はてなキーワード: 生まれる。とは
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「現代に続くハイヒールの起源の説はいくつかあり、定説は定まっていない。
紀元前400年代、アテネで、背を高く見せるハイヒールが遊女間に流行した。これは男性も履いていた。
15世紀からイタリア、及びスペインで、チョピンというファッション用オーバーシューズが貴族の女性や高級娼婦で流行する。
ルイ14世は背を高く見せるために愛用していたなど、前近代から近代初期にかけては男女を問わず履かれていた。しかし、ナポレオン戦争が始まり各国で国民軍が創設されると、戦場を駆け回るために男性は機能的な靴を選ぶようになったため、ハイヒールは女性の履物と見なされるようになった。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AB
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
特定のインデックスを管理する技術者(Aさん)がいるとしよう。
このインデックスがサイト全体の検索で使われるため、CTRを気にするなら最も重要なパーツだ。
ここで私が検索アルゴリズムを改善するための特徴量をインデックスのフィールドに挿入したいというとする。
しかし特徴量を管理するのが私であるのに対し、インデックスを管理するのがAさんであるので、どうやってこの受け渡しをするのかという問題が生じる。
私がインデックスのマッピングルールを書き換えるわけにはいかないのである。
そこでバッチ計算してそれぞれのアイテムIDに対する特徴量をDBやプレーンテキストに保存しておくようにする。
すると
という流れが生まれる。
パル(キャラクター)がポケモン(キャラクター)をパクっているのであって、パルワールド(ゲーム)がポケモン(ゲーム)をパクっているのではない。
ここを混同すると話が複雑化するし、「パルワールドはポケモンに求められていたことを実現した」などという意味不明な主張が生まれる。
どっちが面白いとか新しいとかそんなのは今回の話に1ミリも関係ない。だってゲームの話じゃなくてキャラクターデザインの話なんだから。
パルワールドはサバイバルアクション系ゲーマーに求められているものを作るにあたってポケモンのデザインを利用しただけであって、厳密に言えばパクリと呼べるかも怪しいと思う。
ポケモンっぽいゲームを作りたかったわけでもなく、ただ100種類以上の架空の生き物をデザインするのが大変だから流用しただけ。
九州から集団就職で都会に出てきた母方の祖母が創価学会の会員となり、母方の祖父、彼らの2人の子供も会員となる。
父親は元々別の宗教の家に生まれたが、大学入学で上京した際に勧誘され会員に。
父は地元に帰ってからも活動を続け、そこで出会った母と結婚。姉と俺が生まれる。
そこまで極端な教育を受けた覚えは無いが、子供の頃(3歳ぐらい?)からの毎朝15分ぐらいの唱題という名のお経上げと地域の学会イベントへの強制参加はあった。
ただそのような創価公式イベントにおいても、また両親の口からも、創価についての体系的な教え、つまり世界はどのようなものであると創価学会は考えており、毎朝唱えている意味不明な漢字ばかりのお経には何が書かれており、我々がそれを唱えるという行為はどのような意味を持ち、またそのような営みを支える背景にはどのような宗教的歴史があるのか、といったことは全く教えられなかった。ここら辺は俺がまだ子供だったから教えられなかったという可能性もあるが、理屈っぽく素直で無かった俺には自分のしている行為の意味不明さが子供ながらに大変苦痛であったのを覚えている。
で、だいたい俺と同じ創価体験を受けた姉は両親の言うことを良く聞くとても良い子だったので熱心な信者となり、創価大学までいった。俺は中学ぐらいから唱題をあげるのを拒否するようになり、たまにある地域イベントなどにはなんとなく参加したが創価との関わりはそれぐらいで大学のに進んでからはそれも辞めた。
両親と姉は当然今も熱心な信者で、家庭内で俺だけ完全に無宗教といった感じだが、家族中は大変良好である。両親とも創価大学→学会幹部といったガチガチの家庭でない限り、まあだいたいそんなものではないだろうか。周りの3世を見てもそう思う。
俺が創価学会に関して思うのは、よく言われることだが創価学会の本質的な役目は戦後日本で解体された地域互助組織の都会における再構築であったということである。両親や姉、周りにいた学会員の方々を見て、とても善人が多いとは思うが、特に宗教的な人間が多いとも思わない。教え自体は日蓮宗ベースだろうが、キリスト教ベースだろうが、浄土真宗ベースだろうが彼らにとっては本質的には変わらないのでないだろうか。本質は池田大作というカリスマ信仰に基づく強固な人間関係組織の構築である。
創価学会の教えのとても特徴的な点だと思うことは、極端とも思える現世利益主義である。創価学会の教え(あるいは日蓮宗の教え?)では、宗教的成功と世俗的成功は同一であり、このことは学会のイベントでも何度もよく聞いた。難解な宗教的教義を多くの人間に理解させることは難しいが、世俗的利益のことは誰もがよく理解しているため、創価学会はこんなに会員がいるんだろうな〜と大人になって気付いた。
あ、あと体系的教義の説明がないとは言ったが、ある程度の大人になると教学試験などを通してそこら辺は勉強することになるし、家庭によっては親が教えることもあるかもしれない。だけどその場合でも日蓮宗の歴史よりは創価学会の歴史に重きが置かれていることは間違いない。
最近投資の話題をちらほら見かけるけど、これに関しての話題が全然出てこないから知りたい
学生の時に猶予もらってる場合、数十万円くらい年金を払ってない期間が生まれる。
追納はあくまで任意なのでしないこともできるが、その場合将来の年金が減る。
(でも月に数千円程度の誤差っぽい?)
そして追納は猶予期間から10年経つと期限切れでできなくなってしまう。(何故この期限があるんだろう?なければもっと追納する人増えそうな気がするけど)
支払い期限が迫ってきてしまっており、悩んでいる。
正直支払いたくない。数十万円って高いよなあ……月数千円年金が増えるくらいなら貯金した方が良い気もするし、なんならもっと有意義なことに使いたい。巷で言われているNISAとかidecoに使った方が良く見える。
ただ、なんか年金を支払ってない期間があるのが気持ち悪いというのと、将来年金が減るという事実に少なからずプレッシャーを感じており払った方が良いのだろうか……という気分にもなる。
30年以上後の未来とかなんもわかんねー
JRのダイヤ乱れに頻繁に遭遇するんだけど、ふとおかしいことに気づいた
ネット予約だと予約便が運休になると自動的に全額払い戻しになる。
どちらにしても移動はしなきゃならないのだから新たに購入しなきゃならない、値段は変わらない。
紙の切符なら、運行再開したら駅で待っていれば、仮に一切の運休がなければ大幅に遅れた列車が順番に駅に入ってくるのだから適当なものに飛び乗れば良い、自由席ならOK。
手持ち切符の便が2時間遅れてりゃ特急料金は払い戻される(自由席でも)。
運休したら当該便は払い戻しされるのだが、移動はしなきゃならないのだから買い直すことになる。
一方JRは運休すればリソース開放されるのだから一部の便は2時間に間に合わせることができる。
つまり運休しなければ後続便もすべてが均等に遅れてすべての便で払い戻しが起きるがこれを回避できる。
ほとんどの客は移動をキャンセルするわけでもなく新たにチケットを買い直す。
経営的には正しい。
JRは損失を最小限にしようとしてるだけ
なるほどその場合は自由席に飛び乗るも封じられる、立ち乗りならOKってもまた露骨だね
13時出発、13時15分出発の便があるとする、関ケ原大雪で大幅遅延
時刻は既に15時で2時間出発遅れ
このまま出発させても新大阪駅が混乱しておりドン詰まりで延着2時間以内は難しい
そこで予め13時の便を運休にしてしまう。全額払い戻し、客は買い直せと。
後続の13時15分の便はギリギリ2時間以内に新大阪に滑り込ませる。
払い戻しは一切無し
もう一点書くと、自由席特急券も2時間遅延で払い戻しされることもわりと知られてない
ついでに書くと、新幹線の追い越しにもよく遭遇する。
先行便が既に2時間遅延確定だが後続便はギリ間に合いそう、みたいな時に駅で後続便を優先させて先に行かせるみたいなことをやる。
のぞみに乗ってて品川や新横浜で抜かされるわけのわけらんことが起きる。
もしくは大物政治家でも乗ってるのかもしれんが
マジクソ死ね。
さてここからが本題なんだが
JR京都線、京都駅で大阪に帰ろうとするときにダイヤ乱れに遭遇することがある。
その特急列車はすでに2時間遅れているが俺がたまたま駅に着いたら来た列車ってだけ
俺的には1分も遅れてない。
これに飛び乗る。遅延が1時間半超えてたら検札はまず来ない、来れば特急券買うが
グラドルで売れるのは厳しい。
まだエロのほうが生き残れる。
■
売れていたグラドルは言った。
しかし、すかさず周りはツッコむ。
グラドルの過去を無かったかのよう語られると、ファンは悲しい限りなのだ。
■
高額なレッスン料を払うために夜で働く
でもやっとの思いで端役を貰えても次に繋がらない。
全ては「売れたい」夢のために。
■
女性が持つ凹凸のある身体を男性に見てもらうことで欲情させる。
そうして対価を得ている。
大事な所は見せないけれど、エロスを感じてもらわねばならない。
ところがちょっと谷間を見せるだけで投げ銭もらえる配信者に嫉妬してか、グラドルは男性ファンにエロいと言われるのを嫌う人もいる。
おっぱい震わせてなんぼ
それなのに、性に関する質問には答えない野良のインスタライブやっている女性も同じ穴のムジナである。
■
女優なら30代でもチャンスが有る。
■
芸能界で売れたい人がバコバコ来る。
数少ないテレビ出演の枠を争う。
■
■
ブス、貧乳、トークが出来ないはスタートラインにすら立てない。
でも、AVは違う。
今じゃAV女優も学歴があって、トークが出来ないとネット番組にすら呼ばれない。
■
布つけてるだけで稼げるなんて幻だ。
女性は脱いでなんぼ。
ふとしたきっかけで、都会と地方の若者とではメンタリティが違うのでは!? と思わされる出来事があった。これからちょっと説明してみたい。エピソード中心になる。
都会の子の説明がメインだ。地方の子の傾向は最後にサッとまとめる。
当方は、地方都市に住んでる者だ。個人事業主である。出張で遠くに行くことがある。
先月、11月の紅葉のシーズンだった。出張で京都市内(追記:京都は『都会』ということにしてほしい。頼む……)に行くことがあった。商談その他の用事は、相手方と事前にチャットでやり取りしてたのもあって一日で終わった。告示されてるとは思うが、今度祇園~四条のあたりでそれなりの規模の再開発がある。測量とか登記の関係で、当方に依頼があった。
それはともかく、向こうの取引先の代表がいい人だった。その日は夜のクラブをおごってもらった。踊る方じゃなくて、接待の方だ。
仮に、A店としようか。女性が接客するお店だった(風俗店ではない)。祇園の一等地にある。キャストは若い子が中心のようだった。あれは業態的にはキャバクラかもしれないが、そのあたりはよくわからん。
普段は地方都市で不動産の士業をしてるんだが、そっちでも年に十数回はそういう店に行くことがある。いわゆるクラブとかラウンジとかスナックとか言われるところだ。
そのA店は、高級そうなお店だった(代表も初めて入るようだった)。お店の入り口にある料金表だと、最低1人1.3万円/hはする感じだった。キャストに飲み物出したら二千円だってさ。
若い頃、俺が初めてこういう店に行った時は、どんな世界だよって思った。その時のドリンクは1杯千円だったかな。でも、こういうのってキャストに対する『お布施』だと考えたら納得できる。YouTuberに一万円ほど投げ銭する人がいるじゃん。あれと同じだ。
お店の内装も豪華だった。天井にシャンデリアがあったのと、別の箇所にはでっかいイシツブテみたいなやつがくっついてた。店内は暗めだった。本当に、冗談抜きで暗かった。男も女も、暗かったら百難隠すみたいな効果を狙ってるんだろうか?
取引先の代表は、俺達二人がいるガラス卓にやってきた若い女性のキャストの子にさ、ドリンクおごってたよ。「一杯いただいてもいいですか?」って、小柄な衝動物系のキャストの子に言われたら、「好きなの飲みなさい」と彼は言ってた。そしたら、黒服の人が白いカルピスみたいなカクテルを持ってきた。
ところで、その代表は貫禄がある見た目だった。恰幅があるけど優しい感じがする。お金持ちの余裕があった。実際お金持ちなんだが。俺もいつかあんな風になりたい。
俺の隣に付いた嬢は、大学生のようだった。A子としよう。三年生って言ってたかな。なんか、コンビニに置いてある女性向けモデル雑誌に出てきそうな見た目だった。背が高くて、目が大きいメイクをしていた。こういう雰囲気の子は田舎には少ない。
四角いガラス卓での会話は盛り上がった。今時の子って協調性があるんだよな。トークレベルが高かった。いわゆる傾聴力というやつだ。「あんたの話、聞きますぜ! ヘヘェッ!!」という感じ。いや、言い過ぎた。ごめん。
話は逸れるが、以前Twitterで「東大の子のルックス水準が年々上がってる」「イカ京はすでに絶滅した」みたいのが流れてきた。割とバズってた。Toggtterにも上がっていた。
でも俺に言わせれば、世の中全体の若者のルックスが向上している。少子化が叫ばれて久しいが、選ばれた者しか結婚できなくなった結果として若者の素のルックスが上がっている。それだけのことだ。
それで、俺の席についてたA子が「わたしも一杯飲んでいいですか?」って、なんかそういう声でアピールしてきた。俺は別にいいかなと思って、「お金は自分で出します」と宣言したうえで、その子に一杯出したよ。小柄な小動物系(チンチラっぽくて笑顔が素敵だった)の子も俺の方を見てたけど、その子は代表からすでに一杯もらってる。マナー違反だ。代表との今後の付き合いもあるし、ノーマナーでフィニッシュしたくない。
お酒をグイグイ飲みながら、A子は「わたしお酒好きなんです!」と言ってた。本当は好きじゃないってのはわかる。一般的な21才くらいの女性はそういうものだ。でも、お店と自分の売り上げのために言ってるんだよな……と、44を過ぎた今なら余裕でわかる。もう44か。俺が21才よりも前、まだ未成年の頃に憧れていた『るろうに剣心』の比古清十郎(43だっけ?)に追いついてしまった。
ところで、会話の流れは二人ずつ同士が基本だった。時々四人で面白い話をして盛り上がったり、代表が全員に人生訓みたいなやつ(人が死ぬ間際まで最後に残るのは人格や性格……お金の価値は消える云々)を披露したりとか、そんな風だった。
時が進むにつれて、取引先の代表はお酒が入って饒舌になった。チンチラの子に対して、「お前、面白いな~。もっと飲めよ」と言ったら、彼女は満面の笑みだった。笑顔が可愛かった。やっぱり祇園のクラブで働いてる子は、何かをもってるのかもしれない。
代表に年齢を聞かれると、げっ歯類は「19才になったばかりです!」って大きい声でアピールしてた。「お酒飲めるの……?」と思ったが、そういえば、この業界は俺が若い頃からこんな風だ。今さら考えることじゃない。
チ「吸いませんよ~」※全体的にイントネーションが高め⤴な感じ
チ「ほんまです。代表さんは吸わらへんの」
代「わしは吸わない。昔は吸ってたけど、もうやめた」
チ「いつ頃やめはったん?」
代「21の時や」
チ「へー、21の時に煙草やめはったん?」
代「そう。21になる頃にやめた」
代「秘密や」
チ「え~、教えてよ~」
チ「代表さん、おもろいな~( ´艸`)」※本当にこんなポーズだった
向かいの二人の会話が盛り上がってる最中、俺の隣に付いてたA子は、それから何杯もお酒を飲んでた。普通の大学生はそこまでお酒に執着しないってのは、最終学歴☆専門卒の俺でも知ってる(つのだ☆ひろを意識している)。およそ三杯目からは無理をしている感があった。女の子のドリンクって割と量があるんだよな。ワイングラスに2/3くらい入ってた。
2千円/1杯は高かったけど、でもA子は仕事に対してマジだなって思えた。話術の方は、嘘っぽい演技がモロバレだった。まるで、ジャニーズ事務所やオスカープロモーションの所属タレントがテレビドラマに出てるみたいな。
しかし、A子はお客を楽しませようと本気で取り組んでいた。それだけはわかる。俺も社会人経験は長い方だ。本気でやってる奴はわかるよ。俺が知ってる標準的な嬢は、ここまで仕事に真剣じゃない。正直、アルバイト感覚の子が多い。
もう二度と出会うことはないんだろうけど……A子の接客とかトークは、あまり上手ではなかった。けど、あの子は本気で『嘘』をついていたよ。一生懸命だってわかる。そんな子にだったらお金を払ってもいい。一万円くらい別にいいかなって思えた。ただ、それだけだ。
結局、お店を出たのは一時間半後だった。楽しかったと言えば楽しかったけど、でも男二人で6.0万円も払って遊ぶようなとこじゃない(料金は5:1だった。俺が1)。行きつけの居酒屋で、同年代で初対面の連中と喋ってた方がまだ楽しい。
クラブを出た後は、その取引先の代表に感謝の言葉を伝えて、あと一軒だけbarに寄って帰った。そこは一人で行った。ホテルに帰る途中の、西木屋町の地下にあるbarだった。祇園に入る四条大橋とは、直線距離で500mほどだ。
店内に入ると、ちょっと老朽化した見た目だった。オーク材と思しきロングカウンターがあったけど、おそらくこれは居抜き物件だろう。高級そうなカウンターに対して、棚や什器がボロすぎる。
ここでは、若い男女の店員がいた。見た目は……まあ爽やかだったかな。俺が君達くらいの年齢の頃は、もっとモジャモジャしていたよ。今はもう少し清潔感がある。
その子達も、A子と同じく一生懸命だった。トークの最中、俺の方を精いっぱい盛り立ててくれた。別に、そこまで褒めてもらわなくてもいいのだが。なんか、悲しいほどに一生懸命だった。何かにおびえているような。
A子がいたような祇園のクラブだと、当然ノルマがあると思う。あの子らの控室には、売上ランキング表なんかがドーン!! と飾ってあるのだろう。うーん。このbarの男女店員にもノルマがあるのだろうか。
その両名と話をしてるうち、女性の方が「一杯もらっていいですか?」と言ってきた。ああ、そっちの方向のbarなんだなと思って、「どうぞ。あなたはいい人だ。断らないよ」と言った。そしたら、男性店員の方も「自分も一杯いいですか!?」と言った。「どうぞ」と告げると、すごく喜んでた。
「ありがとうございます。お客さんにお願いしても、僕の方だけドリンクもらえないことあるんですよ~」
「ゆっくり飲んでね」
とまあ、ここまではいい流れに思うだろう。でも、それから実は……女性店員も、男性店員も、それからグイグイとお酒を飲みまくった。三杯目からは、なんかもう見ていて浅ましかった。
そんなにドリンクが欲しいのだろうか。それを一杯もらったなら、自分の価値が高くなって、上の人間に褒めてもらったり、仲間に自慢ができるのだろうか。そんなことで自分の価値を決めてしまって、本当にいいのか?
「浅ましい飲み方をするなよ。見ていて情けなくなる」
私はついに言ってしまった。その二人はなんだか縮こまってしまって、「あ、え……すいませんでした」とか「僕、調子乗りすぎましたね」とか言ってたかな。記憶は定かではないが。そんなことを言ってた。
それからもトークは和やかに進みはしたが、少し嫌な気分になってきた。小一時間ほど居たところで帰ることにした。最後に、五杯目は自分から二人に勧めてやった。こういうのは、誰かに言われてじゃなくて自分から進んでやりたい。
最後にみんなで乾杯をして、一気にグイっと自分のお酒を飲み干して、会計をした。詳しい値段は覚えてないが、2.5万円ほどだった。今思えば、プチぼったくり系のbarだったのだと思う。まあ、それは別にいい。あの二人は、見た目は清潔感があったし、人柄はまともだった。こちらも気持ちよく飲ませてもらった。このくらいなら払っても損した気分にならない。
エピソードが長くなった。
俺が住んでる地方都市の同業界の若者と比べると、都会の子は「競争」をしてる気がする。そういえばA子があの時、俺にしてみれば衝撃の事実を言ってた。なんでも京都市の東山区や中京区などの夜のお店が多いエリアだと、なんと(・・・・・・ドラムロール流れる・・・・・・)インスタのグループで、キャストが数人でチームを組んで売上競争をしてるらしい。それで優勝すると、何がしかの栄誉にあずかることができる。
まだ21かそこらだというのに、あの子は競争に参加して勝ち残ることが求められる。それで、インスタグループの売上競争に負けた時は……惨めな気持ちにならなくて済むのだろうか? いや、惨めな気持ちになるだろう(反語)。
あのbarの店員にしてもそうだ。今思ったんだが、売上が悪かったら店のオーナーに怒られるんだろうな。だから、あの二人は怯えたようにお客さんに接して、ちやほやして、何とかしてお店の売上を立てようとしていた。ちなみに、二人とも専門学生だった。
「いや、そんなとこで働いてないで勉強しろや!」はちょっと言い過ぎか。奨学金を借りてるのかもしれない。今のうちにお金を稼がないと……と思っているのであれば、それこそもったいない。若いうちでないと楽しめないことはたくさんある。特に人付き合いだ。今は奨学金漬けでいいから、とにかくたくさん遊んで、学んで、というのが大学生の正しい過ごし方だと思う。
ここで、ちょっと思い出した。
俺がまだ20くらいの頃、測量の専門学校に通っていたのだが……其処をまあまあの成績で卒業してからは、地元で有名どころの土地家屋調査士の事務所に入ったのだ。それで、地道にコツコツと頑張って、今ではなんとか独り立ちして事務所を設けてる。それでも……20~25才くらいの頃は、やっぱりあの子らと一緒だったかもしれない。
結果を、とにかく結果を出さないと。目に見える何かがないと、自分が何者でもないような気がして――ああ、そうか。俺はかつて、あの子達と一緒だったんだ。今わかった。俺は、あの頃の気持ちを忘れていたのだ。それだけだ。
そうだ、俺は飢えていた。あの頃の俺は、乾いていたのだ! それで、何がしかの、自分で自分を認めてやれるような成果を探して、何処かしこをうろついていた。そういうことだ。俺が、ただ俺が、あの頃の気持ちを忘れていただけだったのだ。そんな昔のことに思いを馳せていると、自然と涙が零れてきた。あの子達は、ずっと昔の『俺』だったのだ。
何十年も前から、ずっと生き残ろうと努力を積み重ねてきたから、今の自分がいる。だから、あの日だって、あの子達にケチらずにお金をポンポン使うことができたし、それがもったいないとも思わなかった。20年前の俺は、二千円すら使うのが勿体ないと思っていた。
これが成長なのかどうかはわからないけど、とにかく、昔の自分に言えることは……
今、胸の中にスッと浮かんできた言葉だ。これ以外にはない。
さて、地方の同じ業界(ラウンジ、スナック、bar、店員のトークが売りの居酒屋など)で働いてる子は多く見ている。当方は、生まれも育ちも其処だし、飲み屋街に行くのは年に10回以上はある。地方のそういう店で働いてる子は、なんというか、都会の子に比べると「競争」が少ないように思える。
女の子が接客する店でも、もっと緩い感じだ。みんなもちろん本気でやっているのだが、都会の店に比べると、いい意味での余裕(バッファ)を持ってるように感じる。夜のお店のキャストが客にドリンクを求めるのはそこまでない。barや居酒屋でも、店員がお客にドリンクを求めるところはまずない(※居酒屋オーナーは除く)。
例えば、あのA店でのことをひとつ思い出してみると……俺はA子が気に入ったから、「A子さんは一人前になれるかもしれない。大金はたいてくれるお客さんもいるんじゃないかな?」って言ったら、「え~、じゃあ今度ご飯(※同伴)連れてってください!! 連絡先交換しませんか?」と返ってきた。
こういうのは、俺が住んでる地方都市ではまずありえない。例えば、お客の方からそんな節操のない行動(初回で次からの同伴を求める)を取るのは非常識だし、キャストだって当然警戒する。ましてや、キャストの側からそれを提案しているのだ。
というのも、同伴ということは……初対面のお客さんと、次に会う時には一緒に食事をするわけだろう。そのお客さんが後先考えずに女性に手を出す人とか、犯罪者とかだったら怖くないか? そのキャストの女性にとっては。
俺だって、事業の売上のためとはいえ、よくわからない人と一緒に食事をしたくない。最悪、反社リスクがあるからだ。経営というのは、常に最悪を避ける選択肢を採る必要がある。
男の俺ですらそうなのだから……まあ、誰かの紹介があるなら可能性はあるが。祇園のクラブの嬢だったら、何かあってもお店が守ってくれるのかもしれない。いや、わかんないけどさ。切り捨てられる可能性だってある。
思うに、社会にとっての『競争』というのは、現代にあっては必要悪だと思う。競争というのは、お互いの力をそぎ合う行為であって、最終的にはモノポリー状態になる。少数の圧倒的勝者と、数多くの敗者が生まれる。まさに今の資本主義社会だ。アメリカ合衆国がそうなりかけているだろう。
好景気が続いても、所得が上がっているのは一部の高スキル労働者のみであり、残りの労働者の賃金は変化がない。しかも、インフレでどんどん貧乏になってる(実質賃金↓)。それで、追い詰められた人が犯罪的な領域に入り込んでしまう。銃乱射事件などの凶悪犯罪が生じる。
あのA店で喩えると……キャストの女の子同士でお客の争奪戦を繰り返していたら、お店の文化が育たなくなる。キャスト同士でお客を奪い合うと人間関係が悪くなるし、先輩キャストが後輩に接客のコツを教えるといった慣習はなくなるだろうし、何より――飢えた嬢からサービスを受けるお客さんが可哀想である。
「競争よりも協調を~」と言えば聞こえはいいが、どうしたらいいのか俺にも想像がつかない。ただ、経済社会というのは、金融業界とか投機業界(FX,ビットコイン,CFD)とか飲食業界とか市場恋愛(マッチングアプリ)みたいに、ほかの誰かとガンガン戦って奪い取るよりは、みんなで一緒に何かを作るとか、今ある文化や制度を守っていくとか、そういう方向を保っていくのがいいと思う。
戦争はダメだ。実際の戦争じゃなくても、社会で激しい争いが起きると、長い目で見たら社会全体の力を削いでしまう。ゼロサムゲームは避けた方がいい。
松本人志の一件で、ああこれはアウトかもなぁと朧げに思いながら今日になって、被害にあった?とされる女性側のツイートとかを見た。
深く女性側に傾倒するわけではないのだけど色々と大変だったんですねと思いながら、なんだかなぁと飲み込めない感情を抱いた。
第一印象に中高生の時にヒエラルキーの上位に位置しているグループ内のいざこざに似ているなと思ったんだ。
いつもイケている集団にいる自分が好きなんだけど、中心人物になりえていないという葛藤を抱えていそうだ。
でも、その集団にいないと何者かになり得ないから、過去の行動や考えを捨てることも離れることもできない。
そんな苦しみから離れればいいのに、何者でもない人には興味がない。何者かの人物のもとだから自分の人生に価値がつくと思っている。
そんな考えだから、自分で蟻地獄のごとくハマっていくのだろう。
それでも得るものがなく、次第に劣等感まっしぐらで、復讐心が生まれる。何者になれなかったのに、失うものばかりだ、と。
そんな人が定期的に生まれれば、有名人のトラブルは蒸し返されて、情報の新鮮味がないものが週刊誌の表紙を彩っていく。
とにかく皆は何者かになりたいけど、その枠は限られている。
だから、屍肉と思しきものには無関係の何者かになりえていない人物も群がってくる。
被害の女性も何者かを倒したいという気持ちだろうし、週刊文春も大物の背中を刺すその瞬間はオナニー以上に気持ちいいだろうし、
大物が撃たれるのはフセイン大統領の銅像が倒れる瞬間に似ていて世界が変わるんだという革命家気取りの人は高揚する。
みんな何者かになりたいけど、何者かになった人物は憎くてしょうがない。
みんな、自分の人生に意味があって、価値があってほしいんだろうね。
だからこそ、後出しジャンケンで被害を訴える人現れるし、寄り添うような素振りを見せる気色悪い専門家も出てくるんだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20231219202647
ねえ元増田ってさー。
ゲイだよね。
ハゲだよね。
無職だよね。
えっ全然、私同性愛に偏見ないしジェイソン・ステイサムめっちゃ好きだし、私だって仕事してない時期あったから無職馬鹿にしないよ、悪意ないよ〜!
逆に悪意あったら言わないよ〜!でしょ〜?
ただ事実として、元増田がゲイでハゲで無職だなって言っただけだよ〜
それとも元増田、自分がゲイでハゲで無職なこと恥ずかしいと思ってるの?
それって差別だと思うな〜。
今のままの考え方では、元増田は上記のようなevil発言に対抗できずに言われっぱなしだ。
だから差別を考える際のキーワードとして「有徴化」を覚えておこう。
たとえば「女医」「女流作家」なんて言葉は一時期から使われなくなった。
これらは、「医師」「作家」のデフォルト値を男性であると定め、デフォルトとは違う「例外」――この場合は女性に「しるし」をつける呼び方である。
そのように、「例外」の存在である、と徴をつけるのは、悪意の有無に関係なく差別となりうる。
これは男女逆でもある話だ。
ある男性が女性しかいないコミュニティにいて、自分にまつわるすべてのことを「男だから/男なのに」で語られたらうんざりしないだろうか。
男なのにサッカーしないんだ。
えっ男なのにデザート食べるの?
そこに悪意や蔑みがなくとも、
この言葉は「片親家庭の子はこういうパンを食べる」というぼんやりしたレッテルが理解されるから成り立つ。
では、逆に「両親のいる家庭の子が食べるパン」のレッテルは存在するか?
両親揃っていれば乃がみの高級食パンを食べるわけではないし、両親揃っているからと言ってスナックパンを食べないともいえない。
その家それぞれとしか言えない、というのが一般的な回答ではないか。
これは両親のいる家は「無徴」だからである。デフォルトの存在だから、その家それぞれの個別事例に目が向き、「両親揃った家庭のパン」というレッテルはできない。
それなのに片親家庭となると「スナックパン食べてるよね」というレッテルが生まれる。
以上のように、そもそもこの言葉自体が片親家庭への差別意識がないと成り立たないものだ。
そのような差別の象徴的に自社製品を使われれば、まともな感覚があれば嫌な気持ちになると想像できる。
というわけで、「有徴化」覚えて帰ってね!
他人に向かってゲイだよねハゲだよね無職だよねなんて「徴」をつけるようなこと言うのはやめようね。それはその属性が何であっても一緒だよ。
よく「質問しろ」とか「木戸に立てかけし……」とか言うけれど、実際これやるとうまくいかない。医者の問診とか尋問みたいになる。
そして広げてもつまらない会話になりがち。「好きな天気は?」で盛り上がらんでしょ。
なぜならその話にはストーリー性が無いから。ストーリー性が無いと頭に残らない。
え?と思うかもしれない。よく自分の話ベラベラしてる人いるけど、つまらないよ、と思うかもしれない。
どういうことか具体的に解説する。
この場合、「おばあちゃんの荷物を持って階段をのぼってあげた」
にする。
結:ほっこりした
これをただ話で作り上げるのではない。
この話を、「相手に語らせる」。
まず「起」から。「起」のばあいは、「今日何があったと思う?」と相手に想像させることから始まる。
「道徳の教科書みたいなことした」「しなさそうなことした」などなど。
ここでまず5分くらい潰せる。
そして「承」の部分では、動作を語る。この部分では「共感」を求める。
「重くてさ~、君はどんくら重いモノもてる?」みたいに
「転」の部分は、何か大きい出来事だ。ここでも「何があったと思う?」と予想させる。
この場合、おばあさんが「ありがとう」というのは予想できるしおもんないので、普通に「おばあさんにありがとう」と言われる。
「結」の部分は共感だ。「なんかさ、ありがとうっていいよな」みたいに。
「最近有難うって言われた?」みたいに言うと良い。
こうすることで、何の話か分からないのに「楽しかった」というイメージだけ残せる。
そしてこういった「エピソードクエスチョン」を使うと、話のネタが尽きても次の日にはまた話のネタが生まれる。
コミュ力は大事だ。コミュ力があれば、仕事も友人関係も上手くいく。コミュ力を身に着けたい、という人は多く居るのではないか?
自分もそのうちの1人で、何故コミュ力が高い人といると楽しいのか、なぜそうなのか考えていた。
テンションを相手より少し上に合わせる、笑顔が多いだとか、反応がオーバーリアクション、身体動作が大きい、そういう技術力も大切だ。
傾聴する姿勢、聞き上手なんかもコミュ力の1つだ。だが、コミュ力強者には届かない。
聞き上手を自称する人が多い。それはそれで、大切なスキルで、持てない人は持てないスキルである。
しかし、聞き上手は同時に、「これってコミュ力強者ではないよな……」という悩みがいつもあるだろう。
聞き上手は、聞くのが上手いのである。しかし時折、全くコミュニケーションをとれない人とであう。
それは話さない、若しくは聞き上手の相手だ。そういう人に出会うと、沈黙が生まれる。いたたまれない雰囲気が生まれる。1つや2つ、思い浮かぶのではないだろうか。
これを解決しなければ、コミュ力があるとは言えない、そういう風に思う人は多いだろう。
まず、コミュ力がある人を定義したい。ひとまず考えてみて欲しい。
コミュ力がある人はどんな人か。それは「話だけで場を持たせることができる」人だ。
もちろん、これが海外だったり、外だったりすれば話は異なる。「これ美味しい」とか「これ不味い」「内装綺麗」だとか、酒があるだけでテンション高く交われる。
最後に出会った、話したことのない人と初めて話した場所を思い出して欲しい。
社会人となると多くの場合、何もない会議室や、殺風景な空間が思い浮かぶのではないだろうか。
コミュ力がある人はまず、テンションを相手より少し上に合わせる、笑顔が多いだとか、反応がオーバーリアクション、身体動作が大きい、そういう根底技術がある。
ここらへんができていれば、「聞き上手」にはなれる。
しかしそういう人を見て、「コミュ力があるなぁ」とは思わないだろう。
コミュ力がある人は「話し上手」だ。この「話し上手」はとても難しい。
例えば落語的に、面白いネタの1つや二つを話すとする。これができる人はある程度いるが、持ちネタが尽きると何も話せなくなる。
コミュ力がある人が何故いくらでもベラベラ話せるか。それは「つまらないネタをある程度面白く話す」方法を使っているからだ。
まず、コミュ力が無い人の話し方を見てみたい。
「昨日猫が歩いていたんだけど、三毛猫だったのね。寄ってきたから触ろうとしたら、シャーってうなって逃げたんだ。僕は傷ついたよ」
よくあるコミュニケーション本にある、具体的なイメージを想起させる技術を使った話し方だ。
この話に、「聞き手」が居ないからである。一人で壁に話していても成立する。これはコミュニケーションではない。
オタクの話がつまらない原因として、会話では無く「説明」「講義」をしてしまうことがある。
説明や講義は、相手が求めていて初めて成立するのである。知識ベースで交流するオタクはこれでも交流できるが、非オタクだと対応しきれない。
コミュ力のある人は、これをどう話すか。
先ほどのオタクが猫に牙を剥かれたエピソードを、コミュ力のある人に置き換える。
「昨日歩いてたらさ、帰り道、A君もしってるよね?」
「えーっと、どこ」
「家の前のあそこだよ、川の横のさ。あそこに猫が居たんよ。猫居るとテンションあがるくない?」
「あがるあがる」
「A君はどんな猫がすき?」
「えー、スコティッシュかなぁ?」
「ほら、ヒカキンの」
「あーわかるわかる、ヒカキンすきなの?スコティッシュだったけ?」
「おれもよく覚えとらん」
「まぁとにかくさ、猫居て、可愛くて、寄ってきたのよ、にゃーんって……」
「……うんうん、それで?」
「それで、可愛いからさ、触るのよ。そしたら何されたと思う?」
「近い!噛まれはしなかったけどシャーって!」
「威嚇されたのね」
「もう大ショックよ、女の子が気がある風に近づいてきて、LINE聞いてみたらLINE持ってませんて言われるみたいな」
「猫を触ろうとしてシャーっとされて傷ついた」
という結論の、一瞬で終わる話を、ここまで引き延ばせるのである。
この話の中で、A君は自分が猫がそれなりに好きで詳しい事、ヒカキンを見ていること、などなど、自分の話ができてしまっているのだ。
みんなも使ってみて欲しい。
ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無価値で空虚な人生だ。早く死にたい。俺が死んでも何も変わらないし、誰もそんなにつらく思わないだろう。ちょっとびっくりして数日気になるかもしれないが、どうせすぐ忘れられる。母親ですら、対して気にしないだろう。どうせ神に祈ってこれも試練だとか言ってそうだ。誰も俺なんて見てないし、俺の苦しみになんて興味がない。俺も興味がないからしょうがないと思うが、正直寂しい。人生になんの意味があるというのだろう。どうせ死ぬのに。どうせすべて無に還る。このまま生き続けたところで、希望があるわけでもない。もしかしたらなにか逆転劇があるかもしれないと思えるほど俺は馬鹿じゃない。異世界転生が流行るのも、俺みたいな考え方の、現世に希望を持っていない人間が多くなっているからだろう。死んでからなにかすごいことが起きるかもっていうのは、もう現世になんの希望も持てないということだ。どうせ生きてたところで何も変わらないし、何も得られない。分かりきってしまっているのだ。ネットの普及のおかげで、大体のことは想像がつくようになってしまった。だから、人生が終わってる人は全く希望が持てなくなってしまったんだ。奇跡を信じられるほど馬鹿じゃない。ネットの普及というのは、知識を与えることで、バカでいられなくすることに繋がる。バカでいられなくなると、こうすべきというのがはっきりと見えてしまって、苦痛につながる。むしろ不自由になるのだ。「こうすべき」というのに引っ張られて、今のままでいることが不安になる。しかし、不安になっても、「こうすべき」という指標に到達できない。だからとてつもない苦痛が生まれる。どうしようもない。現世は諦めるしかないという考えになる。安易な希望は、大きな絶望につながる。だから最初から期待しないほうがいい。期待が生まれるから絶望がより大きいものになるんだ。手に入れられないものをいくら追い求めても無駄なんだ。惨めだ。哀れで愚かだ。これが最後の恋になるなら、死んでしまいたい。俺にはもう希望がない。どうやったら、これ以上幸せになれるのか、全く見当がつかない。俺がもし社会復帰したとして、どうやって恋人を見つけるというのだろう?まず無理だろう。死にたい。こんなに苦しいのなら、最初から知りたくなどなかった。安直な希望を持つから、こんなに苦しくなるのだ。馬鹿だ。今死ねば、少しはましな人生な感じがする。このタイミングが、一番まともに近づけたタイミングだろう。ここからは更に落ちていくだけだ。もう考えなくてもわかる。さっさと覚悟を決めるしかない。でも怖くて仕方ない。こればっかりだ。損切りするなら今なのに。惨めで愚かな結末だ。何をしてるんだろう。バカみたいだ。女子高生の一瞬の気の迷いで、間違って付き合っただけなのに、まるで自分に価値があるかのような勘違いをして。本当に馬鹿だ。愚かで情けない。もう二度とこんな機会はないんだろうな。あぁ、分かれる前に一回会っとけばよかった。駄目か。会ったら嫌われてしまうし。どっちみちこうなる運命だったんだ。最初から付き合うなんて選択をしなければよかった。頭が悪すぎる。自分の意志で生きていないから、こうやって他人に流されて、他人の都合で捨てられる。自分の意志で生きなければ、これは変わらないだろう。でも俺には無理だ。自分の意志で自分の人生を決めたら、その責任を取らなくてはいけなくなる。それが無理なのだ。俺の人生はどこまでも乾燥していて、ぱさぱさとしている。他人の潤いを奪うことしかできない。自分で自分を満たすようなことができない。だからどこまでいっても惨めな結末になる。早く死のう。こんな人生は生きてるだけ無駄だ。気を紛らわしているのももう限界だろう。成すべきことをなすしかない。覚悟を決めろ。
なんて無意味な人生なんだろう。俺は一生孤独に生きていくんだろうな。こんな惨めな人生、耐えられない。早く死にたい。こんなに孤独がつらいなんて。元々こんな感じだったが、更に落ちた。俺の人生は、価値のある人生だと思っていた。だが現実はどうだ。障害ばかり負って、なにも得られず、ただただ惨めなだけの人生だ。なんて愚かなんだろう。このまま惨めに、孤独に、愚かに年老いていき、死んでいくだけなんだろうな。自殺を止めたJKが表彰されていたのに違和感を示す人が多くいたが、たしかにそうかもしれない。俺みたいなのに安易な希望を持たせても、次に落ちたときに更に奈落の底に落ちていくだけだ。上がった分、落ちる距離も伸びる。なんて惨めなんだろう。俺達底辺は、一生救われることなく死にゆくだけなんだろうな。こんな思いをするなら、さっさと死んでしまおう。生き続けて、何になるというのだろう。ただ社会の迷惑になるから、自殺してはいけないというだけじゃないか。他人の迷惑なんて考えてる余裕はない。それに、助けてくれない人間の言うことなんて聞く必要があるのだろうか。そんなものはない。ただ奴らの自己満足のためでしかない。不快だ。早く世界を終わらせたい。この春の、ムズムズするような、浮足立つような空気感が嫌いだ。全員死ねばいいのに。不快すぎる。俺の知らない所で、この季節を楽しんでる奴がいるというだけでとんでもなく不愉快な気持ちになる。早く死にたい。俺は永遠に置いていかれるだけで、奴ら普通の人たちに追いつくことはできない。淡い希望を持ったばかりにこうなった。馬鹿だ。早く死にたい。
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
SNSを見てると流れてくるウェブ漫画の広告、ほとんどがモラハラ夫を策略に陥れて復讐するとか、いじめられっ子が(以下同文)ばっかりだな。
※これは毎日XことTwitterを見ている人間が観測範囲から見えることだけで考えた戯言です
Xは今日も燃えている。その原因の多くは思想的な対立かと思うが、その内容は以前よりかなり複雑化しているように思う。
以前の思想対立の主流は「ネトウヨvsパヨク」であり、匿名掲示板時代からある古式ゆかしい対立である。特に安倍元首相在任時はこれが顕著であった。
今回はこの思想対立をベースにどのように思想が分裂していったかを考えたい(なお、この文章ではあえて思想対立のベースを「ネトウヨ」「パヨク」と記載する)。
基本的に二項対立だった論争は、2020年から旗色が変わってくる。その原因はもちろん新型コロナウィルス感染症、Covid-19である。
ここで生まれたのがみなさんご存知「自粛派vs反自粛派」「ワクチンvs反ワクチン」の対立だ。
この時点では(現在も)多くの者が前者の立場を取ったため、あまり思想ごとの偏りは多くなかった。せいぜい政府の対策の遅さを非難するべく「パヨク」側が前者に立っていたのが目立つぐらいだろうか。
しかし発生が中国・武漢であったとされている点、政府がアメリカ製のワクチンを推進したという点から「ネトウヨ」「パヨク」の一部が「反自粛」「反ワクチン」に移ったことは抑えておきたい。
さて、その前後で起こっていた思想対立といえば「ツイフェミvsアンチフェミ」である。
これは比較的単純で、ツイフェミ陣営は「パヨク」、アンチフェミ陣営は「ネトウヨ」が主であった。というのも、当時のTwitterで湧き上がる論争は概ね「宇崎ちゃん献血コラボ」「温泉むすめ」「ラブライブ!サンシャインのJAコラボ」等に対するツイフェミからの批判が嚆矢となることが多かったので、「左派の表現規制vs右派の表現の自由戦士」という文脈で語られることがほとんどだったためである(そもそも表現規制は右派のお家芸だったのだが…そこら辺は割愛)。
しかしここで一つの変化が生まれる。それがトランスジェンダーを巡る問題である。
人権の尊重を是とする「パヨク」およびそれに準ずる「ツイフェミ」にとって、トランスジェンダーおよびLGBは当然尊重すべき存在であり、欧米各国の動きを見ても当然と考えられていた。
しかし、「ツイフェミ」と呼ばれる女性の一部が「フェミニズム」を掲げている理由は主流左派のそれとは異なっていた。それは男性から性的に客体化される恐怖や怒り、男性嫌悪が行動の原理となっていたという点である。
この視点から考えるに、彼女らにとって身体男性がトイレや銭湯に入ってくるというのは全く受け入れられない。結果的にトランスの排除に向けて「ツイフェミ」は分裂する。いわゆる「TERF」の誕生である。
ここで興味深いのが「TERF」と「ネトウヨ」の合流である。戸籍制度の護持を標榜する「ネトウヨ」にとって同性婚は蟻の一穴となりかねないものとなっており、必然的にLGBTに対しても反対的な立場を取るものがほとんどだった。これが、「TERF」と「ネトウヨ」を結びつけるに至った。本来は対立する思想が各論反対によって一致するというのは興味深い。
(もっとも、ラディカルフェミニストの思想は本質的にかなり保守的であるため、合流は当然という見方もある)
ここまででもお腹いっぱいであるが、今最も新しい思想対立を最後に紹介する。
それが「ウクライナ・ロシア戦争」と「イスラエル・ハマス紛争(パレスチナ-ガザ地区)」の思想対立である。
日本国の立場としては前者は「ウクライナ寄り」後者は「中立」であると筆者は考えている。
しかし「ネトウヨ」と「パヨク」はここでさらなる分裂を迎えることになる。
まず「パヨク」の方は比較的シンプルで、基本的には「ウクライナ寄りの中立」「パレスチナ寄り」となっている。
憲法9条を基にした戦争反対という考えがベースにあり、被害がより深刻な陣営に寄り添うという思想からは当然のことのように思われる。しかし注意したいのが「パヨク」は基本的に「反米」であるという点である。なので米国が支援するイスラエルと戦闘状態にあるパレスチナ(ガザ地区)については積極的に支持できる一方、同様に米国が支援するウクライナは消極的な支持となっている。その証左にウクライナの抗戦を諫め降伏を促す言論は基本的に「パヨク」から出てきている。これが高じた一部の「パヨク」は明確にロシア側の立場を取るものも少なくない数観測できる。
まず「ウクライナ・ロシア戦争」においては基本的に「ウクライナ寄り」の者がほとんどかと思う。というのも、ネトウヨのほとんどは政府見解と一致した親米保守であり、反中・反東側陣営という点から見てもウクライナ支持がほとんどかと考えられる。
だが「イスラエル・ハマス紛争」においてはかなり微妙である。先ほど述べた通り「ネトウヨ」は基本的に政府見解と一致した思想に軸足を置いているため、かなり中立となっている現在の日本の立場には拠り所がない。
もちろん親米保守の立場からイスラエル支持、パレスチナ批判を展開する「ネトウヨ」もいるが、どちらかというとドイツのイスラエル決死支援を嘲笑うぐらいで特に支持を明確にしていない場合も多いように思う。
しかし「ネトウヨ」が親米保守であるというのはあくまで原則論である。中には極右として自民党すら切り捨てる勢力も存在する。それが「参政党」「日本保守党」の支持勢力である。思想の違いは存在するが、共通するのは強烈なラディカル右派であるという点である。
どちらも政府自民党の不満へのカウンターとして存在しており、前者は「政府のコロナ対応」後者は「トランスジェンダー法案の可決」を機に勢力を伸ばした。
当然の如く反「パヨク」や反中反韓ではあるが、日本第一主義の観点から反米(というか反戦勝国)的視点も持ち合わせており、その観点から「ウクライナ・ロシア戦争」においてロシア側を支持する者も多い。
そしてえてして反ワクチンの思想も兼ね備えているケースが散見される。
さて、ざっくりまとめただけでもこのような分類になったが、実際にはもっと多くの対立が存在している(インボイス推進vs反インボイス、AIvs反AI etc…)
ワンイシューでの思想対立が難しい現状において、統率の取れた反対運動というのは以前よりも減少しているのかもしれない。しかし、それに反比例するように炎上自体の回数は増えているように思う。
両親が共に厳しくても自分で気づかない限りはダメなので効率は悪い。
女児は思春期まで先行逃げ切りで詰め込み型教育がもっとも効率が良い。
ここで逃げずに心を鬼にして一定の学びを叩き込まれた女児と肝心な時期に甘やかされた女児は大人になった時に決定的な差が生まれる。
組織や周囲の人間関係をぶっ壊しがちな女は大抵後者の人生を歩んでいる。
幼稚園・保育園位から、自分で気づいて学べる男児は少年時代に勉強でも運動でも何でも無双できる。
自分で気づいて学べない男は詰め込みでドーピングしてもそれが大人になっても全く生きない。
男は自ら学ぶ事の重要性に気づいてはじめて主体的に自分の事が決められるようになる。
神の啓示のように突然学びに気づく男児が多いので、小学校高学年位の思春期が始まる位で急に今まで出来なかった事が出来るようになる子がいる。
小学校の教員をやっていると目撃するが、今まで宿題も忘れ物も何もかもきちんとしていなかった男児が5、6年生位のタイミングで突然キチンとやるようになる現象が毎年必ずある。
これこそまさに本人が学びに気づいた瞬間で、男児はそこから一気に手がかからなくなる(このあたりから教員のパワー配分は男3女7位になる)。
成人してからやっと気づくのも沢山。
始めたのはちょうど、サービスが始まって間もない頃だ。
当時は艦これが大ブレイクしていて、2匹目の泥鰌を狙わんとばかりに、いくつものブラウザゲームが次々とリリースされていた。
そのゲームもそんなうちのひとつだったのだが、遊んでみるとこれが意外にも真っ当に面白かった。
ガチャを回さなくても、しっかりキャラクターを育て、頭を使ってプレイすれば、難しいステージもクリアできる。
自由度が高く、プレイヤーが10人いれば、10通りの遊び方が生まれる。
ドット絵で動くキャラクターも、スーファミ世代の自分にはむしろ馴染み深かった。
もっとも、世界観はいかにもありがちなファンタジーで、見た目はいかにも地味だ。
キャラクターには声もついておらず、きっと、そう長くは続かないだろうな、と思っていた。
そんな自分の予想と裏腹に、そのゲームは1年、また1年と歳を重ね続けた。
その間、ほかのゲームに手を出したりもしたのだが、どれも長続きしなかった。
唯一、そのゲームだけが続けられたのは、フレンド機能やランキングのような、人と関わるシステムがなく、自分のペースでのんびり遊べたからかもしれない。
地味だった見た目も、少しずつ改善されていった。
5年、6年。次々に新しいタイトルが生まれては消えていく中、サービスは続いた。
7年目にはとうとう、当初の目的だった魔王を倒してしまい、第2部とでも言うべきストーリーが始まった。
長く続いた弊害で、古臭く不便になっていたシステムも、ひとつひとつ、丁寧にアップデートされていった。
あの日、早晩終わるに違いないと思ったゲームは、気がついたら、立派な長寿タイトルになっていた。
これだけ長く遊んでいると、もはやプレイが生活の一部になってくる。
今となっては、大抵のステージは鼻歌交じりでクリアできるし、ガチャの結果に一喜一憂することも少なくなった。
それでも、毎週のアップデート情報が、起伏の少ない毎日にちょっとした楽しみを与えてくれる。
10年。決して短くないその間、自分の人生にもいろいろなことがあった。
どれだけ周りの環境が変わっても、そのゲームはいつも自分の隣にあった。
いつかかならず来るとわかっていながら、ずっとその日が来ないでほしい、と願う自分がいる。
ケンタッキーフライドムービーという小ネタが延々続くコント映画。
世界一ソウルがこもってない黒人シンガーとかクロいじりが多い。
黒人スラム街で「ニガー!」と叫んで怒った黒人集団に追いかけられながら逃げるだけのもの。
こういうのいまはすっかり無くなった?なんでなくなったかわかる?
正解は、ウケないから。
広義では上記の通りかもしれない。人種差別の意識が浸透したからかもしれない。
でも、それは結果論。正解は、黒人差別のギャグでウケたことに、差別だ!と訴え反対を訴える人が現れてウケなくしたから。
あなたが今笑ってるおもしろを笑ってはダメですって怒られるとそれはウケないし笑えない。
あれはなぜそうなったかというと怒る人がいるから。みんな怒られまで笑いたくないから。
人間全て怒られるのが嫌。イーロンマスクも習近平もプーチンも増税カリスマレスメガネも怒られたくない。
怒りは笑いに勝つ。だから怒ることの優位性を知ってる人はそれで人をコントロールしようとする。
だから公正性を保つという名目で怒りを封殺する風潮になってきている。「○○ハラ」などが顕著。アンガーコントロールも。怒る人を減らそうとしてる。
などという陰謀論は関暁夫に任せておけばいい(言われてみれば元お笑いがオカルトや都市伝説的なことに傾倒していく例は多い)。
お気持ちになるが怒りで笑いが減る状況は困るし嫌だ。
笑いはウケないと意味が無い。ウケることこそ全て。実は笑いはかなりデリケート。
笑いのためになんでもする人は多い。
ただしそれはウケるためで怒られるためではない。
ウケるために手を変え品を変え怒る人を刺激しないように笑いを作る。怒られたら変えて笑うようにする。
なぜなら怒りを生み出すのは簡単だから。笑わせるより簡単。怒るのも簡単。
そしてついには「人を傷つけない笑い」という言葉まで生まれる。
本当にそんなものが可能なのか少し考えるとわかりそうなものだ。試しに作ってみろ。少しでもセンスがあるならそれはおもしろくないことに気づくから。
かように怒られなく笑わせるということが難しい。年々難しくなるとベテランや笑いに真摯な人ほど言っている。
もはや3年前ほどの漫才やラジオのネタでも笑えなくなっている。そこで爆笑が巻き起こってるのに。
それくらいデリケート。
精密に彫刻された飴細工が笑いで、それを無邪気な怒り、あるいは正義の怒りでもいい、そんなお気持ちでダメにされるのはとても悲しい。そう笑いをダメにされても怒りは湧かない。上記の飴細工を壊しながら、「それはダメなものだ」と怒られたら、精緻であるほど、手間暇かけたものであるほど、怒りより悲しくなる。自分の芸術作品を壊されたらすぐに怒るよりも悲しさがくるのではないか、
その問いかけにはNONO。
怒る人たちと同じで、ただ笑いたいのだ。
幸か不幸か、次々と笑いを殺す人と同じスピードで笑いを生み出す人がいる。そこは頼もしい限りではあるが、自分が笑う前に怒る人によって笑えなくなるのが悲しいのだ。
残念なことに怒る人が笑いを殺したら、途端にそれは笑えなくなる。前記の中国を笑いにした漫才は「けしからん」として取り上げられる。その記事により好奇心で見ると笑いは減る。「これで笑うな」という呪いがかかった状態で見るからだ。
先ほども言った通り人間全て怒られたくない。その「怒られ」という呪いがかかってるともう笑いの量は激減する。