はてなキーワード: お茶を濁すとは
ここ数日ブクマでも増田でも散々掘られているように、ソ連に端を発する共産党体制は「科学的」であり、党中枢が決定した具体的な仕様は「真実」とされ、その「真実」を下部組織が現実として社会実装する、観念論を奉じた完全な上意下達体制である。ニャこれはソ連も崩壊後のロシアも、今の中国でも日本共産党でも変わらない。下部構造で行われる議論は上部構造で尽くされた議論に完全に内包される。もちろん全ての議論は科学的であるから、建前で内包していることにして支離滅裂な呪文を書いてお茶を濁すにも限度がある。そして最高指導部だか書記長だかは知らんが、その人間組織のトップは共産党の御立派な理想に恐らく本気で忠誠を誓っている。
なれば普く共産党のやることなすことその御立派な理想と大枠で一貫性を持つ、ということになる。
しかし客観的に言って50年前100年前の御立派な理想など、そもそも生まれた当初は正しかったとて現実とは乖離してくる、いや人間社会の現実は露出度の低いセパレート型スクール水着を新しくフェチズムとして取り込むように意図を持ち明確であり科学的であり硬直したあらゆるものに適応しその意味を失わせるのである。しばし社会や競争環境について適応しないものは生き残れないと言われるのは単に一般的に言って競争は常に激化すると言っているのみならず、多項式の取る値を論じる上での定数項のように意味が薄いということも意味するのである。つまり共産党の科学的であり一貫性があり上意下達を旨とするその体制、その原理、その思想そのものが畢竟、時間とともに存在を失うことを決定されているのである。つまり共産党は真の共産党である限り滅ぶことが定まっているのだ。
余談だがこの硬直した理想主義体制の欠陥はソ連赤軍とその血を引くロシア連邦やウクライナ軍の弱さ、グダグダ感にも現れている。アメリカ実用主義は過程の正しさを重視しないから、末端が「反逆」しようが、上層部が現場に阿ろうが、官軍が敵方を虐殺する不公平な優位性を持つ戦闘を行おうが、勝てば官軍は勝つのである。明らかにその方が正しい。
抜群の教師ウケと限定的な試験範囲の丸暗記脳死ゲーで獲得したオール5に限りなく近い評点平均を引っさげてトップ公立進学校に入るも、
特段の女忖度なし、かつそもそもの試験範囲が広い大学一般入試という舞台で闘える実力は遂に全く身につかず、
周りの誰も鼻で嗤って行きたがらない早慶の指定校推薦枠(トータル6枠ほど)をかっさらって安全地帯への逃げ込みを考えるも、
定期試験の学年順位下位30%安定では枠が全部余っていようがそもそも高校が推薦してすらくれず、
結局、(ニッコマ受験を回避して)現役でニッコマ並かそれ以下のレベルの伝統女子大に行ってお茶を濁すか、
煽りでなくて、右側、特にネットで観測できる韓国の人が嫌いな人たちにとって今回の統一教会についての見解はどうなのか聞いてみたい。
ネットではすでに統一教会が日本側の信者を金づる化している的な記事が出ているけど、普段から韓国を非難している人たちは特に統一協会を非難することもなく、
どちらかと言うと「いや信教の自由が…」「海外でも宗教と政治はくっついているし…」「むしろ共産党も…」みたいにお茶を濁す人が多い。
というかいつもは自分の言葉でツイートしている人も、黙々と上記内容のツイートをRTしたりいいねしていたりという感じでいまいち煮え切らない。
自民党支持の人たち的には
・統一教会はカルトなので自民党内でも関係がある人ない人はっきりさせるべきだ
どれなんだろうか
煽りでなくて、右側、特にネットで観測できる韓国の人が嫌いな人たちにとって今回の統一教会についての見解はどうなのか聞いてみたい。
ネットではすでに統一教会が日本側の信者を金づる化している的な記事が出ているけど、普段から韓国を非難している人たちは特に統一協会を非難することもなく、
どちらかと言うと「いや信教の自由が…」「海外でも宗教と政治はくっついているし…」「むしろ共産党も…」みたいにお茶を濁す人が多い。
というかいつもは自分の言葉でツイートしている人も、黙々と上記内容のツイートをRTしたりいいねしていたりという感じでいまいち煮え切らない。
自民党支持の人たち的には
・統一教会はカルトなので自民党内でも関係がある人ない人はっきりさせるべきだ
どれなんだろうか
いやだからさ、別に羽生さんのウラを読んでるわけではなくてさ、絶対に差別的な発言が出来ない人の当たり障りのない意見を論拠とするのはいかがなものですか?ということなんだけど。
あとさ男女能力論というのがいつも有耶無耶になる理由に関していい加減察して欲しいんだけど、「女は男より劣っている」なんてことを、まともな人間は声高く言いたくはないってことなんだよ。
あのね?結果はすでに完全に出来上がってるわけじゃない?
スポーツにしても頭をつかうことでもトップに君臨するのは男なわけで。
でもね、まともな人間とかまともな男っていうのは、それがどうかしたの?って思ってるんだよ。
確かにひとつの分野で頂点を極めるというのは偉業だし素晴らしいことだけど、同時にそれがどうした、とも思ってるの。
つまり男と女の能力差があったとしても、それでも人間としての女というものの根源的な素晴らしさは全く損なわれるものではないということ。
もっといえば男女合わせて考えても、それぞれの人間には能力差というものが愕然とした事実として存在する。
でも、それがどうした?
自分と意見が少しでも合わないなら、噛み付く。筋の通ってることも言うが、「無能」、「馬鹿」、「雑魚」など幼稚的な罵詈雑言を引リツではく。
しかも劣勢になったらブロックしてから噛み付くなど、ものすごくみっともない。
ツイを見る限り、フリーランスとして働いてるようだが頻繁に契約終了してる。本人は自由な時間がほしいから自分からやめてると言い張るが、フツーに切られてるんじゃないかな。扱いづらそうだもん。
こいつをのさばらしてるのが「友人」たち。基地ムーブを黙認したり、「まあ彼の個性だから」とお茶を濁す。他の人間がこいつに反論したり、すこしこらしめる行動をしたりすると盾になったり、かわって反論したり、「ねぇーやめなよー」と学級委員みたいなことを言ってくる。
と散々な事を書いてきたが、おれはこの基地ファンと言ってもよい。
ファッションじゃなくて自分を正気と思ってる基地なんてそうそうお目にかかれないからな。どんどん、間違った友情で守られてキチ度を増していってくれ。
「旦那が子育てに協力的でない」と嘆くママ垢をいつも見かけるけど、俺が思うに辛い時に助けてくれて一緒に子育てするタイプの男ってのはあなたが独身時代に「優しくていい人なんだけど好きにはなれないかな〜」って切り捨ててきた男だよ
https://twitter.com/kobakin_jp/status/1534383551960866816
優しい男性はモテるというのは自明の事実であるにも関わらず存在するこれら言説について、新しい説を見つけて驚いた。
真に受けて、「自分は優しくていい人と評価されているがそうではないけど男性として魅力的な人が選ばれたのだ」と理解してしまったのではないか?ということだ。
美味しくなくても頂き物のお菓子であれば美味しかったですと言うし、可愛くなくても頂き物の手作りマスコットであれば可愛いですねと返すだろう。友達に恋人の写真を見せられて、コメントし難い相手だった場合は、良い人そう!優しそうだね!と無理やり褒めるだろう。
コメントに困る相手に告白された時も、まさか本音は言えない。仮に、「ブスで性格が悪くて幼稚で気持ち悪いから」だとしても、「優しくていい人だと思うんだけど、好みじゃなくて…」などとお茶を濁すだろう。
社交辞令を理解できないがゆえのモンスターが生み出した誤解だった説ははじめての信憑性のある言説だった。
あまり信憑性のない説(世の女性にはホス狂いメンタルが多い説、しかしホス狂いは本人たちの自称する異端のメンヘラで一般女性と離れた感覚の持ち主だという世界観からはあまり支持できない。暴力的な男性がモテる説、ヤクザの妻になっているのはヤンキーやヤクザな女であって、たしかに暴力的な女性からはモテる。が、ヤクザやヤンキーは自分達を少数派として明確に堅気と区別しており、こちらもあまり支持できない。)ばかりだったので、これか、と納得したのであった。
けっこういい感じに分厚かったけど、半日没頭して読んでしまった。
来月辺りに広瀬すずと松坂桃李の主演の映画が公開されるし、TSUTAYAに行けば売れ筋ナンバーワンとしていっぱい平積みされているので、わざわざ私が紹介しなくてもいい気がするが……。
著者の凪良ゆう先生はBL小説家としてデビューした人気作家。数年前からBLレーベル外の小説も書くようになった。『美しい彼』『わたしの美しい庭』『滅びの前のシャングリラ』など著書多数。
主人公の更紗(さらさ)は、風変わりな両親に愛され、自由奔放で健やかに育っていた。だが、平和な日々は突然瓦解してしまう。天涯孤独となった更紗は伯母の家に預けられたものの、普通の家庭に馴染むことが出来ない。居場所のない彼女は放課後、独りきりで公園に行き、ベンチに腰掛けて読書をして時間を潰すようになる。
公園には更紗以外にもう一人、ベンチの常連がいた。更紗の学校の友人達からは「ロリコン」と呼ばれる、痩身の若い男。彼は毎日、暗い目で女児達の姿を追っていた。
更紗が伯母の家での暮らしに限界を感じた夕方、これまで更紗に対して無関心を貫いていた「ロリコン」が彼女に近づいてきて……。
ざっくりと言えば、かつてTwitterとかでフルボッコにされた伝説の『幸色のワンルーム』(はくり)みたいなストーリー。傍目には、猥褻目的誘拐犯に性犯罪被害者が懐いてしまうストックホルム症候群にしか見えないけれど、実は訳ありのお兄さんが虐待を受けている女の子を救い、それをきっかけに強い絆で結ばれ、唯一無二の関係性を築いた二人の物語。
なんか物議を醸しそうな筋書きだけど、今のところ『幸色のワンルーム』のようなボコられ方はされていなさそうだし、これからもそうはならないかもしれない。
ただ、レビューを見てみると、猫も杓子も作者が読んで欲しいように読んでいるというか、「事実は真実とは違うということがわかりました。わたしも無理解から他人を傷つけないように気をつけてようと思いました」と多くの人々が判を押したように書いていて、道徳の時間の小学生じみていて、うすら怖い。一体どうした、みんな真面目か。
まあそれは置いといて。『幸色―』よりは好意的に受け入れられているっぽいのはたぶん、そもそも挿し絵無しの小説なので、女児の可愛い言動や性犯罪被害を描いてもそれを「性的消費」目的で書かれたとは思われ難いというのがあるのかなと思う。それに、物語全体のうち、被害者女児と誘拐犯の暮らしが書かれた部分はそんなに多くない。それより、更紗が事件以来、15年の歳月をどのように生きてきて、現在はどんな風に暮らしているのかに多くのページが割かれている。そして、更紗が性的虐待を受けている場面や、彼女にとってはしんどいだけの性行為の場面は、心情はリアルに書かれても行為そのものは生々しく描写されはしないので、虐待描写のオカズ化は防がれている。そういう意味では安心。
未成年者略取という犯罪に夢見すぎという批判はあると思う。だがそれも罪を犯した文(ふみ)の内心が吐露される章で緩和されるのかな、たぶん。
現実にも起こりうる、子供が被害に遭う犯罪とその冤罪。当事者しか真実は知らないはずなのに憶測が飛び交い、被害者・加害者ともにオーバーキルとなるほど晒し者にされ平穏な日常生活を奪われ追い詰められること。そういうことを物語のネタとして取り上げることの良し悪し。それについて私自身がどう思うのかといえば、良しとも悪しとも言えないなぁという歯切れの悪いことを言うしかない。
個人的な好き嫌いのことをいえば、センシティブなネタほど「逃げの一手」を打たない方が好き。例えば近親相姦もので実は血が繋がっていなかったのでセーフでしたとか、小児性愛者が未成年者略取の罪を犯したと思ったら実はそいつは小児性愛者ではなかったのでセーフでしたとかいうのは、何がセーフじゃ甘えんな! もっと業に正面から向き合えと思う。
『流浪の月』はどうだったかといえば、文は実は小児性愛者ではなかったので、そういうとこは私のあまり好きじゃないものの類なんだけれど。だってたぶん多くの読者が「更紗と文にはこれからは静かなところで幸せに暮らして欲しい」とレビューに書いているのって、文が「安全な人」だとわかったからで、もしもまじもんの小児性愛者だったら同じ感想が出るか? っていう。なんていうのか、結局は罪を軽減して世間並に受け入れられるレベルまで物語引き下ろした感が出てしまうというか。それで事実と真実は違うよねーと言われてもなって感じがする。
だが、文がなぜ自らを偽ってまで小児性愛者のふりをしてきたのか、その事情と心情があまりにも切々と書かれていて胸を打たれたので、私の個人的好き嫌いとかどうでもいいかもう、と思い直した。
事実と真実は違う。人それぞれに抱えているものがあって、それを他人が何も知らない癖に常識だのなんだのを笠に着て叩くことが許されようか? 本作のテーマはそんな感じだが、幼い頃の更紗を育んだ家庭や、大人になった更紗に関わる人々などを、更紗が許容するもの・拒絶するものに、そうは言ってもな……とちょっと疑問が残るようになっているところが良いと思った。
たとえば、母親が無理をせずに幸せであることは大切だとして、更紗は彼女自身の母親や、同僚の子持ち女性の自由奔放ぶりを許容する。ところが更紗の母親と同僚女性は娘の物分りのよさに甘え、自分の恋愛にかまけて娘を放置するという全く同じ行動をする。だが、その結果は大きく異なる。更紗は母親に遺棄されたせいで理不尽に辛酸をなめることになったが、同僚女性の娘は放置されたものの完全には棄てられず、それが切っ掛けで更紗と文という年の離れた友人に出会い、精神的に救われることとなる。同僚女性は更紗と文という協力者を得たお陰で、娘を遺棄せずに自分の人生も大切にできたとも言えるかもしれない。同じ事が起きても結果は違う。これを人それぞれと言うか、そんなんただの運だから、最初からちゃんとしているに越した事はないと思うか。現実としては、周囲から親にかけられるプレッシャーのお陰で子供が守られているという事も、往々にしてあるが……? などと、ちょっと考え込んでしまう余地が読者には与えられている。
一方で、更紗はDV気質のある恋人の亮のことは、交り合うところが一つもないと拒絶し切り捨ててしまう。亮がなぜDVを止められなくなってしまったのか、その理由を知っていながら、理解も共感も彼女は拒否するのだ。母親が我が子を遺棄することには同情すら示すというのに、DV男はどんな事情があれどもダメであるというアンバランス。DV男は許してはならない、そんな奴からは早急に逃げるべきだというのは正しい。ここを違えたら今時の読者には受入れられないのは想像に難くないが、世間へのご機嫌取りとも思えない、あえての偏った描写なのだろうか。と、ここにも悶々と考えさせられる余地がある。
また、他人の無理解によって苦しめられてきた更紗もまた無謬の人という訳でもなく、無邪気な思い込みで発した一言で文を深く傷つけたのに長い間気づかず、文の真実を知らないままであった。それは、読者が安易に更紗と自己を同一視して気分を良くするだけにとどまるのを阻んでいる。更紗が文の真実を知った時、それまで更紗と一緒に被害者意識を持って、解っていない人々を糾弾出来る立場にいたはずの我々は、自分達が解っていない人々と同じ穴の狢であることに気付かされ、ショックを受けるのだ。
後半、読者目線では余裕で予想できる破滅的な結末に向けて、更紗と文が善意やちょっとした人としての良識を発揮したせいで転がり落ちてゆくところは、はらはらしてつい目が離せなかった。それはダメだ、善意でもやったらいけないやつだと、更紗達を批判することを、圧巻の心理描写が妨害してくる。簡単に教訓を得ていい気分になって読み終えることを許してはくれない。それがこの小説のすごい所なのかなと思う。
にも関わらず、レビュー者が判を押したように教訓を得た事ばかりを書くのは、この小説が安易な共感を読者に許さない、熟考を強いてくるからなのかもと私は思った。そう易々とは自分の意見を書くことが出来ないから、かえってテンプレみたいな感想を書いてお茶を濁すことになるのだ。
さて、以下は凪良ゆう先生のBL作品の紹介と、『流浪の月』とテーマが似ていると思う作品とかの紹介。
主人公の平良は吃音を持っているせいで上手く喋ることができず、学校生活の中ではスクールカースト最底辺に追いやられていた。両親に心配をかけることを畏れた平良は、イジメのターゲットにならないように極力目立たぬよう、息をひそめて暮らしている。
そんな平良は、高校二年の新学期、同じクラスになった清居(きよい)に一目惚れをしてしまう。清居はスクールカーストの頂点に君臨し、陽キャの面々に一目置かれながらも孤高にマイペースを貫く、まさに王者である。そんな清居とそのしもべ達から奴隷のようにこき遣われる平良だったが、清居が気まぐれに差し伸べる暴力的な救いの手や、逆境をものともしない凛とした姿勢に心酔する。やがて平良は、清居の一兵卒から立派なストーカーへと進化していくのだった……。
凪良ゆう先生のBL小説のなかでたぶん最も人気のあるシリーズである。イジメの被害者と加害者のカップリング。主人公の平良と、平良に惚れられた清居、それぞれの視点によって相手の人間性や共通の体験についての見方ががらりと変わる。事実と真実は違うとはまさにこのこと。
幼い頃、近所に住む「にいちゃん」に遊んでもらっていた、ゆい。彼はにいちゃんのことが大好きだった。ところがある日、にいちゃんが奇妙な遊びに誘ってきた。怖くなったゆいは、にいちゃんの部屋から逃げ出した。そこへゆいの母親が鉢合わせたことにより、にいちゃんは逮捕されてしまう。
数年後。高校生になっても、ゆいはにいちゃんのことが忘れられず、親には内緒でにいちゃんの行方を探していた。そして遂ににいちゃんと再会を果たしたゆいだったが、にいちゃんはゆいを怨んでいた。にいちゃんはゆいを拘束して動画を取り、それを脅迫材料として、ゆいを呼び出し、苛烈な性的虐待を加えるのだった。
ほんものの小児性愛者でしかも性犯罪者の大人と、ストックホルム症候群な高校生のカップリング。虐待描写があまりにも凄惨で心を折ってくるので、性描写がゴリゴリにあるが抜けないエロ本みたいなことになっている。ヤバい奴に雁字搦めにされてしまった状況での愛は偽りなのかもしれないが、渦中にある本人にとっては本物に見える。その様を綺麗事なしに描写した怪作である。
腐野花(くさりの はな)は、恋人との結婚をもって養父の腐野淳吾の手を離れることになった。花は幼いうちからまだ年若い養父と性的な関係を持ち、そしてもう一つ、誰にも言えない秘密を淳吾と共有していた。
そんな花と淳吾の暮らしを、時の流れとは逆順に、章ごとに語り手を変えつつ描いた物語。最後には花と淳吾の真の関係性が明かされる。
はたからみれば養父から性的虐待を受ける女児の物語だが、やはりこれも事実と真実は違う系。ところが真実は事実よりもどろどろとしていて、なのに純心であり耽美でもあるが、物凄い業の深さでもある。
第1章が花と淳吾の別れの話で、それから章ごとに時を遡っていき、最終章は家族を亡くして孤児になった花が淳吾と出会い養子になるところで終わる。
私は初読の時に、まるでハッピーエンドのように終わるなぁと思ったのだが、再読したら別にハッピーエンドには思えなかったのは何故なんだ。もう一度読めってことかな、ハハッ。
映画にもなっているのだが、映画版はまるで小さな悪女・花に淳吾が狂わされ搾り滓にされたみたいなラストだったから、あまり好きじゃないな。
酷暑の真夏、若い母親は幼い子供達を部屋に置き去りにし、餓死させた。懲役30年の実刑判決を受けた母親を、世間の人々は好き勝手に糾弾する。一体、母親は何故、愛していたはずの子供達を死に追いやってしまったのか? 母親自身の生い立ち、彼女の祖母の代から続く凄絶な負の連鎖とは……。
小説にしか描けない現実があるとして、実際に起こった事件をモチーフに書かれたフィクション小説である。
児童虐待と、世間の人々が助けたいとは思わないタイプの社会的弱者の物語。著者の山田詠美先生は自由な女性の恋愛小説を書く一方で、昔から社会の最下層にひっそりと生きる人々の事も書いてきた。中でもこれはすごい作品。
ほんコレ。
自分は基本的に横断しようとしている歩行者がいれば止まる派なのだが、後続車や対向車がいる時はあえて止まらないことも多い。
なぜかと言うと、自分は止まっても他車は止まらずにビューンと高速で通過することがあるから。
早漏の後続車が荒々しく自車を追い抜いていくこともあるよね。
しかし歩行者は「止まってくれた俺の車」にばかり注意が向き、ぺこりとお辞儀をしたり「早く渡らなきゃ!」と焦ったりして、他車の動向への注意がおろそかになる。
すると当然、非常に危険なことになる。
特に小学生なんかは一つのことしか頭に入らないので、前述のようなことになりやすい。
だから、あえて止まらなかったり(もちろん飛び出しに備えて速度は落とす)、あるいはゆっくり走って対向車が同時タイミングくらいにすれ違いで通過するように調整し、子供たちが安全に横断しやすいように工夫している。
しかし警察がクソで全くやる気がないので、まずはマスコミや凸系YouTuberなどが警察を締め上げる必要がある。
俺は以前、子供の横断者が多いのに車が全然止まることのない危険な箇所について警察に電話して「もっと取り締まりしてくれ」と頼んだことがある。
応対した警察官は面倒くさそうにのらりくらり。「まあパトカーにも限りがありますからね」とかなんとか言ってお茶を濁すばかり。
お前ら、歩行者がいなくて安全快適な幹線道路ではちょくちょくネズミ捕りして点数稼ぎしてるくせに、事故多発(またはその危険性がある)場所で仕事しないのはなぜなんだ?
繰り返す。