はてなキーワード: 衆生とは
おいお前ら表題の件につきまして、ご覧になりまして?
https://shonenjumpplus.com/episode/17106567256672633938#
・このマンガは鳩っちという陰の者、なれどストイックな求道者がそのストイックさで衆生に影響を与えることがメインのプロット
・たまきn先輩がらみのバンドには銀杏BOYZを取り入れてるが、流石にキラキラカワイイ系のたまきn先輩に銀杏BOYZはエグみが強いだろ、と思ったら、たまきn先輩の人生そのものがエグみが強くて銀杏BOYZを当てることがニンニクしょうが並の、カロリーを臭みで消す二郎レシピになってる
・出内先生の、クワハリ先生が表現したいことへの理解力と、キャラ作画だけではなくモブや背景、物品オブジェクトに至る全てがクワハリストーリーの文脈にドンピシャにハマっている
・そしてこの回で不敵に嗤う鶴先輩(と怪僧厘ちゃんさん)
「ふつうの軽音部」の「ふつう」とは何か、ふつうの高校生衆生が触れるのは、般若心経ならぬどんな「軽音」なのか、はたまた「恵音(Amazing grace)」なのか。
「ふつうの」青春群像劇から、宗教的説話に跳ね上がるターニングポイント回だったと思う。
ところで宗教用語っぽいものを散りばめているが、「スヤスヤ教」ぐらいの娯楽と思ってね。たかがRock'n'Roll(Acid Black Cherry)だもの。
仏教の根本概念である「空性」は、あらゆる現象が固有の実体を持たず、相互依存的に存在することを説く。この空性の世界は、無限の可能性を内包する量子の海のようなものだ。我々の認識する現実は、その海面に一瞬だけ浮かび上がる泡沫に過ぎない。
空性の海は、常に揺らぎ、無数の可能性を生成消滅させている。この絶え間ない生滅の過程は、仏教で説く「諸行無常」の原理そのものだ。観察という行為は、この無常の流れの中から一瞬の「常」を切り取る営みと言える。
仏教の「縁起」の教えは、全ての現象が相互に依存して生じることを説く。観察という行為は、この縁起の原理が顕現する瞬間である。無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程だ。
縁起の網の目の中で、観察者と観察対象は複雑に絡み合っている。観察という行為は、この網の目の一点に触れることで、全体に波紋を広げる。この波紋が、混沌から秩序を生み出し、無定形の可能性を具体的な形へと結晶化させる。
仏教の「無我」の教えは、固定的な自己の存在を否定する。観察者と観察対象は、互いに独立した存在ではなく、深い次元で結びついている。観察という行為自体が現実を創造するのだ。
無我の視点から見れば、観察者は宇宙の一部であり、宇宙もまた観察者の一部だ。この相互浸透的な関係性の中で、観察行為は宇宙が自己を認識する過程とも言える。我々の意識は、無限の可能性の海に投げ込まれた石のように、現実という波紋を生み出す。
仏教の「刹那滅」の思想は、全ての現象が瞬間ごとに生滅を繰り返すという考えだ。我々の意識は、無数の可能性が交差する点に位置し、刹那ごとに新たな現実を選択している。
この刹那滅の過程は、無数の平行世界が絶えず分岐と融合を繰り返す様子とも解釈できる。観察という行為は、これらの無数の世界線の中から一つを顕在化させる。しかし、選ばれなかった可能性は消滅するのではなく、別の次元で実現し続ける。
「如来蔵」の思想は、全ての衆生に仏性が内在することを説く。物質の本質も、固定的なものではなく、むしろ可能性の集合体だ。観察されるまで、物質は明確な形を持たない。
如来蔵は、全ての可能性を内包する根源的な「場」とも解釈できる。観察という行為は、この無限の可能性を秘めた如来蔵から、特定の現実を引き出す過程だ。この過程で、混沌としたエントロピーの高い状態から、秩序立ったエントロピーの低い状態への移行が起こる。
仏教の「般若智」は、現象の本質を直観的に把握する智慧を指す。観察という行為は、この般若智が宇宙の根源と交感する瞬間だ。それは、無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程であり、混沌から秩序を生み出す創造的な営みである。
般若智による観察は、単なる物理的な測定ではない。それは、観察者の意識が宇宙の根源的な創造性に直接参与する霊的な行為だ。この過程で、宇宙の無秩序は一時的に減少し、意味ある秩序が生まれる。
仏教の「中道」の思想は、極端を避け、調和のとれた道を歩むことを説く。観察という行為も、この中道の原理に従っている。それは、完全な無秩序(高エントロピー)と完全な秩序(低エントロピー)の間の均衡点を見出す過程だ。
観察によるエントロピーの減少は、この中道的な均衡への移行と解釈できる。それは、混沌と秩序、可能性と現実性、無と有の間の微妙なバランスを取る営みなのだ。
仏教的視点から見れば、観察という行為は単なる科学的プロセスではない。それは、悟りへの道程そのものだ。観察を通じて、我々は空性の海に触れ、縁起の網の目を認識し、無我の真理を体験する。それは、刹那滅の流れの中で如来蔵の無限の可能性に目覚め、般若智によって宇宙の根源と交感する営みなのだ。
この解釈において、量子観測によるエントロピーの減少は、混沌から秩序への移行、無明から智慧への覚醒を表現している。それは、科学と宗教、物質と精神の二元論を超越し、存在の根源的な一元性を示唆するものだ。
我々の一瞬一瞬の意識的な観察が、宇宙の秩序を生み出し、現実を形作っている。そしてその過程こそが、悟りへの道筋なのかもしれない。観察という行為を通じて、我々は宇宙の創造に直接参与し、同時に自己の本質を悟っていく。それは、科学的探究と霊的覚醒が一つに融合する、深遠な悟りの道なのだ。
無明は単なる知識の欠如ではなく、存在の根本的な誤解を指します。これは阿頼耶識(あらやしき)の深層に潜む根本無明(ごんぽんむみょう)に起因します。
3. 異熟識:業の結果が熟す場
根本無明は異熟識の最深部に位置し、輪廻の原動力となっています。
空性(くうせい)は単なる「無」ではなく、縁起の真理を示す概念です。
1. 有ではない
2. 無ではない
3. 有でも無でもない
4. 有でも無でもないのでもない
これは言語や概念による把握を超えた真理の在り方を指し示しています。
中観思想は「八不中道」を通じて、あらゆる概念的思考の限界を指摘します。
1. 不生(生じない)
2. 不滅(滅しない)
3. 不常(常住ではない)
4. 不断(断滅ではない)
5. 不一(一ではない)
6. 不異(異なるのではない)
7. 不来(来ないし)
8. 不去(去らない)
これらの否定は、究極的な真理が言語や論理では捉えられないことを示しています。
如来蔵思想は、全ての衆生に仏性があるとする考えですが、これは単純な本質主義ではありません。
これらの三性が不可分に絡み合い、我々の存在の本質を形成しています。
これらの四句は、究極的な真理が二元論的思考を超越していることを示しています。
これらの曼荼羅は、智慧と慈悲の不可分な関係を表現し、究極的な悟りの状態を象徴しています。
愚かさは、これらの深遠な真理を理解できないことから生じます。しかし、同時にこれらの真理は、概念的理解を超えたものです。
真の智慧は、言語や論理を超えた直接的な体験を通じてのみ得られます。それは単なる知識の蓄積ではなく、存在そのものの根本的な変容を意味します。
この観点から見れば、愚かさとは単なる無知ではなく、我々の存在の根源的な在り方に関わる問題なのです。それを超越することは、仏教の究極的な目標である悟りそのものに他なりません。
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦悩 故不為現身 令其生渇仰
我此土安隠 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 恵光照無量
得入無上恵 速成就仏身
長男5歳が珍しく早く寝たと思ったら、次男3歳が寝ない。寝かしつけようと頑張るも、遊びをやめない次男についに妻がキレて、大泣きからの、うるさいと更にキレる。怒りすぎて喉が痛いだの手が痛いだの、怒りの永久機関爆誕。
妻がギャンギャン怒ると次男がギャンギャンして、妻がギャンギャン。
仏様も憐れむ衆生の愚かさよ。
怒り疲れて妻がダウンして、仕方なく次男を背負い、寝るまでエンドレスおんぶで家の中をずっと徘徊。
次男がやっと寝て25時。
叩き起こされ付き合わされる悲劇。
そして朝、妻は遊びに出掛けた(この予定があったので余計に気が立ってた)。
たぶん、帰ったら仕事が間に合わないとまたキレるのだろう。
おもちゃ屋と鉄道模型専門店まではガツガツ歩くも、目的のおもちゃゲットの後は一歩も歩かず、ずっと抱っこ。
疲れた。
しばらく前、
「ほとんど全く稼いでないんだから、専業主婦しろよ。家が汚いとキレる回数も減るだろ」
と言ってしまい、
「こんな発達障害児たちは幼稚園は無理。家でなんてもっと無理。殺してしまう。誰が保育園や療育の送り迎えしているのか」
と妻も引かなかった。
今でも、妻が専業主婦をしてくれてずっとみてくれたらと思う。
でも、どうしても吐き出したくてもう一度載せる。何通か書いたものをまとめて載せる。追記の項に書いたけど、吐き出したいだけで、それ以上の意味はない。
思うままに書いたエントリを縦につなげただけなので、論理構成は無茶苦茶。
長男が発達障害だ。療育手帳は上から3番目の等級。これは、身体障害で言うと指の欠損とか嚥下障害とかと同じくらいの重さ。ただ、どこがどうと言うと、説明が難しい。
多動でもなければ注意欠陥でもない。ステレオタイプな目を合わせないような自閉症ではない。むしろかなり人懐こい。
知恵も遅れてなさそうだし、人と目を合わせられないとかでもない。
説明しやすい違いというと、喋らないことだけだ。5歳が近づいてなお、意味のある単語は喋らない。イーッ!アーッ!ばかりだ。手帳はほとんどそれで貰えたに近い。しかし、言葉を喋らないことは、育てにくさの一端でしかなく、本質じゃない。
彼の場合、ただただ、コミュニケーションに対する考え方が、行動が定型児とは違うのだ。無敵の人なのだ。
みな「うちの子もそうよ」みたいな話をする。そりゃ、どの子だって、自分の世界に入って周りの音が聞こえないことってあるだろうさ。我を通したいがためにスーパーで寝転がって駄々をこねるということもあるだろうさ。でも、頻度と質が違うんだ。
彼は楽しさを共有しようとする意思がある。テレビをみて、今のみたか?というふうに視線を送ってくる。無視していると、髪を掴んで強制的に鑑賞させられる。
その一方で、他者からの働きかけには興味がない。まず名前を読んでも反応がない。問いかけに対する反応もない。聞こえてないわけでも理解してないわけでもない。なぜなら、自分の利害と一致するような言葉はちゃんと拾うのだ。「買ってあげるから(スーパーの)カゴに入れて」とか、「児童館行くからおいで」という言葉にはちゃんと反応する。
そんななので、口頭試問という手段が使えないので、知能を測ることは難しいんだけど、親バカだがむしろ賢い。ひらがな、カタカナ、アルファベットは2歳くらいから読めてる様子。3歳になるとPCのキーボードでタイピングするようになった。数字は100くらいまで理解し、足し算のような演算記号も理解してる様子。機械の仕組み、道順、人の顔もすぐ覚える。
知能が測れないというのは地味に厄介だ。
何ができて、何ができない、何を知ってて、何を知らないのかが親にわからない。
ある日突然できている。いきなり意味のある文章をタイピングしたり、いきなりそれとわかる絵を描いたり、いきなり1人で着替えてる(もう一度してと言ってもしてくれないし、再現されることはまずない。いまだに手で食べ、オムツで、着替えは人任せだ)。
しかし、嬉しい驚きばかりじゃない。むしろ、それが一番困るところだ。
1歳で1人で外に出た。3歳くらいのとき1人でスーパーから消え近くの踏切にでた。やはり3歳で包丁で野菜を切ってたこともある。
目を離した親が悪いというけれど、本当に、「ある日突然なにかができてる」なのだ。
そして、これが特徴だけど、どんなに怒鳴っても、ほとんど響かない。嫌われることへの恐怖心というものが皆無だ。すごい剣幕に、近くにいた次男はギャン泣きなのだが、当の長男はというと、なんか耳元でうるさいなくらいの顔しかしない。
拳や足による制裁が加わっても、なにか面白いものを見つけると、次の瞬間に天使の笑顔である。憎しみや怒りに対して笑顔をぶつけられるチートスキル。明らかに不機嫌がおさまらず噴火寸前触るな危険な妻にも、キャッキャ寄っていく。価値判断が自分が楽しいかどうか、自分がしたいかどうかだけで、他者評価を一切気にしない。つまり、無敵の人なのだ。
袋詰めの一瞬の隙をついて、消えた。まさかの店外に出ていて、近所の踏切で確保された。何人かの大人に囲まれ詰問されていたが、喋れない。警官が駆けつけたところで、パニックになった妻が到着。地獄絵図だったそうな。
本人的には「俺は一回くれば道くらい覚えてるからさ、1人で踏切にくらい行けるし、車道や踏切の中で止まるほどバカじゃないよ」
って喋れたらそう言ってるだろう。
自分は、彼のことを95%くらい信じてる。口頭試問できないが、かなり賢い。たぶん信号を理解してるし、車道や踏切というものをたぶん理解してる。でも5%くらいは信頼できない。5%、つまり20回に1回はなにかある、そのくらいの信頼度だ。そういう意味でも、親は子供の「はじめて」の側にいたい。何度かの練習で失敗を繰り返し、99.99%成功、万が一くらいの危険度になってようやく1人でやらせたい。だが、彼の初めては、常に突然だ。気がついたらなにかしてる。無敵の人だからだ。幸いに事故はないのだけど、大人がすり減る。
こだわりの強さの話をしよう。
こだわりとわがままは違う。
我が家の場合、定型っぽい次男のイヤイヤ期のほうがよっぽど理不尽だった。
例えば、次男が牛乳のお代わりを要求するのに対し断ったとする。イヤイヤ泣く。渋々お代わりを与えても、「欲しかったのはさっきの瞬間で、今じゃない!あの時の俺の気持ちをどうしてくれる!」みたいな泣きがはじまる。
発達っ子の長男は、こだわりは絶対に譲らない。どんなに拒否されても、コンコンと要求を取り下げない。激しく叫んだり暴れたりしても、パニックではなく、伝えるためにそうしてるだけだ。30分でも1時間でもやめない。ちゃんと要求さえ通れば、それきりだ。要求を飲んでくれたことへの感謝もなければ、要求をしぶられたことへの恨みもない。
他のことに気を逸らすことが非常に困難で、まず無理だ。いわゆる子供騙しが通用しない。
本当に、無敵なのだ。
この子の母、自分の妻は、長男と180度違う。妻の性格はちびまる子ちゃんみたいと言えばいいだろうか。おだてられたら調子に乗り、怒られたら凹む。他人の成功を妬んだり、目の前の餌に釣られたり、ふと冷静になって後悔したり、劣等感にさいなまれたり、仏様に憐れまれそうな典型である。
妻は憐れな衆生の1人、お気持ちファーストなので、妻が長男を叱る時、響かないのはストレスらしい。凹ませるのが目的じゃないって正論を言っても、理性ではわかっても行動をアップデートできない。反省の色が云々は裁判官でも言っちゃうので、怒られてすぐヘラヘラされて正気でいるのは、解脱が遠そうな性格の妻には無理のようだ。
妻と衝突した時、次男は判断が気持ちできまる。こんな気持ちにさせられたという自分の気持ちがファースト、相手が怒ってるどうしようという相手の気持ちがセカンド、それを天秤にかける感じ。多くの場合、なぜ怒られたかすら理解してない。
対して、長男は、「かくあるべし!」っという戒律じみた強い信念と、好奇心が行動規範。話が聞こえてないわけではない。そもそも悪いと思ってないとこはなにを言われても取り合わないが、失敗(はしゃいで走って牛乳をこぼしたとか)を咎められると、バツが悪そうな顔をする。言葉は通じてるのだ(自分でタオルを持ってきて拭きはじめるが、拭き終える前に別のことを始めるのだが)。
どっちかっていえば、長男が人類のあるべき姿で、定型の定型たらしめる妻と次男の人間臭さこそ、現世の生きづらさな気がするのだ。長男はこだわりや好奇心の邪魔をされなければ、妻や次男に八つ当たりや理不尽な攻撃をされてさえ、「やれやれだぜ」くらいの顔しかしない。
でも、悟るのは成人してからにしてもらわないと困る。お釈迦さまだって結婚や育児が一段落してから出家したように、まずは社会通念に従ってくれないと、この世で生きられない。
社会のルールとか、貨幣制度というのは、幻想を共有することだ。長男はその能力が著しく低い。「僕が鬼で君が隠れる。見つかったら負け」こういうのはたぶん長男は理解しない。というか理解する必要性を感じない。鬼とか負けというのは、幻想だから。
理解するとしても、アルゴリズム体操のように、そういうアルゴリズムとして理解して、前後の文脈や場の空気からの理解じゃない。
長男はよく星のカービィ(WiiUのバーチャルコンソール)をしてるのだけど、ライフがゼロになるとか穴に落ちたら残機が減るというのは理解する。なぜなら、幻想じゃなく仕様だから。ゲーム機の充電、ゲームを起動、多彩なアクション、テレビゲームのルールこういうのは得意。
社会のルールは理解しないくせに、長男独自の数多のマイルールに縛られてる。多くの人がキッチンスポンジのほうが便器より汚いといわれても便器を舐められないように、長男としては譲れないポイントがそこらじゅうにある。親は全てに付き合わされる。例えば、妻がどんなに怒り心頭してても、次男が頭から流血してても、散歩のルーチンは譲らない。
それに加えて、子供の好奇心と目覚めた知能をフル活用した想定外の行動を起こす。無敵の人だから叱ることが抑止力にならない。
よく発達障害について、こだわりが強いとか、注意散漫とか、他人の気持ちを理解するのが下手とか、そういう説明がある。
言葉としてはあってるけど、ちょっとズレてる。そんなもんじゃなくて、生物として、もっと基本的なところでなにか違う。
天才も多いと言われるけど、たぶんそれも違う。認知や学習の方法が全く違うから、定型の知能と長男の知能の優劣はつけられない。
たぶん、長男は学業優秀に育てば、国語のテストで満点を取れるようになったりはするだろう。でもそれは文章は理解できるというだけだ。心がわからないというのではない。小説や映画に感動できるようになっても、この子が物語から感じる感動の質は、定型の人のそれとはおそらく違うと思う。寄生獣という漫画で、犬を看取った直後に、その犬をゴミ箱に捨てるシーンがある。ヒロインが「あなた普通じゃないわ」と言うが、主人公は「死んだら肉だ」と噛み合わない。この子は将来、そういう違和感を周囲に与え続ける。
どこまでいっても彼は異星人だが、寄生獣のミギーのように愛される存在になってもらいたいと親としては思ってる。
定型児は、音声の模倣から入る。最初は原始的なオウム返しだけ。そこから、過去の経験、前後の文脈から、それらしい語をつないで出力するようになる。
GPTのモデルと同じ。次にくる語を確率的に予測してつなぐだけ。「吾輩は」の後には「猫である」がくる。そこに理由などなく、確率論、経験則で。でも、それを高度に行えるようになると、知能と呼べるような振る舞いになる。
定型児の知能の獲得はコレに似てると思う。
ヒトは噂話をするために言語をさせたという説がバカバカしいが一番有力らしい。
サルの毛繕いのような、コミュニケーションをとりたがる本能があって、その延長に噂話、言葉と言葉をつなぐことによって、知能と呼べるようなものが生まれたと考えると、なるほどと思う。
定型児は、自分の言葉や行動が、前後の文脈や周囲の空気の中にから紡がれ、その言葉や行動が他人にも自分自身にも影響することを意識する。
知恵がつくから意識するのかと思ったが、GPTの仕組みを聞くと、意識することそのものが知恵の本質のように思う。
少し別の話。
長男の前で、ぬいぐるみを手に持ってぬいぐるみが喋ってるふうにして喋ると、怒る。
定型児にはごっこ遊びでも、彼にとっては「嘘」なのだ。やめろ気持ち悪いと感じてる様子。
ホモサピエンス全史がいうところの、「妄想を信じる力」が抽象的な概念の獲得なら、長男の知能は頭打ちしそうなんだけど、むしろ数字や文字は幼い時から好きだった。
どういうふうに育つのか、親としても興味はある。
ここ2週間くらいで、ようやく強く呼べば名前に振り向くようになった。
今までは、用があるときは長男から働きかけてくるが、こちらが何を言っても無視だったものが、進歩だ。
遊びに行った先でもう帰るよって言っても、抑えつけて車に放り込んで車が動き出すまで聞かなかったものが、すんなり諦めるようになった。
彼なりに、成長してる。
この駄文は、発達障害育児エントリに触発され沸き上がった心の叫びでしかないので、何が言いたいかわからんという感想はごもっとも。
目を離さない以外できることがない。
あと、言わせて欲しい。
座って待ってられるようになって食べられる食材が増えたら子連れで外食に行けるようになりたい。
列に並んで待てるようになったらテーマパークに行きたい。