はてなキーワード: その世のとは
その世の中を作り上げてるのは男なんで。残念だったな。
お前らの未来の年金を担う奴隷を生んで育ててやってんだぞ!とか平気で言う親が怖い
世の中の不満ぶち撒けといて、その世の中で人生送ることを強制させてる矛盾よ。
自分が将来年取ったら介護してくれるかもしれないから投資として子どもがほしいとか、
なのにそれ指摘されると反出生は黙ってろとか言って事実から目をそらすんだわ。
自分は人生ハッピーなのでお前が人生肯定できないからって知るかよとかさ、もう子どもを自分と同一視してるのかな。大丈夫かな。自分が楽しければ他人も絶対楽しいと感じるか?と聞かれたら違うとわかるのに子ども産むかどうかに関してはバグるんだよな。まぁ生まれてないこどもに意志もクソもないから無視して良かろうって感じなんだろうが。
虐待してるわけでもないのに子どものことこれっぽっちも考えてない不出来な親と認定されるのも怖いんだわな。
これはまぁわかる。子育て大変だもんな、労ってもらいたいのに文句言われて腹立つよな?
でも言われてることは事実だろ?目背けんな。
マウント取れると思ってなのか既婚子持ちパートさんが頑張って子供との幸せ安定な家庭アピとか子どもが〜みたいな話ばっか振ってくるんだけど自分はアセクシャル傾向あって欠片も結婚の意志がないのでめ、めんどくせ〜〜〜〜ってなる。
優しいから聞き流してあげてるけど、この手の既婚子持ちの人らは既婚で子持ちであること以外に誇れることがない、アイデンティティ確立できないから結婚してないお前より自分のほうが価値があるとアピールしたがるのかな、と最近思った。
既婚子持ち=ステータスみたいなさ。表向きは独身の生き方も尊重する、自由な時間があって羨まし〜とか言いながらも自分の選択が間違ってた、となることだけは無理なんだろうな。
あとこういう人たち世の中に不満あれこれ言う割にその世の中に子ども産んでてその辺の整合性どうなってるのかいつも不思議。子どもがその世の中で人生送ることを自分が強制してることには何も思わないのかな。
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33
脳波を読み取って像を描き出すみたいな技術絶対そのうち出てくると思う
無理だと思うだろ?それが案外いけるねん
いや知らんけどな でも200年300年あればそのくらいのことは起きたっておかしくない 蓄音器からスマホになったんだし
そしたらスゲーと思うんだよな
パンピーが漫画家になれないのって絵を描く気力がないからじゃん 絵って難しいよな
頭にはカッコイイ画が浮かんでても、実際に線に起こしてみると迫力が全然ない歪んだショボい落書きしか出てこない それを繰り返すうちにへこたれてしまう
念写ができたら違うよ
そりゃ1発めから完璧にはいかないだろうけど、頭の中の像をそのまま出力できてしまえば、それを直していくのは容易だ ここの角度を変えよう、と思えば変わり、それが気に入らなかったらまた瞬間的に変えられる
時間あたりの作業量が圧倒的に増えるんで、誰でも飽きる前にそれなりのものが作り出せるようになる、と俺は思う
・構図などを考えだすセンス
センスさえありゃあ絵が生み出し放題ということになってくる
俺はその世の中が見たいんだよなああ
写真の普及によってさ、地球上で見られない場所はほとんどなくなってきてるじゃん
観光地のグーグルマップを見たら、見たくなるような場所はムチャクチャ撮られまくってあらゆる天気のあらゆる構図が参照できるようになってる
そして次はそれが精神世界に拡大されるんだよ
これまでは表に出ることがなかった、みんなが頭の中に抱えてる世界ってものが、念写技術を通してオープンにされるようになっていく
中学生がスケッチ大会で同じ風景を見て絵を描いたらかなり違う趣が出るじゃん 全員ヘタだから見るに耐えねえけども、それでも確実に各人のもつ何かが絵には出る
念写は全員の技術を爆発的に高めるんです そうすると、彩度・精度・明度をもってみんなの心の中にある風景が浮かび上がってくるんだ
嬉しすぎる 絶対に見たい
念写だよ念写
俺はメチャクチャ期待してるんだけど、無理かなあ
なんとかなりませんか?こう脳波を…脳波をなんとかしてさ…脳波を信じすぎなのかな
頼みますよ
念写ができる世界を作ってくれ
俺も念写したいし、他人の念写が見たすぎる
https://anond.hatelabo.jp/20191016150214
うーん?
セリフがどうかと思う!
いくら相手してもその場その場で言うことを変える人たちと議論は成立できないと思う。
そういう不誠実な姿を自分の子供に見せることは悪影響じゃないのかな。
この言葉を都合よく使ってしまった元増田はどういうものがアヘ顔となるのか、大多数が合意に至れる明確な定義を出さなければならない。
それをしないと今後、「アヘ顔」というのが無敵のマジックワードとしてフェミニストが自由に振り回して良い棍棒として一人歩きしはじめる。
「身体のラインそのままの衣装」が表現されていて公共の場で許容されていたらアウトってことで良いの?
イラストポスターの広告も街頭での動画CMも、そしてもちろん街を歩く実在の人間にも当てはまるわけだ。
以後、公の場で身体のラインそのままの衣装を上半身だけでも下半身だけでもしてたら囲んで叩くの?
私服OKな職場でもピッチリしたジーンズ履いて来たらセクハラで停職とかされてもおかしくないってことでいいの?
真夏でも身体のラインが見えない格好を、女性は公共の場でしなければならなくなるの?
海水浴やプールも公共の場だから、水着の姿で身体のラインを出すのは性的消費に繋がるからNGになるの?
表情もポーズもダメ。身体のラインが出るのも公共の場で許容されてはダメ。
そうなると、現状の要求では
この要求、この国の女性の中で大多数としてのコンセンサス(意見の一致、合意)は取れてる?
そしてこの要求がまだ最後とは思えないんだけど、「私にとって不快な表現は規制すべし」を進めた先、
元増田やそれに賛同した人たちが目指す理想郷としての世の中はどんな姿なの?
増田では、子どもは産んだ人が欲しいから産んだんだろというけど、
子どもはまだなのか聞く知人友人
そこへきて、少子化が問題となると、周囲の期待に答えねばということで
子どもを望むようになる。
結局は、忖度。
こういうこというと、「お前が産んだ子どもは可哀想だ」という言葉に類似することを言われるのだが
心から純粋に子どもが欲しいと思って子どもを産んだ人はどのくらいいるのだろうか。
それは愛する人に意識が向いていて、子どもが主体ではないと思うのだが?
世の中では、暗に子どもを産め、という圧力を女性にかけている。
だからこそ、
子どもはお前がほしくて産んだんだろ。だからどんな苦労をしても責任を持って立派な子に育てろという意見には賛同できない。世の中が圧力をかけたのであれば、世の中も子どもの育成に責任を持つべきだ。
国が出生率をあげたいのであれば、子ども育成に関して手厚い施策をして当然。
世の中が子どもを産めよと圧力をかけたのであれば、その世の中に属する全ての人が子育てしている人に暖かい手助けをすべきだと思う。
違うよ。日本は、他人を思いやることが第一だけど、それは翻せば他人のプライドを傷つける指摘はしてはならない国だから。
なおかつ、恥をかくということを異様に恐れるから。
まあ、そもそも、不景気だから、財布の紐も硬いし、失敗する可能性があるから投資家も投資しないってのもあるけどね。
とすると、自己資金で数カ月で軌道に載せれるようなネタしかできない。
すでに様々な産業がある現代。どうしても起業なんてその世の中のスキマがあるかもしれないというものを体当りして、見つけるしか無い。
かつ、他人のプライドを傷つけてはならないから、そこ間違ってるよと誰も指摘しない。
むしろ、指摘するようなアホは逆恨みされて嫌がらせされる。まさにオレがそのアホでこっちのビジネスまで潰されそうになった。
ニコニコ笑って凄いね凄いね言って実はみんな見捨ててる。それが正解なんだなとオレもやっとわかった。
お前偉そうなこと言うのなら、誰か起業してやろうというやつにガッツリ寄り添って手伝ってやりな。
中学生の頃、というか、昔から変わったことと言えば外見だけだと思っていて、それでも、周りには中身も変わったなんて言われたりする。
丸くなっただとか、話しやすくなっただとか…。
けれど、自分はそう思ってなんてなくて、これからどこに進むのかわからない、秋の入口。
夜空を見上げると、夏の星座はとっくに姿を消していて、こうやって季節は巡るのかと実感させられていく。
焦りもありつつ、でもどこか変わることを恐れて、踏み出せないままじたばたと足踏みをしている。
私の季節は、まだ夏の中だ。
夜の秋の風は、確かに私を包んでいく。
少し遠くに聞こえる電車の音は季節が変わっても相変わらずで、少しホッとする。あの電車の向かう先は何となく分かっているけれど、私は分からないふりをしている。
ぼうっと、温かなオレンジ色に変えられたデスクライトに照らされる白い壁は時間を忘れさせる雰囲気を持っている。この時間がこのまま続けば、迷うことも悩むことも落ち込むことも、いつまでも立ち止まっていることさえも、罪悪感に苛まれることなんてないのに。
そんな淡い願いを、携帯や録画機の時計表示が消し去っていく。今日ももうこんな時間で、そろそろ大半の人がまた明日のために眠りにつく時間。そんな時間にも関わらず、毎日毎日寝るわけでもなく、私はネットの海を徘徊していく。
…別に、こんなこと、心の底から楽しいと思ってやっているわけではない。
真夏に比べて涼しくなった外の空気を開けた窓から吸い込みながら、遠くで聞こえるパトカーのサイレンに耳を傾ける。
私がこうやって、なんの生産性もない時間を進めている最中でも、世界では生産的な行動を繰り返す人々で溢れている。この、私がどうしようもない時間を生きている間にも、ああやって仕事をして世界を回す人達がいる。
かつては、私もあちら側の人間だったかのように思う。少なくとも、高校を卒業するまでは勉学とアルバイトの両立でまあまあ忙しく、今より人間らしい生活をしていたように思う。
私は、今でも私自身に少しというか、かなり期待をしている。
もしかしたら、何かのきっかけがあれば、その過去の私よりも輝けるようになるのではないか…とか。
私はあまり好きなものを作れない。何にもハマれない事が多い。ハマったとしてもまあ、1年、2年くらいですぐに投げ出してしまう。だから何かを好きだと思っても、それは一時の感情にすぎないのだと思う。
でも、そんなことを言うと、私の周りの人は決まって言うことがある。
『でも、絵を描いているじゃない』
…絵なんて、ただ物心付いた頃から知らず知らずに描いていた、ただの習慣に過ぎない。別に暇だったら描くし、やれと言われればやるものだ。
働くことや勉強することと、絵を比べたら、絵のほうが百万倍マシだと私は思っている。
まあ確かに、働くことも勉強することも大切だし、それによって自分の視野が広がるなんて、ありきたりだがままあることだ。
だからといってそれを進んでやるのかと言われればまたそれは違う。
第一、私は自分が絵が得意だとか思ってもいないし、こうして文章を頭のなかで組み立てるのも人より長けているかと問われればそれはまた違うと思っている。上には上がいるのが世の中だ。
その世の中で戦おうなんて考えるほど、私は野蛮な人間ではない。競争社会なんて、生きづらくて息が詰まる。まるで、水の中というか、宇宙空間に何も装備せずに放り出された気分だ。宇宙なんて行ったことあるわけないけど。
普段の私が、何をして過ごしているかなんて結構たかが知れていて、午前中に起床することは最近はほぼないに等しい。気づいたらもう夕方に差し掛かる15時っていうパターンが多い。
起床してからPCに向かうか、スマホを覗き込んでいつも通りソーシャルネットの海に飛び込むか、そんなもんだ。
PCを起動させてからは、当たり前のようにここでもネットを開き、アニメを見るか、ある言語を勉強する。それか、絵描きソフトを立ち上げる。そして時々、PCのメモ帳を立ち上げて物語を文字に起こす。
そんなことをしながら過ごしているとあっという間に夜に差し掛かる。
ほとんど外に出ることのない私は、実は夜や夜中、散歩がてら涼しくなった外を歩くことが好きだ。しかし、最近はそんなことをしていない。心配性の人が心配してしまうから。
別に心配されることをウザイだとか、面倒だとかは特に思わない。むしろ母親にそんな感情を向けられたことがないに等しい私はそれが心地よかったりもする。
世界中の人が表面上、幸せに暮らしているように思わせていても、その中には必ず陰があると私は思っている。
道行く、笑いあっている家族や友人同士、夫婦、カップルでさえも、自分の人生全てを相手に伝えることは困難だろうし、自分がこんなことで辛かったことがあるだとか、今こんなことで少し悩んでるんだ、なんて素直に言えるのはきっとごく僅かだから。
陰が強ければ強いほど、光はその分、陰からは眩しく見える。
本当はわかっていることだ。内に篭っているばかりではなく、何らかの形で外に出る勇気を持つことだとか、人と心の底から笑い合うだとか…。
普通はみんな、そんなこととうの昔にやっていて、子供の頃になんの違和感もなくやっていて、私はそれに遅れているだけ。
別に恨んだりはしていない。今は。そりゃ昔は誰に対してかもわからない怒りを持つことは多かったと思う。それでもなかなか表立って何かアクションを起こすこともなかったかのように思う。
世の中には、こんな空っぽの私を素敵だと言ってくれる人もいる。その全てがお世辞だと分かっていながらも、私はちゃんと笑顔でありがとうを伝える。このやり取りに一体どんな生産性があるのだろうとか考えながら。
私は生産性というものにこだわりを持ちすぎているようにも思う。それは多分確信だ。思い過ごしなんかじゃない。
消費するだけの人間はいつか必ず淘汰される。この世から淘汰されることを望みながら、なのにその淘汰を恐れているのが紛れもなく私なのだ。
私は決して頭がいい方でもないし、かといってスポーツ万能ってわけでも、芸術に特化しているわけでもない。
平凡から外れた単なる落ちこぼれだと思っている。こんなことを言っていても、周りはやっぱり、そんなことないよ、と笑う。私はまたそれに、そうかな。ありがとう。と笑う。また、これに意味があるのかと考えながら。
ふと、頭のなかで文章が浮かんでくる瞬間がある。なんとなくスマホのメモ帳に書き留めて、それをどこに発表するでもなく、結局はメモ帳を埋めていくだけのただの文字列と化す。
勿体無い。
そんな言葉が頭の端っこで揺れながら、同じように何にも代わり栄えしない、消費しかしない日々を過ごす。
いっその事、みんな私のことをこの能無しだとか、ゴミだとか、罵ってくれたら楽なんじゃないかとも考える。それでも、実際にそんな場面になったらと思うと、また怖くなってそういった淘汰を恐れる。
結局のところ、私は何になりたいのかわからずに蹲ったまま、また今日を迎える。
何者にもなれない私は、何者かになれている人々を羨むだけなのだ。
連日のパクリ騒動について静観決め込んでたけど、デザイナー連中が一向に本音を吐こうとしないからそろそろ苛ついてきた。
デザイナー連中はいつまでオリジナルが大事だとかすました顔で言っているつもりなのか。
それならば聞くが、君たちはいつピカソやダリや北斎を超えたのか?
自分たちが過去の作品に習って学校で体系的に学んできたことが自分たちのデザインがそもそもパクリの上に成り立っていることを示す確固たる証拠ではないか。
それが何か。
「一部のパクリデザイナーを見て全員をそう思わないでほしい。」「一生懸命に素材を撮影したり手で書いたりしている人がかわいそう。」
笑止千万。ヘソで茶を沸かしてやるからまずはこれ飲んで落ち着け。
それなら手書きしたり自分で素材撮影したりすればそれはオリジナルだと言えるの?
その構図にモチーフやインスパイアがあってもそれはパクリとは言わないってわけ?
それなら聞くが、既存の素材を取り込んでフォトショで加工することと何が違うの?
だからもうみんなではっきり認めなさい。そんなことは全て綺麗事だということを。
一度でもデザインに携わったことのある人間に聞くが、自分が創りだしたそれが全く何の影響も受けてない完全無欠のオリジナル作品だと言い切ることができますか?
だったらなんでライターが持ってきたどっかで見たような写真と文章を、デザイナーはどっかでみたようなレイアウトで配置しつづけるの?
まともにデザインなんてしたことがないような連中がいうならまだしも、プロ連中がそれをいってちゃダメだろ。
だったらインスパイアされた相手にいつも許可とってライセンス料払ってるの???
パクった佐野研二郎が悪いんじゃなくて、デザインはパクリなんてない崇高で潔白なものじゃないとダメって思っている世の中にあるわけ。
パクリ問題の本質は、パクることの是非ではなく、ライセンスの支払いやら法的効力に全て帰結することにあります。
だって違法じゃなければデザインなんてみんなパクりなんだから問題にしようがないんだもの。
それを世の中がパクリそのものが悪なんて顔してるから、世の中のデザインは窮屈でしょうがないんだよ。
例えばスペインの片隅にある劇場にどうやってアポとってライセンス料契約とかを結べばいいわけ?
どんなに似てようが、国も違ければ法律も違う上で、違法になり得ないなら別にかまわないのよ。
だって、デザイナーはそれよりも重要な使命を負っているのだから。
彼らがやっていることはもっと崇高なの。
世界中から集めた数多あるデザインを適切な場所に適切なデザインで再構築と再配置するという大きな使命を担っているんだ。
世論に押されてだんまり決め込んでないで、デザインなんてパクリだ何が悪いってさっさと開き直ることだね。
どうせ事なかれ主義の法律が追いついていないだけな瑣末な問題だ。
現に中国で生まれたラーメンが日本で姿を変えアメリカに持ち込まれたことで多くの人が喜んでいるではないか。
自分たちの行いが正しいと信じているなら、変えるべきものは法だ。それこそ一国の首相が認めていることではないか。
問題提起してさっさと法改正させないと、それこそデザインの死が訪れてしまう。
パクリ問題でもとのデザインがあればだれでもデザイナーになれるって言ってる奴いたな。
だったらお前はなんで世界的デザイナーになれてないだ?デザイナーにかぎらず、少なくとも実業家くらいにはなっているはずだろ?
くだらないこと言ってる暇があったら自分の足元よく見ろよ。
世界をめぐる情報は、早さ、量、質ともに人類がかつて経験したことのない水準に到達しているのだ。
その世の中で自分以前にオリジナルが存在しないことを証明するのは、いわゆる悪魔の証明というやつで、証明する労力と見返りが釣り合うことのない問題だ。
結局はそれが違法であるか否かという点でしか問題として取り上げることは困難なのだ。
そんなことにリソースを割き続けることは人類にとって単なる損失だ。
今の世の中で高く評価されるべき能力は、世界中に点在する様々な要素を、今、それを求めている場所に求めている形で再構築する能力だ。
そういう意味ではいつまでもデザイナーなんて呼び方に酔いしれてないで、さっさとコーディネーターとでも名乗り直すことだな。
いずれにしても君たちの行いは求めてられていることなのだ。
亀梨和也を取り巻く全てのものを愛してえ。できねえけど愛してえ。愛するまではいかなくとも、受け入れていたい。
彼の周りのメンバーやタレント、スタッフ関係者はもちろん、ファンも盲目もモンペもアンチも心ない言葉を浴びせる一般人もだ。
アイドルというもの(アイドルの全てを知るわけではないのでここでは亀梨和也と限定したい)のべ何億ものひと目にさらされ、知る人見知らぬ人の数千億の言霊を受けて今を構築していく生き物なのだと思っている。
テレビをつけていてなんとなく見ていた人がなんとなく放つ褒め言葉も、第一印象だけで放つ揶揄の言葉も、誰かが放った何気ない言葉に過敏に反応して亀梨くんを守りたくて怒るモンペも、何かがイヤで亀梨くんのアンチとして批判を続ける人も、世の中にあふれる全ての言葉が亀梨和也のイメージ、世界をつくるのだ。
数えきれないほど沢山の他人の目と言葉の上に亀梨和也は存在しているわけで、否定的意見も肯定的意見も彼をつくりあげる要素になると思うと、その世の中の流れをすべて受け入れて、その中で生きていく亀梨和也を見ていたいと最近思う。
という風に思い始めたのも、2014年のKAT-TUNのツアーcomeHereに参加したことがきっかけのひとつになっていると思う。
comeHereコンサートの亀梨くんのソロの開始時、無音のステージに静かに登場する。その際、高ぶった一部のファンが「かめ!」と声を上げる。静かな会場に響く声はとても目立つし、実際それについて批判する人も沢山いた。
悲鳴をあげさせるのも、それを亀梨和也の世界が崩れる、不愉快だ、と怒りを示す人が現れるのも、亀梨和也を原因としたエネルギーだ。そのエネルギーの中で彼はシンプルにストレートに亀梨和也を表現した。洗練されていて、人の手垢にまみれていて、でも揺るぎがなくて、どこか切なくて美しく、あまりにも生きる人間だった。鮮烈だった。そしてそれをつくったのは彼ひとりではなく、彼の周囲を渦巻くすべてのものなんだろうと感じた。あのステージはファンのそういったエネルギーを含めてできる亀梨和也の世界に思えた。
ジャニオタはファン同士の論争がよく起こるように思う。それがストレスと感じることも多いのだが、全ては「タレントが好きすぎるため」起こるもので、そのエネルギーはアイドルが輝く要素の一つに少なからずなっているんだろうなと思うと、少し穏やかになれる気がした。
この年齢だったら「分かってる」とかこの年齢以下だったら「分かってない」
えーとね、そこを、完全に理解してるかどうかで区別してるわけではないわけ。
これをどこかで区別しなくては行けない。すべての事柄にというわけではないけど、
どこかで権利を線引すべきだ、ということ自体はあなたも同意してくれますよね?
もし、そのような区別を全てなくしなさい、という理論であれば別の話ですが。そこんところどうでしょう?
社会を作る以上、区別はしなくてはいけない、ということを前提で。
実際子供がなんで俺らは出来ないんだー、って文句言いますよね?(あなたが言ってるのはそのレベルなんですけども)
ただ、すべての子供が自分勝手にすることを許可されたら大変な事になることはわかりますよね?
この時に、最も公平な線引の仕方が年齢、というだけです。
年齢によっておおまかに能力の差を測る事が出来る。
ある程度の能力を見込むことが出来る。
ただ、そこに個人的な要素は入れない。
個人的な要素を入れてしまえばどうしたって誰かの恣意的なものになる。
年令による制限は勿論知的にどうか、ということを含みますが、絶対ではありません。
ただ、最も差別的でなく、公平に区別しようと思えばそれが一番やりやすい、というわけです。
私の立場の問題なので、あえていいました。
なんお立場の話をしてるのでしょうか?
あなたが女性で女性の差別を撤廃しろ、ということを言いたい、ということ?
恐ろしい?女の人しか子供を産めないのは生物的な事実ですけど。
人間社会が発展して今、家事も子供の面倒も楽になったし、産後の回復も早くなったし、女性が男性と同じレベルで働ける様になって来ましたね?
ただ、過去には同じレベルで、と言うのは結婚して子供を産む以上は不可能だったわけですね?
ここまで言うと、子供を産まない女性への差別だ、というかもしれませんが、
まず、生きてく上で、大多数の人が快適に生きていく社会を作るのは当然のことです。
基本的にすべての人は自分が良くなる為に社会に貢献し、社会のルールを守ってるわけで。
その中で、豊かになって来て、余裕が出てきたら、マイノリティーに対しても、他に危害を加えない、害にならないものであればどんどん認めていく、と言う風潮なわけです。
逆に、そうでなければ、女も男と同じだけの力仕事を行い、残業をし、産休なんてものもホントに産む瞬間くらいしか許されない様な生活を強いられるのですが、
それで良いのでしょうか?
「平等」とは一体何なのでしょう?
貴方の言ってることは、単に、自分の都合の良いとこだけの「良いとこ取り」でしかありません。
勿論、社会が対応出来る限りの事は対応すべきだし、今や、職業よっては、元々男が多い職場などでは、女性を優先して取るあまり、
同じ能力で合ったら女性の方を取る様に、といった逆差別のようなことすら起こっています。
それについてはどう考えますか?
また、客観的とはどういう点でしょうか。
単に、個人的な差によらない、という意味です。
どこの出身でも誰から生まれても、どんな教育を受けてきても10年生きた、ただそれだけです。
なんでそこ、理解しようとしないかね?
ですから、その部分、どう判断するんですか?
年齢による、というのは、ある程度の割合が一定の程度に達するのがこれくらいだ、という基準だ、というのは良いですよね?
勿論、全ての人がそれに達する、というわけではありませんが、その基準は全ての人に平等な基準です。
いいですか?これが平等です。
一定期間は保護下に置く代わりに権利を制限する。その期間というものを平等にするというのがもっとも重要なことだとおもいますがね?
テストに落ちたから自分は恋愛できない、あいつは受かったから恋愛できる、なんですかその世の中は?
だからぁ、その知的障害者に対して認めてる投票権を認めないのは、弾圧だつってんの。
それと同じこと。
知的障害者に関しては特別な処置が取られてるだけだって言ってるの。
そうですよ?だから、難しい話なんですよ。
子供のIQテストなんかで測る、なんてことをしたら、それこそやりたい放題ですよ。
また知的障害者が認められている*(つまり知的には認めてよい水準)であるならば、
当然児童にも、その程度には認められて然るべきという話ですよ。
ですから、知的障害者については、現在の社会が成熟してそのような特別な場合に関して別途対処できる余裕があるから
利便を与えてるにすぎません。
別途、保護を与えてるだけです。
後は、貴方の言う、「子供を性的対象に見るけど、性行為には及ばない」という人に対する対処についての問題ですよね?
あなたの言ってることでは「保護者の範囲」なんてものは存在しないじゃないですか?
その1つには、「区別」なんてものは簡単に出来ない、と言う前提があります。
芸術とはなんでしょう?
子供が実際自分でやりたいと言ったかどうか、ということも分かりません。
例えば、貧乏な家に生まれて、それでお金がもらえる、というのであれば喜んでやるでしょう。
IQテストで周りの子を凌駕するような子でも、むしろ逆に、その時点で一番金が稼げる方法、ということを
理解して敢えて行うでしょう。
ただ、子供の時点でそれを初めてしまえば、一生そういった方向でしか生きていけないでしょう。
実際、そのように金だけで買われていった過去があるので、それらを制限しよう、となってきたのですが?
恐ろしい思想の持ち主ですね、相変わらず。
たとえば、ある成人が自分の子供の頃に変態的な行為を行い、それを写真や動画で残していたとしましょう。
逆に、なんとなくヌードをやってみた、と言う子が居て、その写真を小児性愛者が持っていたとして、
その子がどうしたって消したい、とあとで思った時、誰が被害者でしょうか?
この様な自体を事前に防ぐため、多少厳し目の法律を作ることはあっても仕方がない、と思考実験によってすぐに分かります。
という風潮が有ります。
その、子供の頃に変態行為を行ってることは害でしかありませんので、むしろ規制すべき対象です。
では、それで良いのでは?
小児性愛者、と言うのは、少なくとも「子供を性的対象とする」人だ、ということは良いわけですよね?
貴方の中では、その中で、実際に子供に性的行為を行う人と、それを我慢出来る人、に分けたい様ですが、
それはどう区別したら良いのでしょうか?
昔の終身雇用制度は、その責任のほとんどを会社が担保していた。
就職すれば定年まで働きあげることが出来、年齢に伴い賃金が上昇する。
会社を辞める時には退職金が出され、さらに会社も多くを負担する年金制度があった。
その世の中では社員の首を切ることは、社会保障を失うに等しいので、当然のように規制がかかることになる。
その世の中で、画家や音楽家などを目指すと言うのは、社会保障の一部を自らの意志で捨てる事になるので、
「自己責任」が問われるのも致し方ない。
障碍を抱えたりすると、この日本的社会保障から外されてしまうため、当時の日本では「障碍者枠」などを会社に設けるように求め、
この時期の社会主義に近い日本を、良い時代と思うか暗黒時代と思うかは、立ち位置によって異なるだろう。
時は移って、いま日本は過渡期にある。
日本的社会保障制度であった、終身雇用は失われつつあり、実力主義での雇用が労使ともに推奨されている。
雇用については会社が保証するのではなく、個人がその実力で担保するように変わっているし、雇用の流動性を謳ったところで、
雇用に足る能力がなければ「働きたくても仕事がない」状態になる。
本来であれば、これらの人が従事すべきであった単純労働も、技術革新や海外の低賃金労働力などにより、どんどん失われていっている。
さて、ではこれらを改善するのに「自己責任(雇用に足る能力)」を問わないとすると、これはもう「能力に応じた雇用を社会が必ず用意する」か
「労働無くしても生活を保障する」よりない。
結果として社会の生産効率が上昇すればするほど、「雇用に対して能力の足りない人」は増えることになり、格差が広がっていくことになる。
「働きたくても働けない無能」が増えるのだから、「納税の義務」も一部で機能しなくなる。
で、だ。
「働きたくても働けない無能」とか「多動性障害などにより社会の枠にはまれない人」に自己責任が低い(社会の排他性が高い)として、だからどうだと言うんだろ。
時代が変われば申請の敷居が下がっても良いとは思うが、財源は無限じゃない。
現在で200万人。
これが、1000万人になったとして、それを養う生産性をどこで担保するのか、また養っていく人の同意をどこで取るのか。
現状の、日本人だけの行政でだって、「住みにくくなったのであれば、住みやすそうな地域に移ればいい」なんてマツリゴトはNGだろ。
それは当然の前提だろ。
多様な意見が反映されるべきであって、その結果が受け入れられないなら去るべきだということ。
普通に考えて、言葉の通じにくくて文化に違いのあるハンデをかかえてる外国人が住みやすいなら、ハンデのない日本人であれば当然に住みやすいだろうに。
障害者が住みやすければ、健常者も住みやすいというのと同じこと。
不満を感じるかどうかは人それぞれ。
自分にとって住みにくくなったのであれば、住みやすそうな地域に移ればいいというのは、日本国民だろうが外国人だろうが同じこと。
財政破綻した夕張の人に「居住移転の自由を行使しないとか、馬鹿なの?」って言うのか。
現状の、日本人だけの行政でだって、「住みにくくなったのであれば、住みやすそうな地域に移ればいい」なんてマツリゴトはNGだろ。
そこは建前でも、「外国人参政権があれば万人にとって平等な行政が出来る」としなければ。
外国人が住みやすければ日本人も住みやすい、ってのは夢見すぎ。