はてなキーワード: 石井とは
来週には働き方改革関連法案が参院採決されると思うけど、そっちはもう上西先生にはかなわないからお任せ。
これ宮本議員も質権について完全に理解してなさそうなのと、蝦名航空局長の言い訳もひどいのとで理解が難しかった。当該部分は短いので是非見て欲しい。(前半部分では、会計検査院の事務総長と次官級折衝が行われたことをほのめかしていたり、何らかの弾をまだ持ってるな、という感じはあるので明日以降も国交、財金は見逃せないですぜ。)
追記:宮本議員が自身のFacebookに資料を掲載してくれたので、大体の概要はわかりました。トラバに。
「略)資料2を見ていただきたい。これは国土交通省から提出を受けた資料であります。質権設定承認通知書と、質権設定契約証書であります。質権設定承認通知書には、”上記の通り質権の設定を承認します”という干山よしゆき大阪航空局長の承認印がございます。内容は、さるメガバンクに対して、10億円の質権の設定を承認するものであります。28年10月14日といえば、8億円の大幅値引きで、わずか1億3400万円で国有地を売却した、わずか4か月後のことであります。瑕疵担保面積の考え方で、ただ同然、わずか1億円余りで買った土地を担保(これは間違い)に、森友学園が、メガバンクから10億円の借金をするのを大阪航空局局長は、承認をした。これは一体どういう理屈ですか。航空局長。」
蝦名
「ご指摘の質権の設定につきましては、森友学園との本件土地の売買契約締結後に、森友学園が限度額(抵当権の極度額に相当するものと思われる)10億円を借り入れる契約を結んだことを受けまして、国が、売買契約の解除や買い戻し権を行使した場合の売買代金の返還金の請求権に、森友学園側が質権を設定することについて、平成28年10月14日付で承認申請があったために、10月25日付で承認を行ったものであります。」(これは経緯をこたえてるだけで、どういう理屈で10億の質権設定を承認したのかについては答えてない)
「我々は、籠池氏が国有地買取の直後に、この土地の不動産鑑定を依頼し、8月10日付で、鑑定評価額13億円の不動産鑑定書を受け取っていることを、把握しております。ここにそれを持っております。大臣ね、蝦名局長は、リスクを排除するために、見える範囲でリスクを最大限に見積もったと、言うけれども、6月にただ同然で入手した森友学園は、早8月には13億円という不動産鑑定書を受け取って、この土地を担保に(これは間違い)、10月には新たに銀行から10億円の借り入れを行う約束を取り付け大阪航空局長は、それを承認までしている。全くこれは、でたらめな話じゃないですか。大臣。」
石井(なぜか笑いながら)
「あのーご指摘いただいた事実関係について、私は承知しておりません。」(これは事実だと思う。理由は後述。)
「今日委員会に提出した、この質権設定承認申請書、そして大阪航空局局長が、承認をしている。これは私がどっかから入手してきたものではありません。国土交通省から提出されたものですから、国土交通省が、10億円の枠を設定したことは、逃れようのない事実なんですよ。おかしいんじゃないですか。」
蝦名
「あの本件質権は、国が売買契約の解除や、買い戻し権を行使した場合の、売買代金の返還請求権に対して、森友学園側が質権を設定しようとしたものでございまして、土地に対して、質権を設定したというものではございません。」(事実を答えているが、質問には答えていない。おかしいかおかしくないかを答えていない。)
「1億3400万のあの土地に10億円なんか設定できるわけないんですよ。だから別途8月には13億の不動産鑑定書をとってるわけですよ。何から何まででたらめな土地取引だったと言わなければなりません。その全ては、安倍首相とその夫人が、肩入れをしてきたこと、そしてそれが発覚するや首相とその夫人を守るために、嘘に嘘を重ねた結果だと言わざるをえません。(昭恵証人喚問要求して終わり)」(この指摘はちょっと変かな)
抵当権は大抵の人が知ってると思うけど、質権は、債務不履行時に、目的物を占有できるのが特徴です。抵当権は占有はできない。そして重大な違いとして、一部を除いた債権を目的物に設定できるのが大きな特徴です。よく行われるのが、住宅ローンの火災保険の保険金に対する質権設定。住宅が火災で焼失し、債務者である借主が破産した場合、債権者である銀行は、現物である住宅を確保できないので、火災保険の保険金を請求する権利を債務者から譲渡してもらっておくことでリスクヘッジができるというわけです。
今回の場合、森友学園が購入した土地には、買い戻し特約が付されているため、その土地を担保に融資を受けるということはできないわけです。契約書の中で、所有権の移転の禁止や、売買物件そのものに質権や地上権を設定することを禁止する旨が記載されているので、銀行が抵当権を設定することができないのです。
債務:延納代金の支払い義務(残額およそ1億)、10年間の指定用途外利用の禁止等の違反時等の違約金支払い義務(契約金額の4割上限)
債権:延納代金の未払い部分(残額およそ1億)、10年間の指定用途外利用の禁止等の違反時等の違約金の受領(契約金額の4割上限)
という状況なわけですよ。
森友学園は、工事代金の支払いも滞っていたし、延納部分の支払いにも苦慮していた形跡があるので、おそらく、土地を担保に金を借りられないかと考えたのだと思われます。そのため、すぐに不動産鑑定を自ら依頼したのでしょう。その鑑定は8月に出ます。
つまり違約金部分まで含めると、売買金額の満額、1億3400万ですら、森友は受け取れないわけですよね。延納ではなく、即納であったとした場合でさえ、1億3400万の9割から6割(違反事由により変動)まで、つまり財務省が、土地を買い戻した時に、森友学園が受け取れる金額は最大でも1億2000万しかないわけ。原状回復義務を、国が設備を丸ごと受け取ったとしてもですよ。
その債権を担保に大阪航空局は10億円の債務を負うことを承諾してるんだけど、これって背任じゃないの?多分だけど、工事代金や延納代金の支払いを完了していないことから、実際には融資の実行前に騒ぎになったからとかで、融資は実行されてない可能性が高いと思うんだけど、これが実行されてて、籠池さんが破産してたら、大阪航空局は10億の債務を肩代わりしなきゃいけないんじゃないの?
財務省の売買契約終了後の応接記録には、大阪教育庁の私学課の職員から、28年9月に財務省の統括国有財産管理官(自殺された職員さんですね・・・)に対して、森友の提出してきた契約金額が異常に安いが、経緯を教えて欲しいという問い合わせがあったことが書かれてるんだけど、どうも森友学園は、学校建設に伴って、土地の瑕疵が解消したから、新たな不動産鑑定をとって、それを資産側に積もうとしていたことが読み取れます。
「同学園からの資料により、国との契約金額を見ると、周辺土地の相場から見て、相当程度やすいように思うが、その理由について教えて欲しい」
「土地の評価は不動産鑑定士による鑑定評価を徴し、同評価額について、森友学園と合意したものであり、国は契約金額について適正な価格と認識している。売買契約は双方の合意に基づくものであり、国が第三者に説明するような性格のものではない。森友学園から説明を聞いていただくのが良いのではないか。」
「略)本件土地から地下埋設物や土壌汚染が確認されたことは私学審議会の中でも報告されている。その要因を除いたとしても相当程度やすい価格ではないかと感じた。森友学園は、土地取得後、学校建設により、正常な価格に戻ったとして、本件土地の評価額を正常価格で計上する(13億のことだと思われます)。正常価格に戻るという考え方についてはどうか(負債比率を気にしているのだと思われます)」
「当局が売買契約により所有権移転した後の土地の評価額についてご意見する立場にない。森友学園に説明を求めるべき内容ではないか」
「森友学園は、土地の鑑定評価を取っているようである。これからも本件に関して貴局と情報共有したいと考えているので、よろしくお願いしたい」
そして9月15日に金融機関の担当者が近畿財務局を来訪しています。
その中では、金融機関の担当者が、池田統括官と、神戸の類似事例があったことを話しているので、資料は出ていませんが、おそらく電話か面談で、売買代金返還請求権への質権設定について問い合わせがあったものと思われます。この中で大臣印はもらえないから局長印でいいか、というやり取りがあるので、石井大臣は多分本当に知らない。
10月17日には再び、金融機関担当者が近畿財務局を訪れ、申請書の承認申請書を取り交わす約束であったけれども、籠池氏が、金融機関との貸借契約の学園側用の契約書も用意して欲しいから、ちょっと待って欲しいということで一旦中止されたことが記載されていますが、その後の事務については、近畿財務局の手を離れ、大阪航空局と直接手続きを行うことになったと記載されていて、実際に14日付で大阪航空局長が押印した書類が銀行側に回ったのかどうかまでは不明、という経緯ですね。
銀行がよほどのバカでなければ、これは大阪航空局と銀行は握ってないとおかしい。籠池さんはそんなに土地取引実務に詳しくなさそうだから、売買代金返還請求権を使って借り入れをしようというような発想は持ってないと思う。多分13億の不動産鑑定書を持って、銀行に融資の相談に行ったと思うんですけど、当然、銀行としては土地の登記を確認するでしょ。そしたらそこに1億3400万円と売買価格が書いてあるんだから、籠池が売買代金返還請求権を担保に10億貸してくれって言ったってそりゃ断るに決まってるわけ。
この銀行の担当者はおそらく買い戻し特約にすぐ気がついて、近畿財務局に相談を持ちかけたわけだよね、なんて親切なんだろうと思うけど、学校建設費用としての融資だと10月17日付の費用には記載があるので、おそらく既に取引のあったあの銀行でしょうねー。売買代金返還請求権に質権を設定しようと持ちかけたのが、池田統括官か銀行の担当者かはわからないけど、両方ロクデモナイ。
これは後1年ぐらいバレなければ、森友学園が、延納の残額と、違約金を支払うことで、土地の権利の設定を行えるようにすれば、完全に近畿財務局との関係は切れるわけ。おそらく銀行側としては、売買代金返還請求権を解消して、普通の土地担保取引にできる思惑があったと思うし、よほどのバカでなければ、当然地下埋設物に対する与信評価もやるでしょうよ。まぁつまりそういうことなんだろうね、とは思うけど、国としては、売買代金返還請求権(ご指摘多謝!)が10億の価値ないことは原理上知ってる(取引の当事者なんだから)わけだから、銀行が国に対して、直接10億の請求する権利を有することを承認するのはとんでもない話でしょ。ゴミがないこと知ってた上に、森友が土地の評価額を10億以上にしようとしてることも知ってるからこういう、いずれリスクがなくなるけど、一時的にとんでもないマイナスになる契約を承認しとるんでしょ。池田統括官ともう退職してるけど干山大阪航空局長は国会招致せなあかんやろ。
追記
id:bareloさんの指摘は正しいかもしれない。宮本議員は10億円の質権設定をしたと質疑していたけれど、1億ちょいの質権を設定して、残りを2番(1番抵当は国交省のもの約1億)で8−9億の抵当権を設定しているのかもしれないね。ただその場合、国が買い戻し権を行使して1億ちょいを銀行に直接返還して、国に土地が戻るんだけど、国が抵当権設定に了承しているのであれば、その戻ってきた土地には8−9億の抵当権がくっついてることになるんじゃないのかなぁ。これは誰が払うわけ?
会計検査院の原案をなぜか財務省が入手していて、それについてご意見を述べていて、しかもその要望がなぜか通ってしまっているやつ。
ざっと見た感じ、赤旗、TBS、毎日新聞が記事にしたり、スポットのニュースで流したりしていたみたいですが、扱いは小さかったのかな。共産党しか資料を持ってない状態の時は、扱いが小さいよね。朝日とか毎日がスクープ出した時はもうちょっと扱いが大きくなるけど。この質疑見てた時は忘れてたけど、そういえば去年の11月の会計検査院報告が出た時に、なんか会計検査院が忖度しとる!みたいなのは見た気がしたんで掘ってみたんですけど。
さらに、一部報道でもありますように、今回の会計検査院も、最終案の前までは六億円の値引きという、六億円という数字が入っていた。ところが、最終段階で六億円が削られたのではないか。
ただ、検査院が検査の過程で撤去費としてさまざまな方法で試算した額は、報告書には盛り込まれなかった。関係者によると、説明できるものは抵抗されても出すと強い姿勢で挑んだ検査院側に対し、財務、国交省両省は、試算額が正しいと思われてしまう、大混乱になるので出さないでほしいと要望を繰り返したという。共同通信が入手した最終段階前の報告書案に記載された撤去費の試算額は、航空局見積もりよりも六億円以上安い。ある検査院職員は、担当部局が作成した案が幹部により修正された、国民の負託に応えるべく、検査院としてはここが踏ん張りどころだったのに、金額が消されたことは残念だと無念さをあらわにしたという報道がございます。
このことに関しても、もしかしたらこの会計検査院の報告も、何らかの力あるいはそんたくで、六億円の過大な見積もりであったという数字が消されたのではないか、そういう疑念すら出てきているんですね。法治国家である日本が、法治じゃなくて安倍総理のそんたくによって動いているんじゃないか、そういう疑念が出てきているわけであります。
共同通信はこの段階で原案を入手しとったんですね。公開してほしいわ。そんでまぁこの時の共同通信の報道は、今回の共産党の文書の信ぴょう性を高めてますよね。この報道に基づいた発言を国会でしているのはこの段階では、山井さんだけなんだけど、この後、山井さんは菅さんに、予算委員会の質問時間削る件について質問しちゃって、この事実関係の確認はしてないのね。でもこの時は忖度だったのでは?と山井は推測してるけど、現場が入れようとしたものをおそらく検査官会議あたりの意思決定機関側だかの上層部が太田→寺岡秘書官→菅(官邸)→会計検査院の幹部という流れでひっくり返りたっていう話である可能性が濃厚になってる。要望するだけなら普通だけど、原案を出してもらって意見をあげるなんていうプロセスが、受験庁と検査院の間で行われてるなんて思いもしないしね。
公明党の竹内議員が、石井啓一国交相に、会計検査院の報告書についての質疑。
「"大阪航空局が算定した本件土地における処分量19,520トン及び地下埋設物撤去・処分概算額八億一千九百七十四万余円は、算定に用いている深度、混入率について十分な根拠が確認できないものとなっていたり、本件処分費の単価の詳細な内容等を確認することができなかったりなどしており、既存資料だけでは地下埋設物の範囲について十分に精緻に見積もることができず、"
このように書かれているわけでございます。その上で、会計検査院は、
"仮定の仕方によっては処分量の推計値は大きく変動する状況にある"
として、廃棄物、すなわちごみの量について複数の試算を出しているわけでございます。
すなわち、五通りの試算を出しておりまして、廃棄物混合土の深さとか混入率など、算定方法の違いにより、最小の場合で6,196トン、その次が9,344トン、三番目が13,102トン、四番目が13,927トン、そして最大の場合で19,108トンとしているわけでございます。
大阪航空局の算定した処分量が19,520トンでございますので、その割合は最低で三二%から最大で九八%の範囲にあることを示しているわけであります。一部報道では三割から七割の可能性としておりましたが、正確には32%から98%の可能性を示している、こういうふうに言えると思うわけであります。
そこで、まず会計検査院にお尋ねをいたしますが、この五通りの試算のうちどれが適切と考えているのか、また、そうであるとすれば、その場合、適正な撤去、処分費用の額はいくらぐらいであったと考えているのか、まずお尋ねをしたいと思います。」
「略)今回、会計検査院は、本件土地における地下埋設物の処分量の試算を行いましたが、処分量を求めるための仮定の仕方によって処分量の推計値は大きく変動する状況となっておりました。このため、報告書には、推計した処分量のうちどれが正しいかについては記述しておりませんが、慎重な調査検討を欠いていたと記述しているところでございます。」
「それでは、今回の会計検査院報告に対しまして、国土交通大臣はどのように受けとめておられますか。また、地下埋設物の処理費用算定額として約八億二千万円という数字は適正であったとお考えでしょうか。」
「森友学園への国有地売却等に関しまして、参議院からの要請に基づき、会計検査院による検査が行われてきており、これまで国土交通省としても最大限の協力をしてきたところであります。今回、会計検査院から、今御紹介ありましたように、仮定の仕方によっては処分量の推定値は大きく変動する状況にあることなどを踏まえれば、撤去、処分費用を算定する際に必要とされる慎重な調査検討を欠いていたこと、また、文書の一部が保存されておらず、詳細な内容を確認することができないことなどについて指摘をされているところでありまして、国土交通省といたしまして、その結果については重く受けとめなければならないと考えております。
大阪航空局が実施をいたしました地下埋設物の撤去、処分費用の見積もりにつきましては、これまでも国会等において御説明しておりますとおり、売り主の責任が一切免除される特約をつけることを前提といたしまして、その実効性を担保するため、既存の調査に加え、森友学園からの新たなごみの報告や職員による現地確認など、当時検証可能なあらゆる材料を用いて行われたものでございます。
この当時の大阪航空局の見積もりは、限られた時間の中で検証し、見積もりを報告しなければならない状況でありました。実際には、平成二十八年三月三十日に近畿財務局から見積もりの依頼を受け、四月十四日に報告をしている、約二週間で実施をしたわけですが、こういった状況下で行われたぎりぎりの対応であったと認識をしているところであります。
ただ、今般の会計検査院の御指摘を重く受けとめまして、今後同様の事務を遂行する場合には、見積もりに必要な作業時間をしっかりと確保した上で、より丁寧な事務の遂行に努める必要があると考えております。
「先ほどありましたように、会計検査院としては、適切な見積額については具体的に申し上げられないということでありましたし、その根拠が十分に確認できなかった。」
公明党の質疑というのは基本的に台本があるので、この石井さんの答弁だけでなく、竹内さんの質問も国土交通省の息がかかってると思って間違いない。この竹内と石井の間でなされていることこそが、太田と蝦名が密談した中で生まれた政府答弁の基本方針なわけ。これわかるかなー。上記部分を要約すると、
1. 5通りの試算額を出してるけど、どれが正しいかはわからないよね?最大で見た場合、国交省の見積もりは間違ってたとまでは言えないよね?
2. 国交省は急いで見積もりを出したから、ちょっと慎重さに欠けていたけど、故意に安くしようという意図はなかったんだよー
3. 悪気はなかったんだけど、不注意だったから今後気をつけるねー
という主張に持っていくことに成功してるでしょ、これ。おそらく原案の方では、6億円程度は過大見積もりしている、と書かれていたんだろうと、共同通信の記事の信ぴょう性が高まったこの段階では推測できる。この記載のままだと、国交省の見積もりがゲロ甘だったことがあからさまだから、いろんな試算のやり方があって、どれが正しかったかはわからない、という結論を太田はまさに望んでそうなったと。この公式見解は、翌日以降の立憲川内、当時民進の大塚、川合らの質疑の中でも、安倍や麻生の口から何度も放たれることになる。
不当に安くしたわけではなく、瑕疵担保責任を恐れるあまり、幾つかあり得るパターンの中の最も安全側に立った試算を大急ぎでしてしまっただけで、1億数千万という学園側の財務状況なんて考慮してませんよ、当たり前じゃないですか、という態度を取っているわけ。故意じゃなくて、過失だ、という公式見解を作るために、会計検査院の報告書が利用されているわけ。交渉記録も出てきたし、当然、業者側に単価決定時のヒアリング内容時の資料提出とかもしてもらいながらで、再検査当然やろ、こんなもん。
前回ちょろっとだけ追記して書いた部分を書き起こしておくけど、辰巳議員の入手している文書、去年11月23日の共同通信の報道、上記の公明の茶番質疑とかを思うと、会計検査院の報告書にどっからか圧力がかかって、その内容が書き換えられた、というのはかなり蓋然性が高い推測だと思うよ。関係者全員政治家、公務員やめろ。
財務省、国交相、会計検査院に、金額の提示を事前にしたか、されたかを聞いていくが、検査の経過について、個別のことには答えられないと逃げる3者。一般論として、事実関係の確認のために、金額を提示することはあり得ると答える検査院に畳み掛ける辰巳委員。
「私たちは昨年8月に作られた、”会計検査院報告原案への主な意見”とする文書を入手しました。この中に、検査院ご指摘として、大阪航空局と同じ前提条件、同じ材料をもとに会計検査院が計算したところ、撤去費用は、1億9,706万円(混入率法による場合)、4億,4776万余円(層厚法による場合)とされていますが、具体的な金額を示してるんじゃないですか。」
「個別の件についてはお答えを差し控えさせていただきたいと思います。」
「示してんですよ、我々、文書を入手してますから。こう言う提示があったからこそ、理財局と航空局が、9月の7日にそれぞれが、総額を消すことが重要なんだけども、これは、難しい場合もあると、そういうね、密談してんですよ。航空局、理財局が。これは私、大変なことだと思いますよ。9月7日の文書にはですね、寺岡さんという名前の方も出てきております。両局長が官邸に回っている姿をマスコミに見られるのは良くない、まずは寺岡を通じて、官房長官の対応をするのが基本だ、とあります。太田局長。寺岡さんに対して、検査報告に関する相談をされたことありますか。」
「(自分の官邸勤務の経験から言って、秘書官の仕事は、官房長官の会見の対応だ。だから寺岡のために、聞かれそうな情報をあげることはよくあるが相談はしていない。というような発言、ムカつくし、安倍みたいな無関係答弁死ぬほど嫌いだから要約)」
「寺岡さんは財務省からの出向の方ですよね。当然やり取りはされてるんですよ。会計検査に関する相談も当然やられているでしょう。しかもこの寺岡さんは、昨年2月22日に、太田局長、あなたも出席されていた、まぁ後半はいらっしゃらなかったようですけど、佐川前理財局長、航空局、中村総務課長が、菅官房長官に報告に行かれた、その時に同席をされていることも分かっている方ですから、まさに先ほどのありました通り、これはやっぱり航空局、理財局、やっぱり相談しながらね、書き換えも含めて、官邸も含めてやってたという疑惑は拭い去れないというふうに思います。」
この件が本当にやばいのは、検証の手段が内部告発しかないことですよ。会計検査院は、検査を行う事務総局と、意思決定機関である検査官会議によって構成されていますが、検査官は国会同意人事ではあれ、内閣任命ですよ。共同のいう、検査院幹部が誰かはわからんけど、圧力をかけやすいのは、河戸院長はじめ3名の検査官では?と思いますけど。検査官会議が内容を了としなければ報告書は公表できないんだから。んで、特に地方自治体対象の検査院報告に関して、よく情報公開請求がされるけど、今後の検査に支障をきたすから、ノウハウ開示につながるから、という理由で、自治体と検査院のやり取りはまず不開示になるわけ。検査院は独立機関で、建前上は内閣の影響を受けないことになってるから、信頼されてそういうことになってるわけでしょ。
で、官邸による圧力があったのでは?という疑いがかけられた時に、国会議員、市民はどうやってそれを監視できるの?っていう話でしょ。国会で、国会議員が聞いても、個別の事案についてはお答えできない。市民が情報開示請求しても、ノウハウを明かすことはできないっつー話だもの。どーすりゃいいのさ。例えば大学やらで会計検査院のクッソ細かい検査を理由として、硬直的な運用をしてたりとか、地方公共団体とかの取引関係で、民間企業でもあいつらのうっとーしい検査を経験した人は多いと思うけど、社会公平の為だから耐えてるわけでしょ、みんな。
でも安心してください。これからは、安倍総理が原案提示?いいね!って言ったっていって、検査内容を事前に教えてもらって、ダメージが少ない表現に変えてもらうこともできると思うよ。ダイジョーブ。安倍総理の名前を利用してもあの人怒らないから。
石井淳平氏の文章がバズってるけどどうかと思うアホアホっブコメが散見される。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/medium.com/@junpei9/30c20561f812
石井淳平氏って北海道の厚沢部の石井淳平氏でしょ。少し調べたらわかると思うけど。考古関係中心に学芸員やってて組合に異動したこともあるぽいってのは調べるとすぐ出てくる。
http://www.hk-curators.jp/archives/author/ishii
https://assabu.exblog.jp/15193880/
http://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_miyagi36/08/0801_jre/index.htm
その人に「公務員像がぼんやり」とか「内容がガバガバ」とか「表層しかみてない」とか。少なくとも石井氏の来歴や置かれた職場環境(北海道の地方公務員)ぐらいは判るはずだ。そこから文章で想定される射程(やその限界)も公務員問題にブコメするならある程度は類推しうるだろう。
職歴や来歴をはっきり書かず、焦点を絞り切らなかった石井氏もそれなりに悪いけど、事情を何も知らない人が書いたわけではないことは、何度も繰り返すが「調べると」「すぐに」わかる。
文章に対して批判をするなと言いたいわけではない。「現役公務員なのにこういう文章はいかがなものか」「現役だがこの視点が足りない」とかなら批判として成り立つ。北海道の地方公務員が知り得た事例をどこまで敷衍できるのか、の辺りに批判があれば、それは良い議論を生むのではなかろうか。
ブラタモリ見ました。
現存するのは松重閘門のように保存されているものや遺構を含め100程度かと。
堰と一体のものが多いので、今回の閘門のように単独の閘門はもっと少ないです。
京都にも三栖閘門ていう同じような塔型スタイルの閘門があります。
この二つのデザインは他にはないので保存されているのも納得です。
タモリさんたちが通過した閘門がオーソドックスなデザインです。
あのタイプの閘門といえば宮城県の石井閘門、愛知県の船頭平閘門、茨城県の横利根閘門などです。
レンガとマイターゲートという両開きの扉が特徴です。
普通の水門のように上に出ている部分がないのでインスタ映えみたいなインパクトはあまりないですが。
でも、船が通るには高さ制限はないし水もたれてこないしいいんですよ。
逆に新しいやつは東京の荒川ロックゲートや大阪の道頓堀川水門です。
水門って名前だけどちゃんと閘門機能がありますので挙げさせてもらいました。
現役閘門の中には観光船で通過できるものもありまして、道頓堀川水門もそうですが、 他に富山県の中島閘門、東京の扇橋閘門(今は耐震補強工事で通れません)、千葉県の加藤洲閘門などなど。他にもイベントごとで通過できることがあるところもあるみたいです。閘門通過体験を一度されてみてはどうでしょう?
近江さんがエレベーターみたいって言ったのは個人的にはよかったですね。
機能的に船を上げ下げするのでまさになんですが、それだけではなく
なのに、
え?チャオズじゃないのかよって思うけど、
よく聞くとジャオズ的な感じよ。
他に任せておくとして、
輸出して逆輸入した感じが、
なんかトランスフォーマーな感じよね。
それはともかく、
取り入れたものが、
それがまた逆に広がっちゃうみたいな。
ってなんかややこしい話なんだけど
最近は、
これまた日本で有名になり過ぎちゃったんで、
ちゃんと、
味も美味しいのよ。
天津市と言えば、
すっかり名物になってる天津飯も日本発祥のジャパニーズチャイナで
食欲の秋よ。
うふふ。
ゆで玉子は茹でてきたわっ!
今日は忙しくなりそうだわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/feature/757ね。なんか伸びてるし。
「優しい妻と可愛い子供と一緒に家族団らん()」ってのがやりたいだけでしょ。
それやるにはさあ、妻が面倒な家事育児は予め全て片付けてくれて子供の機嫌も保ってくれて
かつ自分の苦労は顔にも出さず「優しい」態度取ってないと無理だよねえ?
ぶっちゃけ妻からしたらそんな夫、元気で留守がいいATMの方がマシレベルじゃね?
そんな「夫と言う『お客様』に対するおもてなし」を毎日休みもなく強要されてられっかよ、育児だけで糞忙しいだろうに。
それで夫に「家族との時間も大切にしている俺ドヤァ」されたら妻としてはたまったもんじゃねーよなー。
別に女性は「家族との時間」を大切にしたいんじゃなくて、女に半ば義務として課せられているそういった労働をしながら「活躍」するのは無理だし
かと言って専業主婦だと本当に人生が家事育児介護妻業といったブラック労働するだけで終わってしまう、ってだけだろ。
「働いてるんだから夫の理想の『家族との時間』を構築する事を最優先になんかできませーん」と言う口実を手に入れたい、ってだけ。
まあ「そういうのは全部親に押し付けまーす」という石井さんみたいなのも取り上げられてるけど。
でもそういう、いつまでも親の脛かじる宣言を正当化されてもね。
「家族との時間」ではなくリアルな「家事育児」、つまりトイレ掃除とか子供やボケ老人のウンコおむつだの吐いたゲロの始末だのが
金稼げる仕事よりも大切だと思っていて是非やりたいって男性この世にいんの?
まともな「専業主婦/主夫」って、そんなのが24時間365日続いて自分はトイレでゆっくりウンコも出来ない生活で、
それをやっても何の評価もされずヒモ寄生虫扱いされて自力じゃクレカも作れない身分だけど?
こういう連中って、「専業主婦/主夫」を何かフワッフワで楽しい事だと思ってんだよなー。
三食昼寝付きでママ友とランチやってるだけのお気楽身分とか今時思ってんのかね。
そんなの別に家政婦シッター雇ってるセレブ様くらいだろ。夫の年収1000万でもそんなの到底無理だから。
その辺の庶民専業主婦連中を見て何とも思わんのかね。人生に絶望したメンヘラだらけじゃん。
「主夫っていいよなー」とか気軽に言う男共は本当にああなりたいの?
最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。
先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界は科学だろう、という思いは変らない。
余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分が積極的にフォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体が不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。
あらかじめ書いておくと、自分の見解は、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」である。しかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。
なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。
3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリの左派な左巻健男が石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたかは想像に難くない。
元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なからず割合がただのウヨアカウントであり、人権問題に危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。
ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベースに意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的にニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。
こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報の割合的にはごくわずかということになる。
俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分である。デマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨとニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。
この層、とひとくちにいっても、いくつかある。
まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲の唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。
言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。
正義の暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。
一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑や偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。
ところが、ネットは理系の研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタやアニメ談義が話が合うという理由で高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。
これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである。
しかし、本来の意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想に親和性を持つのはまあ時間の問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分の観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。
そうすると、本来は関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。
(この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。
後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要なカテゴリーかもしれない。
ネトウヨの定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近の人間が大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベルの定義みたいなものだ。物語シリーズはラノベかとか三毛猫ホームズはラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。
しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供でももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間は京大生でなければ狂人である。京大生でも狂人かもしれない。
菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。
ジャンルは違うけれど、所謂「キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。
ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。
RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。
ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイートの文章そのものであるかツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言を属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意を判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。
さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイートを自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うから、ニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。
ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうのアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合は問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい。
でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。
「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。
それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。
2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。
ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン、水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。
このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来の意味も、日本で独自に派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団は原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。
よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学の問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題や法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。
「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である。状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタだけが受けるものではなく、左派がいちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。
こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。
先日ツイッターで問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。
経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。
ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。
なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字を勘定してイメージしやすい「ロジカル」なものだからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。
これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレで経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業は給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済が大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。
ここ10年くらいのインターネットの歴史は、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。
1970年ごろの学生運動家だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。
俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。
ニンテンドースイッチで「聖剣伝説コレクション」が発売されたので、買ってきて少し遊んだ。
私が当時買って家でプレイしていたのは3で、今まで移植が一切なかったため、20年ぶりぐらいのプレイになり、とても懐かしくなった。
スーパーファミコンの聖剣伝説は、当時としては珍しく、「二人同時プレイができる」長編RPGだった。(それまでのRPGは、一人プレイのものがほとんどだった)。私には妹がいて、妹はアクション系が得意ではなく対戦物は合わなかったため、それぞれのプレイを横から見ていることが多かったが、聖剣伝説3で初めて妹と長期間の協力プレイを楽しんだ。3の絵本のようなグラフィックは今見ても綺麗で、画面一杯の迫力のあるボスが何体もいて、癖があるけどかっこよくて耳に残る音楽に心弾ませて、夢中になって遊んだ。一日1~2時間ずつ、のべ1ヶ月ほどにわたる大冒険だった。巨大なラスボスを何とか倒してエンディングを迎えた時は、二人でブラウン管の前に正座して、綺麗なスタッフロールの風景を、いつまでもうっとりと見ていた記憶がある。
クリア後、私は別のゲームを始めたが、妹は一人でキャラやクラスを変え何度も繰り返しプレイし、すっかり私よりも詳しくなってしまっていた。私にとって聖剣伝説3と言えば、妹と遊んだことばかり思い出されるゲームなのだ。
もうすっかりいい年になってしまったけど、久々に妹と聖剣伝説3をプレイしたい。
嫁いだ先は遠く、気軽に帰ってこれる距離ではない。仮に家に帰ってきたとしても、一晩でクリアできるゲームのボリュームでは決してない。
そう考えると、せっかくまた一緒にプレイできる環境は整ったのに、最初から最後まで通して遊ぶことは、今後もうないかもしれないかと思うと、急な空しさとともに、確かな時の流れも感じざるを得なかった。
今年の3月に聖剣伝説のオフィシャルオーケストラコンサートが開かれた際、ゲストで登壇した開発者の石井氏が、「聖剣伝説2は、兄弟や家族と一緒に遊ぶことを想定していた。家族や子ども同士で一緒に遊べる期間はそう長くない。あとから振り返ったときに思い出になると考えた」と仰っていたらしい。
聖剣伝説2や3のプレイ時間はRPGだけに長く、最後までの通しプレイは友達同士よりかは家族同士を想定していたのかと思うが、まさに私の場合も、妹との大冒険が今でもずっと思い出に残っているし、そして上記発言のとおり、いつでも一緒に長時間遊べた期間は長くはなく、妹は家から離れ、もう気軽には遊べない環境になってしまった。だからこそ、この、そう長くなかった貴重な「一緒に遊べる期間」を、素晴らしい内容で楽しませてくれた聖剣伝説の開発者の人たちに、20年越しに感謝の言葉を言いたい。ありがとう。
そして、今、誰か大切な人と何かを一緒に遊べる環境にいる人は、その「長くはない期間」を大切にし、そして私たちのように、聖剣伝説2や3などを最後までプレイしたりして、精一杯楽しんで、いい思い出をたくさん作ってほしい。
地球規模で考えたら
ただのチージーで二郎系なラーメンになりました!って、それどういうこと?
あのさ、
ラーメンで○○系ってうたう
私こないだ見ちゃったのよ
初めて見たの。
泡系ラーメンって、
なんだこりゃ?って食べてみたら、
泡泡でクリーミーなんだけど、
こういう、
泡進化もあるのねーって実感しながら実食したわ。
みんな、いろいろなことよく考えるものね。
ちなみに私は
環状七号系やピリピリしびれる麻辣系が好きだわ。
ふふふ。
最近思ったんだけど、
夜ご飯食べるのって
消化するのにもパワー使うから、
そしたら、
なんかここちいいお腹空いた感で目覚める朝はなんかいい感じよ。
これもなかなか、
すっきりしてこれからの季節麦茶とかわりばんこで作るのがお気に入り。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
野党の戦略として、現状武器が日程闘争しかないと以前書きましたが、これは国会の議論をしないようにする、というマイナスの面がありつつも、日程制限があることで、多数政党の提案する法案についても、その議会通過の粘着性(viscosity)の高さゆえに、逆説的に国会に権能を持たせているところがあるのが問題を複雑にしているのです。これを単純に日程闘争による議会の粘着性を問題視して、議会の粘着性を失わせれば、多数を持っている政党の党議拘束が強い現状を考慮すると、行政の抑制が難しくなってしまうことにも注意が必要です。たとえばイギリスは日本と似ていて、会期性を取っていますが、会期は最低ほぼ1年あり、かつ造反議員への懲罰もそれほど厳しくはないようです。単純に会期を長くすればいい、というものでもないでしょう。野党が現状持っている唯一の武器を奪ってしまうだけになってしまいます。まぁ現与党による永遠の施政を望んでいる人にはそれが望ましいのでしょうが。ですから国会の権能を確かなものにするためには、野党にちゃんと戦うための武器を与える必要があります。もちろん政権を打倒するための武器ではなく、行政を監視するための武器です。つまり国政調査権です。
日本国憲法第62条「両議院は、おのおの国政に関する調査を行ひ、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」
これも森友学園や加計学園、日報隠蔽問題の解決を妨げているもののひとつです。日本の国会では、この国政調査権を委員会に実質的に分掌していますが、委員会は、証人喚問等には全会一致を、その他の国会法第104条に基づいた(これも主語は各議院、委員会だからね)記録等の請求に対しては、委員会による多数を求めています。これが問題解決を妨げている原因のひとつです。つまり完全に委員会で多数を占めている政党にとって都合の悪い調査は、行わないことができるということです。たとえばドイツでは少数調査権が保障されており、4分の1の議員による動議で、調査委員会(Untersuchungsausschusse)を設置し、証人喚問を行うことができます。こういった機能を持たせないと、野党に、十分な行政監視機能をもたせることができていないことが、まさに、いわば、現状明らかになっているところであろうと、このように考える次第でござます。つまり現状、与党の自身から形成されている内閣に対する国政調査権というものは、良心にのみ依拠しているというところを加味して今日の共産党、辰巳孝太郎議員への大塚拓財務副大臣の答弁を見ると味わい深いものがあると思います。
森友学園の、土地値引きの根拠になった試掘調査データを出すのに、なんの個人情報もないのに、なぜ民間業者の許可が要るのかとつめてます。まぁ前半も大事なところですが、何回も何回もやってるところなので省略。まぁ基本的には杭をどこに何本打ったかがわかる資料を出せ、とそれが値引きの根拠なんだろ、とこうやっているわけです。
「審議に必要な資料がまったく出てこない。これも問題です。刑事訴追とは無関係な一般的な資料提出もない。たとえば国交省この間、有益費のこの中身について、先ほど少し言っていただきましたけども、補償した項目をすべて、資料として出すように私は求め続けてまいりました。ところがこれらの資料について、国交省や財務省は、”与党の許可がないと出せない”とこういってきたわけであります。理財局長、行政機関が、1政党の許可を得ないと、国会議員の資料を出せないと、これ法的根拠を示していただきたい。」
「お答えいたします。あの、本件森友学園に対する国有地の処分に関しましては、二月以降報道をはじめとして、国会でもさまざまな議論をいただいております。それ以降ですね、議員の方々から、説明、あるいは資料の提出、多数ご依頼いただいてございます。こうした中、ご依頼に対してましては、多忙な中、可能な限り、ご説明申し上げ、確認を行ったうえでの資料の提出について対応させていただいているところでございます。従いまして、資料に関しましては、不開示事由の有無の確認等の事務が生じますが、こうした対応を丁寧に行う上で、一定のお時間を賜りますことについては、ご理解を願います。そして、先ほどご質問いただいた事項でございますけれども、えー予算委員会で理事会協議事項とされているものと承知してございます。いずれにいたしましても、我々、提出に向けての作業を進めさせていただきたいと思います。」
「答えてないですよ。私は予算委員会で、理事会で求めた以外のものも、一般的な資料の提出を求めてるんです(レクでの資料提出依頼のことだろうね。)。それも与党許可なくしては出せない、とこういってるんです。それの法的きょんこ(かんでてかわいい)示してください」
「えー、委員ご指摘の資料につきまして、私ども、委員とその、財務省職員との間でのやりとり委細承知してございませんので、いずれにいたしましても、予算委員会での理事会協議事項となっている資料につきましては、当然のことと承知してございますので、委員と所定のやりとりをさせていただいているところでございます。いずれにいたしましても、我々、提出に向けての作業を進めさせていただきたいと思います。」
「副大臣、副大臣、どう思いますか。これ。行政機関が、1政党である、与党の許可なくしては資料ださないっつってんですよ、三権分立の観点からもコレおかしいと思いませんか。」
「えー本件相当政治的な問題になってますから、一般的に与党の理事に相談するのはこれ普通のことじゃないかなと思いますが、これ(場内どよめく)えっそうですかね。たとえば(ヤバイか?ちう顔をしていらっしゃる)まぁいずれにせよ(ごまかした)国会審議、私も予算委員会、決算委員会などでいろいろお伺いしておりますけれど、ま可能な限りー、契約書(海苔弁なー)、評価書、など鑑定資料もー、お示しをするとともに国会審議の中でも丁寧にご説明させていただいていると思っております。いずれにせよ、不開示事由、これは個人情報の有無、等を含めて間違いがあってはいけないところですので、これはきっちり、間違いのないように、丁寧に、作業を進めていると伺ってございます」
「今、問題発言ですよ、問題発言ですよ。かつて年金問題のときに、野党からの資料請求に、与党への事前報告を求めたことがこれ、大問題になったことがありました。しかし今回行われているのは、それだけじゃないんですよ。与党の許可が出ないと、野党には提出できないと、こういってるんですよ。これ与党議員による、事実上の検閲であり、国会審議の形骸化ですよ。国会、国権の最高機関であり、唯一の立法府である、私は国会の自殺行為やと思います。これ副大臣もっかい答弁してください(やさしいね)」
「その担当者がどのようなお話をさせていただいたか、詳細には私は存じませんけども、通常の資料要求に対して、通常にお答えするのであれば、不開示事由があったらいけませんけども、そういうところきっちり精査をした上で、丁寧に対応させていただいているという風に思っておりますけども。まぁ事前検閲とかそういうことではないと思いますけど。」(チャンスをいただいたのにフイにする副大臣。でも”私の責任で出す”とかいっちゃうと、松本洋平内閣府副大臣みたいになっちゃうもんねー。大変だね、同情はしないけど。)
「検閲ですよ。具体的には、理財局の国有財産企画課長に、文書の提出を求めると、”与党議員に聞かなきゃなんない。アポが取れずに許可が取れないので、資料の提出は待って欲しい”と私に再三述べてまいりました。またこれ決済文書のですね、一部、これ黒塗りのところだけでもいいから出してくれと、求めると、これは”与党の許可が出ない”と拒否をし続けたわけです。こういうことが起こってるんですよ。国交大臣、国交省でも同じようなことが怒ってるんですよ。このようなあり方は、三権分立を形骸化させるものではないですか。」
「委員が今、同じようなとおっしゃいましたが、同じではないんですね。私どもの職員が、委員とどのような対応をされたか私は承知をしておりません、仮に、そのー与党議員の云々と発言したとするならば、その発言の趣旨はおそらく、要求された資料を公表するかしないかが、理事会協議事項となっている場合に、資料公表にあたり、関係する委員の皆様に説明する必要があることを申し上げたのかと思います」
「理事会協議以外の資料もそういって出してこなかったんですよ。この間、私はレクの中でですね、貸付料の滞納があるんではないかということを聞いてまいりました。これ理事会の協議にも予算委員会でもなってないですよ。これ与党の許可がないから出せないんだ、こういうこと言っていたのは国交省なんですよ。これ大臣知らないんですか。局長どうですか」
「貸付料の件ですが、日時は覚えておりませんが、委員がご質問される前日のレクの際に、提出をさせていただいたと記憶してございます。」
「私が提出を求めてから2週間も、3週間も提出してこなかったのは国交省なんですよ。それで質問する前日になってやっと出してきたんですよ。こういうことがね、森友問題では起こってるんですよ、これね、与党が行政機関と一緒になって森友疑惑を隠蔽すると、こういうことですよ。これ、絶対許せないと。事前検閲絶対許せないと申し上げて、私の質問を終わります。」
いや大塚さんの言ってることは官僚の行動原理はちゃんと説明してて、「政治的な問題」(マルセイ案件というらしいですが)を官僚が許可なく野党に出すことをビビッて忖度してるか、与党が命じてるか知らんけど、まぁ実情は把握されてんだろうねぇ。
とんでもない作品だった。とんでもない体験をした一週間であった。
それは原作が推理小説にカテゴリーされているからとか、原作者が江戸川乱歩だからとか、そういう理由じゃない。
私はその解説、および回答を以下に記すのだけど、それは完全なるネタバレです。
もう知らなかった頃には戻ってこられない、作品を殺す系のネタバレ。
なので、未観劇の方には本当に読むことを勧めません。
本作は素晴らしい完成度の傑作だし、舞台演劇でここまでのミステリーを作り上げるのは絶対に容易じゃない。
また、私はエグいほど容赦なくネタバレしていますので、正直自分ももう二度とミステリー演劇は鑑賞できない脳になってしまったのでは…と震えております。
(なので、読んでほしい気持ちがあって増田に書いているものの、観劇済みの方も生半可な気持ちではネタバレを読んでほしくない。六道の辻で迷い不幸だと感じている方にだけ、光が届けば良い。)
つまり未観劇でネタバレを読むということは、人生の楽しみを自らの手で一つ潰すということ。尋常じゃない損失です。
本作はDVDの発売が決定しています。
公式DVD予約サイト:http://www.shop-ep.net/east_park/shopping/a04020102/iid/0000000001746/
(発送日未定。予約は3月末まで)
めちゃくちゃ好評だったので、あなたの周りにも購入している人が居るはず。そして恐らく「見せてほしい」と頼めば喜ばれるはず。布教したくなるタイプの作品なのです。なので数ヵ月後DVDを鑑賞してから、是非また読みに来てください。
「数ヵ月なんて待てねーよ!」って方は、妥協点として2015年に他の演出家さんで上演されたものを見ることができます。
こちらは未観劇のためなんとも言えませんが、おそらく2015年版は絶対解けない「超ハードモードの『ミステリー演劇』」か、『ミステリーではない普通の演劇』の可能性が高いと予想しています。でもまぁ全く観ないでネタバレ読むよりは絶対良い。
たぶんDVD売ってるし、3月になれば我らがdアニメストア殿が配信してくれます。
https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/CP/CP00000660
高いチケット買って劇場に行くか高いDVD買うかしか選択肢がなかった時代を生きてきた作品の取捨選択にすごい苦しんできた勢なので、dアニさん月額400円でこんだけ見れるとかマジ神過ぎ。最初目を疑った。(WOWOWさんにも感謝していますが、うちTV無いから見れないんですよ…そもそも家にあんま居ないし。お金なら払うのでスマホでもWOWOW見れるようにしてください。)
原作「孤島の鬼」を読むのも手ですが、本作はある意味では『原作の本質を描いている』けど、ある意味『原作とは全くの別物』です。だから舞台版のネタバレは、舞台版を観てから読んでほしい。
そして、せっかく未来の楽しみを潰してまでネタバレを読んでしまうのだから、その前に『ミステリー演劇』の推理に挑戦してほしい。
一人で解くのは超ハードだと思うので、できれば仲を深めたい方と一緒に。(私が今回の回答に至るのに協力してもらった友人の数は4人です。内1人は原作を読み込み一緒に推理してくれました。)
ぼっちの方も安心してください。本作はめちゃくちゃ面白かったので『2017年版の感想』も、ネットの海に転がっています。そこから辿り着くことも不可能じゃないはず。鮮度のいい印象論の良さも、一晩寝かせた感想の良さもあるので、いろいろ漁ってみてください。
あと私は推理した一週間の思考ログをほぼすべて残しているので、トリックがわかってからログを読み返してみたら翻弄されている自分がめちゃくちゃ面白かった(当時は睡眠不足の神経衰弱で瀕死でしたけどね)。間違ってはいないけど騙されている。そんな楽しさもあるので、ぜひ推理に挑戦してみてください。
そして私がまだ解いていない謎の答えを見つけられたら、ぜひ教えていただきたい。
また、運良く本作を劇場でご覧になられた皆さま。感想はもう書き残しましたか?
公式がwebでアンケート回収もしています。送ると抽選で非売品舞台写真もらえます。私もとても欲しい。
本作は、『感想を残す』ところまでを含めて作品です。せっかく運良く観劇できたのだから、140字で良いから書き残しておきましょう。
できれば思いの丈をすべて書き出しておくと良いです。『他者に感想を伝えようとした人だけが、謎解きの後に得られる感動』があります。(※個人の感想ですが!)
この感動を、本作品が本当に素晴らしい江戸川乱歩の原作舞台化であったことを伝えたくて、読んだら作品を殺すことになるようなネタバレを恥を忍んで書いています。
私はソワレ観劇後、徹夜で翌昼に感想書き上げました。これが私の沼への一歩だった訳ですけれども、これを書き残しておいたお陰で、謎が解けた時に私の回答を出すことができました。
一度ネタバレを読んでしまうと、もう観劇で感じた感想書けなくなると思いますので、本当に一言で良いから感想書き残しておいてください。ついでだから公式アンケートに答えて非売品写真当てましょう。当たったら私にも見せてください。
最後に公式各位。
ネタバレにあたる部分は私の個人的なミステリー体験なので、これが公式解とは主張断言しません。
と言うか、理由なき見落しと、自分の能力ではどうしても咀嚼できなかった部分(言葉がスムーズに脳に入ってこなくて読解しながら観劇することができなかった原作には無いシーン)があったので、私のネタバレは不完全です。他にも拾い損ねている箇所がポロポロ出てくる。逆転する可能性が大いにある、お粗末な推理。
ですが、キャストの皆さまが最後までネタバレに配慮されていたのに、ネタバレを公開し誰かに読んでほしいと願うことが、浅間しいようにも感じています。
ネタバレ注意喚起に約2000字程裂きましたので、どうか堪忍してください。
p.s.オリジナルマグボトル購入しました。作中に赤い色が無かったのでデザインも綺麗だし購入したのですが…紐解いてみるとなかなか意味深なグッズですね。とても良い記念品になりました。
それでははじめます。
無人の屋敷に風が吹き込む
暗転
まったく光のない深い暗闇から男性の声が聞こえる
「不幸ということが、私にもよくよく分って来ました。本当に不幸という字が使えるのは、私だけだと思います。遠くの方に世界とか日本とかいうものがあって、誰でもその中に住んでいるそうですが、私は生れてから、その世界や日本というものを見たことがありません。これは不幸という字に、よくよくあてはまると思います」
暗転明け
無人だった屋敷に白髪の男性が立っており、書物を音読していた。
彼……『私』を語り部とした、物語がはじまる。
http://anond.hatelabo.jp/20170206104211
ミステリーとして解いた今読み返すと相当ブッ飛んだ納得の仕方をしている。自分の妙さについて今までなんとなく感じていた部分が浮き彫りになりすぎである。こわい。
当時も気持ち的にスッキリはしたけども、<もやもやした原因が『認知を歪められている感覚』だったのに、「それは作者の願いだよ!」という犯人と動機の『妄想』では、『論理的解決』にまったくなっていない>ので、悶々とはしていた。
作り手側は演劇を魅せるプロだが、観客は演劇を観るプロだ。伊達や酔狂でやっているわけではない、こちとら真剣に観ている。
『認知を歪められている感覚』なんて中途半端なものは見過ごせない。
そこからずるずると私は沼に嵌まっていき、推理のためにガチで眠れない一週間を過ごすことになる。
そもそも、舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」の何がミステリーなのか。
それは、本作品が叙述トリックを駆使し、とある『真意』を隠しているということにある。
しかし私の目下の推理動機は、トリックを逆手に取った『簑浦も諸戸も幸せになれる最適解』にあった。どうしても二人を幸せにしたかった。
そのために以下のことを行った。
そしてひたすら二人が相思相愛ではないという可能性を潰し、相思相愛である可能性を見つけ出す作業。
二人の愛の一番の障害は、箕浦の白髪化=「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」という点。
これが諸戸が箕浦の前にあらわれることがなくなった原因だと思う。彼がどんなに誠意を尽くそうとも、これだけはどうにも覆すことができない。
しかし、実は原作では白髪化したタイミング=直接的な原因が諸戸に襲われたことのみだとは明記されていない。
そして舞台でも、実はめちゃくちゃぼやかされている。
冒頭、語り部である『私』が自身の体験した恐怖について語ろうとする。その時にまるでトラウマが呼び起こされるかのように喉元を掻く仕草をする。
後半井戸の奥、深い完全なる暗闇の中、水位が増して死の恐怖に襲われた時。『私』佐藤箕浦も、諸戸と石田箕浦と同じマイムを行って移動し、水位が増しだすと喉を掻いて苦しみ悶絶する。
これは、白髪化するほどの『生理的』な恐怖が、諸戸に襲われる前から強烈にあったという解釈にできる。
では逆に、諸戸に襲われた後の恐怖はどうだろう。助八さんの救助が来て、生死の恐怖は去った。丈五郎の恐怖も去った。では諸戸に犯される恐怖はなくなるか? 普通に考えれば、自分を襲ってきた相手が側に居るなんて恐怖しかない。第三者が居るから安心だなんて暢気になれる訳がない。(学術的根拠を略していることは恥じています)
箕浦は、諸戸に襲われた時にあれほど恐慌したのに、襲ってきた相手が側に居てもケロっとし過ぎなのである。脱出できた時なんて笑いあっていたりする。
これらによって、「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」ということを否定できる可能性が、十分にある。
『生理的』に受け付けられない訳じゃないのなら、箕浦の同性愛への拒絶はどこからくるのか。
諸戸が触れるままにさせ遊戯を楽しんでいたと言っているが、これってちょっとエッチではないですか? 私は『もてあそぶ』というよりも、遊廓でのお戯れみたいな印象の方が強かった。エロかった。
ましてや「あつい手だね」というセリフは、諸戸と佐藤箕浦の両方が同時に口にする。
これは原作では諸戸が言い、簑浦も『私も同時に、火のような相手の掌を感じた』とある。
あの夜、諸戸と箕浦は、本当は同じ気持ちであったのではないか。
しかし大人になった箕浦…いや『私』佐藤箕浦は、頻繁に同性愛を拒否する。
そして井戸の中、「今こそ、僕の願いを容れて、僕の愛を受けて」と請い願う諸戸を「あさましい!」とはね退ける『私』佐藤箕浦。
実はこのセリフ、原作には無い。そして学生時代のあの夜は諸戸の方が言っていたセリフなのだ。
「君は浅間しいと思うだろうね」と。
箕浦に『同性愛を持つ者は異人種』だと一番最初に植え付けたのは、他ならぬ諸戸であった。
そしてあの夜、「『私』は諸戸との関係はこれで終わったと思った」。
もし、もし諸戸が、自分で自分の気持ちを否定してしまわなければ、二人が結ばれていた可能性もあるのではないか?
あの夜の後、箕浦が大人になりSK商会に勤める場面から「過去の『私』」石田箕浦が登場する。
大人になった『私』佐藤箕浦は同性愛嫌悪の感情を見せるが、石田箕浦は同性愛を嫌悪していない。
諸戸が自分に恋していることを頭では理解しているが、そもそも同性愛をわかっていない。だから諸戸からの熱視線(性愛アピール)をまったく感知できないし、諸戸からの接触に応えること・握手を求められた手を握り返すことができる。
(スポットライトが当たらないところでの石田箕浦と諸戸は、まさしく「諸戸と簑浦は何か変だ」状態。熱視線を送ったり触れようとしたり羞恥の色を見せたりする諸戸に、石田箕浦はまったく気付かない。A.T.フィールド固すぎ)
原作の簑浦とはかなり印象が違うそう(私は一度推理完了するまで未読を貫く主義のため世論であるが)。
簑浦と箕浦、原作とは名前の漢字が異なるし別人か? いや、そうじゃない。無意味な改変は絶対に起こらない。「虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェア」だからだ。印象が違うなら、『変えた理由』と『変えても原作の簑浦を成立できる理由』がある。
石田箕浦が登場する前。佐藤箕浦が諸戸との関係は終わったと思ったあの夜。諸戸が泣きながら請うた内容は以下だ。
「君は分っていてくれるだろうね。分ってさえいてくれればいいのだよ。それ以上望むのは僕の無理かもしれないのだから 。だが、どうか僕から逃げないでくれたまえ。僕の話し相手になってくれたまえ。そして僕の友情だけなりとも受け入れてくてたまえ。僕が独りで想っている。せめてもそれだけの自由を僕に許してくれないだろうか。ねえ、簑浦くん、せめてそれだけの……」
諸戸が願った内容、これまんま石田箕浦じゃん……
石田箕浦は諸戸を友人として深く信頼しているし、井戸の中でなんて一緒に死ぬことすら受け入れている。諸戸の願いを、字面通りに叶えている。
しかし周知の通り、諸戸が心の内で望んでいたのは、彼の『死にもの狂いの恋』を受け入れてもらうことだった。
諸戸は自身について怖れている描写が多々あった。それは自分の素性と性愛対象が『普通と違う』ことでもあったし、『父に命じられたから行っていたはずの不気味な研究にいつしか諸戸自身も不思議な魅力を感じはじめていた』ことも大きいと思う。
我と我身を醜いと卑下すればするほど、美しいものを強烈に求め、美しくあるべきだという観念に囚われる。
諸戸の心の内の葛藤が『手記の秀ちゃんと吉ちゃん』そのものに見えた。諸戸の望み(イド)と願い(超自我)は大きく解離している。
箕浦が写し取ってしまった『同性愛を持つ者は異人種』という価値観、『親友という姿』は、諸戸が持つ美意識の刷り込みだった。箕浦にとって諸戸は、本当に「美しい青年」だったのだ。
石田箕浦は本当にクセのない、まっすぐな好青年だった。諸戸の理想とする『普通』がそこにあるように見えた。そして原作の簑浦とは印象が異なる存在…
これはつまり、簑浦のイドと超自我のようなものが、『私』佐藤箕浦と石田箕浦に分かれて表現されているのではないか。一人の人間を二人で演じ、二つの存在(語り部の『私』と、簑浦のイド)を一人が演じているのではないか。
彼らの箕浦の分担は、紀州の孤島に着いてから大きく変動し反転してゆく。
井戸の中で諸戸に襲われ、完全に石田箕浦から佐藤箕浦に替わったのは、諸戸が望んだ存在が友人ではなく恋愛対象としての箕浦だったこと、そして諸戸の手によって「諸戸の理想とする『普通』」が壊されてしまったこと…『私』になった石田箕浦にも諸戸の姿は獣のようだと評されている。学生時代のあの夜に諸戸が否定をしてしまったこと、それの繰り返しだった。
そして秀ちゃんへの恋心を諸戸に恥ずかしいものと責められる場面。実はあれは原作だと簑浦のモノローグによる言い訳タイムとなっている。諸戸はそもそも丈五郎に捕まって、島に到着して以降会っていないというのだ。正確にセリフを覚えていないが、原作未読の私でも、最初に秀ちゃんから手紙を受け取ったシーンに諸戸が居ることに強い違和感を感じた(そして友人が原作では諸戸が居ないことを確認してくれた)。
よくよく考えれば変なのである。箕浦に恋慕を寄せる諸戸に責められる筋合いはない。初代に操を立てるなら諸戸の恋に応えることも恥ずべきことだし、諸戸に気を遣う必要だって本質的には無いのだ。(まるで『アイドルは恋愛しちゃいけない』理論だ。)
ではなぜ超自我のポジションである石田箕浦ではなく、諸戸が責め立てるのか。
箕浦の美意識は諸戸の影響を強く受けているから諸戸の姿をしていたとも捉えられるが、それ以上に、常識的な葛藤だという以上に、箕浦の心の中に諸戸を慕う側面も幾ばくかあったから、秀ちゃんに恋する自分と、諸戸を慕う自分で対立したことを表現していないか。
佐藤箕浦はもちろん初代にも秀ちゃんにも惹かれているが、彼が箕浦のイドのポジションであるならば、諸戸のことも結構好きだった。(イドでなく単なる『私』なのだとしても、諸戸を見つめる視線に愛憎のような熱が込もっていたし、)諸戸との会話に深山木が入ってきたとき「早くないですか!?」と驚くのは二人の箕浦で、石田箕浦一人だけが言うと単純に時間が早かっただけに聞こえるが、佐藤箕浦も合わせて言うことで「諸戸との会話に邪魔をされた(もっと諸戸と話したかった)」かのような邪推ができてしまう。
そして諸戸が握手のために差し出した手を『箕浦が握り返さなかった』時。諸戸は驚愕の表情で『私』を見る。見つける。実は、物語の始まりを告げる運命が廻りだすような音楽が流れて以降(犯人だと疑って諸戸の家を訪ねて以降)、諸戸が『私』を初めて見たのが、この『箕浦が握り返さなかった』時。
握り返さないのは、握り返すことに意味が生じてしまうから。石田箕浦は諸戸の恋をまったく感知しない。そんな石田箕浦が握り返さないわけがない(実際に、諸戸に見つかってしまった『私』が顔を背けた瞬間、石田箕浦は手を握り返す)。つまり学生時代のあの箕浦が、心の中にまだ居たということ。
諸戸にとってはそりゃあ嬉しいことだろう。彼はそれ以降箕浦に話しかける時、佐藤箕浦を見てから石田箕浦を見る。ここからどんどん、『箕浦』の行動を表現するのが佐藤箕浦へ移行してゆく。
一度は友人として、諸戸と共に死ぬことも受け入れた箕浦。
しかしその結末を自らの手で潰す諸戸。
逃げながら箕浦は吼える。「死んでたまるか!」と。箕浦は白髪化するほどの生死の恐怖を体験したばかりだ。
諸戸に襲われるも未遂に終わり、命が助かることに深く絶望する諸戸。
井戸を出た二人は笑いあう。諸戸は箕浦が白髪化するほど生理的に同性愛を受け付けないのだと認識したように、箕浦の白髪を見て泣いているように笑う。
そして箕浦の前に現れなくなった諸戸は、気持ちを遺して逝くことで最期にまた箕浦へ大きな傷を残す。
先述の通り、私の推理動機は叙述トリックを逆手に取った二人が相思相愛であったことの証明にある。
からくりが解ってみると、どうってことない・ただ上演されているものそのままに過ぎないのだけど、ここに辿り着くまで本当に一週間ひたすら睡眠時間を削って悩んだ。二回目に観劇した時などは、とにかく正確に推理するためにありのままを最前列からガン見してきたのに、どうあがいても悲恋という現実に心が折れそうになった。マジで。実は二回目に最前列で観測した時よりも、初見H列サイドから観劇した時の方がイイ線いってたよな(納得の仕方はブッ飛んでるけど)と思う。
で、共に推理していた友人が先に原作の叙述トリックに気付き、簑浦と諸戸のBLは成立しているという解を出してくれたので、二回目の絶望した記憶で観劇を終えるのもなんだし推理はやめて初見のつもりで観劇しようと思って向かったのが三回目の観劇。最後尾辺りの補助席。
しかし驚くほど新たな発見がまたどんどん出てきたうえ、深山木のセリフによって私は舞台も叙述トリックを使ったミステリーなのだと確信してしまう。
これは原作にもあるセリフらしいのだが、深山木がトリックについて思わせ振りなことを言うシーン。そのセリフが完全に『叙述トリックの説明』になっていたのだ。聞いた瞬間、震えが走った。
本作がミステリーであると気付けるように、最初から以下の違和感と解法が提示されていた。
さて。ここで疑問に思われることがあるだろう。なぜ叙述トリックを使用しているのか? 隠したいものは何なのか?
この件について私は非常に貴重な体験をする。
本作の大好評っぷりと、推理に明け暮れ神経衰弱している私を心配して、友人が本作を観劇してくれた。三回目観劇の日、偶然スケジュールが合って友人2人(友人Aと友人Bとする)と一緒に観ることができた。終演後、私はわくわくしながら二人に感想を求めた。
友人A「箕浦殴りたい……不快過ぎて体調悪くなってきた……」(※意訳)
当時、箕浦殴りたい勢は最大勢力に感じた。過激箕浦擁護派も0ではないが、大多数が箕浦(おそらく『私』のみ)に不快な感情を持っていた。冗談ではなくガチで友人Aが苦しそうにしており、私も初見後は物凄くモヤモヤしていて苦しみがよくわかるので、少しでも気が晴れないかと友人Aと対話することになる。
不快感を分解していく。
友人Aは非常に言いに難そうに、しかし押しかかる不快感から助かるため、意を決して打ち明けてくれる。
友人Aも不快の対象は『私』にあり、その根源を追ってゆくと友人自身が「『拒絶』されるのが本当に無理」だから、諸戸を拒絶しているのに側に居た『私』を悪だとした。
増田「拒絶することを『悪』だとするなら、今『拒絶を拒絶』している友人Aも悪だということになるでしょ? 友人Aは悪なの?」
結局友人Aには私の初見感想を読んでもらい、加えて私の心の闇()もひっかかった話をしたことで、とりあえず翌日出社できるレベルには不快感が晴れたと言ってもらえた。良かった。
さて、私は友人Aと対話して思った。「もしかして江戸川乱歩のやりたかったことってこれでは?」
感想を書いた方ならわかると思うのだが、感じたことや思ったことの根拠を話そうとすると、自身についての話、しかも心の闇()の部分を語らないとどうにも説明できなくなってしまう。
私も推理ログ含め大量に書き残したが、心の闇()を除いても、暗闇マジ怖い体験とか、無意識下の生理的拒絶は実在するよ体験とか(思えばこいつが二人の恋の一番の障害だった)、とにかくネガティブな体験談がバンバン出てくる。
共に推理し原作解読した友人も、舞台の感想を書こうとしたら闇にぶち当たって、書くのを控えようとしていた。( Permalink | 記事への反応(0) | 22:47
「言葉遣いが悪い」「子供に真似してほしくない」といった否定の声が上がっているけれど、言葉遣いの問題なんてたいした可燃性はない。実際今回の流行語大賞では「ゲス不倫」というとても綺麗とは言い難い言葉が選ばれているけれど、それが言及されるのは「日本死ね」はいかがかという話題のついでに触れられる程度で、まったく燃えていない。反発を招いている根っこは言葉遣いにはなく、わかりやすく攻撃できる箇所として言葉遣いの汚さが選ばれていると見るべきだ。
根っこにあるのは党派の対立であり、右翼たちの反発を招くポイントが含まれているがゆえに右翼たちによって燃やされているのだ。
そしてふたつめは野党に利用されたという点だ。
右翼たちは愛国を掲げている。日本は素晴らしい国であり、日本が攻撃されることは許せない。
そんな右翼たちにとって、「日本死ね」は感情的に反発せざるをえないフレーズだったのだ。
石原慎太郎氏は件の増田に対し「こういうこと言うんだったら韓国でも中国でも行ったらいいんだよ」と発言している。また、流行語に選ばれたあとのネットの反応に「日本死ねがいいんだったら韓国死ねもいいのか」というものが見受けられた。
元々の話題が日本の保育行政、待機児童問題であったはずのものに対して韓国の名前が出されるというのはかなり唐突に感じる。
しかし、日本死ね→反日→韓国という連想ゲームがなされたのだと考えると非常に自然に理解できる。
元は単なるネット上での話題に過ぎなかったものが民主党(当時)の山尾志桜里氏が国会で取り上げたことで全国区の話題となり、流行語大賞において受賞者に選ばれたのも山尾志桜里氏であるというのも重要なポイントだ。
右翼たちにとって民主党(民進党)は敵である。敵が手柄を上げてニコニコしているというのはこれはもう大いに気に食わない。少しでも攻撃できる箇所があるなら叩かずにはいられないだろう。
ここで議論の発端となったつるの剛士氏のツイートを見てみよう。
@takeshi_tsuruno
(´・ω・`)oO(『保育園落ちた日本死ね』が流行語。。しかもこんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました。きっともっと選ばれるべき言葉や、神ってる流行あったよね。。
皆さんは如何ですか?#流行語大賞
ここで批判の対象となっているのはまさに山尾氏である。これは「民進党叩きツイート」であり、であるがゆえに民進党を叩きたいネットユーザーたちが共感を示し「炎上」に至ったのだ。
と、ここでこう疑問に思う人がいるだろう。つるの剛士は別に右翼じゃないし、党派性から民進党叩きしてるわけじゃなくて素朴な感想を書いてるだけでしょ、と。
確かにつるの剛士氏は右翼として認識されているタレントではない。しかし、彼は右翼言説の影響を大いに受けているはずだ。
以下に彼がツイッターでフォローしているアカウントの一部を列挙する。
・百田尚樹
・高須克弥
・西村幸祐
・山際澄夫
・石平太郎
・石井孝明
・三橋貴明
・竹田恒泰
はっきり言ってこいつをフォローしてるのは一発アウトだろと思うような偏った人物が何人もフォローされており、表に露骨に出さないだけで相当に右翼言説の影響を受けていると推測されるし、彼が中立の立場からモノを見ているとみなすことは難しい。ツイートにわざわざ「日本人としても」などというフレーズが差し込まれているのは右翼言説の影響なのだろうか…と穿った見方もしたくなる。
そして、左翼たちからすると関心の重点は待機児童問題にあり、言葉遣いが悪いだのなんだのいう論点はまったく本質的でない、もっともらしいだけのただの難癖に感じられる。件の増田の怒りに対して共感を覚えるがゆえに言葉遣いがどうのといって怒りが相対化されることが非人間的に感じられる。例えばいじめの被害者が加害者を殴ったら暴力はいけないと言われる場合のように。
だから左翼は左翼で「日本死ね」叩きには反発をするし、左右で殴り合いになるのだ。
俺はネットでのクソの投げつけ合いが大好きだからこういうガソリンみたいなエントリを書いてるけど、建前ではこんな話はくだらなくて待機児童問題の解決こそが大事だよなーと思います。
年中ツイッターでネトウヨごっことデマ散布に勤しむのが仕事らしい。ぶっちゃけただのネトウヨニートであることは言ってはいけない。
フリーランスってようは仕事を無いのを美句で修正しただけ。お世辞は他人に言って貰えよ。え?言ってくれる他人が居ない?そりゃ残念。
wikipediaで自分の記事を監視するのが日課。バカと書くと自称本人のアカウントが差し戻ししてくれるゲームで遊べる。
何故自称本人かと言うと、ツイッターで何も言及してないため。たぶん赤の他人がやりましたとでも逃げ口を作っているのだろう。
事実を書いても、誹謗中傷として差し戻してくれるので、たぶんバカと言われたと勘違いしてるらしい。
自分が撒いた種を誹謗中傷と常に脳内変換し、重箱の隅を突く陰湿論法使いの割りにはボクちゃん可哀想な被害者ぶることから自己性愛人格障害の疑いがある。ネトウヨの基本ステータスなので致し方ない。