はてなキーワード: 救命ボートとは
トリレンマとは、「3つのうち2つしか選べず、1つを諦めざるを得ない」という状況である。
中絶の権利と普遍的人権とのあいだにも同様のトリレンマが成り立つ。
我々は、
という3つの原則を持っているが、すべて満たすことはできないので、1つを諦めねばならない。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
藁じゃなくて救命ボート欲しいんやで
増田いいこと言ってると思うけどあんま響いてないっぽいので支持トラバ
俺も今回の事故について、別報道できになったコメントがあったので補足させてもらおう、と言っても増田と違って素人だが(ちょっとだけそういう学校で航海術とか勉強したことのあるリゾートダイバーです)
…
あれは浮くのがいいんだ
頑張らなくても浮いて救助を待つことができる
救命胴衣がなければ頑張って浮いて救助を待たなきゃいけない(一応何もしないでも人体は浮くが、救命胴衣をつけたほうが圧倒的に楽に「なにもしない」をできる)
生存のボトルネックが「いかに楽に浮いて救助を待てるか」のときは救命胴衣が生死を分けるぞ!
今回のボトルネックは低い水温だった
保温のための機能はついてないので、結果的に救命胴衣があってもだめだったね…
あと救命胴衣をつけてない状態で見つかった乗客がいたが、可能性としては
・つけてたけど脱げた
あたりで、救助要請から考えると後者のほうが可能性高いんじゃないかと思う
きちんと装着できればそこまで簡単には脱げないはずだけど、続報によると船に異常が起きてからあわてて装着させた様子が伺えるのでそういうこともあるだろう
とにかく救命胴衣は悪くないよ
「救命ボートはなかったのか」
…
あのサイズの小型船舶ならまず載せないだろうなあというのがひとつ
あと救命ボートそんなに万能じゃないよ
まず今回一番やばいと思われる高波や寒さにはそれなりに無力(ぺらいし軽いし)
あと広げるの大変だし、5人くらいしか乗れないから船員2人じゃ手が回らない
素人考えだが、その時間をきちんと救命胴衣を装着するほうに費やしたほうが生存確率高くなると思う
他にもあった気がするけど忘れた
同じような状況でも幸運が重なれば楽しく帰ってこれただろうし、不幸が重なるとこうなってしまったって状況に見える
人災要素があったとして、自然相手の事故で、まだ報道も乱立して一部の遭難者を救助した段階では明らかにおかしい!みたいな単純明快さはないと思うな
素人でしかない俺は、船も人も全部見つかって、情報が整理されて、再発防止につながることを切に祈るのみだ
みんなも素人だろ?一旦落ち着いて、救助にあたってくれてる人たちを信じて見守ろうぜ
男は大きく3種類に大別されるはずで
・男らしさ2.0をインストールした男(従来通り女性を守るなど女性に対して有益な行動は続けるけど、DVや浮気などをせず野心が少な目の草食系男子)
・男らしさから降りた男(女性にとって無害なはずなのになぜか嫌われて非モテ扱いされる、弱者男性)
でもフェミ達はしきりに男らしさから降りようって言うよね(しかも男らしさ2.0をインストールしたまま)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70510
連日ウクライナ関連のニュースでは「女子供が被害にあっている!」って叫ばれている。
でも本当に男らしさから降りるって言うのは、いざ日本が戦闘状態に入ったら子供は守るとして男も一目散に逃げだしていいってことだよね?
レディファーストなんかしなくていいんだよね。
男らしさから降りた男たちは、バーゲンヘッド号とかタイタニック号の沈没の時のように救命ボートが少ないからと言って女子供を逃げさせて男は船に残るなんてことしないよ。
自慢の力を駆使して女をはねのけて我先にと救命ボートに乗り込んで生き残りを図るよ。男らしさから降りるっていうのはそういうことだよね?
生き残った後、男女含めて多くの人から袋叩きに合うだろうけど、そうしたら「抑圧体験だ!」ってMetooされても文句は言えないよね(意味ないだろうけど)
男らしさから降りた男は男としての性的魅力や暴力性に欠けるから女にはモテないだろうけど少なくとも自分を守ることはできる。さあ男らしさから降りよう。
専門家「このままでは水害が発生するのでは」
治水局長「新しい放水路も完成しており、これまでとは状況が違う。いたずらに不安を煽らないでいただきたい」
与党支持者「まだ河川の水位計は低いまま。そよ風程度で避難するなんて(笑)」
総理大臣「上流域でのダムの建設はおおむね達成したものと考えております」
総理大臣「やはりダムだということで、避難の呼びかけと同時にですね、そうしたことをしっかり全力で取り組んできています」
専門家「避難の呼びかけではなく、ただちに避難命令を出すべきでは」
総理大臣「世界で避難命令を出しても、なかなか守ることができなかったじゃないですか!」
国民「???????????????????????????????」
治水現場「もうダメです、ダムは貯水量の限界に達したので緊急放流します!」
総理大臣「自宅で被害に遭われた方には、救命ボートステーションを設置して対処する体制を速やかに構築するよう関係大臣に・・・」
総理大臣(最近水位計が100%から増えなくなってきたな・・・ダムの効果が現れてきたのでは・・・?)
未来がない上に多額の負債を若者に押し付けようとしてる国に住んでいてよく大人しくしてられるよな。脳みそなくて行動力だけで政治家殺そうする奴が出てきても何も驚かない段階まで来てると思うんだが。どんな政党選ぼうがウンコ味のカレーかカレー味のウンコって言うけど実際そうじゃねえからな。少なくとも共産党に投票してから同じこと言えよ。若者寄りのウンコか既得権益寄りのウンコかは選べるもんだがな。大人しく生きていられるのは思考を捨てた賜物なのか?精神的な持病もある俺には耐えられねえから貯金使い込んでタイにコネクション作ってから生活保護受けちまったよ。今は日本だがお陰で毎日13時間眠って幸せに過ごしてるわ。何かの経緯で打ち止めになったり生活保護が使い物にならなくなったらタイに沈没する予定。俺みたいな奴のせいで日本は衰退していくだって?馬鹿言うなよ、俺みたいな奴がいるだけで沈む船ならもうそれは沈みかけてんだよ。甲板まで沈んでるぞそれ。足元に気をつけてくれ。気づけてよかったな。何、礼にはおよばん。お互い助け合わんとな。高度経済成長期の恩恵による蒸気機関と石炭だけで進んでる日本というタイタニック号は救命ボートに老人と既得権益層しか乗せないみたいだぞ。ジジイ達が逃げ切る前に先に逃げちまおうって奴は俺以外にも水面下には結構いるみたいだ。もちろん胡散臭い連中も多いけどな。その反面、表面化でプベル馬鹿にしてる奴も労働感プベってる奴多くて、なんか地獄みあるよな。そんなもんなのか?うんざりするぜ。
いつか真面目に働いてる奴が、まともに評価されて、まともに還元されて、正直ものだけが得をする、人情噺みたいな世界になるといいよな。皮肉じゃなくて、心の底から真剣にいつもそう思ってるよ。
俺の同期だったお前を死ぬまで追い詰めた上司。忘れるわけねえよな?昨日の夜、五反田で見かけたよ。3度見しちまった。あの斜めに曲がって半開きの口と気色悪い眼瞼下垂のナメクジみたいな目。銀のメガネのフレームも当時のままだったよ。当時より前髪が後退してたけどな。路地裏に連れ込んでやろうと思ったけど、すげえ疲れた顔してた。魂入ってないんじゃねえかな。叩いたら空の音がしそうだ。俺はお前が死んだ後に仕事辞めたよ。その後も転職するまで時間かかったけどな。今はご覧の有様だ。思えばどうせ辞めるなるならアイツの顔に飛び膝蹴りでもいれてやれば良かったと思うんだが、あの時はお前も俺も酷く疲弊してたもんな。お前が死ぬのわかってれば、一緒に辞めようと手を引っ張るぐらいの余力ならあったんだがな。察しの悪い俺を許してくれ。お前の嫁さん未だに独身だぞ。新しい男1人も作ってないぞ。あんな良い女置いて何してんだよお前。馬鹿が。死ね。死んでんのか。幸せになって欲しいよな。ダラダラとのんびりお前の分まで生きるのが、お前への供養だと思ってるよ。
私は広告業界で10年ほど広告制作の仕事をしていた。最初は総合代理店で、最後の半年はWEB広告代理店で。
そして昨年末をもって退職に至ったので、退職エントリではないが、なんとなくWEB広告の実情について
広告業界の人たちにも話したかったので文章にまとめることにした。
私はそれは、奢りではなく、むしろ戒めだと考えている。
なぜなら広告会社は、そういった矜持を自戒の念を込めて持っていないと、
私は新卒でとある広告代理店に入社し、そこから10年ほど制作を担当することになった。
最大手というわけではないが、時々全国規模のTVCM制作も手がける、そこそこの代理店である。
そこは、今となっては「働き方改革」の標語ひとつで一蹴されてしまうような、徹夜と休日出勤を繰り返す昔ながらの制作現場だった。
私はこれは、他ならない「文化からの転落への恐怖」に起因していると考えている。
タレントは不自然に微笑み、手放しで商品を褒める怪しいコピーで溢れかえり、
だからこそ代理店の制作者は、1ミリでも多く、見る者の目を楽しませる努力をする。
広告の枠を超えて世の中全般を動かせるような言葉を発信できないか苦悶する。
「ゴミ」と「文化」の間に横たわる深い河を、靴一足分だけでも超えられないか、
誰だって、自分は人生をすり減らしてゴミを作ってる、とは思いたくない。
そんなミリ単位のこだわりを爆発させていくうちに、時間外労働は積み上げられ、
(ホントにダラダラやってるだけのヤツもいるんだけど)
私は土日の撮影や徹夜のプレゼン準備が反吐が出るほど嫌いだったが、
そういういい歳こいたおじさん達が、1ミリでも良い物を作るために
わがままを通そうとする姿を見ているのは嫌いではなかった。
情熱大陸とかプロフェッショナルでは、プロ達は綺麗なオフィスでキラキラ仕事している場面ばかりだが、
現実のプロ達は深夜の制作会社の会議室で、ボロボロになりながら臭い鼻息を撒き散らして仕事に食らいついている。
繰り返されるのは、誰かが「もうこの辺で辞めにしませんか?」と言ってしまえば終わってしまうような脆弱な会議である。
しかし「少しでも良いものを作らないと俺たち生きてる意味ないよな」という不文律が全員の頭の中に共通して存在するから、
「もう辞めよう」と口にする人は一人もいない。そして1ミリだけ良くなった企画書を持って徹夜明けでプレゼンに挑む。
その情熱大陸が映さないような種類の、リアルな感じが好きだった。
まぁ、そういうおじさんおばさん達の見えない闘争が積み重なって、
「広告は文化」と心の中で思っていても怒られないくらいの社会風潮は出来たのではないかと思う。
過去の名作広告をまとめて本や番組が作られるくらいなのだから、一応文化と言っても差し支えはないだろう。
その会社で9年働いた後、私は縁あってWEB広告の代理店に転職することになった。
これが同じ「広告代理店」を冠しているが、とても同じ広告を作っているとは思えないような職場だったのである。
ここが広告という文化を殺して食べる、屠殺現場のような場所だった。
それは「数値化」だ。
WEBで広告を作る、ということは、制作物の全てを数字に置き換えることができる、ということなのである。
この広告が何秒見られたのか、どんなクラスターの何%が見たのか、何%が商品を買ったのか、広告のコスト効率はいくらか。
広告の全て数字で語ることができるのがWEB広告の独自性であり、実際私が居た会社はその強みを最大化するような戦い方をしていた。
すると何が起こるか。
たとえば、必ず視聴率やクリック率が高く出るような広告をつくる。
それはどういうヤツかというと、始まってすぐに「お得なキャンペーン」とか「今だけ何%ポイントキャッシュバック」といった数字を画面に大きく出すようなアレである。
誰もがあれに反応するわけではないが、一定層そういう数字に反射的に反応する人種の人たちがいる。だから結果的に数値はわかりやすく上向くのである。
コスト効率を上げる方法は2つしかない。前よりも大きく結果を出すか、制作費を削るか、である。
そういうわけから、WEB広告代理店では撮影や外注を行わない広告制作が奨励されている。
ストックフォトやフリー素材だけで制作すれば、地獄みたいなクオリティになるが原価はゼロに近づく。
そして前述の視聴率アップの手法があるので、不思議とそんなものでも視聴率が高かったりする。数千万かけて作ったTVCMより高かったりする。
その結果、コスト効率は上がり、「クライアントも喜んでいます!」という嘘みたいな報告が営業からは来るのだ。
私にはこれが、数字に裏付けされたゴミを作っているようにしか見えなかった。
始めにこのクオリティの広告を見た時「まともなクライアントがこれにお金を出すはずがない」と思っていた。
しかし実際は違う。喜んで買っている。そりゃそうだ、クライアントの持っているお金は「広告宣伝予算」であって「広告文化への投資予算」ではない。
RADWIMPSが歌うデザインされたTVCMであれ、フリー音源とポイント還元キャンペーンだけで出来たWEB動画であれ、効果が高そうなものにお金を払う。
なんとなく効きそうなだが高価な胃薬と、見た目はチープだが安価で効き目が数字で裏付けされている胃薬だったら、後者を選ぶ人は少なくない。
私が在籍していたのは半年程度だったが、WEB広告会社が大手代理店から仕事を奪ってきた、というようなニュースを度々耳にした。
かくして、広告という文化は、数値に裏付けられたゴミによって貪られ、じわじわと瓦解し始めている。
今なお「広告は文化だ」と思っているのは広告制作者を始めとする一部の広告ギークだけなのだろうか。
もしかしたら多くのクライアントサイドも、今では広告を文化だとは思っていないのかもしれない。
(思っている希少なクライアントもいる。代理店はそういうお客さんを大事にしてください。)
少なくとも、WEB系の広告会社にはそもそも広告を文化と思うような発想はない。
ただ忠実に、広告は言葉通りの「広告」なのだと彼らは思っている。
彼らは非難される立場ではない。だってそっちの方が本来の「広告」の語義には近いのだ。
「経済を回すための1つの因子」みたいな感じに思っているんだろうなぁ、きっと。
文化もろとも倒壊しているのにも気づかず勝ち気になっているのが我慢できなかった。
懐古趣味の「昔は良かったおばさん」みたいな話にはしたくなかったのだけど、
2019年、ついにWEB広告の出稿費がTVCMのそれを超えたという。
この先の広告業界がWEB業界を中心に回るのは日を見るより明らかだし、その時のエースプレイヤーは私が辞めたあの会社かもしれない。
しかし、あの地獄クオリティのWEB広告達を元に大学の授業が行われることはないだろうし、それを論じた本が出るようなこともない。
広告という「文化」は静かに解体され、彼らに食いつぶされ、いつの間にか消滅していることになるだろう。
私はそんな「冷たい熱帯魚」みたいな解体現場で確かに働いていた。
これは救命ボートからタイタニック号に乗り換えるような所業かもしれない。
ただ無邪気に文化を貪り続けるよりはマシだと思っている。
乗客もスタッフも疲労やストレスが限界に近づいてる、という内容。
あんな豪華客船でなく、某NGOの地球一周船で乗客とスタッフ両方を経験したから
普通に船旅を楽しんでいた私だけど、何度か救命ボートでいいからこの船降ろして
くれ!!と本気で思ったくらい。
船酔いのせいなんかじゃない。
私はわりかし平気だった。
ただ、4人部屋、かつ客船の割に小さい船だったので、どこに行っても
一方で、乗客では出来ない経験も山ほどあって、人生でこれほどスポットライトを
浴びたことは無い、というくらい表舞台にも立たせてもらった、元・超地味子。
(喉元過ぎたからだろうけどね。)
ダイヤモンドプリンセス号のニュース見た瞬間、グワッと苦しかった
記憶と楽しかった記憶がごちゃ混ぜになって蘇って心がすごい乱された。
私自身、2回とも、無論コロナほどでは無いけど、クルーズ中に大きな事故と
乗客は日頃のストレスの吐口とばかりに、スタッフに食ってかかるし、
事故に関係ない人ですらあんなにピリピリしてたことを思うと、今回の乗客の
かたたちのことを考えるとどれだけのストレスを抱えてるか、スタッフがどんな
思いなのか、と・・・。
そして、ダイヤモンドプリンセス級の船だからこそ、まだ色んな検査や
スタッフの介助があるんだろうけど、これが私が乗ってた船だったらどうだった
だろうな、、、と正直、やっぱおもったよね。。
少なくとも外国籍のクルーはあてにならないだろうし、日本人スタッフも
批判してるわけじゃない。
合う合わないはあるけど、私にとっては、あの船に感謝の気持ちが強い。
学園祭のノリなので。。
学園祭を仕切る人たちに、今回のこと対処できるとはちょっと思い難い。
今なお航海中の船。
正直、大丈夫かな、と。
ダイヤモンドプリンセスのニュースが出る前に真っ先に思い浮かべた。