はてなキーワード: 病理とは
ジョージ・フロイド氏の殺害で起訴されたデレク・ショービン氏の裁判に関する覚書。
計画性のない殺人。計画殺人だと第一級になる。上限は禁固40年。
殺害の意図が無い場合の規定もあり、ショービン氏に適用されているのはこれ。
フロリダ州、ミネソタ州、およびペンシルベニア州にだけある殺人罪(他の州では別の名前って場合もある)。
ミネソタ州では「人を死に至らしめることを意図せずに、人命の価値に対する極端な無思慮という邪悪な心情(a depraved mind)および他者に対する非常に危険な行為への従事によって、他人を死に至らしめる」こと。上限は禁固25年。
ミネソタ州では「過失により(他者にとっての)不当なリスクを生み出し、意識的に他人に死または重大な身体的危害をもたらす危険を冒すこと」。上限は禁固10年。
ジョージ・フロイド氏の検死は別々の医師により2回行われている。
ミネアポリスのヘネピン郡の病理医および主任監察官。5月26日に検死を行い正式な調査結果は6月1日に発表された。
フロイド氏の健康状態は特に循環系で悪く(動脈硬化、高血圧、心肥大等)、警官の制圧行為(頸部・背部への強力な圧迫)によりこれが悪化し死に至った、というのが検死の最終的結論であり、これは殺人であると認定された。
ただし、検察に提出した予備調査結果が5月29日に公表された結果、不完全な情報が独り歩きしてしまった。
「世論の圧力で検死結果が変えられた」的な陰謀論はこれが原因だろう。
フロイド氏の家族が検死を依頼した。6月1日に結果が公表された。
制圧行為が死因になったことはベイカー医師の検死結果と同じだが、より踏み込んでベイカー医師が断言していない頸部圧迫による扼殺を主張している。
ベイカー医師の検死より利用できたデータが少ないため信頼性は劣るが、最終的な結論は同じである。
「ジョージ・フロイド氏に手錠をかけてうつ伏せにして、でも膝で押さえつけたりせずにただ放置していた場合でも、彼は死んでいたのか?」という問いに検死結果は「No」と答えた。
白人6人、非白人6人の計12人。BLMや警察への傾倒が強すぎる人は除外。事件現場の近所に住んでた黒人も除外。民事裁判での和解で意見が変わった人も除外。etc.
本当は事件のことを知らない先入観の無い人が好ましいが、そんな人はいないので選ぶのに苦労したそうだ。
第二級殺人罪、第三級殺人罪、第二級故殺罪のすべてで有罪判決。量刑は最大で禁固40年。
8週間以内に量刑の審理が始まり、その結果で最終的な量刑が決まる。ミネソタ州のガイドラインだと12.5年くらいになりそうだが、検察としては15年以上を期待しているそう。
検察側証人38人に対し弁護側は7人。しかも後者の反論がよろしくなかった(後述)。
検察側証人には多数のベテラン警察からショービンの上司、訓練教官までが含まれており、彼らはショービン氏の制圧方法が標準的なそれとはかけ離れていることを証言した。
ショービン氏の受けた訓練記録も提示され、それではうつ伏せで手錠をかけた場合は窒息を避けるため速やかに回復体位をとらせるべきとされていた。
弁護側証人でこれに反論したのは1人だけで、彼の制圧は正当で合理的だと主張したが、「テーザーガンで撃たれた人が倒れて頭打って死んだら、それは殺人じゃなくて偶然の死」と雑なことを言ってしまったため印象悪し。
先にも言った通り、警察による制圧とフロイド氏の死の因果関係は公的に認定されているが、それを覆せる証言は弁護側からは出てこなかった。
検察側証人からはフロイド氏の血中の薬物の濃度が死亡には程遠い事(死亡者のそれの8分の1程度)や、過剰摂取者では通常みられない代謝産物が検出されたため、薬物による死亡は考えにくいことが示された。他にも低酸素による死亡を支持する医師も多数。
また、弁護側証人の「フロイド氏は健康状態と薬物使用とパトカーの排気ガスで死んだ。制圧は無関係」という主張も、検察側証人の再反論(血液検査では排ガス中毒の痕跡はない)で潰されている。
弁護側は2019年にフロイド氏の逮捕された時の映像を見せて「彼は警察に対してパニックになって偽り(faked)な対応をするパターンがある」と指摘して彼の「息ができない」等の発言が虚言であることを示唆した。
正直に言うと陪審員の弁護側への印象ガタ落ちでは?なぜこんな戦略をとったのか謎。
「息ができない」が嘘なので窒息死も嘘って言いたいのか。でも証人の証言がそのラインにあまり乗ってないのでは?:
2019年に逮捕した元警官「手を見せろと言っても従わなかったので銃を向けたが、彼はひどく神経質に見えた」
2019年の逮捕時に健康状態を見た救急隊員「高血圧で脳卒中リスクがあった。あと鎮痛剤使ってた」
SUVの同乗者「フロイド氏はカップフーズ(逮捕される時にいた場所)で居眠りしてた」
ミネアポリス公園の警察官「(フロイド氏の拘束現場の)群衆は警官に対して非常に攻撃的だった」
ミネアポリス警察の医療支援コーディネーター(質問を受けて)「フロイド氏が興奮性せん妄の可能性はある。興奮性せん妄が急な心停止を引き起こす可能性はある」
残りの2人は上で言及済み。
7人全員集めても何言いたいのかわかんないのは凄い。統一感ないぞ。
検察側も褒められたもんじゃないけどね。イメージ戦略。逆方向で。
フロイド氏の遺族や彼女はまあいいが、目撃者の9歳女子はダメでしょ。実際証人として除外されたし。
デレク・ショービン氏はジョージ・フロイド氏をうつ伏せにして後ろ手に手錠をかけた後、7分以上頸部を膝で圧迫した。そしてフロイド氏は心肺停止に陥り死亡した。
そして……
目撃者からの足を退けるようにとの要望も無視あるいは拒否した;
死亡は薬物によるものではなかった;
死亡は膝による頸部圧迫によってもたらされた;
親の事業を継いでたら今頃ひどい目にあってたわ。
セフセフ。
そんなわけでコロナで思うことを書き留めておく。
まぁ読むやつはいねぇだろうがw
2,3年後にそらみたことかと言えるようにネットに残しておきたいだけだ。
では、始める
自粛やマスクやワクチンが感染者や死者を減らす施策と勘違いされたま
辟易している。
最初は正しくピークシフトだと言うてたがいつの間にか説明を諦めたようだ。
感染者数も死者も総数は変わらない。
山が平らになるだけ。
減らない。
なんで減ると思ったの?
日常生活を送っててコロナウイルスから一生逃れ続ける事は不可能
手洗いとか殺菌でどうにかなるものではない。
そんなもんで撲滅できるならインフルエンザなんてとっくに撲滅できてる。
無理なの、不可能なの。
これは死亡率が高く感染のメカニズムや皮膚に症状が現れるなど撲滅できる条件が整ってた。
世界中が右も左も西も東も手を取り合って全世界的に撲滅作戦を執行した。
人の移動もまだ緩やかだった時代にようやく達成できた。
どこかに残り続ける。
そしていつかは全員に回ってくる。
コロナウイルス撲滅の可能性がわずかでもあればロックダウンだのマスクに意義があるが。
2万%無理です。
なりません、そんなもんで救えるならとっくに風邪やインフルでやってる。
ちなみに、風邪はウイルスに罹患したら全員もれなく発症するようなものではない。
症状がでるのは2割。
普通の人は一年に1,2回は風邪を引くけど実際にはその4,5倍は無症状なだけでウイルスには感染してる。
ウイルスには感染しているのだから気道などで増殖しくしゃみをすれば飛沫をばらまいてる。
そうやってウイルスは街の中でジワジワと生き延びる。
気温や湿度など条件が整えば一気に広がる。
日本は年間130万人が死ぬがそのうち10万人程度は風邪が原因。
人が死んでも基本的に原因は調べない。
末期がん患者が死ねば死因はざっくりガン、高齢者なら肺炎や老衰でごまかす。
ごまかすってのは言い方が悪いが
ところが今、誤飲性肺炎だろうが末期がん患者だろうかコロナに罹患して死ねばコロナ死とカウントしている。
お年寄りが軽い風邪を引く、もともと筋力が落ちてるところにウイルスで筋肉が炎症を起こせば
直接的な原因、つまり死因は誤飲性肺炎と診断で間違いは無いが。
なんか違うよね。
ともかく実際の死ではそんな細かい事は調べない。
老衰と診断された人も詳しく調べると原因がわかる。
心臓止めたのはこいつだなと。わかる
そういう研究から推測すれば年間10万人程度が風邪で死んでる。
風邪で人が死ぬのは当たり前すぎて誰も研究も調査もしないわけ。
ところがコロナは数千人死んだだけで大騒ぎして緻密な調査して怖い怖い言うてる。
肺炎球菌だけで年間4,5万人が死んでるけど
医療崩壊は起きないし大騒ぎにもならない。
で終わり。
でも新型コロナは大騒ぎ。
できません。
死亡率が下がると思うだろ?
下がらないんだわ。
若年層がワクチン打っちゃうと免疫獲得の機会を逃すことになるから。
ミクロで見れば効果はあるんだけど一生、社会全体のマクロで見るとなーんの効果も無い。
せいぜいが高齢者だけ。
体力が違う。
免疫ってのは人体が強いダメージを食らうほどその抗原を強く長く記憶するようにできてる。
しかし免疫は諸刃の剣で、人体を守る機能ではあるがそれが暴走すると体そのものを壊す。
体内の異物を見境なしに敵とみなして排除するわけにはいかんのです。
そもそも飯を食うというのが異物の挿入なわけで。
困るよね。
では人体はどうしているかと言うと体調が崩れた時に体内にいた異物を敵とみなすシステムになってる。
さらに何段階かあり、めちゃくちゃ体調が崩れた時は超ヤバい敵と認識する。
ところが免疫システムはもっと利口で、敵を誤認するであろう事もシステム設計で考慮されてる。
人体すげぇ
よほど重い症状でなければ短期免疫で済ませる。これなら誤認であっても時間が経てば解除される。
例えば一時的に米アレルギーになっても数ヶ月でまた米が食えるようになる。
免疫の最終段階はキラーT細胞で、これは体内の異物をとにかく殺しまくって体内を一度リセットする最終兵器。
免疫にはIgA、IgM、IgGなど各種あるけど、活動場所が違い、どれが発動するか、体の不調の検知は炎症、発熱をトリガーにしてる。
人間の体でヤバいのは人体の損傷、つまり炎症なわけで、炎症を起こせば筋肉が発熱する。
人体がエネルギーを熱に変換できるのは筋肉で、炎症箇所の筋肉は発熱する。
お年寄りが死にやすいのは筋力が低下しているので発熱ができず免疫が起動しないから。
で、西洋医学はここに目をつけた、そや、炎症を抑えればええやん。
抗炎症薬の登場。
とりあえず大本の炎症を抑えれば発熱もすることなく、時間が経てば自然治癒するだろと。
まぁ間違っちゃいない。対症療法。
白血球がそれなりに異物を食うてくれるのでそのうち治まるが。
西洋人はアスピリンの化学合成からこの作戦で半世紀、百年やってきた。
東洋医学はこれとは逆で炎症、発熱にはそれなりに意味があるものと考え解熱、炎症鎮圧をやらない。
これで数百年やってきた。
風邪の回復後にウイルスは検出されないのに微熱が続く、頭痛するようになった。
そもそも、タバコも吸わない健康的な生活してても年を取れば小中学校の頃のように走り回ったり飛び跳ねたりできなくなる。
これ後遺症と言うか?
人生何度も風邪やら怪我やら各種疾病を繰り返しながら大人になる。
そのたびに肺や人体の損傷が蓄積される。
新型コロナは国民一丸となって頑張ったから抑え込めたのだ、この程度で済んでいるのだと主張する人。
ところが、実際には意味がない。
ただのピークシフト。
いずれ一度はかからなきゃならない。
今かかるか先にかかるかってだけ。
で、大騒ぎせずにただの風邪と扱ってりゃ一般病院で診察できるんだから医療崩壊は起きない。
逆に言えば大騒ぎしてる連中が殺してるんだよ。
ヒステリックに特別な病気として扱えと騒いでる連中が医療リソースに制限をかけ
受けられるはずの治療を奪ってる。
大阪はとうとう溢れた。
医療リソースが枯渇したのではない、コロナ対応できる医療リソースが枯渇しただけだ。
ただの風邪なら一般病院でエクモできるのに、指定感染症だからできない。結果、たらい回しにされ見殺し。
肺炎球菌だけで年間4,5万人死んでて、医療はそれで逼迫するわけではない。
十分に受け入れられるんだよ。
つまり解熱剤飲むなボケ、対症療法ではなく自己免疫に刮目しなさいって話なの。
フィリピンは人種的にはマレー系で子供には蒙古斑が出るアジア系なのだが。
アジアで見るとフィリピンがコロナの死者、感染者数で悪い結果が出てる。
途上国ということもありセルフメディケーションが浸透してて
免疫が育たんわけです。
西洋と同じ。
東洋医学が強く残っている対岸のベトナムと対象的な結果になった。
ここにきてイスラエルすげぇさすがユダヤ様とか言い出すアホォが現れた。
一日あたりの感染者数は日本もイスラエルも1月初旬がピークで8000人程度。
ところが、イスラエルの人口は900万人、日本はその13倍1.2億人
あれ?
わぁ日本の方が多いって、人口13倍ですから、人口比で比較しろよ、統計学的に。
それでもこんだけ死んでる
ダメじゃん
イスラエルのコロナ感染者数の推移みりゃわかるがワクチン接種開始してからの
イスラエル国民の免疫、特にIgA抗体の推移を調査すりゃ感染者減少のメカニズムが解析できるんだろうが
IgAとワクチンの効果は数ヶ月だから、数カ月後変異種で再度感染爆発もありえる。
まだ結果を評価できる段階ではない。
そもそも人口あたりで比較すりゃ日本の数十倍の死者を出してるわけで
普通の風邪だけで年間10万人が死にます、命なんてそんなもんです。
肺炎球菌だけでも4,5万人が死んでる。
なんでそう思ったの?
あのな
つまり1.6%すでに脱落してる。
40台のコロナ死者が10人か20人か知らんが、テキトーで20人でいいや。
0.000001
0.0001%
キ ニ ス ル ナ
どーでもいいことをクヨクヨ悩むからつまらん事で死を選ぶんだよ。
人生楽しめ。生きてる間は精一杯笑え
だけど、莫大な国費を投入する経済合理性があるのかは疑問だわ。
命に値段は付けられない、やれることは全部やれ、政治家が口にするには美しいセリフだが。
国家予算は無限にあるわけではない、医療に割ける予算には限度がある。
こんなもん皆保険で無限に許してたら制度が破綻する。誰でもわかる。
どこかで線引しなきゃならない。
10日なのか100日なのか、10年なのか。
実際の医療現場でも救える命を無制限に金とリソース浪費して救ってるわけではない。
標準医療には制限があり、実際にはまだやれる事、医学的、科学的に延命余地はあっても
しょうがねぇの。
だけど厚労省は結果を出してる、世界で一番長生きな国を作ってる。
厚労省すげぇ
西洋医学に安易に追従して、セルフメディケーションとかやらなかった。
医薬品業界はこっちにシフトさせようと必死だけど、厚労省の良心がギリギリのところで止めてる。
まぁ昨今ズルズルだけど。
お陰で国民の大半はコロナの免疫を獲得済みで、今回の新型コロナでも交差免疫が効いている。
子供が発熱する、病院に駆け込む、A病院では薬が処方されすぐに熱が下がった名医だ。
B病院は薬を出し渋る、なんだあの医者。ダメだ。次からA病院しか行かない。
初めての子育て、頼れる人も相談できる人もいない、心配で仕方がない。わかるよ。
熱が下がればホッとするよね。
何度も何度も同じ風邪を引くよ。
一発罹って発熱して免疫獲得すりゃ次からは軽い症状で済むのに。
ちった利口になれよと。
でさ、マスクをいつ外すの?
なんで?
奇しくも立証しちゃったよね。
超過死亡が下がってる。
あれ?
立証しちゃった
あれ?
マスクや自粛のお陰でコロナとは別に数万人の命を救ったわけだ。
マスクし続ければ、飲食店を潰しまくれば来年以降毎年それだけ救える。
え?戻すの?
数万人殺すの?
何時の時点で、どの条件でマスクを外すのか。
意味わかる?
マスクなどしない、子供にもマスクをさせている親は怪訝そうにみる。
逃げていく親もいる。
中学校で俺をクソみたいにいじめてたクズが格闘家になってた。で、コロナで生活が苦しくなったのかYoutube始めてた。コロナ禍でそのまま干上がれば面白かったのにな、残念だ。
しかもその界隈では結構有名な選手らしい。とはいえ、その界隈自体がどのくらい知名度があるのかわからないので、世間一般の知名度はどのくらいなのかわからないけど。
今社会の関心を集めているあのいじめ殺人事件は「これはトラウマ穿り返される奴だ」と思って詳細は見てないのだが、まさか目を逸らした先で最悪のものを目にするとは思わなかった。
動画、やたら楽しそうだったな。楽しそうでよろしゅうございますね。
どうやらコロナ禍で格闘技とかその辺の生活が苦しくなったみたいで、いろんな選手がやってるみたいだ。どの選手も内容がほとんど同じだが。コラボ、予想、ルーティン、トレーニング、コラボ、予想…顔が変わるだけでたいして変化がない。
まぁ、俺を恐喝すれば金を得られたあのころと違って本当に厳しいんでしょうね。金返せよ。
なんかファンからもらったプレゼントを自慢げに見せてましたね。俺の時計返せよ。
服にもこだわりがあるようで、なんか独自ブランド作ってましたね。俺の服あんなに破いたのにな。
再生数が欲しいなら「私の過去を告白します」みたいな動画作ればいいんじゃないでしょうか。
ちょうどいじめ殺人で世間が湧いている今、再生回数めちゃくちゃ延びると思うよ。協力してやるから取材しに来いよ。傷跡まだ消えてないからさぁ。
結構な再生回数献上してしまったけど、お前の人生も面白いな。俺の人生を崩壊させたお前が、なんか「苦しみを乗り越えてきた漢」みたいな扱いでリングやらケージに上がってんじゃん。
いい仲間に巡り合えてよかったですね。俺をいじめ殺す寸前まで言ったあのあと、いろいろな経験がお前を成長させてくれたんですね。クソすぎるだろうお前。過去の亡霊は常にお前を見ているぞ。
まぁしかし、結局のところ、いじめってのは対等な関係ではないのが問題だな。
あの格闘技のように、リングやケージで「対等に」「ルールを守って」「危険になったらちゃんとストップがかかる」「失神すれば許してもらえる」お優しくて甘い世界じゃないわけでさ。
俺は人を殴らない、お前は平気で殴れる。俺は社会のルールを守る、お前は守らない。失神しても水かけて起こして蹴り続ける、みたいな不平等な関係なのが問題なんだよな。
ウシジマとかいう漫画にあったあれだよ。「金属バットで人の頭をフルスイングで殴れる人間が強い」ってやつ。俺はそんなことしないので、それができるお前の方が強いわけだ。
ところでウシジマはもう読んでないけど、ちゃんとウシジマ死んだ?あんなクソを生かしたまま終わるってありえないけど、作者はどう畳んだんだろうな?それともまだ続いてるのか?まぁいいや。
いじめってのは、「一方的に他者を攻撃できる」状態なんだよ。いじめをやるクズはチート状態だし、いじめられる側は縛りプレイなわけだ。
縛りプレイ中のプレイヤーとチートプレイヤーが対戦してるのがいじめなんだよ。
でまぁ、残念ながらお前は俺の時と違って「対等に一対一でやり合えてレフェリーもいる優しい優しい優しい優しい優しい世界」でお給料もらってるんで、お前も負けるときがあるよな。仕方ない。お前チート使わしてもらえないもんな。メリケンサックとかグローブに仕込んでみるのはどうだ?俺に使ったやつ、まだもってないか?やれよ。勝ちたいならそのくらいやるよな?
つーか負けるにしても失神くらいしろよ。判定負けとか甘いこと許してんじゃねーよ。鼻が折れるまで、腕が折れるまで、金を失うまで、友人を失うまで、人間の尊厳を失うまで戦えよ。金玉のひとつくらい潰れても戦って見せろ。「一個くらいいいだろ」お前が言った言葉だぞ。実践しろ。格闘家なんだろ?戦いを生業にしてるんだろ?負けたらすべてを失え。無様な姿の撮影会開かせろよ。試合に負けて鼻が折れて泡吹いて下半身裸の状態で撮影会しろ。それがあるんならお前の試合見に行くわ。
しかしちゃんと体重も同じくらいの相手を選んでもらってなぁ。うらやましいなおい。優しい世界だなぁ。すぐ病院にもいけてなぁ。スポンサーまでついちゃうんだもんな。俺、お前に金とられてたから実質お前の最初のスポンサーってことになるな。俺のことも動画で宣伝してみてくれよ。あるいは、お前のパンツに印刷されてるスポンサー様全員今すぐ殴りに行ってこい。「金サンキュー」とヘラヘラ笑いながらスポンサー様に膝蹴りしろ。今すぐやれ。
それとお前もヘビー級と戦えよ。何が「階級が違うと全然違う」だクソ馬鹿が。今からヘビー級のチャンピオンに殴り殺されて来いよお前。お前の体重とヘビー級チャンピオンの体重差は、俺とお前の体重差とあんま変わらんだろ。今すぐ男を見せて来い。無様な姿を見せて撮影会しろ。
まぁ、判定負けとかクソ過ぎて嫌になるけど、お前の負け試合はほんの少し俺の心を救ってくれたわ。お前が負けた相手もYoutubeやってたんで一通り見たけど、お前結構酷い評価受けてて笑ってしまったわ。
とはいえ、お前が負けたあの選手も過去に何やってるか分かったもんじゃないしな。俺みたいな人間を生贄にのし上がったクズかもわからん。安易に持ち上げないことにしておく。
でもまぁ、爽快だわ。ありがとう某選手。できれば失神KOとか下半身裸一本泡吹き一本とかまでやってくれたらよかったけどな。
いじめってのは上で書いたようなチートプレイの快感に似た部分があるんで基本的になくならないし、「できるとわかったらデメリットがメリットを超えない限りやり続ける」のが人間なので、今までもこれからもいじめで亡くなる人は絶えないだろう。学校だけではなく、これは職場でも同じだ。
ただ解せないのは、ゲームや格闘技などの優しい世界ではチートプレイヤーがBANされるのに、リアルでは被害者がBANされるところだな。
いじめというのは「実に人間らしい病理」なわけで、本来はいじめクソ野郎のほうを隔離して治療しなければならないだろう。
問題が早期に発見され、クソ野郎が速やかに隔離治療される流れが確立されれば、被害者は「災難だったな」で終わる話だ。被害はちゃんとお金に換算して弁償してもらえば、ムカつくが人生が崩壊するような被害は負わない。
文春の記事は(辛くて)読めてないが、TLなどから漏れ聞こえる内容によれば、長期的な拷問を受け続けていたということだ。悼ましいことだ。
日本は入管で公務員が拷問行為を職務としてやっている恐ろしい国なので改善は期待できないが、それでも「拷問は絶対にこれを禁ずる」国であるのは間違いないだろう。
拷問というのは長期間にわたって身体を拘束され、苦痛を味わわせる行為のことだろう。
長期的に加害者から離れられず被害を受け続けるいじめというのは、単なる傷害罪を超えた拷問に近い性質があるではないか。
学校はいじめ対策をいろいろ考えるよりも、まず「被害者と加害者を即離す」ことを徹底してはどうだろうか。
「絶対に禁ずる」という強い文言で憲法に明記されている精神を示してほしい。
被害者に逃げ道を示してあげるのは優しさなんかじゃない。「お前はいじめられた」というスティグマを刻むだけだ。
そんなことよりも、すぐに、すぐに、すぐに、すぐに、加害者をつまみ出してくれ。
一発殴られたくらいなら、嫌な記憶として忘れることもできる。
だから、一発殴られたくらいの苦痛のうちに、加害者を、隔離してくれ。
頼む。
お前は負けろ。
ツリーが伸びたら読まない人もいるので、投稿番号(31)で「興味がある論法」「なぜ『映画秘宝』ばかり批判するのか論法」「『映画秘宝』や町山智浩らに影響力は無い論法」を言い出した人に対する返答を、ここに転載します。【※2021/04/10さらに追記】島田紳助一派の悪行を告発した女性に対して「なぜ今ごろになって言い出すのか、その動機の方が気になる」と言う人間たちがいますが、ここでの「貴方」も同類だと私は思います。
=以下、転載=
【貴方】私の考える「面白い」というのは、興味関心を広げてくれる、新たな知見を得られるというものです。
【私】それは、差別的な言動、セクハラ・パワハラ的な言動の被害者の存在が「貴方の関心対象ではない」ことの証左でしょう。もっと言えば「町山智浩らの差別的な言動やセクハラについて、世間の人に関心を抱いて欲しくない」と貴方が考えているからこそ「興味関心を広げる」という欺瞞的な表現を用いて「世間の注目を逸らそうとしている」と私は解釈しています。
【貴方】端的に言えば、はてなの匿名ダイアリーで町山智浩氏をはじめとする映画秘宝関係者の過去発言をあげつらうことが、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのかということです。
【私】端的に言えば「そもそも町山智浩らの差別発言やセクハラの事実を知らなかった人間が、多数存在する」からです。私の投稿は、そのような人たちに向けて書いています。問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。
「あげつらう」という表現を用いていることからも、この人物が、表面的には差別発言やセクハラ・パワハラの被害者のことを考えているように装いながら、本心では加害者の側に立っていることは明白です。
これを「馬脚を顕す」と言わずして何と言うのでしょうか?
=追記ここまで=
【貴方】町山氏の差別体質が現在進行形で問題とするなら、本人のTwitterや、あるいはTBSラジオ、週刊文春等も糾弾するべきでは?(すでに実行されているなら申し訳ありません)
【私】「女が突然マニアックなことを言い出したら男の影響」発言、『ボヘミアン・ラプソディ』に関するペニスリング発言、他人に対して同性愛者とカミングアウトするように迫る発言などを批判しています。と言うか、そんなことも知らずに(つまり、これまでの投稿をろくに読まずに)批判しているのですか?手抜きですか?
【貴方】そうでないなら、「映画秘宝」誌の炎上騒ぎに乗じて「おれも町山、ヨシキに言ってやるぜ」と個人的な留飲を下げる行為ではないのか?
【私】おそらく貴方は、他の社会問題が批判の俎上に上がった時にも、批判者たちに対して「個人的な溜飲を下げる行為ではないか」と言うのでしょうね。
【貴方】キャンセルカルチャー、コールアウトカルチャーではないのか?という疑念を持つのです。
【私】私自身は「キャンセルカルチャーではない」と考えますが、その理由も投稿済みです。手抜きをせずに読んで下さい。
【貴方】差別やハラスメントをなくしたい、その道筋を考えたいという問題意識は共有したいと思います。
しかしそれは表面的な態度をけしからんと言い募るだけで解決するのでしょうか?
現実には差別やハラスメントを糾弾すべき聖職者が実は悪質なセクハラ犯罪者だったという例もあるわけでしょう
【私】「表面的な態度がけしからん」については、話が全くの逆です。私は「町山智浩や高橋ヨシキが、自分たち自身が同性愛者差別やセクハラ・パワハラを行う加害者であることを『隠して』、差別や不公正と戦う人間であるかのように『偽装』している」と指摘しているのです。私は「『実は悪質なセクハラをしていた人間』とは町山智浩や高橋ヨシキである」と言っているのに、貴方は何を頓珍漢なことを言っているのでしょうか?
【貴方】私に「差別やセクハラの被害者に対する想像力」が欠如しているというご批判は当を得ているかもしれません。
【私】自分でも分かっているなら、何とかした方が良いと思いますよ。
【貴方】現実に「差別やセクハラの被害を受けた人やそれを目撃した人が抗議したり批判する場面に遭遇」したら、実際に問題解決のために協力できることがあるのかものすごく悩むと思います。
【私】「FBBは問題発言するためのユニット『だから』」と言うような人間にそんなことを言われて真に受けるほど、私はお人好しではありません。たぶん貴方は、現実の貴方の身の回りで起きた差別やセクハラ(の被害を訴える人間)に遭遇しても「あの人(=加害者)は、ああいう人『だから』」「もっと面白い、興味関心を広げてくれる話を聞きたいな」と言って済ませて、悩みもしないのではないでしょうか?
もしも今、貴方が悩んでいるとすれば「如何にしたら、町山智浩らに対する私の批判を止めさせられるか?」についてでしょう。
【貴方】ですから、はてなの匿名ダイアリーで告発しようという発想にはたどりつきそうにありません。それは私にとっては興味深い、「面白い論点」です。
【私】恫喝DM攻撃、個人情報漏洩をするような人間や集団を批判するならば、批判の手段も匿名化せざるを得ませんね。
【貴方】最初に述べたように、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのか、ぜひ知見を賜りたい。
【私】上で述べたように、問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。それを理解できない人間が、いくら「知見」を求めたところで「豚に真珠」で「無駄」じゃないでしょうか。
【貴方】「別の論点」に関して言えば、数あるメディアの中でなぜ「映画秘宝」誌にこだわるのかということがあります。
差別発言やセクハラ発言を問題とするなら、他メディアと比べてそんなに違いや影響力があるのか、そういった論点も交えると増田の告発も説得力を持つのではないかと愚考するものです。
【私】たぶん貴方は、戦前・戦時中の日本の過ち(関東大震災当時の在日朝鮮人虐殺、アジア地域への侵出、南京虐殺、従軍慰安婦問題、戦時性暴力犯罪など)を批判する人間に対しても「他の国々も過去の歴史で過ちを犯しているのに、何故、日本のことばかりを批判するのか?何故、日本にばかり拘るのか?他の国々も批判すれば説得力が増すのに」と『反論』するタイプなのでしょう。
「大した影響力が無い」という馬鹿な言い訳を許して、見過ごし続けてきたことこそが『映画秘宝』内部でホモソーシャル集団的な病理を育み、差別的・セクハラ的・パワハラ的な言動を野放図に仕出かす人間たちを生む原因となったと、私は考えています。ここで「『映画秘宝』や町山智浩らは大した影響力を持たないの『だから』批判を止めろ」と言い出す人間は、端的に言えば『共犯者』に等しいと思いますよ。中小・零細企業で発生したパワハラやセクハラを、貴方は「大企業で起きた話じゃないから世間への影響は小さい」とか言うんですか?
【貴方】もし増田が実際に「映画秘宝」による差別やハラスメントを被った当事者なのでしたら、非礼をお詫びして、私にできることであれば協力するにやぶさかではありません。
【私】要するに貴方は「被害を受けた当事者でもない人間が批判をするな」と言っているのだと私は解釈しました。また、既に述べたように、貴方が被害者に協力的な人間だとはとても思えません。したがって、貴方の「協力するにやぶさかではない」という言葉も全く信用できませんのでお引取り下さい。それとも、もしかして「個人特定」を試みようとしているのでしょうか?
【貴方】さて、町山氏の活動でもファビュラス・バーカー・ボーイズはとりわけ露悪的な装いの表現と思いますが、
私の感想は「こんなこと言っていいの?でもなかったことにするのも違う気がする」というようなものです。
少なくともこの本を読んだ後では映画も素直に楽しんでいいのか?作品とプライベートの距離感とは?等々もやもやを抱えるようになりました。
しかし、差別やハラスメントの問題を考えるうえで一概に否定するものでもないととらえています。
もちろん、こんな表現はけしからんと批判するのも自由ですし、そもそも町山氏の著書を評価するかどうかも個人の自由ではないですか。
【私】個人の自由ならば、私が批判するのも自由ですね。貴方が自分の考えを言語化しないままに「もやもや」と言われても、こっちは賛同も批判もしようがありませんので「知らんがな」としか言えません。それこそ、貴方が「もやもやする」と言ったところで、それが差別やセクハラを無くすプロセスに、いったい何を寄与できるのですか?「一概に」と言うならば、その「一概には済ませられないこと」を言語化して下さい。言語化できないなら、ジャポニカ学習帳にでも「自分はもやもやする」と好きなだけ書き取りしていれば良いと思います。
【貴方】町山の本は差別的な表現に満ちていてひどい、と斬って捨てれば済むと思うのですが、なぜ逐語的に引用するのか?これもまた私にとっては興味深い「別の論点」です。
【私】私の投稿に対して「『映画秘宝』は一言一句『✕✕』とは言っていない。したがって『✕✕』とは言っていない」と『一言一句論法』を持ち出す人間がいたので、出典の明記と引用をするようになったのですが、その経緯も読んでないのですか?その経緯も読んでいない(調べてもいない)くせに「知見を得られる」とか「興味深い」とか、もっともらしいことを書いたのですか?何も調べないのだから、貴方は本当は興味なんて無いのでしょう。
【貴方】私の考える「面白い」というのは、興味関心を広げてくれる、新たな知見を得られるというものです。
【私】それは、差別的な言動、セクハラ・パワハラ的な言動の被害者の存在が「貴方の関心対象ではない」ことの証左でしょう。もっと言えば「町山智浩らの差別的な言動やセクハラについて、世間の人に関心を抱いて欲しくない」と貴方が考えているからこそ「興味関心を広げる」という欺瞞的な表現を用いて「世間の注目を逸らそうとしている」と私は解釈しています。
【貴方】端的に言えば、はてなの匿名ダイアリーで町山智浩氏をはじめとする映画秘宝関係者の過去発言をあげつらうことが、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのかということです。
【私】端的に言えば「そもそも町山智浩らの差別発言やセクハラの事実を知らなかった人間が、多数存在する」からです。私の投稿は、そのような人たちに向けて書いています。問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。
「あげつらう」という表現を用いていることからも、表面的には差別発言やセクハラ・パワハラの被害者のことを考えているように装いながら、貴方が本心では加害者の側に立っていることは明白です。
これを「馬脚を顕す」と言わずして何と言うのでしょうか?恥を知れとはこのことですね。
―――追記ここまで―――
【貴方】町山氏の差別体質が現在進行形で問題とするなら、本人のTwitterや、あるいはTBSラジオ、週刊文春等も糾弾するべきでは?(すでに実行されているなら申し訳ありません)
【私】「女が突然マニアックなことを言い出したら男の影響」発言、『ボヘミアン・ラプソディ』に関するペニスリング発言、他人に対して同性愛者とカミングアウトするように迫る発言などを批判しています。と言うか、そんなことも知らずに(つまり、これまでの投稿をろくに読まずに)批判しているのですか?手抜きですか?
【貴方】そうでないなら、「映画秘宝」誌の炎上騒ぎに乗じて「おれも町山、ヨシキに言ってやるぜ」と個人的な留飲を下げる行為ではないのか?
【私】おそらく貴方は、他の社会問題が批判の俎上に上がった時にも、批判者たちに対して「個人的な溜飲を下げる行為ではないか」と言うのでしょうね。
【貴方】キャンセルカルチャー、コールアウトカルチャーではないのか?という疑念を持つのです。
【私】私自身は「キャンセルカルチャーではない」と考えますが、その理由も投稿済みです。手抜きをせずに読んで下さい。
【貴方】差別やハラスメントをなくしたい、その道筋を考えたいという問題意識は共有したいと思います。
しかしそれは表面的な態度をけしからんと言い募るだけで解決するのでしょうか?
現実には差別やハラスメントを糾弾すべき聖職者が実は悪質なセクハラ犯罪者だったという例もあるわけでしょう
【私】「表面的な態度がけしからん」については、話が全くの逆です。私は「町山智浩や高橋ヨシキが、自分たち自身が同性愛者差別やセクハラ・パワハラを行う加害者であることを『隠して』、差別や不公正と戦う人間であるかのように『偽装』している」と指摘しているのです。私は「『実は悪質なセクハラをしていた人間』とは町山智浩や高橋ヨシキである」と言っているのに、貴方は何を頓珍漢なことを言っているのでしょうか?
【貴方】私に「差別やセクハラの被害者に対する想像力」が欠如しているというご批判は当を得ているかもしれません。
【私】自分でも分かっているなら、何とかした方が良いと思いますよ。
【貴方】現実に「差別やセクハラの被害を受けた人やそれを目撃した人が抗議したり批判する場面に遭遇」したら、実際に問題解決のために協力できることがあるのかものすごく悩むと思います。
【私】「FBBは問題発言するためのユニット『だから』」と言うような人間にそんなことを言われて真に受けるほど、私はお人好しではありません。たぶん貴方は、現実の貴方の身の回りで起きた差別やセクハラ(の被害を訴える人間)に遭遇しても「あの人(=加害者)は、ああいう人『だから』」「もっと面白い、興味関心を広げてくれる話を聞きたいな」と言って済ませて、悩みもしないのではないでしょうか?
もしも今、貴方が悩んでいるとすれば「如何にしたら、町山智浩らに対する私の批判を止めさせられるか?」についてでしょう。
【貴方】ですから、はてなの匿名ダイアリーで告発しようという発想にはたどりつきそうにありません。それは私にとっては興味深い、「面白い論点」です。
【私】恫喝DM攻撃、個人情報漏洩をするような人間や集団を批判するならば、批判の手段も匿名化せざるを得ませんね。
【貴方】最初に述べたように、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのか、ぜひ知見を賜りたい。
【私】上で述べたように、問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。それを理解できない人間が、いくら「知見」を求めたところで「豚に真珠」で「無駄」じゃないでしょうか。
【貴方】「別の論点」に関して言えば、数あるメディアの中でなぜ「映画秘宝」誌にこだわるのかということがあります。
差別発言やセクハラ発言を問題とするなら、他メディアと比べてそんなに違いや影響力があるのか、そういった論点も交えると増田の告発も説得力を持つのではないかと愚考するものです。
【私】たぶん貴方は、戦前・戦時中の日本の過ち(関東大震災当時の在日朝鮮人虐殺、アジア地域への侵出、南京虐殺、従軍慰安婦問題、戦時性暴力犯罪など)を批判する人間に対しても「他の国々も過去の歴史で過ちを犯しているのに、何故、日本のことばかりを批判するのか?何故、日本にばかり拘るのか?他の国々も批判すれば説得力が増すのに」と『反論』するタイプなのでしょう。
「大した影響力が無い」という馬鹿な言い訳を許して、見過ごし続けてきたことこそが『映画秘宝』内部でホモソーシャル集団的な病理を育み、差別的・セクハラ的・パワハラ的な言動を野放図に仕出かす人間たちを生む原因となったと、私は考えています。ここで「『映画秘宝』や町山智浩らは大した影響力を持たないの『だから』批判を止めろ」と言い出す人間は、端的に言えば『共犯者』に等しいと思いますよ。中小・零細企業で発生したパワハラやセクハラを、貴方は「大企業で起きた話じゃないから世間への影響は小さい」とか言うんですか?
【貴方】もし増田が実際に「映画秘宝」による差別やハラスメントを被った当事者なのでしたら、非礼をお詫びして、私にできることであれば協力するにやぶさかではありません。
【私】要するに貴方は「被害を受けた当事者でもない人間が批判をするな」と言っているのだと私は解釈しました。また、既に述べたように、貴方が被害者に協力的な人間だとはとても思えません。したがって、貴方の「協力するにやぶさかではない」という言葉も全く信用できませんのでお引取り下さい。それとも、もしかして「個人特定」を試みようとしているのでしょうか?
【貴方】さて、町山氏の活動でもファビュラス・バーカー・ボーイズはとりわけ露悪的な装いの表現と思いますが、
私の感想は「こんなこと言っていいの?でもなかったことにするのも違う気がする」というようなものです。
少なくともこの本を読んだ後では映画も素直に楽しんでいいのか?作品とプライベートの距離感とは?等々もやもやを抱えるようになりました。
しかし、差別やハラスメントの問題を考えるうえで一概に否定するものでもないととらえています。
もちろん、こんな表現はけしからんと批判するのも自由ですし、そもそも町山氏の著書を評価するかどうかも個人の自由ではないですか。
【私】個人の自由ならば、私が批判するのも自由ですね。貴方が自分の考えを言語化しないままに「もやもや」と言われても、こっちは賛同も批判もしようがありませんので「知らんがな」としか言えません。それこそ、貴方が「もやもやする」と言ったところで、それが差別やセクハラを無くすプロセスに、いったい何を寄与できるのですか?「一概に」と言うならば、その「一概には済ませられないこと」を言語化して下さい。言語化できないなら、ジャポニカ学習帳にでも「自分はもやもやする」と好きなだけ書き取りしていれば良いと思います。
【貴方】町山の本は差別的な表現に満ちていてひどい、と斬って捨てれば済むと思うのですが、なぜ逐語的に引用するのか?これもまた私にとっては興味深い「別の論点」です。
【私】私の投稿に対して「『映画秘宝』は一言一句『✕✕』とは言っていない。したがって『✕✕』とは言っていない」と『一言一句論法』を持ち出す人間がいたので、出典の明記と引用をするようになったのですが、その経緯も読んでないのですか?その経緯も読んでいない(調べてもいない)くせに「知見を得られる」とか「興味深い」とか、もっともらしいことを書いたのですか?何も調べないのだから、貴方は本当は興味なんて無いのでしょう。
日本社会における病理、他国と対等に関係を築けず、少子化か続き、常に何かに怯えるような病的で不幸な社会を作り出している原因は現在のポリコレではないだろうか。
性的なものを嫌悪し、プライベートな空間を否定し文句をつける。「男性性を批判し反省しろ」だの罪悪感を持つことを強制したり
ジェンダーレス絶対とし、ルッキズム・エイジズムを一片も許さない。自分が達成できなかった夢や理想、社会に押し付けて常に呪いの言葉を吐く
そしてそれらを「あなたたちのため」と言い譲らないのだ。
毒親の定義、恩着せがましい・過保護・過干渉・否定・罪悪感の植え付けとポリコレは同じことをしている
彼ら、彼女らは自分は子供を持たなくなった代わりに、民衆に対して父性・母性を発揮しようとするが
毒親に育てられた為に健全な関係を築く事ができていない。幸せでありたいと願いながら、同時に圧倒的支配者である父と、管理する母親を求めている。
そんなポリコレを作り出したのは確かに、性的役割を重視し押し付ける毒親、過去のポリコレである。
このままだと社会全体がアダルトチルドレンとなり、不幸に漬かることを当然とし、それを永遠に、無気力に再生産する不幸の星になる。
さて、今年度の7月に適応障害と診断を受けてから8ヶ月の時間が経ちました。
この8ヶ月の中での変化や、心や気持ち・環境との対峙の仕方などについて書いてみたいと思います。文脈が崩壊したり、段落のつながりが見えなかったりしたら、ごめんなさい。
【読んでくれると嬉しいなーという人】
1、診断の効用と注意点
診断が下ったことで、自身の状態が外部のストレス環境に大きく依存するということがわかりました。環境によって波は大きくなったり小さくなったりしますが、そういった波とうまく付き合っていくための方法を獲得できました。もちろん、まだまだ未獲得だったり、未学習な部分も多いですが。
(これについてはあとで詳しく書きますね)
一度自身の精神的にきつい状態を認めて病院に行き、診断をもらうということは、”病理”の世界に立ち入るということなのだと思います。
そうなったときに、一点不安だったことが、自分のアイデンティティの根っこを「病気」に持っていかれるのではないかということでした。つまり「病気だ」というラベルを自分自身につけて剥がせなくなるということです。これはメリットもデメリットもあることだと思います。
例えば、症状がひどかった当時は、診断書をかばんに入れて持ち歩いたりしていました。おそらく当時を振り返るに、自責傾向の強い自身にとっては、「自分は病気だ」とラベルを貼ることが唯一自分を責めないための手段だったのだろうと思います。「がんばらないと自分の価値がない」という精神的シャカリキさから、「もうがんばらなくてもいいんだ」という気持ちへ、診断を機にやっと切り替えることができた感じですね。診断の力はすごいです。
また、適応障害を機に、調べたり本を読んだりすることで、自分の認知がかなり歪んでいるということにも気づくことができました。(「認知の歪み」は過去記事にもある通り、去年の7月に「みんな私のことが嫌いなんじゃないか」などの考えのことですが、これは日常のささいな他人の言動を捉えるときにも適応されるので、取り組むことは一定重要な課題だと思います)。これは一朝一夕では解消されないので、なかなか苦労していますが、長期的に改善できるといいなと思います。
③別の病気への移行
適応障害はストレス環境により症状が出てしまうという一過性のものなので、ストレス環境から身を離せば、症状がなくなります。ただし、うつ病(恒常的な)だったり双極性障害にも移行するということもあり、ちょこっと注意しなきゃいけないな…と思っています。
この移行は、診断をきっかけに起こることなのかわからないですし、ごく個人的な所感なのですが。あまりに病識が強くなりすぎた場合に、「ほかの病気のこの側面も自分の状態にあてはまるんじゃないか…」と強く思いすぎることにより、自分の不安定な状態を強化していく…というサイクルに入るんじゃないかなと思います。ここについては、ちょっと個人的に思うところもあるので、また別の記事に機会を見てまとめます。
2、波とうまく付き合うためのあれこれ
①感情を記録する
「muute」というアプリを用いて感情とその日にあった出来事を記録しています。記録することでよかったことはまだよくわからないけれども、2ヶ月くらいやってみた所感として「気分がいい時には記録つけない」「気分が落ちすぎていても記録つけられない」ということ、軽くしんどい時には記録を取れます。記録を見返すことで、「何がきっかけで落ちることが多いのか」を把握することができます。あと、アプリのデザインがかわいい。そして、毎週AIからの「ニュースレター」が届くのが嬉しい。
もうちょっと重めの出来事を整理するのために「認知行動療法アプリ」というアプリを入れています。これは割とがっつりと書かなきゃいけなかったり、アプリのデザインもあんまりかわいくなかったりするので、個人的には使いにくいなーと思うんですが、ちゃんとやれるならよいと思う。私は一度だけ、先月末に仕事であった出来事を振り返るために使いましたが、頓挫しました。認知行動療法を一人でやりきるのは、結構エネルギーがいるので、信頼できる人と一緒にやれるといいかもです。だれか一緒にやろう。
②依存先について
どっかの大学の熊谷先生は「依存先を増やせ」ということを常々から言っていますが、その通りです。依存できる場所は分散し、相談の内容もそれぞれに分けられると超ベスト。これは相手のためでもあるし、自分のためでもあります。
ざっとあげると、「母親」「病院」「社内の相談窓口(キャリアセンター、こころの相談センターなど)」「仕事の同僚」「退職した元同僚」「パートナー」「知人」「元劇団の人たち」などかな。大学とか会社とかなんらかの組織に属している人は、組織のリソースはガンガン使った方がいいです。これ読んでいる人に学生さんがいたら、とりあえず健康センターとか保健室とか、なんでもいいから、お茶しばきに行く感覚で軽めのノリで一度はいっとくことをおすすめします。相談のハードルを元気なときに下げておくことも大事です。
個人的な話に戻ると、最近は友人との接触頻度を増やすことに意識を向けています。例えば、「ゲームやるだけの仲間」に入れてもらったり、過去の大学の友人に気軽に話せる場(「mocri」というアプリ)を持ったり、「〇〇の会」と称してエネルギーのある時には知人を家に呼んだりしています(例、「私たちのためのバレンタインの会」など)。対面で会うのは結構エネルギーいるから、そのときにはオンラインの手段もまぜこぜにしながら、ぼちぼちね。
あと、予定の管理がなかなかできないので(当日体調が悪くなったり、コンディションが悪くなるということが結構ある)、気の知れた人には「波が読めないので、当日連絡するか、遊びをやってることだけ教えてもらえたら当日調子がよければ行く」というふうに事情をつけて話しています。
③過敏さとの向き合い方
今「HSP」なんて言葉が大流行しており、書店での平積みも凄いことになってますが、「過敏さといかに向き合うか」という命題は、特性によりけりでしょうが、「すぐ疲れちゃう」と感じている方にとっては、とても大事です。情報の取り込みすぎは、疲れちゃうから制限しながらね。私の方法を載せておきます。
【音】
音への過敏傾向のために「耳栓」はマストです。トイレやキッチンの換気扇や冷蔵庫の「ブォーン」という音が気になった時には情報取り込みすぎのサインだと思っています。
最近耳栓が役に立ったのは、水族館のイルカショーに行った時でした。意図せずスピーカーの真ん前に席を陣取ってしまい、生の音に触れた時には頭が割れるかと思ったので、よいしょとつけました、危機回避成功。あとは最近は電車ですね、地下鉄とJR快速は要注意。窓が開いていて大変に脳みそに音が突き刺さってくるのでイヤホンもしくは耳栓マストです。
【光】
これは入社当時から苦労していたのですが、白熱電球が大の苦手でして。白熱電球の下にいるだけで、パフォーマンスが低下することがわかっています。だから、なるべく太陽光を取り込んだり、廊下の光だけで部屋の中は電気を消したりと、いろいろ工夫をしています。前の教室とかだと「電気ついてるけど消そうか?」とか「窓のある部屋がいいですよね」とか、スタッフみんなが配慮してくれました。感覚はひとそれぞれだから、しんどいときにはちゃんと言えることが大事です。ちょっと勇気いるけど。
【睡眠】
ストレスサインとして「悪夢」と「途中覚醒」は念頭に入れておいています。キャパシティを超えるストレスを受けた時って、交感神経優位な状態で睡眠に入ってしまうことが多いので。交感神経鎮めてから入眠する(お風呂に入ったり、湯たんぽ使う)などがベストですが、極度に疲労しているとそれもできにくいと思うので、お薬の相談もできるといいかなと思っています。自分はまだ眠剤は使用していないですが、場合によっては。
【教えて】
スマホとの距離感は、今試行錯誤です。依存気味なので、いい方法あったら知りたいです。
【その他】
鬱の状態のときの衝動性は怖いなとも思うんですが、早く通り過ぎるものに吸い込まれるってのは、本当にあるのね。だから「ホームの端っこにはいかない」「赤信号の時には道路のキワに立たない」ことは普段から意識をしたいものだなって思います。
3、最後に
新年度が始まり、社会人4年目になる4月に向けて、近況報告がてら書いてみたいという思いで書き始めましたが、波と付き合うための手立てやアウトプットできることがなかなか増えていて、自分でも感心しました。
こないだ見た映画で「いいなあ、君は私とは別れられるけど、私は私とは別れられないんだよ」というセリフがあって、「あーその通りだなー」ってぼんやりと思ったんですよね。そうそう、別れられないなら仲良くする方法を探すしかないのです。死ぬ勇気もないので生きるしかないんですが、穏やかに生きられるための方法や環境をゆるゆる作っていきたいものです。
今回は、町山智浩や高橋ヨシキ、彼らの周辺人物に見られる「派閥根性」や「舎弟根性」の話になります。もっとも、この病理は彼らだけに特有の問題ではありません。
雑誌『映画秘宝』内部における町山智浩・高橋ヨシキ周辺の行動を観察していると
―――秘宝組のアニキが『映画秘宝』外部の誰かと揉め事を起こしたら、組の子分たちは無条件で「アニキが正義!」と云う立場に立ち、彼らが「アニキの敵」と見なした相手に対して一斉に攻撃を仕掛ける―――
例えば比較的最近の話になりますが、春日太一氏と町山智浩との間にトラブルが持ち上がった際、高橋ヨシキらが春日氏のことを「どこかの馬の骨」呼ばわりして揶揄し、彼らの内輪で盛り上がっていた事を知っている人もいるかもしれません。これはそもそも、町山智浩がイイ加減な仕事ぶりだったが故に呆れた春日太一氏が町山を批判したと云う次第なのですが、町山の子分である高橋らにとって「町山のアニキは正義!」なので、春日氏を激しく攻撃したという訳です。何しろ、高橋ヨシキは「町山さんのことが大好き」なので。
この様な「アニキ絶対主義」や「敵対者には厳しく仲間・身内には甘い」という彼らの行動パターンは、下っ端にも浸透しているようです。
恫喝DM事件が発覚して以降、様々な人間が『映画秘宝』に対して―――特に町山・柳下・高橋・てらさわらのような「時代の変化に対応できていない人間たち」に対して―――批判を行いました。ロマン優光a.k.a.プンクボイ氏も、批判を行った人間の一人です。(もっとも、ロマン優光氏は『映画秘宝』や町山らだけを批判した訳ではありません。もっと広く、一部のサブカル界隈人の歪な考えや言動に対して批判したのです。しかし、それはここでの本題ではありません。)
このようなロマン優光氏の批判が、何かしら気に食わなかったからなのでしょう。柳下毅一郎は、自身のTwitterアカウントで「ロマン優光氏の書いた雑誌コラム記事の誤植箇所1箇所に赤丸を付けた画像」をアップした上で「ふうん」と一言だけ添えるという、謎のツイートを投稿したのです。何か反論したり言い返したりしたかったけれど、上手く出来る自信が無かったので、現在の柳下毅一郎なりに出来る精一杯の反撃をしたつもりだったのでしょう。
でも、別に誤植は批判や議論の本質とは関係が無いのですから、柳下毅一郎の行動は「みっともない」の一言に尽きると私は思いました。
ところで、この柳下毅一郎の動きに呼応した『映画秘宝』関係者が一人いました。切り株派ライターの一人で、筆名「侍功夫(samurai_kung_fu)」を名乗る人物です。
今回の投稿の本題である「派閥根性」「舎弟根性」の実例を示す『映画秘宝』周辺者の一人です。
この侍功夫は、草「w」をたくさん生やしながら、精一杯に揶揄する内容のツイートを連続して投稿しました。誰を?何を?
不思議だったのは、この一連の揶揄ツイートがロマン優光氏に向けていることは(事情を知っている人間ならば)誰の目にも明らかであるにも関わらず、何故か、侍功夫はツイート本文を「誰に向けて言っているのか」「何について言っているのか」をボカして書いたのです。
私は「不思議」とか「何故か」と書きましたが、殆どの人は「理由や意図はハッキリしている」と思うことでしょう。
そうです。侍功夫は「ロマン優光氏に自分のツイートを知られて、反論されるのが怖かった」のです。
それでも侍功夫は、柳下のアニキに向けて自分の忠誠心を、何があってもアニキの味方であり続けることをアピールしたかったから、勇気を振り絞ったのでしょう。見上げた忠誠心です。
そういえば、真夜中のパワハラ事件が発覚した際にも、やはり侍功夫は「説得とパワハラは違う」と謎のツイートをしました。しかし、これも矢張りボカし過ぎて「何」について言っているのか、「批判」をしたいのか「擁護」をしたいのか、その対象はそもそも「誰」なのか、何ともハッキリしないツイートでした。
私はハッキリ書きますね。
「誰」に対して「何」を言いたいのかが不明な文章を書きたがると云う気質は「ライターとしては『致命的な欠点』」じゃないでしょうか?
もしも、町山智浩あたりが読んだら「お前の文章は何を言いたいのか分からねえんだよ!」と言うのではないでしょうか?
それとも、そんな欠点を持つライターでも「アニキ絶対主義」と云う忠誠心を持って「切り株派閥」に入信さえすれば、それなりに仕事を回してもらえるから、欠点を気にする必要が無いのでしょうか?
これまで政治家とか社会問題に関しては雄弁に批判してきたくせに、仲間が不祥事を起こしたら途端に口数が減ったり曖昧な表現に終始するのは、ちょっと恥ずかしくないですか?
普段は「反・権力」を売りにしてるのに、いざ「仲間の不祥事」に直面したらトーンダウンするのは、ちょっと格好悪くないですか?
ただでさえ柳下毅一郎本人の行動がみっともないのに、子分までこれでは「恥の上塗り」じゃないですか?
自分の言動が、フィクションに登場する「チンケな雑魚キャラ」に似ていると云う自覚はお持ちですか?ベタ過ぎると自分でも思いませんでしたか?
私は、以前の投稿で「『映画秘宝』関係者は、彼らの目から見て『弱そう』だったり『反撃してこなさそう』に見える相手にはヤンチャに振る舞いたがる」と云う、彼らの行動パターンを指摘しました。
上で述べたような、侍功夫の「精一杯、草を生やして書いてはいるが、誰に向けて書いたのかを意図的にボカして、相手に知られないように画策しているツイート」は、その実例の一つと言えるでしょう。
その後、侍功夫は私の投稿に対して「損しかしないことに巻き込まれるところだった」「増田の馬鹿に言及された」とのツイートをした模様です。彼の反応に対する評価は、皆様にお任せします。
【追記ここまで】
今回はここまでにします。
次回からは『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』から、町山智浩と柳下毅一郎の問題発言の引用を始める予定です。ヘイル、サタン!
知能コンプレックス、持ってないよ
高卒のアホなりに考える頭の良さ
一つの事象から類推できる連結能力。 記憶力。 記憶力を連想変換できる能力(記憶術等)。 事象を記号化して整理できる。 上記のメソッドなどを思いつく事象や抽象概念の分解能...(
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それで何すんの?
↓
↓
↓
↓
[University of Iowa] Pigeons can discriminate both space and time
https://now.uiowa.edu/2017/12/pigeons-can-discriminate-both-space-and-time
鳩は空間と時間の両方を区別することができます(そもそもタッチスクリーンを操作出来る)
[CNN] ハトを使って乳がん発見、米研究チームが実験
https://www.cnn.co.jp/fringe/35073804.html
カリフォルニア大学デービス校のリチャード・レベンソン教授(病理学・臨床検査学)らの研究チームが明らかにした。
15日間の訓練の結果、ハトは初めて見る画像であってもがん細胞の有無を85%の確率で見分けることができるようになったという。
[APP] 鳥類の「賢さ」、小さな脳に密集する神経細胞が寄与? 研究
https://www.afpbb.com/articles/-/3090392
小さな脳を持つ鳥の「賢さ」に科学者らは長年、頭を悩ませてきたが、13日に発表された研究論文によると、
↓
お前の最初の鳩に対する問いの内容を絞れということなのか、それとも単なる検索自慢なのかがわからん。 そりゃマインドのことだと思って適当にいなすわ。
↓
増田があげているいくつかの項目においてハトは生得的に人間以上の能力を持つけど
って言われても腹立たんやろ。スルーする
それと同じで増田が定義する頭の良さとやらで煽られても多くの人はスルーする
増田が重要視していることを必ずしも他の人は重要視しないからだ
■「本は整理された表現で書かれている」とドヤ顔してる奴が薦めるビジネス本ってさ(2020-11-03)
ブログと同じレベルの文章が単に300ページ分詰まってるだけだよな……。
話、支離滅裂で整理されて無くて同じ話何度もしたり、思い出したように別の話始まったりするし……。
あれ整理されてると思ってるやつて、単に本という媒体で纏まってれば整理されてるように感じるのだろうか。
マジでアホって凄い。
↓
そういうレベルでも問題なく社会でやっていけるのが世の中なので知能とか関係無いですよってずっと思ってるが
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
尾崎だの山田かまちだ、長渕の言ってるナルシシズムな青春より、ギークな方面しか興味がない奴らがその頃にもいた。
潜在的なギークたちは80年代のネアカ、ネクラという今で言う陰キャ陽キャに相当する用語のターゲットになるまいとして自らを隠し通さなければならなかった。
いまやギークな人々は口を揃えて洋画劇場のバルスを唱え、Twitterのサーバを落とす程になった。
どっちがいいかといえば表面的に倒錯的で内面は冷え切っているオタク、表面上クールぶっていて内面が倒錯だらけの尾崎ファンが入れ替わった程度だと勝手に思っている。どちらがいいとかそういうものでもない。
俺たちは夜の校舎の窓ガラスに興味がない。なぜなら家に帰ってアニメを見るからだ。
なんだよ「二次創作が全然ない。つまり駄作なのは間違いない」って……
滅茶苦茶言い過ぎだろ……
叩いていいとレッテルが貼られたものを精一杯叩くのに必死で理屈なんてどうでもよくなってるってパターンじゃん
ほんまキッツいわあ
そしてコイツらはそういうことしといて自分は正義だと抜かすからな
人間の心理をハックして自分に都合のいい率句を展開して他人を食い物にすることに罪の呵責を覚えない
キンコンと全く同じ病理を患っておきながらキンコンを叩いてるんだからもう笑うしかないね
おぞましい奴らだよ
こんな奴らが正義のオタクの代表面をしてても面倒くさいから放置するしかないんだから