はてなキーワード: 戦火とは
この問題は、朝鮮戦争までさかのぼって考える必要があると思う。
第2次世界大戦が終わった段階では、韓国・北朝鮮は、大した戦火にもあっておらず、街も村も平和だった。強いて言えば、強制労働とか慰安婦問題とか、日本語の強制とかあったけれども、日本の多くの大都市が空襲で焼け野原になったのと比べれば、戦争でめちゃくちゃにはなってなかったのよ。
それが、アメリカとロシア(ソ連)の代理戦争(朝鮮戦争)で、国が2つに分割され、しかも国のあちこちが戦火でめちゃくちゃになった。
朝鮮戦争が終わった時点で、韓国・北朝鮮がめちゃくちゃになった原因は、冷静に考えればアメリカとロシア(ソ連)にあると思うだろ? ところが、そういう批判の矛先が自分たちに向く事を恐れたアメリカは、「そもそも日本が悪い」つって韓国で反日教育を始めた訳。そこから始まる長年の反日教育の成果が、今日のごたごたを招いているのよ。
この件に関して、アメリカが他人事みたいなふりをしてるのはマジで許せない。
2014年から今にいたるまでイエメンではずっと内戦をしています。この内戦にはサウジアラビア、UAE、イランが関与しており、現在の中東情勢を理解するためにはこの内戦の概要を掴む必要があります。なのでその話をします。
です。大まかにいって国土の北西地帯をフーシ派が、南部と東部をハディ派が支配しています。イエメンは部族社会という色が濃く、各部族はそれぞれに思惑をもって活動しており、フーシ派にもハディ派にも属さないという地域も増えてきています。
内戦の背景について理解する必要はあまりありません。部族の利害や宗派の違いといったものから発生する、正直いってしまえばよくあるアレです。ではそのよくある内戦がなぜ泥沼化しているのか、そして何故誰も知らない戦争になっているのかを簡単に説明したいと思います。
内戦のきっかけはフーシがイエメンの首都を占拠しクーデターに成功したことです。これにより当時大統領を務めていたハディは首都を追われ、サウジアラビアに亡命しました。サウジアラビアはこれに危機感を抱きました。なぜならサウジアラビアはスンニ派勢力の事実上の盟主であり、イラン以下のシーア派勢力と敵対しているからです。イエメンはサウジアラビアと国境を接しており、ここに親イラン勢力が根を張ることはサウジの安全保証を根本的に脅かすと懸念されたわけです。そして実際その懸念は現実のものになります。
サウジはUAEと連合しハディ元大統領の支援に乗り出します。サウジとUAEは優勢な空軍力を活用しフーシ派から南部の要衝アデンを奪回することに成功します。そしてここにハディ大統領を傀儡として送り込み、フーシ派討伐に乗り出します。これが 2015 年 7 月までの流れ。
しかしサウジの勢いがよかったのはここまでの話で、以後内戦は泥沼化の一途を辿ることになります。泥沼化の理由として以下の要因が挙げられます
まずハディ派やサウジ空軍が弱いという問題についてです。一般にいってアラブの軍隊は非常に弱いのです。それはなぜかというと、クーデターを恐れるあまりにまともな訓練をつめておらず、特に大隊以上の連携の訓練などはろくにおこなわれていません。
例えば、空軍力を適切に発揮するためには地上の部隊との高度な連携が必要です。地上の部隊が空爆の目標地点を捜索し、適切に爆撃機を誘導してやらなければ効果的な爆撃はできません。また、航空偵察の成果を総合的に検討して情勢を判断する高度な情報組織も求められます。そういった高度な機能はサウジ空軍には備わっていません。では、サウジアラビアはこの問題をどのように解決していたかというと、大量の物量を投入して無差別爆撃を繰り返すという方法で解決をしようとしました。これには二つの問題があります。まずは人道上の問題です。実際サウジはこの問題で 2018 年ごろから大きな非難をうけるようになり以後無差別爆撃を封印しています。そしてこちらの方がより実践的な問題なのですが、コストパフォーマンスが極度に悪いという問題があります。いくらサウジが油田をもち金満国家だからといって爆弾をあまりにも大量に無駄弾にしていれば負担になります。あまり知られていないことですが、実際サウジアラビアは中国について世界三位の軍事費支出大国になっています。これは上記のような非効率な作戦が原因で、サウジアラビアの財政は痛みつつあります(そうしたサウジの苦境を悪用しているのが孫正義というわけです)。
ハディ派の弱さについては、元々弱いとかそもそもサウジの傀儡でありそこまでやる気がないとかそういったこともありますが、また別の事情もあります。その別の事情というのは「フーシ派は強い」という問題と裏返しでもあるのです。
それはつまりどういうことか。フーシ派はあくまでも奪う側であり、ハディ派は守る側であるということです。ハディ派はもともとの正統政府ですから、イエメンの国土や財産を防衛する戦いを展開する必要があります。一方フーシ派の根本は地方の小さな民兵組織ですから「守るべき既存のリソースや権益」を持っていません。なので彼等はハディ派と戦うにあたって都市がどれだけ破壊されようが民間人にどれだけ死者がでようが一切考慮することがありません(宗派も違いますし)。こうした姿勢の違いは戦闘力の違いに直結し、地上戦闘でハディ派がフーシ派を圧倒するという局面は初期におけるアデン奪還作戦以外で殆ど見られません。
ハディ派は強いフーシ派を攻撃するにあたって、地元の部族を懐柔しフーシ派を攻撃させるといった戦法をとることがありますが、フーシ派はこうした敵対部族を容赦なく殲滅してしまいます。
また、フーシ派が山岳民族的な性質をもつという点も重要です。一般に山岳民族というのは強いものです。グルカ兵などの事例にもある通りです。また、山岳民族である彼等は平地民との価値観をあまり共有しておらず、そうした点も彼等の強く残酷な戦い方を支えているだろうと思います。
次にUAEの背信という問題についてです。サウジ国内ではこの点がかなり問題視されているようです。UAEは内戦介入開始当初からイエメン侵略を目論んでいました。ハディ派首都のアデンでもUAEの特殊部隊がうろついているだとか、イエメン南部の離島ソコトラ島をUAEが侵略し領土に事実上組み込んでいるといった話があります。UAEのこうした態度は情勢を著しく混乱させ内戦を長引かせる要因になっています。またサウジ内では「UAEが漁夫の利を得るために内戦の泥沼化を積極的に目論んでいる」といった観測もあるようです。
そしてイラン革命防衛隊の介入という問題ですが、上記の通り内戦の初期においてイランと革命防衛隊はあまりイエメン内戦に興味をもっていませんでした。しかしサウジとUAEによる介入が頓挫すると革命防衛隊による介入が本格化しはじめます。すなわち、フーシ派の占領地域を拠点にしてサウジアラビア領土への直接攻撃を企図しはじめたのです。このことの背景を理解するためには、イランの革命防衛隊という組織の成り立ちを理解する必要があります。先述の通りアラブではクーデーターを抑えるために軍を弱くするのが普通の統治法です。これには例外がいくつかあり、たとえばエジプトでは軍が国家を統治しているのでクーデーターの心配は少ないので精強な軍を維持することができています。イランも例外の一つで、イランはかなり独創的な方法でクーデーターを防止しながら軍を強化することに成功しました。それはすなわち
というものです。一つ目の対策については軍の指揮権を天皇に直属させた大日本帝国軍とほぼ同様のものと言えます。故に、日本軍と同様のデメリットが生じることにもなりました。創業の功臣と君主が存命の時代は彼等のバランス感覚によって軍を適切に維持することができたのですが、君主が交代し創業の世代もいなくなると軍を誰も統制できなくなってしまったのです。ようするにホメイニが明治天皇、ハメネイが昭和天皇と理解すればよいわけです。
二つ目の対策について、革命防衛隊をつくるにあたって「イラン防衛ではなくイスラム革命の防衛と革命の輸出」を任務と定めてしまったことが問題になりました。彼等は事実上の外征軍となり、中東各所で怪しげなテロを繰り返す組織になってしまったわけです。さらにタチが悪いのが革命防衛隊が軍の能力を流用し建設会社や物流企業を多数直接経営しているという点です。これにより、彼らは財源や物資の点でも政府への依存が殆どなくなり極めて独立性の高い組織になっています。イラン政府の財源はかなりの部分石油に負っていますから政府は本質的には戦争を回避しようとします。一方建設業により資金を得る革命防衛隊にしてみれば石油産業が停止したところで知った話ではないので積極的に「革命の輸出」を手掛けるというわけです。
こうした性質をもつ革命防衛隊がイエメンに介入を開始すると積極策を採用することになるのは自明のことでした。イエメンに派遣された革命防衛隊はほとんど中央の統制を受けていないと見られており、これは要するに日本軍における関東軍に匹敵します。
こうした情勢のなかでイエメン内戦を象徴する戦いであるホデイダ攻防戦がはじまります。ホデイダはイエメン有数の港湾都市で外部からの物資の輸入をほとんどひきうけています。この都市を占拠することはすなわち外国の物資を全てコントロールするということでフーシ派もハディ派もこの都市の攻防に全力を投入することになります。内戦当初からこの都市はフーシ派が支配しており、ハディ派はサウジアラビアの支援のもとなんとかこの都市を奪還しようと試みました。ホデイダの攻防が本格化したのは 2017 年ごろからで、以後ホデイダは激しい戦火に見舞われ物資の輸入は途絶えイエメンでは難民が大量に発生することになります。
先述のとおりハディ派は弱く、サウジアラビア軍は動くものはなんでも爆撃する式の粗雑な無差別爆撃を加えることでなんとかフーシ派に対抗するといった情勢が続きました。こうしたフーシ派有利の情勢をみたイラン革命防衛隊は2017年末ごろより弾道ミサイルをフーシ派に供与(といっても操作する人員も革命防衛隊から派遣していたことでしょう)しサウジアラビア国土への直接攻撃を開始します。
こうした事態に至って危機感を表わにしたサウジ軍は 2018 年にはいってさらに爆撃を強化しますが成果はあがりません。そして彼らはついに致命的な誤爆事件をおこします。サウジ軍はスクールバスを誤爆し何十人もの子供を死亡させてしまうという事件をおこしてしまったのです。これにはさすがに各国からの非難が止まず以後サウジ軍は爆撃の対象を前線ではなく後方のフーシ派の基地に切り替えることになりますが、これによりホデイダ攻防におけるフーシ派の勝利が事実上確定しました。
2018年末ごろより国連によるホデイダ停戦工作が開始されます。停戦の調停中にも激しい戦闘の応酬が続きますがフーシ派有利という情勢は変化せず、国連の監視団は「フーシ派の勝利」という現状を事実上認める形の停戦を成立させました。これが去年末から今年4月ごろの話。
こうした状況のなかで革命防衛隊はあらゆる手段でサウジアラビア国土への直接攻撃を続けていました。その攻撃の主力となったのが弾道ミサイルとドローンによる空爆です。弾道ミサイルによる空爆はサウジアラビアの首都リヤドにも降り注ぎ100人以上の民間人が犠牲になっていると報じられています。ドローンについては、クアッドコプターのようなものではなくジェットエンジンを積んだ比較的大型の爆撃機で500kg程度の爆弾を積載し 300km の半径を攻撃できるとされています。これによる精密爆撃はイエメン内部でも利用され、ハディ派側の軍幹部がドローン爆撃によって多数殺害されるといった事件も起きています。
そしてホデイダにおけるフーシ派の勝利が確定すると、フーシ派は国連との合意にもとづきホデイダから兵力の引き抜きを開始します。少数の警備兵力を「憲兵」と偽ってホデイダに残置するとフーシ派は主力をサウジアラビア侵攻にふりわけます。これが今年の 4 月から今にかけての話で、フーシ派とイラン革命防衛隊の猛攻をうけてサウジアラビア/イエメン国境の要衝都市ナジュラーンが陥落寸前であると報じられています。またサウジアラビア空爆にあたってあらたに巡航ミサイルによる爆撃も開始され、先日のサウジ南部空港爆撃ではインド人など外国人にも負傷者がでています。
ではこのような酷いことになっている内戦がなぜあまり知られていないかというと、田舎の内戦など誰も興味がないという問題もあるのですが、サウジの劣勢というのもその原因です。というのもサウジアラビアは北朝鮮以上の独裁国家、統制国家なので自国がイラン勢力との戦争で敗北しつつあるという事実を隠蔽しているわけです。「イランの爆撃により100人以上の犠牲者がでている」という事実も最近になってようやくサウジ政府系メディアによって報じられました。以前は「イランのミサイルを迎撃した」だとか「フーシ派に猛爆撃を加えて戦果をあげた」だとかいった威勢のいい情報が散発的に報じられているだけでした。今少しづつですが苦境の真実をサウジアラビア側が報じるようになってきています。それだけ事態の悪化を隠せなくなったということでもあり、また危機感を醸成しようという思惑もあるのでしょう。
更に加えてですがサウジアラビアには「事態をこれ以上大事にしたくない」という思惑があるようにも見えます。現在おきていることは事実上「サウジアラビアとイラン革命防衛隊の総力戦」なのですが、サウジとしてそれを認めてしまうとイラン本土とも戦わなくなければなります。「イエメンのフーシ派という軍閥との小さな戦い」というフレームを維持することでなんとか大事にせずどうにかしてフーシ派だけを倒したいという希望が、事態を矮小化させ報道を管制するインセンティンブになっているように思われます。
サウジのこの失態をみて「イエメンはサウジのベトナム」と評する人もいます。ただベトナムのように「やらなくていい戦争で消耗している」というよりは「強力なイラン革命防衛隊とフーシ派の前になんとか国土を防衛しようとしている」というのが実態としては近いのではないでしょうか。
多くの宗教に迫害と戦争の歴史があるように、たつき教とて例外ではない。
教祖たつきの角川からの迫害、暴徒と化すことを良しとしないたつきファンからの迫害、けもフレという題名もサーバルちゃんもかばんちゃんまで2に奪われる2製作陣からの弾圧。
2vsケムリクサ戦争終盤の製作陣Twitterでどったんばったん大騒ぎは焼け野原に赤々と燃える戦火としか言いようがない。
かつてキリスト教徒が迫害を受けながらも、なぜキリスト教徒であり続けたか?なぜ火炙りを前に信仰を告白したか?踏み絵を拒否し、拷問に耐えてまで神を信じ続けたか?
張り合う敵がいなければ張り合いようもない。強く否定されるほど、強く信じられるのだ。
ローマ大火がキリスト教の歴史であるように、2大炎上もたつき教の歴史である。平成の大火を足掛かりとしてたつき教は大きく成長した。この宗教がこのままカルトと化すか、それは何より教祖であるたつきにかかっている。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
( 2018年秋アニメ2話までほぼ全部観たから感想書く その2 からの続き)
伏魔殿に住む悪魔たちのゆるふわ日常アニメ。良い最終回だった。一応縦軸は悪魔のお仕事を通じて「善悪の彼岸」を識る物語。知らんけど。
デフォルメが強めでゆるいキャラデザ、コミカルな演出、淡いパステルカラー等、全体がゆるくてふわふわした雰囲気に包まれている。控えめに言っても体感5分で終わる謎の空間。もはや白昼夢である。ミュリンかわいい。
ベルゼブブ嬢を演じる大西沙織は「才色兼備のキリッとしたお嬢様だけど…」というキャラクターを演じている印象が強いだけに(とじみこ・十条姫和、こみが・色川琉姫、ウマ娘・メジロマックイーン等)本作のようなゆるふわ系の演技が非常に新鮮。ただベルゼブブ嬢は伏魔殿の首長なので、柔らかい側面と同時に硬い(凛々しい)側面もあり、そういうオーダーによく合致しているキャスティングだと思う。
スマホゲー同時展開のオリジナルアニメ。ラジオでつながるパラレルワールドを舞台にしたSF系。
電波でつながるパラレルワールドといえば「シュタインズ・ゲート」「オカルティック・ナイン」を思い出すけれど、あっちがサスペンス・ホラーっぽいのに対して、こっちはアクション要素多めといった感じ。あとパラレルワールドというモチーフの違いとして、本作は「別世界の自分に会いに行くための舞台装置」という感じがある。本作の特徴としてパラレルワールドの数だけ同じ人物が登場するというギミックを採用しているのだけれど、演じ分けがかなり明確。例えばパラレルワールドの自分が出てくるアニメ「ガンスリンガーストラトス」では演じ分けはあまりしていない感じのディレクションだったけれど、翻って本作では全くの別人みたいな演じ方になっている。そもそもメイン5人のキャスティングがガチなので(黒沢ともよ、Lynn、東山奈央、小清水亜美、井上麻里奈)、「女の子5人のキャッキャウフフをテーマにした作品じゃないガチ感」がすごい。1話では黒沢ともよのみだったが、2話以降アクセル全開。
主演の黒沢ともよ曰く「シナリオに大きなギミックを仕込んでいるので楽しみに待っててね」とのこと。シナリオにでっかい伏線を仕込むのは「オカルティック・ナイン」「ISLAND」等ゲーム原作のアニメにおける楽しみの一つなので、ゆっくり待つことにしている。
ダンデライオンアニメーションスタジオによる3DCGがかなりゴリゴリ動いている。本作は概ねバトルモノなので、戦闘シーンにかなり力を入れている模様。
かなり硬派なシナリオに合わせたキャラクターは浅田弘幸によるデザイン。「テガミバチ」は好きな作品なので嬉しい。同氏はかなり情報量の多い絵を描く人という印象だったので、アニメのキャラクターは結構シンプルなデザインという印象を受けた。アクション多めなので動かしやすいデザインなのかな。
個人的に、異世界に至るまでのプロセスをどう描くかを比べるのが好き。一旦主人公の死を経験したりするので、シリアスよりなのかギャグよりなのか、演出の裁量があるシーンだと思ってるのだけれど、本作はそこらへん硬さと柔らかさのバランスが凄く良かった。
転生したあとも、音楽や展開含めて緩急のある仕上がりになっていてテンポがいいアニメになっている。8ビットサウンドの音楽はやっぱりドラゴンクエスト等をリスペクトしているのだろうか。エイトビットだけに?
物語はだいたい2つのパートに分かれていて、「世界のいざこざパート」はそれこそ主人公の起こした騒動で穏やかではなくなった世界の様子を描いている。ここはオーバーロードっぽさがある。一方主人公の冒険パートはオバロと比べ、たった一人で悠々自適なぬるいRPGを楽しんでいるそれ。ヴェルドラのおかげで主人公の満たされ具合が心に優しい。
作中でも言及されているけど、初期のスライムは何も見えないのでどう絵にするのか気になってたけれど、抽象的演出を使ってうまく主観を映像化してた(触った感じとか)。またやってくれないかなあ。あとスライムの表情が豊かで、描いてる人は相当楽しいんじゃないだろうか。
本作のキャラクターデザイン・総作監はあの江畑諒真。最近だと「プリンセス・プリンシパル」5話でおなじみ。当然各アニメーションにも彼の特徴は反映されていて、例えば冒頭の主人公が歩いている姿のバストアップを見ただけで「江畑だ!」ってなるくらい江畑っぽい。彼が演出を務めるOPは「アブソリュート・デュオ」並に彼らしいアニメーションになっているので、いかに本作が血の気の多いアクションアニメであるかがわかる。主人公はあんまり好戦的な性格っぽくないのにね。
本旨と若干逸れるけど、さっき1期を観終わったので以下1期の感想。
虚淵玄脚本による人形劇(元ネタは中国の人形劇)。日本・台湾共作のアニメ。シナリオはいわゆる冒険活劇。王道アクションRPGみたいな感じ。絵もアクションが中心。
シナリオについては、単純な善悪ではない理由で同行する一行という部分が良い。文字通り呉越同舟すぎる。個人的に鳴鳳決殺が一番好き。あと掠風竊塵がド外道だった。後半のシナリオも口八丁手八丁を中心に戦っていくスタイルは単純明快な冒険アクションとは違った楽しみがある。
まず動きがおかしい。人形の顔についた水滴の大きさから見てかなり大きな人形を使っているのか、手足がかなり長い。それを非常に器用に動かしている(というか、どうやって動かしているのか分からない)。すこし引きで見ると人間にしか見えない。表情も、暗いシーンでは「少し表情の硬い人間」に見える。面白いのは、激しいアクションシーンほど人間のような動きに見えること(マジで人間だったりして)。指の先から足の先まですべて技工を凝らした動きになっている。
演出も優れている。戦闘シーンは単に人形を動かしているわけでもなく、ファンタジーという表題通りエフェクトモリモリで華やか。実写のメリットである、奥行きのあるアクション演出も多く、奥から手前に向かって光る剣が飛んでいく演出とか好き。特殊効果以外の演出もすごくて、爆発エフェクト(まじでセットを爆破してるっぽい)、雨(まじで雨を降らせている)、爆散するモブ(マジで四散してるっぽい)、背景セットの作り込み(どんだけ大規模なセットを作ったんだろう)、決めポーズの、カメラの切り替えを多用しためっちゃ手間のかかる演出とか。アニメに出来て人形劇に出来ないことってなんだろう?と考えさせられる。例えば「豊かな表情」というのは作画アニメの大きな長所だけれど、「デジタル人形劇」こと3DCGアニメは「表情が硬い」という評価を結構覆しているので、技術革新によって人形劇の印象もどんどん変わっていくのかな。
2期は1期の続きで、主人公や掠風竊塵がどんな奴か判明したあとの話なので、1期からの視聴を強く推奨。
週刊少年ジャンプ連載漫画原作のスポ根アニメ。防具を付けない稀有な格闘技。
競技としての格闘技を描いた今年のアニメでいえば「メガロボクス」だけれど、本作は高校生相撲を描いているので、あそこまでアウトサイダー&血生臭さは無く、とても青春している。特に1話は小関信也を演じる落合福嗣がすごく良かった。
原作ではそんなに気にならかったけど、主人公がとても小さい。ゆえに土俵の上でのみ体が大きく、強く見える演出が映える。
制作のGONZOはあんまりアクションのイメージがなかったので、本作のアクションシーンがかなりキマっててびっくり。特に1話の演出は熱量も含め息が止まるような迫力を感じた。元々相撲という競技が非常に短時間の戦いなので、その凝縮された時間をうまく描いている。2話の「タックルしながらの回り込みを上から抑え込むしぐさ」とかめっちゃすごかった。アツいぜ。
原作を読んでいる人が全員思うことはやっぱり「あの目尻からみょーんってなるやつ、どうやって描くんだろ」なので、早く見たいな。
角度のθ(ラジアン)は無関係。「Radiant」のほう。フランスの漫画原作。週刊少年ジャンプ連載の漫画みたいなノリの、古き良き時代を思い出す冒険活劇。ロックマンDASHっぽい。製作はNHK。
1話は説明的な演出が多いので、話を理解しやすい。2話以降もちゃんと「前回のあらすじ」があるので、忙しい人でも前回のあらすじを観ていくだけで最新話に追いつける安心設計。
1話から「主人公つえー!」ではない展開っていうのは珍しい印象なので(ワンピースで言えば、ルフィ幼少期のエピソードが1話、みたいな)、成長物語か。今後訪れるであろう主人公の受難を思うと、シリーズ構成が上江洲誠なのはそういう…(ちなみに2話からハードな展開)
キャラデザは割とシンプルで、全体的にかわいく、少年漫画っぽい。特に敵が可愛い。ゆえにファンタジーな部分とダーティーな部分の橋渡しをするキーになるキャラ(おっさん)がすげえ良い。
主人公を演じる花守ゆみりの少年声が好き。カワイイ系の印象が強いだけに、わすゆの銀みたいなハツラツとした声(特に叫び声)出せるのはすごい。本作は銀よりも少し大人っぽい調声。
ハピエレのスマホ向けRPGゲーム原作のアニメ。ファンタジー系冒険活劇。
かわいいキャラデザも含め、雰囲気はハピエレのゲーム原作アニメ「ラストピリオド」っぽさがある(内容は決してラスピリのような社会風刺アニメではない)。
シナリオは概ねモンスターとの平和的共存を探る冒険アニメであり「ポケットモンスター」に近い。1話は「メルストにでてくるモンスターってどんなん?」という説明回。説明的な演出ではなく、実際に生きているモンスターの姿を見せることで描く演出好き。「そこら辺で寝そべってる(お互い警戒しない)」「意思疎通の有無(信頼する相手の言うことは聞いてくれる)」「大きさ(子猫サイズからビルのようなサイズまで)」「気性(優しい子から気性の荒い子まで)」「人間に協力的(一緒にサーカスの仕事してたり)」「暴れてるときの攻撃性(つよい)」等。戦闘シーンはBGM含め結構アツい。
ガチのチア監修が入っている(監修を務める柳下容子は元NBAのチアリーダー。日本でチアリーディングチームをプロデュースしてたりするすごい人)。動画工房による、重力を感じるキレッキレのチアリーディングアクション良かった。使用する曲もめっちゃ好き(1話挿入歌は作曲:浅倉大介)。ただし主人公たちは初心者ゆえ、ガチのチアアクションが出る機会は少なめ。
きららキャラット出身の日常アニメなので、きららフォワード出身のハナヤマタと比べエモさよりもゆるさが前面に出ている。かわいい。
尾崎由香(けものフレンズ・サーバル役とか)の底抜けに明るい声が癖になる。ハナヤマタのハナ・N・フォンテーンスタンド(CV.田中美海)とか好き。
AmazonPrimeVideo独占
脱・悲劇版ロミオとジュリエット(ラブコメ)。週刊少年マガジン連載作品だけに、気軽に見られるラブコメ。
家柄が致命的な壁になってくっつく事が出来ないという既存のモチーフに加えて学園内の派閥対立もくっつけて、わちゃわちゃした感じになっている。
原典と比べてジュリエットちゃんが強い独立心を持っていて、それが物語の動くきっかけになるっていうシナリオがなんか今っぽくて好き。ロミジュリ読みたくなったので、オススメの翻訳があればおしえて下さい。
わりと喧嘩するシーンの多い作品なのだけれど、1話の決闘シーンでやけに剣の音拘っているなぁと思っていたら、音響効果:森川永子だった(同氏は京アニ作品の音響効果を担当してたり、今期だと「SSSS.GRIDMAN」の音響効果を担当している人)。流石に毎話あれだけ激しいシーンは無いにしても、楽しみではある。
ヒロインのジュリエット役が茅野愛衣だけど、まさか死なないよね。まさかね。
群雄割拠系学園モノ。は~乱世乱世。容はいつものBASARA。
声のテンションや絵のテンションが最初からクライマックス。終始テンション極振りの展開で彼らの戦いを描いている。
1415年、戦火の欧州を舞台にした英雄譚。2話から本編に入れるよう、かなり早足だった1話。冒頭20分くらいがプロローグ。
アンゴルモアみたいな時代劇ではなく「戦場のヴァルキュリア」のようなファンタジーモノ(もっとファンタジー要素多め)。人知を超えた力によって戦争を変えていくお話。面白いのは、主人公は「無敵の力を直接得た人間」でもなく「悪魔の力を阻止するために立ち上がる勇者」でもなく「戦争を変える力を普通の人間に与えた錬金術士」。倫理観による葛藤を一足飛びでバケモノを生み出すあたり、主人公の独善的な価値観がどう転ぶのかが気になる。当時の倫理観としては「バケモノを見つけたら教会に差し出さなければいけない」と描かれているので、生存ルートとして文字通り世界を変える壮大な物語なのかな。あと超人化の際やけに説明的なモノローグがあったので、今後も続々量産予定?
ゆるふわ日常ショートアニメ。なのに小話集。ゆえに1エピソード30秒くらい。人外さんは言葉が通じないので、(猫みたいな)人外さんの気持ちを慮る主人公の物語。もし猫と結婚したら、毎日きっとこんな感じなのだろう。
中国の漫画原作ショートアニメ。ざっくりいうとペットの擬人化みたいな作品。
全体的に柔らかいタッチのアニメになっている。ペットの声が村瀬歩くんだったりしてBL風に仕上がってるのだけれど、ガイコツ店員さんが言っていたように海の向こうでもそういう文化があるのだなぁ、としみじみ。
進研ゼミに付いてくる漫画の代アニ版。ショートアニメ。ひょんなことから声優を目指すことになった主人公が代アニの授業を受けながら成長していくお話。
ターゲットはおそらく「これから代アニで声優を目指すことになる若者」なので、本筋は青春ドラマ。主人公の福島潤はさておき、ヒロイン役の野口衣織は現役の代アニ学院生。たまたま以前から知っていた方なので、見ているこっちが緊張する。シナリオも彼らの受難が続きそうな感じなので、1話からもう胃が痛い。
彩度が高く柔らかい背景。それほど書込みの量が多い作品ではないけど、基本会話劇だし。
宇宙x漁業(フィッシングではない)がコンセプトのゲームアプリが原作。第二の種子島でおなじみ、広島県尾道が舞台のアニメ。宇宙飛行士と漁師といえば、子供にとって将来なりたい職業1位2位を競うほどの人気職だけれど、かといって本作が子供向けアニメかどうかはよくわからない。ノリがフレームアームズ・ガールっぽい感じがするけどホビーを売ってるわけでもないのね。内容は概ねテンポの良い会話劇。
主人公の女のたちと対立するのは漁師町の男。子供vs大人というよりも女性vs男性という切り口っぽい。対立構造を作るために「男女雇用機会均等法」まで持ち出してきてる割に社会派アニメではない模様。
個人的に筆頭に挙げられるのは美空ひばりの「川の流れのように」である。
別に嫌味ではないが、このなんというか、「終わり良ければ全て良し、全てはこの悠久の流れに消えていく」みたいなノリが、プロセス的にはたとえどんなにハチャメチャで勢いだけであっても、誰も大して反省しないどころか、良い記憶に美化してしまう、昭和の実態を反映しているとも言えて、実に味わい深く、何より感動的なのである。
異論は認めるというか、昭和の終わりを経験したおっさんおばさん的に、一押しの歌があればどんどん挙げて欲しい。
ちなみに昭和を代表する歌といえば「上を向いて歩こう」これな。
日本が戦火に巻き込まれなかったという意味では「平らかに成った」時代になりそうだ。
そんな平成の終わりは、どんな歌で締めくくられるのだろう?
リベラルっていう用語は今では多義的になっちゃって拡散しているんだけど、源流をたどると「絶対王政などに見られる巨大な権力者に対して個人の自由を守り社会を安定させ豊かにしていく思想」があるよね。国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある。古典的な自由主義としてのリベラル。
いま日本では、リベラルが退潮とか危機とか言われているけれど、どう考えても歴史上もっともリベラルが花開き成果があるのが現代だと思う。古典的な自由主義者が目指した自由と繁栄の国が、いまの日本だよ。
もちろん、リベラルという語の示す意味合いは歴史によって徐々に変わっていった。いま死のうとしているのは、後発の変化した後のリベラルなのだ、という指摘は正しい。
しかし、でもだとするのであれば、その主張方法も変えていくべきだったのね。一番古典的なリベラルは上記のように「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る!」というものだったから、その主張手法は「だから、権力者(日本の場合首相とか与党とか政府)を厳しく監視してそれを咎めていかなければならない」であるわけ。日本の野党が国会で、やたらに与党に噛み付いたり、「安倍政権が九条を変更すると即座に戦争を開始してしまう!けしからん、断固打倒!」というのは、たしかに、古典的リベラルの主張としては正しいわけ。なにせ彼らは「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る」が主張なのだから。
でも最初に述べたように、古典的リベラルが憂いていた社会問題――たとえば王様が個人的鬱憤やら貴族の内輪もめで戦争を開始して農民の命がゴミのように消費されるとか、身分差の下位の側が奴隷としてなんの自由も選択権もなく酷使されるとか、餓死するとか――そういうのは、現代日本においてほぼ解決された。こういうことを言うと顔を真赤にして「現代のブラック労働問題が!」とか叫ぶ人はいるけれど、少なくとも法的な側面ではかなりのケアが進み、運用側の問題へと問題は進んでいる(日本の生活保護の捕捉率はたしかに大問題だけど、運用の問題ではある)。
つまり古典的な自由主義者は、打倒すべき問題の殆どを失ってしまった。日本の社会で言えば、1970年代の公害訴訟あたりの時期で、社会的使命を一旦果たした。そこで寿命を迎えたと思うのね。
もちろんそこで社会問題がなくなったという話じゃないんだけど、それらを指摘して解決していくためには、リベラルは名前を変えるか、名前を変えなかったとしても少なくとも主張方法は進歩させるべきだったわけ。なにせ古い主張とその手法は、古い問題に最適化されているわけだから。「安倍政権が九条を変更すると即座に日本は戦火に包まれる」なんて主張を、現代日本国民の誰がどれだけ信じている? 1%もいないとおもう。現代日本人の殆どは「政権を監視して非難すれば問題が解決する」なんて、もはやファンタジックなおとぎ話だと感づいているんじゃないかな。
現代に残る社会問題は、格差にせよ人口減にせよ、少数の絶対悪者が陰謀の結果日本に振りまいた災厄ではなく、すべての日本国民が利害関係者として今まで行ってきた選択の結果起きた、避けえない出来事であって、誰か少数者をリンチしてスッキリしたとしても、解決なんて出来はしないって気づいているんじゃないかな。
にも関わらず、いわゆるリベラルと言われる組織や政治家が懐古的な「邪悪な政府の陰謀論」を卒業できないのは、本当に卒業できないわけじゃなく、そういう手法を卒業しないことで利益を得ていた既得権集団だっただけなのだ。そういうことがほとほとわかっちゃった。そういうのがこの数年の政治状況じゃないかな。
いま日本でリベラルに愛想を尽かしたり、叩いたりしている国民も、一番最初に述べた「国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある」という意味では、立派なリベラリストなわけね。それらは当たり前にいつでも手に入る無価値な宝物ではなかった。たとえば北朝鮮ではそういう社会が実現されてないもの。
だからその部分は歴史に対して胸を張っていいとおもうのだ。そして同時に、自分たちがそういう意味ではリベラリストなんだから、リベラルを必要以上に憎むべきではない。少なくとも歴史のある時期、それらは社会に必要で、現代の豊かで平和な社会につながる重要な役目を果たしたわけだから。
一方で、そういう言う意味では、リベラルという看板は役目を終えたし成仏すべきだと思う。現状、Webやらマスコミで「リベラル最低だ」っていってるのは、かなりの程度死体蹴りだ。「リベラルという少数悪が邪悪だったので社会が悪くなった」というのは、まさに駄目なリベラルがすがりついていた思想そのものだよ。すがる側も、嫌悪する側も、もうリベラルから卒業しても良い時期だ。
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
戦争するってどんなこと?という本を読んだ。基地があると攻撃目標になってその地域が戦火にさらされるそうだ。米軍基地の7割は沖縄にあるので有事の際はまず真っ先に沖縄が狙われるそうだ。僕には本州が第一攻撃目標にならないように沖縄を捨て石にしている印象を受けた。また兵士の仕事は敵を殺すことだとストレートに書いてあって衝撃を受けた。秋山好古は昔、軍人の仕事は敵を倒すことだといったがそれだとなんかかっこいいみたいな感じに司馬遼太郎の本を読んでなっていたが、敵を殺すことだという生々しい表現だとなかなかかっこいいなんて言えずにうわあとなった。また兵士は死ぬのは仕事じゃないと書いてあった。これは人命軽視ではないんだなと思った。旧日本軍とは決定的に違うなあと思った。またアメリカの核の傘下に入ることはアメリカの敵が日本の敵になるそうだ。きゃーこわい。僕も日本では平和面しているけどどっかで起きてる戦争やテロの標的の集合体にいつのまにか入ってしまっているのだ。だからと言って憲法を改正しても、軍部に特権を与えるだけで国民の自由な活動が抑止される危険があるとあり、じゃあいったいどうすりゃいいのさとなる。エネルギー的にも食料的にも軍事的にも自活していない日本が国として存続してるのはたまたまのラッキーなんだなあと思った。最後にガンジーはイギリスから独立を果たすために、イギリスの教育や製品や法律を長い時間かけて否定や拒否していったそうだ。ぼくなんてネットではYouTubeやグーグルやフェイスブックを見てアイフォンを使ってアマゾンで買い物をしている。なんて根性ないんだろうとは思うが単純な製品比較をしていい方を選んでるんだ!というふうに自分を説得をして今日は寝よう。
手だけでも持って帰りたい
波乱万丈を地で行く人生だった、戦火の渦に巻き込まれながら山梨に疎開、女学校に通い大学に勉強しに行き、女学校の先生にプロポーズされ、お見合いの話は妹に譲り、就職した会社で熱心な宗教信者に見初められ、逃げるために慌てて結婚した男は姑が鬼よりも鬼のよう。「お前の腹を借りて私が産んだんだ」と言いながら包丁を持って追いかけられて鬼姑から裸足で逃げた夜もあった。夫は何も言わなかった。
それでも人には恵まれたと言っていた、女学校からの友達と80を過ぎた今も連絡を取り合い携帯でメールをし、親戚との付き合いも多く、忙しい娘に代わって孫の面倒を見た。
こんな孫でごめんね、腕だけでも持って帰らせてほしい、娘も息子もだかせてもらえず仕事をしながら家事をやり姑を看取り孫を育て孫の家の家事をして夫の介護をして、人の何倍も働きながら人の心配ばかりして、最期まで自分で病院に電話をかけた。
腕だけでも持って帰りたい。ひんやりしていた、人の何倍も働いた、よく撫でてくれた腕だった。
眠ってるみたいだ。
信じられない。