2022-02-25

anond:20220225205755

2.お米が経済を回していた時代江戸時代

現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料税金お金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。

加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。

また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼ領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります自給率の考えに似ているところがありますね。

江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。

一方で、災害異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります

3. 花形輸出品だったお米 ~明治時代前期~

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業貿易促進に力を入れていましたが、生糸お茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。

どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。

輸出先は、主に英国ドイツフランスイタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率100%を超えていたのです。

(図1)明治時代のお米の需給と輸出

(図1)明治時代のお米の需要と輸出

4. 輸出国から輸入国へ ~明治時代後期~

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。

(図2)お米の輸入量の推移

(図2)お米の輸入量の推移

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村米食率が上昇するとともに米食中心だった都市人口が増大したことで、お米の消費量わず20年で約1.5倍に増えたのです。

明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。

5. 輸入に頼らざるを得なかった時代大正時代昭和初期~

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました(*8)。

大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。

また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内食糧不足が深刻になりました(*9)。

6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~

昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島台湾からの輸移入に頼っていた需給構造崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイビルマミャンマー)、米国エジプトからお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

7. お米の消費減少と食料自給率低下 ~昭和後期から現在

増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

生産需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年から生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。

記事への反応 -
  • パン・うどん・粉モン、個人的には一切食わなくても問題ないのだが、 実際戦前は日本人の9割はコメと野菜だけで生きていたのだが、それに戻ればいいだけじゃないの?という気もす...

    • ベストアンサー ppt********さん 2019/5/8 11:52 人間が食べる米の自給率は100%です。 家畜用の餌として、外国から安い米を輸入しています。 日本の気候や土は小麦の栽培に適していませ...

      • 2.お米が経済を回していた時代 ~江戸時代~ 現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料も税金もお金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。 「加賀百...

      • 人間が米を食うのをやめて鶏に食わせればいいんやな。

      • これよくよく考えたらヤベエな。 日本人が食ってる卵の総量の6倍以上を家畜用に輸入してるってこと? そらヴィーガンでなくても「肉食って環境負荷たけぇ・・・」って気づくわ 卵...

        • それを言うと米だって肥料とか農機具の燃料とかの自給率を考えると実際の自給率はかなり低い。

          • これを見るとコメに関しては肥料も100%自給できてるな。 農機具も三大メーカーは輸入用と国内用で製品を分けてるから自給率100%だね。

            • その資料に 我が国は、化学肥料の原料のほとんどを海外に依存。特に、リン鉱石は全量、塩化カリはほぼ全量を 輸入。世界的に資源が偏在しているため、輸入相手国も偏在。 って書...

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