2024-08-09

人がSNS誹謗中傷暴言を書く心理を考えていた

別に嫌なことがあったとして、それを書くかどうかは個人自由なので、何ら問題はないと思う。
私が興味深いと感じているのは、わざわざリスクになり得る誹謗中傷暴言などの書き込みを、脊髄反射でしてしま心理。

書くという行為は、案外エネルギーを消費する。
大半の人は脳や脊髄SNSが繋がっておらず、書き込むまでのハードルが高い。いや普通に繋がってたら怖いけど。
しかし、それでも書いてしま場合、何を目的としているのかを考えたくなった。

これは心理学のお話だが、他者否定的情動状態にある時、それについての共感を覚え、その相手を援助することを向社会的行動と呼ぶ。
実際、全ての人が同じ反応を見せる訳ではないが、それは大まかに3つに分けられているという。

①共感→②同情
    →③苦しみ

①は皆さんがイメージするような共感性。相手情動状態や状況について理解し、心配することから生まれる。
相手情動と同じであるけど、相手が悲しければ、自分も悲しくなる。この共感は②か③に発展していく。
②は共感とは若干違っており、相手への共感があるものの、心配や関心の情動が強い。
③は共感自分個人的苦しみにつながる場合生まれる。
相手情動心配しつつも、その気持ちに対する嫌悪的な情動的反応があり、自己対象相手を助けるよりは、逃避、あるいは無視攻撃をするのかもしれない。

同情に向かうか、苦しみに向かうかは、共感による情動喚起が強いかによるらしい。
喚起が強すぎる場合自分情動を鎮めたいという気持ちが強くなり、自身内面にそれが向かい、苦しみへと変わる。
何事も適度であればいいのだろう。
誹謗中傷投稿したり、それに共感したりするのは、決して「向社会的行動」ではないだろうし、むしろ反社会的であると思う。
私はそこから「負の向社会的行動」みたいなものを感じる。存在しない定義を作っていてすまん。

もっと分かりやす説明するのであれば、
社会的証明や悪意の共感(schadenfreude)、の定義説明したほうが良いかもしれない。
一応言っておくけども、以下の例は私が経験した事なので、某芸能人の事じゃないよ。

例えばAさんはSNSで何気ない活動をしていたとする。
知り合いであるBさんは、Aさんを常日頃から嫌いに思っていて、表立って批判非難投稿をできない歯痒さを覚えている。
Aさんを嫌いなのはBさんの問題だが、Bさんにはそれが分からないし、何ならあらゆる全ての責はAさんにあると思っている。
そして何か些細なものが引き金となって、BさんはAさんへの誹謗中傷を書き込む。

BさんはAさんが皆から嫌われることへの共感を欲し、その自己の苦しみに同情すらしてほしい。
つまり嫌いな相手が嫌われているという「社会的証明個人意見妥当性が証明されることー」が欲しい。
そして自分のShadenfreudeー他者の不幸や失敗を喜ぶ感情ーを肯定されたい。
そして嫌いな相手のことを考えて嫌な気持ちになった自分を、周囲からヨシヨシされたい。

要は誹謗中傷暴言簡単に書いてしまう人は、かまちょを兼ねた愛情飢餓餓鬼が多いのだと思う。
これに加えて、衝動制御の弱さが重なると、脊髄SNSが繋がっているかのような速度で、
思ったことを何でも書き込んでしまモンスターが出来上がる…のではないだろうか。
  • それをわざわざ考えてここに書く労力も相当なものだと思うが。他人に関心を向けるより自分に時間を向けたらいいと思うよ

  • 色々と考えを書きとめる行為が好きというかな、 小石を川に投げ込んで発生した波を見つめるのがいいんだわ。

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