ハーフという呼び名はネガティブだからダブルにしよう、という働きがある
私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ
そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも
少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフの言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツをベースとし残り半分の割合を指すものがメディアで目にするものも含め一般的なものであるように思う
同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプルで客観的で図式的な概念であり、本来の単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い
ダブルへ繋げる論拠として
あるいは血統主義から一方の国、この場合は日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す
正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う
先にクォーターをハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ
彼ら、彼女らの言うネガティブさである単語からのマイナスイメージで言うならクォーターはハーフより印象は悪い
ハーフが半人前ならクォーターは人間が四分の一しか出来ていない、となる
ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合、単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない
繰り返すが言語的な用法としてハーフとクォーターは現実として連なっている
ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない
クォーターに通じない論理でハーフを解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える
だがダブルの法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合の意味での用法ではなくなってしまう
それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーターは日本とアメリカのダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいてしまう
単純にハーフの上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない
だがなぜかそうではないのだ
単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフを否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない
そもそもこのハーフに対する話は日本の和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス的言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米で一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた
ただ日本のように単語自体にルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名や民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい
またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味にネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った
ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった
そういえば以前テレビ番組でハーフはネガティブだからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフのアメリカ出身の女の子がアメリカでも普通に使う、言葉自体にネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した
ダブルもハーフも海外で通じる通じない、という日本のガラパゴス的意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった
略さないのであれば、また略さないそれがそのままダブルの意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフに否定的になる理由はない
ならなぜダブルなのか
調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフやクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本でミックスを表現として使っている人も既に少なからずいるようだった
特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った
言葉としてハーフやクォーターと平行して組み合わせる事も可能で汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体にルーツの意を含ませる事自体も、ハーフやダブルと比較すれば難しくはないらしい
言語的にも、日本のガラパゴス的言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる
違う言語圏から見て、初めて聞くハーフというその言葉はネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う
そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう
そして誤解とはいえ、ネガティブな枠で自身が定義される、それ自体への拒否感も理解できる
だがその場合ハーフという言葉に言語として、用法としてのネガティブさは認められない
問題は日本独自の略語、和製英語が生む対外的な混乱による認識の差異、ただ1点だ
単語として、ハーフを基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える
実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフのマイナス面が語られ、ダブルのポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的なものに留まり、ハーフが差別的である、ネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ
ハーフのマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う
そもそもダブルが持つとする言葉のポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフのマイナス面を示す事でのあくまで相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う
賛同している多くもハーフのネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある
それにしてもダブルを肯定するという事は当然過去遡って差別的、ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしまう
そのポジティブさはハーフという言葉に相対的犠牲を理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と
確かに現実としてハーフという言葉にナショナリズム等から悪い意味をのせる人間はいるだろう
しかしそれは今の通例としての言葉の概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれたレイシズムにその他大勢の人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実の用法とはかけ離れるレイシストの意図をその文化圏の象徴のように語るのはそれ自体が差別的であるように思える
その上でネガティブな印象に受け取るのは個人の選択であり、本来の意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間の人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない
自身の自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する
それら全部分かっていてもハーフという言葉をネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉で自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする
だが、それはあくまで自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う
「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的でしかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る
そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない
その人間の意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定を理由にした小さな悪意であり、自尊心やアイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない
その人が言葉に持たせた意図やその言葉の意味でなく、ネガティブだと捉えた自身を根拠にポジティブになるためにその相手に非難めく
近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う
少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュアの男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た
そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた
画像の男の子は大和撫子とパリジャンのダブルだから、という言い方をしていた
もしかしたら設定として、その男の子は日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない
そんな可能性を示す、そこには何の異議もない
実際そのダブルは和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた
現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう
だが、これはアニメだ
この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉の存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う
女の子が口にしたハーフ=ルーツの意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語の用法そのままの意味でダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較をハーフとダブルの印象へと繋げる
先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂でしかない
そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身のルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフを使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える
だが、そこで略語としてのハーフを否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ
もしこの男の子がハーフがルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現であると理解しているならどうだろう
その場合、その子はハーフと口にした女の子を差別的な要素をも含むネガティブな言葉を無自覚にでも使った人間であると意識の低さを指摘し、また同時に相手の意図より自分が思う言葉の意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる
そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ
言葉としての意義に悪者であるハーフを否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ
これはあくまで仮の話ではある
だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実だ
そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ
今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュアの男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現も本来のダブルという単語の用法のひとつとして使う時が来るかもしれない
だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う