はてなキーワード: スラヴォイ・ジジェクとは
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
目覚めはここにあるWokeness Is Here To Stay / スラヴォイ・ジジェクSlavoj Žižek
ttps://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/
ウォークネス[ “wokeness”]は衰退しつつあると主張する人もいる。
だが実際には、それは徐々に常態化され、内心疑っている人々でさえ従い、学術機関、企業、国家機関の大多数によって実践されている。
だからこそ、ウォークネスはこれまで以上に批判されるべきであり、その反対側にある新しいポピュリズムと宗教原理主義の猥褻さと共に、批判されるべきである。
スコットランドではニコラ・スタージョン政権が覚醒主義woke-ismとLGBT運動を(ほぼ)最後まで押し進めた。
2022年12月、スコットランド議会が個人が法的に性別を変更しやすくする計画を承認し、新しい自己認識システムを16歳と17歳に拡大したことを受けて、
スコットランドは「平等にとって歴史的な日」と称賛した。基本的に、自分がどう感じているかを宣言し、自分がどうありたいかを登録する制度だ。
レイプで有罪判決を受けた生物学的に男性であるイスラ・ブライソンがスターリングの女性刑務所に送致されたとき、予想通りの問題が浮上した。
ブライソンは、強姦罪で法廷に出廷して初めて、自分はもはや男性ではないと確信した。
つまり、女性であると自認する人物が、自分のペニスを使って2人の女性を強姦したのだ。
男らしさや女らしさが身体とは何の関係もなく、すべては主観的な自己定義に関係するのなら、
ペニスを持つ強姦犯は、捕らえられた女性たちと一緒に刑務所に入れられなければならない。
[ところが]数々の抗議があった後で、ブライソンは男性刑務所に入れられた。
しかし先ほど[の決定]と同様に、この決定もスコットランドの[先ほどの]法律下で問題となる。なぜなら女性を自認する人が、男性刑務所に収監されているのだから。
Again, this is problematic under Scottish law, since we have now a self-identified woman in male prison.
スタージョン氏が辞任したのは、国民のなかで「LGBTに反対しているわけではないが、さきほどのような措置に単純に反対している人々」を疎外したためだ。
なぜなら、性的アイデンティティはそれ自体が単純なアイデンティティではなく、
矛盾や無意識の特徴に満ちた複雑な次元であり、私たちがどう感じているかを直接参照するだけでは、決して証明できないものだからだ。
いわゆる思春期ブロッカーPuberty blockersの使用をめぐる最近の論争は、この同じ複雑さの別の側面に関係している。
乳房などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期ブロッカーの使用を、
タヴィストックは、性的アイデンティティを選択できないように見える 9 歳から 16 歳の若者にこれらの薬を投与していた。
タヴィストックの臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者は、環境からのプレッシャーで強いられた選択を行い、その結果、
彼らの本当の傾向 (主にトランスジェンダーであること) が抑圧される危険性があると推論した。
思春期ブロッカーは、そのような若者が思春期に入るのを遅らせ、
より成熟した年齢で決定する前に、性的アイデンティティについて熟考する時間を与えるために必要だった。
思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、「性的指向がはっきりしない」という誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、「性別の悩みを抱える子供には、時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない」のだ。
矛盾は明らかだ。
思春期ブロッカーは、若者が成熟を一時停止し、性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために投与されたが、
これらの薬は、他の多くの身体的および精神的病理を引き起こす可能性がある。
誰も、若者にそのような結果をもたらす薬を服用する準備ができているかどうかを尋ねることは無かった。
批判者のひとりであるヒラリー・キャス博士は、「思春期ブロッカーが意思決定の時間を稼ぐのではなく、その意思決定プロセスを混乱させる可能性があるかどうか、私たちには知る術がない。
脳の成熟が一時的あるいは永続的に阻害されるかもしれない」と書いている。
キャスの批判をさらに一歩進めて、性的アイデンティティーへの到達は、成熟した自由選択の問題であるという、非常に基本的な主張に疑問を呈すべきである。
性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない。
西側諸国の多くのジェンダークリニックでは、医師たちは「無条件の肯定的アプローチ」を取らざるを得ないと感じている。
子供たちを悩ませている、他の根本的な精神的危機にはほとんど配慮していない…と、ある批評家は指摘している。
実際のところ、プレッシャーは二重にある。
彼らは、思春期ブロッカーに対する懐疑論を、トランスジェンダーの人々が性的アイデンティティを実現することをより困難にしようとする保守的試みと解釈している。
これに金銭的な強迫観念が加わって、この状況はさらに悪化している。
例えば、タヴィストックの収入の半分以上は、若者の性的問題の治療によるものだった。
つまり、ここで起きているのは、政治的に正しいしつこい勧誘と、金銭的利益の冷酷な計算の最悪の組み合わせだ。
思春期ブロッカーの使用は、ウォーク資本主義woke capitalismのもう一つの例である。
確かに、この 2 つの論争は、少なくとも反「ウォーク」勢力に部分的勝利をもたらした。
スタージョンは辞任し、タヴィストック・クリニックは閉鎖されたのだから。
しかし現在働いている勢力は、個々の政治家の見解や、特定の機関の力学をはるかに超える勢いを持っている。
むしろ個人や機関は、上から押し付けるのではなく、常に他所から来る規制に適応しようとしている。
したがって、同様のスキャンダルが今後も増え続けることは間違いない。
(以下省略)
【※参考】
https://www.youtube.com/watch?v=i826SBcDF_I
今回の都知事選を考える上で、ジジェクが、ポピュリズム右翼とアイデンティティ左翼が表裏一体になっていると分析しているのは重要と思う
「左派は、性的、人種的、経済的に排除され疎外された人たちの保護者を自任しながらも
極めて抑圧的な超自我の体系を課すことにより
表面上は多様性と包容を主張するが、これについての自分の定義に同意しない人達は容赦なく排除する。
『私たちの中に多様性と包容性に反対する人はいない。そのような人は既に全員追放したから』
抑圧されている人達は
『なぜ私があなたたちに支配されねばならぬのか』と言って遠ざかる。
このようにして、ポピュリスト右派とウォーク左派は深いところで共謀している。
これらはコインの裏表だ
ポスト構造主義的マルクス主義は、構造主義とマルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会や経済の分析を行う理論的枠組みです。このアプローチを代表する重要な思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます。
1. **スラヴォイ・ジジェク**
- ジジェクは、ラカン的精神分析、ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代のイデオロギーや政治を批判的に分析しています。彼の思想はポスト構造主義的マルクス主義の影響を強く受けています。
- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自の政治哲学を展開し、平等や民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義とマルクス主義の融合を感じさせるものです。
- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーとポピュリズムの概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義を批判的に再解釈しました。
- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています。彼女の研究もポスト構造主義的マルクス主義に関連しています。
これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義とマルクス主義の対話を通じて現代社会の諸問題を分析しています。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。
## いきなり結論
FF16で繰り返し「人が人らしく生きられる世界を作るんだー!」と言いつつ、そこで言われてる人が「白人」のみとなっていることが自己矛盾になっていることに吉田直樹が気づいていない。
吉田直樹いわく「作りたい世界観の関係上でああなった」とあるが、差別のある世界のマジョリティにとっても「作りたい世界=ヤツらは人間じゃない」という世界観なワケ。
むしろ高校生の考えたさいきょうのだーくふぁんたじー止まり。吉田直樹の人権感覚が、あの世代のおっさん以上・世界水準のはるか下なのが原因。
FF16は「プレイできる映画」のようだった。まあそこの賛否はこの際おいておく。
ここで重要なのは、スラヴォイ・ジジェクの「映画は大衆の見る夢である」という言葉。
つまりFF16を是とする大衆は、白人しかいない世界を是とし、白人様こそが人間であり、黒人や我々イエローモンキー、その他様々なレイシャル・マイノリティはすべて人間じゃない、という状態を夢見ているということになる。
それって大手を振ってYESとは言い難いよね?というところが問題の根本にあるのだが、吉田直樹はじめポタクくんたちは「ポリコレが〰」と発狂しながら叫ぶのみで学ぼうとしない。
こうやって有名IPすら競争力を徐々に失っていくのだとすれば、実に人権後進国らしい最後といえる。
おしまい。
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました。
チュニジアとエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルなエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教的原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋のリベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?
チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府はイスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善的リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者と左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者と左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。
去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はまだ継続中であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験の組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派のイスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。
原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動の社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバンは普通、テロにより支配を押し付ける原理主義的イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンがパキスタンのスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズはタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンやアメリカのリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?
これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教的伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした非宗教的伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?
こうした背景をふまえたうえで、チュニジアやエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要です。しかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日のエジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプトの平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラクが軍隊を派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。
ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力がイスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説のタイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌とした政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。
西洋のリベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが、宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。
さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグの国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。
訳注:毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。
「大人は読書をする時、それまでの経験を踏まえ、解析を試みながら”読む”。つまりは半ばその是非を疑いながら読むのである。」
「子供は読書をする時、経験が無い為に移入する。そのものに成り切ってしまうように。その世界観に染まるのである。」
これも極端な話だ。読書中に大人がスキゾで子供がパラノとはね。
と考えると、ワタシは「読書中に限り」子供でパラノイアだ。自分で言うのもアレだが、移入の鬼だろう。
小説のキャラクターの台詞をパクってそのものに成り切ったりとかね。コスプレだよコスプレ(笑)
しかしながら、普段のワタシはそれを否定する。裏切る。
『網状言論F改』だろう?「オタク」の奴。アレは当初物凄い没頭した。
でな、2年前に裏切ったんだ。呆気なく。切っ掛けはスラヴォイ・ジジェクだった。(例の東さんもお好きなようですが・笑)
要するに「裏切りの過程」を全部見せていた訳さ。ひょっとすると、今までに無いパターンだったのかもしれない。
「そのものに移入し、それが後になって全否定される。」という強烈な振り幅。
因に『身体なき器官』の冒頭に有った「対話こそ哲学に対する最も際立ったアイロニーである。」は今でも正しいと思っている。
『山月記』の詩人は人と一切交わらず虎に成っただろう?虎のままで居たければ人と交わらない事しか無いんだろうか?
哲学とコミュ/非コミュ、詩人/虎、大人/子供。それにな、今は「メディア」が介入する。
情報公開/非公開という要素は案外無視出来ない。過去の日記は非公開にしている。
最近じゃ「自分の所有物である」という主張すら止めた。だから増田。それも今年で終わりにしようと思う。20世紀が終わったからだ。
でもこの状況でも「怪物」と言えばマイルス・デイヴィスだ。エヴァンゲリオンの方がネタとしては解り易いかもしれない。
TV版の最終回は単なる「悪戯」だ。だが「通過儀礼」でもある。
アニメという強シンクロ、「見たまんまが総て」という全能感からたった2晩でそれを総て裏切る。
と言っても所謂「酷いオチ」では無く、総てへの裏切りである。失恋に近い感情を抱いた人が多かったのだろう。
(これ実際有りましたよそりゃ。良い歳こいた大人が「はぁ〜」とか言いながら人生語ったりするのよ。エヴァ語りながら・笑)
で、次の映画版のラストは前も言ったけど「中途半端な破滅願望」な。
「失恋すると世界が終わるような幻想を抱く事で自分の精神を防衛する」これはアンナ・フロイトが言っていた事だけど、
世界が終わっても結局シンジとアスカが残っていた訳。これは新しいパターンだよ。「破滅した。だが人類は滅亡していない。」
後輩の女の子がエヴァ劇場2作を振り返ってこう解釈していた。「あれはアダムとイヴなのだ。」とね。
で、次だよ。今のシリーズ。
「アニメは言わば強シンクロの世界だ。そこに映る物で総てが説明出来る。」とは『アフロ・ディズニー』のネタなんだけど、
先の『破』はとてつもない強シンクロの世界。シンジは男らしく、レイは女らしくなった。恋をして、守ろうとした。言うなればただそれだけ。
それだけに素晴らしい。監督が自分の望む世界を雄弁に語った。それに尽きると思う。
評価は分かれたな。移入出来れば、まるで自分が恋をしているかのような感情すら抱くと思うし、
出来なければアレだ。「今更庵野と手を組む気は無い」とか言ったりする。両方ともファザコンに近いなぁもう。
東の新作は実はコッソリ読んでみようと思う。哲学談義が現在大パニック状態なだけに多分面白い。(好事家なので)
やっべ。クソ長ぇ文に成っちまった。多分こんなのまともに読まれないだろう。
(まぁ、誰か読んでくれるかもしれないからこのまま落とす。)
はてなで活躍してる3人
有村悠(ありむらゆう)98年度入会
入会当初はお茶会期待の星であったが、8年経った今ではニート・非モテ・メンヘルと3拍子揃った白色矮星と化した。人生を矯正するためにインドへ送り込む計画が有志によって進められているが、ヘタレなので逃げ回っている。一応、文才・画才両方兼ね備えた器用な人ではあるのだけど。かつては純文学と日本SFが守備範囲だったが、現在は無軌道にラノベを買い漁って読み漁り、会員に罵倒されている。まるで滝本竜彦の小説の主人公、あるいは滝本竜彦本人(ただし昔の)のようなダメ人間。
夏葉薫(なつばかおる)99年度入会
当会に数年ぶりに現れたまともなSF読み。山田正紀とかエリスンとか、SFファンとしては正統的な趣味をしているのにもかかわらず、口走る言葉がエログロばかりなのは一体どうしてなのか? セックス&バイオレンス主義を貫く一方、S─neryとか大塚英志とか白倉由美とかに対して屈折した愛情を抱き、「俺は桑島法子だ」と常日頃から公言している変態。むしろ中身より外見が桑島法子だったら良かったのに。白倉由美を大塚英志と離婚させるために大塚英志を寝取る計画を立案中。
転叫院豊(てんきょういんゆたか)98年度入会
第十七代編集長。ときどき電波でも食らったように、現代思想のあやしい用語を用いてアニメやらノベルゲームやらSFやらを語り始めるが、結構マジメな人なので訊けば丁寧に説明してくれるはず。小説では筒井康隆が好きらしく、ときに「脱走してやるぞ!」とか叫ぶ。好きな思想家は海外ではスラヴォイ・ジジェク。東浩紀のファンであるようだが、ミーハーとかサブカルとか呼ばれたくはないらしい。鬱キャラの次の時代は統合失調キャラだと信じている。
夏葉の方が有村より若いのか。意外。
記事で問題になっているのは著作権だが、それには触れない。
但し、プロレタリア革命はブルジョワ革命が完遂した後に起こる、或いは現在の自由主義が歴史の終焉であると言った話題は、手に余る。
同じ20世紀で、しかも大衆芸能について、一定レベル以上の成熟と大衆性を獲得した(だから、純文学や前衛藝術を除く)ジャンルでは似たような進化を辿るのではないか、という話。
>>最後に取り上げる例は、ジョージ・スティーブンスの古典的西部劇『シェーン』である。周知のごとく、西部劇というジャンルは四〇年代の終わりに最初の深刻な危機を迎えた。純粋で単純な西部劇は、いかにも作り物で単純な繰り返しだ、という印象を与えるようになった。西部劇の公式は使い尽くされたようにみえた。作家たちは、他のジャンルの要素を西部劇に盛り込むことによって、この危機に対処した。かくして出来上がったのが、フィルム・ノワール的西部劇(ラオール・ウォルシュ『追跡』。この映画は、フィルム・ノワールの暗い世界を西部劇に移植するというほとんど不可能な仕事をなしとげた)、ミュージカル・コメディ的西部劇(『略奪された七人の花嫁』)、心理的西部劇(グレゴリー・ペックの『ガン・ファイター』)、歴史叙事的西部劇(『シマロン』のリメイク)などである。一九五〇年代に、アンドレ・バザンはこの新しい「反省的」ジャンルをメタ西部劇と命名した。
この「メタ西部劇」は『西部劇』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/西部劇そのもの/である。いいかえると、この映画は、西部劇の世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだ西部劇である。『シェーン』が生み出す効果を説明するには、ふたたび視界の機能に言及しなければならない。つまり、常識的なレベルに留まっているかぎり、すなわち視線という次元を導入しないかぎり、単純で理解できる問いが生じる──もしこの西部劇の「メタ」の次元が西部劇だとしたら、二つのレベルの間の距離はどう説明されるのか。どうしてメタ西部劇は西部劇そのものとぴったり重ならないのか。どうして純粋で単純な西部劇はできないのか。答えはこうだ──構造的必然性によって、『シェーン』はメタ西部劇のコンテクストに属している。<<
(スラヴォイ・ジジェク著 鈴木晶訳 斜めから見る。青土社 P121
猫も杓子もジジュクを使いまわしている昨近、またか!と思われる方も多いだろう。またか、である。
アンドレ・バザンの≪超西部劇≫(sur-western)は、時間=歴史的な対象、一九四〇年前後の古典主義に対する一九四四年以後の「進化した」西部劇を指し示す。対して、ジジュク≪メタ西部劇≫は、空間=図式的な観念である。それは「メタ」の次元とそれ以外の次元からなる「二段の棚」であり、話を進める上で好都合だったので、持ってきた。
日本の場合、過去の例で思い当たるのは、時代劇だが、最近では、何といっても、ロボット・アニメかな、と。(時代劇については、ここでは触れない)
名前はいちいち挙げないが、歴史叙事的ロボット・アニメ(西部劇では実際の過去の出来事だが、ロボットがポピュラーな時代は未だ来ないので、未来、或いは仮想世界が舞台になる戦記物)、コメディ的ロボット・アニメ、(破綻も含む)教養小説的ロボット・アニメ、ファンタジー的ロボット・アニメ、ラブストリー的ロボット・アニメ、その他、いろいろ。
では、”その「ロボット・アニメ」は『ロボット・アニメ』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/ロボット・アニメそのもの/であるような作品、ロボット・アニメの世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだロボット・アニメ”、西部劇で言えば「シェーン」に該当するロボット・アニメは存在するだろうか?
今夜の夜食はドギーバッグでお持ち帰り。
http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071110
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カウンターたぶん壊れてるんだな。ありゃ。明らかにおかしい。 ところで例のアニメオタクのペルー人にさ、また「マクドナルドいかない?」って誘 われたんだけど、さすがにまた奢ってもらうのもあれだし、一応、建前として「お金 セーブしなきゃいけないから・・・」っつって遠まわしに断ったんだけど、「いや、 行こう行こう」なんつってさ、すげーノリノリで「俺が誘ってるわけだからさ」なん ていうんだけど、こうやって日本語にするとホモが誘ってるような感じだけど、まぁ ニュアンスとしては「また奢るよ」みたいな感じでさ、どんだけいいやつなんだとか 思いつつ、まぁ学校終わりに行ったらさ、ペルーでは誰かが腹を空かせてたらご馳走 するのが当たり前らしく、ようは恐らく俺の勝手な予想だとみゅ〜ちゅあるな関係性 があるんだろうなって思ったわけね。腹を空かせてたらって、まるで俺が一文無しみ たいだけど、まぁ実際そうだけどね。前も書いたけど無理に眼鏡買ったから生活費無 いのね。 そういえば前の英語学校のコロンビア人も基本的に飯を奢るだとかシェアするだと か、コロンビアンはみんなそうなんだみたいなことを言ってたことがあってさ、これ またみゅ〜ちゅあるだなとか思いつつ、基本的に南米ってのは気のいいヤツが多いっ てーのと文化的にこういう背景があるんだろうなってのは、こないだ書いた社会が人 間を作り出すってところで、まぁ社会にそういう習慣とか人とのやりとりが残ってる んで、そういうのがヘリテージされていくっていうような感じなんだろうなとは思っ たけど、まぁーそれにしても南米から来たやつって女の子でも男でもそれこそラテン 系じゃないけど、陽気なやつが多いんだよね。凄くフレンドリーで笑顔を絶やさな いっつーか。あれは血というよりは文化というか社会なんだろうなって思ったわけだ けど、そう思うとやっぱ日本人に限らず韓国人はホント暗いなって思うんだけど、 まぁ中国人になるとちょっと違うんだけどね。これは対比で見ると暗く感じるだけ で、ようは俺はこっちの環境に慣れてしまったから暗く感じるんだと思うんだけど、 そう思うとさ、ようはいろんな陽気なやつから話しかけられたり、こうやって飯奢っ てもらったりしてるのを見るとっつーかまぁ自分のことだけどさ、俺もかなり明るく なったんだろうなとは思うんだよね。まぁ元々明るいんだけどね、考え方は暗いけど 性格的には陰気ではない。ただそういう明るい部分を前面にこっちでは出していけ るってのもあってようはなんつーかいろんな国のやつらと波長が合うのかなって気は するんだよね。逆を言えばアジア系の連中とつるもうって絶対思わないんだけど。 飯っつってもマックなんだけどでもなんだかこういうことがあると心が温まるっつー かさ、ホント、こっちに来てよかったなぁーとかって思う瞬間でもあるんだよね。こ ういうやつらと友達になれてなんて幸せなんだろうって思うわけよ。あ、なんだかま たウォール伝っぽくなくなってきた。 まぁいいや。簡単に書くとね、で、マック行った後、タイムズスクエアの駅でさ、 まぁ別のクイーンズのほうに行く電車に乗り換えるんだけど、このペルー人っつーか ホセが「ゲーセン行かない?」とか言い出してさ、なんかね、タイムズスクエアにあ るゲームセンターのポイントカードみたいなの持ってて、今日使わないとポイントが 無くなっちゃうとかでさ、まぁどの道行こうかってことになったんだけど、このゲー センってのがなんだかバーとかさ、なんかラスベガスっぽい水商売臭いカジノっぽい ような入り口のゲーセンでっつーかゲーセンっつーか、所謂、セガとかさ、ナムコラ ンドみたいな、ああいうゲーセンじゃなくて、割とアダルトな感じなのよね。入り口 では黒服の黒人がIDチェックしてたりして、まぁ別にフォーマルな場でもないんだけ ど、割と若干高級感があるっつーかまぁ日本のゲーセンと比べるとだけどね。で、こ れまた感心したのが、全てのゲームがようはこのゲーセンのポイントカード制になっ てて、マツキヨカードみたいなカードでポイントっつーかお金を買って、ゲームやる ときはそのカードをゲーム機にスライドさせて使うっていう、なんつーかこないだ書 いたカルチャーラグが無いなってことなんだけどさ、まぁ今の日本がどうか分からな いし、まぁタイムズスクエアとかああいう感じのところにあるゲーセンだからっての はあるかもしれないけど、ようはアメリカってこういうところはホント、早いんだよ ね。 まぁあと単純にセキュリティの面っていうか、直接金を入れないっていう防犯的なと ころもあるのかもしれないけど、それにしてもカードスライドさせてゲームやるなん て21世紀だなーとか思ったんだけど、ただまぁ感心できることばっかりじゃなくて、 なんつーかさ、このゲーム機がある階っつーかここがメインフロアなんだろうけど嫌 にガン系のゲームが多いんだよね。タイムクライシスとかエイリアンとかハウスオブ デッドとか、他にもなんだかヘリの操縦席みたいになってるコントローラーに乗って 空から爆撃するゲームとかボクシンググラブをはめてボクシングするやつとかってい うか、これはウィーって言ってもハンセンじゃなくてゲームのことなんだけど、まぁ ウィー的なインターフェースなんだろうけどさ、他にも競馬のゲームとかスロットと か、なんだかすげー悪趣味なのね。 日本ってなんだかさ、まぁ俺の感覚が古いのかもしれないけど、太鼓の達人だか名人 だとかさ、ビートマニアとか、あとやっぱ格ゲーみたいなのが多いじゃない?場所に もよるんだろうけど、でもなんつーか必ずマージャンとかさ、もちろん脱衣系のも含 めてね、そういうのが多いってイメージがあったんだけど、このタイムズスクエアの ゲーセンはそれこそアメリカ人の内面が顕在化してるようなゲームのセレクション で、所謂、格ゲーみたいな、あのジョイスティックとボタンがあるようなゲームが一 台も無いのね。で、もうひたすらガン系のゲームばっかで、もう夜の11時回ってるっ つーのに子供がガン系のゲームやりまくってたりっつーかやりまくるってのは大げさ だけど、それこそ幼稚園児ぐらいの子がガン系のゲームをやっててさ、しかも母親と だよ?かなり唖然としたね。 なんつーかようはさ、ああいうガン系のゲームってミリタリー系多いじゃん?「Let's Go! Over there!」みたいな、あのミリタリー系の映画でよく出てくるような決まり文 句あるじゃない?アーミー系のセリフ。ようは自分もアーミーの一人になってエイリ アンとか倒すわけだけど、ああいうのってすげー無意識なすり込みに成功してるよ なーって思ったわけね。基本的に武力で異物を排除するのは当然だみたいな、それが 正義だみたいなのが当たり前にあって、まぁエイリアンだったら俺はかまわないけ ど、ようはアメリカのメディアなんて過去には共産国とか今ではテロリストとか、 まぁいつでもアイコン的な敵を作ろうとするわけだけど、そういう敵に対しての認識 はエイリアンと変わらないんだよね。 だから基本的に相手は同じ人間なんだっていう認識が無かったりするわけ。それこそ ゾンビとかエイリアンっていう絶対的な敵なわけよ。アメリカの戦争映画って大半が プロパガンダ的な部分が多かったりするし、妙に愛国心を鼓舞するものとか、ヒロイ ズムを前面に出してるものとかさ、俺は銃云々、暴力云々っていうことより、こうい うプロパガンダを無批判に無意識に受け取っちゃってるっていうオーディエンスに凄 く危機感を感じるね。 もちろん暴力描写も鑑賞者に影響を与えるかもしれないけど、あんま報道されないっ つーか、まぁ誰か書いてるとは思うけど、こういうアメリカ的ヒロイズムとか愛国心 みたいなさ、こういうすり込みによる影響の危険性ってのにもっと意識的にならない とダメだよね。俺は個人的にはこっちのほうがよっぽど危険だと思うんだよね。 「ゲーセン行ってまで社会分析ですか・・・」って感じだけど、ホント、こっち来て からようは日本にいたときみたいな無駄な不安とか労力を注がなきゃいけないような 部分がなくなったから、脳をフルに使えてるんだよね。だから街に出ると色々なもの がもう何かのシンボルに見えたり、何かを考える材料になったりするわけ。あとまぁ あんま関係ないけどポイントカードをスライドして金を使うってのも、ようは伊東 カードとかクレジットカードと一緒で、キャッシュを直接見ないから、あんま支払っ たっていうリアリティが無いんだよね。 例えば1万円何かに使うときにさ、キャッシュで一万円出したら、うわー諭吉いっ ちゃったよーって気になるけどクレジットとか伊東だったらさ、基本的にスライドし てPinナンバー入れるだけだから、あんま払った気がしないんだよね。ただ当然、銀行 残高見ると残高は減ってるっていう。ただこれってようは消費者によりお金を使わせ る便利なシステムだよなぁーって思うんだよね。財布の紐を緩めるだっけ?財布の紐 をきつく締めるでもいいんだけど、電子マネーみたいな感覚だと財布って感覚すらな くなってくると思うんだよね。 現にこっちなんてカード社会だからなんでもカードよ。こないだも学校の購買っつー となんか日本っぽいけどまぁ購買みたいなところでさ、女の子がスニッカーズみたい なのと小さいノートを買っててさ、その小計が8ドルちょいだったんだけど、伊東で 払ってたからね。8ドルちょいだったらキャッシュで払いそうな気がするけど、あん なのすらも伊東なんだから。スタバの一杯のコーヒーでもクレジットとか伊東で払っ てる人珍しく無いからね。ああいうのって現金っていう感覚を失わせる危ないツール でもあるなって思うんだよねー。ホント。 だってカード破産なんてさ、良い例でしょ。アメリカでもアホみたいにカード使って 払えないっつってさ、破産したり家売ったりとかさ、そんなこと平気でしてる家庭が あるけど、ああいうのってのもようはクレジットで払ってるから、現金っていう感覚 がなくなってるんだよね。で、これまた来月の給料から払えばいいみたいな、実在化 してないお金を頼りにしてお金を払おうとしてたりさ、完全にヴァーチャル化し ちゃってるんだよね。金のやりとりが。 ただそれとは対照的に買ったものってのは家に届いたりさ、ようは現物としてあるか らマテリアル的な満足度ってあるじゃない?もうその繰り返しよ。何か買うってのが 楽しくなっちゃって浪費が止まらないわけ。それをキャッシュでやってるならまだし も、カードでやってるもんだから、負債がガンガン増えていくんだよね。 まいこーなんかもさ、完全にあの浪費はカードっつーかチェックで払ってるからだよ ね。なんか前に日本でやってたさ、あのゴリとぐっさんが真似してたあのバシールと まいこーのコンビの元ネタあったじゃない?あの制作がアメリカだかのやつでさ、ま いこーの浪費凄かったもんね。なんか美術品がズラーッっとある店で「これとあれと これとあれ」みたいな感じで、ミロのヴィーナスみたいな石像とか高そうなヴィン テージのソファーとか時計とかガンガン買ってたでしょ。一個が何千万単位の。あ れって明らかに金銭感覚を失ってるというよりは、もうすでにお金というのがまい こーの頭の中でバーチャル化しちゃってるんだよね。あれを買うために銀行からお金 を下ろしてきて払わなきゃいけないだとかさ、そういうプロセスが一切無いから、お 金っていうリアリティが無くなっちゃう。ましてややつの印税もそれこそバーチャル な量でガンガン入ってくるわけだから、ホント、リアルなマネーっていう感覚と乖離 してくるのは必然だよね。 ただね、何が言いたいのかっていうと、こういうことはまいこーだけじゃなくて、自 分たちにも起こりうるんだよねってことなんだよね。それはさっきのアメリカのクレ ジット負債家族とかも、すけーるは小さくてもやってることはまいこーと変わらない し、小さい買い物でもリアルなお金っていう感覚から乖離した中でただそのマテリア ルを求めたいがために伊東とかクレジットで払うってのはさ、まいこーの始まりだよ ねっていうか、もうアメリカは慢性的にまいこー状態なんじゃないかと思う。 それこそあのアホな大統領がスピーチで「ガンガン働いて消費してください。買い物 万歳!」みたいなこと言ってるわけだからさ、もうある意味で末期的なのかなって気 もするけど、まぁでもアメリカの社会なんて半分以上がコンシューマーによる消費に よって経済が支えられてるわけでしょ?そう思うとその中でカードってものが支払い のメジャーな方法というのも、なんだか良く出来た話だよなって思っちゃったんだよ ね。 ゲーセンで。これ別に今、思いついたんじゃなくて、ずーっとゲーセンでホセと銃撃 ちながら考えてたんだけど、ゲームですらさ、コインを入れてコンテニューするの と、カードスワイプしてコンテニューするのとではお金のリアリティが違うわけで さ、こんな小さい支払いからもまいこー症候群の入り口が見えてくるわけよ。 ようはアメリカ社会ってのが消費しろって国民に言ってるわけよ。それはアホ大統領 がダイレクトに言うこともあれば、町中に溢れる広告やらメディアやら間接的にって 言っていいのか分からないけど、まぁ消費してくださいってどれもこれも言ってるわ けじゃない?俺にとってはどれもこれも露骨に直接的に金使えって言ってるようにに しか見えないんだけど、メディアリテラシーの無い人だったら、それはインダイレク トにすり込みされてるってことだよね。 そんなんがゲームにも映画にもテレビにもネットにも溢れてるんだからさ、ホント、 師匠2のインテレクチュアル・セルフディフェンスじゃないけどさ、自分たちが自分 たちで身を守らないと個々がアホなコンシューマーになっちゃってダメになっちゃう よね。社会全体が国民をそういう風に巻き込もうとしているというよりかは、もう大 半が巻き込まれていて、常に巻き込む側はもっと巻き込むように仕向けているわけだ けど、そういうのが見えないと自分の人生がいつのまにか外的なものでコントロール されつくしちゃってるなんてことにもなりかねないからね。 そういう人多いと思うけど、前の話と繋げると、そういう人が外的なものに幸せを求 めようとするんだよね。だからいつまでたっても幸せになれない。消費しても恋愛し ても残るのは疲労感だけ。そりゃ当然だよね。だって幸せが無いところに幸せを求め ていて労力使っちゃってるんだから、そりゃ疲れるに決まってるよ。ただね、ちょっ と話を脱線させるけどってすでに脱線しまくってるけど、オタクの話をすると、よう は古くはギャルゲーとか萌え系のキャラクターとかもそうなんだけど、あれってオタ ク男の女の子への幻想とか恋愛への幻想の塊みたいなもんでしょ? まぁそういったオタクたちの幻想が実体化した存在っていうか。だからギャルゲーで もデートの状況とかがありえないぐらいベタというか、まず無いようなシチュエー ションばっかで、リアリズムゼロだし、それは萌え系のキャラも当然、あんな女の子 は現実にはどこに行っても存在しないわけだけど、ここで面白いのが、顕在化してし まったっていうところなんだよね。ようはそういった幻想がある形、まぁそれがゲー ムなのかもしれないし、キャラクターなのかもしれないけど、オタクたちにとっては それがリアルで、分からない人達にとっては実体の無いものに夢を抱いているから、 ちゃんとした女の子と付き合えとかっていう風に言うけど、大抵のオタク側の意見と しては「大きなお世話だ」ってことなわけだよね。 自分は萌えているんだから、それでいいんだっていう。でもそれってそれでいいんだ よね。というのは買い物とかオタク系ではない、ようは常に理想の恋愛みたいなのを 求めているような馬鹿な連中ってのがいつまでたっても幸せを得られないのは、まさ しく実体が無いものを追い続けているからなんだけど、オタク系の場合、その幻想が キャラだとかゲームっていう形で実体化しているので、彼らにとってのリアリティを そこに見出すことができるんだよね。それは彼らにとってはリアルなものだから。だ からオタク系ってなんだかんだで幸せそうな人が多いわけでしょ? これが良いか悪いかは別としても、他人に人の幸せのあり方を批判する権利なんてな いから、そういった意味だと彼らの中ではそれはもう幸せの形として存在しているん だから、今みたいな何も無い社会を生き抜いていける人達の種類の一つとしてオタ クってのがあるんじゃないかなって思ったわけね。そんな意味だとオタクたちっての は、無駄に色々な消費をしたり無駄な恋愛をしてお金と時間と労力を使っている馬鹿 達よりは、よっぽど処世術に長けているんじゃないかな?って思うわけ。まぁ処世 術っつっても極めて21世紀的な処世術ね。 で、自分の話をすると、俺はこっちに来てから特に色々なこともあって、ようは以前 にも増して内面的なものに幸せというか安らぎみたいなのを感じることが出来るよう になったわけだけど、でもそれを支えている一つとして、まぁ学校があるかもしれな いしニューヨークっていう場所もあるかもしれないんだけど、その他ってのはやっぱ 考える材料を提供してくれるような出来事とか本とか映画とか音楽だったりするわけ でさ、俺の内面的な幸せを司っているものの大半がまぁ俺のオタク趣味なんだよね。 だから俺は哲学オタクかもしれないし、社会学・政治学オタクかもしれないし、映画 オタクなのは明らかで、音楽オタクっつーか音楽に関してはもうオタクっていう次元 じゃないんだけどってーことを言うと、全てがオタク程度の次元ではないんだけど、 でもまぁ一般的な社会の定義で言うとまぁこれはオタクの一種ですよ。 これは前にも書いたとおり、秋葉系のオタクが美少女オタクだったりするんであれば 俺はまた別の類のオタクなわけで、基本的にオタクということでは共通しているんだ けど、もう一つ重要な共通点というのが、そういったオタク趣味的なものから幸せを 感じられているってことなんだよね。俺はまぁありえないぐらい多趣味だと思うけ ど、まぁ俺の幸せが全て趣味に依存しているわけではないんだけど、でも趣味は相当 大きな要素なわけってことで、基本的にオタク系と変わらないじゃんってことになる わけね。 だからオタクの種類が違おうが、俺に他のオタクを批判できる筋合いなんて全く無い んだよなって最近凄く思ったわけね。前は秋葉系のオタクのことをぼろ糞書いてたけ ど、今はそうは思わないな。絶対関わりたくないし、ああいうのは大嫌いだけど、で もだからといって批判はできないわけ。 彼らがそれを主体性を持って全身全霊で取り組んでいるのなら、それはリスペクトし なきゃいけないよね。で、俺がディスりたいやつらっつーのは流動的に色々なことに 流されまくっている主体性の無いスッカラカンな消費者ね。流行ってるからとかみん な聞いてるからとか有名だからとか、そういう理由で何かを消費したりする類の連中 ね。こういうやつらはホント、どうしようもないんだけど、経済の大半がこういう スッカラカンな消費者によって支えられているとなるとさ、こういう人達すらディス れなくなってきちゃうっつーか、それこそ経済にとっての必要悪みたいな存在になっ ちゃうわけだよね。 あーアイロニカルだわぁー。腹減ってきたからバナナを食べよう。っつーか恥知らず の痛みはだいぶマシになってきたんだけど、今日はセリマに念願の眼鏡をピックアッ プしにいってさ、まぁ相変わらず俺が選んだだけあって生活苦もなんのそのってぐら い素晴らしいめがねなんだけど、まぁこれならまず誰ともかぶらないなってぐらい特 徴のあるめがねでね、あのクーロンズゲートのゲームキッズがしてるハイテクメガネ みたいな形してるやつなのね。枠がデカイロイドメガネみたいな。 まぁーでもセリマ最高ですよ。もう。アランミクリは値上げもあって完全にブルジョ ワブランドになっちゃったから今後はセリマだな。というかアヴァンギャル度、ヒッ プ度ではセリマのほうが上のような気がする。今回はアランミクリが買えなかったか らセリマで買ったみたいな妥協感一切無しだったからね。もう「これだぁー!!」っ ていう。でもさ、めがねってのも話せば長くなるんだけど、これも止揚の歴史です よ。別に俺、止揚って言葉を正しく使ってるわけじゃないからね。 まぁいいや。昔はさ、眼鏡が大嫌いで、一時期コンタクトしてたこともあるんだけ ど、眼鏡にしてもなるべく眼鏡の存在感が無いようなやつしてたんだよね。ただある ときふと気がついてね、んだったらディスアドバンテージである眼鏡ってのを逆に活 かしちゃえばいいんじゃん!って思ったわけ。で、その数年後ぐらいに日本で眼鏡 ブームみたいなのがあって、まぁちょうど時代の風潮と同化しちゃった感じだけど、 でもいいと思うんだよね。眼鏡ってのがファッションアイテムの一つっていう考えは 凄くいいと思う。あえて眼鏡を前面に出すってのもね、いいと思うのね。 眼鏡って歴史的にはなんだかハゲ・デブ・眼鏡みたいなネガティブ要素として捉えら れてたけど、そうじゃ無くてね、まぁハゲとデブはいつまでたってもネガティブだろ うけど、眼鏡ってのはネガティブでもなんでもないわけですよ。かといって伊達とか やってるやつ見ると殺したくなるけど、まぁまぁそれはいいか。あ、書くことが違う ぞ。こんなことを書きたかったんじゃないんだよ。 あ、んでピックアップして帰ってきたわけだけどっつーかホセは昨日の話でね、眼鏡 は今日の話なんだけど、なんかさー疲れてるのよね。睡眠時間は十分なんだけど、い つも週末はもうクタクタになってる。んで恥知らずも痛むと。で、まぁ帰ってきて溜 まってたから激しめのオナニーをした後、あんま飯食う気がしなかったんで、うどん 食べて吸い込みやったのね。 あ、KOFね。どうやら俺は吸い込むとストレスが発散されるらしくて、大門とかク ラークでもうとにかく吸い込みまくったらさ、なんか疲れてた気分がだんだん良く なってきてね、で、結局他のゲームも色々始めちゃって、んでなにやったかな。 あ、SNKとカプコンのキャラが戦うやつとか、まぁこれはそんなでもないんだけど、 久々にヴァンパイアセイバーとかね、ヴァンパイアセイバーってキャラいいよね。あ の世界観は好きだな。ファンタジックなんだけど、かなりダークでしょ。俺の格ゲー 趣味の一つとして各キャラのエンディングを見るってのがあってね、んだからエン ディングが無い格ゲーってやる気がしないのね。 あとエンディングが手抜きのやつとか。んでまぁー夜の7時ぐらいから吸い込み始め て、んで、終わったのが3時ぐらいで、んで今、これ書いてるんだけど、ようはさ、 ゲームやった後ね、「あ、そういえば恥知らず痛くなくなってるな」とか思ってさ、 気分的なものなのかもしれないけど、ようはあれなんだよね、疲れってようはストレ スなんだよね。恐らく。ストレスっていっても苦痛から来るストレスじゃなくて、疲 れから来るストレス。で、免疫系がちょっと弱くなっちゃって、んで口内炎が出来 ちゃったり歯茎が腫れてきたりするわけ。ゲームやって口内炎とか恥知らずの痛むが 引くなんて凄いことだよね。吸い込みさまさまですな。ってことでやっぱあれだね、 ストレス解消って重要だよね。 ニート時代は毎日が夏休みだったけど、今は違うから、なんつーか体調管理という か、精神状態の管理と時間の管理の重要さが身にしみて分かりますね。ってことで まぁエクスキューズするわけではないんだが、週末ぐらいグダグダしてもいいんじゃ ねー?とか思ったわけね。一日中寝ながらゲームやったりオナニーしたり動画サイト で日本のお笑い番組みたり。で、こういう時間の過ごし方をしていてさ「あー今日は グダグダだったなー・・・」なんつって落ち込むのがダメなのよね。 ようはダラダラする自堕落な時間というのは、ちゃんと仕事に行くとか学校に行くと かと同じぐらい重要なことなわけよ。だからグダグダでもそれは体がグダグダを求め てるならそれは肯定しなきゃいけないよね。で、すっきりしてまた週明けから学校に 通うと。そう思うとあれだね、俺は将来はっつーかもういい歳だけど、なんかあれだ よね、自分のグダグダできる時間を確保できるような仕事に就かないと体持たないよ ね。 ってことでやっぱジジェクみたいになるしかないな。最後に職場に行ったのが3年前 みたいな、そんな生活ね。まぁ半分ぐらい真面目に言ってるけどね。ってことでゲー センのことだけ書こうと思ってたんだけど、またいつもの感じで長くなっちゃって、 疲れてるから 早く寝ようと思ってたのに、もう朝になっちゃったけど、脳の膿を出せたからプラマ イゼロだね。ってことで俺の2007年流行語大賞は鳥居みゆきの「プラマイゼロ だぁー」です。でもあれだよね、吸い込みによって気分が良くなるんだったらさ、そ れこそ左手だけにグローブはめて、「デスバレーボム」ってプリントしてあるシャツ を自分で作って着ようかなって真剣に思ったんだよね。でもいつもあれ、まぁ2003で はデスバレー!って言うだけになっちゃったけど、2002とかさ「デスバレー一 本!」って聞こえるんだよね。すごくいいよね。 デスバレー一筋って意味でしょ?ってことであれだなデスバレー一本Tシャツを作ろう かな。まぁ作れないけどね。作った気分でいるのもいいかなって。でさ、同級生の中 国人の女の子さ、廊下ですれ違ったときに「ハーイ」とか声かけたんだけど、なんか 凄い恥ずかしそうにしてるんだよね。まぁあんま親しくないからってのもあるんだけ ど、なんかあの声をかけた後のリアクションとか、眼を逸らす感じとかがさ、すげー 生娘っぽくて可愛いなって思ったんだよね。まぁこの子、可愛らしい顔はしてるけ ど、まぁ特別可愛いわけではないんだけど、何が言いたいのかっつーと、ようはああ いったリアクションというのは日本人女性にはもう失われたものだなという風に思っ たわけ。 特に日本のあの無駄に着飾った娼婦みたいな格好をした淫売女達さ、少しは内面を磨 くということにフォーカスを置いたらどうなのかね?男が女の子を「可愛い なぁー」って思うときの感じって、例えばこの女の子みたいな生娘っぽいピュアな仕 草だったりするわけじゃない?娼婦みたいに着飾ることがどれだけ自分の品格を下げ ているのか?っていうのにどうして気がつかないのかね?だってああいう格好してる のって男から注目されたいからっつーかファックしたいからでしょ?ってことでまぁ 本質的にはそれが商売かそうじゃないかの差ってだけで同じ娼婦なんだけども、なん かあれですよ、中国人に限らず韓国人の女の子も貞操ちゃんとしてそうな子多いわけ だけど。少しは見習ったほうがいいね。 KOFで言うとアンヘルみたいなビッチでしょ。日本の娼婦みたいな女って。そういう 女がいてもいいけど、そういう女が多いのは問題だよね。貞操繋がりで行くとでも俺 はあれだね、キングオブ