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2019-10-11

BL好きも百合好きもホモソーシャル憎さから

ミサンドリー(男性蔑視的)な話なので男性が読むと不快になると思います

私は若くて綺麗な同性同士が仲良くしてる所を見るのが好きだ。

BL百合も…

どちらも同性愛だけど、でも同性愛というテーマが好きなわけではない。

コンテンツに何を求め、どんな快を得ているかを突き詰めると自分精神構造がよくわかった。

まず「同性同士であれば男も女も同じように」というわけではなく、

やっぱり男か女かで萌え方は違う。

BL百合では得ているものが違う。

BLでは男性搾取の嗜虐的な興奮。

百合ではシスターフッドの暖かさと和やかさ。

からBLエロいのがいいけど百合エロくなくていいのだ。

BLエロ楽しいエロ精神身体を手っ取り早く収奪する行為から

でも百合は二人の心の結び付きが大事で、精神身体収奪するようなエロはいらない。

ちなみにBLセックスシーンがなくても良いのだが、その場合セックス以外の方法性的な心身の搾取はしているからこれもエロ定義している。

結論としては、私のBL好きも百合好きも、現実ホモソーシャルへの憎しみという同根から来ているようだ。

現実では男が悉く女を侵害してきて苦しいから、男を憎んでいるから、侮蔑したくて、BLでは搾取していじめている。

百合では男を排除して女だけで平和に楽しくやりたい。

そして私の理想統合して極端に表現するとこうなった。

「男は排除して女だけで楽しく利益を独占し、男はコンテンツとして消費したり、従属させて都合よく使いたい」

現実ホモソーシャルを裏返したいわけだな。

この見方に気づいたとき自分の心の解釈が一気に分かりやすくなった気がする。

とはいえ現実ホモソーシャル男と女位置をそのまま裏返したいわけではない。

それは地獄だと思うから

私の理想とする女の同性連帯は、ホモソーシャルとは違って、女性間でのヒエラルキー同性愛フォビアもない。

女でさえあれば多様性が認められ、コミュニティに参加するための贄や儀式必要ない、マイルドで優しい世界だ。

その上で男には冷たいのは、今までやられた侮蔑収奪を取り返すだけはしたい。

という感じだ。

十分取り返せて気がすんだら、男も多様性の仲間に入れてあげる。

ところで「若くて綺麗な同性同士が仲良くしてる所を見るのが好き」の「若くて綺麗な」という限定条件にはルッキズムエイジズムがあるようだが、

若くて綺麗な子が好きといっても、

百合に関しては対象が年とってても美形じゃなくても萌えられる。

シスターフッド連帯萌えなので精神的なもの大事から

単に若くて綺麗な子同士だと視覚的な華という楽しみが増えるってだけ。

一方BL若い美形以外、私が性的に消費できる対象じゃないからまったく興味ないです。

BLにというか男に対しては強固なルッキズムがある。

この辺もホモソーシャルの裏返しっぽいな。

女には若さと美しさしかコンテンツ価値を見出ださない大方の男の価値観へのカウンターでこうなってるところはあると思う。

2019-06-24

『「男」に「男」は救えるか?』の『さらざんまい』の根本的な誤読について

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301

 タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメさらざんまい』の感想

 が、この記事の評者は根本的に本作を誤読している。

 "ここのところ、はてな匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性男性関係についての、男性書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しかゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、

 「主人公少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当ものに思える。

 しかし、その妥当性は表面的なものだ。

 本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。

 これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情恋愛境界曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。

 主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。

 だが本論が合っているのはここまでだ。

 なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…

 『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。

 第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。

 というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章しか用いられていない)。

 この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。

 さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要ものだった。では、仮に現在ブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。

 ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。

 女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動公準は「私的もの政治的もの」であり、個人的敵愾心敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。

 また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性対象にしたものだと言う。

 現在世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的女性差別と相関している。

 仮に「生きづらさ」を描く作品商業的に成功して、それが女性限定されたものなら、それは社会的女性差別と連関したものに他ならない。

 これは差別の原因だろうか、結果だろうか。

 男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別特別女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品女性対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。

 そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。

 『違国日記』は登場人物登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的連帯とは一線を画している。

 また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情資本主義全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動SNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSお気持ち投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。

 一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生

 そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢反省したという論を展開したいようだが……

 幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公ウテナシスターフッド的な関係をもっているのは親友若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?

 何にせよ、そうした感情的連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。

 例えばねとらぼ社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。

 「男性男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケア役割女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しか男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年エンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」

 「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。

 仮に感情的連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間

 さて、ではなぜこのような誤読が生まれたのか。

 一つには「インターネット感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。

 このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的ものだと、フェイクニュースの方が真正ニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計

 前述のセジウィックは有名な『クローゼット認識論』で作品センチメンタリティ属性付与することの危険を「解釈暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評用語だ。

 もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックスセックスレスが標準となった社会では、ゲイネス記号化して商品として流通やすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックスセックスレスが標準となった社会で、ゲイネス商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動SNSの利用に人生を費やす人々の姿……

 『さらざんまい』は女性顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。

 しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品解釈が「感情的気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNS論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感幻想インターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。

2019-02-16

関係性を志向するファンダムのこれから 前

 本稿では、現在の「ファンオタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品概念グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブ言葉として用いる。拡散多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。

1【現代オタクデータベース消費から脱却する】

日常系が売れるのは「関係性」を読み取れるから

 「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数女性キャラ日常生活描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメ2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的ドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみらき☆すた」(2004)や、なもりゆるゆり」(2008)などが代表的ものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語想像して消費することができるからなのではないだろうか。

・「行間を読む」相関図消費の“複雑さ”への萌え

 関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティ担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D3D二次元アバター現実の肉体の動きとシンクロトラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそもYouTuber」の動画には前提とされる物語世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナキャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。

そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNS動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物画像投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダー次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。

まり、「実在人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系関係性」が、液晶内のキャラクタバター動画配信という形態の手軽さにより、オタク関係性消費への志向次元を超えてさらに加速していくと予想できる。

2【やおい文化百合文化から読み解くオタクジェンダー格差

関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味

 前章で関係性消費への志向さら高まると予想したが、本章ではオタクジェンダー格差について女性向けジャンル男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態差異があるのだろうか。

もちろんHL(異性愛文化を扱う少女マンガ少年マンガにおいても恋愛友情ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BLGL文化ではそれ以外の登場人物関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉意味合いについて掘り下げ、BLGL同性愛ファン文化それぞれの特徴から考察してみたい。

・「腐女子特有の親密さ

女性オタク人文学社会学研究に関しては、特に腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的女性性的欲望解放」といった視座からの言説であった。特に腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全領域において、性的表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったもの存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在日本混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。

 今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からマイナスイメージ払拭しようとしたり、イベントSNSでの趣味スラングの共有による特殊連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティ特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物特性セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドレズビアン連続体、ホモソーシャル関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。

・「百合男子」はなぜ流行らなかったのか

 では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望コミケでのゆるやかなホモソーシャル交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツ受け手ジェンダーによって大きくそ意味合いが変化してしま場合があるからである。そして男性GL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別限定されていない。これはGLというジャンル男性けが消費することに対することが上記齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称流行ったのはBLというジャンル女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。

 また、百合コミュニティにおける異性愛忌避姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造腐女子ジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。

関係性消費によるジェンダー越境可能

 こうして述べてきたように、同性愛コンテンツファン構造は非常に複雑で特殊ルールの基に成立している。しかし、上記性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファン異性愛忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物消費者セクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊連帯プラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuber関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuber関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性ペルソナシス女性キャラクタがシス女性キャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象アニメ漫画においても進んできており、創作物受け手ジェンダー必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。

【続きと参考文献リスト

https://anond.hatelabo.jp/20190216024058

2017-12-25

anond:20171224231626

ややこしいのは、強い女も子供を産むと必ず一定期間弱くなってしまうこと。

もう既に死語の感あるけど、例の「いきいきママ騒動でも女性同士のいざこざが見られた。

仕事負担してる独身女性社員が、育休時短ママ社員攻撃したんだよね。

もしも、男性社員が「ママ社員は足手まとい。大きな顔をするな」と言ったら

仕事育児の両立」という正しさに絶対勝てなかったろう。

けれども、同じ女性社員がそれを言うことで「どれだけ会社に貢献する社員か」という強弱の論理が勝った。

女同士といっても所詮は利害の対立する他人シスターフッドなんてなかったんだよ。

2017-02-01

http://anond.hatelabo.jp/20170130224433

その上司が言っている「女ともだち」は、普通女友達意味とは違うような気がする。

多分ウーマンリブ運動の「シスターフッド」のこと。

これは女性解放という同じ目標のために、(男性から離れて)女性同士で連帯しよう!って概念

上司が「連帯」とか「結託」とかの硬い言葉を使って、すごく真顔だったのはそのためだと思う。

その上司は「出産育児をする女性はすごく孤独」といっているけれど、父親である男性存在をどう考えているんだろう?

今は男性も育休をとりましょう!って呼びかけられているよねぇ。

「生きのびるために赤の他人の女同士で結託しましょう」って、なんかすごい古い。

 
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