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2024-07-21

ウォーク左派ジジェクファンによる、ジジェクへの反論

https://anond.hatelabo.jp/20240721230541

上記ジジェク記事への反論記事

ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済

2023年3月2日

ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/

 

私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである

彼の著書『終焉時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、

彼の他の著作に興味を抱かせるきっかけとなった。

ジジェク文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。

 

本棚に積まれ1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。

私は、ジジェク長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分知的価値を測るようになった(現在ほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。

 

それだけに、現代政治文化に関する最近記事で、ジジェク非難するのは心苦しい。

しかある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、

なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、

有利なポジションに私を置いていると感じている。

 

私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクエッセイである

そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。

 

ジジェク哲学は、ヘーゲルラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着からオーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。

他方で世間一般におけるジジェクペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス挑発者であり、象徴破壊であるが、自分勝手ものではない。

ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。

 

したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。

 

私は、ジジェクお気に入りトリックひとつである正式哲学分析範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、

喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。

(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレ特殊構造が、

ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界概念に対する究極の反論となっている)。

 

ほとんどの場合ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さら重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、

しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである

 

そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。

トランスジェンダー権利をめぐるスコットランド政治的混乱からまり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトラカンへの言及で締めくくる。

しかし、このざっくりとした読み方は根本的に間違っている。

 

表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。

これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;

 

ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダー権利をめぐる、最近政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、

正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。

 

結局のところ、ジジェクは皮相な哲学手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。

ジジェクは、過去10年間にリベラル知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。

 

ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:

 

  「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

 その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

 言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。

 

この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?

 

ジジェク引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。

実際、彼が引用したガーディアン記事を読んでいれば、上で引用した段落修正できたかもしれない。

 

ジジェク引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカー不妊の原因にはならない "と書かれている。

したがって、このスロベニア人知的怠惰恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険形態である

 

さらにひどいのは、ジジェク記事の冒頭で取り上げた最初文化分析対象である

コンパクト編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。

 

それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性レイプしたことを我々は知っている"

 “We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”

 

ジジェク言及しているのは、アイラブライソンの事件である

 

この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプ有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、

トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハテストとなった。

 

ここでジジェクは、基本的事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。

 

さら問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである

(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。

 

ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェク性別を間違えて表現することに固執するのは、

ジジェクトランスアイデンティティ尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。

 

ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。

 

しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である

彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;

 

この時点でようやくジジェク哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。

 

記事の次の部分はさらに長く、さら面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事宣伝である

(中略)

 

で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?

 

その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。

彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。

The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.

 

 [ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭利益残酷計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」

 

思春期ブロッカー使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。

 

ここでジジェクは、ジャニスレイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、

製薬企業にとって重要経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。

 

そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実物質的な対立のために戦うのではなく、

資本の側、つまり極悪非道個人の側にいる人々として捉え直すことができる。

 

バトラーフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェク盲目にさせているのだ:

 [ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

 それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。

 

作品全体と同様、これはジジェク特有哲学プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである

この最終的な帰結は、英米トランスジェンダー物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクお墨付きスタンプを押したということだ。

 

ジジェクは、社会の変化に懐疑的ジャーナリスト知識人瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまたかのようだ。

これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である

 

過去思想家からの豊かな引用を悪しき議論隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。

 

私たちにとって悲しい日であり、多くの意味ジジェクにとっても悲しい日である

 

ジジェク豊富理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。

このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。

[終]

ジジェクの言う「ウォーク左派」の具体例

目覚めはここにあるWokeness Is Here To Stay / スラヴォイ・ジジェクSlavoj Žižek

2023年2月22日

ttps://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/

 

ウォークネス[ “wokeness”]は衰退しつつあると主張する人もいる。

だが実際には、それは徐々に常態化され、内心疑っている人々でさえ従い、学術機関企業国家機関の大多数によって実践されている。

からこそ、ウォークネスはこれまで以上に批判されるべきであり、その反対側にある新しいポピュリズム宗教原理主義猥褻さと共に、批判されるべきである

 

まずはスコットランドから始めよう。

スコットランドではニコラ・スタージョン政権覚醒主義woke-ismとLGBT運動を(ほぼ)最後まで押し進めた。

2022年12月スコットランド議会が個人が法的に性別を変更しやすくする計画承認し、新しい自己認識システムを16歳と17歳に拡大したことを受けて、

スコットランドは「平等にとって歴史的な日」と称賛した。基本的に、自分がどう感じているか宣言し、自分がどうありたいか登録する制度だ。

レイプ有罪判決を受けた生物学的に男性であるイスラブライソンがスターリング女性刑務所送致されたとき、予想通りの問題が浮上した。

 

ブライソンは、強姦罪法廷に出廷して初めて、自分はもはや男性ではないと確信した。

まり女性であると自認する人物が、自分ペニスを使って2人の女性強姦したのだ。

 

この送致決定は非常に論理的だ。

 

男らしさや女らしさが身体とは何の関係もなく、すべては主観的自己定義関係するのなら、

ペニスを持つ強姦犯は、捕らえられた女性たちと一緒に刑務所に入れられなければならない。

 

[ところが]数々の抗議があった後で、ブライソンは男性刑務所に入れられた。

しかし先ほど[の決定]と同様に、この決定もスコットランドの[先ほどの]法律下で問題となる。なぜなら女性を自認する人が、男性刑務所収監されているのだから

Again, this is problematic under Scottish law, since we have now a self-identified woman in male prison.

 

スタージョン氏が辞任したのは、国民のなかで「LGBTに反対しているわけではないが、さきほどのような措置に単純に反対している人々」を疎外したためだ。

 

ここでのポイントは、簡単解決策はないということだ。

なぜなら、性的アイデンティティはそれ自体が単純なアイデンティティではなく、

矛盾無意識の特徴に満ちた複雑な次元であり、私たちがどう感じているかを直接参照するだけでは、決して証明できないものからだ。

 

いわゆる思春期ブロッカーPuberty blockersの使用をめぐる最近の論争は、この同じ複雑さの別の側面に関係している。

 

ロンドンのタヴィストック クリニックは、ホルモン抑制し、

乳房などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期ブロッカー使用を、

制限するよう上級当局から命じられた。

 

タヴィストックは、性的アイデンティティ選択できないように見える 9 歳から 16 歳の若者にこれらの薬を投与していた。

タヴィストック臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者は、環境からプレッシャーで強いられた選択を行い、その結果、

彼らの本当の傾向 (主にトランスジェンダーであること) が抑圧される危険性があると推論した。

 

思春期ブロッカーは、そのような若者思春期に入るのを遅らせ、

より成熟した年齢で決定する前に、性的アイデンティティについて熟考する時間を与えるために必要だった。

 

思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

その中には、「性的指向がはっきりしない」という誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 

批評家の一人が言ったように、「性別の悩みを抱える子供には、時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない」のだ。

 

矛盾は明らかだ。

思春期ブロッカーは、若者成熟を一時停止し、性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために投与されたが、

これらの薬は、他の多くの身体的および精神病理を引き起こす可能性がある。

誰も、若者にそのような結果をもたらす薬を服用する準備ができているかどうかを尋ねることは無かった。

批判者のひとりであるヒラリー・キャス博士は、「思春期ブロッカー意思決定時間を稼ぐのではなく、その意思決定プロセスを混乱させる可能性があるかどうか、私たちには知る術がない。

脳の成熟一時的あるいは永続的に阻害されるかもしれない」と書いている。

 

キャスの批判さらに一歩進めて、性的アイデンティティーへの到達は、成熟した自由選択問題であるという、非常に基本的な主張に疑問を呈すべきである

 

性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない。

 

西側諸国の多くのジェンダークリニックでは、医師たちは「無条件の肯定的アプローチ」を取らざるを得ないと感じている。

子供たちを悩ませている、他の根本的な精神危機にはほとんど配慮していない…と、ある批評家は指摘している。

 

実際のところ、プレッシャーは二重にある。

 

第一に、医師たちはトランスロビーに怯えている。

彼らは、思春期ブロッカーに対する懐疑論を、トランスジェンダーの人々が性的アイデンティティを実現することをより困難にしようとする保守的試みと解釈している。

 

これに金銭的な強迫観念が加わって、この状況はさら悪化している。

例えば、タヴィストック収入の半分以上は、若者性的問題治療によるものだった。

まり、ここで起きているのは、政治的に正しいしつこい勧誘と、金銭利益の冷酷な計算の最悪の組み合わせだ。

 

思春期ブロッカー使用は、ウォーク資本主義woke capitalismのもう一つのである

 

かに、この 2 つの論争は、少なくとも反「ウォーク勢力部分的勝利をもたらした。

スタージョンは辞任し、タヴィストック・クリニックは閉鎖されたのだから

 

しか現在働いている勢力は、個々の政治家見解や、特定機関力学はるかに超える勢いを持っている。

しろ個人機関は、上から押し付けるのではなく、常に他所から来る規制適応しようとしている。

したがって、同様のスキャンダルが今後も増え続けることは間違いない。

(以下省略)

 

【※参考】

思春期ブロッカー批判するジジェク動画

https://www.youtube.com/watch?v=i826SBcDF_I

 

2024-07-15

ポピュリスト右派ウォーク左派はどちらも自分勢力を伸ばすためにグルになっている。

今回の都知事選を考える上で、ジジェクが、ポピュリズム右翼アイデンティティ左翼が表裏一体になっていると分析しているのは重要と思う

スラヴォイ・ジジェク

左派は、性的人種的経済的排除され疎外された人たちの保護者を自任しながらも

極めて抑圧的な超自我の体系を課すことにより

特定の人や立場排除することを越え

それについての討論の可能自体をなくしてしまう。

表面上は多様性と包容を主張するが、これについての自分定義同意しない人達容赦なく排除する。

私たちの中に多様性と包容性に反対する人はいない。そのような人は既に全員追放たから』

左派は人々が規範合致しないことを咎める。

抑圧されている人達

『なぜ私があなたたちに支配されねばならぬのか』と言って遠ざかる。

このようにして、ポピュリスト右派ウォーク左派は深いところで共謀している。

これらはコインの裏表だ

これらは現在直面している根深問題回避し、グローバル資本主義に刻み込まれ根本的な敵対無視する2つの手法だ。

https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/50598.html

2024-05-14

ポスト構造主義マルクス主義は、構造主義マルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会経済分析を行う理論的枠組みです。このアプローチ代表する重要思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます

### ジャック・デリダ弟子

1. **スラヴォイ・ジジェク**

- ジジェクは、ラカン精神分析ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代イデオロギー政治批判的に分析しています。彼の思想ポスト構造主義マルクス主義の影響を強く受けています

2. **ジャックランシエール**

- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自政治哲学を展開し、平等民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義マルクス主義の融合を感じさせるものです。

3. **エルネストラクラウ**

- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーポピュリズム概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義批判的に再解釈しました。

4. **ガヤトリ・チャクラヴォルティスピヴァク**

- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています彼女研究ポスト構造主義マルクス主義に関連しています

これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義マルクス主義対話を通じて現代社会の諸問題分析しています

2024-04-19

anond:20210317115504

いっきり『自由強制された選択』でワロタ

まり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。

個人に先立つ社会存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。

>強制された選択の状況は、主体が、自分選択とはかかわりなくすでに属している共同体自由選択しなければならないのである

問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択たかのように扱われる。

しかも、こうした強制選択全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象

誤った選択をした場合精神障害者レッテルを貼るところもファシズムのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。

民主主義自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲル歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)

なのにその思想を持ったというだけで構成である元増田排除しようとしているってわけ。

根底価値観は全く同じにも関わらずより効率的排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツファシズム選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義管理社会の方がマシだろ。

anond:20210317115504

いっきり『自由強制された選択』でワロタ

まり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。

個人に先立つ社会存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。

>強制された選択の状況は、主体が、自分選択とはかかわりなくすでに属している共同体自由選択しなければならないのである

問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択たかのように扱われる。

しかも、こうした強制選択全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象

誤った選択をした場合精神障害者レッテルを貼るところもファシズムのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。

民主主義自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲル歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)

なのにその思想を持ったというだけで構成である元増田排除しようとしているってわけ。

根底価値観は全く同じにも関わらずより効率的排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツファシズム選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義管理社会の方がマシだろ。

2023-07-06

なぜFF16が白人だけじゃダメだったのか、吉田直樹にでもわかるように説明する

## いきなり結論

FF16で繰り返し「人が人らしく生きられる世界を作るんだー!」と言いつつ、そこで言われてる人が「白人」のみとなっていることが自己矛盾になっていることに吉田直樹が気づいていない。

吉田直樹いわく「作りたい世界観の関係上でああなった」とあるが、差別のある世界マジョリティにとっても「作りたい世界=ヤツらは人間じゃない」という世界観なワケ。

## 全然大人RPG」なんかじゃない

しろ高校生の考えたさいきょうのだーくふぁんたじー止まり吉田直樹人権感覚が、あの世代のおっさん以上・世界水準のはるか下なのが原因。

## 映画のようなRPGとして

FF16は「プレイできる映画」のようだった。まあそこの賛否はこの際おいておく。

ここで重要なのはスラヴォイ・ジジェクの「映画大衆の見る夢である」という言葉

まりFF16を是とする大衆は、白人しかいない世界を是とし、白人様こそが人間であり、黒人や我々イエローモンキー、その他様々なレイシャルマイノリティはすべて人間じゃない、という状態を夢見ているということになる。

それって大手を振ってYESとは言い難いよね?というところが問題根本にあるのだが、吉田直樹はじめポタクくんたちは「ポリコレが〰」と発狂しながら叫ぶのみで学ぼうとしない。

こうやって有名IPすら競争力を徐々に失っていくのだとすれば、実に人権後進国らしい最後といえる。

おしまい

2017-05-18

補足解説 ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

http://anond.hatelabo.jp/20170516141639

↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。

ついでに、最近話題ポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。

文章はいい加減だし、今日日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである

  

  

"自由"の抑圧こそが必要

たとえば、労働問題について考えてみよう。

過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?

私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。

  

過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。

人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しか労働問題においては、そういう権利適用するべきではない。

  

長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合ブラック労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである

女性労働するときハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。

  

「上から改革」が必要

明治時代日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化過程では必ず「上から改革」がある。

旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊排除することで、国民はようやく新時代適応できる。

  

たとえば女性差別がひどい国では、政府女子教育権利提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。

権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層田舎にまで女子教育を普及させるには、政府国民権利を与えるだけでは不十分であって、その権利行使することを国民義務付けなければならない。

  

重要なのは政府国民全員に強制することである

「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。

そして女子児童は、当人まだ子であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。

ここにおいて「多様な価値観尊重せよ」などという主張は有害だ。政府旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。

  

当然ながら現代日本で、後進国近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。

たとえば就活会社説明会服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令必要だ。

から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的手段なのだ

  

ポリティカル・コレクトネス必要

私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである

前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベート時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)

  

私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。

もし本物の極左ファシストであれば、プライベート時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である

  

近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。

そのときリベラル側の主張は、「女性蔑視表現政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレ配慮せよ」というものであった。

私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視であるからだ。

  

もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。

女性主体性尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ

しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性ハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別肯定するという現象からである

被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。

(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)

  

ミソジニー必要

私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。

そしてこれはあまり知られていないことだが、お上纏足強制していたわけではない。とりわけ清朝漢民族のこのバカらしい習俗忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。

女真族満州族)の建てた清朝纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命反革命行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。

Wikipedia纏足

孫引きになってしまうが、以下のような話もある。

当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑言葉を口にする。母親なかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間非難あびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである

ユン=チアン(張戒)/土屋京子訳『ワイルド・スワン』上 1993 講談社刊 p.19-20

http://www.y-history.net/appendix/wh1303-082.html

この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。

そして子供とき纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。

  

さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。

纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」

http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html

西洋女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。

これはまさしく、現代日本女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしま自家撞着するのと同じ心理だ。

ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性主体性尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。

無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足コルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別過酷ものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。

から我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしま女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである

なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。

この理論適用すれば、女がオシャレをする自由是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。

  

終わりに

twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。

リベラリズム本質的価値-自由平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。

スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より

https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995

前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。

しかし私は、どちらかと言えば多分「ラディカルな左派」寄りの立場から、まじめに女性差別撤廃せよと主張したつもりである

ジジェク言葉どおり、リベラルはここからの援護を受けなければ、その遺産を存続させることさえできないであろう。

2011-02-03

なぜアラブ革命精神を恐れるのか? スラヴォイ・ジジェク

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました

なぜアラブ革命精神を恐れるのか?

チュニジアエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋リベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?

チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府イスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。

去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はま継続であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派イスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。

原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバン普通テロにより支配を押し付け原理主義イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンパキスタンスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンアメリカリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?

これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした宗教伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?

こうした背景をふまえたうえで、チュニジアエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要ですしかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日エジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプト平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラク軍隊派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。

ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力イスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説タイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌した政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。

西洋リベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。

さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグ国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。

訳注毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。

2009-12-27

読書映画で見る)大人/子供、そして批評哲学

確かこれは高校の現国の授業でやったネタだ。

「大人は読書をする時、それまでの経験を踏まえ、解析を試みながら”読む”。つまりは半ばその是非を疑いながら読むのである。」

子供読書をする時、経験が無い為に移入する。そのものに成り切ってしまうように。その世界観に染まるのである。」

これも極端な話だ。読書中に大人がスキゾで子供がパラノとはね。

と考えると、ワタシは「読書中に限り」子供パラノイアだ。自分で言うのもアレだが、移入の鬼だろう。

小説キャラクター台詞をパクってそのものに成り切ったりとかね。コスプレだよコスプレ(笑)

しかしながら、普段のワタシはそれを否定する。裏切る。

網状言論F改』だろう?「オタク」の奴。アレは当初物凄い没頭した。

でな、2年前に裏切ったんだ。呆気なく。切っ掛けはスラヴォイ・ジジェクだった。(例の東さんもお好きなようですが・笑)

要するに「裏切りの過程」を全部見せていた訳さ。ひょっとすると、今までに無いパターンだったのかもしれない。

「そのものに移入し、それが後になって全否定される。」という強烈な振り幅。

因に『身体なき器官』の冒頭に有った「対話こそ哲学に対する最も際立ったアイロニーである。」は今でも正しいと思っている。

山月記』の詩人は人と一切交わらず虎に成っただろう?虎のままで居たければ人と交わらない事しか無いんだろうか?

哲学コミュ非コミュ詩人/虎、大人/子供。それにな、今は「メディア」が介入する。

情報公開/非公開という要素は案外無視出来ない。過去日記は非公開にしている。

最近じゃ「自分の所有物である」という主張すら止めた。だから増田。それも今年で終わりにしようと思う。20世紀が終わったからだ。

でもこの状況でも「怪物」と言えばマイルス・デイヴィスだ。エヴァンゲリオンの方がネタとしては解り易いかもしれない。

TV版の最終回は単なる「悪戯」だ。だが「通過儀礼」でもある。

アニメという強シンクロ、「見たまんまが総て」という全能感からたった2晩でそれを総て裏切る。

と言っても所謂「酷いオチ」では無く、総てへの裏切りである。失恋に近い感情を抱いた人が多かったのだろう。

(これ実際有りましたよそりゃ。良い歳こいた大人が「はぁ〜」とか言いながら人生語ったりするのよ。エヴァ語りながら・笑)

で、次の映画版ラストは前も言ったけど「中途半端な破滅願望」な。

失恋すると世界が終わるような幻想を抱く事で自分精神を防衛する」これはアンナフロイトが言っていた事だけど、

世界が終わっても結局シンジアスカが残っていた訳。これは新しいパターンだよ。「破滅した。だが人類は滅亡していない。」

後輩の女の子エヴァ劇場2作を振り返ってこう解釈していた。「あれはアダムとイヴなのだ。」とね。

で、次だよ。今のシリーズ

アニメは言わば強シンクロ世界だ。そこに映る物で総てが説明出来る。」とは『アフロディズニー』のネタなんだけど、

先の『破』はとてつもない強シンクロ世界シンジは男らしく、レイは女らしくなった。恋をして、守ろうとした。言うなればただそれだけ。

それだけに素晴らしい。監督自分の望む世界を雄弁に語った。それに尽きると思う。

評価は分かれたな。移入出来れば、まるで自分が恋をしているかのような感情すら抱くと思うし、

出来なければアレだ。「今更庵野と手を組む気は無い」とか言ったりする。両方ともファザコンに近いなぁもう。

東の新作は実はコッソリ読んでみようと思う。哲学談義が現在大パニック状態なだけに多分面白い。(好事家なので)

やっべ。クソ長ぇ文に成っちまった。多分こんなのまともに読まれないだろう。

(まぁ、誰か読んでくれるかもしれないからこのまま落とす。)

http://anond.hatelabo.jp/20091226193955

2009-12-15

フェティッシュ

医師は言う「ねえ、君。自分魔王じゃなくて人間だという事をよく知っているだろ?」

患者は言う「もちろん”ワタシ”は知っています。でも、天使はそれを知っているでしょうか?」

 (スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』161Pより”誤って”引用。)

                       〜T/H

              

2009-11-22

それを言ったら...。

哲学書は寝室に持ち込んで読むべきだ!」と断言したスラヴォイ・ジジェクは神(笑)

「ベッドの友」と言い切ってるもんなぁ。エロ本じゃないんだから。

                     〜T/H

2008-12-26

http://anond.hatelabo.jp/20081226013814

はてなで活躍してる3人

有村悠(ありむらゆう)98年度入会

入会当初はお茶会期待の星であったが、8年経った今ではニート非モテメンヘルと3拍子揃った白色矮星と化した。人生矯正するためにインドへ送り込む計画が有志によって進められているが、ヘタレなので逃げ回っている。一応、文才・画才両方兼ね備えた器用な人ではあるのだけど。かつては純文学日本SF守備範囲だったが、現在は無軌道ラノベを買い漁って読み漁り、会員に罵倒されている。まるで滝本竜彦小説主人公、あるいは滝本竜彦本人(ただし昔の)のようなダメ人間

夏葉薫(なつばかおる)99年度入会

当会に数年ぶりに現れたまともなSF読み。山田正紀とかエリスンとか、SFファンとしては正統的な趣味をしているのにもかかわらず、口走る言葉エログロばかりなのは一体どうしてなのか? セックスバイオレンス主義を貫く一方、S─neryとか大塚英志とか白倉由美とかに対して屈折した愛情を抱き、「俺は桑島法子だ」と常日頃から公言している変態。むしろ中身より外見が桑島法子だったら良かったのに。白倉由美大塚英志離婚させるために大塚英志を寝取る計画を立案中。

転叫院豊(てんきょういんゆたか)98年度入会

 第十七代編集長。ときどき電波でも食らったように、現代思想あやしい用語を用いてアニメやらノベルゲームやらSFやらを語り始めるが、結構マジメな人なので訊けば丁寧に説明してくれるはず。小説では筒井康隆が好きらしく、ときに「脱走してやるぞ!」とか叫ぶ。好きな思想家海外ではスラヴォイ・ジジェク東浩紀のファンであるようだが、ミーハーとかサブカルとか呼ばれたくはないらしい。鬱キャラの次の時代は統合失調キャラだと信じている。

夏葉の方が有村より若いのか。意外。

2007-12-23

"'53年公開映画シェーン」の著作権消滅が決定" の報で思い出した事

 記事で問題になっているのは著作権だが、それには触れない。

 歴史法則性について。

 但し、プロレタリア革命ブルジョワ革命が完遂した後に起こる、或いは現在自由主義歴史の終焉であると言った話題は、手に余る。

 同じ20世紀で、しかも大衆芸能について、一定レベル以上の成熟と大衆性を獲得した(だから、純文学前衛藝術を除く)ジャンルでは似たような進化を辿るのではないか、という話。

>>最後に取り上げる例は、ジョージスティーブンスの古典西部劇シェーン』である。周知のごとく、西部劇というジャンルは四〇年代の終わりに最初の深刻な危機を迎えた。純粋で単純な西部劇は、いかにも作り物で単純な繰り返しだ、という印象を与えるようになった。西部劇の公式は使い尽くされたようにみえた。作家たちは、他のジャンルの要素を西部劇に盛り込むことによって、この危機に対処した。かくして出来上がったのが、フィルム・ノワール西部劇ラオール・ウォルシュ『追跡』。この映画は、フィルム・ノワールの暗い世界西部劇移植するというほとんど不可能な仕事をなしとげた)、ミュージカルコメディ西部劇(『略奪された七人の花嫁』)、心理的西部劇グレゴリー・ペックの『ガン・ファイター』)、歴史叙事的西部劇(『シマロン』のリメイク)などである。一九五〇年代に、アンドレ・バザンはこの新しい「反省的」ジャンルメタ西部劇と命名した。

 この「メタ西部劇」は『西部劇』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/西部劇そのもの/である。いいかえると、この映画は、西部劇世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだ西部劇である。『シェーン』が生み出す効果を説明するには、ふたたび視界の機能に言及しなければならない。つまり、常識的なレベルに留まっているかぎり、すなわち視線という次元を導入しないかぎり、単純で理解できる問いが生じる──もしこの西部劇の「メタ」の次元西部劇だとしたら、二つのレベルの間の距離はどう説明されるのか。どうしてメタ西部劇西部劇そのものとぴったり重ならないのか。どうして純粋で単純な西部劇はできないのか。答えはこうだ──構造的必然性によって、『シェーン』はメタ西部劇コンテクストに属している。<<

スラヴォイ・ジジェク著 鈴木晶訳 斜めから見る。青土社 P121

 猫も杓子もジジュクを使いまわしている昨近、またか!と思われる方も多いだろう。またか、である。

 アンドレ・バザンの≪超西部劇≫(sur-western)は、時間=歴史的な対象、一九四〇年前後古典主義に対する一九四四年以後の「進化した」西部劇を指し示す。対して、ジジュク≪メタ西部劇≫は、空間=図式的な観念である。それは「メタ」の次元とそれ以外の次元からなる「二段の棚」であり、話を進める上で好都合だったので、持ってきた。

 日本の場合、過去の例で思い当たるのは、時代劇だが、最近では、何といっても、ロボットアニメかな、と。(時代劇については、ここでは触れない)

 名前はいちいち挙げないが、歴史叙事的ロボットアニメ西部劇では実際の過去の出来事だが、ロボットがポピュラーな時代は未だ来ないので、未来、或いは仮想世界舞台になる戦記物)、コメディロボットアニメ、(破綻も含む)教養小説ロボットアニメファンタジーロボットアニメ、ラブストリー的ロボットアニメ、その他、いろいろ。

 では、”その「ロボットアニメ」は『ロボットアニメ』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/ロボットアニメそのもの/であるような作品、ロボットアニメ世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだロボットアニメ”、西部劇で言えば「シェーン」に該当するロボットアニメ存在するだろうか?

2007-11-11

今夜の夜食はドギーバッグでお持ち帰り。 整形板

今夜の夜食はドギーバッグでお持ち帰り。

http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071110

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カウンターたぶん壊れてるんだな。ありゃ。明らかにおかしい。

ところで例のアニメオタクペルー人にさ、また「マクドナルドいかない?」って誘
われたんだけど、さすがにまた奢ってもらうのもあれだし、一応、建前として「お金
セーブしなきゃいけないから・・・」っつって遠まわしに断ったんだけど、「いや、
行こう行こう」なんつってさ、すげーノリノリで「俺が誘ってるわけだからさ」なん
ていうんだけど、こうやって日本語にするとホモが誘ってるような感じだけど、まぁ
ニュアンスとしては「また奢るよ」みたいな感じでさ、どんだけいいやつなんだとか
思いつつ、まぁ学校終わりに行ったらさ、ペルーでは誰かが腹を空かせてたらご馳走
するのが当たり前らしく、ようは恐らく俺の勝手な予想だとみゅ〜ちゅあるな関係性
があるんだろうなって思ったわけね。腹を空かせてたらって、まるで俺が一文無しみ
たいだけど、まぁ実際そうだけどね。前も書いたけど無理に眼鏡買ったから生活費無
いのね。

そういえば前の英語学校のコロンビア人も基本的に飯を奢るだとかシェアするだと
か、コロンビアンはみんなそうなんだみたいなことを言ってたことがあってさ、これ
またみゅ〜ちゅあるだなとか思いつつ、基本的に南米ってのは気のいいヤツが多いっ
てーのと文化的にこういう背景があるんだろうなってのは、こないだ書いた社会が人
間を作り出すってところで、まぁ社会にそういう習慣とか人とのやりとりが残ってる
んで、そういうのがヘリテージされていくっていうような感じなんだろうなとは思っ
たけど、まぁーそれにしても南米から来たやつって女の子でも男でもそれこそラテン
系じゃないけど、陽気なやつが多いんだよね。凄くフレンドリーで笑顔を絶やさな
いっつーか。あれは血というよりは文化というか社会なんだろうなって思ったわけだ
けど、そう思うとやっぱ日本人に限らず韓国人はホント暗いなって思うんだけど、
まぁ中国人になるとちょっと違うんだけどね。これは対比で見ると暗く感じるだけ
で、ようは俺はこっちの環境に慣れてしまったから暗く感じるんだと思うんだけど、
そう思うとさ、ようはいろんな陽気なやつから話しかけられたり、こうやって飯奢っ
てもらったりしてるのを見るとっつーかまぁ自分のことだけどさ、俺もかなり明るく
なったんだろうなとは思うんだよね。まぁ元々明るいんだけどね、考え方は暗いけど
性格的には陰気ではない。ただそういう明るい部分を前面にこっちでは出していけ
るってのもあってようはなんつーかいろんな国のやつらと波長が合うのかなって気は
するんだよね。逆を言えばアジア系の連中とつるもうって絶対思わないんだけど。

飯っつってもマックなんだけどでもなんだかこういうことがあると心が温まるっつー
かさ、ホント、こっちに来てよかったなぁーとかって思う瞬間でもあるんだよね。こ
ういうやつらと友達になれてなんて幸せなんだろうって思うわけよ。あ、なんだかま
たウォール伝っぽくなくなってきた。

まぁいいや。簡単に書くとね、で、マック行った後、タイムズスクエアの駅でさ、
まぁ別のクイーンズのほうに行く電車に乗り換えるんだけど、このペルー人っつーか
ホセが「ゲーセン行かない?」とか言い出してさ、なんかね、タイムズスクエアにあ
るゲームセンターポイントカードみたいなの持ってて、今日使わないとポイントが
無くなっちゃうとかでさ、まぁどの道行こうかってことになったんだけど、このゲー
センってのがなんだかバーとかさ、なんかラスベガスっぽい水商売臭いカジノっぽい
ような入り口ゲーセンでっつーかゲーセンっつーか、所謂、セガとかさ、ナムコラ
ンドみたいな、ああいうゲーセンじゃなくて、割とアダルトな感じなのよね。入り口
では黒服の黒人がIDチェックしてたりして、まぁ別にフォーマルな場でもないんだけ
ど、割と若干高級感があるっつーかまぁ日本のゲーセンと比べるとだけどね。で、こ
れまた感心したのが、全てのゲームがようはこのゲーセンポイントカード制になっ
てて、マツキヨカードみたいなカードポイントっつーかお金を買って、ゲームやる
ときはそのカードゲーム機スライドさせて使うっていう、なんつーかこないだ書
いたカルチャーラグが無いなってことなんだけどさ、まぁ今の日本がどうか分からな
いし、まぁタイムズスクエアとかああいう感じのところにあるゲーセンだからっての
はあるかもしれないけど、ようはアメリカってこういうところはホント、早いんだよ
ね。

まぁあと単純にセキュリティの面っていうか、直接金を入れないっていう防犯的なと
ころもあるのかもしれないけど、それにしてもカードスライドさせてゲームやるなん
て21世紀だなーとか思ったんだけど、ただまぁ感心できることばっかりじゃなくて、
なんつーかさ、このゲーム機がある階っつーかここがメインフロアなんだろうけど嫌
にガン系のゲームが多いんだよね。タイムクライシスとかエイリアンとかハウスオブ
デッドとか、他にもなんだかヘリの操縦席みたいになってるコントローラーに乗って
空から爆撃するゲームとかボクシンググラブをはめてボクシングするやつとかってい
うか、これはウィーって言ってもハンセンじゃなくてゲームのことなんだけど、まぁ
ウィー的なインターフェースなんだろうけどさ、他にも競馬のゲームとかスロットと
か、なんだかすげー悪趣味なのね。

日本ってなんだかさ、まぁ俺の感覚が古いのかもしれないけど、太鼓の達人だか名人
だとかさ、ビートマニアとか、あとやっぱ格ゲーみたいなのが多いじゃない?場所に
もよるんだろうけど、でもなんつーか必ずマージャンとかさ、もちろん脱衣系のも含
めてね、そういうのが多いってイメージがあったんだけど、このタイムズスクエアゲーセンはそれこそアメリカ人の内面が顕在化してるようなゲームのセレクション
で、所謂、格ゲーみたいな、あのジョイスティックボタンがあるようなゲームが一
台も無いのね。で、もうひたすらガン系のゲームばっかで、もう夜の11時回ってるっ
つーのに子供がガン系のゲームやりまくってたりっつーかやりまくるってのは大げさ
だけど、それこそ幼稚園児ぐらいの子がガン系のゲームをやっててさ、しかも母親と
だよ?かなり唖然としたね。

なんつーかようはさ、ああいうガン系のゲームってミリタリー系多いじゃん?「Let's 
Go! Over there!」みたいな、あのミリタリー系の映画でよく出てくるような決まり文
句あるじゃない?アーミー系のセリフ。ようは自分もアーミーの一人になってエイリ
アンとか倒すわけだけど、ああいうのってすげー無意識なすり込みに成功してるよ
なーって思ったわけね。基本的に武力で異物を排除するのは当然だみたいな、それが
正義だみたいなのが当たり前にあって、まぁエイリアンだったら俺はかまわないけ
ど、ようはアメリカメディアなんて過去には共産国とか今ではテロリストとか、
まぁいつでもアイコン的な敵を作ろうとするわけだけど、そういう敵に対しての認識
はエイリアンと変わらないんだよね。

だから基本的に相手は同じ人間なんだっていう認識が無かったりするわけ。それこそ
ゾンビとかエイリアンっていう絶対的な敵なわけよ。アメリカ戦争映画って大半が
プロパガンダ的な部分が多かったりするし、妙に愛国心を鼓舞するものとか、ヒロイ
ズムを前面に出してるものとかさ、俺は銃云々、暴力云々っていうことより、こうい
うプロパガンダを無批判に無意識に受け取っちゃってるっていうオーディエンスに凄
く危機感を感じるね。

もちろん暴力描写も鑑賞者に影響を与えるかもしれないけど、あんま報道されないっ
つーか、まぁ誰か書いてるとは思うけど、こういうアメリカヒロイズムとか愛国心
みたいなさ、こういうすり込みによる影響の危険性ってのにもっと意識的にならない
とダメだよね。俺は個人的にはこっちのほうがよっぽど危険だと思うんだよね。

「ゲーセン行ってまで社会分析ですか・・・」って感じだけど、ホント、こっち来て
からようは日本にいたときみたいな無駄な不安とか労力を注がなきゃいけないような
部分がなくなったから、脳をフルに使えてるんだよね。だから街に出ると色々なもの
がもう何かのシンボルに見えたり、何かを考える材料になったりするわけ。あとまぁ
あんま関係ないけどポイントカードスライドして金を使うってのも、ようは伊東
カードとかクレジットカードと一緒で、キャッシュを直接見ないから、あんま支払っ
たっていうリアリティが無いんだよね。

例えば1万円何かに使うときにさ、キャッシュで一万円出したら、うわー諭吉いっ
ちゃったよーって気になるけどクレジットとか伊東だったらさ、基本的にスライドし
てPinナンバー入れるだけだから、あんま払った気がしないんだよね。ただ当然、銀行
残高見ると残高は減ってるっていう。ただこれってようは消費者によりお金を使わせ
る便利なシステムだよなぁーって思うんだよね。財布の紐を緩めるだっけ?財布の紐
をきつく締めるでもいいんだけど、電子マネーみたいな感覚だと財布って感覚すらな
くなってくると思うんだよね。

現にこっちなんてカード社会だからなんでもカードよ。こないだも学校の購買っつー
となんか日本っぽいけどまぁ購買みたいなところでさ、女の子スニッカーズみたい
なのと小さいノートを買っててさ、その小計が8ドルちょいだったんだけど、伊東で
払ってたからね。8ドルちょいだったらキャッシュで払いそうな気がするけど、あん
なのすらも伊東なんだから。スタバの一杯のコーヒーでもクレジットとか伊東で払っ
てる人珍しく無いからね。ああいうのって現金っていう感覚を失わせる危ないツール
でもあるなって思うんだよねー。ホント。

だってカード破産なんてさ、良い例でしょ。アメリカでもアホみたいにカード使って
払えないっつってさ、破産したり家売ったりとかさ、そんなこと平気でしてる家庭が
あるけど、ああいうのってのもようはクレジットで払ってるから、現金っていう感覚
がなくなってるんだよね。で、これまた来月の給料から払えばいいみたいな、実在化
してないお金を頼りにしてお金を払おうとしてたりさ、完全にヴァーチャル化し
ちゃってるんだよね。金のやりとりが。

ただそれとは対照的に買ったものってのは家に届いたりさ、ようは現物としてあるか
らマテリアル的な満足度ってあるじゃない?もうその繰り返しよ。何か買うってのが
楽しくなっちゃって浪費が止まらないわけ。それをキャッシュでやってるならまだし
も、カードでやってるもんだから、負債がガンガン増えていくんだよね。

まいこーなんかもさ、完全にあの浪費はカードっつーかチェックで払ってるからだよ
ね。なんか前に日本でやってたさ、あのゴリとぐっさんが真似してたあのバシールと
まいこーのコンビ元ネタあったじゃない?あの制作がアメリカだかのやつでさ、ま
いこーの浪費凄かったもんね。なんか美術品がズラーッっとある店で「これとあれと
これとあれ」みたいな感じで、ミロのヴィーナスみたいな石像とか高そうなヴィン
テージのソファーとか時計とかガンガン買ってたでしょ。一個が何千万単位の。あ
れって明らかに金銭感覚を失ってるというよりは、もうすでにお金というのがまい
こーの頭の中でバーチャル化しちゃってるんだよね。あれを買うために銀行からお金
を下ろしてきて払わなきゃいけないだとかさ、そういうプロセスが一切無いから、お
金っていうリアリティが無くなっちゃう。ましてややつの印税もそれこそバーチャル
な量でガンガン入ってくるわけだから、ホント、リアルマネーっていう感覚と乖離
してくるのは必然だよね。

ただね、何が言いたいのかっていうと、こういうことはまいこーだけじゃなくて、自
分たちにも起こりうるんだよねってことなんだよね。それはさっきのアメリカのクレ
ジット負債家族とかも、すけーるは小さくてもやってることはまいこーと変わらない
し、小さい買い物でもリアルなお金っていう感覚から乖離した中でただそのマテリア
ルを求めたいがために伊東とかクレジットで払うってのはさ、まいこーの始まりだよ
ねっていうか、もうアメリカは慢性的にまいこー状態なんじゃないかと思う。

それこそあのアホな大統領がスピーチで「ガンガン働いて消費してください。買い物
万歳!」みたいなこと言ってるわけだからさ、もうある意味で末期的なのかなって気
もするけど、まぁでもアメリカの社会なんて半分以上がコンシューマーによる消費に
よって経済が支えられてるわけでしょ?そう思うとその中でカードってものが支払い
のメジャーな方法というのも、なんだか良く出来た話だよなって思っちゃったんだよ
ね。

ゲーセンで。これ別に今、思いついたんじゃなくて、ずーっとゲーセンホセと銃撃
ちながら考えてたんだけど、ゲームですらさ、コインを入れてコンテニューするの
と、カードワイプしてコンテニューするのとではお金のリアリティが違うわけで
さ、こんな小さい支払いからもまいこー症候群入り口が見えてくるわけよ。

ようはアメリカ社会ってのが消費しろって国民に言ってるわけよ。それはアホ大統領ダイレクトに言うこともあれば、町中に溢れる広告やらメディアやら間接的にって
言っていいのか分からないけど、まぁ消費してくださいってどれもこれも言ってるわ
けじゃない?俺にとってはどれもこれも露骨に直接的に金使えって言ってるようにに
しか見えないんだけど、メディアリテラシーの無い人だったら、それはインダイレク
トにすり込みされてるってことだよね。

そんなんがゲームにも映画にもテレビにもネットにも溢れてるんだからさ、ホント、
師匠2のインテレクチュアル・セルフディフェンスじゃないけどさ、自分たちが自分
たちで身を守らないと個々がアホなコンシューマーなっちゃってダメなっちゃう
よね。社会全体が国民をそういう風に巻き込もうとしているというよりかは、もう大
半が巻き込まれていて、常に巻き込む側はもっと巻き込むように仕向けているわけだ
けど、そういうのが見えないと自分の人生がいつのまにか外的なものでコントロール
されつくしちゃってるなんてことにもなりかねないからね。

そういう人多いと思うけど、前の話と繋げると、そういう人が外的なものに幸せを求
めようとするんだよね。だからいつまでたっても幸せになれない。消費しても恋愛し
ても残るのは疲労感だけ。そりゃ当然だよね。だって幸せが無いところに幸せを求め
ていて労力使っちゃってるんだから、そりゃ疲れるに決まってるよ。ただね、ちょっ
と話を脱線させるけどってすでに脱線しまくってるけど、オタクの話をすると、よう
は古くはギャルゲーとか萌え系のキャラクターとかもそうなんだけど、あれってオタ
ク男の女の子への幻想とか恋愛への幻想の塊みたいなもんでしょ?

まぁそういったオタクたちの幻想が実体化した存在っていうか。だからギャルゲーで
もデートの状況とかがありえないぐらいベタというか、まず無いようなシチュエー
ションばっかで、リアリズムゼロだし、それは萌え系のキャラも当然、あんな女の子
は現実にはどこに行っても存在しないわけだけど、ここで面白いのが、顕在化してし
まったっていうところなんだよね。ようはそういった幻想がある形、まぁそれがゲー
ムなのかもしれないし、キャラクターなのかもしれないけど、オタクたちにとっては
それがリアルで、分からない人達にとっては実体の無いものに夢を抱いているから、
ちゃんとした女の子と付き合えとかっていう風に言うけど、大抵のオタク側の意見と
しては「大きなお世話だ」ってことなわけだよね。

自分は萌えているんだから、それでいいんだっていう。でもそれってそれでいいんだ
よね。というのは買い物とかオタク系ではない、ようは常に理想の恋愛みたいなのを
求めているような馬鹿な連中ってのがいつまでたっても幸せを得られないのは、まさ
しく実体が無いものを追い続けているからなんだけど、オタク系の場合、その幻想が
キャラだとかゲームっていう形で実体化しているので、彼らにとってのリアリティを
そこに見出すことができるんだよね。それは彼らにとってはリアルなものだから。だ
からオタク系ってなんだかんだで幸せそうな人が多いわけでしょ?

これが良いか悪いかは別としても、他人に人の幸せのあり方を批判する権利なんてな
いから、そういった意味だと彼らの中ではそれはもう幸せの形として存在しているん
だから、今みたいな何も無い社会を生き抜いていける人達の種類の一つとしてオタ
クってのがあるんじゃないかなって思ったわけね。そんな意味だとオタクたちっての
は、無駄に色々な消費をしたり無駄な恋愛をしてお金と時間と労力を使っている馬鹿
達よりは、よっぽど処世術に長けているんじゃないかな?って思うわけ。まぁ処世
術っつっても極めて21世紀的な処世術ね。

で、自分の話をすると、俺はこっちに来てから特に色々なこともあって、ようは以前
にも増して内面的なものに幸せというか安らぎみたいなのを感じることが出来るよう
になったわけだけど、でもそれを支えている一つとして、まぁ学校があるかもしれな
いしニューヨークっていう場所もあるかもしれないんだけど、その他ってのはやっぱ
考える材料を提供してくれるような出来事とか本とか映画とか音楽だったりするわけ
でさ、俺の内面的な幸せを司っているものの大半がまぁ俺のオタク趣味なんだよね。

だから俺は哲学オタクかもしれないし、社会学政治学オタクかもしれないし、映画
オタクなのは明らかで、音楽オタクっつーか音楽に関してはもうオタクっていう次元
じゃないんだけどってーことを言うと、全てがオタク程度の次元ではないんだけど、
でもまぁ一般的な社会の定義で言うとまぁこれはオタクの一種ですよ。

これは前にも書いたとおり、秋葉系オタク美少女オタクだったりするんであれば
俺はまた別の類のオタクなわけで、基本的にオタクということでは共通しているんだ
けど、もう一つ重要な共通点というのが、そういったオタク趣味的なものから幸せを
感じられているってことなんだよね。俺はまぁありえないぐらい多趣味だと思うけ
ど、まぁ俺の幸せが全て趣味に依存しているわけではないんだけど、でも趣味は相当
大きな要素なわけってことで、基本的にオタク系と変わらないじゃんってことになる
わけね。

だからオタクの種類が違おうが、俺に他のオタクを批判できる筋合いなんて全く無い
んだよなって最近凄く思ったわけね。前は秋葉系オタクのことをぼろ糞書いてたけ
ど、今はそうは思わないな。絶対関わりたくないし、ああいうのは大嫌いだけど、で
もだからといって批判はできないわけ。

彼らがそれを主体性を持って全身全霊で取り組んでいるのなら、それはリスペクトし
なきゃいけないよね。で、俺がディスりたいやつらっつーのは流動的に色々なことに
流されまくっている主体性の無いスッカラカンな消費者ね。流行ってるからとかみん
な聞いてるからとか有名だからとか、そういう理由で何かを消費したりする類の連中
ね。こういうやつらはホント、どうしようもないんだけど、経済の大半がこういう
スッカラカンな消費者によって支えられているとなるとさ、こういう人達すらディス
れなくなってきちゃうっつーか、それこそ経済にとっての必要悪みたいな存在になっ
ちゃうわけだよね。

あーアイロニカルだわぁー。腹減ってきたからバナナを食べよう。っつーか恥知らず
の痛みはだいぶマシになってきたんだけど、今日はセリマに念願の眼鏡ピックアッ
プしにいってさ、まぁ相変わらず俺が選んだだけあって生活苦もなんのそのってぐら
い素晴らしいめがねなんだけど、まぁこれならまず誰ともかぶらないなってぐらい特
徴のあるめがねでね、あのクーロンズゲートゲームキッズがしてるハイテクメガネ
みたいな形してるやつなのね。枠がデカイロイドメガネみたいな。

まぁーでもセリマ最高ですよ。もう。アランミクリは値上げもあって完全にブルジョ
ワブランドなっちゃったから今後はセリマだな。というかアヴァンギャル度、ヒッ
プ度ではセリマのほうが上のような気がする。今回はアランミクリが買えなかったか
らセリマで買ったみたいな妥協感一切無しだったからね。もう「これだぁー!!」っ
ていう。でもさ、めがねってのも話せば長くなるんだけど、これも止揚の歴史です
よ。別に俺、止揚って言葉を正しく使ってるわけじゃないからね。

まぁいいや。昔はさ、眼鏡が大嫌いで、一時期コンタクトしてたこともあるんだけ
ど、眼鏡にしてもなるべく眼鏡の存在感が無いようなやつしてたんだよね。ただある
ときふと気がついてね、んだったらディスアドバンテージである眼鏡ってのを逆に活
かしちゃえばいいんじゃん!って思ったわけ。で、その数年後ぐらいに日本で眼鏡
ブームみたいなのがあって、まぁちょうど時代の風潮と同化しちゃった感じだけど、
でもいいと思うんだよね。眼鏡ってのがファッションアイテムの一つっていう考えは
凄くいいと思う。あえて眼鏡を前面に出すってのもね、いいと思うのね。

眼鏡って歴史的にはなんだかハゲ・デブ眼鏡みたいなネガティブ要素として捉えら
れてたけど、そうじゃ無くてね、まぁハゲとデブはいつまでたってもネガティブだろ
うけど、眼鏡ってのはネガティブでもなんでもないわけですよ。かといって伊達とか
やってるやつ見ると殺したくなるけど、まぁまぁそれはいいか。あ、書くことが違う
ぞ。こんなことを書きたかったんじゃないんだよ。

あ、んでピックアップして帰ってきたわけだけどっつーかホセは昨日の話でね、眼鏡
は今日の話なんだけど、なんかさー疲れてるのよね。睡眠時間は十分なんだけど、い
つも週末はもうクタクタになってる。んで恥知らずも痛むと。で、まぁ帰ってきて溜
まってたから激しめのオナニーをした後、あんま飯食う気がしなかったんで、うどん
食べて吸い込みやったのね。

あ、KOFね。どうやら俺は吸い込むとストレスが発散されるらしくて、大門とかク
ラークでもうとにかく吸い込みまくったらさ、なんか疲れてた気分がだんだん良く
なってきてね、で、結局他のゲームも色々始めちゃって、んでなにやったかな。
あ、SNKとカプコンキャラが戦うやつとか、まぁこれはそんなでもないんだけど、
久々にヴァンパイアセイバーとかね、ヴァンパイアセイバーってキャラいいよね。あ
の世界観は好きだな。ファンタジックなんだけど、かなりダークでしょ。俺の格ゲー
趣味の一つとして各キャラエンディングを見るってのがあってね、んだからエン
ディングが無い格ゲーってやる気がしないのね。

あとエンディングが手抜きのやつとか。んでまぁー夜の7時ぐらいから吸い込み始め
て、んで、終わったのが3時ぐらいで、んで今、これ書いてるんだけど、ようはさ、
ゲームやった後ね、「あ、そういえば恥知らず痛くなくなってるな」とか思ってさ、
気分的なものなのかもしれないけど、ようはあれなんだよね、疲れってようはストレ
スなんだよね。恐らく。ストレスっていっても苦痛から来るストレスじゃなくて、疲
れから来るストレス。で、免疫系がちょっと弱くなっちゃって、んで口内炎が出来
ちゃったり歯茎が腫れてきたりするわけ。ゲームやって口内炎とか恥知らずの痛むが
引くなんて凄いことだよね。吸い込みさまさまですな。ってことでやっぱあれだね、
ストレス解消って重要だよね。

ニート時代は毎日が夏休みだったけど、今は違うから、なんつーか体調管理という
か、精神状態の管理と時間の管理の重要さが身にしみて分かりますね。ってことで
まぁエクスキューズするわけではないんだが、週末ぐらいグダグダしてもいいんじゃ
ねー?とか思ったわけね。一日中寝ながらゲームやったりオナニーしたり動画サイト
で日本のお笑い番組みたり。で、こういう時間の過ごし方をしていてさ「あー今日は
グダグダだったなー・・・」なんつって落ち込むのがダメなのよね。

ようはダラダラする自堕落な時間というのは、ちゃんと仕事に行くとか学校に行くと
かと同じぐらい重要なことなわけよ。だからグダグダでもそれは体がグダグダを求め
てるならそれは肯定しなきゃいけないよね。で、すっきりしてまた週明けから学校に
通うと。そう思うとあれだね、俺は将来はっつーかもういい歳だけど、なんかあれだ
よね、自分のグダグダできる時間を確保できるような仕事に就かないと体持たないよ
ね。

ってことでやっぱジジェクみたいになるしかないな。最後に職場に行ったのが3年前
みたいな、そんな生活ね。まぁ半分ぐらい真面目に言ってるけどね。ってことでゲー
センのことだけ書こうと思ってたんだけど、またいつもの感じで長くなっちゃって、
疲れてるから

早く寝ようと思ってたのに、もう朝になっちゃったけど、脳の膿を出せたからプラマ
イゼロだね。ってことで俺の2007年流行語大賞鳥居みゆきの「プラマイゼロ
だぁー」です。でもあれだよね、吸い込みによって気分が良くなるんだったらさ、そ
れこそ左手だけにグローブはめて、「デスバレーボム」ってプリントしてあるシャツ
を自分で作って着ようかなって真剣に思ったんだよね。でもいつもあれ、まぁ2003で
はデスバレー!って言うだけになっちゃったけど、2002とかさ「デスバレー一
本!」って聞こえるんだよね。すごくいいよね。

デスバレー一筋って意味でしょ?ってことであれだなデスバレー一本Tシャツを作ろう
かな。まぁ作れないけどね。作った気分でいるのもいいかなって。でさ、同級生の中
国人の女の子さ、廊下ですれ違ったときに「ハーイ」とか声かけたんだけど、なんか
凄い恥ずかしそうにしてるんだよね。まぁあんま親しくないからってのもあるんだけ
ど、なんかあの声をかけた後のリアクションとか、眼を逸らす感じとかがさ、すげー
生娘っぽくて可愛いなって思ったんだよね。まぁこの子、可愛らしい顔はしてるけ
ど、まぁ特別可愛いわけではないんだけど、何が言いたいのかっつーと、ようはああ
いったリアクションというのは日本人女性にはもう失われたものだなという風に思っ
たわけ。

特に日本のあの無駄に着飾った娼婦みたいな格好をした淫売女達さ、少しは内面を磨
くということにフォーカスを置いたらどうなのかね?男が女の子を「可愛い
なぁー」って思うときの感じって、例えばこの女の子みたいな生娘っぽいピュアな仕
草だったりするわけじゃない?娼婦みたいに着飾ることがどれだけ自分の品格を下げ
ているのか?っていうのにどうして気がつかないのかね?だってああいう格好してる
のって男から注目されたいからっつーかファックしたいからでしょ?ってことでまぁ
本質的にはそれが商売かそうじゃないかの差ってだけで同じ娼婦なんだけども、なん
かあれですよ、中国人に限らず韓国人女の子も貞操ちゃんとしてそうな子多いわけ
だけど。少しは見習ったほうがいいね。

KOFで言うとアンヘルみたいなビッチでしょ。日本の娼婦みたいな女って。そういう
女がいてもいいけど、そういう女が多いのは問題だよね。貞操繋がりで行くとでも俺
はあれだね、キングオブ


  
 
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ようこそ ゲスト さん