われるように、発災72時間は人命救助、その後復旧、復興へとフェーズは変化する。
今求められているのは、避難所の運営支援と家屋の被害認定。とにかくマンパワーが足りない被災自治体職員に代わって頭数を派遣することが重要だ。避難所運営支援は避難者による自治が形成されつつある段階で、役所との連絡が主。被害認定は、地元自治体だって一日程度の研修で専門外の職員が実施する類のもの。こういったルーチン業務には、なんだかんだ言って公務員は強い。周りから優秀に思われていない職員だとしても存分に成果を発揮できると思う。1週間交替でよいのも同じ理由による。
(あと、被害認定を応援職員がやるのには「あいつが俺んちを全壊じゃなくて半壊に判定した!」みたいな逆恨みを受けにくいメリットも。)
今後、復興に向けたマスタープランづくり、新たな都市計画に基づいたまちづくりのフェーズになると、派遣期間も1〜3年の長期になる。そのときが元増田の言う「エース」の出番になるだろう。
今年32になる女。20代後半から30代にかけて、趣味が大きく変化したなと思うので振り返って書いてみる。
20代半ば辺りから、少年漫画、引いてはバトル描写のある漫画全般が読めなくなった。社会問題を扱う作品をよく読むようになったが、露悪的なものは底が浅いと感じるので嫌い(20代の頃は読んでた)。
今好きなのは「リエゾン」「健康で文化的な最低限度の生活」など。なぜか「ザ・ファブル」は全巻読破した。
人とは繋がらず、RPGなどを一人でプレイするタイプ。それは昔も今も変わらないが、クリアせずにメルカリ行きになるタイトルが増えた。が、睡眠時間を惜しんでクリアまでぶっ続けでプレイできるタイトルが今もあるのも確か。
20代までは「ゲーム性よりシナリオ」と思っていたが、なかなかゲームのシナリオで満足することが少なくなってきたこの頃。テイルズオブシリーズが好きだったが、30歳でアライズをやってみて「もう自分はテイルズ卒業なんだな」って思った。
ポケモンSVはバイオレットを買ってストーリークリアした。いいストーリーだった。翻って子供向けのゲームの方が一歩引いて楽しめるかも。
牧場物語の新作での完全復活を望んでリメイク作に課金し続ける勢。
10代の頃から「どうして自分は今どきのきれいなキャラクターイラストが描けないんだろう」と悩んでいたが、最近やっと「描きたいと思ってないから描けないんだ」と気づいた。
世の中色んな顔の人がいるのにきれいなキャラクターだけ描くのってどうなんだろうって思うようになった。別に描いている人を非難するつもりはないしきれいな絵は本当にすごいと思うけど、自分が無理して目指すものじゃないんだと。ただいいねの数がうらやましかったんだね。
お世話になった人たちへ似顔絵を描いたら、色んな顔が描けて楽しかった。
20代でbiim式のRTA動画にハマったがさすがにずっと淫夢ネタ擦り続けてるのがしんどくなり、年2回のRTA in Japanを視聴する程度に。
YouTubeは元々見ない。最近はNHKプラスでドキュメンタリーなどを観るのが好き。
20代で一時期はまったが、自分が一切つける気がないのに続くわけがなくフェードアウト。
10代の頃から独学で続けているが、やっと基本が身についてきて、多少アレンジしても失敗しなくなってきた。砂糖や小麦粉の種類など、素材にこだわり始めるように。
年を取って「以前より趣味を楽しめなくなった」と嘆く人は少なくないが、年相応に趣味との付き合い方を変えていく必要があるのかな、と感じる。
個人的には、漫画やゲームで楽しめる作品が少なくなったことも、前向きに捉えれば成長、少なくともネガティブではない変化ではないかと捉えている。
(追記)
ガーデニングが趣味というコメントを見て書き忘れたのを思い出したけど、雑草趣味に20代半ばで目覚めてた。Googleレンズ(AIが写っているものを判別してくれるやつ)で雑草を特定してみようと思ったのがきっかけ。
ガチ勢ではないけど、旅行後はカメラロールが真緑になる程度に楽しんでる。今はホトケノザが勢いよく咲いていて、桜よりもそちらに春を感じている。
Covid-19で政府の対応が後手後手という指摘があるが、今回の案件はほぼWHOの腐敗と中国の隠ぺいだったため
いずれにせよパンデミックは防げないってことなんだけど、今後発生する様々な問題、たとえば企業の資金繰り等を
勘案すると、今回のコロナの件に災害対策基本法を適用できないかと考える。
災害対策基本法では
内閣府防災のホームページ http://www.bousai.go.jp/shiryou/houritsu/001-1.htmlより
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 災害 暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。
今回のコロナウイルスは、自然にあった新しいウイルスが人体に大きな被害を与えたとあって、その他の自然現象に類するのではないかと思っている。
かなり無茶な論法だからできれば改正してくれればいいんだけどね。
災害対策基本法が適用できれば、激甚災害認定で補助金投入をはじめとした国費の投入
トップダウン形式の災害た対策本部の設置が可能になる。また内閣府防災はそれらに必要な
人材を流動的に呼び出せるので、厚生労働省を呼ぶのも容易だし、関連メンバーを一気に集め
地方自治体との連携をリエゾンを駆使して行うことが可能になる。
また、今後の問題等の教訓に今後は防災対策をとることもできる。
東京防災などの書籍にウイルス禍に関する対応方法を書いたり、マスクの代用方法を書くことも可能だ。
また、災害対策基本法における災害緊急事態条項の1を別運用として、不足物資の流通制限を仕掛けることも必要だと思われるが
災害対策基本法を適用できれば色々なことが 特に情報集積や地方自治体との連携が容易になるので
なんとか通してほしいところ。
日本人の無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは
ときには、動機付けになるが、多方、語学学習の阻害要因にもなりうる。
とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は
恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理が
どれだけ機会損失につながっているか、実践訓練を妨げているかわからない。
特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理。
なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。
一方、留学したり海外旅行では、日本人の視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。
留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。
最近、フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効に活用できてよいと思う。
ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉をネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。
そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。
忍者ハットリくんやマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。
これは1970年代、高度成長期を上り詰め、一般の日本人が海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に
添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。
この作品は、個人的には同氏の最高傑作のひとつだと思っている。
見開き2ページで構成された、この小噺集のなかに、とあるエピソードで
ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんがハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。
添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは
しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、
見かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると
「オー、スコッチ・アンド・ウォーター!オーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。
その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。
当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾンの重要性を洗脳されていた時代である。
試しにネイティブの発音をマネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。
恐らく、ニューヨーカーの発音、南部なまり、西海岸の英語、オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば
相手に応じて、発音のコントロールができて、通じるようになるような気がしている。
えてして、ネイティブの多様性を理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである。
しかし、それはあたかも大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。
https://www.asahi.com/articles/ASL3X3TNDL3XUTQP018.html
最近の国際イベントでは、コンペの要件としてほぼ必ず「ボランティアの活用」といった項目があります。
どうも役人の方々は、コストを「安くするため」にボランティアを活用と仕様書に書けばいいと思っている
様子があるのですが、これが大きな勘違いとわかっていない方が多いです。
まず、単純にボランティアを集めるといっても、
これだけのことは最低限行います。
こうやって苦労して集めたボランティアですが、
奴隷ではありませんので、みんなそれぞれに「希望」「淡い期待」を持って応募してきます。
そう、どちらかというとこの意識大会系の人たちが応募してくるボランティアの胸に秘めた
などなど
しかしボランティアの多くが、「突然ぬけられても困らない」つまらない業務をおしつけられます。
(後述)
(例)
などなどで、まず有名選手には関われません。
そういう人たちがどうなるかというと、ようはつまらない。思っていたのと違うってだけで、
だったら、重要なポジションも与えてあげなよと思った人は正解で、
対価が少ない・対価が無い場合、人間というのは、びっくりするぐらい遠慮なくキャンセルしてきます。
しかたがないので、そうなってもこまらないように、ボランティアは必要以上に採用するしかありません。
そして、結局は急にいなくても・来なくても運営に支障がでないポジションを与えるしかありません。
その結果、ちょっと楽しいことにすら関われない人が圧倒的に多くなります。
すくなくとも11.5万人のボランティアを確保しなければいけないでしょう。
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208
2007年から2009年にかけて、2年弱ではあるが、外資系金融で派遣社員として働いていた。
外資系企業で働くということは、私にとって、黒船到来とでもいうべきエポックメイキングな出来事だった。
日本のベンチャー企業で解雇の憂き目に逢い、1年以上ニートをやっていた30歳過ぎのキャリアもない女性に仕事などなく、
私は今でこそ「社畜」と形容される日本の会社の風土そのものに全く馴染めない社会不適応者であるのだが、外資系企業は、
そんな私でも馴染む組織であるということを働いてみて初めて知った。
日系大企業に見られる「社畜」の風習である、空気を読む、他者迎合、足の引っ張り合い、残業していることをPRするための
残業(残業自慢)、横並び意識、おべっか、滅私奉公、給料=我慢料、「あれをこうして」という抽象的で意味不明な指示、
非ロジカルな会話、議題のない長時間の会議、社内政治、客よりも組織内の利益を優先する、奴隷営業、就活の茶番、パワハラ、
セクハラ、長い物には巻かれろ、付和雷同、といったありとあらゆる理不尽を永遠に繰り広げる旧陸軍のような環境そのものが、
反吐が出るほど嫌いだった。
しかし、外資系企業では、これら当たり前だった日系企業の風習が、随分緩和された環境であるということを経験した。
もちろん、外資系企業といえど、日本人社員が比較的多い組織を渡り歩いたので、上述のような風習が全くないというわけではない。
それでも、日系企業の「社畜」に囲まれる空間より、居心地が良かった。
景気悪化により、2010年より、私は日系企業に再び戻ることになった。典型的なドメスティック企業で、旧態依然とした社風に
発狂しそうになった。それでも、自分の希望する職種であったため、社畜集団しかいないということは織り込み済みで働くことにした。
面接した当初、直接雇用を視野に入れているという言及があったものの、後にカモフラージュであることが判明。
勤務先の管理職より、先月6月の株式総会後、経営方針の変更等という上っ面の理由で、
直接雇用はしないという旨を暗に諭され、転職活動を真剣に視野に入れるようになった。
ダイレクトかつストレートかつ正直に現況を述べず、オブラートに包むやり方は、いかにも日系企業らしい。
会社から直接契約終了とは告げず、私が辞めてくれるのを手ぐすね引いて待っているような状況である。
自分たちは決して悪者にはなりたくない。。。
怒りすら生じなかった。
以前、就業していた派遣会社に問い合わせたところ、早速現在の仕事に類似した外資系企業を紹介された。
このご時世、このようなタイミングで希望する職種に近い求人があるのは非常に珍しい。
派遣といえど、リーマンショック後は、書類選考や面接を行い、スクリーニングするようになった。
誰でもできるような一般事務で、誰もが知っている大企業の求人になると、50人〜100人くらいの応募者が殺到することすらある。
企業の選びたい放題である。完全に買い手市場だ。現在の私のポジションも、3〜4人面接を行い、最終的に私にしたと管理職から聞いた。
この2年半で、外資系企業に再び戻って働きたいという渇望は募るばかりで、過去の経験に基づく事実が心の中で勝手に膨張され、
妄想になっているのではないかという懸念はあった。片思いの人に入れこみすぎて、リアルな人物像よりも勝手に素晴らしい人物像を
今回は、そんな妄想を打ち破る現実に直面するかもしれないという覚悟はしていた。同時に同業他社動向を知りたいという好奇心もあった。
■面接で聞かれたこと
全部で4人の方と面接した。
日本の会社のように「自己紹介をしてください」という決まり文句からはじまり、新卒から現在に至るまでの経歴を延々と述べることはあまりない。
外資系企業の多くは、予めレジュメ(履歴書)は閲覧しているので、気になる点をピンポイントで質問するというパターンが多い。
転職歴の多さ、年齢、既婚未婚、協調性、弊社を選んだ理由といった典型的な質問や、会話のあいまいさに起因する論旨の不明瞭さ
今回の会社では、直近に携わっていた仕事をどこまで踏み込んでやっていたのか、何ができるのか、という1点に絞られた。
私は具体的な数字を述べ、先方に業務タスク量が明確にイメージできるよう述べた。また、業務裁量に関しても、具体的に
どこまで自主的に仕事に取り組んでいるのか、先方に理解できるようPRした。
その後、現在の勤務先の取扱商品数と、取扱金額も質問されたので、明確な数字を述べた。
面接した企業と、現在の勤務先のビジネス規模は殆ど同様であるということが判明した。
そして、今後携わる仕事内容について、詳細な説明がなされた。
現在の仕事と先方の業務内容で、決定的に違うポイントをその場で端的に指摘された。
そして、その違いが、先方の業務の肝であるということが面接を通じてお互いに理解できた。
このような理解に至るのは、面接官が非常にロジカルに会話を展開するからだろう。
現在の勤務先で自分が携わっていることを詳細に質問するので、自然とPRに熱が入る。
日本の会社はどちらかといえば、圧迫面接に近い感じがするのだが、外資系企業の多くは、ポジティブに過去の業績をPRしたくなる雰囲気がある。
狙ったわけではないが、業務上最新の注意を払っていることについて、述べた所、何故か「オチ」のあるギャグになってしまい、周囲が笑いに包まれた。
久々に外資系特有の「会話のテンポやノリ」に触れることができた。
今回の求人は、携わっていた正社員が海外移住するとのことで、ポジションが空いた求人だった。しかし、本国のバジェットの都合等の理由で、
正社員のヘッドカウント(頭数)が正式に降りず、申請中との説明を受けた。ただ、打診は行っている最中であるとのことで、私のパフォーマンスと、
本国からのヘッドカウント承認如何では、そのまま直接雇用の可能性があるとのこと。その一方、私のパフォーマンスが悪い、もしくは、
本国のバジェットの都合で雇用は1年契約で見送る可能性もまだ残されているため、その場合、雇用契約は終了する可能性があるという説明も受けた。
要は、首になるというリスクを予め、面接時に開示している。会社の保守的な(悪くいえば都合の良い)防衛策でもあるのだが、
日本企業の期待をほのめかしながら、最終的に公約違反を平気でやってのける卑怯なやり方よりは、随分良心的である。
■業務内容のロジカルな説明について
業務内容の説明時に、一通りメモをしていた。現在の業務に関連する仕事ではあったものの、業務特性は異なることが判明。
私は現在、編集土方として制作物をリリースしているが、外資系での仕事は、編集コーディネーター(執筆者とのリエゾン)
としての要素が非常に強い業務内容だった。
面接官の説明が、非常にロジカルだったせいか、メモの内容を友人に話すだけで、非常に明瞭な業務内容の説明になっていた。
私は人前で何かを説明するのはおろか、吃音なども多少あるので、基本的に会話が苦手である。しゃべることができない。
しかし、メモを読むだけで、誰にでも分かるような業務フローを述べることができた。
それくらい、面接官の説明がロジカルで明瞭だったのだろう。キレのある人達だった。
■業務プロフェッショナルとして
過去の私の経歴をざっと説明していたとき、面接官でトップの人が、法的専門知識に関することをポロッと余談のように言及していた。
その知識は、現在の勤務先の部課長よりも、明らかに深い内容であった。
非常に嬉しかった。
しかし、焦点は編集作業員から、編集コーディネータ要員という毛色の異なる業務に注力できるか、否かということだった。
結論としては、私は編集作業員(土方)としての経験がなかった時から、編集業務を全うできるだろいうという根拠のない自信はあったが、
コーディネーターとして業務を全うする自信はあまりないと判明した。
友人曰く、「コーディネーターとして采配を振るう仕事は、あなたが例えばマネージャー以上の権限のあるポジションだったら、
強く出ることはできるのでやりやすい仕事だと思うが、派遣という立場をあなたが意識してしまうと、調整業務に支障が生じる公算が大きい。
あなたは、力のあるポジションじゃないという理由で被害妄想を抱き、ひるんだり、やる気をなくしたりする弱さがある」と。
友人の指摘の通りである。
悩みに悩んだ末、今回は辞退させていただいた。
たった40〜50分の面接で知り得た断片的な商慣習、そこで働く人、カルチャー。。。
同じ日本人でいながら、黒船に乗った人々は、もはや、日本人の面をした、外国人なのである。
きっと、あの組織ならば、満足度の高い環境で仕事ができるだろう。
しかし、どんなに環境が良くても、不得手な仕事を長く続けられるかといえば、NOなのである。
そう思ったとき、現在の自分の仕事に、かなりの自負があるということに気がついた。
精神病を発症させ、毛嫌いしている日系企業で、社畜として猛烈な我慢と忍耐を強いられながら、
■熱病
できれば、一生おさらばしたい。
もう、こうなると、ただの熱病のような岡惚れといっても差し支えない。
私は熱病にうなされながら、次を目指す。
(増田の使い方をよく理解していないので、何か不備があった場合はすみません)
詳述を控えた部分を述べます。「スピーキング」とは瞬間的に自分の頭の中で文章を構成しなくてはなりません。まず、ここが非英語話者にとって難儀なことです。大学入試で課されるような英作文を、即興的に口から発しなければならないからです。いくら個々の単語の発音やリエゾンがうまかったとしても、発している言葉が文法的に滅茶苦茶であてば、通じません。そういった意味で、「スピーキング」においては、発音より先にこの構成能力が問われているといえます。一方、「スプリクト読み」に関しては、何を言うかがあらかじめ定められています。だから、自分の頭の中で文章を組み立てる必要がないぶん、発音それ自体に注意を払う余裕が生まれます。
これは恐らく上に述べたように、「注意を払う余裕」の無さから生じている事態です。
僕も勉強中の身なのであまり参考になるのかわからないのですが、この状況を打開するには無意識に落とし込むしかないです。
ま、練習するしか無いな、とは思ってるんだけど。
これまでも、練習さえ愚直にけど工夫しながら繰り返せば結果は出たし。
※もっとも、僕がここで申している「スピーキング」というのは、英会話でペラペラ話すというものとは少し異なります。自分はTOEFL学習者であるので、会話の中での英語というよりは、他者を介在させないスピーチとしての意味合いがどうしても強くなってしまいます。実際の、日常会話の場面では、相手が場を読んで察してくれたり、会話のキャッチボールの中で話し合いを深めて言ったりできるので、多少、構成や発音が拙くとも、相手がカバーしてくれる部分があるはずです。