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2020-11-25

anond:20201125195227

東京でなければ夢あるぞ

わが地方都市工業市の場合

市営住宅抽選はなく申込み即入居

特にぼろくない民間アパート二万円台より

家賃五万円くらいで一戸建て借りられるというか俺がそうしてる

一戸建て建てたければ市から補助があるし土地は坪一万より

anond:20201125195016

中古でも4000万するんか

KKOには無縁やなあ

どっかの市営住宅当てて、孤独死できないかなあ

2020-11-15

anond:20201114190135

かに実習生と時給換算すると同じっていうのはあり得なくはない話というのは理解できる

ただそこまでになってしまうのって残業代が出ていないと思われるのでそもそも労基法違反

そしてだいたい田舎底辺貧乏人が生きるためのhowtoを知ってるよ

市営住宅入ったり後は親から金などの支援もらってることが大半

2020-10-12

市営住宅24女性遺体 10所以上の刺し傷、捜査本部設置・京都

https://news.yahoo.co.jp/articles/97db04259949fcf8df0730722d9c1363f2ad3234

茨城一家殺傷事件どうなったの?

鉄道道路住宅もそこら中国民を監視する防犯カメラだらけなのに、犯人を拘束できないのっておかしくないか

漫画家自転車に乗って女子生徒を置換するような軽犯罪は瞬間的に逮捕されるのに、殺人事件はどうしてスルーなのか

2020-08-31

ニチレイのフード自販機の思い出

ニチレイのフード自販機がそう遠くない将来にサービスを終了するかもしれない、という記事を読んだ。

ニチレイのフード自販機終了」という文字に、昔のことを思い出したので書く。

中学生になって数ヶ月した頃、父親の勤める会社倒産した。

ただでさえ裕福でなかった家庭(市営住宅に住み、両親共働きで、年1回の家族旅行なんていうものもなかった)で、それはかなりの衝撃だった。

だけど、落ちるときはとことん落ちる。

職を探す、と言っていた父親は職にありつく前にストレスや不摂生から持病をこじらせ、入院した。

ただでさえ苦しい生活費さらに上乗せされた入院費に文字通り頭を抱える母親は、精神的に強くはなく、度々そのストレスを私に向けるようになった。

家に家族といるのがしんどくて仕方ない。家族が揃う毎晩がまるでお通夜のような、そんな思春期の1年間だった。

そんな時に限ってテレビセレブブームで、誰ともなく番組を消し、誰も笑わなくなっていた。

父のお見舞いに週2〜3度、学校が終わってから行く。

制服のまま、田舎で一番大きな市民病院に。

市街地から一山超えたところに建て直されたばかりの病院は、その頃綺麗で、田舎には見たことがない洒落ものがたくさんあったように思う。

その中に、ニチレイのフード自販機があった。

最上階(といっても、たかだか4〜5F程度)の休憩室に、飲み物自販機と同じように並んでいた。

はじめてみたとき、ワクワクしたのを覚えている。

日に日に、家庭環境金銭から余裕がなくなって冷たくひどくなっていった。

父のお見舞いのついでに、時折、ひとり制服のまま、

もう20時を超えると電気が落とされる休憩室で

ブーンという低い自販機たちの稼働音に囲まれて食べた焼きおにぎりたこ焼きのあたたかさを

15年くらいの時を経て今日思い出した。

暗く湿った毎日にあって、唯一、少し浮き足立った気持ちにさせてくれたニチレイのフード自販機

きみは、同い年だったんだね。

まだあの病院のあそこにいるんだろうか。

何も喋らなかったけれど、あのひどく惨めな毎日のなかで確かに私の味方だった。

ありがとう

2020-08-28

動物虐待凶悪犯罪前兆」という割に……

少なくとも猫に関しては狂信的な猫飼いが凶悪事件を起こす方が多い。

猫の飼育規制した方がいいんじゃないのか?

割と冗談抜きで。

とび職(23)2009.3 岐阜市

保健所に押入り、収容されていた犬を逃がした23歳とび逮捕される。岐阜高山市で発生した事件容疑者23歳とび職は、飛騨保健所の窓ガラスを割り侵入し犬舎の鍵を破壊収容されていた捨て犬迷い犬などを逃がした。犯行1月1日28日の計2回。 2009年03月建造物侵入および器物損壊の疑いで逮捕される。 動機は「犬が可哀想なので逃がした」と供述、容疑を認めている。

林喜市(70)2009.8.27 船橋市

女性から野良猫の餌やりを注意され、その帰宅待ち伏せして包丁で刺殺。殺人容疑等で現行犯逮捕

近隣から苦情があるたびに逆上し、恫喝を繰り返していた。

平野幸男(73)2008.10.22  長崎市

犬の散歩に通りかかった男性を、餌やり中の野良猫が逃げたからと木刀で脅し、暴力行為容疑で逮捕

永吉教幸(72)2008.7.5  栃木県小山市ホームレス

寝泊まりしている公園野良猫を抱いた人を、猫を虐めていると勘違いし鉄パイプで殴り、現行犯逮捕

20歳夫婦 2008.7.3 福岡市

生後1ヶ月の乳児食事を与えず、育児放棄虐待死させる。保護責任者遺棄致死容疑で逮捕

乳児は猫のトイレにしていた段ボールに寝かせていた。「子供より猫の方が可愛かった」と供述

河田教晴(28)2008.6.19  大阪市

無職生活保護受給者で猫5匹飼う。餌代に困り何度もコンビニに押し入り、強盗容疑で逮捕

高田正雄(69)2008.6.5 神奈川県川崎市

アパート大家に餌やりを注意されて逆上し、サバイバルナイフ大家を刺殺、大家義理の娘にも重傷を負わせ、殺人及び傷害罪懲役22年の判決

中田光一(70)2007.7.27 大阪市

被害の苦情を言いに来たアパートの隣人を包丁で刺し、殺人未遂容疑で逮捕

静岡県伊東市の老人(81)2006.8.24

ペット禁止市営住宅で猫を放し飼いしていることを市に告げ口されたと妄想、上の階に住む姉妹に言い掛かりを付けた挙げ句にノコギリで殴り、傷害容疑で逮捕

中島数男(73)2005.4.24 兵庫県尼崎市

猫の餌付けに苦情を言った人の部屋へ包丁を持って押し込み乱闘に。暴力行為(脅迫)容疑で逮捕

荒木正道(60)2005.8.29 埼玉県吹上町

猫糞迷惑していた隣人を金属バットで小突くなどして、傷害容疑で逮捕

藤田英久(52)2003.12.8 大阪府貝塚市

電車に轢かれた猫の仕返しに、線路自転車タイヤ段ボール、石などを置き、往来危険容疑で逮捕。<<

2020-07-31

anond:20200731173654

事情があるなら仕方ないですねって役員が済ませば終わりやろ

市営住宅なんてスラムなんかガン無視でやらん奴もおるわけだろ?そういうのはスルーして明らかな弱者にだけ当たり強く行ってる時点で終わりなのよ

はてな民って市営住宅自治会会合議員が来ると思ってんのか。本格的に社会エアプっぽい

日本よ、見よ、これが自治会だ。そしてこういう自治会会合自民党議員お客様として招かれて、力になります相談してください、と言う。自治会は、お願いします、と言う。それが日本の政治というもの

https://b.hatena.ne.jp/entry/4689292704927665954/comment/RRD

2020-07-28

父が死んで良かった

実家燃えてなくなった。

母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。

僕の昔住んでいた田舎実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。

その後、父と母と、一緒に住んでいた次男一時的市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎ放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。

父はぶっ壊れていた。

僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージ試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。

しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。

そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事洗濯や、子ども病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。

父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。

一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。

あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費ほとんど持ち出してしまたこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。

中学高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校あんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。

高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。

進学は田舎から遠い関東大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。

結局僕は関東大学合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着け空間だった。

外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学サークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。

そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。

色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。

それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。

そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。

僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しか自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しか思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。

その後の父

僕は自分普段生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたまから電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。

とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。

結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。

しかし、施設費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。

そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。

僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。

終わりが近づく

それから数年が経った2019年年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。

しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。

年末になり、実家帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。

さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。

母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。

部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。

父はたしかの子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。

そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。

最後大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。

父が死んだ

それから半年ほど経った。コロナ流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日

妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段生活をおくらせてあげたかった。

しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。

とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。

葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日告別式ということも忘れそうだった。

次の日、起きて甥っ子たちはフォーナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。

葬儀

葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休み冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢マリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休み大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。

おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我治療前頭葉があるため、簡単はいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。

しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。

その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。

導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイク全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフ誘導したのがおかしかった。

おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。

そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまたこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。

元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまたことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。

母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。

そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。

その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。

その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。

焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。

次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。

そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。

その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当バラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。

しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。

しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。

スタッフ説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。

そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。

思うこと

僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。

父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。

父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。

昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。

その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。

女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達ショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。

父のため仕方がない、と思いながらも、女性毎日どれだけ苦しいか想像をするだけでも苦しくなる。

その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分娘。さなから育てながら思うことは、この子楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。

しかしその全ての未来自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇さらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。

でも、死ぬということは難しい。自分死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さら介護されている状態自分死ぬこと自体そもそもできない場合もあるだろう。

この世には安楽死必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度必要綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。

とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。

2020-05-23

まじかぁ そら市営住宅住みでSL63 AMG乗り回しちゃうよな

遊ぶどころか団地住みの奴らに近寄ってもいけないレヴェルだよね

市営住宅なんてヤクザが間に入れば収入なんか関係なく入居できるんだろ

団地の子と遊んじゃいけませんって言ってた親は正しかった

2020-01-27

まず入居審査に通らないもんで

アパートじゃなくて共産党員コネ市営住宅だろう

2019-09-24

[]2019年9月23日月曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
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188611283131.238
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2212513195105.646
23656728103.543
1日1676179128106.940

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2019-09-23

anond:20190923135534

少なくとも自分が住んでる場所都心から時間圏内)では

保育園申請すれば100%入れるし来年から無料(今年までは二人目から無料

自分移住者なので移住者のつながりが多いし、

関西から来て市営住宅に住んでお金を貯めて中古で家買った知り合いもいる

移住するにあたって色々調べたから他の候補地も多少は知ってる

わざわざ具体名あげなくてもちょっと調べればわかることだよ

anond:20190923135229

で、具体的にどこ?

移住者が住みやすい所は人が増える分市営住宅だの保育園だのは入りにくいし、

それらが空いている所は人口流出してる所で、それは地元民ですら暮らしにくいか流出するわけだが

anond:20190923133934

市営住宅が空いてるかどうかなんて自治体電話すればわかる話だし、

待機児童ゼロ審査がザル(専業主婦でも余裕で入れられる)の自治体は全国にたくさんあるし、

就業支援がどうなってるかも聞けばわかる

調べもせずに自分経験だけで語るなよ

anond:20190923133934

分譲地の営業トークにのせられてローンでちっこい戸建買う奴が多いか市営住宅ガラ空きだぞ

県庁所在市の端っこあたりがオススメ

anond:20190923133228

移住者の多い、僻地すぎず排他的でない地方

はそれなりに人口が多いか市営住宅なんか入れないし、保育園も入れないけど都会ほど仕事は無いよ。

もっと老人ばかりの過疎地帯だと家が余ってるかもしれないが、勿論僻地だし排他的だし仕事絶望的に無いし

そういう土地から地元出身若者ですら出ていくわけで。

anond:20190923003248

これは本当で、子持ちだと一気に就職支援などの受け入れ態勢が整うし

児童館で同世代の親と仲良くなれて地域に溶け込むのが子なしと比べてものすごく容易になる

地方自治体は喉から手が出るほど子持ち世帯が欲しいのだ

市営住宅みたいなのに安く住むこともできるし、

当然保育園無料で入れ放題、待機児童ゼロ

移住者の多い、僻地すぎず排他的でない地方を見つけて

就職斡旋してもらい(移住者招致積極的自治体なら役所が世話してくれる)、

軽自動車でも買えば一気に人生イージーモードになるはず

2019-07-04

anond:20190702010945

から市営住宅とか近くにあると嫌なんだよ。

広い意味では親も不運だと思うし同情もするが近くにはいてほしくない。

関わると消耗するのが目に見えてる。

そしてそういうタイプ最後に集まるのが地方公共団体が設置する公営住宅なんだよな。

2019-07-02

毒親の雑な生き方

私が暮らしたかつての家庭は、母子家庭の上に毒親で、なんでこんな人が自分の親なんだろうって思い続けてきた。

小学生中学生高校生大学生、そして社会人になっても、その時々で、この人が早くいなくなってくれればと思い続けてきた。

当時は2DKの団地に親と兄弟の3人で暮らしており、常に喧嘩の声や襖を叩きつける音が響き渡るような修羅の家だった。

子どものことを所有物の如く自分より下に見て、勉強すれば「偉そうに」とけなし、気にくわないことがあると罵り、出てくるまで部屋の扉を叩き続けたり、服をきたまま風呂場で放水するなど、心の平安は無い家だった。汚い靴を履くなと、他に履くものがないのにも関わらずスニーカーを捨てられたりもした。もちろん買ってくれるわけもないので、とても困ったのを覚えている。家族以外に対しても、同僚の悪口電話で延々と上司に語るような性格の暗さを持っていた。

一方でびっくりするくらいの図々しさも持っており、職場で当時仲良くしていた人が病気で亡くなったときに、その人が乗っていた車を形見だと言って乗り回していたことがあった。後に、遺族の訴えで車は取り返されることになる。

親は時代時代の決め台詞を持っており、小学校中学校は「先生に言うぞ」「友人に言うぞ」。これはお前の本性を先生友達に言うぞ、ということで、今から考えるとなんてことはないのだけど、当時は泣いて止めた。あと「施設の人が来た」というのもあった。これは孤児院の人が、迎えにくるぞという脅しで、保育園小学校低学年の私には効果てき面だった。高校に入ると「かっこばっか」、これは思春期特有髪型を気にしたりする姿を揶揄する言葉だった。付き合う人ができるとまた「向こうの家族に言うぞ」というのが加わった。

一度、親が務める職場で倒れたことがあった。親に安否の電話をかけると、菓子折りを持ってきて職場に謝れと言うので、言われるがまま菓子折りをもって職場の人に渡そうとすると、頑なに断られた。その人の表情からそれは遠慮などではなく、心底嫌われているというのが透けてみえた。親がその職場で何をしてきたか、察し・・という感じであった。その日の帰りは駅でめちゃめちゃ泣いた。

私たち一家愛人としての身分として暮らし田舎を捨て、職を求めて町に出てきた貧乏一家で、慣れない仕事生活環境で親には親なりの不満があったのだろうが、「育ててやった」という親の言葉が私を苦しめてきた。確かに、小・中・高と学費生活費を出してくれたのは親だ。めちゃめちゃ貧しく、毎日弁当を持つこともままならないような生活ではあったが、その当時は確かに親に支えられてきたのだ。

子供が生まれちょっと前、私は縁を切った。結婚する前から言動おかしかったが、子供に与える影響のことや、なにより毒親自分に与える精神的な負担が大きすぎたため縁を切った。結婚する時に親が吐いた台詞10年経つ今でも忘れることができない。

探偵雇って調べたけど、あの家、評判よくないよ。」

絶句した。まさか自分の親がそこまでするとは思っていなかった。しばらく経って、あの時のことは本当かと聞いたら、本当だ、と言っていたので、お金のないなか本当に調べたのだろう。しかし、配偶者の家は両親共に本当にできた家庭であることは名誉のために書いておく。親の思考はとてもわかりやすく、自分利益になるかならないか、なんだと思う。親は、男を誘うのが上手かったため、その時々で男がおり、その男の前では、「親は子ども幸せが一番なのよ」と言っていたが、全く信じてはいなかった。

自分けが幸せになろうと思うなよ。」

という言葉結婚する時にもらった。

親の決め台詞に「アンタは他人以下」というものがあった。私はここぞとばかりに縁を切り、携帯の番号を着信拒否設定にし、およそ7年が経った。

最近になってよく携帯が鳴るのは気づいていたが、何かのアプリの設定でプッシュ通知がとんできているのかなと思っていたが、違っていた。

ある日、親から留守電が入っていたため、着信拒否にしていても、着信があると軽くバイブが鳴るということに気がついた。

プッシュ通知だと思っていたものが、めちゃめちゃ電話をかけてきている親の所業だということに気がついた時はちょっとしたホラーだった。

着信拒否にしていても留守電が入るということも初めて知った。留守電の内容は金の無心だった。

7年経過した親の声は本当に親の声かわからいくらのものであったが、それは親のものだった。

団地家賃が払えず、市営住宅に移ったと聞くが、そこでもおそらくお金に困っているのだろう。

一人で生きるのにお金がかかるのは前から分かっていたのに、なぜ団地家賃が払えなくなるほどになるのか。

働いているときちゃんと貯めたり、厚生年金の中で暮らす生活の術はなかったのか。

罵りまくったせいで子どもも離れ、悪口ばかり吹聴するので友人もおらず頼れる人はいない。

なぜなんだ。なぜ、そんなに雑に生きるのか私には理解できない。

70歳になり、毒親人生はもはや矯正の効かないところまで来てしまった。

このまま孤独に死んでいくんだろうな、と思う。

心のモヤモヤが少しでも晴れればと思い書きました。乱文失礼しました。

2019-06-15

初めて聞いた「村八分未満」

知人に、田舎の旧家を買い取って暮していた夫婦がいる。二人はもともと同じ県内出身で、旦那職人なので、その旧家に工房を作り、そこでものを作って暮していた。子供達は学校仕事で家を出ていて、夫婦二人、家の周囲の土地を耕し、最近言うところの半農半X実践していたわけだ。

そんなある日。突然の出火で家が全焼した。警察消防により検証の結果、出火原因は不明とのこと。古い家だったので、彼らが知らないところで電気配線の不備があったのか、老朽化が進んでいたのか。幸いなことに、とにかく凄い田舎だったし、周囲が畑だったこともあり、周囲への延焼は一切なかった旦那以外は皆家を出ていたところで、家族も含めて怪我ひとつなかったが、飼っていた犬と猫は焼け死んでしまった。家の工房仕事道具、全てが灰になってしまった。

市の方から最低限の生活物資、それに市営住宅提供してもらい、そこでとりあえずの生活が始まった。旦那の方はすぐに重機資格講習に行き、合格してすぐに家の片付けを始めた。友達の手伝いもあって、二か月程で、家の土地更地に戻しおおせたから大したものだ。しっかり火災保険もかけており、周辺の町に丁度同じような古民家を探し当て、保険金を充当して購入の手続きも済ませた。片付けも全て終えたわけで、彼らは早くも生活回復させるフェーズに入っている。

私は彼らから離れた土地に住んでいて、今回の件ではろくに手伝いをすることもできず、申し訳ない思いで一杯だったのだが、ようやく時間を作って、この間話をしていた。そのときにふとこう聞いたのだった。

 私:「そう言えば、近所の人にも色々と手伝ってもらったんじゃないの」

すると、ちょっとの間を置いて、こういう答が返ってきた。

旦那:「いや、何も」

 私:「え」

旦那:「何も……手伝ってもらってない」

聞くと、見舞いの挨拶にも来ないし、彼らと友人達が片付けの作業をやっている時にも、何一つ手を貸してくれることもなかったという。

私が言うのも変な話だが、彼らは極めて外交的人達である。何事にも無精な、その癖神経質なこの私と未だに付き合いがあるのだから、それはもう確かな話だ。その彼らに、何一つ手を貸さなかった、とは。

私は彼らに言った。

 私:「ねえ、村八分って知ってる」

旦那:「昔のアレだよね」

 私:「そう。あれさ、要するにシカトするわけだけど、それも十分のうちの八分で、残り二分は例外だというわけ」

旦那:「へえ。その残りって何なの」

 私:「葬式と……火事だよ」

旦那:「なるほど。村八分火事例外なんだ。でも、何故」

 私:「葬式は……手伝わないと遺体が腐るし、疫病のもとになったりしたら大変だから火事は、当然だけど類焼する危険があるから

旦那:「ふーん……でも、燃えてる最中も、誰も来なかったよ」

まり、彼らはその辺りでは「村八分未満」の扱いを受けていたことになる。

 私:「何か、トラブルとかあったの」

旦那:「いや、何も……でもね、田舎から。住むようになって、何やかにやで二十年以上経ったわけだけど、最初から今までずっとこんな感じ」

彼らにとっては、この地を出ることができたのは、むしろ良かったのかもしれないなあ、と思ったのだった。

世間ではよくUターンIターンだ、田舎に住んで……みたいな話がある。自治体も援助しているところが結構あるわけだが、このような状況を変えられなければ、そういうことも進まないだろうなあ、と実感した。私はこのとき夫人が新居の手付金をおろし郵便局に行こうとしたとき旦那夫人にかけた言葉が忘れられない。

旦那:「近所の局ではおろすな。町の方の大きなところまで行ってきてな」

旦那は私に向き直り、こういうこともすぐ話が伝わって、あそこの家は大金が入って……とか勘繰られるのよ、何だろうなあ、こっちは何もかも丸焼けになってるのにさあ、と言い、寂しそうに笑った。

追記

何か読み取れない人がいるようなので、発言者を明示しました。あと、

(1) 火事の後の片付けには、連日、彼らの知人達がたくさん来てくれました。逆にいうと、私が書いた外交的というのはそういうこと。ただ人当たりがいいだけとかい人達ではないわけです。しかし、近所の人は誰一人来なかったそうです。

(2) 彼らの子供達はこの辺りで育ったわけですが、近所の人達子供に対しては普通に接していたそうです。つまり子供はここで育ったからここの者、だけど親達は余所者、そういうことらしいです。

(3) 彼らが子供を外に出したのは、この気風に染まってもらいたくなかったというのもあったそうです。

最後に、私や私の友人を簡単サイコパス扱いしてくれなさんなよ。

2019-05-22

anond:20190521212700


先日貯金はたいてクソ田舎から引っ越してきたのでマジで貯金ゼロ子どもの進学資金貯めるために爪に火をともす生活しているけど田舎にいたときより大分マシになった。

なお田舎にいたときは以下。


単純に転職を考えた時、当時住んでいたところだと大体似たような雇用条件残業時間残業代や有給という概念存在しないところばかりだったので、そら若い人が居着く訳ないよなと引っ越してきて思った。

2018-12-18

南青山児童相談所作ったらカス人間移住してくるって上級市民が反対してるのを下級市民がキレてる件。

俺が少年時代を過ごした田舎には近く市営住宅があったけど、

あんなもんできたら近所の学校デパート、何から何までみんなクソになるからな?

大事なのは住み分けだよ。

いつも金持ち我慢を強いられてるんだから住むとこくらい隔離させてくれや。

2018-03-03

夫婦喧嘩を見て育った

普通の家ってなんだろう。

私は自分の家を普通の家だと思っていた。むしろ大学まで行かせてもらって、その上生活費も出してもらっていたのだから、すごくいい家庭である。憎まれるほどいい家庭だ。

でも、昔から夫婦喧嘩が絶えなかった。

子供暴力をふるうことはなかったが、父は母を叩いて殴って蹴って踏んで罵倒していた。母は金切り声の叫び声をあげてわんわん泣いていた。物心ついたときから家はこの状態だった。

記憶してるなかで一番はじめの夫婦喧嘩は、3歳くらいの、まだ市営住宅に住んでいたときだ。

夜遅く、母は洗濯物を畳んでいて、私は母のそばテレビを見ていたと思う。車の音がして父が帰ってきた。母が玄関まで鍵を開けに行くと、酔っ払った父が家の中に入ってきた。私はなぜかすぐにコタツの中に潜って隠れた。父と顔を合わせたくなかったんだと思う。あと、酔っ払うと絶対喧嘩になることを知っていたからかもしれない。私は真っ暗なコタツの中で息をひそめていた。しだいに口論になっていくと、突然父が怒鳴り声を上げる。いつもここでびっくりしてしまう。本当に突然大きな声で怒鳴るのだ。そしてバシッと叩く音が聞こえる。何度も叩く。母はその度に「もう!やめて!やめてよ!!」と甲高い声で泣きながら叫ぶ。ドカドカと殴る音になると「やめてーーーー!」と母の絶叫が聞こえる。私はコタツの中でずっと震えていた。隠れているのが見つかったら私も同じ目にあってしまうと思っていた。喧嘩が終わると、まだ興奮がおさまっていない父の口から漏れるシーシーという息と、母のすすり泣く声に変わる。怒鳴り声か金切り声はだんだん慣れていくが、すすり泣きの声だけはいつまで経っても心臓がぎゅっと掴まれるような痛みを感じる。

両親はほとんど毎日喧嘩していた。父がいない日は心からホッとした。母が私を寝かしつけたあとに父が酔っ払って帰ってくると、ドスドスという足音とひどい喧嘩で起こされた。それでも布団にもぐって怯えながら寝たフリを続けなければならなかった。母をかばたことは、たぶんなかった。

次に記憶があるのは、小学校の高学年のときだと思う。父は自営業を始め、母は事務を手伝っていた。工場に隣接されるように建てた一軒家には自分の部屋がつくられた。

仕事は忙しく、夕飯はいつも11時くらいに食べていた。共に自営業を始めたことで、喧嘩レパートリーが増える。母も気が強い方なので、父に対して仕事意見を言うが、父は「口出すな」「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」「黙っとけ」と応戦する。「くらすぞ!!」と拳を振り上げ、しだいに喧嘩ヒートアップする。プロポーズだと笑われてる九州方言だけど、聞くと少し複雑になる聞きなれた言葉

また始まった...と呆れながらテレビを見続けた。うしろで行われる喧嘩が聞こえてないようにじっとテレビを楽しむふりをしていた。怒鳴り声で音なんか聞こえないのに、ずっとその場に固まったままテレビを見続けた。喧嘩が始まると、その場から動いちゃいけないという気になるのだ。トイレに行きたくても、立ったその瞬間に「聞こえてません知りません」のフリは解けてしまうと思っていた。自分の部屋に戻りたかったけど、その場から逃げることはなんだか卑怯だと思っていた。母を助けないくせに。

怒鳴りながら暴力をふるう父と、泣きながらやめていたいと泣き叫ぶ母と、テレビから目を離さな子供。今考えると異常な光景だった。すぐうしろで母が泣き叫んでるというのに、見ないふりをしていた。

その日はなかなか喧嘩がおさまらなくて、近所迷惑だなと呑気に考えていた。その時、怒り狂った父がとうとう台所から包丁を持ってきた。この時の光景はずっと忘れないと思う。父は「ころすぞ!」と怒鳴りながら泣きじゃくる母に向けて包丁を何度も振りかざすまねをしていた。母がその時やめてと叫んでいたのか、刺せばいいでしょと反抗していたのかはもう覚えていないけど、ただ包丁を母に向ける父の姿から目が離せなかった。

頭の中で「終わった...」と考えていた。父が母を殺して、両親をどっちも失うことになって、どうやって暮らしていけばいいんだとまで考えていた。その喧嘩はなんとか父が冷静を取り戻して終わったが、ずっとこの喧嘩のことは忘れないだろう。

父は交友関係が広い人だった。外に出ると、何度も友人や知人に明るく挨拶をする姿を目にする。外での父はとてもいい人だった。明るくて面白くて輪の中心にいるような人だ。私に対しても優しくて少し甘い普通父親だった。だからこそ、その二面性がこわくて気持ち悪かった。

父の友人は私に「いいお父さんでしょ?」とにこにこしながら聞いてくる。私はいつもなんと言っていいかからなかった。

やがて反抗期に入った私は父とまったくしゃべらなくなっていた。そこまでは良い。よくあることだ。しかし、私は母に対してひどい態度をとるようになってしまった。母を小バカにするような口はまるで父のようだった。私の中で無意識に「母にはひどい態度をとっていい」という意識が生まれていた。今考えると、父の母に対する態度の影響が出ていた。

大学に入って地元を離れることになった。簡単には両親と会えない距離だ。そこで私は一人暮らしのあまりの快適さに感動してしまう。怒鳴り声も暴力もない、近所迷惑も考えなくて良い生活は本当に心地よいものだった。

そして、両親が今まで不自由なく育ててくれたことに自然感謝できるようになった。夫婦喧嘩記憶だんだんと忘れていった。

でも、正月や盆に帰るたびに夫婦喧嘩日常的に行われていた。私は理由をつけて帰らないようになっていった。

大学にいる間、たびたび友人間で両親の話題をするようになる。もちろん良い部分だけを話した。そうすると友人の中でうちの両親のイメージは「優しくて天然なお母さん」「面白くてちょっと寂しがり屋なお父さん」という理想的な両親になる。私も誇らしかった。「私の両親は良い人なんだ」と思うことができた。久しぶりに帰ると、そのイメージは壊され、やるせなかった。

うちは普通の家庭である、と思っていた。喧嘩が少し多いだけの、普通の家庭だ。でも、親元を離れて暮らす中で、あれは普通ではなかったかもしれないと気づいていく。夫婦喧嘩包丁は振らないし、「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」なんて言葉は出てこないらしい。

大学卒業して地元に戻ってきた私は、いまだ喧嘩を続ける両親に向かって言った。「夫婦喧嘩がほんとに嫌だった、辛かった。喧嘩するのもうやめてほしい」と伝えた。父は笑って「どこの家もこんなもん。だいたい喧嘩じゃなくてじゃれてるだけ」と言った。情けなくて、もう何も言いたくなくなった。

夫婦喧嘩について調べていく中で、「面前DV」という言葉があることを知った。直接子供暴力を向けなくても、夫婦喧嘩子供精神DVを与えるというものだ。たしかに辛かったが、私はあんまり精神DVを受けたとは思っていない。なぜならいつも知らないふりをしていたからだ。母がどんなに泣き叫んでも庇わなかった。でも面前DVを受けたという話の子供はほとんど母を庇っていた。怖かったとはいえ、自分が情けなくてたまらなかった。

今では大人になり、父の言い分も母の言い分も理解できるようになった。仲裁に入るようになった。ずっと離れていたためか、暴力をふるう姿はあまり目の当たりにすることはなくなった。母方の祖父と共に暮らしているため、怒鳴り合いだけに抑えているのかもしれない。職場では、従業員の前でも怒鳴り合いの喧嘩をしている。人のいないところでまだ暴力をふるってるのかもしれない。

そういえば、病気で目が見えづらくなってきたのに配達に行かせるのよ、と母にこの前愚痴られた。なんでもないただの愚痴のように言われた。一歩間違えば事故を起こすというのに、「父は昔からそんな人だったのか」と改めてショックを受けた。

仲裁をしていく中で、私の意見なら父はちゃんと聞いてくれるということがわかった。母も「あなたの言うことなちゃん聞く耳つのよ」「あなたから言ってよ」と言うようになった。

私が言わなければならないということはわかっているし、母を庇おうとしなかった負い目もあるため私から話をすることが増えた。しか口論になって、怒りを滲ませた父の表情を見ると、恐ろしいと思ってしまう。白目のところが赤くなっていくのだ。次には拳が飛んでくるのではないかという考えがよぎる。

離れたら穏やかに暮らせると思う。だけど、私がいない間の両親の喧嘩想像すると苦しい。いつかどちらかが殺してしまうのではないかとずっと思っている。

私に対しては優しい父への接し方がいまだにわからない。

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