はてなキーワード: 病理とは
冗談じゃない。
田舎で好きでもない医学をシバいている女として、一言物申したい。
「Sai no Kawara」が全てだと思わないでほしい。
当人が嫌いというわけではないし、病理医を目指す志は本当に尊敬する。
このまま夢に向かって突き進んでほしい。
ただ、入試差別を受けた者の声を代弁しているような姿勢、そしてそれを称賛する薄っぺらい人たちが気に食わない。
そもそも論だが、私大医の入試を受けられる時点で、金銭的に相当恵まれている。
再受験を認めてくれる親も懐が広いなあと思う。
受験にかかる費用をどれだけ自分で稼いだのかは知らないが、多分全額自費ということはないと思う。
まともな社会人が独力で稼げるような金額ではない(もしそうなら本当に尊敬するが)。
つまり、私立医が視野に入る時点で、アッパークラスに属しているわけ。
でもカネがない。女子だと親の許しが出ない。家賃も仕送りも論外。
奨学金という手もあるけど、勤務地縛りや厳しい条件がつきもの。挫折したら全額返金。
医学部の女子差別とかいうけど、もっと根本的な問題が受験制度には存在すると思う。
けど、「地元に医学部あるんだから、そこに進学すること以外許さない。あと現役以外もありえない」みたいな感じで拒絶された。
残念なことに、こういう言葉をかけられたのは私だけじゃないんだよな。
田舎のそこそこ勉強できる女子は、ある種の洗脳を受けていると言ってもいい。
そりゃそうだよね。DV夫に引っかかったときすぐに離婚できるから。
そんなことないと思うんだが?
あと「女医」ってだけで人格攻撃受けがちなのマジで何とかならないかな。
プライド高いって、プライド高い男性医師の方が圧倒的に多いだろw
Sai no Kawaraを聞いて安直に感激する人たちは、田舎の狭っ苦しい社会にもっと根深い賽の河原があることに気付いてほしい。
結論:生きづらさは
A:能力の欠如
と
B:認知の歪み
の2種に大別でき、どちらも構造的に本質的な解決が非常に困難であるため生きづらさが継続してしまう。
Aは失敗が定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい。
Bは失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくく、解決にとてつもない時間とリソースがかかる。
ーーー
1:会社勤めも割と苦じゃなく年収も人並みにあるし、2:恋愛のパートナーや親しい友人を作るのもわりと容易にできる。
で、人生で「生きづらい(と自認している)人」からその2つについて相談を受けるので答えているが解決に至らない。
自分は再現性があると考えられる情報を伝えるのが個人的に好きなので一生懸命伝えて行動してもらうが、10年レベルで支援しても解決しない。
どうやら生きづらい人は「生きづらさを固定化するなんらかの要因」を抱えているようだ、と色々な人を見て考えていくうちに2種類の生きづらさに大別できると考えるようになった。
一つ目は、
A:能力の欠如
先天的もしくは後天的に、身体or精神のうち何らかの能力が欠如している。どちらも健常者であればある程度訓練で向上させられるが、伸びが悪いか全く伸びないため生きづらさが固定化される。
解決策としては欠如した能力でも十分か、もしくは評価の対象にならない領域を探すこと。
身体欠損があるならデスクワークにするとか、病的に忘れっぽくても一切気にしないパートナーを探す、など。
2種類の生きづらさのうち第三者からでも割と容易に認識しやすく、失敗も定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい方である。
B:認知の歪み
幼少期の家庭環境によって健康的な愛情を与えられず、ゆがんだ形でしか愛情を受け取れない、与えられないため、良い人間関係を形成できない状態だ。
例えば両親からネグレクトされ、非常に不安な状態で幼少期を過ごすと、不安であることが心のニュートラルポジションになってしまう。
劣悪な環境で生き延びるために「「あんたなんかいない方がいい、さっさといなくなれ」という言葉を通して愛を確かめようとする」ような、いびつなインプットアウトプットを何万回と繰り返し、ゆがんだ思考回路を獲得しており、大人になってもインプットとアウトプットがゆがんだフィルターを通して行われるため、どれだけ周囲から適切な愛情や改善策を与えられてもそれをうまく取り入れたり、行動に移すことができないため生きづらさが固定化されてしまう。幸運にも結婚して子供ができても、「愛されること=ネグレクトすること」という前提があるため子供に親にされたことと同じことをしてしまいまた生きづらくなる。(「自分の子供を愛しているからネグレクトしない」を実行すると、「自分は愛されていなかったらネグレクトされていた」を受け入れなくてはならず、強烈な葛藤が生まれる)
もし、ゆがんだフィルターをかいくぐって正しいインプットを認識したとしても、不安でない状態から逸脱すると非常に疲れたり、より強度の高い不安を感じてしまうため、不安が継続できる状態を維持しようと(意識的、無意識的のどちらかかあるいは両方で)行動してしまう。
この認知の歪みパターンは、まず第三者から認識しにくい。一緒に仕事をしたり時間を過ごすうちに「あれ?」が重なっていきフェードアウトした方がよい人扱いされていく。
インプットとアウトプットが複雑に歪んでいるため失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくい。
本人もいびつな思考回路を変えたいと思ってはいるが、仮に本質的な解決策が見出せたとしても、それは心のニュートラルポジションを変えるということになり相当の精神的な痛みが必要で、本人が【生きながらにして】生まれ変わるくらいの覚悟が必要である。
ーー
実際にはAとBの中に無数の差分があって、さらにAはBを誘引しやすく、見分けがつきにくい。
生きづらくない人が「生きづらい人」ともし関わりたい、関わらざるをえない状況にあるとしたら、まずAとBのどちらの生きづらさかを考えてみてほしい。
Aの場合は失敗が定型化されやすいという特徴があるため、それをシステムで自動化したり、別の者に担当させたり、評価の対象に入れないことでするっと解決できたりする。
問題はBの場合で、こちらは解決策が見出しにくく、生きづらくない人からすると「何でこんな簡単なことができない?」と思い何度も矯正しようと試みるが、当事者からすると強烈な負荷になっており、心のニュートラルポジションの変更を迫られるため全人格をかけて反抗してくるので、最悪取り返しがつかない関係になってしまったりする。
(心のニュートラルポジションを変える辛さを例えるなら、あなたが「今日からあなたが出会う初対面の人全員の顔面を、全力で殴らなくてはならない」という生き方を受け入れる、くらいの難易度だと考えるとわかりやすい)
なので「これはBだな」と思ったら、解決することはいったん【保留】すること。本人がいちばん悩んでいるものなので、本人にとって向き合うときがきたら勝手に解決される。
どうしても解決したくなったら、「人にはそれぞれ、自分自身を救う力があるのだ。成長のチャンスを取り上げてはいけない」と自分に言い聞かせて、態度を保留するように。
ーー
「いや、保留してたら仕事(恋人)として破綻するんだよ!!今すぐ何とかする方法を教えろや!!」とお考えになったあなたは、残念ですがあなたから関係を切り離すか、その権限がないなら相手の過失によって向こうが離れていく日を待つしかありません。この構造をなんとなく思い返していただいて、その人の怠慢だけが原因ではないのだ、彼(彼女)はこの社会の病理を背負って必死に生きているのだ、と思って怒りや悲しみを和らげつつ、なんとかして保留のリソースを確保してもらえたらと思います。
個別の喧嘩の発端は…こちらに責があることもあれば向こうに責があることもあるし、最初は自分が我慢して済むならそれでもいいやと思ってたんだけど、やっぱり理不尽な怒りの暴発を難度も経験すると、徐々にこっちの自尊心が削れてくるし、不機嫌の徴候が見えるだけで心理的に身構えてしまうんだよね。無意識のうちに、相手の地雷(どこに埋まってるかわからないんだけど)に触れないように立ち回るようになる。そうすると家庭が安心できる場でなくなってしまう。
もともと彼女自身にも、そういう感情的制御ができないことの自覚はあるし、直したいとも思っているんだけど、キレてる最中に「そういう言い方や態度はよくないよ」と意見しても耳に入らない。「どうせ全部私が悪いんでしょ」「はいはい、また私のせいなんだよね」となって会話を打ち切り、刺々しい振る舞い(ドタドタ歩いたりドアを閉めたりモノを乱暴に扱ったり)して、後には不機嫌な空気だけが残る。これがなんともやるせない。一定時間が経って落ち着くと、何もなかったように振る舞うか、一応は「ごめんなさい」と言ったりもするんだけど、そういう殺伐とした感情って人の心を痛めつけるんで、お互い何もなかったように振る舞っていても、やっぱりこっちの心は無傷じゃなくて、刺されたり殴られたりした疼きが残る。たぶん相手の心も無傷じゃない。どっちにもいいことがない。
で、子供が生まれて物心がついてきたのを機に、お互いに真正面からこの問題に向き合うことにした。子供が親の逆上や不機嫌に萎縮するようになったら誰にとっても不幸だ、というのはお互いの考えが一致していたので。
実はこの「子供との関係」というのが重要で、結論から言うと、彼女が毒親(母親)に非常に悪い育てられ方をしてきたことが全ての起点になっていた。母親、自分から見ての義母は、幼い頃の彼女を蹴ったり殴ったりした。氷点下に近い納戸に数時間閉じ込めるという身体的虐待もあったし、ネグレクトも罵倒もあった。理由は、折り合いの悪い義祖母に顔立ちが似ていたから、ということもあったようだし、良家同士の見合い婚で専業主婦になった自分にとって「育児を成功させ、娘は良家に嫁がせる」ということが唯一かつ至上の役割になっていたこともあったようだ。それほど受験戦争が激しくない地方にあって小さい頃から娘に複数の塾や家庭教師をつけ、成績が思うように伸びなければ「あんたはなんでできないの」「私が恥をかく」と詰め、娘の夏休みの自由課題が賞をもらった翌年からは、傾向と対策を踏まえて母親が課題を制作し、受賞すればそれを周囲に誇るようになった。義母にとって娘は自己の付属物であり、自分の能力と努力を表示する成果物だった。これは娘側の一方的証言ではなく、義母本人がそのことを問い詰められて(娘以上に感情的に)キレたり、逆に緘黙する状況を自分も見ているので、嘘や極端な誇張はないと思う。
そういう母親との間で育った娘である奥さんは、根本のところで自己肯定感がとてつもなく低く、「自分には価値がない」という強迫観念に苛まれていた。彼女は親元から離れたあと、亡父の尽力もあって学歴にはやや不相応な金融総合職につくことができ、廻りの高学歴の人達に揉まれながらも持ち前の根性で「コネ入社の腰掛けさん」に留まらない営業成果を出し、職場でも多くの同僚に認められるようになった。でも、これは見方を変えると「自分が無価値な人間ではない」ということを自らアウトプットや業績評価によって証明し続けなければいけなかったからそうしていたわけで、その「頑張り」は結局は不安と強迫観念によってドライブされてたんだよね。背景にそういう動機があって「頑張り続けなければいけない」人がどうなるかというと、最後はメンタルヘルスを崩し、拒食症になり、自己都合で退職した。つらい。
その後いろいろあって彼女は自分と結婚したんだけど、お互いに落ち着いている時に(感情的にチャージされてない状況で)この課題について話し合い、時にはネットの情報や心理学の書籍なども参照しながら考えるなかで、激昂の背後にあるのは自己肯定感のなさだということが見えてきた。彼女は成長の過程で「人間は能力や実績によってだけ認められるわけではなく、ただ人間であるだけで価値がある」という確信を得てこなかった。母親から与えられたのは条件付きの愛で、条件を満たさなければ存在自体を否定された。だから「認められるために頑張る」という所作が身についた。
頑張りの中には「社会的に認められる人格を演じる」ということも入っているから、ソーシャルマナーはちゃんと実践できる。人当たりはよく、好感度も高い。しかしそれはあくまで「舞台」に立って「頑張り」を発揮して評価を獲得しなければならない状況での話で、身内にはこのルールが適用されない。だから親族や家族の中に(彼女の基準で見て)頑張っていない人(例:私はこんなに頑張ってるのに、あなたは)、彼女の頑張りを認めてくれない人、彼女の頑張りの成果をスポイルする人(例:頑張って片付けたのにまた散らかして)に対しては、時に制御の効かない怒りを感じ、苛烈な言葉や行動を直接ぶつけてしまう。自己肯定感が低いから、他者を無条件に肯定できない。自分に課した高いハードルと同じ評価基準を相手にも課し、それを満たさない相手を詰る。そういうメカニズムがあるみたいだった。
ついでに言うと、彼女の母親にとっては娘自身が「彼女の頑張りをスポイルする人」(一生懸命教育してるのに成果を出さずに「私に恥をかかせる」から)だったので、娘に対してそうした精神的身体的DVを繰り返していたわけだ。自己肯定感の欠如と感情のコントロール欠如という点では似たもの同士だった母親と彼女との喧嘩は、ちょっとした言葉尻の棘を捉えて相手を強く咎める(「それどういう意味?」とか「あなたはいっつもそう!」とか)の繰り返しで、なんでもないやりとりがあっという間に激しい罵倒の応酬にエスカレートしたりする。まさしく言葉の刃で刺し合うがごとくで、たまたまその場に居合わせた自分もぐったりと疲弊し、時にはあまりの情けなさに泣くこともあった。
ともあれ、我々2人は「こんなことが当たり前ではいけない、子供をこういう『こじれ』に巻き込まないようにしよう」ということをスタートにして、まず彼女と母親との関係は明らかに機能不全に陥っていること、彼女の母親が過去も今も彼女の自尊感情を蝕んでいること、自尊感情の乏しさが他者への非寛容や感情制御の困難につながっていること、自分は母親の承認/不承認にかかわらず価値のある人間だし、他人もそうだということなどをひとつひとつ確認していった。彼女は最初は「母親はもしかしたら毒親だったのかも」程度の認識だったのが、あまりにも定型的な虐待のパターンのど真ん中に自分がいたことを知り、自分の感情コントロールの難しさが個人の資質というより関係の病理に起因していることを学んだ。そうすることで、母親との関係も1:1の差し向かいではなく、その関係自体を第三者として見る視点を手に入れた。自分はそのときに情報や考察の手伝いはしたけど、結局それは彼女自身の自己探究の道のりだった。
それでどうなったかといえば、状況は明らかに良くなっている。奥さんはアンガーマネジメントを少しずつ理解し、実践している。実際にキレる回数は格段に減った。キレてしまった時はそのままにせず、すぐ言葉にして反省するようになった。YOUランゲージを控え、Iランゲージを使って自分の希望や意志を率直に伝えられるようになった。母親とのやりとりもベタ足の殴り合いをするのではなく、だんだんと「所詮は他人でしかない、母親とのやりとりで感情的に消耗したくない」という感覚を持てるようになってきている。無駄に険悪になることもないが、母親だから近しくしなければいけないという「演技」からもちょっと解放された。やっぱり根本的な原因や構造が見えてきたことで、本人の物事の捉え方も変わってくるんだと思う。
…というわけで、うちの場合は子供ができた結果、徐々に状況がよくなってきたんだけど、これ「子供が生まれたから良くなった」じゃなくて「子供がいるから良くしないといけない」という問題意識を両方が持ったからだと思っている。逆に言えば、元増田の場合、子供ができなくたって「この状況を放置するのは2人の心理的安全性にとって良くない、2人の関係の健康を損ねる」という意識で話し合うことができれば、だんだんと建設的な方向に向かえるかもしれないよ。
さっきも書いたけど、うちの場合は、彼女の病理というより関係の病理だった。だから時間はかかったけど、こじれた関係を解きほぐすことが解決の糸口になった。元増田の奥さんが同じかどうかわからないけど、参考になったらうれしい。お互いがんばろう。
30代のときガンが見つかり、当時の仕事を退職し、治療に専念した。
手術後は再発予防のための抗がん剤治療を半年ほど受けた。(心身ともにかなりキツい思いをした。)
ただ、摘出したがん細胞の病理結果は悪く、1-2年以内の再発率が高いタイプであり、リンパ節にも転移があると医師から告げられた。
その後は再発に怯えながらも、やれることは何でもやろうと思い、色んな所から情報を仕入れ、民間療法的なものにもたくさん手を出したし、今思えば怪しげなスピリチュアルめいたものにもたくさん触れた。
1年、2年経ち、体調が回復してきてからは、短時間で負担の少ないバイトを始めたりしたが、メインは上記のような活動。
今思えば、30代の中二病っていうか、自分探しみたいになってた。
行き過ぎた自然派みたいな人達から陰謀論とか初めて聞いたりして、自分は世の中の真実を知った~みたいな、今は笑っちゃうけど、熱中した。
そして3年が過ぎ、4年が過ぎ、5年経った頃。
自分はこういう不思議でフリーな人達の中にはずっと居られないし、居たくない。もう卒業して、現実世界に戻って、ちゃんと働こうと思った。
フルタイムの仕事を見つけ、こつこつ貯金して、生活をととのえた。
今、がんは再発していない。
そして今日、免除申請期間5年分、約100万円分の追納案内ハガキが届いた。
金額に一瞬怯んだ。
でも、一気には払えないけど、健康で長生きして、ちゃんと年金を満額受給することを目標にして、少しずつでも追納することを、ここに表明しとく。
こつこつ、がんばるぞ
https://now.uiowa.edu/2017/12/pigeons-can-discriminate-both-space-and-time
鳩は空間と時間の両方を区別することができます(そもそもタッチスクリーンを操作出来る)
https://www.cnn.co.jp/fringe/35073804.html
カリフォルニア大学デービス校のリチャード・レベンソン教授(病理学・臨床検査学)らの研究チームが明らかにした。
15日間の訓練の結果、ハトは初めて見る画像であってもがん細胞の有無を85%の確率で見分けることができるようになったという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3090392
すごく今更だけど、小児性愛について。
今回の様々な主張の流れを見る限り、「小児性愛を同性愛と同等と見るか否か」という議論が目立った。ホモセクシュアルもかつては病理として扱われてきたが、昨今では性的指向として認める方向に倫理が動いてきており、ペドフィリアも性的指向である以上、病理扱いして治療を勧めるのは差別であるという主張が小児性愛擁護側だと多い気がする。
個人的感情としては、ペドフィリアを病理として扱うのには反対したい。誰を好きになるか、誰に性的興奮を感じるかなんて個人の自由だし、自分ではどうしようもないことだっていくらでもある。
しかし、今後世間の潮流がペドフィリアもLGBTと同じだよね!となってくれるかというと、きっと暫くは無理だろう。今の流れはむしろ今までのぺド被害者の暗数を発き、加害者を弾劾する段階にある。よってたとえ加害はしなくても、ぺド側の権利が守られるようになるのは少なくとも子どもを守る環境や制度がある程度完成してからだと思う。
また、小児性愛は同性愛と違って、実行即加害になってしまうのも確かだ。小児性愛者なら等しく矯正しろ!治療しろ!という声に反発したくなる気持ちはよくわかるが、「手を出してしまいかねない」という段階まで欲求が膨れ上がってしまった自覚がある人向けに、それを抑え込むためのプログラムなどは組む必要があると思う。
https://now.uiowa.edu/2017/12/pigeons-can-discriminate-both-space-and-time
鳩は空間と時間の両方を区別することができます(そもそもタッチスクリーンを操作出来る)
https://www.cnn.co.jp/fringe/35073804.html
カリフォルニア大学デービス校のリチャード・レベンソン教授(病理学・臨床検査学)らの研究チームが明らかにした。
15日間の訓練の結果、ハトは初めて見る画像であってもがん細胞の有無を85%の確率で見分けることができるようになったという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3090392
小さな脳を持つ鳥の「賢さ」に科学者らは長年、頭を悩ませてきたが、13日に発表された研究論文によると、
そのことが霊長類と同程度の認識能力を持つことに寄与している可能性があるという。
上野千鶴子が叩かれてんのを「上野は進歩的考え方なのに、世間は古いからついてこれないんだな」みたいに言ってる人いるけど、古いのは君とか上野千鶴子だろ。
婚姻制度や一夫一妻制や純潔主義の意味を疑う、なんてのは数十年前には進歩的発想だったかもしれんけど、今はそんなとこもう通り過ぎてんだよ。
結婚しても他の相手に欲情を抱くのは自然だの、結婚は自由を失うデメリットがある契約ですだの、そんなのはもはや当然のことなの。
自然に湧き出る浮気欲を我慢することも、自由を失うことも、その他結婚のデメリットも、ふまえた上で結婚に合意する人たちの行動になってんの、今のフェーズは。
「結婚のデメリットが気づかれてないから、婚姻関係を重んじる意味はなく、よって不倫も責めることじゃない」なんてのは、まーーーじで古い。ましてそれを進歩的と感じるのは輪をかけて古い。
昭和とか明治とかの時代なら、結婚は人生に勝手についてくるキャンセル不可の悪徳オプションだったから、その悪徳性を指摘するために、契約破りパフォーマンスをするのも意味があったかもしれないよ、しらんけど。
でももう結婚ってのは任意選択のオプションで、結婚を選ぶ人は望んで「我々は他の相手と性的関係を結びません契約」を採用してんだからさあ、そこで古い契約破りパフォーマンスをしてオプションの信用性をぶっ壊されたらひたすら迷惑なんだよ。
色んな相手と遊び続けたい人は、結婚せずにやりまくるなり、ポリアモリー関係なり、結婚してもスワッピングサークルに参加するなりしてんだっつーの。
自分も相手も遊び合う生き方はしっくりこないから我々は決まった配偶者とだけイチャつきます、という自由選択をした人を脅かしといて、自由を大事にしておりますもないもんだ。その逆で、自由の抑圧者だよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/36855
なぜか投稿から二日遅れでブクマつきだしたから、もう少し長く説明する(重要な追加情報はない)。
そして、人間なんて結婚しても不倫したくなるもんだしその方が自然だし自由尊重のためには正しいので、結婚自体しない方がいいと彼女は考えている。不倫しないのが信じられないというか、そもそも結婚することが信じられないという感覚だろう。
私が上野千鶴子を古いと批判しているのは、「それでも両者の合意で結婚契約が結ばれたなら、二人も社会もそれを尊重するに相応しいだけの良質な任意選択オプションへと、結婚契約はこの数十年で変わった」ってのを踏まえてない主張をしてることだ。
大した違いじゃないと言われないよう、もう少し説明する。
結婚はいわば、「自由恋愛グループから脱退しました」というステッカーを自分とパートナーに貼りつける行為だ。
他にもたくさん効果があるが、あの記事のような恋愛と不倫と結婚の話題の中では、そういう意味を持つ。
そして、多くの契約や約束がそうであるように、この恋愛脱退ステッカーも、当事者や周囲が真面目に受け取ることで初めて意味を持つ。
尊重するに値しない、無視してもいいだろ、と上野に煽られてそういう風潮になれば途端に無意味になる。
たとえるなら、国と国が軍事同盟を結んで第三国から戦争を仕掛けられないよう牽制したいのだが、「同盟は名目上だけで結ぶ関係だろ」というのが世界の常識になったら、遠慮なく攻められちゃうし同盟を結ぶ意味がなくなる、みたいなものだ。
上野は、自由恋愛グループに居続けたい人も社会圧力で結婚させられて恋愛脱退ステッカーを貼られまくってた古き時代を引きずってて、「そのステッカー邪魔でしょ、気にしなくてよくない?(そもそも貼らないのが最高だけど)」と煽っている。
現代では、自分たちで望み自己決定として恋愛脱退ステッカーを貼ってる人たちが結構いるのに、上野の主張はそういう人たちのステッカーまで無効化してしまう。
かつての、「望まぬ恋愛脱退ステッカーを無効化するメリット」のほうが、「望んだ恋愛脱退ステッカーまで無効化するデメリット」より大きかった頃の感覚のまんま。
恋愛脱退ステッカー無効化のデメリットが大きくなってきたって気づいてないのか無視してんのか、いずれにせよ感覚が古い。
「恋愛脱退ステッカーを貼らないことをおススメするが、貼られたものは尊重すべき」って話ならいいのに、そうならないところがだめなんだよ。
「上野自身が自分の主義に従って結婚しない人生をしてるし一貫してるじゃん」とか言う人もいるが、上野が結婚してるかはどうでもよい。
上野の煽り言説によって世論が結婚を軽んじる様になれば、世の中の夫婦の、性的自由を失う代わりに性的安心を選んだ決断が無駄になっちゃうだろって話。
結婚契約で自由恋愛グループ脱退の意思表示をしたい夫婦には、させてやりなよ。それが自由の尊重じゃないか。
かつて、結婚という縄で強制的な拘束をするのが横行してた時代は縄を片っ端から切断して世界からなくそうとするくらいがよかったのかもしれんけど、今は好事家同士が合意で結婚というSMプレイを楽しむ時代になってんのにその人らの縄まで切ったら迷惑だろ。
あと、「古いとか新しいとかで物事を判断するなよ」みたいな反応あるけどさ。
そりゃあたとえば芸術の作風だったら古いのも新しいのも好みの問題であり、売れる売れないはあってもどっちがダメとかじゃないよ。
そーゆーのは、その時の社会の状況に応じた提言じゃないと、無駄どころか悪影響なわけ。
数十年前の人口爆発が懸念されてた時代を引きずって、少子化の現在に人口抑制論とか語られたら困るだろ。
社会運動は社会の病理をよくする物と捉えれば、古い言説を主張されるのは、数日前は風邪がキツくてお粥を食べるべきだったからって、一息ついて体力取り戻すべき時期なのに白粥ばっか出されるようなものなんですね。
大学院での苦しかった日々がおわり、新しい日々が始まろうとしていた矢先のことだった。
精巣腫瘍が見つかったのだ。幸いにも転移はなく、腫瘍部分を含めた精巣を除去すれば問題はない。
その後の病理検査で今後の治療方針が決まるが、生存率は他のガンに比べて高いので安心してほしいと医師に告げられた。
頭の中が真っ白になり、待合室でみたMADの音楽が空回りしていたのを今でも覚えている。
いけいりかこ選手の白血病ですら発症率は10万人に6.3人であるらしい。
これをたまた読んでいる読者が全員男性であると仮定して、10万人読んで初めて1人が罹患するような話である。
しかもこの精巣腫瘍、痛みもないため発見されにくい腫瘍なのである。
好発年齢は20代から30代(働き盛りに発症するのもタチが悪い)。
私はたまたま痛みとしこりがあったことと、学生時代から友人に金玉がデカいということで
いじられていたからこそ早期発見に繋がった珍しいケースであるが、発見が遅れて肺やリンパ節に転移するケースが多いようだ。
20代でガンになるなんて思ってもみなかった。
皆罹患した人はそういうだろう、私もその一人だ。
10月から新しい会社に入社し、バリバリ稼ごうとしていた未来もくすんでしまった。
これからは転移、再発を繰り返すのではないかと明日に怯えつつ、精一杯生きていくしかないのである。
辛い人生になったとしても耐えるしかないのは、いつの世も同じなのだろうか。
私は20歳の時にがんで父を亡くしている。
父も働き盛りの最高潮の時期に罹患し苦しみながら死んでいった。
最後までガンになった患者としての父の気持ちを分かってあげられることはできなかった。
今ガンに罹患し、初めて父が背負っていた未来への緊張、不安感、ストレスを
完全ではないとしても同じように感じれているのではないかと思う。
私は、このような形であるが父と同じ境遇を経て、思いを重ねて合わせることができて非常に嬉しく思う。
こんな駄文を最後まで読んでくれた読者らに感謝を申し上げると共に、
何か金玉にしこり、痛みを感じたらすぐに泌尿器科へ診察してもらうことを強く勧める。
早期発見により生きていける精巣腫瘍患者が一人でも多くなることを切に願う。
正直、こんなに反響があるとは思っていなかった。
最初に「死ぬわけじゃないのか」とコメントがついたときは、これぐらいの反響なのだろうと思っていた。
外出し、帰ってみると予想外の反響があった。質問等もあるのでここで言及しておく。
私は地元の親しい友人と露天風呂に行くのが好きで、何かと理由をつけては友人とお風呂にはいった。
どうも腫瘍がある左の精巣を包む陰嚢は陰嚢水腫らしく、お風呂に入るとテニスボールぐらいに大きくなった。(左:テニスボール、右:ウズラのたまご)
その金玉のデカさに友人たちも、「果実」、「太陽のタマゴ」、「大きすぎて実ってる」などのイジりをしていたのである。決して触っていたわけではない。
左側の精巣を摘出するので種無しにはならないが、今後の治療や残った右側に転移するなどによっては種無しになる可能性が大いにある。
誰もが爆笑問題の田中のように片玉でも子供が作れるわけではないので、安易に例として出すべきではないと思う。
私もその可能性を持つ一人だ。ただ精巣を失い、仕事を干されても人生は続いていく。やるせない世の中である。
多くの人が大病を患えば若くして簡単に死ねると思っている。私はこれは誤りではないかと思う。現にガンになったとしても
簡単に死ねるわけではない。様々な苦しみの段階を経て死んでいく。おそらく発想する人の多くは病気についての理解が乏しいと思う。
さっさと終わっていい人生なんてない。好き勝手して長生きする人生のほうが幸福度も高いと思うのでやりたいことをやってほしい。
ガナニースレは私も当時拝読し爆笑した覚えがある。ちなみにテニスボールほど肥大した陰嚢に性感帯はない。
パートナーは気付かなかったとのこと。
本当に恐ろしいことをいうが、私の場合は自発的な受診がきっかけだった。ここに寄せられた多くの
コメントの中にも精巣腫瘍についてのコメントやブログのURLを貼ってくださっているが、
オモコロのギャラクシーさんが書いている記事は精巣腫瘍になる前に読んでおり、
今回精巣腫瘍と診断されて再び読んだ。
一度読んでいたからこそ、今回の精巣腫瘍のことをある程度前向きに捉えられたのかもしれない。
金玉がデカいと一言で言ってもパターンがある。男性諸君らはお分かりいただけると思うが、
袋の中にうずらのタマゴのようなものがある。これが精巣である。
精巣を包む皮袋(陰嚢)全体を差して金玉がデカいと称している傾向がある。
私の場合はそもそも陰嚢水腫(袋の中に水がたまる)により外見上デカかった。
それを気にして定期的に左陰嚢全体を触っていた時に、内部の精巣にしこりを感じた。
このしこり、うまく表現できないのだが、正常な精巣の弾力をゆでたうずらのタマゴとすると
しこりの弾力は、固めのスーパーボール、昔のマウスボールのようなものである。
また全体がそのような弾力になるのではなく、私の場合は精巣の下半分にしこりが
あるようなパターンであった。
アジア系。
黒人は、点数が低くても入れる。
白人は、通常の点数で入れる。
アジア人は、点数が高くても入れない。
実際に点数の通りに入学させたら、一流大学の4割はアジア系になると言われている。
もしも、黒人の半分が入学点数が足りてるのに合格できなければ?
もしも、女性の半分が入学点数が足りてるのに合格できなければ?
アメリカの大学は、黒人の差別は許さないというが、アジア人は平然と差別するのだ。
そんな都合のいい差別反対で、現在のアメリカの病理的かつ強固な構造的差別が解消できるだろうか?
無理である。
黒人へのaffirmative actionは止めるべきではない。
だから、「アジア人は黒人差別に怒れ」と言われても、反応が鈍い。
当然だ。アメリカという制度が「アジア人は差別してよい」という世界観で生きていることを肌で感じている。
というのも、アジア系は「黒人の不満」「白人の不満」が高まった時に、
「よし、アジア系を叩こう」というスケープゴートにされ続けてきたからだ。
白人とアジア人が結託して黒人差別をすることもあるし、黒人が白人をリンチすることも、ヒスパニックとアジア人が、黒人と白人に嫌がらせすることもある。
それは前提の話としてである。
コロナウィルスで欧州でも米国でも「アジア系が差別された」が、その当時黒人社会が何をしたか?
全ての差別に反対したいと思っているが、実際にはグラデーションがあり、都合よく叫んだり、都合よく引っ込めたり、差別に加担したりするのはもうやめてほしいのだ。
コロナで自粛していたここ数カ月、暇を見つけてはVtuber動画に熱中していた自分だったが、最近段々と我に返ったかのように熱が冷めてきた。しかしなぜだろうとその理由を考えてみた。
・まずチャンネルページの動画一覧にずらりとサムネが並んでいるのがなんかダサい。1本あたり一時間とか二時間とかの中身のないだらだらとした雑談とか下手くそなゲーム実況で埋め尽くされているため、Vtuberの活動って一体何なんだろうと思ってしまう。(おまけに同じ企業でも膨大な数の配信者がいるため、視聴者の時間の奪い合いをしているのだと考えると虚しくなる)
・「チャンネル登録者数〇〇万人達成!!」とかの文言をみると結局、空虚な数の競い合いなんだと思えてしまう。(おまけに毎度のこと誕生日パーティーのような催しが盛大になされる)
・配信開始前にOPがついてる必死さが萎える。(peercastやニコ生にOPついてるのを想像するとなんか笑ってしまう)
・日本のアニメ漫画文化を培ってきた人々の成果を、なんだかタダ乗りしているような気がする。(Vの人たちも普通の声優と変わらない気もするのだが、しかし声優は声優で技術を磨き一つの仕事に専念して偉大な作品を作り上げてきたはずだ)
・知らぬ間にライブでずいぶん盛り上がったようだが、しかしこれも考えてみれば他の歌手の曲を「歌ってみた」だけだった。
・コロナで世間が混乱しているさなか、棚から牡丹餅とばかりに集金活動に勤しむ。(ちゃんと寄付とかしてるのか?)
・他人の著作物は金儲けに利用するが、自分たちの3Dモデルを金儲けに使われるのは規約違反という徹底さ。
しかし結局やってる内容はテレビのバラエティ以下なんじゃないか?彼ら彼女らにとってゲーム自体に興味はなく、数字が稼げればそれでいいのだ。
最近あった権利問題にしろ、何もかもがグダグダで中途半端な印象でしかなくなってしまった。身内のごたごたがある種のコンテンツになっているが、そんなもの楽しんでも仕方がない。
これからの時代、クリエーター志望の若い子が金儲け主義に走って中身のないコンテンツを量産しまくるのだと考えると暗澹たる思いだ。そのうち大手広告代理店なんかが絡んでそれは加速していくのだろうか。
もちろんすべて個人の感想でしかない。ただ、この業界全体を俯瞰して思うことは、やってることの割には金が流れ過ぎなんじゃねぇの?とは思う。初期の頃はこれが次の時代を担う新しい文化なんだなぁと思っていたのだが、如何せん場末の地下アイドル崩れみたいな連中が何の目的も高度な技術もなく、巨大なプラットフォーマーら(Youtube、エンジニア、イラストレーターなど)数字至上主義の連中の食い物にされているような気がして、肝心の「物語」がうまれてこず、オタク人生を数十年続けてきた身としては、ますます日本のオタク文化もつまらなくなるのかなと思った今日この頃。
こいつらは数年後、何をもって「私たち、頑張ったよね?」と互いを激励し合えるのだろうか?後に残るであろうものは、膨大な時間を浪費しただけの空虚な動画の一覧ばかりだ。頑張ったと言えば頑張ったといえるであろうが、やっぱり無といえば無だよな・・・と思えるそんな危うい業界。
自分がコロナで鬱になってるだけかもしれないから、聞き流してもらって構わない。
自分もVTuberのそれぞれ個性的な声とイラストのマッチングのクオリティに当初は感動さえ覚えていたもので、これが新しい文化を作ればいいと思っていた。(彼ら彼女らは、なんというかうまく言葉にできないけど、現実の人間と、2次元のキャラクターというものの枠組みを拡張させる何かがあるような気がした。)
しかし結局自分に対するコメにもある通り、嫌儲的な思想にならざるを得ないし、そうなることが正義のような気がする。
彼女らは自分たちで実際にソシャゲやゲームの課金要素に金を突っ込みまくり、それがさも普通の事であるかのように演出してみせる。そうなると当然、彼女らにスパチャを投げるのが当然のことなのだと若い子らを間接的に洗脳する。(Vtuber本人たちにもその意図が見え透いている感じがする。)
現代の貧乏な日本社会では、本を買う金すらも惜しむはずなのに、あんなものに金を突っ込んで本当に大丈夫なのか?と考えざるを得ない。
確かに世の中にはソシャゲやらなんやら巧妙な商法がもはや当然のようにまかり通っているが、Vtuberもまた、形を変えたキャバクラやホストのようなものだときつく言及しておいたほうがいいのではないか。
あの高速で流れる赤スパ(1万円の寄付)のような、金の流れを見ていると、自分もこの流れに乗らなければならない!と熱狂してしまう人間が少なからずいることは当然のことではないのか。一時の感情に瞬間的に値段をつけさせるシステムが怖い、というのもある。
自分は別に彼女たちのことが嫌いではないし、嫉妬しているわけでもない。むしろ彼女たちは根本的に頭が悪かったり、貧乏だったり、もしかすると見た目が悪かったりして不遇な人生を歩んできた人たちが多い。(確かにこれはほとんど憶測だが、自分の好きな女性Vはアイドル目指す以外に何の取り柄もなく、家庭環境もまともでなく、とてもまともに社会で生きていけるとは思えない人たちばかりだった。余興でやってる余裕のあるVならともかく、何の保証もない不安定な世界に飛び込んで毎夜のごとくメンヘラ発症してるのを想像するといたたまれなくなる)
そんな人たちが頑張って毎日のように配信したりTwitterで宣伝する姿は胸打つものがあるのだが、これも結局バックの何も考えていない大人たちに踊らされている気がしている。(ある配信者は、得意だったテトリス配信が権利関係のごたごたでできなくなってしまった)。
彼女たちは政治について語ることはないし、語ることもできない。無駄に歳を重ねて新しい若い子がでてきて一瞬で捨てられて忘れられてしまうのかなと思ってしまう。そう考えると彼女たちに全力でコミットできない。
自分はVの世界というか、アニメ漫画業界、あるいは今はGAFAに乗っ取られた日本社会全体について危惧している気がする。金持ちがいくら散財しようが知ったことではないが、10年後、20年後に咲く花の種を今植え始めたのだと考えると、今のアニメ業界(なろう系のような)を見れば焦土と化しつつあるのは火を見るよりも明らかだ。
既存のyoutuberや自分の嫌儲思想とごっちゃにするなという意見はわかるが、全てはつながっているし、つながってしまった。
youtubeというプラットフォームのせいで、どのコンテンツにどれくらいの価値があるかということが、動画再生数やチャンネル登録者数で決められてしまうような気がしている。そんな世界からオリジナリティのあるものなど生まれてこないのだ。なぜ、しょうもないお笑い芸人やyoutuberたちと高尚なオタク文化が混同されなければならんのだ。
Vtuberだけが倫理観のあるプラットフォーマーが構築した独自のシステムに移行するというのなら、自分は喜んで金を出すだろう。これだけ無駄に長い謎長文を書いてるんだから、自分がどれだけVtuberを愛しているかわかるだろう。
何か根本的なものが間違っている、これでは10年後に何も咲くものないのではないか、ということがいいたいだけだ。
確かに自分にしか当てはまらない、1つの実感でしかないかもしれない。自分には向いていないものかもしれないし、知らないVもたくさんいたことだろう。しかしなぜ、このような戯言のくだらない記事がここまで伸びてしまったか、そのこと、その事実そのものについて考えてみてほしい。熱狂していたものに冷めてしまうことというのは、日本人の戦争に対する見方を取り出すまでもないが、勝手に信じて勝手に裏切られたような気持ちになるのは見当違いだろう。「興味ないなら黙っていればいいじゃん」というロジックの人間は、ならば自分のこの記事に対しても余計なことを言わず黙ってスルーしてればいいじゃん、と忠告しておく。
いや、皆様本当に申し訳ない。こんな記事にたくさんのマジレス頂いて本当に恐縮しております。
考えてみれば自分がこんな文章書こうと思ったのはつい数日前にnetflixで攻殻機動隊見てそのクオリティの高さを改めて思い知り、今のアニメ産業に言いがかり的に文句言いたかっただけのようだ。自分の精神的な未熟さを甘んじて受け止めると共に、確かに自分もVtuberのことを皆様ほどあまりよく知らないのです。この記事にしたってよく考えて書いたわけではないし、ふと日本のサブカルチャー的なものに不安を感じてしまい、気軽なつもりで書いてみたら予想外に伸びてしまいました。
しかし逆にどうしてこれだけの人がこの記事に反応しちゃったのか疑問でもあります。
むしろ皆さまの方にV業界に関して思うところがあるのではないでしょうか?どうでもいいならむしろスルーしているはずです。それがこの業界の"鉄則"だったはず。
業界に対して、何か思うところがあるのなら、今のうちにちゃんと議論しておいて小さな芽は潰しておいたほうがいいのでは?
次に何を書けばもっと伸びるか考えてる。こりゃ確かにハマるわ。こうやって数字稼ぎを頑張ってるんだね、今の人々は。コメント欄でも書かれていたが、何もかも "not for me"だよ。すべてブーメランなんじゃないか?
そもそも俺は何も考えて書いてないもの。何を書いたのかももう忘れてしまった。
実は俺には何の信念もないし、何もよくわかってないし、何も考えていない。
それでも今のあなた達のような人々の神経を逆なでするくらいは、どんなネタでもあっけなく簡単にできるということが今回分かった。
この流れに乗じて言うが、コロナの件でも思ったけど今の人たちは言葉数が少なすぎじゃないか?
そうやって気にいらない意見を全力で叩き潰そうとしてもがき苦しんでいる姿があなた達の"病理"だと思う。
行け!もうすぐで200だ!
200行ったら記念配信するからみんな赤スパ投げてねv(^^)
今のあなた方を煽って数字を稼ぐのも、喜ばせてスパチャ投げさせるのも、赤子の手をひねるように簡単かもしれない。
ただ反応してるだけで、何の信念もない。もちろんこの記事も中身がない。
いつの間にか200行った!見ろ、数字ってのはこうやって稼ぐんだよ。
ふとVtuber的なもののパロディをこの場で再現できるのではないかと思いつき、良質な中身のないコンテンツを皆様にお届けできるかと思ったのだが、さすがに疲れたのでここで降りる。あなた達の時間を奪うことは、私の時間を無駄にすることと即ち同じだった。
たった少数の人間にたくさんの人間の人生の時間と金を消費されてることについてもっと考えてほしい。特に最後までこの記事を読んでしまったような人達と、給付金を一瞬でVに散財してしまったフリーターの友人に対しては。
自分はゆたぼんがお前らのせいでダークサイドに落ちないように見守る仕事に専念する。
起きたらまだ伸びてたので最後に1つ、自分が本当に言いたいことだけ書いておく。
別に特定の企業がどうとか、権利関係がどうとか、V業界に関する不満をぶつけてるわけではない。
それは飽くまできっかけに過ぎない。
このコロナ禍で思ったことは、個々の人間がどう立ち回れば自分が最も有利なポジションにつけるか少なからず学んでしまったことにあるんじゃないか、ということだ。
自分はたまたま在宅勤務を命じられて家にいることができたけど、現実には外で仕事するしかできない人間がたくさんいるってことだ。そいつらの中にはウィルスに感染して自粛警察や近所の人間に心無い迫害を受けたり、あるいは破産して生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよっている奴もいる。
ところがyoutuberはどうだ?むしろこの機に乗じて独り勝ちして、リアルが上手くいかずやけくそになってる引きこもりリスナーは金を吐き出しまくっている。
確かに嫌儲は不健全な思想だろう。けれどこれが、儲けるにせよ儲けないにせよ自己責任という形をとってほしくないのだ。
自粛して家にいた若い子供たちの中に、恐らくこう思ってる奴もたくさんいるかもしれない。
「なんだ、結局外に出て働いている奴がバカで、家にいて配信で人集めて金稼いだ奴が勝ちなんだ」と。
これは俺の思い込みかもしれない。しかしそうでもないかもしれない。少なくとも自分だったらそう思っていただろう。
嫌儲だ!嫌儲だ!とバカの一つ覚えみたいに過剰に反応してレッテル貼りしてみんなで安心感を得たい気持ちもわかるが、しかし君たちの現実は大丈夫なのか?本当に生活費は払えているのか?少なくとも良識ある大人なのだったら、もっと自分の人生に必要なものに金を使ったほうがいいし、そういう忠告をする人間の言うことを多少は心にとどめておくべきだし、他人にもそう諭してやるべきなんじゃないか?
何に金使うのも自己責任、他人をそそのかして金を使わせるのもそいつの自己責任、Vにならなかったのもそいつの自己責任、そんな危ない思想を若い子たちに広めないでほしい。
多少思うところがあるから君たちも反応しちゃったんだろう、でなきゃそもそもこんなどうでもいい記事は普通ここまで伸びない。
キャラの向こう側にいる等身大の彼女たちをちゃんと見極めて、プラットフォーマーたちの作ったシステム上で数字を稼がせ、それが彼女たちのアイデンティティの全てだと思わせ、そのためには何でもするという闇に引きずりこまないでほしい。
これらは普段対立し、憎しみ合っているが、これらの思想グループに共通する特徴がある。
そのイデオロギーに属する、努力をせず、自分の無能力を他人のせいにする「そのイデオロギーしか価値がない人間」が大暴れするということだ。
この手の人間はプライドが高く、無意識のうちに「自分がこの世で最も優れた人間である」という幻想を守るために、唯一のイデオロギーの価値を最大限まで上げるべく行動する。
だが、上にあげたように努力をしない。そうすると彼らができることはたった一つ。
「自分の持つ価値以外の全てを否定する」という行動に走る。そのためにわかりやすい悪人を発見、または開発し、徹底的に攻撃する。
そうすることで自分たちは「可愛そうな被害者かつ正義の戦士」に早変わりし、自信、正義の安心感、大義名分の全てを一気に獲得できるという具合だ。
もしあなたがこれらの思想に属する人間なら、この手の人間(敵がそういった人間を装う場合もある)は敵以上に味方の評判を落とすので、はっきりと批難すべきである。
そうでなければ、あなたの正義の正当性を判断する第三者は、そのイデオロギーはそういった正義の蓑をかぶった差別的言動を許すものだと判断し、距離をおいてしまうだろう。
そうでなくても、そのイデオロギーに関して本当に困っている人が「そうか、あいつらが悪いのか!」と安易な結論に飛びついて過激派に走り、問題を起こしてしまう。
ひどい話だが、被害者意識がある人間が大義名分を得ると、とんでもなく残虐になるというのはルワンダ虐殺が証明しているところだ。
また、被害者を焚き付けて自分たちの兵士にするというのは利権ゴロやイスラム過激派に見られる典型的な悪へのリクルート方法でもある。
最後にもう一度いうが、これはフェミニズムやリベラル、愛国だけの問題ではない。趣味、仕事などありとあらゆるイデオロギー活動で必ず起こることだ。