はてなキーワード: 局アナとは
松本人志の「性加害」疑惑をめぐる問題は、いろいろ論点はあるのだろうが、やはり最も重要で深刻だと感じるのは「報道の自由」の問題だ。あまり言っている人がないので、ここで強調しておきたい。
アイドルや芸人が情報番組・ワイドショーのMCやコメンテーターとして大挙出演するようになったのは、2000年代半ばくらいからだと思う。これを問題視していない人少ないのが、昔から大きな疑問だった。
そもそも芸能人は、報道に関わるには利害関係があまりに多すぎる。所属芸能事務所だけではなく、仕事で関係のあるメディア企業、出演しているCMの企業、アンバサダーを務めている政府・自治体などなど。多方面から仕事を得るのが芸能人の本業だから、これ自体は当然のことであり、そうあるべきことでもある。問題は、そうした立場の人物が、報道に関わる番組の重要なポジションを務めていることなのだ。
その問題が象徴されたのが、ジャニー喜多川問題の時の櫻井翔の立場である。昔から「アフラックに大きな不祥事があったら櫻井翔はどう報道するのかな?」と漠然と思っていたが、実際は足元の事務所が大炎上して、もっと悲惨な結果になってしまった。
芸能人が出ているのは報道バラエティに過ぎない、という人もいるだろう。しかし「過ぎない」のであれば、面白ニュースだけを扱うべきであり、政治経済のような公共的な話題や、「被害者」がいる社会問題のような、笑いの文脈に載せるべきではない話題を扱うべきではない。またバラエティであっても内閣支持率に影響を与え、政治の動向を左右することは普通にあり得るのであり、「バラエティに過ぎない」というのは詭弁である。
職業ジャーナリストや局アナや学者は確かに語り口が堅い。それに対してアイドルや芸人などの芸能人は、話術のプロでもあり、語り口がざっくばらんである。これを日本のテレビ視聴者は、「ジャーナリストや学者よりも、アイドルや芸人のほうが忖度なしで本音で自由な報道をしている」と勘違いしてしまった。当たり前だが、現実は全くの逆である。ジャニーズ問題や松本人志問題で、忖度なしに自由に発言できていたのは職業ジャーナリストや学者であって、芸能人はほとんど沈黙を強いられ、せいぜい奥歯にものが挟まったようなコメントしかできていない。
現在爆笑問題・太田の株が若干上がっている。自分も松本に比べればはるかにまともで知性のある人間だとは思っているが、彼が同じ事務所に所属している橋下徹についてほとんど言及しておらず、維新の会についてもほとんど批判的なコメントしていないことは、強調されなければならない。「身内のことは報道できない」という普遍的な力学からは、太田のような人間であっても決して自由ではない。
結局のところ報道番組はMCやコメンテーターは、バラエティ的なものも含めて、多方面に利害関係を持たない局アナや職業ジャーナリスト、学者が中心になるべきである、という大原則を取り戻す必要がある。松本がいなくなった後、芸人がそのポジションに座るなら同じ問題の繰り返しだろう。
「テレ東『アド街』で局アナが「サンタいない」発言、家族で見ていた視聴者から大ブーイング」というニュースを読んだ。
→https://www.cyzo.com/2023/12/post_360904_entry.html
こういったサンタクロースの存在可否について思い返してみると、90年代はそこまで世間は熱心ではなかったと思う。
精々「いい子にしてるとサンタさんがプレゼントくれるよ」程度であり、本気で信じ込ませる気概のようなものは無く、あくまでそういうイベント設定を楽しむような物であった。
00年代に入るとノリが変わってきて、大人が本気を出すようになっていった。
ベランダに足跡を付けて「サンタさん来てたよ!」と言ったり、正体を父と疑う子供のために太った友達にサンタコスで登場させたり、
といった話が「子供のために奮闘する大人って良いよね」という流れで消費されるようになってきていた。
それでもバレる時はバレるが、その時は「あちゃーバレちゃったw」と笑い話になるような緩さがあり、そういう雰囲気も含めて楽しんでいた。
「サンタは子供の夢であり、疑わせる行動を取るべきではない」 「子供にサンタの存在を信じ込ませることは大人の義務」
といった妙にクソ真面目な考え方を持つ大人が増えてきて、やたら息苦しくなってきたように思う。
そしてうっかり「サンタはいない」とでも言おうものなら子供の夢を壊したな!と怒り狂うのである。
何というか道徳の領域に足を突っ込み始めて異様さを感じるようになったのがこの辺りだ。
「サンタが居ないと知って悲しむ子供」という構図が「子供の成長過程あるある」ではなく「可哀想、同情すべき悲劇」として大袈裟に使われるようになり、ますます狂気じみてきた。
親戚の爺婆が悪気なく「正体はパパだよ」口を滑らせたりしただけで制裁として出禁にしたという話を聞いた時は驚いた。
正体バラしたら絶対に許さないというのは明らかにやり過ぎである。
最早そこにサンタクロースのイメージにあるような寛容で慈悲深い精神などどこにも無い。
そもそもサンタの存在などちょっと油断すればすぐバレる雑な嘘である。
真実を知って傷付く事がわかってるなら最初から嘘をつかなければ良い。
嘘が明らかになる前提なら、軽いノリでやればよい。
しかし近年のサンタ信じこませ界隈はどうもその辺分かっていないようであり
「サンタは信じ込ませるモノ」という目的不明の原理主義のようなものに従い脳死で動いているように感じる。
率直に言って最近のこの風潮は気味が悪く受け入れられなくなってきている。
自分はいわゆるコンピュータ世代なんだが、仕事の関係でアナログ回路について学んでいる。大人になってからマイコンボードやセンサを趣味でいじったことはあったのだけど、痒い所に手が届く制御回路を作成する必要があったので腹を決めて勉強し始めた。だいぶわかるようになってきたんだが、勉強した内容を振り返ってみるとその大半が(AM)ラジオに入っていることに気づいて少し感動した。知っている人には「何をいまさら」なんだと思うけれど、ラジオの構成要素であるアンテナ、共振回路(フィルタ)、増幅回路、検波など、どれをとっても今日のアナログ技術の基本中の基本になっているんだよ。基本原理をシンプルに組み合わせて実用的な技術になっているラジオというものの凄さというか美しさを感じるね。
昔は「ラジオ少年」という言葉があったそうだが、ラジオがわかればアナログ回路のことがだいぶわかるようになるのでエンジニアへの良い入り口だっただろうと思う。いまだってみんなコンピュータばかりいじってないで、もう少しくらいラジオをやっても良いんじゃないかなと思うよ。楽しいし、実世界を制御するには結局アナログ回路に頼らざるを得ないからな。
自分が勉強する中で、電子回路にちょっとでも興味を持っている人におすすめできる記事を見つけたので共有したい。RFワールドが無料で公開している「ラジオで学ぶ電子回路」というコンテンツなんだけどこれがとても良い。第一部だけでも、実践的な考え方を学べる。
https://www.rf-world.jp/bn/RFW07/index.shtml
GWにどうせなら何か一つ学んでやろうという気がある人がいたら、超おすすめです。
・コメントに難しすぎるとの指摘が。ごめん、確かに万人向けではないし文もちょっとクセがある。もし肌に合えばおすすめ、くらいでお願いします。
・2028年(AM)ラジオ終了はよく知らなかった。代わりにFM放送に移行するラジオ局が多いみたいだね。回路的に単純で親しみやすいAMラジオが消えていくことに寂しさを覚えるよ…
どんなに浣腸を繰り返したってアナルでセックスしている時点でキレイではないだろ。
家でオナニーをするたびにアナルに浣腸を入れて弄っていると思うとゾットするだろう。
それどころか単なる前戯で終わらせるつもりで浣腸もロクにしてないアナルに指ぐらい入れているかも知れない。
BLがデートしてる最中にふとしたときにアナルが疼いていると思うとサブイボが立ちそうだ。
浣腸をしようとしまいと結局アナルを使っている時点でそれは抗いようもなく醜悪なのだ。
蒸れ蒸れ金玉とカピカピ経血のどちらが不浄かなどは論じる必要はない。
セックスのたびにアナルを使っているという時点でもう終わっているのだ。
ラブホの清掃員から見て百合とヘテロのどちらがまだマシなのかは本人たちの価値観次第だが、尻穴に肉棒をのたくらせあったあとの汁を始末するのがそのどちらよりも最悪であると証言するのは疑いようもないだろう。
はてなブックマークはもとよりTwitterを見ていてもFacebookを見ていてもYahoo!掲示板を見ていてもetc...そのように感じざるをえない。
そもそもアナタたちは多様性を許容や自分と違う価値観を理解し合うというお題目を勘違いしていないだろうか?
私はアナタたちが持つ多様性への忌避感をどうにか解消できないものかと、解消するための言葉を言語化出来ないかと常々考えてきた。
そこで1つの言葉を思い付いた。
「多様性を許容するということは別の価値観の者と同居するという意味ではなく別の価値観の者が隣人となることを許容するということだ」
私は幼少期に両親から「ヨソはヨソ、ウチはウチ」のようなありきたりな教育を受けたことがある。
まさに「別の価値観の者が隣人となることを許容する」ということはヨソはヨソ、ウチはウチを認め合うということ。
近隣の住民が自分の家に迷惑を掛けてくるのであれば声を上げる必要はあるだろうが、そうでないのなら近隣に済むくらい許してあげれば良いではないか。
ヨソはヨソ、ウチはウチであるならばアナタがセクシャルマイノリティに興味がなくとも、政治へ興味がなくとも良いのだ。ただアナタの隣へそれらの人々が済むことを許容するだけで良い。
そして同時にセクシャルマイノリティに興味がある人や政治に興味がある人は隣に興味がない人が住むことを許容してあげるのが多様性を許容するということであろう。
我々は誰しもが自分に甘く、自分が可愛い。どんな綺麗事を言おうが基本的には皆コレだ。
でもだからといって他人へ対してまで自分のみを甘やかせるように強制するのは良くない。皆が自分可愛いのだから衝突するに決まっているじゃないか。
自分をフルに甘やかすのは自分の家の中だけにして、別の価値観の者が近隣に住むくらいの我慢はするべきだし、家の外ではそのくらいは他人を甘やかしてあげようじゃないか。
「フェミニズムに興味が無いのは人としてどうかと思う」レベルの主語が大きい言動を取っている者がインターネット上に散見するけれども、そういう連中の言動は「まぁそういう価値観の人も居るよね」とスルーしておいたほうが精神衛生上良いぞ。
そういう人へわざわざ反論しにいくのは時間の無駄だし、噛み付かれたら「そういう価値観もありますよね」とリプライしてあげたら良い。
実際に私はTwitterで何度か噛み付かれた経験があるけれども「そういう価値観もありますよね」のようなことを噛み付かれるたび返したらトーンダウンして居なくなってしまったよ。暖簾に腕押し、糠に釘、柔よく剛を制すが現代SNSでは最大の防御手段だね。
一人ひとりが様々な価値観を持ち、我々の隣りに住み、住むのを邪魔しちゃいけない。
こういう認識が重要なんだと改めてこのタイミングで言いたいな。
このエントリを読んでくれた人は下記の感想を持ってくれたら私としては満足だ。