はてなキーワード: クルアーンとは
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。
著書を残さなかったが、弟子や信者がその思想を書き留めて後世に伝えた思想家の例として、以下のような人物が挙げられます。
ソクラテスは著作を残さず、対話を通じて思想を伝えました。彼の教えは弟子のプラトンによって書き留められ、プラトンの対話篇を通じて後世に伝えられています。
ギリシアの数学者であり哲学者であるピタゴラスも自身で著書を残さず、彼の教えは弟子たちによって伝えられました。彼の思想はピタゴラス教団によって広められました。
仏教の開祖である釈迦は自身で著書を残さず、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、仏典(経典)として伝えられました。
孔子自身は書物を残していませんが、彼の言行録である『論語』は弟子たちによってまとめられました。
老子は道家の思想家で、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、『道徳経』として伝えられました。ただし、老子自身が書いた可能性も否定されていません。
イエス自身は何も書き残していませんが、彼の教えや生涯については弟子たちによって書かれた新約聖書に記録されています。
イスラム教の創始者であるムハンマドは自ら書を残さず、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、『クルアーン』として伝えられました。
これらの人物は直接著作を残さず、弟子や信者が彼らの教えをまとめ、後世に伝えました。そのため、彼らの思想は間接的に伝えられています。
アブラハムが、息子イサクを犠牲として捧げよるよう神から命じられる。アブラハムは苦悩するも、神への信仰(息子を死なせたとしても、神は生き返らせる事が出来るという信仰)を貫き、実際にその通りにしようとする。イサクを殺す寸前で神はアブラハムを止めて、代わりの犠牲(羊)を捧げるよう指示する。この、アブラハムの信仰を神は高く評価し、彼の子孫から人類を「原罪」から救う者=救世主=メシアが登場するという約束=契約をする。これが、アブラハム契約と呼ばれる物で、アブラハムの宗教と言われているのは、アブラハムが契約した神様の教えを守っているから。
※余談
メシアの本来の意味は油を注がれた者。救世主という意味は後から付いてきた。
■ユダヤ教
アブラハム以降、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の息子と子孫が増えていく。このヤコブの12人の息子の一人、ベニヤミンの子孫であるモーセが書いたモーセ五書(トーラー)を含む旧約聖書を聖典としている。アダムから受け継いだ「原罪」をメシアが取り除くという希望を抱いている。そのメシアはまだ来ていないというスタンス。
※余談
ノアの時は十戒はまだない。十戒はモーセ。ノアの時は肉食が許可された事と、契約の虹(=洪水で人類を滅ぼさない)が有名。メシアは、ヤコブの12人の息子の一人ユダ族から生まれるという預言がある。
「原罪」を取り除くメシアがイエスだという教え。ただし、現状「原罪」からはまだ開放されていないとする派閥もいれば、「原罪」から開放されたという派閥もおり、この辺の教えは様々。聖典は旧約聖書と新約聖書。教派によって外典を聖典扱いしたり、しなかったりするが、基本外典も聖典扱いしている。
※余談
基本、内ゲバが多い。カトリックのイエズス会は宣教ガチ勢。狂気に近い信念で行動しているヤベー集団。聖書ガチ勢だったルターは別に宗教改革とか考えていなかった。カトリックが良くなればいーなーぐらいのスタンスで、95ヶ条の論題を書いたけれど、思いの外バズって宗教改革につながった。時代の流れって怖いね。元増田にはプロテスタントが自由でカトリックが厳しいというが、どっちもどっち。
ムハンマドが最後の預言者という扱い。モーセ五書(トーラー)を含むクルアーンを聖典としている。イエスについての記述もあるが、キリスト教ほど重要視はしていない。ユダヤ教、キリスト教と比べ、メシア=救世主の重要度は低い。
※余談
イスラム教には詳しくないので、識者求む。
イスラム教徒って厳格かと思ったら「頑張ってクルアーン守ろうと思ったけど、無理やった。ほんまごめん」で済むらしいというのが俺の理解。
「戒律を守れない者は万死に値する。相応の償いをすべき」と
「戒律を守るのは理想だけど、そうできなかったとしても人間だししかたないしかたない。でも懺悔はしようね」と
ムスリムって戒律に対して厳しくて、こちらもそれに配慮する必要があるってイメージがあるけど
俺が知り合った人たちは、そうでもなかった。もちろん出身地による揺らぎはあるんだろうし、あっちの世界も色々で厳格な人たちも沢山いるんでしょう。
大学院の時の同窓生でトルコから来たって人で、俺がチューター役に任命されて修士を出るまで面倒見てた。
歓迎会を含めて、彼と食事に行く際にはハラールであることに気を配ったし、幸いにして学食にはハラール認定された料理もあるので概ね問題はなかった。
ただ、日本人である俺はいつもって訳にもいかんので、たまには「今日は酒も飲むしハラームだから、着いてくるのは無理だよー」って断る事もしばしばあった。
1年ほどしたある日、他の学生と二郎系食おうぜって話になって出かける際に「一緒に行きたい」というので、「今日は豚食べるからダメだよーごめんねー」って答えると
「日本にいる間は神様も見てません。」と言って着いてきて、こっちは怖くなって「やめとけやめとけ」と言うのに食べるからビックリ仰天した。
それ以来、いつもではないけれど時折着いてくる事はあった。酒類など、こちらから勧めたことは一度もないが、本人の中では折り合い付けてたまには禁を破ってたように思う。
会社に入って海外からやってきたシク教徒がいた。半年間の出張の予定だった。
彼らは基本ベジタリアンなので、一緒にメシ食ったり飲みに行くってのは難しいだろうと思って、その旨は初めから伝えてあった。
教義は最大限尊重したい、日本ではサラダ一つ食べるにしても、動物性の油脂を使ってないものが珍しいし保証も出来ない。
また、日本人が食事をとる際に肉を食べないってことは考えられないので、着いてこなくていいです。交流の機会は別途用意します。
って感じだよね。
でも、彼もある日飲み会についてきて、おでんの牛すじ煮込みを食べてた。やっぱり「日本にいる間は神様は許してくれる」と彼も言っていた。
彼は俺が知り合った時には既に日本に住んで長くて、学生時代も含めたら5年ほどになるってことだった。
「最初は頑張ってましたけど、日本にいる間は仕事の為にも無理だから、神様ごめんって心の中で謝ってます。だから大丈夫」
イスラム教徒とかって厳格かと思ったら「頑張ってクルアーン守ろうと思ったけど、無理やった。ほんまごめん」で済むらしいというのが俺の理解。
宗教の為なら人殺せるなんて発想は、こういうゆるーい感じで信仰持ってる人たちからは出てこないと思える。
だからって、日本人から、どうせ破ってもいいんだろ?って誘うのはNGだし無礼だと思う、出来る範囲で最大限尊重してあげるべきだけど
彼らも人間だから、日本に住みながら食文化を体験する機会を全否定までは出来ないってことでしょうね。
インテリ層は、そこそこ柔軟なんじゃないかと思う。自分の中で勝手に折り合いをつけてる人ばかりだった。
そういう奴はたぶんイランとイラクの違いも知らないし、アプリコットは林檎の仲間だと思ってるし、英語の成績はいつも3だった。
ただ、あのベリーダンサーか?みたいな格好はディズニーのアラジン(アニメの方)の影響が大きいのかなとも思う。ジャスミン姫も結構露出した衣装だから。
ディズニーの影響かどうかは知らんが、とにかく下品な格好して(させて)アラビアン〜とか謳うな。今じゃ猫も杓子もソシャゲのキャラもVtuberも乳と腹出して、中途半端に透けた布で口だけ覆ってる。何がアラビアンだよ。そもそも千夜一夜は中世ペルシア(やインド等)が舞台でアラブ人違うし、でも下品アラビアンたちはペルシアが何かとか知らなそう。ペル語科出身の友人も「ペルシアはアラブじゃねぇーよ!」「アラビアン•ナイトぉ?クルアーン読めよ!」って悲しんでたよ。
ただ一番気に食わないのは、あのよく分からん透けた面紗。顔下半分だけ覆うくせに、なんで透かせた?!何なのあれ?誰とは言わないけど、何なん、あれ。
気に食わない。すごい気に食わない。何がアラビアンだ。砂漠に帰れ。ラクダのバカ臭い唾でも顔面に食らえ。
日本人として、恥ずかしい。イスラーム法を研究していてアラブ人やムスリムの友人がたくさんいる身からすると、彼らに日本のあの下品アラビアンを見せたくなさすぎていつも苦しい。日本人にとっての(主語大きくてごめんなさい)アラブのイメージってこんななのね、、、って思われたくなさすぎ。オリエンタリズムがどうとか論じる気はないけど、あの下品だけはどうにかならないものか。アラブやペルシアや千夜一夜やイスラームのうっすいガワだけを利用するな。
ぜひGlamourというYouTubeチャンネルでやってる歴史家がアラジンのファッションを検証する動画を見てほしい。下品アラビアンたち聞いてるか。
今のムスリムの女の子たちのヴェールの巻き方とかすっごく可愛いし、工夫されてるし、これが現代のイスラームだよなぁって思う。
とにかく、アラビアンを謳うなら(そうでなくてもアラブや千夜一夜を意識するのなら)、悪趣味で品なのないオリエンタリズムごりごりの娼婦みたいなデザインをやめろ。変な顔布もするな。腹しまえ。乳出すな。クルアーン読め。
【追記】2022.3.3
ごめん、こんなに反応来ると思わんかった。すまんな、全然放置してて。俺が言いたかったのは「アラビアン(アラブ風の)」って謳ってるなら娼婦みたいな格好せんでや、ってことだった。というのも、こないだ仕事相手のアラブ人(カタール人)と東京歩いてて、何のキャラクターかは知らんのやけど「限定イベント アラブの夜!」みたいなタイトルで若い女の子たちがそういう格好してるデカい看板に出会ってな、そのアラブ人は日本語読めるし生まれたときからムスリムやから、ちょっと怖い顔して「アラブ?」って呟いててさ。アラブって何だよってなるよね、そりゃ。ただ俺の言い方的にアラビアンナイトと宗教の面でのイスラームを結びつけるような趣旨になったのは悪かった。イスラームは宗教にとどまらない文明とか法規範の根幹なしてる広義の意味も全然あるし、アラブ人=ムスリムちゃうからな。すまんかった。あと他国の文化を部外者がごちゃごちゃ言うなってのも確かにそうだな。けど、キムカーダシアンの「Kim Oh No」騒動だとかさ、他国の文化ってやっぱりセンシティブな話題だと思うのよ。アラブ人が日本の“アラブ“を摂取して「馬鹿にされてる」って感じるのって良くないねんな。俺も海外の人が作るリスペクトされたサムライとか着物とかすごい好きやけど、例えば外国人にコウメ太夫指して「これが日本の由緒ある伝統のゲイシャだろ?」って言われたら、そいつが真剣に言ってても馬鹿にしながら言っててもやるせない気持ちになるで。コウメ太夫好きだけどな。まあアラビアンナイトに関してはもう文化の盗用とかのレベルじゃなくて「アラブ」って付けなかったら全然納得できるくらいの確立したジャンルではあるよな。あと日本って何かとエロに対する耐性っていうか寛容な向きというか、悪く言えばゾーニングがなされてない部分も多い。他の先進国の首都とかで町中にバーンって若い女の子の肌面積多い絵とか見ないやんか。まあ、ちょっとでもアラブとかアラビアンっていう言葉について心に留めてほしいなって思ってる。
15年ほど前に、アフガニスタンではない異国にて、私はパシュトゥーン人たちのなかで、唯一の日本人として日々を過ごしたことがあります。他のアフガニスタンの民族についてはわからないけれど、パシュトゥーン人の「リアルな」考え方には、そのときに触れることができたと思っています。
「タリバンが人気歌手を殺害」のニュースを読んで、パシュトゥーンの人たちがもともと音楽をどのように捉えているのか、その日々のなかで印象的だった会話等をすこし紹介したいと思います。
・スカッとアフガニスタン!?武勇伝として語られた叔父さんのこと。
友人の一人が語った話です。アフガニスタンのどこかの都市?にて、彼の叔父さんがバスに乗ったそうです。すると、バスでは流行歌が流れていました。敬虔な叔父さんは音楽を聴きたくないと思い、バスの運転手さんに音楽を止めるようお願いしましたが、スルーされてしまいました。それから叔父さんはどうしたか?バスのスピーカーのコードを引きちぎり、強制的に音楽を止めさせたそうです。それを勇気のある、善い行いであるかのように、誇らしげに語る友人でした。
・熱心なムスリムの間で信じられている有名なフェイクニュース!?
日本でも、ワールドミュージックを聴く人なら知っているかもしれないNusrat Fatah Ali Khanという有名な歌手がいるんですけど。彼はすでに亡くなられているのですが、彼の死後にまつわるこんな逸話がありまして。埋葬されたあと、墓は荒らされ、その死体は埋葬直後とは思えないほどぐちゃぐちゃになっており、その舌には蛇が巻き付いていた……だったかな?とにかく、そんな感じのエピソードをパシュトゥーンから教えてもらいました。つまり、生前に音楽家であったことが、こういう形で審判の日の前から現れている。これが音楽家の末路なのだ、という話です。しばらく私もこの話をある程度は真に受けていたのですが、最近調べたところ、熱心なムスリムの間で語り継がれているデマだとわかって少し笑ってしまいました。
さて、私は非ムスリムの日本人として、「パシュトゥーンの音楽に対する考え方」についてどう思っているのかというと、かわいそうだなあと思っています。
というのも、彼ら、基本的に音楽が好きなんですよ。日本人よりもよほど、音楽が好きなように私には見えました。仲間で集まれば歌うし、ボリウッド映画俳優のまねをして踊ったりするわけです。カラオケに行かなくても歌えるし、ダンスを習っていなくても踊れる。日本人よりも、よほど音楽との距離が近そうに見えました。
だけど、それは善い行いではないのです。ほめられたことではないのです。
私は彼らに教えてもらった、Nazia Iqbalというアフガニスタンの歌手がとても気に入りました。みんなで、よくYouTubeで歌を聴きました。そんなときに私がいじわるで、「でもこの人も歌なんか歌って、死後どうなるんだろうね」と言うと、みんなきまって「地獄に行く」と言うのです。
そんな気持ちで音楽を聴かなきゃいけない境遇をかわいそうだと思いました。
ちなみに、音楽がなぜ悪者扱いされているかというと、音楽を聴いて興奮状態になっている間、人は神のことを忘れてしまうからだと、私はパシュトゥーンから教わりました。
ただ、私のイスラム教の知識というのは、一応井筒先生のコーランは読みましたが、専門的に勉強したわけではないので、これが一般的な解釈なのかはわかりません……。
そういえば、元のニュースの方のブコメで、「アザーンだって音楽では?」というコメントがあったのを思いだし、少し追記します。
私が住んでいた地域にはQuran TV(QTV)という、ずばりクルアーン等、イスラムの話題だけを扱うチャンネルがありまして。そのチャンネルを観てみると、きちんとヘジャーブをした敬虔そうな女の子がアカペラで歌っていたりしました。これはナアトと呼ばれるもので、Wikipediaでは「Naʽat is poetry in praise of the Islamic prophet, Muhammad.」と説明があります。これは非ムスリムの私にとっては、とても美しいメロディーの音楽に感じられました。
音楽が禁止されているといっても、これはOKなのです。(彼らがこれを音楽だと思っているかはわかりませんが)
同様に、アザーンやコーランの響きもとてもメロディアスなので、日本人が聞くと「音楽は禁止されているはずなのになぜ!?」と思うかもしれませんが、これらは音楽とは別の扱いなのです。
私は上記のようにパシュトゥーンから「音楽を聴いて興奮状態になっている間、人は神のことを忘れてしまうから」音楽は悪だと教わりました。ということは、神や預言者の素晴らしさについて歌うのはOKなんだろうと納得していました。
まずは、すみません。訳が適切ではない部分がありました。「音楽を聴いて興奮状態」の「興奮」は、実際はnashaで表現される、「酔っている、酩酊状態」あたりかと思います。このnashaはお酒に酔っている状態、また、うっとりさせられるような女性の色香的なものにも使われ、「酔って、うっとりしている状態」くらいが、より近いニュアンスかと思います。
aox 死ぬ直前にムスリムへ改宗した場合はどうなるんですかね ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ
上記ブコメを読んで、パキスタン人の男性と結婚した日本人女性から聞いた、こんな話を思い出しました。
当然日本人女性のほうは結婚時にイスラムに改宗済みですが、彼女の親御さんは違います。それを非常に心配に(彼女の親御さんが死後に地獄に行くのを阻止したいと)思った旦那さんは、彼女の親にもイスラムの教えを説き、改宗をすすめましたが、叶いませんでした。
最後、彼女のご両親がいよいよ亡くなるというときも、彼は親御さんに「とりあえずなんでもいいから一言、僕の言うとおり、ラーイラハイッラッラー、ムハンマドラスールッラーラフ(信仰告白)と繰り返して欲しい」と言っていたそうです。
クルアーンこそが神が与えた法だぞ