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はてなキーワード: 救命ボートとは

2024-07-27

中絶人権トリレンマ

トリレンマとは、「3つのうち2つしか選べず、1つを諦めざるを得ない」という状況である

中絶権利普遍的人権とのあいだにも同様のトリレンマが成り立つ。

我々は、

  1. 胎児人間である
  2. 人間出自によって差別されてはならない
  3. 中絶自由である

という3つの原則を持っているが、すべて満たすことはできないので、1つを諦めねばならない。

  1. 胎児人間であり、かつ、人間出自によって差別されてはならないのだとすれば、中絶全面禁止されることになる。しばしば挙げられる「家が貧しいから」とか「性犯罪によるものから」という理由は、「貧しい家に生まれ人間はいじめてもよい」「犯罪者の子供として生まれ人間はいじめてもよい」という主張が認められないのと同様に、認められるべきではない。子宮癌が見つかり、即座に胎児ごと子宮を摘出しなければ妊婦生命にかかわる、というような場合にのみ、緊急避難(一人乗りの救命ボートに乗っているとき他人を突き飛ばし溺死させても無罪)による中絶が認められる。
  2. 胎児人間であり、しか中絶自由であるのならば、人間が親の恣意によって、あるいは「貧しい家庭に生まれた」とか「犯罪者の子である」という理由によって殺されることを認めることになる。究極の人権侵害である殺人がそのような理由で認められてよいのであれば、それより軽度の出自による差別もすべて認められなければおかしい。「◯◯出身者は雇いたくない」とか「うちの大学入試女性の配点を低くしてるんでー」とかいった差別も解禁されることになるだろう。
  3. 人間出自によって差別されてはならず、かつ、中絶自由であるのならば、胎児人間ではない。そうであるならば、胎児を殺そうとした者を「殺人未遂に問うべきだ」などと主張するべきではないし、妊婦を殺した人間の罪は2人ではなく1人を殺したものとしてカウントされねばならないだろう(もちろん、情状によって重い刑を科すことは否定されない)。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-04-28

anond:20240428203645

子持ちの社会的偉さが高かったら何なの? 沈没船に子持ち主婦政治家ニートが乗ってて二人乗り救命ボートがあったら社会的偉さの低いニートが置き去りにされるのかな。

2023-10-21

anond:20231017010235

細野晴臣祖父が「みなさまのこっておられます」言われても救命ボートから降りなかったから助かったってやつ?(ウソです)

2023-05-06

anond:20230506100556

ペット家族かいう人もいるけど、考えてみてほしい。

旅客船沈没しそうです。

救命ボートには2人と少ししか乗せられません。

妻・夫・赤ちゃんワンちゃん

どうする?

明らかでしょ。

ペットうつもりで子どもを産まないで下さい。

2022-07-06

anond:20220706142435

異星のお魚を生でちゅるっといく感じが外国製とは思えないサブノーティカ

いや救命ボートに持ってくれば焼魚で食べられるけど

2022-06-23

anond:20220623080117

政治で世の中が良くなるという幻想をまず捨てろ

もう既に崩壊は始まってて良くなる手段は無い

出来るのは今ある資産人材福祉をできるだけ少数の優秀な人間に移してほかを全部見捨てて

少数精鋭で日本という国家を出来る限り存続させることくらい

それ以外の手段を声高に叫ぶヤツは全員詐欺師だと断言して良い

日本という救命ボートに乗れる人間は限られてるから、全員を乗せてボートを重量オーバーで沈めて全員死ぬか、諦めて一部だけ生かすか

どちらにせよ自分らはその救命ボートに乗れる権利最初から無い

自分幸せにしてくれるなどという嘘をつく詐欺師を選ぶんじゃなくて

自分やその他多くの人を殺せる、殺せたうえで日本を存続出来る人に政治を任せるのが正しい

そういう意味では自民党は全く正しいことをやってる

どうせ殺されるなら有益に殺してくれる人に仕えたい

2022-05-02

anond:20220502172833

タイタニック救命ボートあったからね…。

すぐに救助してもらえるようなうっかり転落とかなら別として、救命胴衣にまったく意味ないってのがよくわかったわ。

2022-04-26

anond:20220426183809

増田いいこと言ってると思うけどあんま響いてないっぽいので支持トラバ

俺も今回の事故について、別報道できになったコメントがあったので補足させてもらおう、と言っても増田と違って素人だが(ちょっとだけそういう学校で航海術とか勉強したことのあるリゾートダイバーです)

救命胴衣はなんの意味もない」

あれは浮くのがいいんだ

頑張らなくても浮いて救助を待つことができる

救命胴衣がなければ頑張って浮いて救助を待たなきゃいけない(一応何もしないでも人体は浮くが、救命胴衣をつけたほうが圧倒的に楽に「なにもしない」をできる)

生存ボトルネックが「いかに楽に浮いて救助を待てるか」のとき救命胴衣が生死を分けるぞ!

今回のボトルネックは低い水温だった

保温のための機能はついてないので、結果的救命胴衣があってもだめだったね…

あと救命胴衣をつけてない状態で見つかった乗客がいたが、可能性としては

最初からつけてなかった

・つけてたけど脱げた

あたりで、救助要請から考えると後者のほうが可能性高いんじゃないかと思う

きちんと装着できればそこまで簡単には脱げないはずだけど、続報によると船に異常が起きてからあわてて装着させた様子が伺えるのでそういうこともあるだろう

子どももいたし、サイズがあってなかったとかもありえる

とにかく救命胴衣は悪くないよ

救命ボートはなかったのか」

あのサイズ小型船舶ならまず載せないだろうなあというのがひとつ

あと救命ボートそんなに万能じゃないよ

まず今回一番やばいと思われる高波や寒さにはそれなりに無力(ぺらいし軽いし)

あと広げるの大変だし、5人くらいしか乗れないから船員2人じゃ手が回らない

素人考えだが、その時間をきちんと救命胴衣を装着するほうに費やしたほうが生存確率高くなると思う


他にもあった気がするけど忘れた

報道されてる段階では正直色々わからないと思う

同じような状況でも幸運が重なれば楽しく帰ってこれただろうし、不幸が重なるとこうなってしまったって状況に見える

人災要素があったとして、自然相手事故で、まだ報道も乱立して一部の遭難者を救助した段階では明らかにおかしい!みたいな単純明快さはないと思うな

素人しかない俺は、船も人も全部見つかって、情報が整理されて、再発防止につながることを切に祈るのみだ

みんなも素人だろ?一旦落ち着いて、救助にあたってくれてる人たちを信じて見守ろうぜ

まあ本当はみんな生存した状態で救助されることが一番だがな……

2022-04-25

anond:20220425123618

いざというときスイッチおすとエアバッグみたいに小型ボンからガスが流れ込んで

個人救命ボートくらい膨らむとか今の技術ならなんとかなるだろ

2022-04-24

さな観光船だと救命ボート付いてないこともあるのか……

船はめったに乗らないから知らなかった

さすがにフェリーなら付いてるだろうけど観光用の遊覧船屋形船とかはないのもありそう

2022-04-23

知床ツアータイタニックみたいになったってこと?

怖すぎ。救命ボートに乗って浮いてたら助かるのかな…?

2022-04-17

男らしさから降りていいんなら女性は優先しなくていいんだよね?

男は大きく3種類に大別されるはずで

・従来のモテ男(暴力性を持つ男)

・男らしさ2.0インストールした男(従来通り女性を守るなど女性に対して有益な行動は続けるけど、DV浮気などをせず野心が少な目の草食系男子)

・男らしさから降りた男(女性にとって無害なはずなのになぜか嫌われて非モテ扱いされる、弱者男性)

でもフェミ達はしきりに男らしさから降りようって言うよね(しかも男らしさ2.0インストールしたまま)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70510


連日ウクライナ関連のニュースでは「女子供被害にあっている!」って叫ばれている。

でも本当に男らしさから降りるって言うのは、いざ日本戦闘状態に入ったら子供は守るとして男も一目散に逃げだしていいってことだよね?

レディファーストなんかしなくていいんだよね。

男らしさから降りた男たちは、バーゲンヘッド号とかタイタニック号の沈没の時のように救命ボートが少ないからと言って女子供を逃げさせて男は船に残るなんてことしないよ。

自慢の力を駆使して女をはねのけて我先にと救命ボートに乗り込んで生き残りを図るよ。男らしさから降りるっていうのはそういうことだよね?

生き残った後、男女含めて多くの人から袋叩きに合うだろうけど、そうしたら「抑圧体験だ!」ってMetooされても文句は言えないよね(意味ないだろうけど)

男らしさから降りた男は男としての性的魅力や暴力性に欠けるから女にはモテないだろうけど少なくとも自分を守ることはできる。さあ男らしさから降りよう。

2022-01-01

anond:20220101213829

「皆様、やっておられます」と言われれば善行名目で沈む船から女子供救命ボートの乗船権を譲るんだよな(苦笑)

2021-12-26

anond:20211226121946

それは小泉竹中の毒が回って、正規労働者派遣労働者分割統治されているから。

組合も全員救命ボートに乗れないことは分かっているが、職場に大量に派遣がいる以上

さら待遇改善せよと大声で言えなくなってしまった。

代わりにLGBT権利とか働く女性宴会で酌させるなとか、公共ポスターおっぱいとかパンツとか強調した絵描くなとか

争点が重箱の隅になってしまった。そういう小さい小さい話に世間からの支持が得られない。

立憲とか連合とかきちんと組合員の待遇改善労働分配率向上を戦い取っていくべきなのだ

2021-08-14

寓話】ダムの建設にしっかり全力で取り組む総理大臣

国民「連日大雨が続いています

専門家「このままでは水害が発生するのでは」

治水局長「新しい放水路も完成しており、これまでとは状況が違う。いたずらに不安を煽らないでいただきたい」


国民台風が来ました!」

与党支持者「まだ河川の水位計は低いまま。そよ風程度で避難するなんて(笑)

総理大臣「上流域でのダム建設はおおむね達成したものと考えております


国民「いまにも、堤防決壊しそうです!」

総理大臣「やはりダムだということで、避難の呼びかけと同時にですね、そうしたことをしっかり全力で取り組んできています

専門家避難の呼びかけではなく、ただちに避難命令を出すべきでは」

総理大臣世界避難命令を出しても、なかなか守ることができなかったじゃないですか!」

国民???????????????????????????????」


治水現場「もうダメです、ダムは貯水量の限界に達したので緊急放流します!」

総理大臣「自宅で被害に遭われた方には、救命ボートステーションを設置して対処する体制を速やかに構築するよう関係大臣・・・

治水現場「すでに河川の氾濫が起き始めています!」

総理大臣最近水位計が100%から増えなくなってきたな・・・ダム効果が現れてきたのでは・・・?)


国民「家が流されています! ああ、人も・・・

総理大臣ダム建設を急げ!!!!!」

2021-02-07

最近の若者大人しすぎない?

未来がない上に多額の負債若者押し付けようとしてる国に住んでいてよく大人しくしてられるよな。脳みそなくて行動力だけで政治家殺そうする奴が出てきても何も驚かない段階まで来てると思うんだが。どんな政党選ぼうがウンコ味のカレーカレー味のウンコって言うけど実際そうじゃねえからな。少なくとも共産党投票してから同じこと言えよ。若者寄りのウンコ既得権益寄りのウンコかは選べるもんだがな。大人しく生きていられるのは思考を捨てた賜物なのか?精神的な持病もある俺には耐えられねえから貯金使い込んでタイコネクション作ってから生活保護受けちまったよ。今は日本だがお陰で毎日13時間眠って幸せに過ごしてるわ。何かの経緯で打ち止めになったり生活保護が使い物にならなくなったらタイ沈没する予定。俺みたいな奴のせいで日本は衰退していくだって馬鹿言うなよ、俺みたいな奴がいるだけで沈む船ならもうそれは沈みかけてんだよ。甲板まで沈んでるぞそれ。足元に気をつけてくれ。気づけてよかったな。何、礼にはおよばん。お互い助け合わんとな。高度経済成長期の恩恵による蒸気機関石炭だけで進んでる日本というタイタニック号は救命ボートに老人と既得権益しか乗せないみたいだぞ。ジジイ達が逃げ切る前に先に逃げちまおうって奴は俺以外にも水面下には結構いるみたいだ。もちろん胡散臭い連中も多いけどな。その反面、表面化でプベル馬鹿にしてる奴も労働感プベってる奴多くて、なんか地獄みあるよな。そんなもんなのか?うんざりするぜ。

いつか真面目に働いてる奴が、まともに評価されて、まともに還元されて、正直ものけが得をする、人情噺みたいな世界になるといいよな。皮肉じゃなくて、心の底から真剣にいつもそう思ってるよ。

俺の同期だったお前を死ぬまで追い詰めた上司。忘れるわけねえよな?昨日の夜、五反田で見かけたよ。3度見しちまった。あの斜めに曲がって半開きの口と気色悪い眼瞼下垂のナメクジみたいな目。銀のメガネフレームも当時のままだったよ。当時より前髪が後退してたけどな。路地裏に連れ込んでやろうと思ったけど、すげえ疲れた顔してた。魂入ってないんじゃねえかな。叩いたら空の音がしそうだ。俺はお前が死んだ後に仕事辞めたよ。その後も転職するまで時間かかったけどな。今はご覧の有様だ。思えばどうせ辞めるなるならアイツの顔に飛び膝蹴りでもいれてやれば良かったと思うんだが、あの時はお前も俺も酷く疲弊してたもんな。お前が死ぬのわかってれば、一緒に辞めようと手を引っ張るぐらいの余力ならあったんだがな。察しの悪い俺を許してくれ。お前の嫁さん未だに独身だぞ。新しい男1人も作ってないぞ。あんな良い女置いて何してんだよお前。馬鹿が。死ね。死んでんのか。幸せになって欲しいよな。ダラダラとのんびりお前の分まで生きるのが、お前への供養だと思ってるよ。

2020-04-14

あなた家族大型客船に乗っていたとします。

そんな中、嵐が来て船は沈没危機に。

乗客は皆、救命ボート避難を始めようとしています

いくつかの救命ボートには、すでに漕ぎ手が一人ずつ乗り込んでいました。

どの救命ボート最愛家族を乗せ、どれに自分が乗り込むか。

この時選んだ救命ボートの漕ぎ手こそ、あなたが求める信頼できる「リーダー」です。

これは、「採用基準」というマッキンゼー出身者の、はてなでは有名な方の本に出てくる一節です。

さて、今の日本は正にこんな感じですが、政治家から救命ボートの漕ぎ手を選ぶとしたら、みなさんは誰を選びますか?

自分は、小池知事吉村知事かな・・・

2020-03-11

私は広告制作現場を辞めて、広告屠殺する現場転職をした



私は広告業界10年ほど広告制作仕事をしていた。最初総合代理店で、最後半年WEB広告代理店で。

そして昨年末をもって退職に至ったので、退職エントリではないが、なんとなくWEB広告の実情について

広告業界の人たちにも話したかったので文章にまとめることにした。


私は広告業を一つの文化」だと思っている。

そう考えるのは広告従事者の奢りだ、と言われがちだが

私はそれは、奢りではなく、むしろ戒めだと考えている。

なぜなら広告会社は、そういった矜持自戒の念を込めて持っていないと、

簡単ゴミ製造する工場へと成り下がってしまうからである




私は新卒とある広告代理店入社し、そこから10年ほど制作担当することになった。

大手というわけではないが、時々全国規模のTVCM制作も手がける、そこそこの代理店である

そこは、今となっては「働き方改革」の標語ひとつで一蹴されてしまうような、徹夜休日出勤を繰り返す昔ながらの制作現場だった。


なぜそこまで業務時間が長くなるのか?

普段長時間労働と縁のない企業の方からすると不思議だと思う。

私はこれは、他ならない「文化からの転落への恐怖」に起因していると考えている。


基本的に、広告公共空間公共電波を使ったゴミである

もし広告クライアントの言われた通りのものを作れば、

タレントは不自然に微笑み、手放しで商品を褒める怪しいコピーで溢れかえり、

最後自己満足キャンペーン応酬お茶を濁す

お金をもらって公共空間を1枠使って汚す「ゴミ」が完成する。


からこそ代理店制作者は、1ミリでも多く、見る者の目を楽しませる努力をする。

広告の枠を超えて世の中全般を動かせるような言葉を発信できないか苦悶する。

ゴミ」と「文化」の間に横たわる深い河を、靴一足分だけでも超えられないか

というギリギリ闘争クライアントと繰り広げる。


だって自分人生をすり減らしてゴミを作ってる、とは思いたくない。

自分文化を作っているんだ、と言い聞かせたい。


そんなミリ単位のこだわりを爆発させていくうちに、時間外労働は積み上げられ、

残業休日出勤オンパレードとなっているわけである

ホントにダラダラやってるだけのヤツもいるんだけど)


私は土日の撮影徹夜プレゼン準備が反吐が出るほど嫌いだったが、

ういういい歳こいたおじさん達が、1ミリでも良い物を作るために

わがままを通そうとする姿を見ているのは嫌いではなかった。


情熱大陸とかプロフェッショナルでは、プロ達は綺麗なオフィスキラキラ仕事している場面ばかりだが、

現実プロ達は深夜の制作会社会議室で、ボロボロになりながら臭い鼻息を撒き散らして仕事に食らいついている。

繰り返されるのは、誰かが「もうこの辺で辞めにしませんか?」と言ってしまえば終わってしまうような脆弱会議である

しかし「少しでも良いものを作らないと俺たち生きてる意味ないよな」という不文律が全員の頭の中に共通して存在するから

「もう辞めよう」と口にする人は一人もいない。そして1ミリだけ良くなった企画書を持って徹夜明けでプレゼンに挑む。

その情熱大陸が映さないような種類の、リアルな感じが好きだった。


まぁ、そういうおじさんおばさん達の見えない闘争が積み重なって、

広告文化」と心の中で思っていても怒られないくらいの社会風潮は出来たのではないかと思う。

美大メディア学系の大学広告論の授業があったり、

過去の名作広告をまとめて本や番組が作られるくらいなのだから、一応文化と言っても差し支えはないだろう。




その会社で9年働いた後、私は縁あってWEB広告代理店転職することになった。

これが同じ「広告代理店」を冠しているが、とても同じ広告を作っているとは思えないような職場だったのである

ここが広告という文化を殺して食べる、屠殺現場のような場所だった。



WEB広告とそれ以外の広告の、一番の違いは何か。

それは「数値化」だ。

WEB広告を作る、ということは、制作物の全てを数字に置き換えることができる、ということなである

この広告が何秒見られたのか、どんなクラスターの何%が見たのか、何%が商品を買ったのか、広告コスト効率はいくらか。

広告の全て数字で語ることができるのがWEB広告独自性であり、実際私が居た会社はその強みを最大化するような戦い方をしていた。


すると何が起こるか。

全ての広告を、数値をベースに作るようになるのである


たとえば、必ず視聴率クリック率が高く出るような広告をつくる。

それはどういうヤツかというと、始まってすぐに「お得なキャンペーン」とか「今だけ何%ポイントキャッシュバック」といった数字を画面に大きく出すようなアレである

誰もがあれに反応するわけではないが、一定層そういう数字に反射的に反応する人種の人たちがいる。だから結果的に数値はわかりやすく上向くのである


たとえば、広告コスト効率が高い広告をつくる。

コスト効率を上げる方法は2つしかない。前よりも大きく結果を出すか、制作費を削るか、である

そういうわけからWEB広告代理店では撮影外注を行わない広告制作奨励されている。

ストックフォトやフリー素材だけで制作すれば、地獄みたいなクオリティになるが原価はゼロに近づく。

そして前述の視聴率アップの手法があるので、不思議とそんなものでも視聴率が高かったりする。数千万かけて作ったTVCMより高かったりする。

その結果、コスト効率は上がり、「クライアントも喜んでいます!」という嘘みたいな報告が営業からは来るのだ。



私にはこれが、数字裏付けされたゴミを作っているようにしか見えなかった。

始めにこのクオリティ広告を見た時「まともなクライアントがこれにお金を出すはずがない」と思っていた。

しかし実際は違う。喜んで買っている。そりゃそうだ、クライアントの持っているお金は「広告宣伝予算」であって「広告文化への投資予算」ではない。

RADWIMPSが歌うデザインされたTVCMであれ、フリー音源ポイント還元キャンペーンだけで出来たWEB動画であれ、効果が高そうなものお金を払う。

なんとなく効きそうなだが高価な胃薬と、見た目はチープだが安価で効き目が数字裏付けされている胃薬だったら、後者を選ぶ人は少なくない。

私が在籍していたのは半年程度だったが、WEB広告会社大手代理店から仕事を奪ってきた、というようなニュースを度々耳にした。




かくして、広告という文化は、数値に裏付けられたゴミによって貪られ、じわじわと瓦解し始めている。




今なお「広告文化だ」と思っているのは広告制作者を始めとする一部の広告ギークだけなのだろうか。

しかしたら多くのクライアントサイドも、今では広告文化だとは思っていないのかもしれない。

(思っている希少なクライアントもいる。代理店はそういうお客さんを大事にしてください。)


少なくとも、WEB系の広告会社にはそもそも広告文化と思うような発想はない。

ただ忠実に、広告言葉通りの「広告なのだと彼らは思っている。

彼らは非難される立場ではない。だってそっちの方が本来の「広告」の語義には近いのだ。

から彼らは彼らが今作っているものゴミとは思っていない。

経済を回すための1つの因子」みたいな感じに思っているんだろうなぁ、きっと。


私には、彼らが目先の利益のために無邪気に広告破壊

文化もろとも倒壊しているのにも気づかず勝ち気になっているのが我慢できなかった。

そういうわけで、私は半年会社を辞めることにした。



懐古趣味の「昔は良かったおばさん」みたいな話にはしたくなかったのだけど、

この話は結局そういう結論しかならないのかもしれない。


2019年、ついにWEB広告の出稿費がTVCMのそれを超えたという。

この先の広告業界WEB業界を中心に回るのは日を見るより明らかだし、その時のエースプレイヤーは私が辞めたあの会社かもしれない。

しかし、あの地獄クオリティWEB広告達を元に大学の授業が行われることはないだろうし、それを論じた本が出るようなこともない。

広告という「文化」は静かに解体され、彼らに食いつぶされ、いつの間にか消滅していることになるだろう。


私はそんな「冷たい熱帯魚」みたいな解体現場で確かに働いていた。

そして次はまた、古い広告業界に近い所で仕事をする。

これは救命ボートからタイタニック号に乗り換えるような所業かもしれない。

ただ無邪気に文化を貪り続けるよりはマシだと思っている。


あの制作会社会議室で、今日広告文化足り得るようしのぎを削る人たちがいる。

私は化石のような彼らを、情熱大陸クルーの代わりに見届けることにする。

2020-02-13

ダイアモンドプリンセス

最近、あまりテレビを見る暇がないのだけど、

銭湯に行ったらニュースですごい流れてた。

乗客スタッフ疲労ストレス限界に近づいてる、という内容。

あー・・・から、見ないようにしてたのに。 

あんな豪華客船でなく、某NGO地球一周船で乗客スタッフ両方を経験たか

どちらの気持ちも痛いほど想像できてしまう。

あの船室に2週間も隔離されるなんて、冗談じゃない。

普通に船旅を楽しんでいた私だけど、何度か救命ボートでいいからこの船降ろして

くれ!!と本気で思ったくらい。  

船酔いのせいなんかじゃない。

私はわりかし平気だった。

ただ、4人部屋、かつ客船の割に小さい船だったので、どこに行っても

人がいるプライバシーのない生活に耐えられなかったもん。。 

スタッフとして乗った時は、朝から晩まで毎日休みなく働いて、

専門職でもあったから、その緊張感もあり、疲労がすごかった。

一方で、乗客では出来ない経験も山ほどあって、人生でこれほどスポットライト

浴びたことは無い、というくらい表舞台にも立たせてもらった、元・超地味子。

30 オーバーにして知った、青春でもあった。

 

メチャクチャ苦しくて、それ以上に楽しかった経験

(喉元過ぎたからだろうけどね。)

 

何年もたった今でも、あの日々で得た経験が消化しきれなくて

ダイヤモンドプリンセス号のニュース見た瞬間、グワッと苦しかった

記憶と楽しかった記憶がごちゃ混ぜになって蘇って心がすごい乱された。 

 

私自身、2回とも、無論コロナほどでは無いけど、クルーズ中に大きな事故

遭遇して、その時の船内の殺伐とした空気をよく覚えている。

乗客は日頃のストレスの吐口とばかりに、スタッフに食ってかかるし、 

スタッフ対応に追われたし、箝口令が出されたり。

事故関係ない人ですらあんなにピリピリしてたことを思うと、今回の乗客

かたたちのことを考えるとどれだけのストレスを抱えてるか、スタッフがどんな

思いなのか、と・・・

 

自分自身記憶とも相まって、平静にみていられない。

そして、ダイヤモンドプリンセス級の船だからこそ、まだ色んな検査

スタッフの介助があるんだろうけど、これが私が乗ってた船だったらどうだった

だろうな、、、と正直、やっぱおもったよね。。

 

少なくとも外国籍クルーはあてにならないだろうし、日本人スタッフ

きっとパニックになってるのではないかと。

医療設備とか、検査とか、考えるとゾッとする。

 

批判してるわけじゃない。

合う合わないはあるけど、私にとっては、あの船に感謝気持ちが強い。

ただ、日本サービス水準を求める人には無理。

学園祭のノリなので。。

学園祭を仕切る人たちに、今回のこと対処できるとはちょっと思い難い。

一応、ちゃん旅行もついてきてくれるけどさ。

今なお航海中の船。

正直、大丈夫かな、と。

ダイヤモンドプリンセスニュースが出る前に真っ先に思い浮かべた。

 

いろんな思いはあるけど、やっぱり私にとっては大事存在から

無事に乗客帰国してくれることを願ってる。

ダイアモンドプリンセス号の方たちはもちろん、あの船の乗客たちも。

2019-10-15

ホームレスは追い出せとか独身がどうとかを見ていると

タイタニック金持ちのおばさんを思い出す

この救命ボート貴族専用なんですよね???

2019-10-14

揚舟

大昔に救命ボートみたいに小舟がくっついてる家があったけど、ネットで話題にしてる人います

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