はてなキーワード: 武雄市とは
まずアートの定義は?昔の芸術のほとんどはデジタル化されている。
大人が一ヶ月掛かって描いた絵と子供がカメラで取った写真が同じなら。
つまり、古典アートは骨董品に成り下がったと言いたい。実用性の割り
に高価だし、感動を与えるという意味でなら映画やアニメやテレビや本
の方が優れている。つまり、インターネット以前のメディアが芸術の領
域に大きく踏み込んできた。それでも多様性や奇抜性で一日の長があっ
たがインターネットの登場でそれも無くなった。
近代芸術なりキュビズムなりは解説や訓練なしでは大衆には分かりにく
い。
3日前に佐賀県の武雄市でチームラボの展示を見てきたけど、ちょっと眩
しかったけど、なかなか良かった。3次元の芸術には一日の長があると
思う。難しくなく単純に綺麗な作品が多かった。庶民には難しい料理よ
り単純で美味しい料理が受ける。難しいことやりたいなら前菜かデザー
トでやると良いと思う。
みんなデザインってものをデザイナー様が適当にオナニーするだけの仕事だと思ってるのかも知れないけど、決定権は依頼主にあるからね。
ツタヤ図書館のときはデザイナーよりも武雄市長に非難が集まったでしょ。本来そういうことよ。
糞みたいなデザインは、ある種依頼主が糞を望んだ結果だとも言い換えられるわけ。
少額のデザインなら成果物をいきなり提出されて依頼主は不本意、ということもあるだろうけど、何億もかかる図書館の建築でそれはない。
普通のデザインですら何度も打ち合わせを重ねて、意見交換や認識の齟齬がないか擦り合わせる。依頼主がOKを出してないのに勝手に作っておしまい、なんてことはあり得ない。
つまり、この話の一番の問題は、最高学府たる大学が、本を探すことすら困難で勉強しにくい糞図書館であることを「知っていながら」許可したっていうこと。大学が学問を否定するような施設を無駄に作ったのですよ。馬鹿さ加減ではデザイナーの比じゃない。
もしデザイナーに任せっきりで騙されたんだとしたら責任感がなさすぎてあり得ないし、図書の分類と表示は基本要件なので知らなかったはずがないんだけどね。
普通は馬鹿で糞なデザイン案が出されても、提案時にぶん殴って却下すればそれで終わる。大学側は当然そうすべきだったのに、本なんて探せなくても構わないでしょ使いにくい図書館でも別にいいじゃん、とOKを出したことの方がどう考えてもヤバイわけ。
デザイナーだけを叩くなっていうのは、スケープゴートにされてこういう背後の問題が見えにくくなってしまうから。
まず、喋りに難があるプログラマやエンジニアはIT業界の正常系コミュニティから全員退場させられる。
牛尾氏は今年になって何かに取りつかれたように「アジャイルが浸透してない日本ヤバイ」「DevOpsが導入されない日本ヤバイ」という旨のブログエントリや講演を繰り返しており、その姿は一時期の某武雄市長の姿を彷彿とさせる。
彼が繰り返し言ってることの一つとして、日本人は成果を上げるのに資料を作りすぎだ、というのがある。アメリカでは資料作成は最小限にしてあとは口頭で表現しているが、日本はそうじゃなく資料に頼るから生産性が低い、という論法。手を動かす工数は最小限、いや動かさなくても良い、とにかく目的だけ明確にして会議なりプレゼンなりに臨むべきという考えだ。
それ自体は一見間違いではないと思う。最小の工数で最大の効果を得られればそれで良い。
でも、口でカバーすることが得意じゃない、いわゆる「口下手」人はアメリカではどう扱われるのだろうか?
答えは簡単。アメリカではそのような人は「障碍者」扱いされるので、IT業界でまともな職にありつけなくなるだけだ。何しろあの国ではいわゆる「口下手」な人はおしなべて吃音者扱いされ、かつ吃音症が障害認定される制度であるので、障碍者カテゴリにぶちこまれておしまい。さらに言うとアメリカは障害者雇用の面では日本よりも劣っているのが実態で、ここ10年ほど障害者雇用人数は右肩下がり。毎年確実に雇用者数と雇用率が増えている日本とは正反対の動向だ。
仕事で出会うアメリカ人が皆口達者であるのは何故か考えたことはあるだろうか?コミュニケーションやプレゼン教育を幼少期から叩き込まれる教育制度の影響もあるが、このように口下手な人を障碍者カテゴリに追いやる仕組みが備わっていることは見逃せない。
牛尾氏はそのようなアメリカ社会を理想形として考えているようだ。つまり口下手な日本人プログラマやエンジニアは障碍者として、特例子会社でテスターとしてせいぜい頑張るか、アマゾンの倉庫で汗水たらしてください、と。本人はさすがにそこまでダイレクトに言わないが、理想としているのはそういう社会だろう。
都道府県や市町村、もちろん国家だとか、公共性の高い観光協会だとか商工会だとかもそうですが、そうした団体が、アニメやゲームとタイアップとか、さらに言えばツタヤとタイアップとか、こうした事象が「社会問題化」しています。
なぜ問題になるのかその原因はというと、私は「デモクラシーが成立していないから」だと考えるわけです。
例えば市町村が、「萌えキャラ」にしろ「ゆるキャラ」でさえも、そうした広報、というかむしろ広告宣伝ですが、そういう行政をします。そうすると、市町村の構成員であり最も基本的な利害関係者(ステイクホルダー)は、そこの市町村民です。そこではたして、そこの市町村民の意思が、その広告宣伝活動に反映されているのでしょうか?
例えば武雄市などがツタヤと「タイアップ」したわけですが、これも市民の意思が反映されているのでしょうか、また、市民の利害に目を向けられているのでしょうか。
「選挙で勝ったから」という理由で、首長が何をしてもいいという風潮になっていますよね。その選挙でその候補者に投票した人がどのくらいの割合なのでしょうか? そもそも、全員一致で当選したとしたって、個別案件で市民の意思を完全無視していいという理屈は立たないと思います。
それに、投票の拒絶されている人(例えば未成年者)の利害に目が向けられていますか?
また、その施策が実行された後、将来になってその施策の利害を負わされる人への眼差しにも欠けています。典型的には、日本の「借金」の件もそうです。世代間の「支えあい」モデルの破綻した公的年金もそうです。だから率直に言って、「こういう無責任な人たちには人間の血が通っているのか?」と思いますよ。強権的(ポピュリズム的)な思想と、儒教的な(年長者を尊敬し、子孫に責めを負うという)思想が混在し、致命的な矛盾を起こしていると思います。
さてともかく、「選挙で勝ったから」という発想でさえも問題があるし、「俺が責任をとる」と云われても、損害が出てからお前が腹を切っても損害が無かったことにはならないわけですね。
ましてや、具体的で個別的な施策決定はむしろ、首長ではなく職員が決めていることが多いと思われます。首長は、上がってきた案にサインするだけかもしれませんし、ましてや「聞いていない」ことすらありうるのではないかと思います。そうするとつまり、その施策には住民の意思を反映するプロセスがあるのか、ということが問題であるわけです。
例えば、東京オリンピックのエンブレム問題もやはりそうなんですね。東京都がやるんだったら、東京都民の意思を反映しないといけないのに、むしろ密室的に行われていたわけですよね。
このような問題はですね、そのまま、「日本国」の問題でもあります。政策決定にしろ、道路を敷くだのダムを建てるだの原発を建てるだのもそうですし、「消費税」を上げるとかいうのもそうです。さらには、広報ポスターやCMに誰を採用するかというところにも、1件あたりならばたかが個別案件でも、継続的に、特定のタレントとか広告代理店とかを使っていくことが慣例化するともう、個別案件だといって済むとは思えないと感じます。(ちなみに、こうした問題点を軽減するための手法に「パブリックコメント」の制度があるわけです。)
そして、例えば、市町村だとか商工会や観光協会が特定のアニメとタイアップすると、当該市町村はそのアニメのイメージを負うことになります。そうすると、市町村民もそのイメージと影響を負うことになってしまいます。市町村民は意思決定プロセスに関与していないのに、利害を負わされるわけです。
それがかりにどっかの中小企業が宣伝でタイアップしたというのならば、それはその企業の「自由」だということになるのでしょう。上場企業だったら株主に責を負いますが、少なからぬ株主は「儲けてくれればいい」と思っているので、実際に収益が出れば文句は出にくい、つまり問題化はしにくいかもしれません。
それでも例えば鉄道事業者がやったら、その列車に乗る人みんなが、その作品だかなんだかを(事実上強制的に)見せられたり、さらには車内アナウンスまでも差し替えられて聞かされたりするわけです。そうすると、たとえ私鉄、「民間事業者」であったとしても、無難な選択にとどまって、「大冒険」はすべきではないというのが原則だと思われます。
ですから、事業の性質や規模によっては公共性が高くなり、決してプライベートでは済まされないことがあります。
話が長くなりましたが、昨今の騒動をみると、「大冒険をするな(最大公約数的であれ)」という主張と、「大冒険を許さないと社会が改まらない」という主張の二極対立、デジタル的・バイナリ的なコンフリクトになっているように思います。
しかし問題の本質は、「大冒険」をしても良い場合でも、その決定プロセスで構成員や利害関係者の意思を聴き反映させなければならない、ということにあるのです。
それを言い換えればデモクラシーだというわけです。
問題の本質は通底しているのに、そうした事件一つ一つを分断して個別化し、洞察や反省をしない習性が今の「日本人」にあるように思えます。
http://www.asahi.com/articles/ASH9Z3D16H9ZOBJB006.html
まず、現在の小牧図書館が老朽化と手狭になっている問題は事実です。
そういうこともあり新図書館建設自体は早急に行なわなければならない事項ではあります。
しかし東西に長い市の形状と後述する交通アクセスの不便さ(+駐車場の少なさ)もあり
小牧中心部から離れた人たちなどは周辺自治体の図書館を利用している場合も多かった印象です。
ツタヤ図書館計画が出てきた当初は武雄市の問題もそこまで明るみに出ていなかったこともあり、
「図書館が立派になってちょっとおしゃれになるならそれもアリじゃない」程度の感想でした。
しかし、ここ数ヶ月で武雄市の問題がメディアで取り上げられるようになると「こりゃまずいな」と思うようになりました。
初期のころから反対運動を行ない住民投票までこぎ着けた方たちには感謝しています。
小牧駅前再開発の問題はもう何十年も定まらず、何とかしたい市の思惑は分からなくも無いです。
名鉄小牧線は元々本数が少なく地下鉄接続計画も進まず、接続後も名駅や栄などの繁華街に直通で行けるわけでもなく
もたもたしているうちにピーチライナーも廃線となり何とか持ちこたえていた駅前周辺が一気に寂れていきました。
鉄道を利用するにも西側は岩倉(名鉄犬山線)、東側は春日井や高蔵寺(JR中央線)の方が便利なので流れるのが実情です。
もっとも東名名神中央道が接続する自動車交通の要衝でありほとんどの住民は自動車を利用しますし
逆に自動車で移動するとなると古い区画が多く残り、狭い道も多い小牧市中心部は近づきにくいので不便な場所です。
そういった現実もあり、「駅前の賑わい創出」はツタヤ図書館ができた程度では難しいだろうなぁと言うのが実感です。
過去にも市役所の新庁舎を建てるとかいろいろ計画は上がりましたがいずれも頓挫。
近くの第三セクター商業施設「ラピオ」もテナントを揃えるのに苦労しているのが実情です。
車で移動する住民としては近づきにくく駐車場も有料でテナントも微妙なラピオよりは
駐車場も無料で広くテナントも魅力的な周辺の大型商業施設に行くのは当然です。
持て余した土地を何とか活用したい小牧市の長年の思いもあるでしょうし
前述の老朽化・蔵書の限界の問題は待ってはくれず、新図書館建設それ自体は賛成です。
指定管理者制度そのものではなく、前武雄市長が認めた契約がガバガバだったというのであれば同意します。
ただし、きつく締める契約にすれば民間にやらせる意義や現場判断の軽視にもつながりかねません。
なので、内容の練り直しもさることながら、事業者の見直しが先決だと思います。
施設の使命を果たすためには短期的な契約では難しいことも多いのですが、使命の刷新や発信を考える上でも更新期間が短いことはやむなしとは思います。
公金であろうがなかろうが不正は起こりますが、公金で行う重大さを理解出来ていない人間もいることで起こる不正は大変なことです。
そして、公金ものの監査は年々厳しくなっています。(武雄市については武雄市で仕事をしたことがないので手触りは分かりません)
なぜ今回のような不埒な行いがされてしまうかというと、多くの方が考えているとおり、当時の権力者が推した事業者だったからに尽きるでしょう。
それで指定管理者制度がなくなればいいという機運が起こると、それはそれで大変なことになる。
そもそも指定管理者制度って元武雄市長が作ったガバガバ制度でしょ
練り直した方がいいんじゃねえの
武雄市のようなことが起こると、矛先が一斉に全体へ向いてしまうので同業者は本当に迷惑していると思う。
今回、明らかにCCCが悪いので即刻とまではいかずとも、契約の更新はすべきでない。
赤字垂れ流し確定の中、いけしゃあしゃあとあんなものを図書館に送り込むことを認める人間が権力を持っている組織に信用はない。
それで指定管理者制度がなくなればいいという機運が起こると、それはそれで大変なことになる。
なぜなら直営管理をする場合、専門知識を備えてプロデュースやディレクション等を行える人材なんて役所にはほぼいないからだ。
また、予算は使い切るが原則なのでゴミのような出費が生じる。お金の使い方が分からないのは罪だ。
では、専門職を委託契約的に結ぶのか、権限はどの程度になるのかということにもなる。
(今回は図書館であり司書がいるので、気の毒という言い方では生ぬるいくらいにかわいそう)
最後に、今回の原因は株式会社などの営利法人だからという理由ではない。いい仕事をしている事業者は多い。
その中で何を提供できるか悩めない事業者に管理を任せたものは図鑑の角で頭を打たれて○ね。
このケースは非公募だから、ざっくりとした相見積はとった上での「ありき」でしょうね。
あと、競争がなくてもマーケティングが出来ればよいサービスの提供はできるので、メリットがないとは言い切れません。
入札なり公募なりすれば少なくとも見た目上の競争は見せられますし、それがない場合の議会の追及等の方がデメリットでしょうけどね。
ぼくの考えは1ミリも変わらない、どころか、この確信は強固になっているので、あらためて書いておきましょう。
わかりますか。専業ブロガーのブログはダメなんです。もう、読んでて全然面白くない。
異論がある?異論は認めません。じゃあ面白いブログを教えてくださいよ。ぼくは本当に、ブロガー専門で生活している人のブログで「面白い!」と思った試しがありません。
なぜか。教えて差し上げましょう!
1. 守りに入っている
まさにイケダハヤトさんが書いてる「まだ東京で消耗してるの?」のブログは象徴的で、あれつまらないと思うんですよ。イケハヤさん見てますか〜?つまらないですよ、最近。
いや、イケハヤブログは良くできてますよ。セルフメディアとしては日本一だと思います。煽り見出しの選択もうまいし、それとは分からないようにこっそりとチマチマ稼ぐマネタイズもうまいです。
でも、決定的に「面白くない」んですって。
何かと言うと、ブロガーは「攻められない」んです。自分の居場所であるブログを、自分を、守らないといけません。彼は自分のブランディングを傷つけることができません。
サラリーマンはブログで生きているわけではないし、匿名でも書けるので、ブログには何でも書くことができるんですよ。他人に読まれなくても、自分にとって面白いことは何かと考えるエントリーを自由に書くことだってできる。一方でイケハヤの記事は炎上に溢れていますが、それは模倣可能で、もはやコモディティなんですよ。
最近流行ってるじゃないですか、毒のある炎上って。「ブログ芸人」はアートではなく、ビジネスの領域の「テクニック」に堕しました。イケハヤは一つの時代を築き、今終わりかけているのです。勝手ながら、次の変化に期待しています。
…と、イケハヤに対して愛の刃を振るってしまいましたが、要するに「もうつまらない」んです。専業ブロガーの最高峰の集大成ともいえるイケハヤですら、もう面白くない。小銭ねらいの炎上より本当に言いたいことを優先する覚悟が、これからのメディアには求められるのです。
イケハヤには言わずもがな、守るものがあります。ブロガーであるイケハヤが文章を書くとき、イケハヤは「こんなこと書いたら炎上しないかも」という恐れが頭をよぎります。そしてイケハヤは、結論を変え、文末のエッジをねじり、「笑い」と「愛」を手放してしまうのです。ああ!
自分を燃料として炎上するセルフブランディングのブログからは、もう「面白いもの」は生まれてこないんです。炎上のテクニックを極める方向にしかいかない。あとは意識高い系とか社畜批判コンテンツ。ツイッターの大学生のアカウントでいいじゃん、それ。あとは「◯◯が超つまらない理由」とかね。NAVERまとめでいいじゃん、nanapiでいいじゃん、それ。あなたの貴重な人生を割いてまで書く意味はない!
2. 変化が遅すぎる
まぁそりゃそうで、「毎日10時間ネットばっかり見ているイケハヤ」と、「毎日3時間しかネットを見ずにあとはハードな仕事をしたり美味いモノを食ったりしている田端信太郎」がいたら、後者の方が経験値もあがるし女にもモテるんですよね。専業ブロガーは経験値が少なすぎるんで、変化が見えないんです。
イケハヤのようなブロガーは、一日中ブログのことを考えています。データを見て、PDCAを回しています。毎日のように書いているので、ブログを書くスピードも上がります。
イケハヤは今や、1日15本の記事を生産できます。毎日10本更新を365日続けて、3,650本。兼業ブロガーはせいぜい1日に1本でしょうから、365本。そりゃ、記事の濃さは違いますよね。はい論破。…小銭稼ぐなら、薄い炎上記事を量産するより要領のいい方法がいくらでもあるのに。
読者は、イケハヤの変化を望んでいるんです。みんなドラゴンボールが好きですよね。孫悟空がいつまでたっても成長しなかったら、飽きるじゃないですか。
変化しなければ、成長しなければ、面白くないのです。ブログのPVと、チャリンチャリンと落ちてくる小銭ばかりが気になって、狭量な考えのブロガーに終わるんではなくて、多様な考えの人と沸騰的なコミュニケーションを取るような情報量の多い経験に徹底的に時間とエネルギーを注いで、人生の幅を拡げるべきなのです。そうしなければ、イケハヤは主人公にはなれません。イケハヤはいつまでたってもイロモノか、懐かしのブログ芸人の域にとどまります。
3. みんなと同じようなことしか書けない
ブロガーとして成功するために知っておくべき、真理を伝授しましょう。目ん玉洗ってよく読んでください。
この2つの真理から導き出されるのは「専業ブロガーは他者との交流が決定的に欠如しているがゆえに、どれだけ頑張っても同じようなことしか書けない」という帰結です。
面白い文章が書きたければ、自分が面白くならないといけません。面白い生き方をすれば、あなたの文章能力が低かろうが、あなたのブログは読まれます。
あなたの生き方が薄っぺらで独善的でつまらなければ、どれだけ技巧を凝らしても、ブログは面白くなりません。面白がられたとしても、一発ネタで終わりですね、せいぜい。テクニックレベルの話は、すぐに飽きられます。
イケハヤは社会的には珍しい立場でもなんでもなく「新卒で入った大企業を1年で辞めて」「次に入ったベンチャーも1年で辞めて」「社会人3年目に独立して」「ブロガーとして生計を立てており」「東京を捨てて高知の山奥に家族で住んでいる」という、割とオリジナリティの高いバックグラウンドを有しているつもりのようですが、この程度のドロップアウトした人間などいくらでもいますし、書く文章など大して面白くないですよ。
イケハヤ程度の人間なんて無数にいるんです、この日本において。その立場を選ぶかぎり、イケハヤは「その程度のこと」しか書けません。ニートのブロガーの方がよっぽど面白いですよ。ニートの方が珍しい存在ですから。
クリエイターになりたければ、まずは環境を選べ、ということです。あなたが他者の相反する利害に揉まれるような混沌とした環境にいればいるほど、生み出すものは面白くなります。専業ブロガーに甘んじているかぎり、差別化ができないのです。
4. 応援したくならない
イケハヤのブログって、あんまり応援する気にならないんですよねぇ。だって、別に誰が応援しなくてもイケハヤは生きていけるわけですから。
一方で、たとえば宮森さん。いろいろ捨てて実家に戻り、ブログを書きまくっているようです。これはもう、応援したくなりますよね。たまにブログを見て、面白い記事を見つけては拡散しています。でもいつか家を出るような気がしますし、ぼくはそれを勧めますね。ブログで食うのはいいけど、イケハヤのマネはして欲しくないものです。
イケハヤも現在、ブログで活動していますが飯は3食食ってます。食欲の問題は別ですから。月収もやっと3万円超えた程度なのにね。しかし、イケハヤはあのブログで生きていこうと決めたようです。それは自分が生きるために、他人の生き方をけなしながら炎上しつづけるということです。そんな生き方の価値が、他の人よりそんなに高いものなのでしょうか?
メディアづくりにおいて「応援される」という要素は超重要です。面白い存在であれば応援されるし、応援されればさらに面白いものを作れるようになります。しかしイケハヤのような拙い炎上芸も、かなり飽きられています。だからこそ彼にも焦りがあるのでしょう。
住宅ローンの記事なんて、自分さえ儲かれば他人をだましてもいいという領域まで行っちゃってます。あれには呆れました。これまで珍獣を見るようにして面白がっていたまともな大人たちも、あの記事で読むに値しないブログだと決めたことでしょう。個人的には謝罪エントリーがあってもいいと思うレベルです。
もちろんイケハヤは「安全な立場にいる以上、あなたは応援も、期待もされません」というはずです。そりゃそうでしょう。彼はそれでしか生きていけないんですから。しかし、あんな記事を書くような危険を冒すことに何の合理性もありません。
普通の人は「これから起業して社会を変えてやろうと思っているんです!」なんて浮ついたことは口にしませんよね。言ったとしたらアホ扱いされます。そもそも社会とは、他者との齟齬が渦巻く空間なのですから。だれか一人がコントロールできる社会の、どこが豊かなのでしょうか。そんな貧しい社会を願っているなんて、よほどのコンプレックスがあるか、あるいは何も考えていないかどちらかでしょう。
まあ「でも、リスクヘッジのために会社は辞めませんけどね(てへぺろ)」とか言ってたら、それなりに考えている利口な人なのかもしれないなと思いますが。これと一緒です。
武雄市の公務員を辞めて高知に来たイケハヤのアシスタント・里本さんは、「公務員辛すぎて辞めました。ブロガーになりたいです」と、なんか死にそうなメールをイケハヤに送ってきたそうです。イケハヤは手を差し伸べて、応援してあげないといけないと思い、彼が公務員を続けていたら、イケハヤは応援していませんからね、と言ってるそうですが、ぼくにはどうでもいいです。ただ里本さんには、しばらく世話になったら丁寧にお礼を言ってイケハヤの元を去った方がいいと思います。マジで。
「アルケミスト」でそんな表現があったと思いますが、後ろのドアを閉じるから、前のドアが開くんです。…なんて言いますが、そんなの詭弁ですよ。後ろのドアを閉めたら、前も閉まって閉じ込められる可能性の方が高い。前のドアが開く保証なんかないですって。
そんな詭弁を弄しているうちは、誰もイケハヤに注目しないし、応援もしてくれません。誰でも自力だけじゃ面白いものは作れませんよ。
…なんて、自分の利益のために他人を煽ってアフィリエイトを踏ませようとするなんて、しょぼい商売じゃないですか?
イケハヤはそれをわかっちゃいない。
イケハヤやはあちゅうはサギを突き詰めるために、引っ込みがつかなくなって、全裸になっているわけですが、そろそろ目を背けられるときが来るでしょう。今はもう、そういうサギが求められている時代じゃないんですよ。ぬくぬくコタツに入って読むに値する本物の作家の本でも読んで、ネットの作家気取りをバカにして過ごしましょう。以上、サラリーマンのみなさまにはどうでもいい話でした。騙されるなよ。