はてなキーワード: マイナスイメージとは
https://anond.hatelabo.jp/20190718170026
この増田のトラバを読んでもブコメを読んでも、KKOがますます殴られていると思ってしまう。
それで、自分と比べてしまい不幸な気持ちになって、本当の幸せの定義に躍起になってくる。
だから、「それぞれの幸せ」を認めるために、周りの人々に強者に対するマイナスイメージを植え付けたいという強迫観念に駆られる。
でも、ふと思った。
強者にマイナスイメージを植え付けることは「それぞれの幸せ」を否定することであると。
逆に強者をリスペクトしたとしても、弱者を卑しめることには繋がらないのではないだろうかと。
それどころか、強者へのリスペクトという気持ちが、強者のみならず社会全体による弱者へのリスペクトを呼び起こすのではないだろうかと思った。
KKOによるべらぼうな金持ちへのリスペクトが、KKOへのリスペクトを生むということだ。
トラバやブコメのリスペクトを見たときの自分の気持ちを眺めてみてそう思った。
依存症から金を巻き上げたり、法の穴を掻い潜って人から大金を騙し取ったり、枚挙にいとまがない。
べらぼうに稼ぐためには搾取に手を染めなければならないかもしれないという不安に駆られてしまう。
もし搾取に手を染めているのなら、当然リスペクトの対象からは離れてしまうのだ。
KKOとして生きていると、金持ちの世界を知らないためにこのような漠然とした不安を拭い去れない。
そして、自分の活動のベクトルを高収入へと向けることに不安感を感じてしまうのだ。
KKOの中には少なからずこういった感覚を持つ者もいるのではないかと思う。
したがってKKOとしては、願わくば搾取のない世の中を実現したい。
社会貢献度と収入が限りなく綺麗な相関を描くようになってほしい。
友人がネットワークビジネスを始めたらしい。
儲けられないのは分かってるよ、仕事も続けるし
損はしない仕組みだから始めてみたんだ
こういうビジネスに抵抗のない友人を勧誘するつもり、当然無理強いはしないよ
友人はざくざくと砂利を蹴りながら、普段通りすらすらと質問に答えてくれた。インターネットどっぷりの自分とは違ってSNSもあまりやらない友人はそもそもネットワークビジネスの存在を知らなかった。だから、ネットワークビジネスに対する世間のマイナスイメージも知らなかったし、"なにも知らないくせに批判する人々"に対する嫌悪感を露わにしていた。
話の通じない無知な人間に苛立つ友人を前に、最後は曖昧に頷くことしかできなかった。
お節介でしかないけれど、友人が加入したネットワークビジネスについてしっかり調べてまた話してみたいと思う。ハマらないですぐに辞められるなら別に良いと思うけど。
なにか良い方法はないのかしら
そうですよね…なんかつい最近、非常用ボタンは(電車を大きく止めるから・ダイヤも乱れるレベルで的な)押すものじゃないというようなSNSのまとめを読んだ記憶があって、フッとよぎっちゃいました。すみません、思い出してググったけどうまく見つからなかった。
それ読んだ時に「じゃあどうすればいいのか」まで突っ込んで調べておけばよかったんですけど、そんなものか…とマイナスイメージだけ残って、まさか遭遇するとは思わず、というところでした。偽善だとしても、大したことなかったとしても、その時できそうなことをする、できないなら口も手も出さない、なんですねきっと。私の行動に賛同してくれてありがとうございました。
悲惨な事件で一躍有名になった登戸。このままマイナスイメージばっかになるのも残念なので良いところを紹介したい
小田急マジ早い。多摩急行にだって乗れる。千代田線も使えるので都心に出るにはマジ便利
川の向こうが東京都(狛江市)なので、比較して価格は安い。ぶっちゃけ和泉多摩川・狛江・喜多見に住んでまで東京都の冠は欲しくない。マジで不便よ、あの3駅
もう目と鼻の先。ジョギングと自転車趣味の人なら住まない理由がない。毎日走れる環境
何故かある
他にもピザのヒッコリーファーム、洋食の五線紙、量のラーメンハウス、胡散臭い平安郷
意外とグルメな街だ
そんなに行かないけど
結構なんでも燃やしてくれる
公正を期すために悪いところも
車でも行きにくいけど、行く人いるのか?
南武線は基本ポンコツ。意外と遠いし、案外行かない。南武線で行くのは溝の口と稲田堤
基本は新百合ヶ丘。レイトショーだと終電ダッシュ。歩けない距離ではないが、意外と距離ある
川崎と立川は前述の通り。新宿が安牌だが、来月から一斉値上げ。世知辛い
登戸の隣駅にはあるのに登戸には無い。(正確には中野島のは「あった」)
全部隣駅の向ヶ丘遊園にあるので、便利そうで不便。微妙な駅間。だから歩く。
警察署なら良いが、二俣川だと地獄。埼玉よりはマシだろうが、いい加減もう1個くらい作れ。向ヶ丘遊園跡地くらいに
駅前ロータリーと被るが、本来はデカイ道が南武線に沿って小田急側にも走るはずなのだが、頓挫している
ロータリーは多摩川沿いにある音楽スタジオのバンドマンや近隣の大学生でうるさいが、それ以外は21時以降は至って静か。孤独を感じる
多摩川側は車は走るが人は居ない。本当に寂しい
どうしてだろう?良い所より悪い所がよく出るわ
(この日記は、アパシー・シリーズ及び七転び八転がりの現在の状況をある程度知っている人向けの文章です。
全く知らない、という人のため解説を挟んではいますが、分かり辛い点もいくつかあるかと思います。申し訳ございません。)
タイトル「アパシー・シリーズ」とは、1995年に発売されたSFCのゲーム「学校であった怖い話(以下SFC版)」を軸に展開された作品群の事だ。
経緯が少々特殊なのだが、このシリーズは「七転び八転がり」というサークルから今もなおゲームが出続けている。
単純に考えて24年もの間、この「学校であった怖い話」という作品は応援され続けてきている。また来年迎える25周年に向けての動きも出始めているようだ。
尚実際には24年ずっと絶え間なく作品が出続けたかと言うとそうではなく、パンドラボックス(SFC版の制作会社)の経営不振等により2001年以降は休止状態であった。
その後メインシナリオライターである飯島多紀哉氏(旧飯島健男氏)がゲーム制作に復帰しアパシー・シリーズの制作が開始される。
同人ゲーム・小説・グッズ等を数年に渡り販売するも再び休止、数年後また復活……と大まかに言えばこのような流れだ。
また正確にはSFC版及びリメイク作品であるPSのゲーム「学校であった怖い話S(以下PS版)」はアパシー・シリーズには該当しない。
ここまで「学校であった怖い話」「アパシー・シリーズ」は長い間応援されてきたゲーム・シリーズである、という事を記してきたが、実は私自体の歴はそれほど長くはない。
学校であった怖い話を好きになったのはおよそ8年ほど前である。上記の流れで言うと2度目の休止時期に当たる。
最初にSFC版の存在を知り、恥ずかしながら実況動画から入った。その後SFC版をバーチャルコンソールで、PS版をゲームアーカイブスでプレイした。
後々になって「アパシー・シリーズ」もプレイし始めた。人によってはアパシー・シリーズを苦手とする事も多いが、私は夢中になった。二次創作も多少していた。
少なくとも1995年を舞台とした、SFC版と同じキャラクターが出てくるゲームは一通りプレイした。そうでない作品の中には触れていない物もあるため、その程度かと言われればその通りなのだが。
この頃既に休止状態に入ってた事もあり、アパシー・シリーズはもう更新されないだろうと思っていた。
それだけに、2014年小学館から小説「学校であった怖い話 月曜日」及びその作品群が発売された時には本当に驚いた。
更に2018年、他でもない七転び八転がりから同人ゲーム「学校であった怖い話 新生」が発売された時には非常に期待に満ちていた。
知ったときには遅かったと思っていたのに、「ゲームが次々と発売される」という流れをリアルタイムで実感することができるのだと。
上に「少なくとも1995年を舞台とした、SFC版と同じキャラクターが出てくるゲームは一通りプレイした。」と書いたが、厳密に言うとこれは僅かに誤りがある。
現在最新作に当たる「アパシー 学校であった怖い話 極(以下極)」は購入していない。その一つ前の作品である「アパシー 学校であった怖い話1995 月下美人の章 第一巻」も、購入はしたがプレイをしていない。
理由としては、極が発売される前のタイミングでジャンルを離れたからだ。
2019/5/13現在、七転び八転がりは「アプリ開発」を目的としたクラウドファウンディングを行っている。
このアプリ開発こそが、上記「25周年に向けた動き」の中で現在確認できるものである。
https://camp-fire.jp/projects/view/140712
支援額1000万円到達でアプリ開発に着手する他、そこに至るまでの区切りとしてもいくつもの企画が立てられている。
このクラウドファウンディング、またその前後のTwitterや製作者のブログに対し、既存のファン(ここでは暫定的に「学校であった怖い話及びアパシー・シリーズが好きである人」のことを指す)から疑念の声が次々と上がっていったのだ。
具体的にどういった事がありどういった声が上がったのか、明確に記す事はここでは控えさせていただきたい。その理由となる事態については以下に記載させていただく。
ファンの間で不信な声が上がり始めた頃、「問題まとめ」と題し不信だと感じられる事柄をまとめたプライベッターの記事が作成された。
現在は削除されており引用はできない。私も一読はしたものの、詳細には覚えておらず申し訳ない。
またTwitter等ではサークル代表である飯島氏及びクラウドファウンディングの苦言や暴言がちらほら見かけられた。支援しない事を勧める声や、高額なプランで支援した人への暴言も見られるようになった(ただしあくまでこれらは極一部のユーザーの発言であり、多くの人は疑念や不信の声に留まっていた)。
そういった動きに対し、飯島氏は最終的に以下のブログ記事を発表した。
http://plaza.rakuten.co.jp/iijimatakiya/diary/201904120000/?scid=we_blg_tw01
読めば分かるのだが、二次創作に関する記述については全く正しい事が書いてある。二次創作は違法であり、作者がそれを黙認していることが多い。
「学校であった怖い話」を全く知らない人がTwitterでこの記事について言及し、そのツイートには多くの反応があった(所謂「バズった」)。
多くは「当たり前だ」「筆者の言うとおりだ」「このジャンルのファンは何を考えているんだ」といった内容である。
そしてこのブログの内容通り、何人かが「弁護士を介して話をした」という発言をした。その中には上記プライベッターの記事の作成者も含まれている。
補足しておくが、この作成者はれっきとした学校であった怖い話のファンである。この事態の後、極を購入したという旨のツイートもしている。
どころか、苦言や暴言を吐いた人の殆どが学校であった怖い話を好きなファン達だ。
……ただし、これはあくまで上で脚注を加えた通りの意味での「ファン」、つまり作品自体のファンを指す。
この文章で具体例を明記しないのは、こういった事情があったからだ。
プライベッターの記事は、明確なネガティブキャンペーンが行われていた「極端な例」だったかもしれない。
しかし実際起こった事を列挙する際、当然ながらユーザー側の事態は把握できても、サークル側にどういった事情があったのか、どういった対策を取ったのかを全て把握することができない。
そのため「今回起こった問題」を私が書き連ねると、どうしてもユーザー側贔屓のバイアスがかかってしまい、サークル・代表批判と取られかねない文章となる。
今回はあくまで私が「アパシー・シリーズを追うのをやめた話」という個人的な内容の記事であるため、上記の理由により詳細は省かせていただく。
またそういった経緯があるため、現在はなかなか事態が分かりやすくまとめられている文章は見当たらない。
なお、私自身はTwitter等で暴言を吐いたり、クラウドファウンディングに対してネガティブキャンペーンを行ったりはしていない。
匿名ブログでこう言っても信憑性は無いだろうが、つまり「弁護士が怖くて離れた」という理由ではないことを主張しておきたい。
「二次創作がやりたくてゲームをプレイしていたから、その趣味が脅かされるため離れた」という理由でもない。
何故追うのをやめたかというと、「ブログの最後に『黙って去ればいい』と書いてあったから」である。
今回飯島氏がブログでこのような発言に至った理由は何故だろうか。
飯島氏の言う「自称ファンだがこちらはファンだと認められない人物」が増えすぎて、個々人に対処しきれなくなった、
もしくはそういった暴言に耐えきれなくなり強い語調のブログで拡散せずにはいられなくなった、等色々考えられるが、これらはあくまで憶測に過ぎない。
ただ結果として、この記事は「自称ファン」のみならず普通のファンの一部にも圧力を与えてしまったのではないだろうか。少なくとも自分はそうだ。
自分は正直、「学校であった怖い話」及び「アパシー・シリーズ」のことは好きだが、飯島氏に対してはそれほど良い印象を持っていない。
そもそもの考え方として「作者と作品は分けて考えられるべきであり、作品が素晴らしいからといって作者まで好きになる必要は無い」と思っていた。
勿論良い印象を持っていないからといって暴言は吐いていないし、素晴らしい作品の作者であるという点に置いては尊敬の念があった。
しかし、どうにも飯島氏の諸々の発言及び行動においては懐疑的な目を持ってしまっていたのだ。
上記ブログ記事を読んで、区切りがついた。「ならば自分は黙って去ろう」と思った。発表していた二次創作作品は全て取り下げた。
純粋に怖いと感じた。こういった思いを持っている以上、私も少なからず敵意を持たれているかもしれないと思った。
……そう思うと、私みたいな人間も「自称ファン」の一部であっただけなのかもしれない。
あの記事は、二次創作はしておらず、尚且飯島氏の事も悪く思っていない人にとっては、特に疑問を持たない当然の内容なのだから。
重ねて言うが、飯島氏の二次創作に関する主張は正しいだろう。私だって、自分のことを嫌いな人に自分の創作物を弄られたくはない。
そのため、私は深く反省した。作者に懐疑的な目を向けながら8年間、その作者の制作物で二次創作をしていたことを恥じた。
そうして私は学校であった怖い話やアパシー・シリーズから離れることにした。
しばらくはこの事を思い出してしまうため、SFC版含め過去のゲームをプレイする気も起きないだろう。
未練が無いとは言わない。未練が無かったらこんなお気持ち表明文は書かない。
気持ちを整理するため、このような文を書かせてもらった。
最後に、この日記は決して「作者に少しでもマイナスイメージがあるなら二次創作をやめろ」という主張をする物ではない。
私の場合は今回語った事態が一番のきっかけであったが、「飽きを感じ始めていた」等他の理由も少なからず存在する。
あくまで「そういう人間もいた」という自分本意の語りであって、他人に強要するものではない。
私は現役東大生だが、
「現役東大生だが、上野千鶴子の祝辞はゴミだと思う」(https://anond.hatelabo.jp/20190413114026)に反論を試みたいと思う。
ここには上野氏の祝辞(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html)がほとんど引用されていないので、論旨が追いづらいかも知れないが、読んでくださる諸氏にはご容赦願いたい。
以下、引用中略は[……]、上野からの引用は「」、上記はてなからの引用は四角い枠と “ ” 、私自身の強調は[]で示した。
↑ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?
この後に述べられている通り、「医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、何らかの説明が要る」。そして平均としては確かに1程度である(女子は医学部にだけ特別に入りにくい)ので、他の大学より遥かにマシだとはいえ、このデータには読み解くべき何かがあることになる。
↑ここまでの話をまとめると、私立大医学部ではどうやら不正な入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等な入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大の医学部の問題[……]で、東大の入学式の祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?
東大は(権利問題として)特権的な学府ではなく、他の最高学府と並列の、ただの[大学]だ(事実問題は置いておいて)。だから、他の大学の話は、東京大学という固有名において確かにそれだけ関係が薄いし、しかし大学であるという点において強く関係している。他の大学との交渉も避けられない状況、そして例の不正が、入学試験という、どの[大学]にもある制度に於いて発生した不正である、ということに鑑みると、やはり他大入試の不正は無関係であるとは言えないだろう。
↑ここ統計データを示せよ。なんで女子が差別されてる話は具体的な数字出しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字出さないんだよ。
これは、追記
(https://anond.hatelabo.jp/20190414151912)
により推察されているとおりだと思う。
女子学生の偏差値のほうが上だというのは、東京大学の受験者を母集団とした時の偏差値のことで、偏差値の正規分布に性差はないというのは、母集団を全体とした時の話である。そのくらい、現役東大生なら読み取りましょう。
大学進学率の男女差の原因分析は、統計一本では不可能だ。たしかに、その差が統計的に有意かどうか示されていないのは穴かも知れない。原因が性差別によるものだということも、根拠は示されていないのもそのとおりだ。だが、それは先にも指摘したように統計のみによる分析ではない。他の統計やフィールドワーク、社会学的な先行研究などを踏まえて、より厳密な研究において慎重に示されたものだろう。それが省略されたものだと読むのが適切だろうと思う。
まあ、なにか根拠を示して欲しいとは思うが、そこは論文を読めということを世論に誘導しているのだろう()。
そう……彼女はここに於いてことごとく結論を省いているのだ。それを私が補うこともできようが、それは実に恥ずかしいのでしない。とにかく、その空隙はみな、彼女の策略だと読むことができる。……できる、というのが曲者であり重要で、テクスト読解における著者の意味論的意図をどう扱うかという問題に繋がるのだが、とりあえずここでは、そのように[読める]ということはそのような解釈を受け入れて良いと言うことでもあると述べておこう。
↑てか普通に考えたら 第一:女子は安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ
ここは正直、言っていることがよくわからない。第一及び第三を原因として第ニは導き出される、ということを言いたいのだろうか?それを指摘すれば丁寧だったかも知れないが、特に指摘する必要はない。
ここで示されているのは、①女子は安全志向(ゆえ男子と比べ偏差値的の高い人が東大を受験する)、②女性比率が二割以下であり、偏差値の高低に性差はないため、男子と比べ(略)、③女子は男子より四年生大学進学率が低く、大学受験自体への逆風がある、ということだ。追記にある、③への疑問はもっともで検証は必要かも知れないが、大学進学をdiscourageする気風がある中で尚、東大進学を果たす人の集団がそうでない人の集団に比べ優秀であると推測するのはそう不自然なことではない。
東大の「1.03」という数字に不正の影を見るかどうかはわからないが、少なくとも医学部に女性を入れにくくする何か(不正に限らず)が働いている、と疑いを抱く読み解きはおかしなものではないだろう。
↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。
確かに論理的にはそこからそれは導き出せないが、これは論理的な筋を追う文章ではなく、レトリックとして、別の事例に於いてしかし同様の自体が起こっていることに結びつけ、全体の帰結を引き出している、ある種の帰納的な修辞だ。繰り返すように、これは論文ではなく演説である。
↑どうやって?
確かに画一化。まあしかし東大男子が全体の傾向として異性にアトラクティヴなものとして映るというのは間違いではないように思う。
男子大学生は東大生であることに誇りを持っていることは傾向として否定できないと思いますけどね。
統計的傾向は個人を説明し切ることが出来ないが、かと言ってそれ自体を否定できるものではない。
そもそもここでの画一化は突然ではない。初めから、男女という、大きな別々の傾向性を持つ、二つの、緩やかな集団の話をしている。
〜同様のため中略。極めて不毛。〜
↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ[……]が正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。
[どのように]見られているか明確に言わない、というのはやはり演説的(というか普通の意味で)レトリックであろう。文学に於いて、全てゴテゴテ説明したら品がないし衝撃を薄めてしまうのと同じかと思われる。
高学歴男性批判なのだから、『彼女は頭が悪いから』における見方に一定の価値を置いていることは明白であるし、“性への圧”をかけていることを批判しているのだから、その抑圧的な側の“性への圧”になるのは当然だ。“圧”をかけねば批判できないのだから。
↑男子サークルって書き方からして完全に男子を悪者にしてるけど他大学の女子が競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能性だってあるだろ。性差別か?お?
そのような事例は、全体の傾向からして少数派であると判断したからだろうという反論と、他大女子がそのような行動をしているというのならば、やはり女子は勉強が出来ると魅力が減るという偏見の存在を証明することになるという反論の二つが想定できる。
原因ではなく、東大に於いて性差別が存在していることを、別の形での表出を例示することで補足的に示している。
“時代性が交絡するようなデータ”というのが何を指しているのかよくわからないが(学部などの学内女性比率のデータと、学部長などに女性が極めて少ない上東大総長に女性がいないことを示すデータ、という2つがあることか、それぞれのデータが何年度の調査であるのか示されていないということなのではないかと思う)、両者は比較されていないので、双方共に有効なデータであれば問題なし。
これも文意がうまく取れなかった。
上野氏の話の内容が“祝辞で喋る”のにふさわしいかどうか、というのであれば、個人のスタンスによると思うので割愛。私の意見を結論だけ言えば、全く問題ないと思う。……少しは気の毒と思うけれど。素朴な親御さんにとっては。
↑これ普通に気になるな
気になりますよね。
闘ってきた、ということは事実の記述。恵まれた環境がそれを支えてきたかどうかとは別の問題。もちろん、その闘争も、努力のみならず、阻害しない環境が最低限整っていたというのは間違いないと思う。
不正入試だけではなく、大学における女性差別という[がんばってもそれが公正に報われない社会]がある、という話。
加えて、それでも、努力が[東大合格]という結果に対しての最低限、報われる環境という必要条件を満たしていたことは、観測選択効果により論理的に明らかである。
↑これはまあそういう意見もあるよね。
そうですね。
↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?
第一ブラックホールの観測は、恵まれない人々を貶めない。むしろ間接的にではあれ勇気を与えることもあろう(嫉妬深いポスドクを苦しめるかも知れないが……)。
この言葉は決して、能力の使途範囲を積極的に規定しようとするものではない。「弱者」を貶めるために使うな、と言っているのだ。そうしなければ、差し当たり何に使っても構わない。「弱者」を助けるため[だけ]に使えなどとは言っていない。
そして、ここは確かに難しいところだが、社会的「強者」である東大生が持つ、大きなリソースが「弱者」に分配されれば、社会状況は良い方向へと一歩進むだろう。そのためにも、その力を「弱者」のために使ってほしいと、[お願い]しているのだ。命令でも、べき論でもない。これは[自由意志]に訴えるしかないのだから。
結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?
おそらく全ての人は、あるところに於いて「強者」であるとともに、また別のところでは「弱者」である。絶大な権力を持つ政治家は社会関係の多くの場面で「強者」だが、病院に行けば脆弱な身体を医者に晒しているかも知れない。東大女性だって、社会通念に於いてはそれが負の属性であるかもしれないが、知性を持つという事実に於いて「強者」でもある。「弱者」というのはここでは女性という属性のことだけではない。みなが持ち、みなが足蹴にする可能性のあるものだ。
↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?
[「弱者」である]ということは差別を受けるということと等価ではないだろう、当然。分かるよね?
……付言するなら、「弱者」である自己を否定否認して「強者」に成り上がることだけがこの社会に生きる唯一の道だというなら、それは極めて殺伐とした恐ろしい世界だということだ。相対的に見て、ある能力に乏しい存在であるということは、[悪]を意味しない。そもそも、能力の優劣自体も、極めて価値論的な事態なのだから。
総評として、全称記号と任意記号の恣意的な混同によってデータを自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。
はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点からの評価のつもりでも、科学の世界を脅かすありふれた権威主義の愚か者の集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。
統計的根拠を一々述べ立てるアジなんざ、アジとしての役割を果たすわけないのだ。全称命題と存在命題とを断りなく混在させているのは事実だが、どれがどちらかというのはきちんと読み解けば理解できるものだし、そこで意味されている内容も至極真っ当なものばかりだ。根拠が常に明示されているということが学問の第一条件ではないし(科学的方法論に於いては絶対かも知れないが、それでも初めは根拠の見当たらないところから探求はスタートするのである)、目の前に立っている人間がいつも親切に根拠を示してくれると思うなら、それは歩行器に頼り切って自分は歩けると錯覚してしまっている憐れな赤ん坊でしかないだろう(そんな自意識的な赤ん坊はいないけれど)。
それに、学問的営為が実践と不可分であるような領野などいくらでもある。工学は社会実装を常に見据えてあるだろうし、医学や看護学や臨床心理学などは常に目の前に他人がいて、それにどう働きかけるかという視点がなければ成立しない。クローズドスキルだけでは学問は成り立たない。倫理学者が、平気で己の立てた操に反しているならば、それこそ非倫理的だろう。厳密にいうならば、程度の差こそあれすべての学問は日常に接続しているはずなのだ。そもそも、このスピーチは学問的に水準以上の盤石さの上に成り立っているものだと思われるわけだし。
権威主義を警戒する姿勢は全く健全なものであるが、目先の手触りのザラツキに神経を逆撫でされて走り出してしまうのはいただけない。きちんとテクストを読み解いてから、非難に当たるべきだろう。そのようなあり方こそが学問的な……という以前に、真摯な姿勢による対応だと思われる。
↑ 「統計的に有意でない」というのは「差がない(=平等)」という意味ではありません。
↑意味不明
↑「医学部とそれ以外の学部で女子の入りにくさに差があるというのには、何らかの原因があるのではないか」ということ。「背景にもっと大きな差別問題はある」からこそこの祝辞は東大の入学式にふさわしい。
↑「女子が男子より優れている」とは言っていない。「女子の合格率が男子のそれより低いのは、女子が男子より劣っているから」ではないと言っている。
↑そうですね。
↑「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」はつまり「翼を折られなければ羽ばたけたはずだった」ということ。
↑突然も何も、祝辞の最初から女子学生・男子学生を一般化して取り扱ってきたでしょう。 性差別を批判する文脈では当然です。
とは言え「東大の男子学生がもてる」という言い方も差別的だというのはそうだと思います。「イカ東」みたいな言葉もありましたし。
↑東大の男子学生は「他大の女は頭が悪い」と思っていそうってことでしょう。ここの部分で何を言いたいのかは僕もよくわかりませんでした。
↑実情を知らないようですが、そんなことはありません。東大女子が入れないようにしているのは東大男子です。
これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。
学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。
↑東大のオフィシャルな場で東大批判をするのがいいんでしょう。「東大合格おめでとう!東大万歳」なんて祝辞気持ち悪すぎます。
↑確かに
↑第1人者を自称しているんですから、そうなんじゃないですか?
学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。
言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。
あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。
↑私立医学部の入試不正なんて差別の一例に過ぎないってことでしょう。
↑「がんばっただけでは報われなかった。まわりの人や環境に感謝しましょう」ということでしょう。こういう趣旨の祝辞わりとよく聞きませんか?
あと毒親から逃げてきた人もいるかもしれませんが、ごく少数でしょう。この祝辞は最初から最後まで「大多数の」東大生に言及しています。
↑そうですね。
↑そういう人たちを助けてやれってことだよ!
↑そんなことは言ってないでしょう。ここでは「恵まれない人々を助けるための学問をやれ」ということではなく、どんな(分野に進もうとも)周りにいる恵まれない人々のことを慮る人間になれということです。たとえブラックホールやニュートリノを研究しようとも。
↑東大生には弱者もいるし恵まれた人間もいるということでしょう。またある面では恵まれていても、別のある面では弱者ということでしょう。
↑ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?
↑こっちのセリフだわ
↑ここまでの話をまとめると、私立大医学部ではどうやら不正な入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等な入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大の医学部の問題(もちろん背景にもっと大きな差別問題はあるのだろうが)で、東大の入学式の祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?
↑ここ統計データを示せよ。なんで女子が差別されてる話は具体的な数字出しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字出さないんだよ。
↑これどういう意味だよ。偏差値の平均は女子の方が上ってさっきお前が言ったんだろ。
↑なんで親の性差別って断言してるんだよ。統計どこ行ったんだよ。
↑並列された三つの主張から導き出される結論は何だよ。ちゃんと言えよ。
↑てか普通に考えたら 第一:女子は安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ
↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。
↑どうやって?
↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ持たれてることはわかるが、それが実情に反して不当ということならレイプ事件の話持ち出す意味がわからないし、そのイメージが正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。
↑男子サークルって書き方からして完全に男子を悪者にしてるけど他大学の女子が競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能性だってあるだろ。性差別か?お?
↑その原因が東大内の性差別という意味?だったらこんな時代性が交絡するようなデータじゃだめだよね?
↑これを祝辞で喋る意図が明確になるように主張のギャップを埋めて欲しい。
↑これ普通に気になるな
↑後述の話を先取りするけどお前のは恵まれた環境のおかげじゃなくて努力の成果なのかよ。
↑そこ断言するの流石に祝辞としてダメだろ。毒親から逃げて東大来たやついるけどそいつにこれ言えんの?
↑これはまあそういう意見もあるよね。
↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?
↑「環境と能力に恵まれた東大新入生はそれを恵まれない人々(=弱者)を助けるために使いましょう。」と述べた後で「弱さを認め生きましょう、フェミニズムは弱者が弱者のまま尊重されることを求めます。」と締めるの、結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?
↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?
総評として、全称記号と任意記号の恣意的な混同によってデータを自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。
はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点からの評価のつもりでも、科学の世界を脅かすありふれた権威主義の愚か者の集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。
新しい元号の選定と発表まで間もなくとなりました。
ネットやテレビでは「安の文字が入るのでは?」という意見もわりと見かけるのですが、結構「入れられない」大きい理由があって「安」の文字はまず入りそうもないという事を今回書いてみたいと思います。
一つ目の理由でかつ「安」の文字が入りそうにない一番大きな理由として、「直後の統一地方選挙への影響があまりにも大きすぎる」というのがあります。
本当に意図的な物ではなくたまたま「安」の文字が入った場合でも、世間一般の人は「やっぱり安倍首相は自分の名前の中の一文字を元号に入れたんだろうなぁ」と疑ってしまう人はかなり多く出てきてしまいます。
元々安倍首相に好意のある人ならともかく、安倍首相が嫌いな人はそう考えるでしょうし、好きと嫌いがコロコロと変わってしまう層(これが一番多い層だと思います)は、元号に安の文字が入った場合、「最終的に複数案の中から元号を選択したのは安倍首相本人だから、やはり自分の名前の中の文字を元号に入れたかったんだろうなぁ」と考えてしまうのは、ものすごく普通の事だと思います。
良くも悪くも、元号の中に安倍首相本人の名前の中の文字「安」「倍」「晋」「三」が一つでも入ってると、かなり多くの人がそう考えてしまうと。
それだけですんだらいいのですが、元号発表後まもなく各地で統一地方選挙の投票が行われます。
この時自民党の対立候補者達はどのような行動に出るでしょうか?
当然ですが、選挙演説ではこの元号の事で「安倍首相は森友加計問題の時のように、元号までもまた私物化している」と言い出すのはもう誰でも想像がついてしまいますよね。
そして「そのような人物が首相をやって、好き放題させてしまっている自民党をあなたは支持できますか?」とも。
森友加計問題の時は、「政治の私物化だ」という事で、一時的であれ支持率が大きく下落しました。しかも結構長い期間支持率は下落したままでした。
元号の中に安倍首相の名前の中の文字が入ってると、自民党の対立候補者達はいっせいに「また私物化しているぞ」と言い出すのはもう目に見えていますし、「そういう人物に好き放題させている自民党を応援できますか?」とやられると、有権者の中にはそれで流される人も結構多く出てきてしまい、統一地方選挙の自民党候補者たちにとっては大きな逆風が吹いてしまう事になります。
実際に統一地方選挙における有権者の投票先もそれで大きく変わってしまいます。
元々安倍首相に好意的で、「安が入ったのもたまたまだろう?」と考えている人ならともかく、そうではないかなり多い層は、「やはり元号を私物化しちゃったのかな?」と考えてしまい、統一地方選挙では投票先の選定にもかなり影響が出てきてしまいます。
選挙は「その時のイメージ」で投票先を選んでしまう人がわりと多く、この数多い浮動票が一気に自民の対立候補者に流れる事になり、自民党候補者達にとっては死活問題になりかねません。
この事を自民党上層部が予想していないはずはなく、その点でも「森友加計問題の時のように私物化だと騒ぐ人間が出てきて、直後の統一地方選挙の自民党系候補者達の大きな不利になりかねないので、元号に安倍首相の名前は入れさせない」と、自民党幹部達からも安倍首相にくどいくらい繰り返し念を押しているはずです。
そもそも安倍首相本人も、森友加計騒動の時の「私物化だ」と長い間国会やマスコミに突き上げられて、支持率も長期間大きく落ち込んだのには、もう本当に心底うんざりしているはずです。
「ああいうのはもう二度とご免だ」と。
わざわざ元号に自分の名前の中の文字を一文字でも入れて、それで野党や反安倍の人間にまた「私物化だ」と長い期間やられ続けるのを安倍首相が選択するかというと……。
よほどのマゾか、極度の馬鹿でない限りまず考えられないですよね。
元号に「安」の文字は入らない理由その二としては、「反安倍どころか、親安倍で日本の伝統を重んじる(怖い)保守層が絶対に黙っていない」「保守層の支持を大きく失う事になりかねない」というのがあります。
自民党を長年支持してきたかなり純度の高い保守層(中には怖い方もいる)は、「安倍首相を持ち上げたい」のではなく、「日本の伝統を守ったり、改憲を実現できそうな人物をとりあえずサポートしたい」という感じで安倍首相を一時的に支持しているにすぎません。
ところが、その首相が元号を私物化したかのように自分の名前の中の文字を入れたらどうなるでしょうか?
日本の伝統を重んじる方達こそ「許せない」と猛烈に怒り出すのはもう目に見えています。
そういう『怖い』方達が、「首相が元号を私物化した」と思うと、「・・・・お前、一体何やっとんのや、こら・・・」と一気に気色ばむ事になりかねない。
それまでニコニコと安倍首相を支持してきた人達でも、急に態度を変え、「てめぇ何やっとんのや?」「ふざけとんのか、こら?」となり、それまでの支持を掌返したようにやめて、いろんな安倍首相に不利な情報を流し出して、別の自民党議員への首相のすげ替えをやり出しかねない。
安倍首相自身それを理解してないはずがなく、「味方になったら頼もしいけど、敵にまわすと心底恐ろしい方達」の機嫌を損ねるような事をするかというと…。
最後の理由として「安という文字は、良いイメージもあるが、一般の人にとっては悪いイメージもかなり強い」というのがあります。
安という文字は「安心」「安全」「安らか」というイメージもある一方で、「安値」「安売り」「株安」など、悪いイメージがわりと強い。
「光」みたいにプラスのイメージしかない文字ならともかく、マイナスイメージも結構多い「安」という文字は、実際に過去に元号に採用された事もあったものの、今の日本のあまり先が見えない状況では「マイナスイメージがある文字はできれば使いたくない」という事で元号には採用されにくいと思います。
こんな感じで、三つの理由から「安」の文字は次の元号では採用されないと。
最後にちょっとネタばらししてしまいますが、実は一つ目の話は私が考えたのではなく、去年年末に自民党の後援者の方に聞いた話を元に書いています。
何十年も自民党の後援者として頑張っておられたその方とは去年末にお話する機会がありました。
ただの酒の席ではありましたが、やはり来年(今年)の改元や統一地方選挙の話になり、その時に「元号に安倍首相の名前の文字を入れると、それで自民を叩きだす人間が出てきて、直後の統一地方選挙で一気に自民党の対立候補達に票が流れかねない。来年(今年)の地方選の立候補者達側からも自民党上層部には「くれぐれも元号では間違った対応をしないように」と念を押して押して押しまくっていると聞いている」と語っておられたのです。
さすがに地方統一選挙の事をすっぱり忘れて元号に安倍首相が自分の名前の中の文字を入れてしまい、それで直後の統一地方選挙で自民党系候補者の落選続出となると、「自民党上層部は一体何を考えているんだ!!」と内部から激しい突き上げを食らい、安倍首相の党内での支持率が一気に落ち込む事になりかねないので、次の元号に「安」の文字が入る事はまず無いでしょう。
結局、元号がいざ発表されてみれば、「安の文字が入るとか騒いでたのは一体何だったの?」みたいな、そんな感じで終わってしまうと思います。
最後に、個人的にわりと適当に元号を予想すると、「光」や「輝」など、今の先の見えない日本を少しでも明るくしてくれるような「プラスのイメージしかない文字」を一文字と、それが少しでも長く続くようにと、「永」「久」「長」のいずれかの組み合わせが次の元号になるんじゃないでしょうか。
フクマの存在は市役所の人間たちも知るところであったが、草の根から花が咲こうとしているのなら穏やかではいられない。
「市長、近隣でフクマという人物が、演説をしているのはご存知ですね? 彼が、次の市長は自分がなると宣言しました」
「え? 何ですか、それ」
学校の委員会みたく「やりたいという人間がいるのだからそいつにやらせよう」というノリで決まったのが今の市長なのである。
他に市長をやりたがる者が誰一人いなかったため、これまで必然的になっていたに過ぎない。
「この町の掟らしいです。立候補者が出た以上、しっかり選挙戦をしなければなりません」
「それで……私は一体どうすればいいのでしょう?」
「……投票の期日までに、何かやれることをやりましょう」
こうして俺たちの町は、久々に市長を選挙で決めることになったんだ。
前半戦は、フクマが大きく有利といえた。
『現市長は無能です。例えば『超絶平等』。社会における平等という概念を拡大解釈し、無理やり人々の足並みを揃わせるという無意味な政策でした』
「そうだ、そうだ!」
今まで市長がやってきたヘマを挙げて、彼が如何に市のトップとして不適格かということを述べていくのである。
やや悪意と脚色の混じる主張ではあったが大本は事実なため、市長に対して不満のある人たちの心根をくすぐった。
対して、市長も自身の理念を語っていくが民衆からの評価は芳しくなかった。
「ざけんな! あんたの言ってる“差別のない社会”ってのは、普通に歩ける人間に松葉杖をつかせることだろうが!」
演説の内容は彼が普段からやっていることの延長線上でしかなく、逆にフクマの市長批判を裏付けるものにすらなっていた。
更に市長には選挙戦のノウハウもなく、周りに適格なアドバイザーも存在しないという状態。
それはフクマも同様だったが、市長のこれまでのマイナスイメージが大きなハンディキャップとなっていたんだ。
市長側が選挙活動で何をすればいいか右往左往している間に、フクマはどんどんリードを奪っていった。
「むぅ、フクマという人物。富裕層でもないのに何であそこまで活動資金があるんでしょう」
「どうやら支持者が彼に投げ銭しているようですね」
「そんな金あるなら、税金ちゃんと払ってくれればいいのに……」
そんな事態を一市民の俺はどう見ていたかというと、漫然と澄ました顔で見ていた。
明け透けに言うなら、政治のことがよく分からないのでどうでもよかったんだ。
この町の歴史の1ページに載るであろう出来事だとは思うんだが、選挙ってものにイマイチ関心がもてない。
総体的に見て一人一人の一票や、それに対する意識が大事というのを理屈の上では分かってるんだが、どうにもピンとこなかったんだ。
ちなみに投票権のない弟はというと、圧倒的にフクマ支持者だった。
「だって市長の『親免許制度』のせいで、俺たち家族は数ヶ月間バラバラだったんだよ。市長に投票なんて有り得ないね。兄貴だってそうだろ?」
「まあ、それはそうなんだがな……」
フクマの言うことには頷く部分も多いが、それが彼を支持する理由にはならない。
弟は政治の理解度がメロス並だったので、その分別ができないのだろう。
だけどずっと感情的になっていても仕方がないだろう。
政治のことばかり考えていれば生きていけるわけじゃない。
市長が誰になったところで日々の勉強が捗るわけでも、シーズン毎の休みが増えるわけでもない。
食べる飯の味は変わらないし、バイトは楽しくないままだ。
秤に乗せるまでもなく、俺の日常にそれを思考する余地はないといえる。
だから俺はごく個人的かつ意識の低い理由で、投票する権利を放棄するという権利を行使するつもりだった。
ハーフという呼び名はネガティブだからダブルにしよう、という働きがある
私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ
そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも
少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフの言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツをベースとし残り半分の割合を指すものがメディアで目にするものも含め一般的なものであるように思う
同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプルで客観的で図式的な概念であり、本来の単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い
ダブルへ繋げる論拠として
あるいは血統主義から一方の国、この場合は日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す
正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う
先にクォーターをハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ
彼ら、彼女らの言うネガティブさである単語からのマイナスイメージで言うならクォーターはハーフより印象は悪い
ハーフが半人前ならクォーターは人間が四分の一しか出来ていない、となる
ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合、単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない
繰り返すが言語的な用法としてハーフとクォーターは現実として連なっている
ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない
クォーターに通じない論理でハーフを解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える
だがダブルの法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合の意味での用法ではなくなってしまう
それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーターは日本とアメリカのダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいてしまう
単純にハーフの上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない
だがなぜかそうではないのだ
単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフを否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない
そもそもこのハーフに対する話は日本の和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス的言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米で一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた
ただ日本のように単語自体にルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名や民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい
またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味にネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った
ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった
そういえば以前テレビ番組でハーフはネガティブだからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフのアメリカ出身の女の子がアメリカでも普通に使う、言葉自体にネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した
ダブルもハーフも海外で通じる通じない、という日本のガラパゴス的意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった
略さないのであれば、また略さないそれがそのままダブルの意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフに否定的になる理由はない
ならなぜダブルなのか
調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフやクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本でミックスを表現として使っている人も既に少なからずいるようだった
特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った
言葉としてハーフやクォーターと平行して組み合わせる事も可能で汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体にルーツの意を含ませる事自体も、ハーフやダブルと比較すれば難しくはないらしい
言語的にも、日本のガラパゴス的言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる
違う言語圏から見て、初めて聞くハーフというその言葉はネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う
そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう
そして誤解とはいえ、ネガティブな枠で自身が定義される、それ自体への拒否感も理解できる
だがその場合ハーフという言葉に言語として、用法としてのネガティブさは認められない
問題は日本独自の略語、和製英語が生む対外的な混乱による認識の差異、ただ1点だ
単語として、ハーフを基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える
実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフのマイナス面が語られ、ダブルのポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的なものに留まり、ハーフが差別的である、ネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ
ハーフのマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う
そもそもダブルが持つとする言葉のポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフのマイナス面を示す事でのあくまで相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う
賛同している多くもハーフのネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある
それにしてもダブルを肯定するという事は当然過去遡って差別的、ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしまう
そのポジティブさはハーフという言葉に相対的犠牲を理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と
確かに現実としてハーフという言葉にナショナリズム等から悪い意味をのせる人間はいるだろう
しかしそれは今の通例としての言葉の概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれたレイシズムにその他大勢の人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実の用法とはかけ離れるレイシストの意図をその文化圏の象徴のように語るのはそれ自体が差別的であるように思える
その上でネガティブな印象に受け取るのは個人の選択であり、本来の意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間の人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない
自身の自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する
それら全部分かっていてもハーフという言葉をネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉で自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする
だが、それはあくまで自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う
「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的でしかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る
そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない
その人間の意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定を理由にした小さな悪意であり、自尊心やアイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない
その人が言葉に持たせた意図やその言葉の意味でなく、ネガティブだと捉えた自身を根拠にポジティブになるためにその相手に非難めく
近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う
少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュアの男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た
そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた
画像の男の子は大和撫子とパリジャンのダブルだから、という言い方をしていた
もしかしたら設定として、その男の子は日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない
そんな可能性を示す、そこには何の異議もない
実際そのダブルは和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた
現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう
だが、これはアニメだ
この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉の存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う
女の子が口にしたハーフ=ルーツの意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語の用法そのままの意味でダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較をハーフとダブルの印象へと繋げる
先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂でしかない
そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身のルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフを使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える
だが、そこで略語としてのハーフを否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ
もしこの男の子がハーフがルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現であると理解しているならどうだろう
その場合、その子はハーフと口にした女の子を差別的な要素をも含むネガティブな言葉を無自覚にでも使った人間であると意識の低さを指摘し、また同時に相手の意図より自分が思う言葉の意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる
そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ
言葉としての意義に悪者であるハーフを否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ
これはあくまで仮の話ではある
だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実だ
そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ
今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュアの男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現も本来のダブルという単語の用法のひとつとして使う時が来るかもしれない
だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う
女はトロフィー、アクセサリー扱いされることは忌み嫌うくせに、外見レベルの向上(自動的にトロフィー、アクセサリーとしての価値も上がる)に余念がなく、その変化に気付かれないことに不平不満を述べるというのはいささか自分勝手であると感ぜざるを得ない。
表現のしかたや程度の差こそあれ、男は誰でも「トロフィー」「アクセサリー」を手にしたいものなのだよ。
手にした自分と価値ある相手を、どこまでも誇りたいものなのだよ。
「女をわかっていない」などと憤る女ほどな。
それは媚びることでもなんでもなく、上手に生き抜くための女の知恵であり知性である。
そしてそのような知性的な女こそ、男どもが最も好むタイプなのだ。
こんなにも価値のあるトロフィーワイフってすばらしいと思うのだが、どうも多くの人はマイナスの意味で用いているようだ。
単にトロフィーを手にすることができた男が、トロフィーとしてまんまと社会的地位や経済力に溢れた男をつかまえられた女が、妬ましくて創り出しただけなのではないかという気さえしてくる。
解せぬ。
政治の話。
もともと安倍さん支持派だったんだけど、何故か統計問題で官僚庇ったりとか見てると流石にどうかなと思ってるんです。
いや、任期延期した時点でどうなのよと思ったりもしてたので、違う党に票を入れたりしてたけど、一向に変わりそうにない。
それで、何がこんなに支持されているのか。なんで野党がこんなにも支持されないのか。
もちろん過去の政策とか色々あるのだろうけど、自分も思うところはいっぱいあんですが、そういうのをひっくるめて考えてたら
野党は批判するのを止めたら支持率上がるんじゃないだろうかと思うわけです。
なぜそうなるか。
世の中って政治に疎い人が多くて統計の問題でもあれってマジでやばいのにやばいって思ってない人が多いと思うんです。
そんな中、批判を強めるのはもちろん必要だし多いにやってもらいたいのだけど、興味ない人間から見たらどうでもいいと思っちゃうんです。
人が罵ってる姿って同意を引けないと思うんですよ。
もちろん、自分が理解できることで批判してたらその効果は大いにあると思うんですが、いかんせん理解できないこと
興味ないことで怒ってる人と怒られてる人がなんとなく怒ってる方にマイナスイメージを持つものだと思うんですよ。
それにここ数年、あんだけ批判して怒っても何にも結果がでてないじゃないですか。
テレビなどのマスコミも批判してるところ放送した方が視聴率とか世間の注目を集められると思ってるみたいですけど
みんな、多分もう飽きて、またやってるって思うぐらいです。批判すればするほど逆効果。興味なくすだけ。
そこで、押してだめなら引いてみろと。
つまり、もう批判するの止めて対案なり、自分たちの考えついた政策をバンバン言ったらどうなのかなと。
今の政府が何してもどうせ、数の差で通るなら、そんなもの無視して自分たちのより良い案を提示するんです。
マスコミも批判するんではなくて、こっちの法案良さげですよ~って放送するんです。というか、批判がなければそれを放送するしかないですよね。
そうすると、自分に利益ありそうなことが宣伝されてたら興味持つと思いませんか?
よくわからない法案止めるより、いい法案を提示するって方がわかりやすいと思いませんか?
この考え甘いですかね。それとも野党に期待しすぎですかね。
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
ヒプマイ見ててヒプマイ民の人らが公式について行けないなら離れろって言われている。つらいし可愛そうだ。
私も過去同じような、というか何らかのジャンルにはまったことのある人は誰だって経験があるんじゃないだろうか。
公式が出している情報が全て。それが正義だし正しいのはもちろんわかる。
公式にしてほしかったものをしてもらえなかったとか、自分の要望通りにならなかったとか。
でもそれは解釈が違うのではなく、要望通りにならなかったというのが正しい。
だって公式は矛盾や塗替えを簡単に行ってしまうことがあるから。
創作においては面白さが一番優先されるべきもので、矛盾ひとつないけれどあまり面白くないものよりはそちらのほうがいい。
多少の矛盾や辻褄合わせ程度なら気になることはないだろう。
ただそれがなんの意味もない変更だったらどうだろう。例えばとあるキャラがいつも身につけているネクタイの色に理由があったとする。
ネクタイの色について非常にシリアスな理由でキャラの設定に深みを出す過去があったとする。(誰かを偲ぶための喪服とか忘れないための色とか)
まるごと好きになったファンからしたら、その理由と過去こそキャラそのものだと感じる。ドラえもんとのび太はセットでいるように、この2つが合わさってそのキャラという存在があるのだ。
けれど公式からだしているもので、その設定がなかったものにされたらどうだろうか。
それまでずっとその設定のそのキャラだったものが変更される。スピンオフとかあまり公式からチェックが入ってないとか、そんなものだったらまだ救いだろう。でも作者とか編集とかその人達からこのキャラのその設定暗いしぱっとしないから無くしていこう。
そんな思惑があったのかわからないけど何もなかったようにその設定が無くなったら。
単なるネクタイの色でもその理由はシリアスで、キャラの成り立ちやら性格や過去やらそういうのを詰め込んだ設定がまるっとなかったことにされたら。
ドラえもんの相棒はのび太だけど、それじゃぱっとしないから出来杉にしよう。女受け良さそうだし。
もしそんな風に公式から直々に変更されたら、大多数の日本国民は受け入れるだろうか?公式の出しているものが正義なんだから納得しようって。
そんなことになってしまったとき、ファンにが出来ることといったらもう不満を吐くしかないわけで。離れるファンをやめるっているのはもう成りつつあるわけで。離れてファンを辞めながら怨嗟の声を上げているのが正しい。ドラえもんと出来杉を相棒にするなんて、それじゃのび太との今までの絆はなんだったの?のび太を捨ててユニットを組んだ二人をこれまでのようには応援できない。だってのび太が可愛そうだしドラえもんもそんな人じゃなかったでしょうに。出来杉だって本人が悪いわけでもなかったのにのび太の代役ってことでみんなから恨みを買うだろう。全員が不幸だ。
のび太とドラえもんの相棒交換なんてこれまでの認知度や実績を考えるとまず成されることはない。
しかしこれがそこまで有名でもない、とある作品の人気キャラだったらどうだろう。
一部の漫画アニメを見ている人たちからしたら人気があるけれど普段から漫画もアニメも見ない人たいは知らない。そんなキャラだ。
公式編集がこれまでのキャラの相棒や設定なんかを変更して新しい冒険をしよう、もしくはサービスのつもりで(ヒロイン交代とか)そういうことをやらかしたとき、だけど公式なのでやらかしとは言えないのだ。
これまでの過去を愛しているファンにとったらたまったもんじゃない。顧客が本当に欲しがっているものと重大な認知の歪みがある。
ヒプマイと並ぶ以上に私が同情するのは俺屍2だ。私はこのゲームのファンではないができる限り批判されていることの意味を調べ、ゲームも実際に見た。
あれは一言でいうなら、既存のゲームの世界と設定の上に自分のオリジナルキャラ総愛されを組み込んだようなものだった。
続編で出てきた全く知らない女キャラを過去のゲームの人気キャラたちが特に理由もなく絶賛し褒め称え、そのキャラが居なければ進められないようにシステムに組まれおり、かつ弱くて使いにくい。シナリオも破綻していると思える内容だった。なにせ諸悪の根源がその女キャラなのに、世界はその女キャラ中心に作られている。これでは感情移入とかも無理だろう。
公式から出された以上、どんなにひどくても公式と認めないといけない。ファンにとったらそれが一番つらい。全部なかったことにしてほしい。
そんなに耐えられないこと?ならそこまでのめり込まきゃいいじゃん。って思う人たちもいる。だいたいライト層だ。確かに公式のやったことは好きじゃないけど、そこまで怒るような内容でもなくない?
こういう人たちはそもそもガチハマりしているオタクとは永遠に分かり合えないので、無駄に議論する必要はない。
アイドル売りしている推しの公式から出している高価なグッズを買うこともない人たちだ。※(個人の見解です)お金をかけていることをマウントしたいわけじゃないが、公式はそういう層に狙いをつけてグッズを出している。そういう層を獲得するためにキャラを売り出している。(※個人の見解です)だから何万もする香水とか、指輪とか、ネックレスとか。買ってしまうのがドハマリしているオタクだろう。
そしてそんなのを売っているんだからキャラクターにマイナスなイメージをつけることもないだろうとか、暗黙の了解だと購入するファンは思っているわけだ。
今のオタクは安心して貢ぎたいなと思っている。※(個人の見解です)公式から引っくり返されるような設定の塗り替えや、後出しの矛盾。キャラのマイナスイメージを出されることが何より辛い。そして刀剣乱舞やヒプマイみたいな情報の少ないジャンルは、背景や設定だけあればいくらでも深読みや妄想ができるから、それも楽しいし好きで居続けることができる。
もちろん公式から出される設定の崩壊や矛盾なんかがないのが前提だが。
長々と語ったが公式様に求めることは一つだけ。設定や背景や価値観をコロコロ変えないで欲しいし、ガバガバな設定でもそれなりにまとめてほしい。
ジョジョの設定に矛盾があっても全く気にならないのは、キャラがブレていないから、というのをどこかで見たがほんとそのとおりだと思う。
キャラクターはその世界で生きているんだから、現実世界の思想や価値観を投影するならそれなりの説得力のあるエピソードを作って。
あとこのキャラは誰ともくっつかないって質問で答えたのに、読者の反応が見たかったってわざわざ他キャラとイチャイチャさせるとかサイコパスかよ。
先日、推しだった人のソロライブでやるコーレスの内容が決まったらしくてTLにそれに関連するツイートが流れてきた。それで推していた頃にあったコーレスについての諸々を思い出した。
元推しのソロライブではMC中にコーレスが行われるのが恒例になっていたけれど、その内容はなぜか毎回、彼がアーティスト活動で所属している某レーベルとは無関係の所で決められる。それに対して彼を推していた頃から非常にモヤモヤしていた。
コーレスの内容が決められているのはいつも某ゲーム情報系ラジオの番組内で、元推しがパーソナリティをしているとはいえレーベルとは全く関係がない番組内で決められることに納得がいかない。レーベル関係でラジオ等の媒体がないならまだ分かるけど、レーベル関係のラジオがすでにあるのに……。
パーソナリティをしてるのは元推しではないけど、ライブ前にゲスト回作ってもらうとかしてそこで募集して決められないものなのか?とずっと思っていた。
私がレーベルの外部で、というかその某ラジオ内でコーレス内容を決められるのが嫌なのはおそらく2ndライブでの出来事が原因なのだと思う。
2ndライブは初めて参加した元推しのライブで、とても楽しみにしていたしある出来事を除けば実際とても楽しかった。アルバムの特典映像として収録されていた1stライブのダイジェスト映像を見て、楽しそうだなーとライブでのコーレスに少し憧れていたから、2ndライブ当日にもコーレスをする流れのMCになり嬉しかったのに、そのコーレスが一部の行動によりまともにやることが出来なかったということ意外は……。
元推しのコーレスはライブごとに内容の変わるもので、前述の通り某ラジオでファンからのメールを元に決めてその番組内で発表される。
2ndライブでのMC中、本来なら会場には某ラジオを聴いてない人もいるだろうからと「自分がこういったらこう返して下さい」と内容を元推しが1つづつ順番に説明してくれている段階だったにもかかわらず、こういったら〜の段階で某ラジオリスナーらしきファンが返しの部分を言ってしまい、しかもなし崩しに最後までコーレスが行われてしまった。その後、公演の尺の都合なのかそれが本業でない元推しがまだ場慣れしていなかったからなのか仕切り直されることもなくうやむやで終わり。一部がフライングで盛り上がっただけになってしまった。
その後のライブでも似たようなことが続き、私が知っている限りではフライングせずまともにコーレスが行われた記憶はない。
3rd・4thライブはともにツアーで、私が参加した公演はどちらも最終公演だったので、その2公演に関しては某ラジオリスナーのせいだけではないかもしれないけど、某番組リスナーにも番組にも2ndライブの件だけで既に充分なマイナスイメージがついてしまったし、元推しのファンのの一部にもマイナスイメージがついてしまった。
元推しから離れた直接の原因はコーレスの件ではないけど、積もり積もったものの一部にはなってしまったと思う。
正直、レーベル関係のラジオではファンから内容を募集するにはスケジュールが合わないならファンから内容を募集するのはやめて元推し本人がコーレス内容を全て考えるとかして、レーベル関係の媒体とかSNSで発表する形をとってほしかった。レーベルのツイッターアカウントはその頃からあったし、元推し本人のSNSも今はLINEブログやってるらしいし。コーレスするのにも、見知らぬオタクが考えたものより推し(私にとっては元推しになっちゃったけど)本人の考えた内容でする方のが楽しそう。