はてなキーワード: 戦火とは
「邪魔だ出てけー!テロリストめ!自己責任!弱肉強食!悪い奴ら!土人!何で俺たちが助けねえといけねえの?」
「青い目をした美しい文明人が戦火を逃れてきたんだぞ!受け入れない奴はクズ!」
何だこの扱いの差は
妄想に取りつかれた偉い人のせいでお互い憎いかどうかも分からない相手と終わりの見えない殺し合いを強要されるんだよ。
第2次世界大戦は、今のウクライナの何倍も戦火が広がっていたわけで、当事者が「あんなの二度とごめんだ」って思うの当然だって思わない?
当時の日本人を一番殺したのは大日本帝国政府なんだから、一番信用に値しないの当たり前だよなぁ。
今のロシアがプーチンと一部上層部の首だけ挿げ替えたところで、ロシア国民ですら自国を信用できないであろうことと同じだろう。
結局は「国民が自分で考えることを止めて面倒事を他人に押し付けた結果の自業自得」って事なんだよな。
民主主義国家だって頭のおかしいボンボンが10年近くトップに居座り続けたりもするわけで、仕組みの違いじゃなくて国民の責任感の問題だな。
西も東も引く気がない。
世界中、どこを見渡しても自分たちの側からは引く気のない人間が大多数なのは間違いないだろう。
それが良いとか悪いとかいう話ではない。
ただ単純に「誰も引く気がないなら、緊張は今後も高まり続ける一方だ」ということだ。
おそらくは双方が直接に衝突するところまで。
未知の領域ゆえに何が起きるか正しく予想することは難しい。
ただ間違いなく、ろくでもないことになるはずだ。
自分は無事だなどと思わない方がいい。
あなたもきっと酷い目に遭う。
間違って欲しくないのは「だから自分たちから引け」と言っているのではないということだ。
そんな言葉くらいで世論が変わらないことくらい重々承知している。
行くところまで行って人類全体がうんざりするまで、この流れはきっと止まらない。
なぜならこれは前人未到の領域ではなく、かつて2度も人類が経験したのと同じ流れの焼き直しだからだ。
かつての大戦の話を耳にする度、幾度となく抱いた素朴な疑問――なぜ誰もそれを止められなかったのか――の答えが、今は肌で理解できる。
まして、当時の人々なら…そういうことだ。
今、人類ができるのは、せめて最終的な破局が少しでも先に(1年ではなく5年先、5年ではなく10年先に)なることと、最終的な破局がせめて少しでもマシな形に収まる(「無数の戦略核の応酬」などという事態に至らず決着がつく)ことを願うことくらいだろう。
そして、今、ボクができるのは、ボクと周囲の人々がそのような戦火の中で幸運を拾い、少しでも苦難を免れ生き残ることを祈ることくらいだろう。
まあ、どこも平等に常に報道されて世界が平和になる事を祈ります。。私たちの日常の問題も。
Western media’s coverage of Ukraine crisis normalises conflicts in other areas: Press body
The Arab and Middle Eastern Journalists Association cited examples from CBS News, Al Jazeera and ‘The Telegraph’.
https://scroll.in/latest/1018495/
あとはうまく言語化できないけど、何か今までと違う恐ろしさを体感で感じています。
何か人々の同情を持って、違う争いの種にする人の存在も不思議ではありますが。。
常に戦火がある度に、報道はありますし、苦しむ市民の方々の写真見て心を痛めてはいますよ。
あとは、ネット上の事が全てリアルとリンクしているとは限りません。例えば、ネトウヨをリアルで見かける事はないですよね。
ベトナム戦争の時も、それなりに反戦運動あったんじゃないですかね。生まれてないですが。
米露の衝突の嫌な予感があるのではないですかね。
このところ、ウクライナの惨状に映像で接してる一般日本人としては「早く戦争が終わって欲しい」「招集かかってる男性がなんとか逃げられる方法はないものか」「自分の命を最優先にしてほしい」と様々な想いを馳せている日々だ
一方でフェミニストに「女も戦わないんですか〜?戦えって言わないんですか〜?」と粘着している男性は、ウクライナ人女性に戦って欲しくて堪らないようである
実際、ウクライナ侵攻を受けて、多数の「男性を徴兵するなら女性も徴兵するべきだ」論者の男性がわいた(ウクライナに対してそう考えているのだと思われる)
自分としては「ウクライナで招集かけられたらどうやったら逃れられるのか?」「こんな時はルールなど破って国外脱出しても全然悪くない」という思いの方が大きかったので驚嘆した
何故暖房の効いた暖かい部屋でぬくぬくと映像だけ見てる性格の悪いカス男性が、他国民に対して生命をかけた兵役を「やれ」と言える権利が烏滸がましくもあると思うのだろうか?
「女も戦えって言えないの?なら差別主義者だ」。死ぬかもしれない人間を増やす政策を賞賛する己は差別主義者じゃないと言うのだろうか?平等に戦火の中で散れと言うのは確かに極一面では差別主義者ではないかもしれないが、代わりに人権を軽視した非人道主義者に堕している上、外国人の人命を軽視した人種差別主義者の本性が顕わになっている。そもそも、差別に反対するなら「男は戦うな」と言うべきではなかろうか
やっと核武装の必要性がわかってきたみたいな。平和のためには核武装が必要。戦争したい人は核武装に反対すればいい。参議院は、平和を望む核武装派VS戦争へ突き進む核武装反対派の勝負だ!
9条信者は、平和のための具体的な方策は、何一つ語らず、9条を信ずるのみですからね。もはや考えることを放棄した狂信者です。
核武装は当然するべきだと思うよ。
IAEAやNPTを今更話題にする人もいるけど、どちらも理事国が核兵器所有していて、所有=即罰則ではない。交渉余地がある。
西側陣営で、中ロ両方と接する日本の要望は特に通りやすい。数年以内に台湾侵攻されると考えたら、早く配備したほうが世の平和のためだろう。
違う。
結局武力がなけりゃ食い物にされる。
ほんの75年前までの抑止力は軍艦であり、飛行機であり、大砲であった。それを一変させたのが「核兵器」。その使い方は広島、長崎を経て、冷戦で定義された。「核は攻撃用の兵器ではなく抑止力である。しかし核は恫喝の道具として使うことができる。」アジアの平和のため日本は核武装をすべきである。
私達、日本を愛する諸国民はパヨった人達の為に3回目の戦火を浴びたくない!日本こそ軍事大国へ!そして核武装を!!平和のために!唯一の被爆国として!
1世紀、前漢・後漢のあいだの20年ほど、新という国があり、亀貨が使われていた。そのころ淡路島に日本初の鉄器工場ができた。赤色塗料あり、赤眉軍あり、薩摩の隼人は顔を赤塗りしていた。そして2世紀、魏から卑弥呼と呼ばれた天照大神は亀の甲羅で政策を占ったといわれている。
ただそんな原始的な国が諸国に進出するだろうか。そこで推測してみる。
天照大神は、亀貨が戦火焼失に耐えるか試していた。天岩戸に籠ったのは鉱物を探すためだった。魏の帯方郡と赤色塗料(丹)貿易をし、帯方郡が滅びれば百済人や新羅人に鉱山開発をさせた。出雲にも銅や銀があるのを知り、大国主命を送り込んだ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20210815-00253276
タリバンと手を組む中国――戦火のアフガニスタンを目指す3つの目的
コロナと五輪の報道で埋め尽くされた日本のメディアではほとんど報じられなかったが、中国政府の王毅外相は7月28日、アフガニスタンのイスラーム勢力タリバンの代表団を北京に迎えた。この代表団にはタリバン創設者の一人で、外交を統括するアブドゥル・ガニ・バラーダル氏も含まれ、タリバンにとってかなり重要度の高い外交使節といえる。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mutsujishoji/20210730-00250486
この際だからって全部取り替えちゃったわ。
そろそろ替えちゃおうかなって分かるけど、
バッテリーって交換時期ホルモンをどのぐらいで飲み込んだら良いのか分からないぐらいいつかえたらいいのか分からないわよね。
この際だからって全部気になるところ替えちゃったから良かったけど、
タイヤの交換って車検ぐらいグッとドーンと金額くるから心しておかないと、
心の準備が必要よね。
あーあ散財だわと思いつつ安全のためにもと言い聞かせて思い切ってえいや!と替えちゃったわ。
それでそのまま
事務所の伝票だとか日頃平日の出来ない整理整頓ととんとんとやっていく次第なのよね。
営業終わり時館1時間前で滑り込んで湯船に頭からツッコむスタイルを2週間ぐらいやってたから、
それこそ昔は
3時間ぐらいゆうに入り浸って浸かりまくっていたんだけど、
2時間浮くのよね。
なので
今日はオープンと同時に銭湯の湯船に頭からスライディングもしくはヘッドスライディングをかまして行く意気込みで
伝票片付けは一通り終わったから、
今年の確定申告ちゃんは間違えなく秒で終わらせることができるだろうし、
ちゃんと按分してみるって今回は誓ったの。
まあそんなよたよたな与太話はどうでもいいので、
今日という日をさようならと言わないようにしっかり噛みしめて生きようと思ったけど、
聞いてよ!
今週で最終回なのよ!
もう最終回のNHKホールでの登場者全員の歌唱のシーンを思い浮かべると
最後の回のNHKホールでの歌唱シーンでは何故か生き返っている岩城さんも見所よね!
でもあんまり詳しく岩城さんが亡くなっちゃうエピーソドは描かれる時間短かったけど、
あれってなんだかんだで戦火に巻き込まれて亡くなっちゃったってこと?
よく分かんないんだけど、
物語に起伏というかそういうのを作るために登場人物が死んじゃうのは、
でも私はそれが甘いのかも知れないわね。
容赦ない感じがそれはそれで残酷だし
でも最終回岩城さんは生き返ってくるみたいだから本当に楽しみよ。
もう何の話をしていたのか分からないぐらい、
楽しみなんだかんね!
うふふ。
ディーラーが開店するまでに時間あったので寄ったちょいマッーク!
いそいそと食べて朝食は終了。
これで済ませがち多いわね最近。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
正直教科書が薄くて何故開戦したか、なぜ戦争をしたのか理由すら知らない。
小学校の時に授業で観せられたアニメはだしのゲンはグロテスクで「原爆怖いなぁ、このアニメ絵汚い古くて好かないし二度と観ないわ」思考停止、この感想しかない。数年前のはだしのゲン撤去騒動そのものだ。怖いから目を逸らす。子供なんてそんなもんだ。
「被害者意識」、これはあると思う。大きな声でこう言うことを言うと叩かれるけど事実。他国に何をしたのか知らなかった、アメリカと日本がなんか知らんがいがみ合ってた、その認識。
8月のこの時期、一昔前は戦争もののドラマや映画が再放送され、「原爆はあってはならない」「非核三原則」「世界平和」…二度と悲劇は繰り返さない。毎年毎年これだけ。なんも実現しない。原爆という一瞬にして十何万もの市民が亡くなった恐ろしいものを二度とないように、形骸化したこの言葉、この薄っぺらさを戦後ずっと植え付けられてる。
南京、満州という言葉は知っているがそこで何が行われたかは教科書には載っていない。硫黄島、沖縄、真珠湾、アジアの解放?日本軍はアメリカのように上陸して民間人を襲ったのか?教科書にはどこにも載ってない。韓国人が未だに怒ってるけどだって習わないから知らないもん。
そもそも戦争って民間人殺しちゃいかんじゃないの?歴史的建造物、政治中枢は戦火から守られてるけどそこ攻撃したらいいんじゃないの?何を遠慮してどこを攻撃してんだよ???
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
大河、SFロマン系でよくある「戦火の中、疎開した(または死んだと思われていた)姫が妊娠しており、逃亡先で極秘に出産した隠し子」みたいなやつ。
主役はそのカップルで、戦禍がおさまって子が小さいうちに無事再会~HappyEnd~だとなおよい。
主人公がそのカップルの従者(侍女)で、極秘出産を助けるため一緒に逃避行するパターンもあるがそれもよい。
子のほうが主役で、大きくなってから実は出生は…と明かされるのもいいんだけど、これは貴種流離譚の一類かなーと思うので
秘された恋、許されざる恋、引き裂かれる恋ドラマ好きの一面かなと思ってたんだけど
最近は拗らせすぎて、原作時間軸のスキマに逢瀬~逃亡~極秘出産を捻じ込んでくる二次創作に出会うとめちゃめちゃ嬉しい。
でも単純に二次創作の妊娠モノで探すと特殊性癖エロになるんだよな~~ぜんぜん違うんだよな~~~~
普通の小説・映画で探すとなると、後半のイベントなことが多くてネタバレになるし、探しづらいなーと思ってたんだけど
二次創作の場合「このキャラクターが実は女だったら…系」IFが合わさるとヒット率高いことに気づいて最近ちょっと嬉しいっていう日記
そもそも、今まで「ミュージカル刀剣乱舞」という作品に対して「刀剣乱舞のキャラクターの服を着た人が歌って踊る」くらいの認識しかなく、むしろ「世界を守るために戦っているのに歌って踊っている場合なのか?」と思っていた。
そんな私が刀剣乱舞ミュージカルを見て楽しめるのか? と訝しながらも、刀ミュガチ勢の友達が薦めてくるのでせっかくだからと見てみることに。
結果、最高。
本来「モノ」であった刀剣が肉体とこころを持ってしまったことで生まれる葛藤、死んでしまった主に再会できたことに喜びながら、でもここに派遣されたということは主の最期を見なければならない、幸せな時間はうたかたの夢であることに気付いている刀剣男士の苦しみ……。歴史の渦に翻弄されながらそれでも『生きた』人たち……(しんどい)。
それと対照的に、第二部や真剣乱舞祭の圧倒的なエンターテイメント性……。キラキラしてる……。あんなにキレキレで踊ってるのになんでめっちゃ歌うまいの?????? 私と同じ生き物ではない。
すっかりファンになってしまった……。「イケメンが歌って踊ってるだけでしょ」とか言っててすいませんでした。靴舐める。
しかも、現在進行形でこのコロナ騒動で翻弄されている受験生の私にとって、特に救われたことが二つあった。
まず一つ目。
現在私の学校は集団授業再開のめどが立っていない。三月一日から授業ができなくなり、そこから一度も授業を受けてない。映像授業もようやく再来週から始まる状態で、できることといえば週に一度だけ配布される課題を黙々とこなすことだけ。私は予備校の映像授業も受けていたのでまだラッキーだったけど、ほんっとに……ほんっとに虚無(でも私の学校はまだしっかり対応してくれてるほうだと思う)。
一日中パソコンで映像授業を受けているのでターゲッティング広告がすべて東進予備校になった。「模試受けませんか?」ってもう受けとるっちゅーねん!!!!!
しかも私、ちょっと変な大学に進学しようとしてるので、予備校の授業を日本史しかとってない。学費クソ高いからこのままじゃ進学できるかもわからんのに毎日毎日日本史を勉強する日々……。
「お前は王族の血を引いてるから」ってわけわからん滅んだ国の文字を勉強させられてる在りし日のムスカ大佐に異様に感情移入してしまう。
読める、読めるぞ!!!!!!!!!!!!!!(クソデカボイス)
文字と戦果の羅列でしかなかった歴史が、ミュージカルのおかげで色づいた。ムスカがあそこであんなに興奮してる気持ちが痛いほどに分かった。だってこれ進研ゼミでやったもん。
「みほとせの部隊が竹千代を保護して最初にするのが『城の修復と日々の記録』ってめっちゃエモいな(家康が征夷大将軍になって最初に行ったのが江戸城の造成と郷帳、国絵図の作成)」
とか、
「結びの響、はじまりの音によってもたらされた変化は、みほとせであれだけの祈りをもってもたらされた泰平の世を塗り替えるものなのかぁ」
とか習った歴史を思い出しながらしみじみできる。む、報われた……。日本史勉強しててよかった。
個人的に、榎本武揚の五稜郭籠城中、榎本が秘蔵していた国際法研究書を「これからの日本に役立つものだ、戦火の灰にしてはいけない。これからの日本に役立ててほしい」となんと敵方である新幕府軍の黒田清隆に送ったエピソードがすごく好きなので、ミュージカルであんなに魅力的な人物にえがかれていて納得しました。そりゃ黒田も感動して助命嘆願するわ……。
黒田清隆、死刑にするべしと言われていた榎本を救うために坊主頭にしたんですよね。敵であった人物にそれだけさせるだけの説得力があった。
しかも、戦火の灰にしてはならない、と言うってことは榎本には五稜郭を戦場にする覚悟があったってことなんですよね。そんな覚悟をさせるだけの土方歳三……流れ星を見つけ流れ星のように生きた男……。
話が脱線した。
でも、それだけミュージカル刀剣乱舞は魅力的でした。最高。日本史勉強しててよかった、って思えてよかった。ありがとう。大学受験はどうなるかわかんないし、志望校に受験できるかわかんないし、高校さえいつ始まるかわかんないけど、それでも日本史を勉強してたから私はこのミュージカルをたくさん楽しめた。
ならいいや!!
二つ目。
運動会はほぼ練習終わってるし、学園祭も夏休み中に劇の練習があるので、夏休みが無いと言われている現状、開催が絶望的。もっと言ったら友達の引退ライブもたぶんできない。
つれ~~~。ほんとならライブハウスを貸し切って、めちゃめちゃモッシュして最高に盛り上がるはずだったのに。
でも!!
ミュージカルを観て、舞台の上にいる誰かの真剣な顔を見てはっとしたり、真剣乱舞祭でキラキラしてる誰かにキャーキャーしたり、なんかそういうので『『青春』』成分を補給できた気がする。
そりゃ、何か月も稽古をして、それが本業の俳優さんと同級生を同列に語るのはとても失礼だけど、でも、二か月も友達としゃべっていない虚無虚無プリンな今の私に一番必要だったのは、友達と一緒にかっこいい誰かにキャーキャー騒げる、そういう他愛ない時間だったのだと痛感した。
もう、ぼろっぼろに泣いてる。アホほど感動している。
私、全然刀剣乱舞知らないんだよ……言っちゃえばミュージカルがほぼ初見なので、キャラクターとしての彼らをあんまり知らない。え、ゲーム内の彼らは歌って踊らないですよね……。刀だもんね……。
のに、刀剣男士が、主を、仲間の刀剣を、歴史を、どれだけ大事に思っているか。
主とともに紡いだ歴史とともに、自身をどれだけ誇りに思っているか、
そして主(審神者さん? とにかく観客席の方たち)がどれだけ刀剣乱舞というコンテンツを愛しているかがビッシビシに伝わってくる。ミュージカル観ただけなのに。素敵なジャンルだ……。
受験終わったら円盤買いますね。年末にはコロナ渦が収束してたくさんの審神者さんたちがまた騒げることを願っています。
最後に昨日「三百年の子守唄」の見どころを友達に聞いたところ、「ファンサのとき良い匂いがした村正」と言われた。
どう味わえと。