はてなキーワード: 曖昧とは
今の会社は新卒未経験で入って、5~10年勤めている(万が一、同僚に読まれたら身バレしそうなので少しボカさせて)。
従業員数十人の小企業で、給料は同年齢・同性・同地域の中央値くらい。
休みもちゃんと取れるし、社内の雰囲気も良く、十分満足して働けていたんたが、ライフステージの変化に伴って、平均年収くらいを目指して頑張ろうと思い、それは今の会社では昇給制度の限界的に難しそうなので、まだ本当に考え始めたのレベルだが転職を志望するようになった。
ただ、俺はIT業界で働いているだけで、自分を『技術者』と呼べるだけの自負はない。
最新の技術をキャッチアップできているわけではないし、何か特定の技術領域に自信があるわけでもない。自分の業務で関わらない領域に関してはPCの基本的なことすら曖昧だったりする。
対外的には「webアプリケーションの開発を中心に行ってきたエンジニア」となるのだろうが、あくまで自分が本当の意味で『技術者』とは思えない。
その一方で、一労働者として見たら別に今の会社で落ちこぼれているわけでもない。
目の前の仕事を真面目にこなして、社内では一握りの本物の技術者然としている層には敵わないが、それでも社内評価は良い方だ。
自認としては良くも悪くも『サラリーマン』だなという感じ。
だが、サラリーマンとして十分やれてきていても、転職市場において、「自分は何ができる人間」なのかが分からない。
勤めている会社が小企業にしては珍しく、人売りではなく自社オフィスで開発できる環境なのもあって、そもそも俺はIT業界がよく分かっていない(自分の所属する企業の狭い世界しか知らない)。
たぶんこういうのは、転職サイトに登録して、今までやってきた業務を洗い出して、転職エージェントみたいな方に相談するのが良いんだろうな。
「貴方の強み、プロと探せますよ」みたいなCM見たことあるし。
今の職場でやってきたことは、別にそんな特殊性の高いことではないので、余所に行ったら全く無価値なキャリアではないと思う、思いたい。
ただ、相談するにしても、IT系の転職サイトとかだと、俺みたいなサラリーマンエンジニアを相手してくれるのだろうか?
でも、広く一般的な転職エージェントなんかだと技術的な掘り下げの力になってもらうのは難しいだろうし。
あるいは、まずは今の会社で働きつつ勉強して、しっかり『技術者』になれてから転職活動した方が良いのだろうか?
【追記】
半日で2ブクマくらいだったので完全に埋もれたと思ったら、伸びててビックリ。
皆様、色んなアドバイスありがとうございます。
とりあえず転職エージェントはあまり信じるなは肝に銘じておきます。
うへ~、でも俺は新卒就活でも自己アピールとか超苦手で落ちこぼれて、大学の就職課やカウンセラーと二人三脚でようやく内定を得た人間なので、プロのサポートなしは正直怖ぇ~。
エージェントの力を借りる時はこちらで必要なところだけ利用するくらいの気構えで臨むようにします。
それで自分の市場価値とか、どんなキャリアがあるかとか見えてくると。
今のままでもという意見もあるが、後出しで申し訳ないけど、今の職場の難点として小企業故に「現在の経営陣が引退する歳になったらこの会社どうなるの?」みたいな点もあるんだよね。
そういう意味で、自身がまだつぶしの効く歳の内に外の世界に出た方が良いのでは? という気持ちがある。
今の会社もこうやって転職を考えることに後ろめたさを覚えるくらいには、感情として好きではあるんだけどね。
副業とか意見も出てたけど、会社終わった後にまた働くの地獄じゃない……?
そりゃ年収伸ばすために転職で多少残業が増えるとかは覚悟しなくてはと思っていたけど(といっても時給換算が変わらなかったら転職する意味ないが)、そこまで意識高くはやってけねぇわ。
わりと皆そんな専門分野とか持ってないし、俺が言うところの『技術者』なんてそんなにいない、みたいな意見は、正直安心したよ、ありがとう。
いや、こういう言葉に甘えてちゃいけないのは分かっているけど、気持ちとして楽になったよ。
勉強会とかも俺みたいななんちゃってエンジニアが参加して良いのかみたいな意識があって避けてきていたけど、転職で知らない人だらけの会社に飛び込むよりは楽と思って、俺くらいのヤツでも参加できそうな集まりを探してみるか~。
ともあれ、皆様ありがとうございました。
ここ数年、現実世界とインターネットの関係がガラッと変わってきてんねん。昔はインターネットっちゅうたら、現実の生活をちょっと便利にしてくれるもんやったけど、今やその立場が逆転しとる感じやわ。私ら、ネットを現実の延長で使うんやなくて、現実そのもんがネットの延長みたいになってきてるんちゃうかなって思うねん。
まずは、ソーシャルメディアがデカいわな。ほら、最近やったら何かしらんイベントとか体験したら、それをすぐネットにアップするやろ?「いいね」もらったり、コメントで反応もらったりして、「これ、めっちゃええやん!」って自分の体験の価値を再確認するっちゅうわけや。昔は、私らの行動や気持ちは現実で起こったことに基づいとったけど、今やネットでの評価が私らの行動を左右してるんちゃうかなって感じるねん。それにな、最近はネット上の自分、いわゆる「デジタルな私」が、現実の私よりも大事にされてること多ない?SNSのプロフィールとか発言が、その人の「ほんまの姿」として扱われて、現実の人付き合いでもそのイメージに合わせるように振る舞うようになってるわ。ネットでの自分が、ほんまの生活での行動基準になってるなんてこともあるしな。経済の話でも、この逆転はハッキリしてるで。仮想通貨とかNFTとか、ネット上のデジタルな資産が現実の通貨やモノよりも価値あるんちゃうかってことになってるねん。昔はネットって、経済活動のちょっとした補完的な場所やったけど、今は多くの人がネット通じてお金稼いだり、投資したりしてるやろ?ネット上で「持ってる」もんが、現実の財産より大事にされる時代が来とるわけや。ほんで、メタバースとかバーチャルリアリティなんかも、この逆転現象を加速させてるな。仮想空間での体験や交流が、現実の世界の付き合いや活動と肩を並べるどころか、下手したらそれを超える時もあるねん。オンラインのイベントやらコミュニティが、現実世界の制約を超えて広がってて、もう「現実」ってなんなんやろなぁって感じさせるわ。この逆転現象は、私らがどないして自分を定義して、どないして他人とつながるか、っちゅうとこを全部作り替えてると思うわ。ネットがくれる情報や体験の量と速さって、現実世界じゃなかなか敵わんよな。そんなんに引き込まれて、気づいたらネットが主軸になってもうて、現実がそれを支えるみたいになってる感じや。せやけど、これにはちょっと危険もあるねん。現実の体験や人間関係が、デジタルに依存しすぎると、ほんまの現実を見失う可能性があるんちゃうかと思うねん。これからは、ネットと現実のバランスを上手いこと保って、両方共存させるんがめっちゃ大事になってくるんやないやろか。
現実とインターネットが逆転してるこの現象、ほんま、今の時代を象徴してるんやろな。現実とデジタルの境界がどんどん曖昧になっていく中で、私らが何を「ほんまの世界」って思うんか、そしてどない生きるんかが、これからの大きな課題になっていくんやろうな。
見たけど、よくわからなかった
話の内容が、というわけではなく制作意図(?)がわからなかった
以下感想
アニメーションの出来が素晴らしい
日本の従来の商業アニメ的ではない表現、演出なので外国の映画賞とかとりそう
普通、アニメで、高校生で、アマチュア寄せ集めで、そっちの方向性にはいかなくないか?
そしてミスチルはクソ
以下ネタバレ気にせず感想をかく、良かった点と悪かった点、疑問点、腑に落ちない点を書くのでだれか答えを教えてくれ
ざっくりいうと邦画っぽい
邦画あまり知らないけどなんていうか岩井俊二的な、岩井俊二をアニメ化するとしたら山田尚子に任せたらよさそう的な感想を持った
ちゃんとアニメとして成立している、邦画っぽいけどやはりこれはアニメなのだ
また、邦画っぽいというのは、エンタメではないという意味も含む
たとえばこの映画が君の名はのように大ヒットして何百億円も稼ぐとはとても思えない
人によっては心に染み入るような、人によってはあくびが出るような、そんなタイプの映画
なぜそう感じるのか?
改めて考えたがこの映画は緩急に乏しい
たくさん登場人物が出るし、エピソードもたくさんあるがどれも平凡
心に刻み付けられる名ゼリフもなければグリグリ動く神作画もない
良かった点
その選曲とパフォーマンスで客がそんな風にはならんやろと思ったり
なんでこの子達がそんな曲作ろうと思うん?だったり
その点、このアニメはよかった
文化祭であんなセンスのある演奏されたらそらああなるし、そういう演奏になる理由も作中で描かれていた
悪かった点
1 ミスチルを起用すんな
単純にあってない
作品の完成度を落としてると思う
いやおそらく「今」なんだろうが、現実の「今」とこの作品の中の「今」、ちょっと違う、いやかなり違うよね
いかにもアニメアニメしたアニメならご都合主義として無視できるのだけど、キャラデザも演出もリアルに、邦画に寄せている分、どうしてもリアリティのなさ、時代の曖昧さを感じてしまう
上の方で岩井俊二っぽいと書いたけど、岩井俊二は時代を切り取るのが上手い
『打ち上げ花火下から見るか横から見るか』を見れば90年代の小学生のリアルがそのまま伝わってくるし
『リリイシュシュのすべて』を見ればゼロ年代の中学生のリアルに心が苦しくなるはずだ
彼女ら、彼らは、本当に、令和の、2024年の、日本の今を生きる高校生なんだろうか?とてもそうはみえない
作劇に合わせて都合よく作られたフィクショナルなキャラクターに見える
そのちぐはぐさが不快で不満
疑問点
エンタメではなさそうだ
いやもし売れる映画を目指してたなら単純に失敗だ
パンチが足りない
では作家性の強い映画、メッセージ性のある映画をやりたかったのか?
作風的にはこっちの説のがしっくりくるのだけれども、そうだとするとこの作品のテーマがよくわからない
自分には伝わらなかった
わかった人がいれば教えて欲しい
きみの色は結局何がしたい映画だったの?
いや、待って、まず何が言いたいの?
スキンケアと化粧品が同じものだなんて、そんな話は一言もしてないよな?
ていうか、スキンケアって言葉自体が曖昧すぎるし、人によって解釈違うだろ?
全部ひとくくりにして話すのがそもそも無理があるんじゃないの?
あと、食事や生活習慣が関係するってのは、それもう健康全般の話だろ?
それをスキンケアの話に持ち出すのは、ちょっと論点ずらしすぎ。
だとしたら、もう何でもかんでもスキンケアになるわけで、結局定義が曖昧なままだろ。
色々と情報が錯綜しているプロジェクトKV関連について、内情に関する不確定な情報に関しては正直何とも言えない。
ただ一連の話の中でクリエイターは良い物さえ作ってくれれば構わない、という意見を見ることがある。これに関しては問題の内容にもよると思うのだが、出された物で評価するのであればライターの方が最後に携わった対策委員会編三章に関しても作った物であるし、アニメやテキストの差し替えがあったイベント等への影響等も同様に評価するべきではないか。
ストーリーの根幹部分は本当に良かったとは思う。クジラのように息を止めていた=本音を吐露できないでいたホシノ(アニメ版水族館回のシロコとの会話より)が先輩に弱音を吐いた上でこれからも進んでいく覚悟をしたし、シロコ*テラーやプラナは自分たちが元いた世界では守れなかった人たちを守ることができた。最終編の続編的なストーリーとしては本当によかったと思う。
ただ、気になる箇所がいくつかある。これが単に尺や締切の問題ならまあ仕方ないとは思う(明らかに話数が多く、可能な限り設定にケリをつけようとしたことは分かるので)。ただ退社と新プロジェクト立ち上げの一連の流れを見ていると、その描写に関して何か含みがあるような気がしてしまう。
私募ファンド、ネフティスの執事さん、プレジデントの対立のくだり
この辺りに関しては敵対者がコロコロ変わるし執事は心変わりしたかと思うと反省してフェードアウトするし、プレジデントは大人のやり方というわりに子供の癇癪めいた方法で話を反故にする。
この辺りは直近のイベント等でちゃんと説明すれば協力してくれるアクアパークのオーナー、反省してサオリを気遣ってくれるようになるDJ等が出てきていたのもあって、アビドス関係だけこうなの?となってしまう(エデン条約編三章〜四章のトリニティモブもトラブル担当にされていたので、モブやNPCの性格が悪いのはライターの手癖なのかもしれないが)し、エピローグにも居たこともありコレがアビドスの生徒にとっての今後の隣人かぁ…と思うとなんとも言えない。
アニメや最終編でノノミの描写から、実家問題の掘り下げを期待していたので肩透かしを喰らったのが正直なところだ。シナリオ単体だとそのくらいなのだが、退社の件と合わせて考えるとプレジデントとのやり取りは退社のきっかけとなる社内でのトラブルが元になっているのではないか…?という疑念が湧いてしまう。もちろんそんな明言はされていないし、退社の経緯に関しては知る由もないのだが。
スチルを見た時の第一印象は捨て方が雑すぎないか…?というところで、ホシノがユメと言葉を交わして前に進む=きちんとお別れをする、大切な人を弔うというのがこの章の話であるなら、尚更砂漠に打ち捨てるのではなく、綺麗に埋めるとか溶かして別の武器にするとか、やりようはあったと思う。
果たして乱雑に打ち捨てる必要性があったのか、古巣を離れることに対する表現だとすると切り捨てられた感があるし、お話のコアになるキャラクターの大事なシーンに変な文脈が乗ってくるのは正直かなり嫌な気持ちになる。
地下生活者に関して
今回の章での先生の結論は、本当にざっくりした纏め方をすると大人として自分が今やれることをやる、というものだった。それに敵対する存在が、子供のように癇癪を起こし、無敵の空間から一方的に何の責任も負わずに干渉し、チートめいた現実干渉で本来あり得ない現象を起こすというのは対比がバッチリと決まっていたと思う。
だがその上で、どこまでが地下生活者の仕業で、どこまでがそれぞれのキャラクターの動きなのかがハッキリ説明されておらず、よく分からない。先述の私募ファンドと執事とプレジデントに関して、心変わりが早すぎるのもあり、この辺りは操作されていたんじゃないか?と予想することはできる。朝霧スオウの挙動も、プレジデントを裏切って以降はホシノの強さ(キヴォトス最高の神秘としての、ゲマトリア視点のホシノの解釈)しか見ていない様子で、地下生活者の台詞に呼応して動いているので何かしら干渉されているのは間違いない。ホシノへの精神干渉がどの程度なのかは分からない。テラー化直前かもしれないし、三章の合間に頻繁にホシノの回想が挿入されるのはこの時点で干渉を受けていて夢と現実の認識が曖昧になっていたのかもしれない。
しかし実際どこからどこまでがキャラクター本人の挙動なのかは明言されない。自己顕示欲の塊ゆえに全部説明してくれたベアトリーチェや暗躍しているシーンをキッチリ映している申谷カイなど、方向性の違う黒幕でもどこからどこまでが黒幕の仕業でどこが本人の問題なのかはわかりやすかったのだが、単純に説明不足だ。
先生の爆破というファンコミュニティではさんざんアロナバリアで無効化されてきた手段を意気揚々と繰り出してきたり(よりにもよってそこで一旦シナリオの更新がストップするし)、先生の指揮の人数制限問題に関しても制約解除決戦以前からストーリー戦闘内で操作不可の味方が援護してくれる演出なんかもあったわけで、先生が打倒するにあたってのカタルシスが異様に弱かったように思う。対比構造とかモチーフにこだわるあまり動かし方が稚拙ではないだろうか。
メタ的な攻めをするわりに解釈が雑ですぐ癇癪を起こす大人なのに子供みたいなキャラクター、というとファンコミュニティでたまに見かける過激なユーザーを揶揄しているようにも思える。先生への攻撃に関してもファンコミュニティでたまに発生する死ネタ・負傷ネタの風刺であるがゆえこういう手段になったのかもしれない。二次創作へのお気持ちで作られたキャラ造形、と言ってしまうのはさすがに邪推が過ぎるだろうが、ゲマトリアというメタ的な属性を与えられている立ち位置を考えればプレイヤーが元ネタになるのも自然な話だし、それ自体は別に良いと思う。しかしユーザーの層を考えると、ある種の「チー牛」的な属性のキャラを繰り出すのは不用意すぎるし、最後に関わったシナリオでそのキャラを地下へと追い返して退社というのはちょっと危険なメッセージ性が生まれてこないだろうか。
ただ問題はキャラクター設定よりもむしろシナリオ上での動かし方で、地下生活者が三章においてもたらしたものは説明不足なゴチャついた展開と列車砲やセトなどの扱いに困って途中で流れでサクッと処理した設定ばかりで、ホシノやシロコ*テラーの苦悩と決断など、三章の良かった部分とは関りが薄い。シロコ*テラーとプラナとは元の世界の悲劇に関して因縁があるわけだし、アビドスの問題を一段落させたうえでプレナパテスの関係者メインできちんと対決するお話を用意してあげてもよかったのではないか。
表現したいことがあるならそれでいいと思う。けれど実際何がしたかったか、そもそもどこまでやらかしてるのかが分かりにくいし、ユーザーへの不快感の表明だけが文脈としてハッキリしてしまうのだとしたら、ちょっとさすがにどうなんだという感じだ。
朝霧スオウに関して
よくわからないといえば朝霧スオウだ。エピローグでの出番を見る限り確実に何か彼女は彼女で設定がある筈なのだが、ホシノの台詞の通り本当に何だったのかよくわからないまま終わってしまった。最初は対立関係にあると言われてたノゾミとヒカリを対策委員会との交渉時には遠ざけようとしていたり、ノノミの誘拐時には思うところがありそうだったり、なんやかんやノゾミとヒカリが助けているあたりホシノへの執着だけのキャラではないのは確かだろう。
ただ結局地下生活者がどこからどこまで操っていたのかわからないので、対策委員会編三章の動向だけでは本当によく分からないとしか言いようがない。雷帝関連が今後掘り下げられることもあり、シェマタ建造ぐらいの時期の話に関わってくるのかもしれないが……。
ただまあ思い返せばエデン条約編三章でも先の話を知らないとアツコを傷つけられて激怒するサオリのシーンなどはどの口で言っているんだ、と捉えられても仕方のない描写だったりするし、先のシナリオで裏事情を明かすキャラに関して事前には特にフォローが無い描き方をしているだけなのかもしれない。
セトに関して
ホシノのテラー化のついでに副産物のような形で出てきて、ホシノが復帰した後は何故か地下生活者の切り札のような扱いになって、なんか凄いらしいけどそのまま倒されたのでよくわからなかった。
セトに関しては戦闘フィールドや名前の元ネタから明らかにアビドスに関係するボスとしてデザインされているし、新規コンテンツとして無から生まれたボスではなく三章実装にあたってデザインされたボスだろう。
それが新規コンテンツのボスとしてはあまり歓迎された仕様ではなく、シナリオ的にもホシノの復活ついでに処理されているのは単に要素が渋滞したせいなのか、それともわざとなのだろうか。どちらにしろ無茶振り的な実装で調整不足なボスだと思う。
ホシノとヒナの対決に関して
スチルもアニメーションも潤沢な頂上決戦……の割には直前でホシノがシロコに一度競り負けているし、決着としても列車破壊による無効試合なので、演出は凄いのに脚本上の盛り上がりからは妙にズラされている。
ホシノの話に終始すると暗くなってしまうので派手なバトルでバランスを取ろうとしたのかもしれないが、心情的にそれどころではないタイミングで熱いバトルをされても集中できないというのが正直なところだし、その本人を巻き込んでるとなると尚更だ。
ヒナに関してはホシノのテラー化直前の台詞回しに関して、事実に即した言葉を淡々と提示して諭そうとしている。これは単にシナリオ上の都合の台詞ではなく、水着衣装のボイス等から推定するとヒナというキャラクターが確かな事実を礎にして動いており、不確定なものが苦手であるがゆえ、こういう台詞回しになっているわけだ。
事実と真実に関する話はクライマックスでも再度言及されるわけだが、今回の章を経てホシノが辿り着いたのが真実であり、ヒナが重要視しているのは事実である。おそらくはこの対比関係を前提にした上でホシノとヒナをぶつけたかったのだろうが、戦闘時のホシノは絶賛迷走中で、ヒナはゲヘナ編のシナリオがまだ来ていないので、関係が煮詰まってないけどスケジュール的に不可能なのでとりあえずノルマでバトらせたようなバトルだ。正直なところ現状の描写だけではアニメで謎に往年のライバルキャラみたいな扱いをされていたシロコとアルと大差無い関係性だと思う。
頑張っていることを認めてくれると嬉しい、人助けが生きがい、確固たるものが心の拠り所……という、今は先生が適切な距離感で接しているので安定しているものの、ヒナの精神性はもともとコミュニケーションに不安を覚えやすい子のそれだ。そういう部分でヒナの人柄を見て仲良くしてるキラキラ部の二人やまあ……偏愛を向けてるアコちゃんあたりの、頑張りとかが関係ない人間関係が大事になってくる気がするのだが、その辺りは来たるゲヘナ編に期待したい。
後輩の成長に関して
ホシノを止めるために雨雲号を持ち出したり生徒会長に立候補したりと、アヤネの凄さを感じさせるシーンが幾つかあったわりに、普通にそのまま撃退されたりプレジデントには発言を無効にされたり結局会長職は返上したりとなんというか不憫な描写が多かったように思う。
セリカに関してはあまりにも派手でスケールの大きいシナリオと相性が悪かったように思う。アニオリの水族館回でのノノミへのフォローなど、日常パートだといい立ち回りができるだけにもう少しなんとかしてあげてほしい。
今回の章で後輩メンバーたちがしっかり成長してしまうと、ホシノの未練が無くなってしまうので後輩の力で助ける・問題を解決するというストーリーにしにくかったのだろうという推測はできる。だが見せ場を作った上でそれに水を差す形で否定する、という見せ方をする必要はあったのだろうか?
ユメに関して
ホシノの物語の登場人物としては特に文句は無いのだが、プレイヤーの視点としては先生として世界を観測するゲームで、生徒には無限の可能性があると示したのと同じ口でどうすることもできないと言うのは果たしてどうなのか。
全てを許してくれる聖母のような立ち位置に先生として庇護すべき生徒を配置した上で、先生には責任がないと許してもらう(しかも先生と会話したユメは本編の状況を何も知らず、先生とホシノと三人でアビドスにいるパラレルの存在だ)のは些かグロテスクな構図に思える。ヒナの件も後出しで列車砲の件で招集した、という描写で「先生は地下生活者と違って自分の生徒同士を将棋の駒みたくぶつけるようなことはしませんよ」と説明してるわけだが、そこを説明するより地下生活者の干渉範囲のネタばらしとかもっと描写するところがあったんじゃないかと思う。
どうも三章は生徒に対する先生よりも「シャーレの先生」という立ち位置で世界の命運を左右する存在としての在り方に寄った描写が多く感じた。描きたいお話と相性が悪かったんだろうか。でもまあ確かに最終編でアリスが命を賭けるシーンとかもプレイヤーとしては分かった上で生徒を送り出してるわけだし、セカイ系と先生概念が相性悪いという話なのかもしれない。
ユメの死因に関してはそんなに明確に言及する必要があるか? と思うのだが、動いてないのに暑いよのミームへのカウンターとして描写したという説がどうもあるらしい。眉唾な話ではあるが仮にそういう意図だとすると三章完結後の現在、露悪要素のない二次創作に対して面白がってユメの死因をネタにしたコメントを書き込んで不謹慎な大喜利をする風潮がミームの代わりに蔓延っているのだが、果たしてこれが望んだ光景だったのだろうか。結局ネタバレや不謹慎な内容を避ける流れでホシノサクサクが代替としてバズったりしていたし、ミームは変わらず蔓延り、残ったのは悪ノリでキャラを愚弄して面白がる空気感だけ。
しかしギャグパートとシリアスパートで同じ台詞がぜんぜん違う文脈になる、というのはブルーアーカイブのお家芸なので何かしらの目的でわざとやってるのはそうなのかなぁとは思う。
ミームの件も合わせて考えると自分のシナリオ以外で動かされるのが嫌だったから完全に死人として扱ってるんじゃないかと思わないでもない。そういう都合でキャラクターの結末が歪められたとしたら、三章の根幹部分のお話の受け取り方も変わってくる。
対策委員会編に関しては正直初期のストーリーということもあるし、ホシノをメインに据えた話をするにあたってストーリーラインが似通ってしまうのは仕方ないのかもしれない。そこはおそらく三章の問題ではなく一章二章の方が未来でやる話と被ってしまった、というのが正しいのだろう。
ただ、先生の負傷による一時的退場でその間に加速する情勢、精神的に不安定な強い生徒が暴れてるけどそれとは別に対処しなきゃいけない問題がある、という構図はエデン条約編三章と四章そのままの構造だ。対策委員会編だけならまあホシノの問題は二章では何も解決していないから…と言えるのだが、これに関しては単に話のレパートリーが少ないだけではないだろうか。
本筋以外の部分はスケールが大きいが列車砲+スオウやカイザーの軍勢は裏で片付けられているのもあり、ワンパターンを外そうとして派手な設定を入れ、結局扱い切れずに諦めた感もある。頻繁に挿入されてるスチルもこの後負けて即落ちするんだよな…とかカッコつけてるけど後輩の静止振り切って突っ走ってるだけなんだよな…と、シナリオを合わせて見ると微妙な感想になるものが多く、手間と内容が釣り合っていない。
細部が気になるのは退社とプロジェクトの件だけが原因ではない。直近のイベントストーリーでは出来ている部分が出来ていないからだ。
ーve Alive!ではアイリの意図を勘違いしながらもがむしゃらに手を伸ばすメンバーの姿が見られたが、このイベントでのアイリがいなければスイーツ部が存続する意味がない、という言葉こそ対策委員会編三章でユメの意思を継ぎアビドスの為に自分を犠牲にしようとしていたホシノに対して、目的の否定より何より先に掛ける言葉であったのではないか。
say-bing!ではコノカ副局長の立ち回りがブルーアーカイブの根幹となるコミュニケーションであったように思う。カンナにとって大事なものを本人の意図は関係なく尊重し、しかしアクアパークから帰ってきたカンナが楽しそうだった理由はよく分かっていない、というのは他人はどこまでいっても他人である、だけどそれでも、という古則への回答そのものだ。
seaside outsideでは、人殺しの教育しか受けてこなかったような生徒に居場所はあるのかという問いに対してアリウススクワッドのメンバーがそれぞれのやり方で他人と関わる様が見られ、彼女たちにも居場所はあるのだということが示唆されていた。栗浜アケミとそれを慕うスケバンが出てきたのが象徴的で、道を外れた生徒でも受け入れてくれる人がいるというお話を立体的に表現していたように思う。
月下夢騒に関しては続きがある以上結論は出せないし、実質的な卒業済みの生徒=大人であるカイの処遇に関しては大きな不安が残る。しかし、黒幕であるカイが何を仕組んでいるかは明白であり、カグヤの暴走もキサキの門主就任初仕事が手順を無視してのカイの追放だという部分を加味すると山海経の生徒がキサキを Permalink | 記事への反応(1) | 19:52
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
引き込まれて夢中になって読んでいたら一瞬でした。
投稿者様のご経験、男の私から見ても本当に恐ろしいと思いました。自慢どころか、投稿者様自身が辛いと感じているならばそれが全てで、他の人がどう受け取ろうと関係ないです。身体しか目がいかず投稿者様自身を見向きもしていないような輩が女性含めとても不快で、ご胸中を察するに余りあります…それでも野郎共を十把一絡げにして嫌いにはならず、いつか…と希望を捨てきれずにいるのも、人情味があって素敵だと思います。
他の方が子どもを中心に生活しざるを得ない期間を、自分のために過ごすというのも、それはそれで子持ちの方は経験できないステージなのではないかと私は考えています。置いていかれているとかそういうのでもなく、居る場所が違うだけなんだと思っています。
みんな普通という曖昧な基準に囚われ過ぎているような気がして、普通という宗教の狂信者を見ているようで恐ろしく感じるときがあります。
普通という色眼鏡を通して、私ではない何かを見られ判断されているような感覚。私が私であることを許されていないような感覚。その普通を嫌っているのと同時に、自分の中にも少なからずその基準が刷り込まれていて、そこから見てマイナスな私に焦りを感じるのも気持ちが悪いんですよね。
人生紆余曲折ありましたが、ちょっと帰り道にご褒美で美味しいもの買って食べたり…人生ってそんなものでもいいんじゃないかと思うようになってからは、ほんの少し楽になった気がします。
私からすれば、投稿者様からは人としての深みを感じますし魅力的だと思います。歳も割と近いですがお互いに悶々としつつも何とかやっていきましょう。
忘れちゃったものに対して備忘録書くのやや矛盾してないか?とは思うけども書かないとそのうち「タイトルを知りたい漫画があったってことしか思い出せない」みたいな状態になるだろうから思い出せるうちに書き出しておく。
受験戦争がどうのって背景があって、塾に通ってた生徒たちがビルに閉じ込められる。
水が飲みたくてたまらず発狂し始める生徒たちが次々事故とかで死んでいくという内容。
水取りゾウさんの中に溜まった水を飲もうとして奪い合ったり、トイレの便器に顔を突っ込んで死んでいたり、ハサミで自分だか他人だかを刺して血を飲んだりしてた。
「ライバルが減ってよかった」みたいなセリフと共に授業が始まって終わり。
なんか階段から落ちて母子共に亡くなったとか…そういうのだった気がするんだけども…
ラストシーンが階段に立つ主人公の影が階段下に伸びていてそれが胎児の形をしているみたいな…そんなかんじのやつ?
③コンピュータウイルスかバグと戦うエロ漫画
20年くらい前に見たでかいホチキス?で留めてるタイプのエロ漫画雑誌に載ってた。
黒髪ロングで眼鏡のお姉さん(絵柄がやや萌え系で雑誌から浮いてた気がする)がゲームだかネットの中に入り込んでモザイクみたいな人型のやつに犯される。
「ピクセルがこすれて…オ◯◯◯がめくれちゃう♡」みたいなセリフがあったと思う。
追記:モザイク人間は結構でかくて電脳世界でビルとか壊してた。お姉さんも巨大化する。フェラシーンがあったと思う。
体位は確かお姉さんがビルを支えに犬の小便みたいなポーズをとって後ろから合体って感じだったはず。巨乳
これも20年くらい前なんじゃないかな?地元の図書館に同じ県のもっと都会の方にある図書館から貸し出された本が置いてあって、そのうちの一冊。
なんか別冊宝島のような気もしてきたな…
町野変丸、CLAMP、麻宮騎亜 、江川達也辺りが載ってた覚えがある。
多分これで家畜人ヤプーのことを知ったはず…
これ漫画じゃねえや
別冊宝島409号がなんか近いタイトルなんだけどもっとなんか気取った感じだったんだよな…表紙が黄色だったような…
⑤お母さんが豚だった漫画
多分短編集なんだけどよく覚えてない。
お母さんがドレスを着てる豚で、お父さんがなんか頭かち割られて死んでる。女の子が殺したかも。
自分はやっぱり人間の子ではないんだ!みたいに叫んで泣いてた?
文字だけのページとかもあったと思う。
あと「これが最初で最後だ!」みたいなセリフがでかい字で書いてあるやつがあった。全体的にグロかった気がする?
漫画と小説が交互に載ってるBL雑誌だったと思う。その雑誌に載ってた小説。
刑事(探偵?)が違法薬物を追ってる最中にトンネルで脅されて無理やり薬物を飲まされ(飲まないでいようとしてたけど唾液で溶けたかなんかだった気がする)ケツを掘られつつ背中をナイフだかカッターだかでズタズタにされて気持ちよくなりながら意識を失う。
病院で目覚めてなんかこいつとくっつくんだろうなってやつと話してる。
⑦多分コロコロ
主人公が父さん(行方不明)譲りで昔から全裸にならないとウンコができないんだよなー!とか言いながらトイレに入る。
隣の排泄音(父?)に主人公も負けじとブリブリやる…みたいなシーンがあった気がする。
改行できてんのかなこれ
数学の世界には無限の可能性が広がっている。無数のパターンやそれらに隠された法則。
三人の応用数学者が、自分の全霊魂を賭けてある難問に挑んでいる。
ドミニク・シュタイナーはベルリンの研究室で、論理的な一連の方程式を前にしていた。彼は数学が絶対的な真理を解き明かすものであり、そこには一切の曖昧さが許されないと信じていた。数式は純粋であり、その解は厳密でなければならない。
その日、彼のデスクに届いた論文は、アレクサンドラ・イワノフからのものだった。彼女はロシアの数学者で、非線形ダイナミクスを用いた社会変革のモデルを研究している。ドミニクはその論文に目を通し、数式の整合性や論理性を冷静に評価した。
パリでの国際数学会議で、ドミニクは自身の研究成果を発表した。壇上に立ち、彼は無駄のない言葉で論理の精緻さを示す数式の力を説明した。彼の発表は冷静であり、数学的な厳密さに基づいていた。聴衆は静かに耳を傾け、数学の普遍性に魅了されているようだった。
発表が終わると、アレクサンドラ・イワノフが手を挙げた。彼女は冷静に質問を始めた。
「シュタイナー教授、あなたの理論は数理的に整合していますが、社会の複雑な相互作用を完全に捉えているでしょうか?非線形ダイナミクスを適用することで、社会変革の予測可能性が高まると考えられませんか?」
ドミニクは一瞬考え、冷静に答えた。
「イワノフ教授、非線形方程式は確かに複雑系の挙動を捉えるには有効かもしれませんが、その安定性が保証されていない場合、結果は信頼できません。数学の役割は、ランダム性を排除し、真理を探求することです。過剰に変数を導入することで、モデルの頑健性が失われるリスクがあります。」
「そのリスクは承知していますが、社会変革は非線形な過程であり、そこにこそ数学の力を発揮する余地があると考えます。複雑系の理論に基づくシミュレーションによって、より現実に即したモデルが構築できるのではないでしょうか?」
ドミニクは彼女の意見に静かに耳を傾けた後、言葉を選びながら答えた。
「社会変革が非線形であるという見解は理解できますが、モデルの複雑性を高めることが必ずしも精度の向上を意味するわけではありません。安定した予測を行うためには、シンプルで確定的なモデルが必要です。」
「シュタイナー教授、イワノフ教授、両方のアプローチにはそれぞれの強みがありますが、私は数学的美学の観点から異なる提案をさせていただきます。リーマン幾何や複素解析の観点から、数式が持つ内在的な対称性やエレガンスは、解が収束するかどうかの指標となる可能性があります。特に、複素平面上での調和関数の性質を用いることで、社会変革のような複雑なシステムでも、特定のパターンや法則が見出せるかもしれません。」
「タカハシ教授、あなたの視点は興味深いものです。調和関数の性質が社会変革にどのように適用できるのか、具体的な数理モデルを提示していただけますか?」
「例えば、調和関数を用いたポテンシャル理論に基づくモデルは、複雑系の中でも安定した解を導き出せる可能性があります。リーマン面上での解析を通じて、社会的変革の潜在的なエネルギーを視覚化し、それがどのように発展するかを追跡することができます。エネルギーの収束点が見えるなら、それが社会の安定点を示すかもしれません。」
「そのアプローチは確かに興味深いですが、実際の社会では多数の変数が絡み合い、単純なポテンシャル理論だけでは捉えきれない動きもあります。その点を考慮すると、複雑系のシミュレーションとの併用が必要ではないでしょうか?」
「もちろんです。私が提案するのは、調和関数を基盤とした解析が複雑系のシミュレーションと補完し合う可能性です。単独のアプローチでは見落とされがちなパターンや収束性を明確にするための道具として捉えていただければと思います。」
三人は、お互いに目配せをすると別れを惜しむかのようににこやかに近付き合い、お互い談笑しながら出口へと歩みを進めた。
一方その日のパリは過去にないほどの快晴で、会議場の外ではどういうわけか、太陽の下で穏やかにほほえむ人々で溢れ返っていた。
少子化によってどうにもならなくなった未来の日本に危機感を覚えておきながら、おまえは自分の意思で強制的に自分の子供をその未来に放り込もうとしていることを自覚した方がいい。
たしかにある日突然一致団結した日本人たちの不断の努力によって少子化問題が解決する奇跡が起る可能性はゼロではないが、当然ながらおまえ自身が怯えている通りの世界がやってくることだってありえるわけだ。
そんな状態を理解しながら子供にその世界で生きる可能性を背負わせるのはおまえの業だし、本当にそうなってしまったらしまったで周りの日本人すべての責任にすることで本質的な自分の選択のミスを認めることから簡単に逃げることのできる立場にいる。
自分の子供を自分が思い描く素敵な未来に住まわせたいと思うのなら、おまえ自身の手でどうにかすべきことだし、一人で成し得ないことならば尚のこと自分以外の他の人間を説得するために脅すことしかできない自身の浅はかさを省みた方がいい。
現在の少子化はたしかに政治の責任ではあるが、それを選択したのは最終的には日本人全員の曖昧なまま束ねられた意思であり、本当にその向かう先が地獄と思うのならば尚のこと自分のエゴに何の罪もない子供を巻き込むなよ。
今日は朝からカレーを食べた。カレーは好きだけど、実はラーメンの方がもっと好きだ。
ネトウヨの俺がラーメンを食べると、なぜかパヨクが寄ってくる気がする。
パヨパヨチーン!って感じで、彼らはいつもカラフルなスーツを着ている。
スーツの色は、まるで虹のようだ。
その後、空を見上げると、飛行機が飛んでいた。
飛行機の中には、きっとネトウヨの仲間が乗っているに違いない。
彼らは空の上で「パヨパヨチーン!」と叫んでいるのだろう。
そう思うと、なんだか嬉しくなってきた。
俺は猫に向かって「お前もネトウヨになれ!」と叫んだが、猫はただのんびりしているだけだった。
パヨパヨチーン!
ネトウヨとパヨクの境界線は、カレーとラーメンのように曖昧だ。
だから、今日はただ「パヨパヨチーン!」と叫んで、自由に生きることにした。
おしまい。
たしかに、私から見ても発達ボーダーであることが疑われる人材はたくさんいる。
それは、この職場が学生でも即戦力のお手軽肉体労働職だからである。
一方で、この職場の人間たちは、県内模試で一位を取り、ベンチャー企業でデイリー5万のユーザーを支える基幹をオペレーションし、
カルフォルニアにある企業からドルで対価を貰いながらリモートワークしている私をも、彼らと同じカテゴリに属する人間として扱ってくるのである。
この職場の人々は私を憐れんでいるつもりであろうが、私からすれば、私の方があなた方を憐れんでいるのである。
前時代的慣習を引きずり、人物の好悪を仕事に持ち込み、派閥を分けていがみ合い、客間であろうが怒鳴り散らし、ろくに仕事の標準化に貢献せず、
自分のことは棚にあげて他人の見解にケチをつけ続けるような、いい歳こいてクソガキの類ばかりのこの職場で、
あなた方に苦言を呈することなく今日までやってきたのは、全くもってあなた方に対する憐みと、私自身に対するプロ意識でしかないのである。
まともな職場では一切通用しない、一意に定まらない曖昧な指示を無頓着に垂れ流しておきながら、その意図を解するための思考時間を取られる私に対して、
のろま・発達障害・格下といったレッテルを貼り付けてくる、狭隘な想像力と自己客観性しか持ち合わせない、昆虫のようなあなた方に対する憐みである。
もう十年以上も昔の話だ。
当時の俺は非モテで年齢=彼女なし、隙あらばレイ・ブラッドベリやJ・G・バラードについて語るオタクだった。
当然カーストは最底辺で、運動部のリア充やギャルとは関わりがなく、ろくに話すようなこともなかった。
俺はSさんのことが好きだった。
Sさんは陸上部に所属していて、性格も明るく、リア充グループの中でも目立つ存在だった。
同じクラスにも関わらず彼女と話したことは皆無で、気付かれないようにチラッと彼女のことを見ることぐらいが関の山だった。
同じ読書好きとして、共通の話題がある。その事実だけでも嬉しく、もしかして自分にもチャンスがあるかもしれない。そんなことを夢見ながら毎日悶々と過ごしていた。
そして事件は夏休みまで一週間を切った、ある日の放課後に起きた。俺は日直で、もう一人は部活があったために戸締まりは任されていた。だから最後に教室を出ると鍵を閉め、廊下を少し歩いたとき。
「増田くん」と声をかけられ、振り返るとSさんがいた。俺は驚き、立ち尽くしているとSさんは俺のところまでやってきて、遠慮気味に右手の手首辺りを掴んで「ちょっと来て」と俺を引っ張っていった。
廊下を少し歩き、次第にひと気がなくなって空き教室の前にまで来るとSさんは手を離して振り向いた。
急にごめん、とSさんは謝り、俺はどうしていいか分からず曖昧に返事した。
するとSさんが突然「私、増田くんのことが好きなの。だから付き合ってほしい」と言ってきた。
あまりの突然さに俺は驚愕し、訳が分からず、しどろもどろになってしまった。
その間もSさんは俺のことをじっと、目を逸らさずに見つめてきた。
俺は動転してしまって「明日、返事をしてもいい?」といった類いのことを言った。
一日考えるとか、そういうんじゃなくて、増田くんが今、どう思っているのか聞きたいの。
Sさんはそう言って俺の返答を待っている。
そうか。これはあれだ。例のやつだ。リア充が陰キャに対して行う例のやつ。告白した振りをして、それにマジになってる陰キャのリアクションを笑うやつ。
そう思うと全てに合点がいき、俺は反射的に「ごめん」と、そう口に出していた。
え…とSさんが驚いた表情を見せた。
俺は恐ろしくなって、すぐに体を翻して走り出した。笑われるのが恐くて、その場からすぐに逃げ出した。
それからは何もなかった。
翌日Sさんが話しかけてくるようなことはなく、こちらから話しかけるなんて出来なかった。
結局Sさんとは会話らしい会話を交わすこともなく、そのまま卒業してしまった。
今でも後悔している。
あのとき俺は"陰キャは悪戯で告白する"といった教養を持っていたからこそSさんの告白を断ってしまった。もし俺が無知で教養がなければあのときあの告白を何ら疑いもせずに受け入れていただろう。
俺は今でもたまに思う。夢にも見る。
もしあのとき、俺が彼女の告白を受け入れていたら、どうなっていたのかと。
俺はそのことを、実体験として知っているんだ。
科学的実在論の中核的主張は、成熟した科学理論が記述する観測不可能な実体や過程が実在するというものだ。この立場の具体的な論拠を詳細に検討する。
Putnam と Boyd によって提唱された無奇跡論法は、科学の予測的成功を説明する最良の方法は、理論が真理に近いと考えることだと主張する。
1. ニュートン力学では説明できなかった水星軌道の異常を、アインシュタインの一般相対性理論が高精度で予測した。
2. この予測成功は、時空の曲率という観測不可能な概念の実在性を示唆する。
1. 過去の成功理論(フロギストン説、エーテル理論など)が誤りだったことを指摘。
2. 理論の経験的成功と真理性の相関関係に疑問を投げかける。
Worrall によって提唱された構造実在論は、理論の数学的構造のみが実在を反映すると主張する。
具体例:Maxwell の電磁気学からEinstein の特殊相対性理論への移行
1. エーテルという実体は否定されたが、Maxwell 方程式の数学的構造は保持された。
2. この構造の連続性が、より深い実在の反映だと解釈できる。
発展:Ontic Structural Realism (Ladyman, French)
1. 物理的対象を関係の束として捉え、実体概念を完全に放棄。
2. 量子力学における粒子の非個体性や、一般相対性理論における点事象の背景独立性と整合的。
量子力学の解釈は、客観的現実の存在に関する議論の核心だ。主要な解釈とその含意を詳細に検討する。
Bohr と Heisenberg によって提唱されたこの解釈は、測定問題を中心に据える。
1. 波動関数の確率的解釈:|ψ|^2 は粒子の位置の確率密度を表す。
2. 補完性原理:粒子性と波動性は相補的な性質であり、同時に観測できない。
問題点:
Everett によって提唱されたこの解釈は、波動関数の客観的実在性を主張する。
1. 分岐する宇宙:測定のたびに宇宙が分岐し、全ての可能な測定結果が実現する。
2. 相対状態の形式主義:観測者の状態も波動関数の一部として扱う。
利点:
問題点:
Zeh と Zurek らによって発展したデコヒーレンス理論は、量子から古典への移行を説明する。
1. 環境との相互作用により、量子的重ね合わせが急速に古典的な混合状態に移行。
2. 選択された基底(ポインター基底)のみが安定して観測される。
含意:
情報を基礎とする物理学の構築は、客観的現実の本質に新たな視点を提供する。
Susskind と Maldacena による ER=EPR 対応は、量子エンタングルメントと時空の構造を結びつける。
1. Einstein-Rosen ブリッジ(ワームホール)と Einstein-Podolsky-Rosen 対(量子もつれ)の等価性を示唆。
2. 量子情報と時空構造の深い関係を示唆し、量子重力理論への新たなアプローチを提供。
1. ブラックホール内部の時空の成長が、量子回路の計算複雑性の増大と対応。
2. 時空そのものが、より基本的な量子情報処理から創発する可能性を示唆。
客観的現実の存在問題は、現代物理学の最先端の問題と密接に結びついている。量子力学の基礎的解釈、構造実在論、情報理論的アプローチなど、様々な視点からの探求が進んでいるが、決定的な答えは得られていない。
今後の研究の方向性としては、量子重力理論の完成、意識と物理的実在の関係の解明、そして情報理論と物理学の更なる融合が重要になるだろう。これらの進展により、客観的現実の本質に関する我々の理解が大きく変わる可能性がある。
現時点では、客観的現実の存在を単純に肯定または否定するのではなく、我々の認識と独立した実在の可能性を探求しつつ、同時に観測者の役割や情報の本質的重要性を考慮に入れた、より洗練された存在論的枠組みの構築が必要だ。
長子が来年18歳だが「育て上げた」という感慨を抱くことはこの先もないだろう。
どのように育つか観察しながら世話をしているというところだ。
それなりに大変だったのは確かだけど辛かったという記憶がまったくない。
自分はずっとフリーランスで在宅ワーク。妻はひとりめを妊娠してから産休に入ってそのまま退職、その後ずっと専業主婦である。
妻は働きたくないわけではないがフルタイムで働くのは疲れるから無理というタイプで、
自分は家族を裕福に養えるほど稼ぐ自信はないが妻が家でのんびりしてるとやる気が出るというタイプなので自然とそうなった。
基本的には自分は仕事、妻は家事育児をすることになっているが、仕事場が生活空間と一緒なので役割分担は曖昧である。
妻は常に自分が仕事してるところを見てるし、自分は妻が家事をしたりのんびりしたりしているところを見ながら仕事をしている。
学生時代付き合ってる頃からずっとそんな感じで、それが気楽に感じるような関係性ということだ。
妻は普段は料理も掃除も子供の世話もそつなくこなしているがたまに
突然1日中パジャマでゴロゴロしたりドラマを全話一気見したり趣味に熱中したりして何もしなくなる。
そうなると自分はにわかにやる気が湧いてきて、部屋を片付けたり料理したり子供を遊びに連れて行ったりする。これで大体うまく回っている。
両親とも家にずっといるというのは特殊なんだと思うが、二人家にいればこれで適当に回せるのである。
役割分担やルールを決めすぎるのはウチには向いていない。利他的動機づけというものが自分と妻にはデフォでインストールされているようだ。
一番大変だったのは、ひとりめが生まれて数年だった。夜泣きがすごく、寝てもすぐ起きる、寝かしつけも大変、毎日深夜におんぶして階段を何往復もした。でも若かったので二人なら体力と根性で乗り切れた。赤ちゃんを抱いている多幸感がすごくて辛いとは思わなかった。ただ同じことの繰り返しで面倒くさいとは思った。今日に至るまで、育児とはほとんどが同じことの繰り返しである。
子供の頃、母親の友人が生まれたばかりの赤ちゃんを連れてきたことがあった。目の前に寝かされた赤ちゃんを見て胸の奥から湧いてくる切ないような愛しさを感じて、手を握って飽きずに1時間ぐらい赤ちゃんの表情を見ていた。赤ちゃんが帰った後、何度も自分に弟や子供が生まれる夢を見て、目覚めてから自分には赤ちゃんがいない現実が寂しくて泣いていた。
一人目の赤ちゃんが生まれた時、あの時と同じ切ない愛しさが胸に満ちて、涙が出るほど嬉しかった。あの多幸感を思い出すだけで大体のことは乗り切れそうだなと思う。自分には赤ちゃんと接する才能があったのかもしれないと思う。赤ちゃんの表情を見ているだけで、勝手に感情移入してしまい、何をしたいのか、何をして欲しいのか読み取ってしまうのだ。こうして赤ちゃんは常に甘えたいのはママ、遊びたいのはパパ、という関係性で楽しくかつ面倒くさい関係を築いてこれた。
ふたりめが生まれた時、勝手に寝て一人で遊ぶ子で、一人目と比べて楽すぎて拍子抜けした。これなら人数増えてもいけそうだね、と新たな赤ちゃん見たさに3人目も作ってしまった。3人目でも赤ちゃんは可愛かった。自分は3人生まれた時にもうやめとこうと決意したが、やっぱりもう一人ぐらい赤ちゃんを見たいと妻が言ったとき、決意を翻して本当に良かった。
4人目の赤ちゃんが生まれた時が多幸感のピークだった。あまりに幸せなお産すぎて「こんないいお産があるんですね」と助産師さんも感動していた。
そしていままさに毎日面倒くさい子育てに直面している。仕事が忙しいのに夏休みで4人もの子供たちが家にいるのである。何度今忙しいからダメと言っても幼児が膝に乗ってくるのである。
膝に乗ってくるのもあと数年、シャットアウトするのは忍びないという思いが仕事を遅らせ、本当に困っている。
赤ちゃんの頃一番楽だった二人目は思春期で今一番苦労している。絵を描いたから見てくれ、本を読んでくれ、自転車に乗れるようになったから見てくれ、カードゲームを一緒にやってくれ、一緒に自転車でスーパーに行こう、夏休みの課題をやってない、朝起きれない、夜寝ない、テスト勉強だ、塾の送り迎えだ、受験だ、進路を決めなきゃいけない、本当に面倒くさい。他人と関わるのが苦手だった自分が、妻を含め、5人もの人間と濃密に関わる人生になるとは思っていなかった。
宮崎駿が言う通り、人生において大事なことは全て面倒くさいのである。
育てているつもりはない。濃密に関わりながら、育っていく様子を観察しているだけである。
1. 「独身の同年代の知り合いが余暇を自分と同じように過ごしている」という観察から「独身のメリットがなさそう」という観察を引き出しているように見えます。あなたは、何人に聞いたのかは分かりませんが(文の感じからすると一人のように読めますが)、知り合いの生活スタイルを聞き、そこから独身一般に対する知見を引き出している。これはかなり乱暴です。少し落ち着いて考えればわかることですが、アラフィフの独身は国内だけでもかなりの数いて、多様な生活スタイルが間違いなく存在します。
2. 現在の余暇の過ごし方が同一だから、相手と自分は同じ「位置」にあるという考えもよく分かりません。そもそも「20年アド取ってて同じ位置ってどうなの?」の「位置」が何を指すのかがよくわかりませんが、文の感じから推測してみるに、独身の有り余る時間と金でディープでマニアックな趣味を深められたはずなのにそれをしていないのはしょうもないみたいなニュアンスではないかと思います。これについては二点。
一点目は当たり前のことながら、余暇の過ごし方で人は決定づけられるものではありません。例えば週末にゴルフをして過ごす中年男性は、趣味レベルの実力しかない人に限っても多数いると思いますが、全員をひとまとめに類型化できるほど一様な集団ではないことは明らかです。また人にとって、余暇以外の部分(大抵は家事・仕事)も人生の重要なパートであり、そこに強いやりがいや充実を感じている場合もあるはずです。だから余暇の過ごし方の種類で人の「位置」を決めるのは粗雑です。
二点目は、これまた明らかなことですが、現在の余暇の過ごし方が同一だからといってこれまでの余暇の過ごし方が同一とは限りません。知り合いの独身が現在、あなたのようなありふれた余暇を過ごしているとしても、それはずっとそうだったことを意味しません。というか、普通、誰でも過去には熱狂的にハマっていたが、今はそうでもない趣味をもっているものです。だから、現在の余暇の過ごし方で人の「位置」を決めるのはかなり雑です。特にアラフィフなら、体力の低下で、余暇の過ごし方が穏やかなものに変わるのも自然なことです。
3. 他にも色々言いたいことはありますが、ここでやめておきます。ともかく、独身者というのは多様な生活スタイルをもつ人々の集まりなのだから、全体に対して言えるメリットなんて、既婚者に比べて時間や金の自由がききやすいとか、そういうありふれたことしかないと思いますし、そんなことはあなたもわかっているでしょう。
なのに、知り合いの話を無理に一般化し、「位置」とかいう曖昧な基準を持ち出して独身全体を小馬鹿にしている。さらには「独身のメリットって何? 」と質問を装っていつでも逃げられるようにさえしている。あなたは独身を小馬鹿にする文章を書いた。それだけは自覚してください。
発達障害者が、自称健常者らに勝手にレッテルを貼られてそれによって「救済」されたことにされたり、その独自に育んできたコミュニケーションを「矯正」されたりしてきたことに対して怒りを感じている。
だが、発達障害者に行われてきたことは、自称健常者・日本国民の下層の人々にも降りかかるだろうということも常々言ってきた。
過去これまでの氷河期叩きもそうだし、子ども部屋おじさんおばさんもそうだし、「ケーキの切れない~」もそうだ。何か曖昧な社会不安が起きるたびに、この社会は生贄を生み出してきた。
間違ってはいけないのは、「明確な原因→解決しよう」ではなく「曖昧な不安→あいつらがキモイ!あいつらが原因」ということだ。
俺は発達障害者やアスペルガーと指さされた人々に対して、「キモくて何が悪い。怒れ」と度々言い続けてきた。
https://anond.hatelabo.jp/20230318052208
「加齢の現実を理解していない」とか「おじさんおばさんは自分の年齢の責任を理解して」とか、そんなことばに従う必要はない。
ネット上では薄っぺらいルッキズムやエイジズムの批判が行われ、そして同じ口でおっさんやおばさんという言葉が悪口として使われる。
俺は堂々とエイジズムを批判する。55歳のおっさんが22歳のように振舞って何が悪いんだ?47歳のおばさんが16歳のように振舞って何が悪いんだ?
だが、それを具体的にどう擁護すればいいだろうか。発達障害者のそれと同様に身近にやっていくしかない。
俺も、飲み会で、まるで大学生みたいにはしゃぐおっさん(物書き)と、それに対する周囲の視線を見た事がある。そして俺はおっさんが孤立しない様に、同様にはしゃいだ。気持ちが良かった。
そもそも「成長」だとか「(曖昧な・出自や年齢にしか紐づけられない)責任」という概念自体を徹底的に疑え。少なくとも障害者の運動はそれをやってきた。
もしかしたら「キモい」おっさん・おばさんと、発達障害者の権利はいつかぶつかるかもしれないが、そんなことは関係ない。それはその時だ。
(黒人奴隷を解放するときに「いつか黒人が白人と衝突するかもしれない」なんて考えるバカは大勢いただろうが、解放は進んだだろ)
キモイキモイと意識し続けて、それで最後に誰が生き残るんだ?キモイキモイと言い続けてきた結果が今の閉塞感だろ?じゃあどうすればいい?
キモくて何が悪い。みんなキモいんだよ。上の記事の繰り返しになるけど、キモくていいんだよ。むしろ、「自分のコミュニケーションや生活はキモくありません」と思い込んでる方がキモいんだって言ったれよ。俺もお前もキモいんだって。
空気読んで人をいじめる本末転倒な社会を構成してる空気読みのお前らも病気だって。
そう言い切って、はじめて、エイジズムやルッキズムはぶち壊せる。
みんなも、「年齢にふさわしくない、キモいおっさん、おばさん」を見た時、自由を感じろ。これでいいんだって。それが過去と将来のお前を救う。それを広げていく。頑張ろうぜ。
タイトルの通りで、自分は病院に勤務している いちコメディカル。
新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)のクラスターも何度か経験し、その感染力であるとか、自身もコロナ感染症にかかってしんどかったので、コロナの怖さ自体を否定するつもりはない。
ただ、「一体いつまで今の対応が続くのだろう」「もう良い加減よくないですか?」と思うところが正直なところある。
病棟にコロナ陽性者のいない日々の業務もN95という息苦しいマスクを装備して行うのだが、もうこれは一旦置いといて、自分が不満に感じていることのひとつとして「面会の制限」について書きたい。
・小学生以下は面会不可。
自分のところが特に厳しいのかと思ったが、友人の職場や、行く機会のあったいくつかの病院も時間が少し長めであったりはしたけれど、大きくは変わらない条件だった。
とくに「小学生以下は面会不可」というところが非常に引っかかる。「以下」だ。ようは12歳までは面会ができない。
これは60〜70代くらいの入院患者の孫であるとか、若い患者であれば我が子との面会が叶わない可能性があるということだ。
このくらいの歳の子は、じいじばあばが好きだという子は少なくないと思うし、親であれば尚更その存在は大きいだろう。患者サイドから見てもそうではないだろうか。
自分の病院では主治医の許可がおりた場合に、もろもろの制限が解除されて面会が可能になるのだが、これはもう本人が危篤で意識も曖昧な状態になっていることがほとんどだ。情けの面会みたいなもの。
このタイミングでやっと会えることにどれだけの意味があるのか?
大人ならまだその最期の時間に意味を見出せるかもしれないが…。
なぜ患者とその家族は制限されまくっているのか、わからずにいる。
自分たち職員は感染に対して意識が高く、常に予防策をとって生活しているかというとそんなことはない。
病棟での飲み会は未だにやっていないが、こんなのポーズだけで、外食だっていくし、県内外問わず遊びにだって行っている。
患者は入院時に検査をされ、そのあとは全くといっていいほど外部との接触がなくなる。
院内でコロナ陽性者が出るとしたら、はじまりは職員であることが多いであろうし、実際ここ最近は職員の陽性ばかりだ。
この面会の制限はなんなんだろう。
一体いつまで続くのだろう。
もちろん誰かが感染してしまった場合にその人のことはどうなるんだという側面もあるけれど、自分の家族で想像した時に、現状は本当につらいなと。
ある日突然入院になり、そのまま会って話をすることもできないままお別れになる可能性もあるのだから。
正直なところ、自分がその立場になるまでは「決まりだから」くらいの気持ちで対応していた。
しかし妻が体調不良で入院となり、その間2歳の息子はママとスマホの画面越しで会うことしかできなかった。
加えて自分の母親が入院し、医師から「いつ急変してもおかしくない」と言われたが、入院中は孫と会わせてあげることができなかった。(今回は無事退院できた)