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2020-07-18

自分は」失敗作なんだと嫌でも思い知らされる。

ADHDと自閉スペクトラムの息子さんが居る増田とその増田へのトラックバックを読み気分が沈む。これまでは知らなかった。よその家庭にも自分と同じような子供は居る。

宿題の提出が難しい。朝練にも行けない。朝の着替えも時間割の用意も出来ない。読書は好き。ドリルが大嫌い。

全て自分と被った。元増田のお子さんは成績が良く勉強も得意らしいので出来る子供だ。自分は出来なかった。何もかも駄目だった。

小学生ADHDと自閉スペクトラムと診断され治療を受ける事が出来たのはきっと子供にとっては幸せな事だ。

自分滑舌が悪く何か問題があるのではないか、と子供の頃無料カウンセリングに通っていた事がある。ある年齢からもう問題はないと通わなくなったが、発達障害自閉症とは疑われなかった。

家族からは怠け癖のある子供だと思われていた。自分でもそう思っていた。ADHDでも自閉スペクトラムでも努力して社会に溶け込もうとしている・実際に溶け込んでいる人も居るのでそれは正しい。

発達障害の疑いがある、と去年心療内科の診断に行った。高校卒業して10年経っていた。その10年間で働いた日数は半月にも満たない。3650日も時間があったのに、15日も働かなかった。怠けていた。遊んでいた。

ADHDと自閉スペクトラムの傾向があると診断された。初回ではコンサータが処方された。効果が強力だった。次はストラテラを出された。効いているのか分からなかった。その次はインチュニブだった。効き目が分からず飲むのを止めた。

世の中には発達障害自閉症と診断されても、強い意志を持って努力している人が居る。苦しい思いをして辛いと思っても、自分は周囲に馴染めないと思っても、それでも頑張っている人達は沢山居る。

自分は何も頑張らなかった。ただ怠けていた。周りから変わっているとよく言われた。「君は返事だけは良いね」と先生に言われた。それでも何もしなかった。それも含めて自分らしさだ、その内何とかなるさと思っていた。

何ともならなかった。自分発達障害だと分かっていて治療のために通院せず薬も飲んでいない。ただただダラダラと怠けている。アルバイト求人誌も持ち返りはするだけで一切読まない。働くのが嫌だから読む気なんて初めから無い。

昨年一家大黒柱だった父親が死んだ。我が家にはもう収入がない。預金が幾らあるのかは知らないが、凄まじいペースでお金が無くなっている事は分かる。働かなくてはいけない。それでもまだ働いていない。

自分のような何も出来ない人間に出来る仕事なんて単純作業しかない。それも一週間で辞めた。労働がしんどかった。先輩からの指摘がしんどかった。こんなに動き回って1時間1000円も貰えないという事に耐えられなかった。

重い物を運んで体を傷めたので5日のバイト代約3万円はそれで消えた。今はもう働く気が起きない。毎日家の中で遊んでとても楽な気分で居る。幾ら遊んでも時間が足りない。もっと時間が欲しいとさえ思っている。

それでもやがて貯金は尽きる。母親もいつか死ぬ。家庭を築き社会人としても頑張っている兄弟にも嫌われている。生まれ付きのハンデがあっても頑張っている人の話を聞く度に、「自分は」失敗作なんだと嫌でも思い知らされる。

anond:20200717111103

2020-07-17

anond:20200717111103

自閉症と注意欠陥症を併発した少年に塾以外に部活朝練を課すというのも、なかなか厳しい条件である

子供学校に行かなくなって3日経った。

現在中学一年生の息子。

5月中旬から始まった学校は、分散登校という慣らし運転期間を経て6月から本格的に始動した。

運動系部活に入った事もあって、朝練・授業・部活宿題・塾 と中々ハードな日々を送っていた。

7月に入ると宿題を朝慌ててやっていたり、起きれなくて朝練をサボったりする日がぽつぽつ出てきた。

宿題も「毎日提出するもの」と「2週間後の期日までに提出するもの」が出されていて、毎日提出のものギリギリこなしているという状態だった。

そして今週の水曜日、その「2週間後提出期限」の宿題の提出日の朝、息子は学校に行くことをやめた。

机には全く手つかずの宿題

  

学校に行かなくなってのこの3日間は一日中ネットを見たりゲームをしたりしている。

ただ、友達への負い目があるのかラインSNSフォーナイトのような人と繋がるゲームはやっていない。

  

親として7月に入ってからした事は

宿題の量が多いのでスケジュールを細かく切って取り組む計画を一緒に立てた。

・塾を辞めてもいいと子供に話をした。(子供は辞めたくないと言った)

・塾の宿題にまで手が回らなそうだったので、塾の先生相談して「出来るところまででいいですよ」と承諾をもらった。

  

1日目は「学校へ行きなさい」と頭ごなしに言ってしまった。

2日目からは登校に間に合う時間に起こし、朝食をとらせ、あとは本人に任せている。

一向に宿題に取り組む様子は無いけれど。

  

息子はADHDと自閉スペクトラムだ。

現在は薬で症状は抑えられているが、小学生の頃は朝の着替えも、時間割通りに教科書を揃える事も一人では難しかった。

勉強は嫌いだった。

読書は好きで、教科書参考書の内容の理解は早かったので成績は良かったのだが、

ドリルのような「問題を何度も解く」という行為をとにかく嫌った。

本人にとって分かり切った事を何度も繰り返しさせられる「作業」は苦痛しかないという様子だった。

  

息子にとって学校に行き続けるという事は、毎日そういう苦痛の山と向き合い続けるという事なのかもしれない。

この先どうしたらいいのか、出口が全く見えない。

2020-07-14

合唱曲キャラランク

合唱曲キャラランクについて記す。

ランクS COSMOS 旅立ちの日に

COSMOShttps://www.youtube.com/watch?v=ZRYcXup6blY

最強。これを歌う権利を獲得したクラスが金賞を取るといっても過言ではない。この曲は聴いている側はもちろんのこと、歌っている側も鳥肌が立つ。宇宙という壮大なテーマ完璧に曲の中に落とし込んでいる。「合唱コンクールだり~」って言っている男子でさえも裏声ソプラノを歌ってしまうほどの力がこの曲にはある。「百億年の歴史が」からサビまでの盛り上がりはまるでジェットコースターが頂点までの道を上がり始めたかの如く。くるかくるか、きたかたか、という焦燥にも似た興奮のトンネルを抜けた先には光が待っている。

旅立ちの日にhttps://www.youtube.com/watch?v=9RgtFqOs8s0

合唱定番曲。合唱コンクール、3年生を送る会、卒業式など、どの行事でも歌われ、かつ不可避の感動を与えてくれる。特筆すべき点はなんといってもハモりである。これぞ合唱曲だといわんばかりの調和男子女子が手を組まなければ完成しないマスターピース。この曲を歌った経験があり、今でもハモりの部分を歌えるという人は多いはず。

ランクA 親知らず子知らず 時の旅人

親知らず子知らず(https://www.youtube.com/watch?v=NbVvgGkCES4

合唱曲ダークヒーロー邪道とも言える。合唱コンクール入賞は堅いが金賞は取れない。ドラゴンボールベジータのような、主人公匹敵する魅力や強みはあるが決して主人公にはなれない、そんな印象を受ける。この曲はとにかく暗い。救いがない。それが強みでも弱みでもある。さらにこの曲は歌う際の難易度も高く、伴奏者にも表情や身体の動かし方といった表現力が求められる。曲中の「ぐわっと」で何かにまれるような感覚を味わった人は多いはず。

時の旅人https://www.youtube.com/watch?v=Kds6RwirI5Q

「めぐるめぐる風」 「汗を拭って歩いた道」 この二箇所が強く印象と記憶に刻まれる。穏やかな曲調ながら、根を大地にしっかりと張った大樹のような力強さを感じさせる。「やさしい雨にうたれ」からは、天からかい手が差し伸べられ、何か神秘的かつ大きな存在に救われたかのような気持ちにさせてくれる。目をつむってじっくりと味わいたい曲。

ランクB HEIWAの鐘 手紙拝啓十五の君へ~

HEIWAの鐘(https://www.youtube.com/watch?v=xLtJQlr3VxQ

好きな人にはたまらない、しかし万人に対して同じ印象を与えるか、と悩んだ末にこのランクとなった。この曲の魅力は何といっても歌詞にある。権力と書いてちから、と読み、戦争と書いてつみ、と読むような中学生垂涎ものリリック。これらが疾走感を伴った爽やかさで歌われるのだ。そしてこの曲にはきちんと力強さもある。筆者お勧め一曲

手紙拝啓十五の君へ~(https://www.youtube.com/watch?v=MJ1X0vfWQXM

合唱コンクールでこの曲が歌われる際、15歳である生徒が多いだろう。そのため歌う方と聴く方の双方に刺さってくるような強みがある。この曲は遅効性である。歌っている当時は「15歳だなんて大層なものではない」なんて斜に構えてしまうところがある。しかし歳を重ねこの曲を聴くと「15歳の頃はよかったな」「15歳から何年経ったのだろう」などと先端の尖っていない針で心が刺される。思い出による補正も乗り、遅くなってから初めてこの曲の、そして15歳という時期の本当の価値を知り、味わうこととなる。

ランクC マイバラード 怪獣バラード

マイバラードhttps://www.youtube.com/watch?v=3uywnyJutQU) 

サビがとても強く、合唱曲王道という印象を受ける。しかしそれゆえに個性の足りなさを感じる。他の個性豊かなアイドル人気投票で負けてしまうが、中位は維持し続けるアイドルアニメ主人公のようだ、といえば伝わるだろうか。しかし、前述のようにサビの「きらめけ」がとても強い。伸びのある透き通った高音でこの「きらめけ」が聴ければ思わず10点と書かれた札を掲げたくなる。

怪獣バラードhttps://www.youtube.com/watch?v=_9VCTbHXfOQ

入賞は望めないが、とにかく明るく、誰も悲しまないし、誰もこの曲を選んだことを後悔しない。テーマ戦争や命などの他の曲とは異なり、それが恐竜であるため重くない。テーマ人間に関連していない合唱曲比較的珍しいといえる。最後の「ヤッ!」という掛け声で聴いている人はみな温かい気持ちになり、自然と口角が上がってしまうだろう。

 

 以上が今回作成した合唱曲キャラランクである。もちろん、この他にも記述すべき合唱曲としての名作は多数あるだろうし、このランクに納得のいかない点もあるだろう。異論は認めるほか、曲の強さではなく合唱の発表順に入賞は左右されるものだ、という意見も受け止める。

私は、これを見た見知らぬ誰かに中学生の時を回顧してほしく、これを書いた。当時は朝練などで面倒くさかった合唱コンクールも、今となっては過去を懐かしむ大切な思い出の一つとなっていることを実感してほしい。

生硬で、不器用だった当時の自分を、この機会に懐かしんでみてほしい。

2020-06-27

anond:20200627101822

まれてもいないのに朝練したり週末潰して遠征したりする部活よりマシ

2020-03-12

超過勤務40時間未満でつらいってどういう感覚

これはまじめな話だ。社畜自慢でも何でもない。

学生時代だって、朝7時に登校して朝練して、放課後部活で夜9時まで毎日残るとか普通だったじゃん。

部活が無くても、平日4時間くらいバイトしてたら帰宅時間は同じようなもんでしょ。

仕事だって、夢中になってたらいつの間にか昼休みも終わりかけだったり、定時前にちょっと手を出した仕事残業になったりもする。

朝弱くても必要があれば早朝出勤するもんだろうし、そしたら超過勤務40時間くらいはすぐに到達する。

80時間も近くなってくると、ちょっと今月は働き過ぎだなって思うけど、その半分で「仕事がきつい」って感じる人の気持ちマジでからない。

2020-02-17

仮病のためのライフハック見つけた

 6日前、慢性化している扁桃炎を半年ぶりに発症し、いつものように40℃まで熱が上がった。扁桃炎とは、喉にある扁桃腺という組織病原体によって腫れ上がり、様々な症状が引き起こされる病気だ。そもそも免疫役割を担う部位なので、その症状は正しい反応ではあるが、僕のそれは大きすぎて、過敏に反応してしまうらしい。

 扁桃炎を初めて発症したのは大学2年生の夏頃で、それから2年半が経つ。合計で6回ぐらいは発症しているだろうか。今までの発症時期から推測すると、台風が近づく等の理由で気圧が変化したときと、気が抜けたとき発症するらしく、今回はおそらく後者だ。大学最後テストが終わり、バイト先の塾で担当していた生徒の受験が終わったことは、今までの緊張を一気に和らげたのだろう。

 そんなわけで発症した扁桃炎だが、これがめちゃくちゃつらい。基本的に40℃前後の熱が3日ほど続いて、そのあと2、3日かけて徐々に熱が下がっていく。その間、なんの生産活動知的活動もできないのでストレスは溜まるし、何より体力的に厳しい。今回も5日目まではこのルートを辿っていったのだが、6日目の今日、初めてそこから逸れた出来事が起こった。

 体温が40℃になっていた。「あれ?」と思って再度測り直しても同じ体温を示す。全く意味がわからなかった。いまだに体調は優れないものの、明らかに症状は軽くなっている。もしかしたら、高熱に対して自分感覚がマヒしてるのかもしれない。とりあえず長期戦に備え、後輩に買い物を頼む。冷蔵庫おかゆポカリでいっぱいだ。新型コロナも疑った。厚労省相談窓口に電話すると、「3つの条件のうち1つでも当てはまったら各自治体の相談センターに連絡しろ」とのことだった。全く当てはまらなかったので、相談対象者ではないらしい。

 やることがなくなり、落ち着きを取り戻してきたので、一旦ゆっくり考えてみる。なぜ体温計は体調に見合わない高熱を示すのか。体温計の故障をまず疑ったが、実際に脇を触るとめちゃくちゃ熱い。というか、脇だけがやけに熱を発しているようだ。「なんか変なことしたかな…?」と思い今日1日の行動を振り返ると、一つだけ心当たりがあった。

 朝、脇にデオナチュレを塗ったのだ。恥ずかしながら私はワキガ体質で、ワキガ用の手術はしたものの、今でも臭いが少し残っている。デオナチュレはミョウバンを主原料とした消臭剤で、良く効くので愛用していた。「ミョウバンって発熱反応なかったっけ?」と思い、調べてみると、水を加えると発熱するらしい。そこで左脇を丹念に洗い、水気を良く拭き取り、再度体温を測ってみる。

 ビンゴだった。体温計は37.8℃を示し、それは今の症状の度合いとちょうど釣り合っていた。4日後の旅行に行ける安堵感と、たくさんの買い物をさせてしまった後輩に対する若干の罪悪感を覚えながら、こんなことを思いついた。

 「これ仮病に使えるやん!」

最高の名案だと思った。ネットを調べてもこのライフハックを知る人はいない。この度が過ぎた情報社会で、こんな有用ライフハック自分が発案したという事実に震えた。ただ、よく考えてみると「高熱を示す体温計を提示することによって、休むことが認められる」という状況は実は少ないのかもしれない。社会人が会社を休むとき、わざわざ体温計を見せるのだろうか?色々と考えた結果、上記の状況が確実に成立するのは、「小中学生時代において学校習い事等を休むとき」だと考えた。

 そしてそれを考えついたとき自分中学校時代が頭に浮かんで離れなくなった。あのときに使えたなあ…と考えだすと止まらなくなってしまった。


 私の生まれ育った町は、地理的孤立しており、独自に発展を遂げたタイプ田舎だった。いわゆるムラ社会だったので、うまく周りと同調する必要があり、地理的特性故に逃げ道が全く見えない環境だった。

 小学校とき、少しいじめられた。いじめっ子に同調した言動に変えることでいじめはなくなった。3年生から野球を始めた。理由ひとつ上の兄がやっていたからという一点。家系的に代々運動神経は良かった。私だけ少し悪く、特に足は遅かったが、世間の平均と比べれば明らかに上だった。実際、高校の体育の成績は3年間続けて10点満点だった。ただ、レギュラーには一度もなれなかった。ミスが多発する少年野球性質的に、足が速くてかき回せる選手が好まれからだ。一度レギュラーの一人が怪我離脱したとき代理で2週間ファーストを務めた。めちゃくちゃ活躍した。打率は5割を超えてたと思う。でもその子怪我が治った途端、すぐベンチに座らされて、たまに代打で出る程度に戻った。ここまで層の厚いチームはめずらしいと言われたが、どうすることもできず、ただ悔しいだけだった。

 地元公立中に進んだ。Fランではない大学に進んだ人が200人中20人くらいの、いわゆる低学歴の世界だった。続けて当然、という雰囲気に合わせて野球部に入部した。同級生がグレ始めるだけでなく、既にグレている先輩との付き合いも始まった。部活顧問勝利至上主義者だった。教育的な観点は全く持っておらず、ただ自分の願望を叶えるためにやっていたような人だった。そのために、最初の段階で完全にレギュラーを固定し、補欠には何の機会も与えない。公式戦はおろか、練習試合にもまともに出さない。出すとしても2軍試合のような形だったので、相手がかなり弱く、活躍しても何の評価もされない。ただ恥をかかされているだけだった。平日全てに朝練と午後練があるだけでなく、土日も休み基本的に無いため、疲労はかなり溜まっていた。当然、授業は睡眠時間となる。

 公式戦には1秒たりとも出させてくれなかった。練習試合でも、他の上手いメンバーと一緒にプレーをしたり強い相手と対戦することはなかった。一生懸命に見える、という理由で明らかに自分より下手な奴の出場機会が多かった。片道4時間をかけて泊まりがけで遠征したとき、たくさんの練習試合が組まれていたにも関わらず、自分だけ出場機会がなかった。チームは結局、最後大会で全国まで進んだが、ずっと「早く負けろ」と思っていた。最後全国大会背番号さえもらえず、観客席に放り込まれた。やる気がないように見えるからと言われた。全国大会なので色んな人が見に来ていた。チームメイト保護者はもちろん、先生同級生も来ていた。ベンチにも入れなかったことを悟られないよう1番前の席に陣取り、一切振り向かないようにした。

 

 ずっと辞めたかった。でも辞められなかった。裏切り者烙印を押されたくなかった。唯一の社会であった学校が、自分の居てはいけない場所になってしまう。

 月に1日だけでいいから、憂鬱気持ちを抱かなくていい日が欲しかった。周りを納得させられる、部活から逃げる術が欲しかった。

 たまにズル休みをするだけなら、根本的には何も解決されてないかもしれない。現代感覚から言えば、さっさと部活をやめて他のコミュニティ持て、という解決策になると思う。でも、やっぱり中学生当時の自分にそれは難しい。あのとき、目の前で高熱を示す体温計を見せることができたら、どれだけ気分が楽になっただろうか。

 

2019-10-27

私の好きだった人に関しての記述

初めてその人を見た時私はその人の髪色の所為でその人の存在自体自分の居る場所に妙に不釣り合いなように感じたことを覚えている。

動画サイトで後ろ姿しかたことのないその人は、動画で受ける印象よりも少し若く見えた。髪の毛が短くなっているからだろうか、服の着こなしといいその人は自分に似合う物をそれなりに考えて着てるみたいだった。第一声は「意外と背が高いね」だった気がする。ちょっと立ってみて、と言われて立った私は緊張で少し震えていたと思う。何か吹いてみて、と言われて吹いたのは先輩から事前に渡されていた軽い小曲集の1つだったがそれすらもろくに吹けなかったので内心ものすごく緊張しながら吹き終えた事だけを覚えている。

好きなんだろうか、と思ったのは暑い盛りの夏が終わった時でその頃には私は部活にそれなりに馴染んできていて、それなりに楽器も吹けるようになっていた。

朝練に出るため川沿いを自転車で走っていたときに見えるまだ出たばかりのまばゆい太陽を眺めながらあの人もこの太陽を見ているのだろうか、とかそんなことをふと考えた。もっともその人はいつも練習時間遅刻してくるのだけれど。朝早く起きているのかすら怪しい。でも、そんなところがその人の私から見た好ましいところだった。

先輩方のお別れ会、というものを空き教室でやったことがあり、そのときもその人は遅刻してきた。

お別れ会を進めようにも来ないのだから進めることが出来ない。私たちはその時間の間にペットボトルジュースを何本か開け、持ち寄ったお菓子を紙皿にぶちまけて食べていた。行儀が悪い。

遅れてきたその人を見てようやく揃った、と全員が安堵した。その人を含め1、2年生で合唱なるもの披露したときその人は少し泣いている様に見えた。指揮を振るときしかめったにつけない薄いフレーム眼鏡を少し持ち上げて目頭を軽く指でなぞる仕草は皆が前を向いていたときにこっそり横目で見ていた私だけが気づいていたのだと信じたい。

その泣き方は別れに何度も立ち会ってきたけれどそれにまだ慣れきっていないといった感じだった。

私はその人にも別れの歌がよく聴こえるように一層口を大きく開けて歌った。その日の歌は毎年聴いてる合唱の中で一番良かった、と言われた。それを聞いて私は、来年になったらまたおんなじ事をこの人は言うのだろうと思った。

楽器屋の壁にある演奏会ポスターが貼ってあるのを見つけた。そのポスターにはその人の名前も載っていてその演奏会に出るのだ、という事に気がついた。塾の帰り道、コンビニに寄ってチケットを買った。学生なので安く済んで良かったと思った。

年が明けて、学期始めの前日にスカイツリーのよく見える街までその演奏会を聴きに行った。中は混んでいて客の大半は知り合いの伝手で来ているらしかった。楽器を吹いて参加する事もできるらしく、学生らしき人が楽器を持参してパンフレットの裏に載った譜面を吹いていた。でも、ステージの上を目を凝らしてみてもその人の姿はそこには無かった。

演奏会が終わりホールから出て行こうとするとその人は出口の辺りに居た。一般参加者の人にだけ配布されたバッチか何かを回収する係らしかった。あとでその人のSNSを見ると演奏会のあった日に「ありがとうございました」というメッセージ舞台裏から撮ったらしい写真が添付されていた。その人は理事で、演奏には参加していなかった。

冬が明け、春になり私には後輩が出来た。今まで2人しか居なかったので後輩が出来るのは素直に嬉しかった。三年の先輩はいないので実質私たちが一番年上だった。

新入生がその人の前で演奏する時期がまたやってきた。去年の自分を見ているようでとても初々しかった、それと同時にもうそこには戻れないさみしさを感じた。もうあの頃には戻れないのだ。泣いたって叫んだって私はもう前に進まなきゃいけなくて、あの子達はきっと自分よりももっと上手くなってそのうち私も追い越されてしまうんだろう、と思った。それが羨ましくて私は新入生の演奏聴くように言われたが練習がしたい、といって断った。後輩に興味の無い人間だとあの人は思ったかもしれない。それでもあの人は頭の片隅でほんの少し思っただけでそのことについては1秒後には忘れているのだろう。

夏になりコンクールの時期がやってきた。コンクールにはそれなりに力を入れている学校で上位大会にもよく出場している学校だった。コンクール以外でも全国大会に参加したことのある、知る人は知る中堅の強豪校だった。

コンクールの結果はとしによってもまちまちだったが私たちの前の代までは連続地区と県は必ず抜けていた。最も中学の時は最後の年しか県を越えた事は無かったので中学と似たようなものだと思った。オーディションは学年問わずほぼ全員強制参加だ。オーディションを真ん中くらいの微妙順位で抜けた私にはなぜかソロが回ってきた。その前のソロコンの順位たまたま一桁台だったからかもしれない、まぐれで良かっただけの順位を当てにされても、と思ったがなんとかその人の期待に応えよう、と思って私はそれなりに全力を尽くした、つもりだった。

結果は予選落ちで、このくらいひどい成績を取ったのは史上2回目らしい、しかもその前は15,6年ほど前のことだ。

コンクール予選の音源を聴いてみたがそこまで特に大きなミスを感じなかった。音圧で耳がおかしくなっていたのかもしれない、とおもったけれど舞台裏で聴いていた友人にはべつに地区落ちするような音楽じゃない、と言われた。スタンドで飲んだタピオカを飲みながらちょっぴり泣いた。帰りの電車でも泣いて、家に帰ってからも2階の自室へつながる階段を上る気力すら湧かなくて、気がついたら床に突っ伏して泣いていた。涙と鼻水がフローリングに滴った。

次の日の反省会ほぼほぼ全員大泣きした後、心機一転音楽室の大掃除をした。空は真っ青で、雲は学校の前にある会社よりも遠くの方に見えた。窓越しにその人と目が合ったとき私は片膝立ちで窓の外をぼんやりと眺めていた。サボっていると思われたんじゃないかと思ってそのイメージ払拭するかのように窓を濡れ布巾の乾いた布巾で一生懸命拭き上げた。一緒に掃除していた後輩に「先輩、落ちないでくださいよー」と言われて自分が窓の縁から落っこちそうになっているのに気がついた。

窓の外側からその人の車が見えたことだけ、私ははっきりと覚えている。

これで終わりです

2019-05-22

体罰肯定する生徒

ちょうど体罰全国的問題になっていた中学生の頃、弁論大会に向けたクラス内発表で体罰肯定した女子がいた。彼女の主張は「口で言ってもわからないこともあるから体罰は仕方がない。むしろ私はそれで成長できた。」という内容。国語先生苦笑い、生徒の中にも目配せし合うものもいた。

彼女所属していた女子運動部コーチはその作文の1年前に、体罰問題になって辞めさせられていた。

体罰の内容といえば、ボールが取れない女子生徒の顔に全力サーブ、不真面目な生徒(とコーチ判断した生徒)に体育館の端でずっと筋トレさせる、大会の結果が悪いとベリーショート強制、遅れてきた生徒にグラウンド12周、のようなもの

保護者の間でかなり問題視されていて、不登校が出たことで取り沙汰されて、そのコーチ部活を去った。教師でもなんでもない、近所のスーパー店長だった。

それなのに、元体罰部活動に所属しているクラスメイトがまさか体罰肯定発言。驚いた。名もない弱小校の運動部で、朝練夜練を強制され、いわれもなく怒鳴られ、ボールをぶつけられることが彼女にとって成長の糧だったのかと。競技の上達のために、怒鳴られたり、体罰を受けたり、塾をやめて夜遅くまで部活動に専念したりする事、滅私奉公部活動に生活を捧げる事、その結果競技が上達する事、それが成長なのか?

彼女最後の中総体は例年より少しだけ良い成績を収めた。体育の先生になりたいと言っていた彼女は、いつかキーキー下品に怒鳴る女体育教師みたいになるんだろう。

教育者といえば、ある程度の良識品位を持ち生徒を一人間として敬意をもって接して欲しいものだが、怒鳴ったり体罰を行う後進的かつ野蛮な教育がまかり通っているのが残念でならない。

叩かなきゃどうにもならないクソガキは確かにいるのだろうけど、叩いてわからせる主義の人はその区別をつけずに、対話という手段をすっ飛ばして叩く。自分は苦しんで成長したからと、人を苦しめることに正義を見出す。正義の人を止めることはもうできない。大人になって信条が変わることなほとんどない。そんな正義の人をもう生まないためにも、やはり体罰は良くないと思うのだけれど、体罰経験のまともにない苦労知らずの自分の話など彼女たちは聞いちゃくれないのだろう。

2019-03-29

テニスの才能が無かった

田舎中学軟式テニス部活をした。当時は内田良教授もいなかった頃、朝練、昼休み夕方、土日も当然、がっつり練習した。もともと運動が得意でない割に、練習量でカバーした分が功を奏したのか、中1のときに県でベスト4ぐらいには入った。

ある日、バスケ部主将運動得意)が遊びに来てテニスをしていた。全く未経験のくせに、球の弾道がやたらいい。よく観察すると、ボールラケット中央にしっかりミートしている。

改めて、自分ラケットをよく覗いてみた。すると、ボールの跡が見事に中央から左上、変なところにだけついていた。私は愕然とした。「これじゃボールを打っても気持ちよくないのでは。。」

そこから練習苦痛しかなくなった。自分でも矯正しようとしたが、どうしようもない。内田良教授問題提起をしてくれる時代でもなく、技術の無さを練習量でカバーしようとしていたのだろう。しかし、なにしろ練習すればするほどどんどん不快になっていく。

中3のころにはただひたすら苦痛しかなくなっていたが、田舎中学で途中でじゃあやめるという選択肢は思いもつかず、最後は県大会で1回戦負けとなった。周りのチームメイトは皆泣いていたが、私は悔しいとも思わず無駄な日々を過ごしたのではという虚無感に苛まれた。

あれから十数年たち、配偶者とその友人とテニスする機会があった。改めてうまくない。ボールが必ずラケットの左上にあたって、打てば打つほど苦痛であるあの日々を思い出した。

2018-11-06

体育会系部活社会の縮図だった

マーチングバンドをやっていた。

休むことは基本的に許されていない。

体調不良で休むのはありだ。

夏休みでも学校に行った。

土日休みで十分だった。

先生朝練をやると言えば、文句も言わずに行った。

そもそも部活は「やりたいから」やってた。

いじめを苦に亡くなったニュースを見た。

夏期休暇で皆が部活をしているとき

沖縄旅行に行っている」写真ツイッターに載せたようだ。

会社に言い換えるのは、やり過ぎな気もするけど

みんな忙しく仕事をしている中、慰労休暇をとり「沖縄旅行に行っている」と写真を載せたようなもんだ。

まぁ、ツイッターを見る方もバカ

ツイッターに載せる方もバカなんだが。

載せなくても良いものを、わざわざ全世界に見えるところに載せちゃうようなところをみると

普段から空気読めてなかったんじゃないかと思う。

まぁ、休んじゃいけないなんてないし、

休むひとを恨むのもおかしい話だけどね!

ほんと会社みたいだw

2018-09-21

BLが好きなんだけど二次創作が本当にだめ。少年誌で連載されてるスポ魂作品二次創作BLって本当に多いけど、やっぱりだめ。だって部活頑張ってる少年たちが毎晩部室でセックスするわけないだろって思っちゃう朝練ある前の晩にセックスするわけないだろ。恋愛してる暇なんてないくら部活に熱中してるじゃん。

BL商業ものでじゅうぶんなんだけどなあ。BLというと圧倒的に二次創作OK派が多くて嫌だなあ。てか二次創作ってなんだよやめろよ

2018-08-28

中三から引きこもってからもう8年になる

毎日のように遊び呆けていた小学生時代も終わり、中学生になった。

最初不安だったが1年の頃はそこそこ楽しかった。 新しい友達も増えた、部活楽しい小学生の時ほどではないが遊びにも行けていた。

2年生になり学習塾へ通い始めた、テスト順位が下がってきていたからだ。

思えば、この時から歯車が狂い始めていたのかも知れない。

学習塾に入ったことによって、元々少なくなっていた自分時間さらに狭まり、無いも同然になっていた。

4時に起床し、5時から朝練、8時から授業が始まり16時に終わる。そこから18時まで部活をして帰宅

だが19時から学習塾があるので、すぐに家を出て、家に帰れるのは21時過ぎ。ここに来てやっと自分時間が取れる。

かと思いきや、また明日朝練があるのでもう寝なくてはいけない。

ただでさえ1日に8時間睡眠を取りたい自分にとってはかなりキツいスケジュールだった。

そして運命中学3年、もう何もかもが苦痛だった。

まり続ける睡眠不足、疲労、ストレス、解消する術も無かった。

夏休みに入り、これで少しは休めるかと思ったがそうもいかなかった。

依然として部活はあったし、学習塾受験が控えているということもあり張り詰めていた。

そんな夏休みも終わり、始業式の日がやってきた。

その日は頭痛持ちだったこともあり、朝から酷く頭痛がして布団から出られずにいた。

「頭がすごく痛い」

そう母に言うと、自分の予想していたものとは違う言葉が返ってきた。

「それじゃあ休む?」

少し困惑した。てっきり「頭痛薬でも飲んでさっさと行ってこい」くらいは言われると思っていたからだ。

しばらく考えた後、こう答えた。

「休む」

甘えた。 間違いなく歯車が外れた瞬間だった。 引きこもり誕生だ。

それからはタガが外れたように休んだ。

最初今日も頭が痛いと仮病を使っていたが、1週間もすればなんの理由もなくただ家で寝ていた。

結局そのまま学校には一度も登校せず、卒業式にも行かなかった。

今思えばさっさと部活をやめていればこんなことにはならなかったと簡単に言えるが、この事に気づくのに2,3年は掛かった。

当時の俺はそんなことにも気付かないくらい切羽詰まっていて、ストレスで正常な判断が出来なくなっていた。

部活をやめれば内申点に傷が付くと思い込みストレスが溜まるのは自分が弱いからだと思い込んでいた。 実際そうだけれど。

部活をやめていれば、誰か周りの大人が言ってくれれば、家庭がもう少し裕福だったら、色々考えてみてももう遅い。

他人様に迷惑をかける前に早いとこ死なないとな

2018-07-21

学校エアコンがない話だけど

一体どこの地域学校の話なのだろうか。

高校大学は勿論、小、中学校も授業中はクーラーガンガンにつけっぱなし(連合運動会朝練や体育の後などは特に)だったから、ツイッターで騒いでる親御さんたちの発言を見ても全く現実味が湧かない。

仮に俺の地域が恵まれていただけで、多くの学校ではエアコンの設置すら許されていないのだったら、「私らのころはクーラーなんてなくてもやっていけた」世代がまた増えるだけなのでは?

今暑くて辛い思いをしたとしても、何十年も経てば過去は忘れたり美化されたりするし、辛かった記憶が残っていたとしても「私らは我慢できていたから」という理由で同じ苦痛を与えたいと思う人間はいるだろうし。

2018-06-06

anond:20180605141745

消されないように残しとこ

どうにもやりきれなくて、もやもやを書き出してみる。

今日、息子の高校に行ってきた。

昨日の夕方携帯に息子の担任先生から連絡があった。

内容は

6限目の数Ⅱの小テスト中に、記述方法で息子が質問をしてきた。

質問禁止だったから他の生徒の迷惑になるので叱って机を廊下に出そうとした。

息子が抵抗したので息子の部活ラケットを鞄から出して取り上げようとしたら、それにも抵抗された。

息子が校長に訴えると怒鳴って校長室に行った。

校長出張中で不在のため、学年主任が代わりに話を聞いた。

私がはいはい、とただ返事をして聞いていると

そこで、学年主任電話が変わって、もう一度、今度は息子から聞いた内容を説明された。

息子はもともと、提出物を全く出さない、とか、質問で授業を止めるなど問題行動が多い。

正直、先生が大変手を焼いていることもわかっていて、特にこの担任先生とは相性が悪いか申し訳ないなと思っていた。

小学生のころから合わない先生担任になるとひどくこじれてしまう。

ただ部活動に関しては息子は本当に熱心に取り組んでいて、とてもストイックだ。

からラケットを取り上げようとする先生激怒したんだろうと思った。

学年主任には謝罪と、相性の良くない担任が1年から持ちあがてしまたことで関係ますます悪化することが心配だと告げて電話を切った。

夜、部活から帰ってきた息子は帰るなり、どうしようと泣きそうな顔をして言った。

部活停止になってしまうみたいだ。明日朝練は来るなと言われた。

部活停止についてはどちらの先生電話の報告にもなかったので、驚いていつ言われたのか聞くと

ラケットでもみ合った後だという。6限目の後、担任部活顧問のもとへいき、部活停止を告げた。

顧問担任の話だけでは分からないので、その上からの話を待って部活停止にするかは判断するので、とりあえず朝練は休めと言われた。

明日教頭主任担任との面談をする予定だ。これでは担任のいいようにされてしまう。

お父さんお母さん助けてと息子が言った。部活を辞めることになったら何のためにこの学校に来たのかわからない、と。

息子の態度が悪いこと、提出物を出さないこと(息子はテストの点だけ取ればいいんだといって中学からくその主張を変えない)問題がいっぱいあるのはわかっている。

部活を熱心にやってて友達も多くて学校は大好きなのに、どうしても担任と衝突し次々問題が起こってしまう。

息子の話を聞いて、そのほかに

息子ともみ合ったことで担任の小指が痛くなった。だからあすの留学生送別会は取りやめにするといわれ、クラスのみんなに申し訳ないことになってしまたことや

いつも自分質問には答えてくれない。休んだ時のプリントも取りに行っても絶対くれない、など色々語った。

息子はA4の紙に二枚、昨日の出来事と日々の担任のこと、部活を続けさせてほしいということを書いて、明日先生に渡すといって見せてくれた。

私たち夫婦は親として話を聞きに行こうか、と話し合い、仕事を休んで今朝学校へ行ってきた。

車で向かう途中、できれば部活停止を取り下げてほしいということ、あとは担任と息子がうまく関係が築けるようにバックアップをお願いしたいということを言おうと話した。

それが息子の高校に行くまでの経緯だ。


学校での対応教頭担任の二人だった。

担任は息子の日々の態度の悪さを語りつづけた。部活を盾にしないと言うことを聞かないんだと言った。

息子が日々つらい思いをしているんだと直に担任と話してみて、実感した。

担任対応はこれからも変わらないだろう、息子はどうやってこの一年を乗り切っていけばいいんだろう。

部活停止については話し合いますので決定までは参加してよいとのこと、ラケットを取り上げようとした行動については

担任より息子への謝罪するとの言葉を聞き、教頭に後をお願いし、帰ってきた。

息子の書いた紙は教頭が直接休み時間に受け取りに行き、担任には見せないと約束してくれた。

今日午前中不在だった学年主任担任教頭、それに息子を交えた4者面談放課後に行われる。

私たちが行ったことはよかったのだろうか。

息子が態度を改めることができればうまくいくんだろうけれど、こんなことを繰り返しながら高校生まできてしまった。

息子はかたくなだろうし、そして状況は悪化するだろう。

やりきれない。

長すぎだな―、改めて読む気がしないよ

2018-06-01

anond:20180601115323

もう終わったんじゃないっけ。子供が出来て。

懐かしいなぁ。中学くらいのとき流行ってて15年以上前だわ。

朝練がなくなって教室入ったら女の子グループふたりエッチを貸し借りしてて

その中の一人に「内緒だよ」って言われて以降、二人で下校したり下ネタ話したりしてたな。

俺に勇気があればワンチャンあったかなぁ。「本物見せてやろうか」って。

書いててキモイわ。

2018-05-28

anond:20180528020329

運動会練習時期も親の休みに合わせて子供を休ませていいんだろうか。

うちの近くの公立保育園は、運動会の前は朝8時半登園になるらしい。何でそんな事の為に親の負担をでかくするのか不思議だ。

の子供は公立幼稚園に通っているのだが、朝練の為に登園時間が早まる事はない。鼓笛隊やらないから必要が無いのだろうが。

2018-05-24

anond:20180524194426

すべては社畜養成のために行われているんだよ。

朝練や土日の練習は、サービス残業のためのトレーニングだ。

不条理なほどの上下関係は、会社内におけるヒエラルキーに逆らわないようにするための予行演習なのさ。

2018-04-13

中学生の時3年間ラッパを吹いていた

全国大会まで出場した。うちはかなりの強豪だった。

しか自分ドレミファソラシド、これだけの範囲しか吹けなかった。成績が良かったのは・・・まぁ先輩が上手だったのだ。

せめてもう2つ、上のレとミまでは吹けないとマジでお話にならない。(ラッパ吹いてる人からしたらまだお話にならないと思うが)

飲み込みが良い人なら1週間で僕の実力には追いつける。

僕は初心者の1週間レベルの実力で3年間過ごしてきた。

もちろん、僕にやる気はなかった。1年目で辞めようと思っていた。

しかし、当時1年生は僕しかおらず、運の悪いことにその年から熱意のある顧問に変わっていたので、

半ば無理やり部を続けさせられたのである

はいえ、僕はほとんど部活をサボらず、朝練放課後、土日に朝から晩まで練習して、

夏休みほとんどは1日中ラッパを触って、森に囲まれ死ぬほど練習する合宿にも参加して、

吹いて吹いて吹いて吹いて吹きまくって・・・・・・

それでもドレミファソラシドだったのだ。

ラッパという楽器本来難しいのもある。唇の薄い自分には不向きだったのかも、と今では思ったりもする。

しかしあれだけ膨大な時間の中で、高音を出せないと鬼のように怒られることを知っていながら、

それでもドレミファソラシドというのは大変に貴重な体験なのではないだろうか。

人はやる気というものが無ければ、いくら時間をかけようと成果は全くのゼロなのだと。

僕はこの身をもって証明したのである

にしても3年間で上達のキッカケすら掴めなかったのはマジモンの馬鹿しか言いようがない。

2018-02-02

友達喧嘩別れするお話

突然ですが、私は友達喧嘩別れをよくします。

これの原因は、はっきり言って私にあります

それは分かっています。だけどずっと抱えていたものをここに書かせてください。

例えば、Aちゃんの話です。Aちゃんとは同じクラスで、最初はよそよそしかったのですが、同じ趣味があり、意気投合しました。人見知りだった私にはAちゃんは頼れる姉みたいな存在でした。

けれどAちゃんは、突然私に冷たくなりました。私は最初理由が分からなくて本人に問いかけました。ごめんなさいと謝りました。でも何も言ってくれないし、あっそ、と冷たい返事が返ってきました。

それ以来Aちゃんとは話していません。Aちゃんと私の共通友達にAちゃんが怒ってる理由を尋ねてみたりもしましたが、その友達からは、一言だけ、【私が何かしたらしく、それが気に入らなかったらしい】と言われました。

私は、どうしてそれを直接言ってくれないのだろう、私はエスパーじゃないから、相手が何を考えてるなんか分かるはずないのに。そう思いました。

結局Aちゃんとは学校卒業するまで仲直りは出来ませんでした。

卒業前にもう一度ごめんなさい、と伝えましたが、それがどう捉えられたのか、それは分かりません。

ただ、私はどうすれば良かったのか、今でも分かりません。

他には、Bちゃんの話です。

Bちゃんは、同じ運動部部活所属していました。趣味も似ていて、部活以外でも仲良くしていて、一時期は一緒に帰ったりもしていました。

の子は、部活引退の約2ヶ月前、私のせいで辞めてしまいました。

元々Bちゃんは部活に滅茶苦茶熱心な方ではなく、よく休みたい、とか呟いている子でした。

そして運動部メンバーの中でもあまり強い方ではありませんでした。

けれど本人は勝ち負けを気にしている素振りもなかったし、ズル休み等していたので特に本人に何も言いませんでした。

だけど、Bちゃんは突然部活を辞めると言い出しました。

ここで理由を聞かなければ良かったのですが、理由を聞いてしまったのが私の過ちです。

Bちゃんは、どれだけ努力しても強くならないから辞める、と言い出したのです。

私は頭に血がのぼるのが分かりました。

はっきり言って、その子はお世辞にも努力してるようには見えませんでした。朝練にも殆ど来ない、居残りもしない、休憩時間もずっと駄弁っていて、ズル休みもしていました。

私は朝練も行って、居残りも出来る時はして、ズル休みは一度もしたことがありませんでした。

から、余計に怒ったのだと思います

Bちゃんに、【上手くなりたいなら、もっと努力したら!!?】と感情的になって言ってしまいました。

結局Bちゃんは部活を辞めました。

後々考えれば、私にももっと言い方があったのではないかと思うのです。そうすれば、今も仲が悪いなんて状況にならなかったのではないかと思っています

後悔ばかりの人生です。

けどここで少し吐き出せて良かったです。

長文失礼しました。こんな私を許してください。

2018-01-16

私小説 不登校

私は中一の途中から不登校になった。

元はと言えば小学校高学年で「ハブる」という文化のもと、クラスメイトからの徹底的に無視をされたことが発端である担任との相性の悪さなども相まって、学校生活への自信や信頼をなくしていった。核家族共働き家庭の一人っ子の私は、学校では人と話せず、放課後時間も一人で過ごした。特に習い事などもしておらず、学校と家庭の二つしか生活の場がなかった私は人間関係における信頼や安心などを失い、自分の考えを人に話すことや言葉スムーズに出すことができなくなっていった。

そして中学入学環境が変わることを期待したが、結果的には悪化した。たいていの公立中学では部活動には強制参加させられる。しかし私が入学した中学校は全校生徒が少なく、文化部は一つだけ。他運動部一般的にはあるような部活がなかった。当時文化部に入るとスクールカースト底辺になる空気があり、私は運動部所属した。しかし、運動神経が良くない方だったため部活でもうまくいかず。小学校高学年で人間関係に対する安心や信頼を失った私は、中学出会ったクラスメイトともうまく接することができなかった。

そして決定打となったのは合唱コンクール「絆」「仲間」「大きな声を出す」「グループ練習」などといったものは当時の私には地獄だった。音楽時間が恐怖の時間になり、合唱コンクールが近づくにつれ朝練や帰りの学活でも練習を行うようになり、一日の始まりから終わりまで恐怖の時間となった。そこから学校に行けなくなるまでは簡単だった。学校に向かう足が遠のき、制服に袖を通すのが怖くなり、家から出られなくなった。共働きの私の家で朝一番最後に家を出るのは私で、一番最初に帰るのも私だった。そんな中で、朝起きて制服を着て仕事に行く親を見送り自分学校へ行かず無断欠席をするようになった。当然学校から固定電話電話が掛かってくるが、家には私しかいないため無視。親に連絡が行く。意外にも親は私が不登校になったことを受け入れてくれた。

会話からまり日常生活の行動全てに自信をなくした私は学校での学習電車に乗るといった行為もおぼつかなくなっていた。授業で先生から発問されれば、注目される恐怖や答えを急かされるような焦燥感で「わかりません」というのが精いっぱいだった。「私は何をしてもうまくできない」という強迫観念に襲われ、不登校の間に学習障害検査などを受けたこともあった。一人で家で勉強する分には問題なく、また中間テスト期末テストを受ける分には人と関わらず済むため、それなりの点を取れていた。

不登校だろうが、家から出られなくなろうが、無情にも時は過ぎていく。中二では、通知表は「1」「2」「-」がほとんどになっていた。中三が見えてくると頭をよぎる高校受験入試資料集などを見ると、入学選抜に当たっての内申点基準数字が踊っていた。家から出られなくても、学力低下だけは避けたかった私は家で学習を続けていた。当時、私の学力から出される偏差値は60〜63あたりであった。それくらいの学力層の高校では、おおよそ大半が9教科36以上の内申点基準としていた。一方、私の内申点は9教科で23地元工業高校ですらあやしい点になっていた。また、中二の時の担任は繰り返し私に面談の場を設けてくれた。私の話を無視したり、相槌を打たないなどということはなく、久々に会話ができることに感動した。担任もっと話したいと思うようになり、徐々に学校に行けるようになっていった。

この状況の中で、私には一つだけ自信が持てるものがあった。それは絵を描くことである。まだ学校に行けていた中一の初めに美術先生から風景画を褒められ、不登校になってからは家でよく写真模写などをしていた。授業にも出られるようになった中三一学期、今まで体験たことのなかった画材出会った。油絵である。失敗しても被覆度が高く上から重ねることができ、乾くのも遅くゆっくり描くことができるこの画材は私の中で革命的であった。人間関係で失敗を重ね、急かされることに恐怖を覚えていた私は、個人で取り組むことができ、ゆっくりと描ける油絵具に希望見出した。もっと油絵が描きたいと思い、誕生日には親から油絵セットを買ってもらった。もっと油絵を描きたいと思い、美術コースのある普通科高校への進学の意思を固めた。

その高校を受けるにあたり、偏差値は足りていた。美術コースを受けるにあたり、実技の力も合格するであろうという程度には達していた。しか問題となったのは、やはり内申点であった。担任からは渋い顔をされた。それでもやっぱり受けたい、あの高校に行きたいと思い受験制度などを調べ尽くした。すると、不登校などを経験した生徒のための特別選抜制度発見した。内申点度外視し、受験時の学力テストと実技、面接入学選抜を行うという制度だ。その制度担任に報告すると、なんと担任は知らなかった。50も過ぎたベテラン教員がその制度を知らないということにはがっかりした。その教員が受け持ったクラス過去不登校の生徒はどんな進路をたどったのか心配になる。

何はともあれ、私はその制度活用し無事志望校合格することができた。入学後は絵と勉強に励み、学力では上位10%あたりを維持し絵では県の高校美術展で賞を取った。

そしてやってくる大学受験もっと油絵を描きたかったので美大を望むも、家計が厳しく断念せざるを得なかった。幸い、学力はそれなりにあったため国立大教育学部美術専攻に進学することでどうにか油絵を続ける手段を得た。

時は流れ大学四年。義務教育時代に失った人間として生きる自信や信頼関係高校大学の友人と接するうちに取り戻し、バイトをしたり彼氏ができたりと一般的大学生として大学生活を送ることができるようになった。教育学部で学ぶ中で、義務教育時代自分メタ認知することができた。当時の自分と同じように人間関係に悩む子供に接し前向きな未来を示せたらと思い、教員の道を選び教員採用試験合格した。

卒業制作バイトに追われる今日、私が四月より働く予定の自治体では不登校の生徒が高校に進学する際の特別選抜制度が数年前に廃止されたと知った。

2017-12-01

強豪校サッカーあるある

朝練が朝6時。

練習前の部室の空気が重い

・部室が汗や泥やらなんやかんやで、この世の匂いではない。

練習終盤の追い込みの走りをするかどうかでヒヤヒヤする。

遠征の飯が多すぎで残酷

部員数が多いため、監督コーチ名前を覚えてもらえない。

オフの日は週1しかないのに、掃除やら、なんや雑用させられてオフではない。

プロテイン

アンダーアーマー

レガースが臭すぎる。

2017-11-05

早朝にネズミ捕りはない

息子の朝練に付き添わないといけなくなったので週末なのに夜飲めない昼飲むしかない

我が小学校の通学路はバイパスへの抜け道として使われているようでスピードを出した車が朝6時台には何台も通り抜けている

あきらかに一発免停確実な速度であることは明確

危険だと思うが交通量が少ないとかで警察は取り締まらないらしい

交通調査バイトたことあるが昼間だけで早朝は調べてないだろバカ

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