はてなキーワード: 中学一年生とは
こんにちは、読む人はおそらくいないと思いますが私は今年中学一年生になりました。
もしこのサイトに年齢制限とかあったとしても、目をつぶっておいてくれると嬉しいです。
題名の通り、中学生になったので日常を日記に記そうと思います。
面倒になって更新しない日も多いと思いますが何卒よろしくお願いします。
まず自己紹介。
年齢は中学一年生。はやく成長したいです。
性別は女です。よく、女と名乗ってしまったらネット民の男が蔓延ってくるらしいのですが、そんなに顔も良くないし、陰キャ寄りだし、で男はよってこないと思います。
身長は150cm。背が高くて眼鏡をかけてるかっけぇ女性に憧れているのですが、全然足りないし視力は1.5なので伊達眼鏡しかかけられません。orz
他にも知ってたら教えてください
発達障害の中学3年生がハンマーやナイフで小学生5人を殺傷し、2人を殺害した
28歳アスペルガー無職の男が全日空61便で機長を刺殺してハイジャック
アスペルガーの17歳少年が「人を殺してみたい」という動機から主婦をナイフで滅多刺しに殺害、夫も負傷させた
広汎性発達障害の17歳少年が西鉄の高速バスを牛刀でハイジャックし人質1人を殺害、2人を負傷させた。
アスペルガーの高校生が野球部の練習中に部員をバットで殴打、自宅に帰宅後母親を撲殺した。
広汎性発達障害の16歳の少年が口論の末に母親を金属バットで殺害
29歳の軽度知的障害・広汎性発達障害の男が待ちで出会った19歳の女性にバカにされたと勘違いし刺殺
中学一年生アスペルガーの少年が4歳の少年を誘拐、ハサミで性器を切りつけた挙げ句突き落として殺害
小学6年生のアスペルガー少女が同級生にバカにされたと勘違いしカッターナイフで殺害
寝屋川市の中学校に広汎性発達障害の17歳卒業生が侵入し逆恨みから教師1人を殺害、2人を負傷させた。
22歳の無職アスペルガー男性が自宅に放火し父親を焼死させた。
16歳アスペルガーの高校生が母親の食事にタリウムを混入し殺害を謀った。
アスペルガーの男子高校生が逆恨みから同級生の女子生徒を滅多刺しにして殺害
山口母親殺害事件の犯人が出所後、面識のない姉妹を強姦、刺殺した
アスペルガーの23歳アルバイト塾講師が塾生の少女を逆恨みから刺殺
21歳のアスペルガー浪人生が短大生の妹を口論の末に自宅で絞殺、遺体を解体して遺棄した。
43歳無職広汎性発達障害の男性が金銭トラブルから義姉とその孫2人を刺殺
19歳の広汎性発達障害の男が岡山駅で男性を線路に突き落とし殺害
父親に対して不満を抱いていたアスペルガーの無職23歳男性が八つ当たりから祖父母を刺殺
30歳の軽度知的障害と自閉症の引きこもり男性が父親と姪を殺害、母親、弟とその妻を負傷させ自宅に放火した。
・AKB48握手会襲撃事件2014.5.25
19歳の女子大学生が高齢者の女性をマフラーで絞殺。加害者は高校時代に同級生2人にタリウムを飲ませて殺害しようとしたり、放火未遂を図っていた。
31歳アスペルガーの男が近隣の少年に嫌がらせを受けていると勘違いし刺殺
アスペルガーの男性が小学6年生の息子に対して教育虐待の末に刺殺
22歳無職アスペルガーの男が新幹線のぞみ号車内で鉈を振り回し、男性一人を殺害、女性2人を負傷させた。
42歳無職引きこもりアスペルガーの男が荒していたネットサービス運営に通報された逆恨みから面識のないブロガーの男性をナイフで滅多刺しにして殺害
44歳アスペルガー無職男性が元農林事務次官の父親に殺害された。父親は長年長男からの暴力に苦しめられており、近所の子供を襲うのでは無いかとの懸念から犯行に及んだ
先週の話。
ここは神戸市営地下鉄で、僕は帰路につこうとしていました。
彼らは僕の向かい側に座りました。
仲良さそうな感じで、戯れあっているんだろうと思って見ていました。
それを見ているCとDは、笑っている。
ああ、また始まったなと思いました。
僕は7年ほど前、元町の近くでゴキブリ呼ばわりされている小学生の女の子を見たことがあります。
これはアカンだろうと思い、どう見てもおかしいと判断できるまで状況を見てから、子供に注意しました。
学校の先生によると、こういう時はまず学校にもご一報くださいとのことでした。
電車に話を戻しますと、その後数駅過ぎて、Aの行為はエスカレートし、今度はBの首を絞め始めました。向かいから見ている限りでは、Bが首を絞められるようなことはしていません。Aの背中で最初はよく見えなかったのですが、手でBの首を捉えていたのは見えました。その様子をCとDは笑って見ていました。
ここで介入しました。
その時の僕は少し風邪気味で熱と咳が出始めていた頃なので、僕の声に力はなく、もし手を出されたら負けたかもしれません。
7年前の記憶を呼び起こし、学校に通報する方が良いと思い、学校と学年、名前を聞き出し、そこで終わりとしました。
幸い、それだけでも抑止効果はあったのか、学生は暴力をやめ、静かにスマホを眺めて僕が下車するのを待っているのでした。
なんと、中学一年生でした。
本当に恐ろしいなと思います。僕の娘があと6年もすると、こんな環境に放り込まれるのかもしれないと思うと、ゾッとします。なんで学校の帰り道に、しかも公衆の面で首を絞められないといけないのか。
電話が終わった瞬間、近所の娘の友達が満面の笑みで「こんにちは」と挨拶してくれました。
嬉しい反面、今までと180度違う状況に直ぐに反応できず、変な表情だったと思います。そばにいた上級生の子どもも会釈してくれました。
家についてからも、電車での一件が頭から離れず、このようにして書いて整理しています。
つまり、自分からは声を挙げないけれども、誰かが挙げてくれれば賛成するよという姿勢でしょうか。
これは2年前にもありました。
これまた神戸市営地下鉄で、YouTubeを爆音でずっと鳴らしていた男に対して、車内全員が不快に感じていたのにもかかわらず、誰も言いませんでした。
ついに堪忍袋が切れて私が注意すると、向かい側の中年男性が「ようやった!」とばかりの表情で僕を見ているのでした。
おかしいと思ったら、なんで声を挙げないんですか。
神戸は僕の故郷なので大好きですが、こういう神戸市民は嫌いです。
なんでも誰かが声を挙げるのを待って、自分はスマホをいじり倒して事が収まるのを待っている。
目の前に首絞められている子どもがいますけど、それでもゲームしますか?
首絞められているのがあなたのお子さんだったら、誰かが声を挙げるまで待つんですか?
なんで自分ごとと思わないんでしょうか。
こういう事件を見ることがない神戸になってほしいなと切に願いますが、残念ながら、なくなりません。
そしてその度に、その現場で声を挙げるのは残念ながら、僕でした。
大人の目が働いてなさすぎる。
クラスで何かを決めるときは、全員が納得しないと進めてはいけないというルールだった。
その結果、全員に納得が得られるまで、何回も同じことでクラス会を開くことになる。
だから、そのクラス会は放課後に開かれることになるわけで、その教師の頃はしばしば、
うちのクラスだけ放課後に、全員でクラス会を開いて帰りが遅くなるということがあった。
これが、生徒の迷惑も考えず遅くまで残しやがって、本当に面倒な教師だったなぁ…
というひとつの思い出で終わればよいのだが、そのクラスの中でも、私だけは違う感情を持っている。
つまり私は、むしろ主体的に、クラス全員を遅くまで残してしまっていたのであり、
どちらといえば、そのことを責める側ではなく、責められる側だったのだ。
そのことは当時、本当に苦しかった。
その教師の理想は美しかったし、否定したいとは今も全く思わないのだが、
残念なことに、その実現コストは、クラス委員である私ともう一人に丸投げだった。
クラス全員から見れば、放課後に居残りさせる主体は、教師じゃなく、私たちクラス委員だったのだ。
いや、苦々しい思いをしたのはそれだけではない。
教師自身は、クラス全体の意見をまとめあげようともしなかった。
それは当然、クラス委員である私たちに丸投げということになる。
私も、授業合間の休憩時間を潰して説得に回ったりした。
教師は一応、生徒自身が決めるというプロセスが大事なので自分は介在しないのだ、みたいなことを言っていたが、
その美しい理想の代償を、クラス委員という特定の生徒に押し付けるのは違うだろうと毎回思っていた。
誰もが納得できる意見の実現という理想をさも美しく語るたびに、その実現方法を具体的に示せよ!
社会科の教師なんだから、その歴史からなんかヒントをくれよ!と思っていた。
(そう、その影響で、個人的には、歴史の授業(というより、「歴史」という概念自体)が大嫌いだった。
その教師が教えた「歴史」というものが、困っていた私にはなんの役にも立たなかったからだ。
だから、「歴史」を学ぶことで、人を困らせてしまう何かが生じるんだとさえ思っていた。)
いや、その理想の押し付けで一番許せなかったことは、まだ別にある。
それは、反対意見を封じるのはいつも私の役目だった、という罪の意識を与えたことだ。
その教師としては、長々とした話し合いにより、賛成でも反対でもない第三の素晴らしい意見が生まれるとでも思ったのだろうが、
私には、反対意見をしっかり聞いた上で「それでもみんなが言うから…」と言うだけの拙いやり方しかできなかった。
それはもちろん、私に意見の調整能力が無かったのが一番悪かったのだが、それを上手くまとめるヒントみたいなものは、教師側からちゃんと示してほしかった。
そのせいで、「なんで、意見を無理やり押し込めるようなことしかできなかったのだろう」といった罪の意識が残ってしまったのだ。
その相手には、私の拙さで、意見をないがしろにしたことを未だに申し訳なく思う。
そして、その意識が今度は、私に反対意見を言うことをためらわせてしまうわけだ。
かつてはそれを無理やり妨げた方の人間である私が、それを言っていいのだろうかという意識。
また、先述のとおり、反対意見を調整する人間にかかるコストを考えることで、さらに反対意見をためらってしまう。
といった感じで、多数決ではない方法論や調整方法を指導しなかった教師のことを思い出すと、未だに腹がたってしまう。
社会の教師でもあるので、そのような社会的理想を持つのは構わないし、今の私はそれが正しいことだと理解できるわけだが、
その思想の実現によるコストを、特定の生徒に押し付けるべきではなかったと思う。
その結果、自分が反対意見を言おうとすると過去の罪やそのコストを考えてしまい、ためらってしまうようになった、というお話でした。
当方、30代後半になる。会社員男だ。現場の仕事で疲れた時、帰りに自分好みの居酒屋に寄ることがある。約一年前に、そこで珍しい体験をした。あんな気分になったのは初めてだった。懐かしいし、嬉しいけど、でもちょっと怖い。ツキがありすぎて、逆にツイてないんじゃないかと思った。
実をいうと、中学生の時に柔道合宿で知り合いになった女性と再会した。二度と会えないと思っていた。思い出が記憶の水槽に残っていたのを自覚した。
それは、居酒屋のカウンターに座った瞬間だった。どちらからともなく「昔会ったことあるよね」「増田君だよね」「Yさんだよね」という流れになって、しばらく話し込んだ。
少しばかり、昔のことを綴ってみたい。2000年代前半のことだ。
中二の夏休みだった。当時、広島県の海の見える田舎で柔道をやっていた。普段は中学校単位で練習しているが、隣の市にある工業高校で柔道合宿があるらしい。顧問の先生が是非とも参加したいと主張していた。それは6泊7日の長期合宿で、うちの中学は途中日程で二泊三日だけお邪魔させてもらうことになった。
当時は弱い方だった。黒帯には遠く及ばず、公式戦でも黒星が多かった。白星が増えつつはあったけど。不安だったのを覚えている。高校生にボコボコにされると思った。でも柔道は好きだったから、ちょっと期待もあった。
朝八時くらいに工業高校に到着したのだが、柔道場に入ると、すでに数十人の高校生と、県大会で活躍するレベルの男子中学生が畳の上でぐったりしていた(ランニングウェアで)。朝6時からの朝練で相当しぼられたらしい。
朝9時半に柔道の練習が始まったのだが、背丈が185、体重が90くらいある高校生が、「これから、午前の練習を、始めるッ!!」みたいに野太い声で開始を宣言した。今でも覚えている、とても高校生には見えなかった。『テニスの王子様』で、すごいおっさんの高校生が出てくるだろ。そんな感じだった。
準備体操や受け身の練習を終えて、中学生だった自分達は、いよいよ投げ技の打ち込み(二人組になって技に入る直前までやる。20本で交代で、組み合わせが順番にグルグル回る)に入った。高校生と組むことが多かったのだが、レベルの差がありすぎて向こうの練習になってなかった。こちらは、綺麗に受けてくれるお陰で練習になっていたが。
柔道場には女子が何人もいた。別に珍しくはない。工業高校があるのは大きい市だったから、柔道をやってる女子はたくさんいる。うちの地区には女子は数えるほどしかいない。
その中で、打ち込み練習で自分の前に立った女子(Yさん)は、ほかの女子とは違う気がした。体型は大きめで、上半身が丸っこい感じがしたのを覚えてる。
めっちゃ気が強そうだった。目の鋭さが違う、子どもって感じがしない。実際にそうだった。打ち込みで自分と組み合ったと思うと、真っ先に大外刈り(※技の解説はあまりしない。適当にググってほしい)に入り始めた。女子と打ち込みをしたのは、その時が初めてだった。なんか、男子と明らかに感じが違う。柔らかくて繊細で、リズムがあった。
残念ながら、リズムが良すぎて技の受けが噛み合わなかった。「んん~!!」という不機嫌そうな声とともに、Yさんは20本目を終えた。Yさんと交代して自分は、おそるおそる大外刈りの打ち込みに入った。
……やっぱり、男子とは明らかに違う。振りかぶった足で相手を刈る技なんだが、大外刈りは相手と胸を密着させる必要がある。男子だと問題なくできるのだが、どうしても胸が合わなかった。こちらの胸板をぶつけると、反動とともに弾き返される。何度もぶつけようとするが、うまくいかない。Yさんの方から、「チッ!」みたいな舌打ちが聞こえた。正直ビビっていた。
自分はナメられやすい見た目だった。あなたの周りにも、40代ほどで小太りで、中肉中背のマッタリとした雰囲気のおじさんがいないだろうか。その予備軍みたいな中学生だった。今の妻にも「おじさんみたいじゃん」「お腹触らせて~」などと言われることがある。※けっこうな頻度でぜい肉を握られる。
打ち込みでは、その子以外の女子とも組んだ。背負い投げは背丈の関係で入りにくそうだったので、全員大外刈りにした。でも、Yさんほど入りにくくはなかった。みんな、スッと胸を合わせて密着することができた。
そんなこんなで投げ技の乱取りが始まった。ここからは男女別に分かれた。男子は40人以上いて、女子は6~8人だったかな。女子は柔道場の端っこの方で乱取りをこなしていた。黒帯も白帯も一緒だった。やはりYちゃんは圧倒的な強さのようで、福山市では中二にして57kg級で優勝していた。
ところで、当時の日記には「強くなれる機会だ。でも、高校生に投げられたらめちゃ痛そう」と書いていた。実際そんなことはなかった。というのも、白帯は白帯だけのグループでの乱取りだった。黒帯のグループを見ると、自分がいる市で一番強い体重90kgほどの男子が、細身の高校生にボロ雑巾のように背負いで投げ飛ばされていた。
その時、見てしまった。その男子が体格を活かして大外刈りに入った――と認識した時、一瞬で空中二回転半する勢いで、その高校生のしゃがみ込む背負いで畳の上に叩きつけられていた。いや、あれはもう畳にめり込んでいた。「バァーーーンッ!!」という音がしたのを覚えてる。でも不思議かな、そんな勢いで強い人に投げられてもぜんぜん痛くない。
当時の自分は、柔道が強くなりかけていた。黒帯にはほど遠かったけど。黒帯の乱取りグループに入れてもらいたかった。だから、頑張って、頑張って、ひたすらに白帯の中学生や高校生を投げ続けた。そしたら、あっちのグループに入れてもらえるかなと思った。そんな気配はなかった。
午後は、寝技の稽古だった。初めの方は先生が模範の攻めパターンを見せてくれて、二人組を作って互いに掛け合う流れだった。やがて、小休憩を挟んで寝技の乱取りがスタートした。自分はやはり黒帯のグループに行きたかったので、必死で相手を抑え込んでいた。
それで、寝技の乱取りの三本目か四本目の終わりに「ビイイイイッッ!!」と電子タイマーのブザーが鳴ると、工業高校の先生と、もうひとりの先生(Yさんの顧問)に呼ばれた。ほかの白帯も二人ほど一緒だった。
「おみゃーらは、次はこっちに入ってもらうけえ。君らの先生に許可はもらっとる」
※標準的な備後弁(名古屋弁×広島弁みたいな感じ)だ。特に乱暴な口調ではない。
その時また、電子タイマーのブザーが鳴って――目の前にはYさんがいた。この時が、人生で一番驚いた。黒帯のグループを夢見ていたのに、反対に女子のグループに入ってしまった。
「お願いしまーす!!」
「……」
礼儀正しい方がYさんだ。自分は無言だった。「なんで、なんで」と心の中で思っていた。当時の感情は覚えてる。ウダウダしていて情けなかった。
Yさんや、ほかの女子との寝技の乱取りを回想してみる。当時の乱取りは確か、互いに両ひざをついた姿勢でスタートだ。Yさんはフツーに力が強かった。筋肉がある。男子と比べても劣らない。
で、ぐいぐいと畳に引き込まれて、コロッと転がされた。脇の下にサッと手を入れられて、そのまま横四方固めになった。こんなにあっさり決められたのは、言い訳になるがショックを受けていたからだ。
Yさんの身体越しに真上を見ると、さっきの工業高校の先生がこちらを観ていた。恥ずかしい気分になった。黒帯のグループに入りたかったのに、とまだ未練がましく思っていた。先生が「Y。ええぞ、逃がすな」と言っていた。
その瞬間、自分は空いていた右手でYさんの黒帯の後ろを掴んだ。左手の肘を同じく太ももに押し当てて、ブリッジをした。すると、Yさんの体がきれいにひっくり返って、そのまま横四方固めをやり返す格好になった。
「あぁーーーーーもーーーーーッ!!!!」
今でも覚えてる。Yさんは本当に叫んだのだ。横四方で抑え込まれたまま、わっせわっせと両手を互いの身体の間に挟んで、腹ばいに転がろうとするのだが、当時の自分の体重は65kgあった。女子の力で動かすのは困難だった。
しかし、女子を横四方固めで抑えると、両者の身体の間に空間ができることがある。Yさんの場合は特にそうだった。Yさんの顧問の先生も、ずっとこっちを見ていた。
先生の声が聞こえてきた。
Yさんの抵抗が激しくなって、指先を顔にぶつけてきて痛かった。人差し指が唇にぶつかって、「いてっ」と叫んだところで、ぐるりと転がって脱出された。
また、寝姿勢のまま組み合ったところで、Yさんが自ら背中をついて(いわゆるグラウンドポジション)、こっちを引き込もうとして、もちろん抵抗して――終了のブザーが鳴った。
「うん。次はこっちじゃ」
連れて行かれた先には、ほかの女子がいた。今度は白帯の子だ。小柄だった。自分と同じ市の中学一年生だった。
電子ブザーが鳴ると、両ひざを立てて組み合ったのだが、Yさんに比べると力がない。組んだ感じだと、その子の体重は40~45kgだった。指先をひねるくらいの勢いで押すと、真横にコロンと転がった。よいしょっと上に乗って、丁寧に上四方固めになった。
今度は余裕があったから、「両手をお腹のところに入れて」「押して押して、空間を作って回転して~」みたいに教えていた。教えるのはおこがましいかもしれなかったが、でも、その子の練習にならないから……と思っていた。
あと、一人か二人の女子と寝技の乱取りをした。Yさんと同じくらい力のある子はいたけど、本気でやると自分が勝った。男子と女子には体力差があるのだ……。その後、白帯のグループに帰された。
それからも立ち技や寝技の乱取りの最中に、たまに先生方に呼ばれて女子の練習相手をした。Yさんという例外を除いて自分が勝つので、ずっと相手の実力に合わせるみたいに柔道をしていた。周りの先生が、その女子にリアルタイムで指導をするのを聞きながら。
当時は、女子と組まされて悔しい!! と感じたけど、感覚としては間違ってない。今の自分は、柔道を教える人としては約十年目なのだが、あの先生方の気持ちは理解できる。あの時、あの場所ではこういう情況があった。
1.強い女子(Yさん)の練習になる相手がいない。男子と手合わせさせたい。
②Yさんと同じくらいの体格
3.白帯のグループから2.の傾向がある子を抜いて練習相手にする
こんなところか。要するところ、あの先生方からはこういう視線で見られていた。
・増田はほどほどに弱い
・体格がそこまで大きくない(164cm,65kg)
※Yさんは当時おそらく163cm,55kg前後
今では納得している。実際、2.の③④は特に重要だったりする(女子の保護者から言われるのだ……)。
よくない人間だと、指導とみせかけて女子選手の身体を触るとか、嫌な気分にさせるとか、そういうことが実際にある。一般的な寝技の練習風景だと、男子と女子が寝技の乱取りをすることになった場合、女子の仲間が数人単位で乱取りの様子をずっと見ているのが基本だ。「セクハラは見ています」というメッセージを暗に伝えている。
また、練習環境によっては、女子選手が自ら男子選手を捕まえて乱取りをせねばならないことがあるが、女子が捕まえる男子は、概ね2.の条件を満たしている(女子選手も人間なので、特定の男子が大人気で順番待ちということもある)。
合宿のすべての日で、Yさんと乱取りをすることになった。寝技の方はだいぶ慣れた。抑えたり抑え込まれたり、実力は拮抗していた。
立ち技が難しかった。はっきりってYさんの方が強かった。体力では勝っているが、Yさんの方がセンスがある。組み手争い(上手く組めると優位に立てる)について、Yさんは特にこだわるタイプだった。うまく組めなかった場合だと、「ああ、もおっ!!」みたいに怒り出してしまう。男性ホルモンが強いタイプの女子だった。
ところでYさんは、合宿所に自転車で来れるくらいの学校に通っていた。漫画やアニメに出てきてもおかしくない学校名だったのを覚えている。それで毎朝早朝、自転車で工業高校にやってくる。
当校にとっての合宿最終日の朝、柔道場がある体育棟の軒先でYさんと出くわすことがあって、「おはようございます」と言った。Yさんも「おはよ」と言って、ほかの女子数人と着替えに行った。
三日目もこれまでと同様、白帯グループと女子グループの間を行ったり来たりだった。だが、この日の最後にはなんと、黒帯のグループに入ることができた。もちろんコテンパンにされたけど、いい経験になった。
それで、最終日の夕方の部のことだった。この日は、ベテランの講師陣によるストレッチ講座があった。この日だけは、ほかの中学の女子は帰らずに参加していた。
講師が二人いて、ほかの生徒らはラフな格好で畳に座って開始を待っていたのだが、そこにYさんが黒いTシャツと、下はジャージ姿で現れた。入口のスノコが踏まれた時の音を覚えている。
あの光景は、当時男としては相当初心だった自分でも察せる状況だった。ほかの男子は皆、畳の上を颯爽と歩くYさんを観ていた。一応、いろんな人が読んでる場なのでサクッというけど、物凄い大きさだった。その膨らみが、真っ黒のシャツの中で踊っていた。自分は知っていたけど、柔道着なしのTシャツ越しだとさらに目立っていた。
しかし、当時の自分は関心がなかった。大きいなぁとは思ったが、すぐにどうでもよくなった。畳に視線をやって、ジャンプ漫画のジョジョ(第6部・ストーンオーシャン)のことを考えていた。
性の目覚めが遅いタイプだった。『いちご100%』を読んでも何が面白いのかわからない少年だった。初めて人を好きになったのは21の時だ。遅すぎる。
それで、ストレッチ教室の講師が説明を始めて、いろいろ体を動かして、いろんな部位がグキグキッとなって、1時間も経つ頃には終わって……うちの中学は解散ということになった。顧問の先生と一緒に、最後に工業高校の柔道部員みんなに礼をして、さあ帰ろうかというタイミングだった。
柔道場入口のスノコの前まで行ったところで、Yさんやほかの中学の女子が屯していた。Yさんがこっちを見ていた。声をかけようか迷ったけど、けっきょく声をかけた。あまり知らない異性に声をかけたのは、おそらくこの時が初めてだ。
「お、これはYさんではないですか。お疲れ様です!!」
「お疲れさま」
「修業になってよかったね」
「うち、今日で終わりじゃないよ。最終日まで。あと二日あるんよ」
「Yさんは近所の学校なん?」
「うん」
「俺は尾道」
「うん。知ってる」
「うん」
「絶対だぞ」
「……頑張る」
「多分もう会えんよ」
「うん、そうかも」
「どうやって帰るん?先生の車?」
「うちも歩くんよ。福山駅まで」
この日の夜、家族が泊まってる親戚の家に合流することになっていた。家族が柔道合宿に合わせてくれたんだと今では思ってる。親戚の家の最寄り駅まで、誰かが迎えにくる予定だった。
この時、Yさんに「じゃあ一緒に帰ろうよ」と提案した。
同じ中学の柔道部員は外に出ていたが、顧問の先生はこちらを見ていた。「ほかのみんなは先生の車じゃけえ。暗いから気を付けるように」と言って、スノコを踏んで体育棟の出口に歩いて行った。それから自分も、Yさんと一緒に工業高校を出た。
Yさんと駅まで一緒に帰る途中、いろいろ話はしたけど内容はよく覚えてない。柔道の話ばかりだったのは覚えてる。冗談で、Yさんにお腹のぜい肉を触られたっけ。最後にメアドを交換する話になったが、当時は携帯電話を持ってなかった。
あっという間に福山駅に着いて、Yさんと手を振って別れて(またね、とお互いに言ってた)、福塩線の電車に乗って、親戚の家の近くの駅で降りると、叔父さんと叔母さんが迎えに来ていた。
それから、Yさんと話すことはなかった。県大会の会場でも、中国大会の会場でも、お互いに姿を認めることはあったけど、別に話をすることはなかった。目は何度も合ったのだけど、こっちは試合前でピリピリしてるし、Yさんもそうだと思うと話しかけづらかった。
それで、高校になるとYさんを見かけることはなくなった。Yさんとの思い出は終わったのだ。
冒頭に戻る。
偶然、Yさんと居酒屋で再会して話が盛り上がった。確か、こんな感じのことを話した。
・お互いに1回離婚をしていること
・お互いにあまり変わっていないこと
・二人とも同じ市内に住んでいること
最後に電話番号を交換した。Yさんと話ができて一番よかったのは、当時の感情が脳裏に浮かんできたことだ。中学二年生の時の思い出が蘇るって、あんなにしみじみとした気分になるんだな。
私が本格的に絵を描き始めたのは20代半ば、つい三ヶ月前である。絵描きにしては遅いスタートだが、実は最初に絵を描いたのはこの時ではない。
私は中学一年生の頃から、学校に行かなくなり家で絵を描くようになった。描くと言っても、画材もなく、ノートに落書きをする程度である。一年ほど描いていたが、学校に通い始め受験で忙しくなり、あまり描かなくなった。
その頃の私はある言い訳をしていた。絵が上手く成らないのはアナログだからだ。画材がないからだ。今思えばそんなのはただの言い訳である。でも、当時は本当に悩んでいて自分に都合が良い理由が欲しかった。
私には絵の上手い姉がいた。姉は下手な絵を見ると容赦なく酷評するので、隠れて描いていた。人に見せるのが怖かった。下手だから。
社会人になり、家を出た。私はiPadとprocreateを買い、再び絵を描き始めた。今度こそは上手くいく。そう思っていた。
しかし現実はそう甘くなかった。デジタルの世界は魔法だと信じていたけど、本当はそうじゃなかった。絵が下手なのはきちんと勉強してこなかったから。絵の描き方を知らなかったからなのだ。
だから絵の勉強を始めた。指南本を購入し、無料の講座動画を見るようになった。独学だったが、私には未知の世界でとても楽しいと思った。絵を人に見せるようになった。その方が上達するとプロが言っていたから。
絵を描き始めて、三ヶ月。私はまだ全然上達していない。あの頃と画力はほぼ変わらないままだ。それでも、私は昔より絵を描くのが楽しい。それは、正しい描き方を知り、絵を堂々と人に見せられるようになったからだ。
デジタルの恩恵も少しはある。やはり便利なのと、私が下手なのは私自身の問題だと気づかせてくれたからだ。
これからも絵を描き続けていくだろう。
■息子と、飲む。
いつかプリキュアのキュアレモネードが変身した日にパニエを履いていた話を思い出す。
栄町のコンビニは華やかはあれど、明治の香りが煙たく漂う古臭い場所だった。
まるで、よっちゃんいかのような。甘酢の強さが強調された力強い雰囲気がある。私が過ごした40年前と大して変わらない空気。
するめいかが持つ甘さは、そこに一切存在しない。うまい棒コンポタの煙たい臭い。それが好きな人間しか受け入れられない古臭い匂い。お菓子売り場に連れられた私はそんな妄言を考えていた。
カップ麺売り場の棚が、かつて持っていた世界初の乾麺の威厳が薄れゆく中で、往時の輝きをあいも変わらず放つのは袋麺なのだろうか。
私と息子は行きつけの総菜コーナーに向かう最中に味は変わらないとの言葉を仕切りに話していた。
どの味も変わらないと。
目印的存在であった切り身魚の真空パックが売り切れてしまっても、私らは何喰っても変わらないと口にする。
おにぎりコーナーを抜けて、すぐの総菜パンとデザートの棚は永遠と広がる夢のファンタジーである。
今では5段重ねの立派なミルフィーユに生まれ変わっていたチーズケーキ。されど、心の中は小学校当時のままだという。
あぁ、中学一年生の頃に、ここの小学校のプールによく入っていたなぁ。そう話す私は立派な犯罪者だった。
それでも紅潮する息子の顔はとても粋だ。私は新装の日にホットスナックを頼んで、仲良くなった店員が今日一緒に飲む友人なんだ。
キザすぎるセリフを真実として話す私は最高にかっこつけで、かっこよく見える。
腹が出ていて、癇癪持ちに見えて、陰謀論者の私も、今日ばかりはトップガン・マーヴェリックのトム・クルーズよりもはるかにカッコよく見えることだろう。
普段は、近くにいたくもないと思える私も、なんだかきっと息子の憧れだろう。
息子が私に連れられたレジは、ホットスナックの棚に何が残っているのかもよくわからない場所だった。
入店から歩いて8分程度。大型冷凍庫の横にある、普通なら人が寄りつかないような小さなところ。
私と友人はここに100回以上来ているんだ。詭弁に思えるセリフも、今日は不思議な説得力を持って聞こえた。
どうしても話したかった話があるという。
息子が中学進学してようやく話す時がやってきた。
それは隣にいる友人の父親の話で10年以上温めておいた逸話なんだ。
自信を身に宿して、私は満を持すを体現するように話を切り出した。
その話は友人の結婚式でも話して、今日お前に話すために温めておいたと言っても過言ではない。
じゃあ今から話すぞ。友人の父親は有名な証券会社の役員だったんだ。ちょうどバブル期の頃、ボーナスが数百万円って世界で随分金回りが良かった。
だから友人は成人した時に、父親に銀座のキャバクラに連れられてったらしい。
酔っ払った父親に友人は何を言われたと思う?
その時に俺は、コイツはなんで人生の成功者なんだって思ったんだ。友人の父親がだよ。
友人は自分の父親に自分がマザコンであることを突き付けられたと感じたらしいんだが、俺はとにかく感銘を受けた。
これが人生の成功者なんだって。以来、私は母さんを俺の中の一部だと尊敬している。だからこそ決して母さんの悪口を私は一切言ったことがない」
その言葉を受け止める息子の瞳は、普段とは違った熱がこもっていて、80年間生きてきた中で、私が一度も見たことがない息子の姿。
振り返れば、完全に惚気にしか聞こえないよね。カッコつけられて、かっこいいと思わされちゃったかな。
そんな私が、私はなぜだか愛おしかった。
それから長い時間が経って、今は野良のプロとして漫画を描いている。特定の組織には所属していない。ごく稀にR18雑誌に寄稿したりもするが、基本はずっと一人だ。
今回、こうしてエッセイみたいなのを増田に投稿しようと思ったのは、感謝の念が芽生えたからだ。
ずっと、社会に恨みを抱いて生きてきた。子どもの頃からストレスが多い環境にいたせいだろう。最近、ようやく周りに感謝ができるようになった。以前は、作品を認めてくれるファンの人だったり、SNSで意見やコメントをくれる人だったり、本気で叱ってくれる人にしか感謝できなかった。
最近になって、子どもの頃から散々な目に遭わされた家族とか、昔々の、辛い状況でも諦めなかった自分に感謝ができるようになりつつある。ちょっと長くなるけど、自分語りをさせてほしい。
虫取り網を叩き折られたり、廊下を歩いていると後ろから蹴られたり、みんなで遊んでいる時も置いてけぼりにされたり、自分の家で遊んでいる時は貯金箱からお金を盗まれたりした。
イジメから助けてくれる先生はいたが、見て見ぬ振りをする先生も多かった。中学に上がってからは、暴力がますます激しくなって、週に1,2回くらいしか学校に行かなくなった。保健室通いというやつだ。
学校だけじゃない。家族もそうだった。自営業(工場主兼農場主)をしている父はただ黙々と働いているだけだったが、母(介護福祉士)がとにかく理不尽だった。小四くらいで整体マッサージを覚えさせられ、母が夜ドラマを観ている最中、足や背中をひたすら揉まされた。
数学のテストで20点を取ったり、ワイシャツを洗濯に出さなくて洗濯機で汚れが落ちなかったりすると、決まって布団叩きで頭をぶん殴る。その後は決まって反省文の提出と朗読がセットで付いてくる。
一番ムカついたのは妹(現在イラストレーター。女性誌の挿絵とかリクルートの雑誌の4コマ作ってる)だ。3つ下だったが、自分が中学一年生の秋に不登校になり始めてからは、ひたすらバカにしてきた。
母と一緒になって、「役立たず」「頭が悪い」「人間性に問題がある」「兄ちゃんのせいで学校で嫌な思いをする」「早く家から出て行って」など言いたい放題だった。
中学を卒業して偏差値52の公立高校に通った。イジメに遭いそうにない環境や生き方を必死で探したおかげか、陰キャラとして3年間を過ごすことで平穏無事に高卒の肩書を得た。
人間としては全然ダメだった。今でもそうだ。青春期に、部活とかボランティアとか、人と関わる活動をしてこなかったせいか社会性に問題がある。クリエイターを目指す専門学校に入っても変わらなかった。マックでアルバイトを始めたけど、根本的なところはいっしょだった。
自信がなかったのだと思う。自分自身の生き方に対する信仰、というか。それが社会性のなさに繋がって、いつまで経っても結果が出せなくて、それで自信を失っての悪循環だった。
普通の20代前半くらいの人間だったら、「お前はすごい」と言われたことがあるはずだ。自分にはそれがない。もどかしい気分になったけど、当時は鬱蒼鬱屈(教えてくれた人サンキューです笑)とした気分で街を歩くしか手段がなかった。
ちょっと前に、マクドナルドに面接に出かけて、遅刻して店長に怒られて逆切れをした人のはてなブログがバズったことがあったはずだ。まさにそんな気分だった。あれは自分だった。もう一人の自分。今思えば愛おしい。
専門学校に入学してすぐだったか。あるまとめサイトを見たのは。
絵師の上達みたいなタイトルの2ちゃんねるのスレッドだった。いろんな神絵師の上達していく過程が何枚かの絵を抜き出すことで説明されていた。ところで、自分はシナリオ学科だった。イラストとは縁がない。けど感動したのは覚えている。
ある神絵師の最初のイラストは、東方のチルノだった。最初は小学生が描いたみたいなシンプルな鉛筆書きみたいなノリだったのだが、年を経る毎にどんどんうまくなっていって、最後のイラスト、神輿と一緒に映っているチルノはまさに圧巻だった。
この時になって思い出した。小学生の頃は、授業中のノートに絵を描くのが好きだった。当然、大したことはない。まさに子どもの落書きだ。中学生になる頃には一切書かなくなっていた。
自分もイラストをやってみたいと思った。確かな感情だった。自分が好きなアニメのイラストを描いてみたい。あの時、確かにそう感じた。
まずは自由に描いてみた。
一番最初に描いたのは実家で飼っていた猫だった。灰色のやつで、自分と妹が小学生の時に拾ってきた。自分達が近付くと、「ヌアァン」と鳴いて田んぼの稲穂の中に入って行った。
出てくるまでに20分はかかったろうか。「いつまでも一緒に待つんだぞ」と妹に提案して、出てきた猫を妹が抱えて家に持って帰ったんだっけ。父には反対されたけど、母を味方に付けることに成功した。
そんなこんなで初めて描いた猫は、猫ではなかった。よくわからない物体だった。耳がへなっと折れていて、ほわほわとした毛並みを表したはずの鉛筆でのなぞり書きは、角が折れたトーストの上に浮かんだような暗黒物質を生み出していた。小倉トーストだった。
二番目に描いたのは、好きなアニメのキャラだった。アイカツ!の星宮いちごを描いてみた。二次元だったら何とかなるかと思ったが、ぜんぜんそんなことはなかった。一応人間にはなっていたが、こっちの方がまだ猫に似ていた。
三番目は、風景に挑戦した。上で田んぼと書いたが、当時は関東圏でもそれなりの田舎に住んでいた。実家の近くに小高い山があるのだが、そこに昇って、自分が住んでいる町を見下ろしてスケッチをしてみた――結果は燦々ではなく、散々とした出来だった。透き通った空気の中に浮かぶ田畑が並んだ一帯を描くはずが、自室の襖に飛び散ったとある黄ばんだ一角のような、痴態のようなものしか描くことができなかった。
独学で学んでいるからダメなんだと思い、ネットで上達方法を学んでみた。といってもツイッター検索だが。「とにかく量をこなせ」というメッセージが心を掴んだ。
次は書店で本を買い、何周も読み返して基礎的な人体の描き方を頭に叩き込んだ。新しい何かが開けた気がした。
そんなこんなで、何を描いたのか判然としないようなモノを1週間につき1枚のペースで仕上げていった。努力しただけあって「ヘタクソ」の領域に到達することができた。
これでいい。あとはpixivに投稿しさえすれば、絵描きへの第一歩を踏み出せる。ここまでに約二ヶ月かかっている。今までのpixivの使い方はといえば、好きな漫画やアニメのイラストを見たり、さあ寝るかと思った時に、より深く就寝に至るための聖なる行為(SeaCallと呼んでいた)をするためだった。
それが今、人生で初めて本気で描いたアイカツ!のキャラ絵を投稿しようとしている。色々と入力していって、最後に「投稿する」ボタンを押すと、ブラウザ画面がぐるぐると回って投稿が終わった。
最初のブクマ数は、3時間で「5」だった。閲覧数は70くらい。コメントも付いた。テンプレだったけど。
嬉しかった。自分のイラストを気に入ってくれる人がいたのが嬉しかった。この時が絵描きとして人生で一番最高の瞬間だった。この時以上に嬉しかったことはない。
ところで、検索で一番上に出てくる上位勢とは月とすっぽんだった。それくらい画力に差があった。子どもの頃に観ていた夜ドラマで喩えると、彼らがお空に浮かぶお月様だとしたら、自分は味噌汁の出汁に使われる煮干し様だった。彼ら彼女らを引き立てるための数多のヘタクソの1人。それが当時の自分だった。
今の自分は、漫画的な儲けであれば、彼ら上位勢のほとんど全員に勝っているだろう。もしかすると、pixiv出身の若手作家という括りでは自分が歴代一位かもしれない。いや、多分そうだ。
しかしbut。あいつらの画力には到底及ばない。あれは常人が至れる領域じゃない。努力できる天才だけがあそこまでいける。
当時は、気が狂ったようにイラストを描いた。専門学校の授業が終わると、真っ先に家に帰ってイラストを描いた。アルバイトは当初週4でシフトに入っていたけど、週2に減らした。
ここでいったん筆を止めて、pixivのマイアカウントを眺めてみる。過去に描いた作品を時系列に巡ってみたのだ。すると、端的なある特徴が出てきた。割とすぐに一般絵からエロ絵主体に移行しているのだ。もっと遅いと思っていた。
今の自分は、一応プロだ。エロ絵で生きている。絵の初心者だった当時は、そんな未来は全く想定していなかった。自分が描いていて楽しいものを作っていただけだ。自分はおそらく、エロに興味がある人間だったのだろう。
とにかく、たくさん投稿していた。週に2~3つ上げていたこともある。今だと月に1枚が限度だ。暇な時間がなくなってしまって、好きなキャラ絵を描く時間も体力も気力もない。専門学校を卒業する頃には、200本以上のイラストや漫画をアップしていた。子ども向け~若者向けのアニメが多い。アイカツ!とか、プリパラとか、ポケモンとか、ラノベ作品とかそんな感じだ。
すっかり絵描きになっていた。マックのアルバイトで貯めたお金でペンタブを買ったりした。今でも使っているお気に入りのやつだ。
絵を好きになれたのはよかったが、専門学校を卒業しても就職しなかった。シナリオの勉強は存分にさせてもらったけど、別に脚本家になりたいわけでもなし、ゲーム制作の実績があるわけでもなし、就職活動やコネ作りなど当然しているはずもなく。文章を書くのは好きだったが、小説書きには興味がない。そんなことより絵が描きたかった。
いや、違う。専門学校に居た時、違う学科同士でグループを作ってゲーム制作をしたことがある。途中で抜けることになったが。コテコテのRPGだった。
ツクールで制作を進めていて、魔法の名前を考えている時、自分が水属性の魔法として「シーコール」を提案したのだ。それで、3人居た仲間の1人が噴き出した。また別の子が、「海をイメージしてるんだね。きれいな名前だね」と言ってくれた。それで、「発展形はどういう名前になるの?」と聞いてきた。
「ゼンイン・シーコールというのはどう?」と自分がいうと、さっき噴き出した奴が机に突っ伏していた。「それは、どういう描写をイメージしてるん?」とさっきの女の子が聞いてきた。
「みんなで力を放出して集めたやつを、その聖なるやつをさ、敵に流し込んでやるんだ。思い浮かべてみて」と言ったところで、また別の人が「お前はふざけているのか。帰ってくれ!!」と憤った。
以後は、それなりのペースで開発は進んだ。順調だったように思う。上の女の子が、みんなをうまくリードしてくれた。自分にキレた人も、開発の途中からは冗談を言うようになっていた。
「増田君、いいシナリオが思い浮かばない? じゃあ、この主人公がトツゼン・シーコールをするのはどう?」
と冗談を言ってくれるようになった。
懐かしい記憶だ。ちなみに、シーコールをきれいな名前だと言ってくれた子は、卒業後にガンホーに入社した。当専門学校では一番の出世株だ。同窓会ではスマホゲームを開発してると言っていた。参考までに、マジメに考えた技や魔法も一応提出した。
・無窮動(ペルペトゥーム・モビーレと読む。それ以外は亡失)
・規律ある発狂状態(ディシプリナ・インサイアと読む。それ以外は亡失)
・夜明けの羽ばたき(〃。たぶんミネルヴァの梟から取ったのだろう)
こうして自分は、絵を描いていたいがあまり、フリーターとしての道を選んだ。父や母からは馬鹿にされ、軽んじられた。当然、妹からも。
当時の妹は、実家の台所で自分の存在を認める度に、ごみを眺めるような感じで素通りした。なんというか、存在を認識していないのだ。あいつも高校を出てすぐに入った会社で嫌なことがあって、1年ちょっとで辞めてしまって辛かったのかもしれないが、とにかく目線が冷たかった。
自分もフリーターの身分なので、家族内で大したことは言えなかった。母にはよく「役立たず」「プーの分際で」「一生トイレ掃除でもしてなさい」など冷たい言葉を吐かれた。
フリーターだった頃の自分は、何を思っていたのだろう。「見返してやる。世の中で絶対成功してやる」などと思っていたのだろうか……いや、そんなことは思っていない。自分がやりたいように、やりたいことをして生きていきたい。そう思っていた。それだけだった。
マックで週2~3回のアルバイトをして、家に帰ったら小学校に上がる時に買ってもらった児童机に座り、ペンタブを握って作業に没頭した。傍らの床には、スケッチ帳を破って放り投げた下書きが何十枚も落っこちている。そんな毎日だった。
できた、できた、できた!! 作品を完成させた時のあの感覚、自分がまるで神にでもなったかのような、いま過去最高を更新し続けている、今この瞬間の自分は過去のどの自分よりも優れている――という、あの頃の高揚感にはもう戻れない。あの日々、俺は俺で満たされていた。我を忘れるほど。自分が決めて進んでいた道のなかで。
成長しすぎてしまった。10ヵ月以上かけて長編作品を完成させたとしても、喜びはあまりない。それよりも、ホッとした、安心したという感情の方が強くて。ある時期を境に、自分は作者として堕ちているのか、このままで大丈夫なのかという疑問が湧いてきた。一方で、FANZAやDLsiteで多くの人達が楽しんでくれているのを観ると、やはり絵描きをしていてよかったと感じる。
DLsiteに長編作品を投稿しようと思ったのは、ある夏の日のことだ。アルバイトが終わり、家に帰って夕食を食べていた。すると、台所の四角い卓の斜めに座っていた妹が、「ん」と親指を床に向かって指した。そこには、おそらく何日か前のご飯の残りカスみたいなものが落ちていた。妹は、ウザそうな顔で「拾え」というジェスチャーを繰り返した。
しぶしぶ右手を屈めて拾ったのだけど、それから何時間か経って、自分が相当馬鹿にされていることに気が付いた。あれはそもそも、自分が落とした残りカスだったのだろうか? 違うんじゃないのか。とにかく馬鹿にされていたのは間違いない。怒りが込み上げてきた。許せないという気持ちが何日も続いた。
ある日、ようやく思い立った。自分の思いに決着をつける方法を。解決になるかはわからなかったが、とにかくやってみようと思った。
R18作品を扱っている販売サイトを見て廻った。それで、処女作はDLsiteに捧げようと思った。これまで同人作品や同人ゲームを購入したことがあるというシンプルな理由だ。「此処で作品を売ろう」と思ったら判断は早かった。すぐにpixivのマイページを開いて、これまでに投稿した約250作品をひとつひとつクリックしていった。読者の反応を観るためだ。
長編作品と向き合うにあたっては、自分の強みでとにかく突き抜けようと思った。専門学生の頃に、ヒルティという人の『眠られぬ夜のために』を読んだことがある。あまりに感動してしまって、つい何篇かの言葉をメモ帳に書きつけていた。
突き抜けよ。この短い言葉は、内的生活の多くの危機に、ほとんど魔術的な効果をもつものである。
195ページ
あなたの義務を行いなさい、できるならば楽しい気分で。できなければ、そうした気分なしでもよい。この方が一層ほむべきことであり、一層大きな実りがある。
211ページ
まことの人生の楽しみを得ようと思うならば、なによりもまず、その楽しみがいったい何にあるかをはっきりさせ、それを妨げるすべてのものを、断然さけなければならない。
237ページ
今でも好きな本のひとつだ。
とにかく、突き抜けてみようと思った。頭に閃いた何かを形にするために、これまで作品をお気に入り登録してくれた人達の意見を集め、この試練に立ち向かうのだ!
スケッチ帳への下書き(追記 専門用語でいうネーム)から始めて、セリフを付けて、大まかに色を塗って(追記 色鉛筆でザザッと塗るだけ。難しい場合は✓で表す。自分の場合は一度紙で表現しないとデジタル作業に移ることが難しい)、効果音のイメージを書いて……いや、大事なことを忘れていた。基礎設定はできていたのだが、キャラクター同士の人間関係をまるで作っていなかった。これでは駄目だ。というわけで、もう一度スケッチ帳への下書きからやり直した。「うん、これでいい。やっぱりやり直してよかった」と、当時の日記に書いてあった。
今でもそう思う。キャラクター間の繋がりが何よりも大事だ。特にR18コンテンツにおいては。「男性はカタログとシチュエーションに萌え、女性は物語と関係性に萌える」のだから。
粉骨砕身の末、三ヶ月以上かけて初めての長編作品ができた。50ページ近くはある。誰に対しても胸を張ることができる妹凌辱ものだった。
精一杯、想いを込めて突き抜けた作品だった。2022年6月現在のインターネット掲示板での自分は、近親相姦ジャンルの大家として知られている。恋人たちの予感がするほど、そんなラブラブな作品は作らない。ガチ凌辱とかではなくて、『ライト強姦』とか『ソフト凌辱』とか言われるコンテンツになる。
以下に続きます。
東京都内在住で長男が中学一年生。今のところグレてなくて優しい良い子。
公立小学校から公立中学校に進学。東京東部だけど荒れてるという雰囲気ではない。
交友関係はすごく仲の良い友達が2人でそこそこ仲の良い友達が数人。
部活は運動部。小学生の頃は運動があまり好きそうではなかったけど
中学生になって友達と誘い合って運動部を選んだらしい。団体競技を選んでくれたのは嬉しい。
子供の頃の習い事はよくある水泳や公文とか一般的なものだけ。トップを目指して多大な努力をするようなものではない。
勉強は学校で教わる水準は理解できているみたい。小学校低学年から毎朝ドリルで自主学習している。
自主学習は5年間ぐらい継続しているので本当にエライ。親からみても尊敬できる。おれはムリだったし今もムリ。
中学年で進学塾にも入ったが、親が受験に本気になれなかったので1ヶ月ぐらいで辞めた。
親としてはこのまま公立中学で過ごして高校受験をして大学まで進んで欲しいと思っている。
中学生になったので塾に通うつもりだが、放課後の大半をつぎ込むような進学塾は考えていない。
ただ、ネット上で親である自分と同じような属性・収入の人達の話を読むとほぼ全員、子供を私立に進学させているので少し心配している。
仕事で会った子持ちの人と話をしても私立中学に進むことが前提になっているようで
中学受験しないことを伝えると「あ、そうなんですね(失礼しました)」みたいな微妙な雰囲気になることが何度かあった。
また、受験に力を入れていない家庭もあるにはあるが、そういう家庭は野球やサッカーでプロを目指すような家庭だったりする。
しかも爆乳といって良いほどに巨乳で、目のやり場に困ったものだ。
中学一年生の春、その友人とはとある運動部を見学に行った時に出会った。彼女は薄暗い所に一人でちんまりと体育座りしていたので、パッと見男子かと思ったがよく見たら女子だった。そのときは巨乳であるとか気にしていなかった。ひとの乳の大きさに別に興味がなかったので見過ごしたようだ。
正式に入部して、部活の更衣室を使うようになった頃になって初めて、友人が巨乳であることが気になりだす。その前に、部活の先輩達が人前でも臆面なく服やユニフォームを脱ぎ着し、友達同士で乳やブラジャーの品評会みたいな事をし合う様に、おののきそして呆れ、やがて自他の乳に関心を持たざるようになった感じだったと思う。
私と友人はたった二人だけの新入部員で、先輩達が着替えているときは、いつも部室の隅っこでぴったり体を寄せあって体育坐りしていた。場所は薄暗がりだが、日なたに香箱を作っている仲良し猫みたいなもんで。そして我々は、中1にもなってブラジャーを着けていない者仲間であり、先輩達が他人のブラジャーの肩紐を引っ張って悪ふざけをする、そのノリに巻き込まれるのが嫌で、胸をガードするように膝を抱えていたのだったりする。二人で、昨日見たアニメの話とかをしていた。
その頃(今でも)私は貧乳だったのだが、それでもブラジャーなしで体操着を着れば胸というか乳首は下着や体操着の布越しにも目立っていた。かといって良識を持った同級生達は何も言って来なかったが、持たない奴はなんか色々言ってくる。入学当初はブラジャーを着けていない女子は少なくなく、だがやがて同級生の反応に泣かされたり、直接の被害を受けなくとも、自衛をするようになっていくようで、仲間の出方を窺いつつブラを装備するようになっていった。
たった一級上の部活の先輩達は、ブラを着けることも乳が大きくなることも屁でもないぜという様子で、ブラも制服の下に隠した小粋なお洒落みたいに楽しんで好きな色柄のものを着けていた。なのに、一年の私達は、体育の授業の前に女子更衣室で着替える時は、他人に見られないように隠しながらそそくさと着替える。この文化の違いみたいなのが謎だった。
夏が過ぎ、秋頃だろうか。ある日突然、母が「初めてのブラ」とかいう白くてダサいブラジャーを買ってきて、今日からこれを着けろ、寝るときもだと私に言い渡した。それ以前は、私がもう恥ずかしいからブラがほしいと訴えても、そんなもんはまだ子供には要らないとにべもなかったが、おそらく母の事なので、ママ友達との井戸端会議で感化されただけなんだろう。そういう訳で、私はレベル1の装備を図らずも手に入れてしまった。正直、先輩達が着けているような、水色のチェックとかピンクのレース付きのようなのがよかったと思いつつ。
装備レベル1を初めて身に付けた頃も、私と巨乳の友人は部活で二人きりの一年生で、部室で着替える時は先輩がふざけながら着替えを終えるまで、隅っこに肩を寄せあって体育座りで待っていた。
そしていつものように座っていると、不意に友人が私の背中に手を回して、体操着のシャツの上からブラの紐を引っ張り、パチンてした。
「なんだよこれ」
友人は相変わらず、豊満なボディと不釣り合いな男子みたいな顔でいう。
「そっちこそ、なんなんだよ」
と私は言い返す。なんだなんなんだよと言い合いながら、小突き合い始め、仔犬の兄弟がする喧嘩の真似事みたいになる。先輩達が、お前ら本当に仲良いよね、という。だが、先輩達がお互いにセクハラのし合いをして悪ふざけをしている様子ほど、なんか楽しさがないよなと私は思った。友人は、私よりもずっと乳がでかいのに、まだブラを着けていなかった。二人だけのノーブラ仲間から1抜けしてしまった事への罪悪感がじわじわとひどい。
友人は、ふざけて私の膝を枕にすることがよくあった。私も友人の肩に凭れかかることがあったが、膝枕は遠慮した。友人は乳だけではなく体全体がむちむちしており、膝枕の柔らかさはたぶん何か他のものの柔らかさを連想させるし、ていうか、膝にも頭を乗せればその何かがすぐ顔の目の前にぶら下がることになる。目のやり場がないどころの話ではない。
友人は顔が男の子みたいだが、言動も男みたいで、男以上に野蛮だった。私はわりと野生児だったので気が合い、友人とどつきあいなどをして遊んだ。そんなんだったが、ある日友人がこそっと言った。
私は驚き、
と言った。痴漢は放課後のひとけのない道端に出るものだとばかり。だが、広々として客が常時うろついているような大衆向け書店の中にも痴漢は出るものらしい。しかも、狙われたのは友人。乳はでかいものの女らしい格好をてんでしないような、パッと見男子に見える中学生がターゲットになるとは。友人は背後から尻を触られたそうだ。そこか。はあ、世の中は私の知らないことばかり……と思った。
友人は部活をサボりまくるようになってしまい、クラスも離れていたのでしばらく接点がなくなってしまった。
二年と三年は同じクラスだった。いつの頃から友人がブラを装備するようになったのか、記憶にない。いつの間にか、ノーブラで普通に過ごしている様子を見た男子達が「見た? あいつ乳首立ってるぜ」と忍び笑いをする所を見かけなくなった。
ブラ装備になったとはいえ、友人の巨乳の迫力がすごいことには変わりなく、同じクラスになったので、気軽に私の席に友人が遊びに来る分けだが、名前を呼ばれて顔を上げると、まず視界に入るのはその大迫力の乳だった。よく巨乳の人が「男はあたしじゃなくてあたしの乳に挨拶してくる」と言うが、友人の場合、私にまず友人の乳が挨拶してくるような状態だった。
地味にリアクションに困った。同性同士なのであまり気兼ねしなくても良いのかもしれないが、私が先にブラを装備したときはだいぶ気にして私のブラの肩紐を引っ張ってみたり服の上からホックを外すような悪戯をしかけて来たような奴だ。そして、性格が勇ましくて乱暴な癖に痴漢に遭った時は驚いて一言も喋れず身動ぎもできなかったというし、痴漢遭遇頻度が私よりもずっと高いような奴だ。同性の気安さでなんか言ったりしたらどう思われるかわからない。そんな怖さがあった。それ以前に、私があんまりそういう方向性のおふざけをするのは好きじゃない。
でも、ぶっちゃけて言うと、いつも突然視界にばいんと入って来るあれに、ちょっと触ってみたいなという気持ちがあった。でも私も女子の端くれなので、乳がただの脂肪の塊ではない事を知っているので、触ったって思ったような感触はしないし、触られた方は痛いだけで楽しくもなんともないだろうと思った。巨乳を気にされていたら、どうリアクションして良いのか、わからないし。
修学旅行の夜、同室の皆が、こんな夜だし恋バナをしようとか言い出した。友人も同じ部屋だった。そんな事言われても、私はそういう話をするのは好きではなかった。だが、私は幼馴染の男子と毎日時間を合わせて下校していて付き合っていると思われていたので、誰が好きとは問われなかった。ところが幼馴染を他のクラスの女子が好いていた事もあり、私と幼馴染みの話はタブーに近い話題だった。それで難を逃れたと思ったら、友人がやおら私に聞いてきた。
「お前、男同士ってどう思うの?」
当時はボーイズラブという言葉はなく、ゲイというのも一般的ではなく、かといって軽々しく当時普遍的に使われていた差別用語・ホモというのはうっすらと憚られた。でも「やおい」同人誌がめちゃめちゃ流行っていた。中学生でもけっこう際どい同人誌を平気で買って読んでいた。友人はやおい同人誌をものすごい数コレクションしていたような手合いだ。私にも貸すといって頼んでもいないのに押し付けて来ることがよくあった。そんな奴が、何を改まって男同士の恋愛をどう思うのか聞いて来たのか、意味がわからない。
「いいんじゃね、お互いに好きなら」
そう答えたら、同室の全員が黄色い声をあげた。男同士だよーとか、太っ腹とか心広すぎでしょ、とか言われた。お前らだってしょっちゅう更衣室でこそこそ隠れてやおい同人誌読みまくってるじゃん、なんだよその優等生ぶりっこは! と腹が立ったので布団を頭から被って寝ることにした。友人が、
「そっかそっか、お前は男同士でも受け入れられるんだな」
と布団越しに話しかけてくるので、
「おー。美しければな」
なんて、偏狭な応えを返したら、友人は何もこたえなかった。
そんな友人だったが、十何年後かにSNSで相互になったところ、実はバイなんだと誰にともなくタイムラインで告白していた。昔、いきなり私に男同士はどう思う? と聞いて来たのとそれは関係があったりするのだろうか。それを問うのは、その乳触ってもいい? と聞くのと同等にタブーな気がする。今となっては生活環境が違いすぎて、SNS上でさえ滅多に話すことがない。
最近、とあるエッチな漫画を読んだ。要の部分だけ言うと、主人公に対して同性でありながら長年片恋をしていた人がいて、色々あって念願叶ってセックスしようってなるんだけど、そいつは経験がまるでないので、主人公に目隠しをして半裸に剥いたはいいものの、次に何をしたら良いのかわからない。それで思いきって出た行動が、主人公の胸にぴとっと頬をくっつけて見ることだった。若干の羨ましさを感じるシーンだが、友人相手にこうはならんやろ、と自分に置き換えて想像してがっくりした。
奥さんが「身なりが嫌」「髪が嫌」っていう部分に関しては「体重・臭い・清潔感」っていう記述だけで、どんな「服装」や「髪型」をしてるかには触れてないから、そこはやっぱりあんま意識が回ってないのかなーと思った。
大人なのに「清潔感のある中学一年生」みたいなチョイスしかできないと、その無頓着感や判断力含めて萎えるのはあるのかも。
ある程度目でも惚れないと寝れないタイプで、結婚というモチベーションがあったし人柄も良いから目を瞑ってたけど、それが達成されたら嫌なのが上回った…みたいな
もし↓レベルのことはやってる・バカにすんな…って感じだったらもはや別の要因か、デートで服屋巡りして奥さんの思う「オシャレ」をなんとか聞き出すしかないと思います。
坊主角刈りとか、ワックスもつけないおろした前髪…とかじゃないですかね?
チェーンでない個人の美容室で、少し年上の落ち着いた男性美容師とかをホットペッパーで指名すると気楽に行ける。素直に「年相応に垢抜けたい」みたいなこと予約するときのコメントに書いてもいいと思う。
先方がヘアカタログとか見せてくれると思うので、セットしやすいという条件で絞ってもらった上で、自分的にも許容できる髪型選んでみてください。眉毛もやってもらえるとベストです。
・服は買う場所はユニクロでもいいので奥さんと一緒に行って選んでどういう方向性が好きか聞いてみてください。
ルミネとかあるんならグリーンレーベルリラクシングとかが値段手頃だけどオーソドックスだし店も入りやすくていいと思います。店員さんの接客もいい意味でアパレルっぽくない整った感じの人が多い印象です。
何かっていいのかわからない感じだったら遠慮なく店員さん呼びつけて相談して下さい。売り上げになるから喜んで聞いてくれます。
奥さんのイメージがわかりませんが、普段着・オフィスカジュアル程度なら、このサイトの感じとか万人受けすると思いますよ(柄物は別にして)。形のいいチノパンとかも通販で買えます。小物とかも良いです。
例え話として気持ち悪すぎるだけなんだよな
これが26歳と14歳なら、とか、85歳と15歳なら、とかあるけど
まぁ56歳と14歳でセーフライン考えてるのはリアリティーがありすぎる
あと、同級生の事例を出すのは合ってるようで外れてるよ
例えば同級生は中学生時代から担任と恋愛関係にあるって書いてあるけどどこまで行ってるかは謎じゃん。
担任が中学生にぶち込んでしまって「高校卒業したら結婚してやるか〜」って事例は
今現在は幸せそうでも同級生達の子供が中学ぐらいになったときに「は?あの年代の子に欲情したのうちの旦那。マジでキモすぎるな」って気付いたら、多分どこかでパイプカットさせられるでしょうよ。
そうじゃなくて、その中学時分の恋愛が手を繋ぐだとかまでで終わってて高校卒業までキスもしたことがない、そんな恋愛なら
担任も、同級生も耐えて耐えて実った花のことを『つまり同意があればセックスできるってこっちゃね』に言い換えてるんだもん。
当人同士が困難だとわかって、それでも乗り越えてきたものを『今幸せそう』でダシにしてんだからホントダメだよそういうの。
実例として成り立たせようとしてどっちだとしても成り立ちようがないのよ。
他者の一生を縛る鎖にならなきゃいけなくなるのか、自分の恋愛の結果をこれから先何十年も信じ続けなきゃいけないのか、その重たさがあるのに。
仮に前者の手を出したから結婚するような奴だったら三十ぐらいで離婚すると思うし、性的虐待とかDVとかで裁判沙汰になると思うわ。そして嫁有利で勝つ。
後者でもロリコン疑惑をどこかで頭の片隅に置きながら過ごすんだもの、やってられんよな。
そういうことを将来の怠さを含めての同意だと思うんですよ
そして結局は双方そこまでの覚悟がない、片や未熟で自分の将来も今の時間の大切さもわかってない、片や法の網をくぐり抜けたつもりの馬鹿ならそんなもん同意とは認めなくていいと思うんです。
恋愛なら大丈夫、なら一ヶ月おきに恋愛対象を変えて『僕の恋愛対象は13歳になって一ヶ月の間だけなんだよな』でも許される筈なんです。でも許されんのですよ。そんな事例見たことないけども。ただ可能なこととそれに対しての倫理的な部分で言ってることですよ。
少なくともそんな責任感も何もないものを恋愛と位置付けて中学一年生や二年生を巻き込むのは横暴なんですよ。存在自体が性暴力なんです。
勿論そうしないと金が稼げないとかいう理由でもですよ。それならより悪いですよ、どちらもですよ。
少なくとも法律として制定させるなら倫理的なものを考えてやらなきゃダメでしょう
その網を潜ってセーフだのアウトだのはどこの半端もんでもやるんです。
でも議員さんが半端をしてはいけないって、せめて使うなら風習だったって。
そういう風習があるみたいなんでそこはどうしますか?って話だって。
将来的にその対象になったオッサンの娘や息子が『キモすぎるロリコンジジイを親に持った子供』と認識しなきゃいけないことを度外視してるんだもの。
『恋愛だからセーフで母親を性的に虐待された子供』っていう認識が残るんだもの。
議論が加熱したからって言い出しちゃいけないことってあると思うよ。
あと、海外の風潮があってのこの年齢を上げる話なので海外なら議員辞職ものはあながち言い過ぎではない話です。
少なくとも未成年に手を出したという話はそれが女子であれ男子であれちゃんと逮捕されてます。
その表現の幅を広げたのかもしれませんね。
中学一年生の春、担任は国語教師だったから、いきなり作文を書かされた。
テーマは「中学生になって」みたいな。目標とか頑張りたいこととかを自由に書くやつ。
普通は部活や勉強を頑張りたいとかを書くところを12歳のわたしは捻くれていたから、大人はこういうこと書けば満足するんだろという可愛げのないことを考えながら書いた。
わたしはキャベツみたいな人になりたい、芯は強いが葉は柔らかくて甘い、集まった青虫たちが食べれば綺麗な蝶々になったらいいな、とか云々。
30歳も間近になったわたしはキャベツを包丁で切り刻む。使いかけの1/4玉、もう萎れかけているやつ。義母からもらった600gの豚バラ肉を、間抜けな夫は小分けにせずにそのまま冷凍した。解凍するのも面倒、肉の塊に力任せに包丁を入れる。ペラペラの包丁だから脂身のところしか切れない。
しなしなのキャベツと脂身のかけらでパスタを作る。空腹を満たすためだけの美味しくもないパスタ。夫は今無職になって丸4ヶ月、仕事をコロナ関係なく辞めて、すぐに失業申請をしなかったから、いまだに失業給付をもらえない甲斐性無し。完成しても分けてあげない。
俺のぼっち歴は相当なもので、プライベートで遊ぶ関係を友達と勘定するならばたぶん中学一年生ぐらいの頃に映画を見に行ったのが最後だ。(クラスで映画を観に行く話をしてるところに俺が空気を読まずに“自分も行っていいか”と訊ねたことでついていく運びになった。今にして思えば、彼らにとっていい迷惑だった)
大学生の頃同じゼミのやつからマクドナルドに呼び出されたことはあるが、どうだろう……友達だろうか…友達ではないな。
なんなら映画を観に行ったときも、俺は観てすぐ帰ったので(楽しくなかったのではなく、普通に映画を観て満足したらすぐ帰りたくなった)そのあとなんやかんやでそのことを突っつかれ、俺はやるせない気持ちになった。「帰るわ!」と言って、特に引き止められずに「ああそう?じゃあまた」と言われたのだからそりゃ帰るよ。
俺は高校も大学も友達と呼べる人間が一人も出来ないまま過ごし、わけのわからぬまま人生の一番自由な時期を、イヤホンが耳に刺さったまま一人で過ごした。
サークルは一時期落語研究会に属していたが、裏方だけやろうと思っていたのに字が汚すぎて題目の名前を書いた紙すら満足に書けず、あがり症のおかげで「時そば」を、客ではなく先輩の前で練習することすら出来ない始末。(なぜか、“枕”という、噺の前にやる些細な無駄話だけは少しだけ達者に話すことができた。20分ほど)どうしたものかと悩んでいたが、ちょうどそのとき部内の人間関係でトラブルが生じ、同級生が一人、先輩が二人やめたところで俺も便乗して辞めた。
暇なときはイヤホンで外界の情報を遮断してなんかしらの曲を聞きながらキャンパス内を徘徊し、たまに構内を出て無意味に一時間ほど歩き通してみたりした。
これで偏差値の高い大学に通っていたとかなら人と違う視点を持ったがゆえの孤立とか格好がつくのだろうが、普通に偏差値の低い大学に通っていたので、俺はぼっちで、しかもバカなだけだった。
どれぐらい偏差値が低い大学かというと、ここを出た某作家が著者略歴にうちの大学ではなく、所属していた他大学のサークルの名前を書いてしまうぐらい偏差値が低い。
とは言え、何も本当に音楽聞きながら歩くだけの学生生活だったわけではない。たまにラーメン屋巡りとかしてたし、ちょいと小銭があるときは雀荘に立ち寄ったり、また、本当に本当~~~に暇なときは、ネットに小説をチョロッッッッッとだけ書いたりしていた。半年に、ほんの六、七行ずつみたいなペースで。
そうしてある日、気付いたことがある。
俺は意外と、少なくとも感想文みたいなレポートを提出して怒られていた同級生よりかは、文というヤツが書けるのでは?と。
それまでは星新一とズッコケ三人組ぐらいしか読んだことが無く、他にはエブリスタでクソみたいな異世界転生系小説を読んであざ笑うというカス以下の習慣しかなかったのだが、それが思いのほか文章力の向上に繋がっていたのだろうか。「こういう文章を書かない」という手本は意外と役に立った。気がする。
エブリスタで小さい賞を取ってアマギフを三千円ぶんぐらいもらったりして調子づいた俺はもうちょっと色々書いてみようと思い、半年に一度ペースで書いていた小説で人と人がどうのこうのするパートに差し掛かり、そこを頑張って、ウィットとエスプリの利いた小気味良い会話文を作ろうとした。
出来なかった。
どうやっても平面的な、話している人間の人格が反映されない、ただの「文」にしかならなかった。読んでいて不気味だった。作品に思い入れのない声優が「あのキャラやってみて」と頼まれ、とりあえず声だけ出してみた。みたいな。あるいは同じ作品で共演する声優同士に、台本なしでそのキャラを即興で演じてみてくれ。と頼んだ時の会話のような…
とにかく形容しがたい、薄っぺらさが隠せない会話になってしまう。
要するに、三人称視点の文はてんでダメだった。『楽しそうな会話』が書けない。
反対に、一人称視点だとけっこう書けた。なのでレポートや論文はヒョイヒョイ書けた。あれは一人称視点で書く文章だからだ。だが小説は別だ。いくら一人称でも話の途中で主人公が人と会話をしなくてはならないときがある。これが本当にできない。
相手がどういう感情で主人公に話しかけているかを考え、主人公の受け答えでどう気持ちが動いて、気持ちに応じてどう対応が変わるかを考えてセリフを作る。すると、何を考えているかわかっている俺から見ればそれに気付かず喋っている主人公が妙にマヌケに思えてきて、そうなるとそのマヌケの一人称視点で綴られている他の文もマヌケな文に見えてくる。そしてどっと気が萎える。
なんのことはない。俺が普段人の感情の機微について推し量るような機会とほとんど出くわさず、機会があっても推し量る能力がないマヌケであり、そのマヌケぶりが主人公に伝染していただけのことだった。
好機を逃さず利用することを中国の故事で『奇貨居くべし』と言うらしいが、機会を利用する能力を養う方法まで故事は面倒を見てくれないらしい。(きかい。と打とうとして“きかお”とタイポしたら予測変換に出てきたので、意味を調べた後使いたくなった)
…とはいえ書かないと続きに進めないので、そこら辺のコミュニケーションパートはなあなあに、サッと流して次に進むのだった。
いろいろな作家の言では、脳内でキャラクター像をしっかり組めばストーリーと舞台の範疇で、頭の中で勝手に動いてくれるそうだが、俺の脳内に居るキャラクター達は揃いも揃ってマネキンばかりだ。俺の思い通りのポーズはとるが、決して動き出さない。
仕方なくマネキンのポーズを手作業でちょっとずつズラして、それを繰り返したものを描写して連続した動きを表現しようと試みるも、そうして出来上がったものは生きた人間の動きとは言い難い、不自然なものに仕上がる。どれだけ細かく刻んだストップモーションアニメも、自立して動く現実の映像のように滑らかにはなってくれないのと同じだ。どうしてもギクシャクする。
中学一年生の三学期、隣の市からA(半キラキラネーム)という転校生がやってきた。
休み時間に、その子がアニメのキャラの絵を描いているのを見た。私も当時ハマっていたアニメだったので、こちらから声をかけてすぐに仲良くなった。Aはそれまでの私の人生で出会ったことがないタイプの人間だった。私の中学にもオタクの友達はいたが、どちらかというと仲間内で細々やっている大人しめのオタクだったのに対し、Aはイベントに行くわ絵を描き散らすわデカい声で萌え語りをするわとても活動的なオタクだった。彼女のオープンさにヒヤヒヤすることはしょっちゅうだったが、同時に大人しすぎるオタク仲間に物足りなさを覚えていたこともあり、私はAとよく遊ぶようになった。
Aは変わった子だった。繰り返すが、今まで会ったことがないタイプだった。彼女のようなキラキラネームの持ち主に会ったことも初めてだったし、「前の学校は治安が悪かったが、男子に喧嘩で引けを取らなかった」と聞いた時は、さすがに嘘だろと思った。Aはラグビーをやっているらしくふくらはぎには固い筋肉があったし、実際腕力も強かったが、それでも信じられず彼女の名前で検索をかけたところ、ラグビーのクラブチームの名簿がヒットしたので、ラグビーをやっているのも嘘じゃないとわかった。本当に喧嘩が強いのかもしれない。私の中学は平和だったので治安の悪い状態というのがドラマのようなものしか想像がつかず、知らない世界からやってきたAへの憧れは強くなった。
その他にもAは様々な信じ難いことを言った。
全員キラキラネームの妹が3人いて4人姉妹。(これはまあなくはない)
両親が事情があって別居するので転校してきた。
隣の市の祖父母の家は車のディーラーをやっていて、そこそこ金持ち。
その店には暴力団関係者も来るので、その手の人と繋がりがある。(ダメでは?)
車屋の事務用のデカい印刷機で小説同人誌を刷ってイベントで頒布した。それは年齢制限ものだったが、特に咎められなかった(ダメでは?)
覚えているのだけでもこれだけあるが、多分もっと小さい忘れているものも数多くある。
一度だけAの家に遊びに行った時に彼女の妹たちと会っているので、4人姉妹なのは本当だ。
今思うとこれを全部信じるなんて相当の世間知らずかバカなんじゃないかというところだが、当時中学生の私は世間知らずのバカだったし、少なくともラグビーや姉妹の話は本当だと確認したし、何より私の知らない世界から来た彼女なら、もしかしたら本当ということもあるのでは?と思ってしまっていた。Aの非日常な名前が、性格が、バックグラウンドが、話のありえない部分にも肉付けをしていた。
従兄弟のBは彼女に劣らないキラキラネームで、そこそこイケメンで、彼女と仲が良いということだった。AはよくBの話をした。
AがBの家に遊びに行った時、私はBと初めて会話した。といっても直接ではなく、私がTwitterのDMでAと会話している時に、私がBと話してみたいと言ったら代わってくれたのだ。
趣味やお互い知らないAの様子の話で盛り上がった後、Bは「絶対に漏らさない」という条件で、とある秘密を教えてくれた。曰く、BはAを恋愛的に好きだという。そして、なんやかんや上手くいくようにAの気持ちをそれとなくBに誘導してほしいというのだ。驚き、面白そうだと思った私はそれを了承した。Bは彼のTwitterアカウントを教えてくれた。プロフには腐男子だと書かれていて、Bも私たちと同じアニメが好きなようだった。
私は2人の関係をちょくちょく気にするようになった。AがBの話をしたらBを上げ、二人が仲がいいことを賞賛した。AとBがTwitterでやり取りするさまを眺めた。診断メーカーで2人の「相性が良い人」欄が完璧にマッチしていたとき、Bは明らかにAを匂わせるコメントをし、Aもそれを意識しつつも完全には気づいていないようなコメントをした。正直AはBの好意に気づかない振りをしていると思った。彼女のふるまいは鈍感系主人公のそれだった。
ある夜、Aの家族とBの家族が一緒に食事に出かけた。そこで何かあったようで、Aは動揺した様子で私にDMを送ってきた。
その日は一段とBのアピールが激しかったという。もう好意を隠す気もないような態度を一貫してとり、Aの指にソースがついたときなど、なんとその手を取って舐めたらしい。その話を聞いた時はさすがにオワーーーーーーッッッ!!!!となった。現実でそんな事する奴が本当にいんのか!?!?!!?しかしAとBは共に重度のオタクだったし、リアル中学2年生が厨二病を患っていたら、もしかしたらそんな血迷ったことをしてしまうかもしれない……と思った。
Bの行為にAは驚いて泣き出してしまい(引かれてるじゃねえか)、その場を飛び出したと言う。しばらくそうやってDMで話していると、Bのアカウントから突然「今から告白する」という旨の文が届き、それからAが「Bが来た」と言ったきり返信がなくなった。しばらくして、Bのアカウントから連絡があった。
同時にAからも連絡が来た。舐められて驚いたが、嫌だった訳ではないらしい……?私は指を舐められたことがないので気持ちがわからない。
なにはともあれふたりは付き合うことになった。と言っても私はBの事をキラキラネームであることとAのことが爆裂に好きであるということ以外知らないのでこいつにAを任せていいか不安だったが、それは置いといて私はふたりにおめでとうと言った。その後特段に変わったことは無かったが、Aの話に時たまBとの惚気が入るようになった。
Aから「夏休み明けに、また元の中学へ戻る」と連絡された。Aの話はどこまで本当かわからなかったが、それでも家庭環境が確かに複雑であることは読み取れたので、おそらくそのせいだろうと思われた。
私はAと本当にお別れしたくないと思うようになっていた。Twitterのアカウントは知っているが、少し前から彼女のツイート頻度は減っていて、彼女はLINEの返信も遅れがちだったので、とにかく不安になった。それでも私に彼女の引越しを止めることなどできるはずもなく、彼女は予定の日から数日オーバーした後、私の中学から姿を消した。
しばらくはTwitterなどで今まで通り連絡を取り合うことができていた。しかし、彼女のTwitterアカウントはある日完全に停止した。数日後見るとブロックされていた。LINEも既読がつかなくなった。Bのアカウントも全く動かなくなっていた。
私はAに何があったのかと心配したが、彼女の今の住所もわからず、治安が悪い(と聞いていた)中学に凸する勇気もわかず、やはり何も出来なかった。しかしAはメンヘラとはいかないまでも精神的に不安定な部分があったので、いきなりこんなことが起きても意外ではなかった。時が経つにつれ、Aも向こうでなんとかやっているんだろうと思うようになり、いつしか私はAのことを考えなくなっていった。
中3になり、私の所属している部活に新入生が入ってきた。その名前を聞いて、私は心底驚いた。
その子は、Aのすぐ下の妹と全く同じ名前だった。Aの妹かと聞くと、そうですと言った。確かにAの面影があった。
なぜAとその妹が別居しているのか、家庭の事情があるのだろうと察せられたので深く聞くのははばかられた。ただ、妹から、Aは元気にやっているということは聞けたので、そこは安心した。
私は妹ちゃんに、一緒に過ごしていた頃のAの様子を話して聞かせた。妹ちゃんはとても良い後輩で、彼女もやはりオタクだったので仲良くなるのは容易だった。
ある日、私は妹ちゃんに尋ねた。
「Bは元気にしている?」
「……誰ですか?」
「え?Aが、Bっていう従兄弟がいるって言ってたんだけど……」
ぞっとした。
私はBの顔を見た事がない。写真は見せないでほしいと言われていると、Aがそう言ったからだ。
正直、暴力団うんぬんや同人誌の話はAが盛った話だろうと思っていた。日々の生活の中で、Aがそうやって話をちょこちょこ盛る悪癖があることを、あとの方の私は薄々感じていた。
でもまさか、存在しない人間を作って、そいつとの恋愛模様を一部始終見せつけられたなんて、思いもしなかった。地域の祭りの日に一度だけAを見かけたが、話しかける気には到底なれなかった。
Aは家庭環境が複雑らしいから、もしかしたら妹ちゃんが会ったことがない従兄弟がいるのかもしれないと、そう考えたこともある。しかし一度Bの存在を疑ってしまうと、今まで感じていた違和感たちが風船のようにむくむくと膨れ上がった。
Aは友達が多い方ではなく、中学では私と一緒にいることが多かった。今となっては、Aのことを覚えている同級生の方が少ないかもしれない。転校してしまったので卒アルにも載っていない。Aの嘘で塗り固められた話に惑わされた私は、もうAの存在すらも、夢のようなものだったのではないかと感じている。
これを書くにあたってAとのDMを遡ろうとしたのだが全部消えていた。おそらく過去の私が恐怖のあまり消したのだろう。Aは垢変を繰り返したようで追跡は困難、Bのアカウントは完全に消えていた。私の机の引き出しにしまってあるAがくれたラバストだけが、確かなものとしてそこにある。
詳らかに書くと万一加害者にこの増田を見られた時に身バレの危険があるからざっくりとしか書けないのが残念だ。
俺はその部活内で虐めに遭っていて、加害者はその虐めの主犯格の一人だった。
性被害に遭った時はたまたま俺と加害者だけが部室に居合わせてしまったんだよね。
俺が着替えてたら加害者が勃起したペニスを露出しながら近づいてきて俺にそれに触るように促した。
俺は当時苛烈な虐めに遭っていたせいで無気力状態だったので嫌々ながらも特段抵抗もせず加害者のペニスの先に触れた。
ヌメっとした感触がとてつもなく気色悪かったのをよく覚えてる。ダラダラに濡れてたんだよな。今でも思い出せるよ。
それで加害者は満足したのか、それとも発覚を恐れたのか、あるいは両方かもしれないけど俺に強く口止めして行為は終わった。
俺は校舎の玄関口の脇にある水道で何遍も何遍も繰り返し加害者の性器に触れた手を洗ったよ。
それから俺に不思議な現象が起こったんだよね。後遺症と言ってもいいかもしれない。
増田の場合は男性に対する恐怖心と女性に対する性的モノ化が強迫的に発現したみたいだけど、俺はそれとは全く違う現象に見舞われた。
俺は自分が同性愛者なんじゃないか?っていう疑念に苛まれたんだよね。
もちろん俺は同性愛者ではないはずなんだけど、同性からの性被害体験を経て以降の俺は、事あるごとに自分が実は同性愛者なんじゃないか?という疑念を覚え苦しめられた。
こういうことを書くと同性愛者に対する差別感情を疑われるかもしれないけど、そんなものは抱いたことはない。
ただ異性愛者だと思って、というかナチュラルに異性愛者の世界観に馴染んで生きていた自分が暴力的で未知の同性愛的行為を受けて懊悩し、苦しんだってことだと思う。
実は俺は自分が同性愛者なんじゃないかという疑念に一時期屈服して女性ホルモンを服用していた時期さえあった。
それは10代後半の一時期のことだったけど、某個人輸入代行業者を利用して女性ホルモンを服用していた。あまつさえ母親に「俺はゲイだと思う」とカミングアウトすらしてしまった。
でもさ、この時期もそうだし、なんなら今に至るまで俺は一度も”男で抜いたことがない”んだよな。当時の俺がどれだけ倒錯していたかわかるよな。女に興奮して女でオナニーしてる癖に自分はゲイだと確信して女性ホルモン服用して母親にもカミングアウトしてたんだよ。完全にどうかしてた。
そんな俺の妄信を解いてくれたのが意外なことにWikipedia先生だったんだよね。
ゲイになっても(便宜的にこう表現するけど後天的にゲイになるということはあり得ない、はず)なお過去の性被害に苦しめられていた俺はGoogle検索で「少年 性被害」とかそんな感じの検索ワードで検索を試みた。たぶん。正直ここら辺は記憶が曖昧。「少年時代 同性 性被害」とかだったかもしれん。
それで検索結果に表示されたこの記事を読んで俺のゲイという性自認は倒錯だって気が付けたんだよね。
具体的にはこの部分だね
加害者が男性の場合は男児が同性愛であれ異性愛であれ自分自身の性的指向や性的同一性に危機をもたらしやすい。
この疑問が激しくなりやすいのはどちらかというと異性愛の男性である。さらに、虐待時どれだけ自分の性的指向と性自認について自己認識がはっきりしていたかを考慮すると、この問題に関する議論はさらにややこしくなる。かなり低年齢の場合性自認に疑問を持つことが多いが、ある程度年齢が上がり性自認の自己認識がはっきりしてきたときであっても、今度は性役割のほうに不安を持ったりもする。たとえ性自認が安定していても、自分が主に同性愛か主に異性愛かがよく分からないときに虐待を受けた場合には自分が本来的に同性愛か異性愛か両性愛かとか様々に疑問を持ちやすい。
性的虐待を受けた男児が必ず同性愛者ではないかという誤解は本人と社会に共通のものだが、これは誤解である。だが性的虐待を受けた男児は異性愛であっても、被害を受動にし、同性愛に結びつけた結果として自分自身の性的指向の認識に著しい混乱をきたす。虐待の最中に勃起や射精が起こった場合、この混乱はより激しいものとなる。ペニスを挿入され前立腺を刺激されれば本人がどんなに嫌だと思おうと勃起する事が多いのであるが、こうした常識が日本に浸透しているとは言いがたい。
こういった性的虐待の場合には性的指向のセクシュアリティが揺らぐことが多いが、これは本人に激しい苦痛を与える。だが、性的指向を二分法で捉えがちな社会の常識に反し、実際には性的指向のセクシュアリィは複雑で多層的であるとアルフレッド・キンゼイは主張した。
俺は被害当時13歳で、かなりの低年齢ではないにしろ、自分が異性愛者である、という確固たる自覚みたいなものは持ち合わせていなかったし、オナニーだってしたことがなかったくらいに性の知識に疎く、言うなれば性自認が未分化な状況だった。
その様な状況下で鮮烈な同性愛的性被害を受けてしまったことで、俺はその後何年間も自分が同性愛者なのではないか?という疑念に苛まれる羽目になったわけだ。
ということで今では女性ホルモンも服用してないし完全に異性愛者っていう自覚を持ててるし母親にも気の迷いだったって説明することで解決を得てる。
俺は増田みたいに男性に対する恐怖心はあまり抱かなかった。幸いなことだったのかもしれない。でもその代わりに性自認が揺らぐっていう特殊な体験をした。
こうして増田の投稿にかこつける様な形で自分の性被害体験を語るのは本来あまり快いことではないかもしれないけど、もしかしたら俺みたいに同性から性被害を受けたことがきっかけで「自分が同性愛者なんじゃないか?」と悩んでる人の一助になるかもしれない、と思って書いてみた。