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はてなキーワード: 衆生とは

2021-07-21

勤行

爾時世尊從三昧安詳而起。告舍利弗。諸佛智慧甚深無量。其智慧門難解難入。一切聲聞辟支佛所不能知。所以者何。佛曾親近百千萬億無數諸佛。盡行諸佛無量道法。勇猛精進名稱普聞。成就甚深未曾有法。隨宜所説意趣難解。舍利弗。吾從成佛已來。種種因縁。種種譬喩。廣演言教。無數方便引導衆生。令離諸著。所以者何。如來方便知見波羅蜜。皆已具足。舍利弗。如來知見廣大深遠。無量無礙力無所畏。禪定解脱三昧。深入無際。成就一切未曾有法。舍利弗。如來能種種分別巧説諸法。言辭柔軟悦可衆心。舍利弗。取要言之。無量無邊未曾有法。佛悉成就。止舍利弗。不須復説。所以者何。佛所成就第一希有難解之法。唯佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

自我得佛來 所經諸劫數    

    無量百千萬 億載阿僧祇    

    常説法教化 無數億衆生    

    令入於佛道 爾來無量劫    

    爲度衆生故 方便涅槃    

    而實不滅度 常住此説法    

    我常住於此 以諸神通力    

    令顛倒衆生 雖近而不見    

    衆見我滅度 廣供養舍利    

    咸皆懷戀慕 而生渇仰心    

    衆生既信伏 質直意柔軟    

    一心欲見佛 不自惜身命    

    時我及衆僧 倶出靈鷲山    

    我時語衆生 常在此不滅    

    以方便力故 現有滅不滅    

    餘國有衆生 恭敬信樂者    

    我復於彼中 爲説無上法    

    汝等不聞此 但謂我滅度    

    我見諸衆生 沒在於苦惱    

    故不爲現身 令其生渇仰    

    因其心戀慕 乃出爲説法    

    神通力如是 於阿僧祇劫    

    常在靈鷲山 及餘諸住處    

    衆生見劫盡 大火所燒時    

    我此土安隱 天人常充滿    

    園林諸堂閣 種種寶莊嚴    

    寶樹多花菓 衆生所遊樂    

    諸天撃天鼓 常作衆伎樂    

    雨曼陀羅花 散佛及大衆    

    我淨土不毀 而衆見燒盡    

    憂怖諸苦惱 如是悉充滿    

    是諸罪衆生 以惡業因縁    

    過阿僧祇劫 不聞三寶名    

    諸有修功徳 柔和質直者    

    則皆見我身 在此而説法    

    或時爲此衆 説佛壽無量    

    久乃見佛者 爲説佛難値    

    我智力如是 慧光照無量    

    壽命無數劫 久修業所得    

    汝等有智者 勿於此生疑    

    當斷令永盡 佛語實不虚    

    如醫善方便 爲治狂子故    

    實在而言死 無能虚妄    

    我亦爲世父 救諸苦患者    

    爲凡夫顛倒 實在而言滅    

    以常見我故 而生憍恣心    

    放逸著五欲 墮於惡道中    

    我常知衆生 行道不行道    

    隨應所可度 爲説種種法    

    毎自作是念 以何令衆生    

    得入無上道 速成就佛身

2021-07-03

anond:20210703212610

『縁なき衆生は度し難し』て、知ってっか?

2021-04-04

anond:20210404091748

芥川龍之介リベラル思想をよく理解していた。

まさにそれは『蜘蛛の糸』の筋書きとなる。

釈迦となったリベラルがせっかく糸を垂らしてやったのに、弱者男性は他の弱者を蹴散らし始める。

その浅ましい言動を目の当たりにしたリベラルは糸を切るしかなくなる。

バラモン左翼などではない、大乗仏教として衆生を救うつもりだったリベラルからも見限られるのが弱者男性

弱者男性は『羅生門』のように自業自得自力救済世界で生きよ。

苦痛に満ちた生が嫌なら『河童』のように胎児の段階で出生を拒め。

2021-04-01

anond:20210401071329

苦に満ちた現世にいきる、衆生の救済のための宗教だな。

2021-01-17

阪神淡路大震災忌の夜に。

  世尊妙相具 我今重問彼

  佛子何因縁 名爲觀世音

  具足妙相尊 偈答無盡意

  汝聽觀音行 善應諸方所

  弘誓深如海 歴劫不思議

  侍多千億佛 發大清淨願

  我爲汝略説 聞名及見身

  心念不空過 能滅諸有苦

  假使興害意 推落大火坑

  念彼觀音力 火坑變成池

  或漂流巨海 龍魚諸鬼難

  念彼觀音力 波浪不能

  或在須彌峯 爲人所推墮

  念彼觀音力 如日虚空住

  或被惡人逐 墮落金剛山

  念彼觀音力 不能損一毛

  或値怨賊繞 各執刀加害

  念彼觀音力 咸即起慈心

  或遭王難苦 臨刑欲壽終

  念彼觀音力 刀尋叚叚壞

  或囚禁枷鎖 手足被杻械

  念彼觀音力 釋然得解脱

  呪詛諸毒藥 所欲害身者

  念彼觀音力 還著於本人

  或遇惡羅刹 毒龍諸鬼等

  念彼觀音力 時悉不敢害

  若惡獸圍遶 利牙爪可怖

  念彼觀音力 疾走無邊方

  蚖蛇及蝮蠍 氣毒煙火

  念彼觀音力 尋聲自迴去

  雲雷鼓掣電 降雹澍大雨

  念彼觀音力 應時得消散

  衆生被困厄 無量苦逼身

  觀音妙智力 能救世間苦

  具足神通力 廣修智方便

  十方諸國土 無刹不現身

  種種諸惡趣 地獄鬼畜

  生老病死苦 以漸悉令滅

  眞觀清淨觀 廣大智慧

  悲觀及慈觀 常願常瞻仰

  無垢清淨光 慧日破諸闇

  能伏災風火 普明照世間

  悲體戒雷震 慈意妙大雲

  澍甘露法雨 滅除煩惱焔

  諍訟經官處 怖畏軍陣中

  念彼觀音力 衆怨悉退散

  妙音觀世音 梵音海潮音

  勝彼世間音 是故須常念

  念念勿生疑 觀世音淨聖

  於苦惱死厄 能爲作依怙

  具一切功徳 慈眼視衆生

  福聚海無量 是故應頂禮

2021-01-16

anond:20210116090047

真宗宗派の私増田です。

真宗宗派は「門徒」で合っております。よくご存じでと申しましょうか、よくお寺での説法を聞いていただいているようで、謹んで敬意を表します。

から増田さんからのお返事も拝読して、私も少し分かってきたことがあります

「縁なき衆生は度し難し」と切り捨ててしまうんだ!

僧侶増田さんに違和感を感じたり反発したりされている方は、この言葉が非常に不快に刺さっているのだろうと思います

私の受け取り方(そのおそらくは、真宗宗派の考え方を下地にした受け取り方)は、「切り捨ててしまう」ほど強権的な物言いではなく、しいて言い換えるなら「去る者は追わず、来る者は拒まず」というような意味合いです。

元増田の話でいえば、反発されるご親戚の方々を元増田いくら説得しようとも、ご親戚の方々が聞く耳をもとうとされないのであれば、元増田もまたそのご親戚の方々の態度・考えを尊重されて、無理矢理にでも納得させるようなことはおやめなさい。無理に引き込んだり、引き込まれたりしても、お互いにわだかまりが残ってしまってはよくありません。・・・僧侶増田の説かれたいところは、そんな説法だと私は受け取っておりました。が、しかにそれに続く説法の中で、ご親戚の方々に強く当たるような表現もまたあり、そこまで言わなくともという感想は私増田理解するところです。

宗教宗派・背景によらず、みんなが分かる考え方・言葉遣いが求められるのでしょうけれども、私増田はどうしても個々人の背景の上に成り立った考え方・受け取り方からは逃れられないとも考えています

同じ言葉でも受け取り方が、宗派宗教が違ったり、仏教用語として理解されるか現代日本語として捉えるかによっても変わってきます真宗宗派でよく話題にされるのは「他力本願」という言葉です。Wikipediaにもある通り、真宗宗派のことば(Wikipediaの前者)として理解されるか、現代日本語(Wikipedia後者)として捉えられるかによって大きく意味が変わってきます

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98

・・・などと長々と書いておりますが、私増田真宗宗派のお寺にお墓があるだけのごく普通の家に生まれた者です。少しだけ、お寺さんでの勉強会に通っていた時期はありますが、正信偈も冒頭が読めるかどうかの程度です。寺の生まれでも、檀家でも、熱心な門徒でもありません。

お近くのお寺で、よいご縁の中で、仏法出会えるとよいですね。もしくは、ある程度大きなお寺であれば、月1回とか週1回のペースの勉強会を行っているところもあります。なんでもなしにお寺に行くことが難しいのでしたら、そうした勉強会きっかけに仏法に触れられて、またご同朋やお寺の方とお話するご縁が見つかればと思います。お寺による・檀家によると言ってしまえばそれまでですが、真宗宗派のお寺の多くは、ご縁のある方は暖かく迎え、ご縁のつながらなかった方にもまた暖かく送られる姿勢です。

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

2021-01-14

anond:20210114225222

あいつらは縁なき衆生ですから、って、それ宗教家が言う言葉かね?

ブッダ若造がエラそうに講釈たれよるわ」

anond:20210114171220

坊さんがご親族を悪しざまに罵るのはどうなんだろうね。あいつらは縁なき衆生ですから、って、それ宗教家が言う言葉かね?

リモート葬儀仏教台無しになりません」と僧侶立場から名言することには意味があるかもしれないが、そもそも元増田僧侶の説法なぞ必要としていない。当人の後悔や懸念は「親戚から非難された」「母親が落ち込んでいる」点がメインであって、故人の冥福仏教神聖性云々については特に心配していない。であれば親戚関係母親についてはもはや坊主の出る幕ではないので、ブコメに書いてる人もいるが、対話関係修復を図るしかないと思う。

で、それはそれとして、坊さんが「みんななかよく」みたいな話しかできないのはどうなんだろうね。下記とか。

仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまます。遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。

そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。

まずあなたがお祖父様の何を知ってるんだって話だし、こんな通り一遍の話しかできないならそもそも怒りを表明するべきではないんじゃないですかね。俺は友達いないか自分葬式についてはわからんけど、「旅立ちに際し大勢に見送ってほしい」という気持ち理解できるし、もし仮に俺が葬儀される側で、事前に「遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、何が何でも葬儀式を執り行って欲しいですか?」って聞かれたとしたら、「密を避け、換気を徹底し、感染リスクに注意して開催していただきたい」って答えたと思うよ。政治家みたいな言いぐさだけど、でもまあそうでしょ。そうした身勝手で不合理な欲望なり怒りなり悲しみなりに寄り添うのが、アウトサイダーたる僧侶しか果たせない役割なんじゃないんですかね。

東日本大震災の時に中島義道っていう人が新聞に書いてた話だけど、美談が覆う真実もあると。ちょっと引用すると:

被災した小学校から、泥だらけのランドセルが回収されたという出来事美談として報道されましたが、学校が大嫌いな子も級友からいじめに遭っている子もいるはず。それなのに、すべての子学校勉強友達が大好きだという「神話」が真実を覆ってしまます

目下メディアをにぎわしているのは "心温まる家族間の話" であり、そこに登場してくるのは、原発作業員と妻、妻を失った被災者の夫、祖母と声を掛け合って助かった孫など法的に認められた家族だけです。不倫相手を失った愛人とか、同性愛恋人を亡くした人などはまったく抹殺され、天涯孤独な人も、家族を激しく憎んでいる人も切り捨てられた「健全な」家族美談だけです。

もちろん、ほとんどの人は「健全な」社会を望んでいるし、メディアもそれに配慮して取材対象を選んでいるのでしょうが、それが「多数派」あるいは「普通派」の暴力であることを自覚してほしい。日本言論自由な国とされていますが、この点ではまったく違うのです。

(中略)

震災後、さまざまなイベント行事自粛され、それは他人にも同様の自粛を求める「他粛」の風潮になっていますが、みなそれを無自覚に受け入れて、互いに自粛し合い「いい人」しか出てこないいまのような言論状況が、私には不気味な感じさえします。

仮にお祖父さんやご親族が従来通りの、親戚が一堂に会する形の盛大な葬式を望んでいたとして、それは現在社会情勢からすれば批難されるべき欲望であるんだろうが、その欲望を「故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず」「ろくに理解もできていない宗教の『神聖さ』とやらを根拠に」「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」などと口を極めて悪罵しながら、増田に対しては「明日からまたあなたを続けてゆきましょう」「それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはず」程度の当たり障りのないことしか言えない、これは中島義道が言うところの「多数派暴力」というやつではないんですかね? いやいいんですよ、多数派は多数だから多数派なんであって、ほとんどの人は健全社会を望んでいます。大変結構。でもその多数派の代弁って坊さんがやる意味ありますかね?

anond:20210114104835

浄土真宗僧侶です。初めて書き込みます

不慣れなため、先ほど書いた文章がすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事ことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。

祖父様のことをお悔やみ申し上げるとともに、今回このような形で、増田さんやお母様が悲しまれる結果になってしまたこと、痛惜に堪えません。

結論から言わせていただくと、リモート葬儀それ自体に否はありません。そんなもの台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。

から言わせれば、死者を軽んじ、葬儀台無しにしているのは、ご親族の方だと思います

葬儀とは「弔(とむら)い」であります。弔いとは元来、「訪(とぶら)い」という字を用いました。これは遠近様々な場所から死者の元へと人々が訪れる様子を意味していますが、決してそれだけではありません。

死者に出会うということは、まだ生きている自分自身出会うということです。やがては我が身も命尽きてゆく存在である、ということは誰しも頭では理解していますが、近しく親しい者の死を前にでもしなければ、そうした厳然たる事実さえも忘却してしまうのが私たち人間本質です。

そんな私たちが死者の元に集い、故人の人生意味、人の生き死にの重さや儚さ、そしていつかは同じように必ず死んでゆく私たちの進むべき道や生き方について、死者の姿に「問い」・「訪ねる」こと。

これが本来葬儀のあるべき形であります

仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまます。遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。

そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。

親族の方々は、ろくに理解もできていない宗教の「神聖さ」とやらを根拠に、「普通の」葬儀が営めなかった戸惑いや苛立ちを、増田さんにぶつけたのでしょう。

このような時勢の中、増田さんやご両親が取った苦渋の選択理解を示したりねぎらうどころか、自分たちの思い通りにならないことに腹を立て、挙げ句の果てには職業理由非難眼差しさえ向ける。お祖父様の生きた証でもある子や孫に対して、いまだ生き残った者たちのする仕打ちがこれです。故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず、自らの愚かさや罪を顧みない姿を、わざわざ露呈しているようなものです。

従来の葬儀式や、死者の元に人が集うことにも、もちろん大切な意味がありますしかし、いちばん大切なことは、遺族知友が故人の死を「無駄にしないこと」です。

人は死を前にして生と出会ます普段は照れ臭さ・煩わしさ・遠慮・怒りや嫌悪で、身近な人にはなかなか真正から向き合えないのが私たち人間です。しかし、いつかは私も周りの人も、故人と同じように冷たくなり骨となってゆく。そのことを思えば、自分自身の今までの他者に対する接し方や身の振り方にも、自然と目が向けられます。そうして自分の姿を見つめ直し、振る舞いを思い直し、そのきっかけを与えてくれた故人とはたらきとに手を合わせ、まだ生かされた者同士が手を取り合って明日からを歩んでゆく……それこそが仏の道であります

ですから、本当に故人の死や一生を受け止めようとする心に、現地もリモート関係ありません。むしろ、「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」の方が、よほど問題です。

これではお祖父様が報われません。自分が命尽きたその後で、遺族が葬儀の形どうこうで争いを起こすのならば、お祖父様は一体、何のために生まれて、生きて、死んでいったのでしょうか。

死後の遺族の姿勢次第で故人とそのご生涯の意味が決まる訳ではないとしても、あまりに嘆かわしいことです。

釈迦さまはかつて、「縁なき衆生は度し難し」という言葉を残されました。どれだけの言葉や思いを尽くしても、死ぬまで気付けない・分かり合えない人間というのは、古今東西必ずいるものです。そういう人たちはお釈迦さまにもどうすることもできない存在でした。何故なら彼らは自分から目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざしているからです。そうであれば、まずは他者よりも、「わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません。

増田さんにおかれては、お母様を悲しませてしまったつらさ、ご自分配慮が望まぬ結果をもたらしたつらさにうなだれていることと拝察致します。

しかし、だからこそ、お祖父様のことを今一度思ってください。お祖父様がいなければ、お母様も増田さんもこの世に生を受けることはありませんでした。授かったその命を、どうすれば願いと喜びの中で全うして終えてゆけるか、見つめ直す時間を受け取ってください。人がひとり死んでも、傲岸不遜に振る舞ってしまえる人間の恐ろしさを学んでください。分かり合えない人間から植え付けられる理不尽の怒りや悲しさを、自分自身が他の誰かに繰り返さないよう身口意(しんくい:身と口と心の振る舞い方)を正してください。切られる縁もあれば、そこから始まる縁もあることを信じてください。

それらを増田さん自身がもしも「ああ、そうだな」とうなずけたなら、あなたこそ仏の道をまっすぐに歩んでゆける方です。


つらい気持ちリングコンにぶつけて、涙も汗も流したら、美味しいものを食べて、温かい風呂に浸かって、よく眠り、あなたのお命を大切に、明日からまたあなたを続けてゆきましょう。口にはしなかったかも知れませんが、それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはずです。

こうしてはてなという場に一石を投じてくださった増田さんに、心から敬意を表します。私たち仏に仕える者たちも、此度のことをよくよく考えねばならないと衣服を整える思いです。

増田さんとご家族が、安穏なれと願って。

合掌

(ご親族に対して少し冷たい言葉を選びすぎたかも知れませんが、彼らもまた、そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁を受けて生きてきたのだということを私自身うなずき直すとともに、増田さんにもそのことを、どうか頭の片隅に留めていただければと思います。お祖父から受け継いだ命を、分かり合えない人との不和を嘆いたり、他者を憎んだり呪ったりすることに使うのではなく、あなた自身の本当のプログラム人生に打ち込むことに使ってください)





(続・浄土真宗僧侶です)↓

https://anond.hatelabo.jp/20210116102323

2021-01-09

anond:20210109235739

縁なき衆生は度し難し、て知ってっか?

2020-12-26

anond:20201226232007

しらんけど、じゃあないか

あれは実は知らんけどではなく、紫蘭化導であり、紫蘭流の呪術によって衆生教化して善に導く呪文であることを示すマークなのだ

しらんけど。

2020-11-26

生命作用を使う皆様へ

先に言っておきます怪文書です(笑)

今、スピリチュアルブームが来てます

瞑想などは世界的なムーブメントになっています

その中で、私達はサイクルの回し方を痛み取りしか知らないのでしょうか?

そんな筈はないですよね?って煽っても、きっとそればかりを教わってきたのでその事だけを一心に続けてきた事でしょう。

ご苦労さまです。

今、私達がしなければいけない事、それはより多くの証明の行、覚生の行の方法確立することです。

誰に対して?はっきり言っておきます

己です。自身生命に火を灯す行いです。

まずは世間に目を向けてみましょう。いつも読まなかった雑誌雑学、そこからまれるこんな事してみたら?と思える智慧の数々。まずは自身生命に聞きながら、学びながら。

そして、スピリチュアル関連の書籍にも触れてみて下さい。

あなたの中の生命がこんな使い方もしたい、あんな使い方もしたいって、騒ぎ出しまから。五月蝿いですから(笑)

涙を流すのはもうやめましょう。

流すなら笑い涙にしましょう。

悔やまないでいいですよ。

から楽しいまりを心待ちにしましょう。

見失ってる人もいるでしょう。

いつでもどこでも何度でも生命は呼びかけてますよ。

ほら。あなたの中でね。

待ってますよ。

あなた笑顔の日々を。

ここは気持ち良い世界

言い訳などいりません。

楽しんでくださいよ。

生命笑顔で迎えてくれますよ。

それでは。

願以此功徳 普及於一切 

我等與衆生 皆倶成仏

2020-10-22

悟りがなんちゃらかんちゃら

 僕の好きな仏教系の挿話に「火事燃えてる家と赤児の話」というのがあって

 どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。

 でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である

 さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍手段であるんだけど――次のようなものだ。

火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だからくそ場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」

 と赤児に向かって叫ぶというものである

 当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。

 また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである

 さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくま仏教的な挿話の範疇示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。

 では、もう一方の手段とは何か。


 それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である

 上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さら重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊火事危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。

 時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃ音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔なのだというのが、この挿話の結論であった。


 賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ

(あるいはこれは、悟り涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)

 いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生危険認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合おもちゃ笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい

2020-10-17

anond:20201017033949

仏教徒衆生を赤子扱いしているという胸糞の悪い話

悟りがなんちゃらかんちゃら

 僕の好きな仏教系の挿話に「火事燃えてる家と赤児の話」というのがあって

 どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。

 でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である

 さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍手段であるんだけど――次のようなものだ。

火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だからくそ場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」

 と赤児に向かって叫ぶというものである

 当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。

 また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである

 さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくま仏教的な挿話の範疇示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。

 では、もう一方の手段とは何か。


 それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である

 上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さら重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊火事危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。

 時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃ音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔なのだというのが、この挿話の結論であった。


 賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ

 いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生危険認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合おもちゃ笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい

2020-10-07

anond:20201006230503

人生のあらゆる問題対処して、あらゆる人に苦痛なき人生をもたらさねばならない。

……みたいなこと考えるの、文系リベラルの陥りがちな間違いだと思うんだよな。

一切衆生を救うのは、仏様のすることで、人間思想家所業じゃないんだよ。

 

所詮科学者一種である文系思想家は、まずは社会において人生に苦しんでいる個人存在することは許容範囲であることを認めねばならないよ。

別に救われないやつが居てもいいよ。鬱屈したやつがいてもいいよ。そいつ人生そいつ自身が救うんだよ。

それについてどうこうできると考えるのはおこがましい。

 

もっと即物的に考えるべきなんだよ。例えば、モテないってことは老後の世話を見る子供が居ないことだから老人ホーム建設が今までより一層必要ですねだとか。

2020-09-26

生生生(きじょうい)

生(き)ビール

衆生(じょう)

生(い)きる

2020-07-17

anond:20200717095802

いかね? オタク性別はない。

キャラクター偶像といったものへ不滅の愛を注ぎ続ける菩薩のごとき存在オタクである

むろん、菩薩性別はない。愛の対象も分け隔てなく、尊きものを尊ぶのみ。

それが真なるオタクの像である

けれどやむにやまれ事情により衆生へと舞い戻らねばならぬ時もある。

その時オタクオタクでなくなり、再び性別やその他もろもろの俗世の枷に囚われることとなる。

アセンション!そしてディセンション!我々の多くは「行き交う者」である

2020-04-19

anond:20200419094619

縁なき衆生は度しがたし、とか、

なかなか理解しない来店客に

嘘も方便”することあるだろ?

2020-04-16

56億7千万年後に救われる衆生

所得制限もなくひとり残らず救われるこの安心感

2020-04-14

[]和讃

和讃とは、宗教的尊いもの和語を用いてほめたたえる讃歌のこと。平安中から流行した。

仏・菩薩祖師・先人の徳、経典教義などが主にほめたたえられる対象である

これがサンスクリット語だと「梵讃」、漢語だと「漢讃」になる。

七五調歌詞を、当時よく知られていたメロディに載せて歌う。

そういえばどこかで、白隠禅師の和讃を聞いたことがある。

こんな風に始まる。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

クールだ。

2020-02-21

日本仏教界は本当にろくでもない

https://togetter.com/li/1471088

寺生まれ寺育ち(継いでない)なんだけど、こういうところが本当に嫌い。

檀家さえよければいい」

檀家集めのためなら何でもやる」

信心などかけらもない」

結局ファミリービジネスになった葬式仏教仏教根本的に抱える女性差別には向き合わず、かといって教義をきちんと突き詰めるわけではなく、経典だってろくに読んだことがない。仏教勉強すればするほど、日本仏教界はほんとダメだな、と思う。

まあ信心がないのはいいよ。しかし、「お前には関係ない、うちは檀家を獲得するためにやってるんだ」はないだろ。

仏様は、衆生のもの。お寺のものじゃない。信仰の形も色々あるし、

エロいからダメとかそういうわかりやすい話じゃなくてさ。金を儲けたいならちゃん商売やりなよ、ほんと。

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