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2024-08-30

科学的実在論検討

科学的実在論の中核的主張は、成熟した科学理論記述する観測不可能実体過程実在するというものだ。この立場の具体的な論拠を詳細に検討する。

奇跡論法精緻

Putnam と Boyd によって提唱された無奇跡論法は、科学予測成功説明する最良の方法は、理論が真理に近いと考えることだと主張する。

具体例:一般相対性理論による水星の近日点移動の予測

1. ニュートン力学では説明できなかった水星軌道の異常を、アインシュタイン一般相対性理論が高精度で予測した。

2. この予測成功は、時空の曲率という観測不可能概念実在性を示唆する。

批判:Laudan の悲観的帰納法

1. 過去成功理論フロギストン説エーテル理論など)が誤りだったことを指摘。

2. 理論経験成功と真理性の相関関係に疑問を投げかける。

構造実在論の発展

Worrall によって提唱された構造実在論は、理論数学構造のみが実在を反映すると主張する。

具体例:Maxwell電磁気学からEinstein特殊相対性理論への移行

1. エーテルという実体否定されたが、Maxwell 方程式数学構造は保持された。

2. この構造連続性が、より深い実在の反映だと解釈できる。

発展:Ontic Structural Realism (Ladyman, French)

1. 物理対象関係の束として捉え、実体概念を完全に放棄

2. 量子力学における粒子の非個体性や、一般相対性理論における点事象の背景独立性と整合的。

量子力学解釈問題の深掘り

量子力学解釈は、客観的現実存在に関する議論の核心だ。主要な解釈とその含意を詳細に検討する。

コペンハーゲン解釈再考

Bohr と Heisenberg によって提唱されたこ解釈は、測定問題を中心に据える。

1. 波動関数確率解釈:|ψ|^2 は粒子の位置確率密度を表す。

2. 補完性原理:粒子性と波動性は相補的な性質であり、同時に観測できない。

問題点:

多世界解釈の詳細

Everett によって提唱されたこ解釈は、波動関数客観的実在性を主張する。

1. 分岐する宇宙:測定のたびに宇宙分岐し、全ての可能な測定結果が実現する。

2. 相対状態形式主義観測者の状態波動関数の一部として扱う。

利点:

問題点:

デコヒーレンス理論重要

Zeh と Zurek らによって発展したデコヒーレンス理論は、量子から古典への移行を説明する。

1. 環境との相互作用により、量子的重ね合わせが急速に古典的な混合状態に移行。

2. 選択された基底(ポインター基底)のみが安定して観測される。

含意:

情報理論アプローチの最新の展開

情報を基礎とする物理学の構築は、客観的現実本質に新たな視点提供する。

量子情報理論ER=EPR 対応

Susskind と Maldacena による ER=EPR 対応は、量子エンタングルメントと時空の構造を結びつける。

1. Einstein-Rosen ブリッジワームホール)と Einstein-Podolsky-Rosen 対(量子もつれ)の等価性を示唆

2. 量子情報と時空構造の深い関係示唆し、量子重力理論への新たなアプローチ提供

計算複雑性と時空の創発

Susskind らによる計算複雑性と時空の関係研究

1. ブラックホール内部の時空の成長が、量子回路の計算複雑性の増大と対応

2. 時空そのものが、より基本的な量子情報処理から創発する可能性を示唆

結論

客観的現実存在問題は、現代物理学の最先端問題と密接に結びついている。量子力学の基礎的解釈構造実在論、情報理論アプローチなど、様々な視点からの探求が進んでいるが、決定的な答えは得られていない。

今後の研究方向性としては、量子重力理論の完成、意識物理実在関係の解明、そして情報理論物理学の更なる融合が重要になるだろう。これらの進展により、客観的現実本質に関する我々の理解が大きく変わる可能性がある。

現時点では、客観的現実存在を単純に肯定または否定するのではなく、我々の認識独立した実在可能性を探求しつつ、同時に観測者の役割情報本質重要性を考慮に入れた、より洗練された存在論的枠組みの構築が必要だ。

2024-08-26

経済学の未解決問題

以下は経済学における未解決問題リストである。これらの問題の一部は理論起源を持ち、一部は正統派経済理論経験的観察を説明できないことに関するものである

資本理論

ケンブリッジ資本論争

1950年代に始まった経済学における論争である資本財の性質役割、および集計的生産と分配に関する新古典派見解への批判が争点となった。自然成長率が外生的か内生的かという問題が論争の核心にある。この論争の決着については経済学者の間で合意が得られていない。

転形問題

マルクス経済学特有問題で、社会的必要労働時間に基づく商品価値市場競争価格に変換する一般的規則を見出すことである本質的な難しさは、直接労働投入から剰余価値の形での利潤と、商品間で大きく異なる直接労働投入と資本投入の比率を、全投下資本に対する平均利潤率の傾向と調和させることにある。

行動経済学

顕示選好

消費者がすべての選択肢を購入できる場合、顕示選好理論は本当に消費者の選好を明らかにするのか。例えば、消費者が3つの商品を購入できる場合、AからCへ、そしてBへと購入順序が変わっても、これは消費者の選好がA > C > Bであることを示唆するのか。

タトヌマン

一般均衡理論の定式化において、タトヌマン試行錯誤)が重要役割を果たす。初期契約が均衡をもたらさな場合、それは終了し、新しい契約策定される。初期契約が解除されない場合、元のプロセスの誤差の程度に応じて、異なる価格セットにつながる可能性がある。

人間バイアス統一モデル

行動経済学研究により、人々が認知バイアスの影響を受けることが明らかになった。これらのバイアス経済モデルに組み込む統一的なモデルはまだ見られていない。

金融経済

株式プレミアムパズル

過去100年ほどの間、米国株式の平均実質リターンが債券のそれを大幅に上回っている理由説明することが課題となっている。

配当パズル

配当を支払う企業投資家から高い評価を受ける傾向がある現象説明が求められている。

改良されたブラックショールモデルバイノミアル・オプション価格モデル

これらのモデルには多くの重要制限があり、特に歴史的市場の動きを考慮できないことや、オプション過大評価する傾向がある。

国際経済学

貿易における自国バイアスパズル

国内地域間貿易が、法的障壁がない場合でも、異なる国の地域間貿易よりも実質的に大きいという観察結果を説明するフレームワーク現在存在しない。

株式自国バイアスパズル

多くの国の個人機関が、グローバル経済ポートフォリオを大幅に分散させる能力があるにもかかわらず、外国株式わずしか保有していないという観察結果の説明が求められている。

バッカスキーホー・キドランドパズル

消費が産出よりも国家間で相関が低いという経験的観察を説明することが課題となっている。

フェルドシュタインホリオカパズル

OECD諸国において、長期的な国民貯蓄率の平均が国内投資率の平均と高い相関関係にあるという観察結果の説明が求められている。

PPPパズル

実質為替レートが多くのモデル示唆するよりも変動性が高く、持続性があるという観察結果を説明することが課題となっている。

為替レート切断パズル

為替レートと経済の他の部分との間の短期的なフィードバックリンクが弱いことを説明することが求められている。

経済人類学

形式主義実体主義論争

新古典派経済モデル普遍的妥当性に関する論争が続いている。形式主義者は適切な修正を加えれば任意社会適用できると主張するが、批判者は合理的選択効用最大化の普遍性に疑問を呈している。

2024-08-22

anond:20240822212726

形式主義の人は、すぐ極端な結論に走ります

考えてみてください、10個書くようにしたらどうなるか

ハードルが上がりすぎて、書く人が大変になりますよね

3大と言ったら3つ書く、これが一番いいバランスなんです

anond:20240822212135

2つ書くのと、3つ書くのなら3つ書く方がいいよね、という実利主義に基づいているからです

たまにあなたのような形式主義の人が怒っています

2024-07-30

anond:20240713065055

しろ最初から信頼もしてないし永続的関係を望んでるわけでもない、きわめてドライ関係なんでしょ

ポリアモリーというより実情は抜きにして婚姻関係という契約だけは守る形式主義のほうが近い

2024-07-18

ZFCの哲学

ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学モデル理論証明論にまで及ぶ。

ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラス概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。

ZFCの哲学重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理適用可能となり、モデル理論手法を用いた相対的矛盾証明可能になる。特にゲーデルのL構造構成可能全体)とコーエン強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的役割を果たす。

ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲ論理主義崩壊後の数学基礎論の再構築において重要役割を果たした。置換図式は、ラッセルパラドックス回避しつつ、十分な数学対象存在保証する。

選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジーベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成性質は、直観主義数学構成数学との緊張関係を生む。

ZFCの哲学は、大規模基数公理研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学宇宙階層構造示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈可能である

ゲーデル不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラム限界を明らかにした。

ZFCの哲学的含意は、数学構造主義との関連でも重要であるブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学構造定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチ提供し、トポス概念を通じて数学宇宙多様性示唆する。

内部モデル理論特にゲーデルのL構造研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説一般連続体仮説肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在否定する。これは、数学宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。

結論として、ZFCの哲学は、数学存在論認識論真理論交差点位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学計算理論量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学探究は、数学知識本質限界に関する我々の理解を深化させ、数学哲学境界を絶えず再定義しているのである

2024-05-21

anond:20240521192645

7000〜8000万ぐらいの物件を頭金入れて買うかってところだと思う。

頭金なんて入れる意味ないぞ。金利が上がったときの繰上げ返済に使う方が遥かにマシ(それすらやるべきでないと思うけど)。

なんかなあ全体的に形式主義っていうか、誰かが言ってる不安をそのまま持ってきて誰かがやってる通りに怖がってるって感じがするんだよなあ。

陳腐な言い方をすると自分の頭で考えてない感じっていうか。

毎日外食とか家事代行とか私が働けなくなったらとか、全ての論点がみんなが言ってる標準的論点って感じなんだよな。

「頭金」だってなんかどっかで「頭金は入れた方がいい」って聞き齧ったんでしょ?って感じ。

2024-02-17

anond:20240216124331

まず

>ユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」

ではなくね?

他の用語なり論法なりは数学上で数学的には無矛盾で厳密で一意だろ

別に直観主義なり形式主義なりを持ち出さなくとも

「本当に厳密」は例えば幾何学で直線を扱うとき必要でないから扱わない。で解決する

「本当に厳密」に拘るなら数学は「本当に厳密」ではないでいいんじゃね?

「本当に厳密」なもの論理的には存在しないから展開せず意味がないけど。

数学を一番に置きたい人種数学の厳密性が高いってのは相対的な話であって絶対的な話じゃないだろ

2024-02-16

anond:20240216124331

哲学など数学以外のことは専門外のため, あくま数学に関することだけ言及させていただきます.

ユークリッド幾何学言及されているように数学歴史紀元前まで遡りますが, 数学形式化が意識され始めたのは1900年代以降と最近の話です. 主にヒルベルトによって主導されたものだと私は理解しています. (もちろん多くの数学者がこのプログラムに関わってきました. ) 数学形式化や形式主義で調べると参考になると思います.

数学的な内容に関して言及したいことは多くありますが, かいつまんで述べさせていただきます.

(あくまでこれは元の記事が間違っているなどと主張しているわけではないです. 現代数学の考え方や雰囲気の一部を分かっていただければ幸いです. )

現代形式化された数学原理的には決められたルール(公理と推論規則)を用いて行われる一連の手続きです. それらの「意味」が何かは一旦全て忘れてください. ここで公理とはあらかじめ定められた記号列で, 推論規則はいくつかの文字列を用いて新しい文字列を生み出す操作です, 例えば文字列A→BとAが与えられたとき文字列Bを得る操作があります. 定理(数学命題)とはこの操作によって生み出される文字列です. これらの操作数学における証明形式的に記述したものになっています. 論理式などもこの形式化のもとで特定の条件を満たす文字列として定義されます. 例えば論理式Pの否定は¬Pという文字列です. (ここでは否定を表すための記号として¬という文字列を用いています. )

ここまで文字列だけを考えた形式的なものですが, 構造モデルを使うことによってこれらの文字列解釈する(つまり意味を与える)ことができます. (詳細は省きます. ) 構造モデルを定めることによって論理式の意味が一意的に定まります. またそれらの取り方を変えることによって意味が変わることもあります.

これの考え方によって(数学的な)意味形式から分離されています. さらに気になる場合ゲーデルの完全性定理などを見てください.

そして適切な公理と推論規則を定めることにより数学のもの形式的に扱うことできます. その適切な公理はツェルメロ-フレンケル集合論(ZFC)と呼ばれており, 現在数学者はこのZFCを用いて数学をしています. (一部, 圏論などでZFCに収まらない議論があると聞きますが, それらもZFCの適切な拡張を考えることで解決できます. )

まり, これまでに書かれた数学証明などは全てこのZFCを用いることで文字列操作に書き換えることができます.

一方で数学論文普段言葉(自然言語)を使って書かれます. これは本当に全て文字列に書き換えることをした場合, 可読性が著しく落ち, また分量も膨大になるため人が読めないためです. しか証明自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています. そしてこれは理論的には可能であり, 数学の厳密性を担保しています.

定義の一意性」に関してですが私自身が元記事の要点を完全に理解しているわけではないのですが, 数学に関していうとある数学概念定義複数あることはよくあります. もちろんその複数ある定義同値であることを証明されなければなりません. ここで同値というのはある数学対象A定義Pと定義Qで与えられていた時に, 「Aが定義Pを満たすならば, 定義Qを満たす. またAが定義Qを満たすならば定義Pを満たす. 」ということです. 実際に使う際には用途に合った定義を用いることになります. それらは同値なのでどれを選んでも問題ないです.

以上がざっくりとした形式化された数学に関してです. 参考になれば幸いです.

追記: これは筆者個人の考えですが, 数学哲学議論はしっかりと分離してなされるべきだと考えています. もちろん相互交流はなされるべきですが, 両者を混同するのは誤解や誤りの原因になると思います.

2024-02-02

本邦の“女流ジャーナリスト草分けと言えるであろう上坂冬子は、かつて著書の中で原発について

我が国の優秀な専門家の方々がしっかりやってくれているのだから素人文句をつけるべきでない」という旨の主張をした。

まあ、よくある素朴な反・反体制言論である

ところで氏は東日本大震災の少し前に世を去っている。ほんの少しだけ長生きしていただきたかたこである

野次馬の声を押さえつけることなどできないしするべきではないが、それにしても野次馬の声のボリュームが(テクノロジーによって)大きくなりすぎている。

野次馬と一緒にリアルタイムでワーワー相談しながら進められることなどない。当局者は萎縮して右顧左眄し、一貫性を手放し、アリバイ的な形式主義に陥る。弊害しかない。

まあ、ツイッターのX化が一つの曲がり角かな。

中立的社会インフラになりかけてたのが、一気に2ちゃんねる的なモノに戻っていった。

野次馬はそういうサンドボックス内で好きなだけ騒いでなさい、実務は密室で進めておくからという体制が固まりつつある。

いま「権力は信用ならない、文春砲民衆武器だ」と、スキャンダルによる私刑に期待と支持が集まっている。

それはしか俯瞰的に見れば「うまく砂場誘導されている図」であると思う。

世界的な「法秩序より正義を」の動き、デマの物量戦、情報蝗害、インプレゾンビ

とりあえずメモまで

2023-06-30

anond:20230630132715

インド系ソフトベンダーサポートしてるけど、もっと酷いことになるよ。他責思考と縦割りと形式主義場合によっては職制や指揮系統破りのカーストマウントに突っ走るから

ラサバなシステムで、サーバーが500吐いて機能全損クライアントソフトだけでなくWeb画面も開けず、自社内からアクセスできない、みたいな重大障害の時ですら、「開発が決めたルールに従え」と、クライアント側のWindowsイベントログとかまで要求して、揃うまで調査開始しないなんてザラにある。

2023-03-14

anond:20230314003859

その種の形式主義に陥ったらオワットルと思ってるのであまり真似したくはないな

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2021-11-30

まさにお前が言うな案件。完全なる上級老害。福沢諭吉の大学の一派と同じ

組織代表職業人として世の中へ意見思想を発表・共有する、ビジネスで使うのであればバックグラウンドの開示は必要ですが

プライベート活動と称しながら聞いてもいない所属職業を積極公開してる人たちっていますよね?

まぁ貴方ことなんですけど茂木健一郎先生😥

 

一般的社会人組織不利益を与えぬため、TwitterのようなSNS私事の発信で所属組織職業の開示はしません

外資などでは明示的にHR禁止されている場合があります

 

茂木先生事件関係ないバックグラウンドを公開するのは何故?と思ってらっしゃるように

少なからぬ人たちが、大学教授や一部の国政関係者などの不必要バックグラウンドの開示に疑問を感じています

本来Twitterバックボーン必要としない気分を共有をするツールです

わざわざ職業所属名乗らずとも気分はつぶやけますよね?なぜわざわざ公開するのですか?それを見て何を思って欲しいのですか?

そしてそれをありがたがってフォローする人たち(おそらく先生の本読んじゃいない)に対しても同じ疑問を感じています

 

ここまで書けばフツーは言わんとしていることは伝わると思いますが、

世の中には嫌味の通じない人たちがいるので一応最後まで書いておきます

 

事件などの被害者の方を報じるときに、いちいち職業を伝えるのもなぞの奇習。その方の人生と、その職業関係ないと思う。新聞に限らず、日本メディアは実質を考えずに思考停止形式主義が目立つ。どうせかわらないと諦めているから書くことも減ったが、鬼束ちひろさんの件で久しぶりに思い出した。

午前7:25 · 2021年11月29日·Twitter Web App

https://twitter.com/kenichiromogi/status/1465084445623414789?s=21

 

日本メディアは実質を考えずに思考停止形式主義が目立つ

 

いいえ。"権威主義パーソナリティ"の誤りです。マスメディア限定した話ではなく、茂木健一郎先生自身・そのフォロワー含めて、です

 

事件などの被害者の方を報じるとき
鬼束ちひろさん

 

鬼束ちひろ氏は救急車を蹴飛ばした件に関しては被害者ではなく加害者です

  

 

▼関連増田:
- 茂木健一郎先生DaiGo氏と仲良しなばかりか古市憲寿氏とも仲良し。茂木先生脳科学に対する姿勢職業倫理はひかめえめに言ってもかなり疑わしい(anond:20210825091159)
- 福沢諭吉が1万円札で無くなって心底良かったと思う (anond:20210911095702)

2021-06-08

コインポケットいらん

コインポケットというのかな?

ポケットの中についてるポケットみたいなの。

あの中に車の鍵がはまり込んで取りにくくなることが多くて邪魔

服というのは形式主義的なところがおおくて

お約束を外せないのはわかるのだけど

今の時代となってはコインポケット不要だろ?

無くして欲しい。

2021-04-29

著作権にも登記簿必要だと思う

売られているグッズには必ず著作権表示をつけないといけないくらい徹底されているのに、

積極的に売られなくなった作品著作権権利者にすら省みられなくなってしまう。

権利者の所在が分からなくなった著作物孤児著作物というけれど、

そういったものが産まれ根本的な原因は著作権という権利が無形式主義に基づく権利

まりその著作物が生まれたら自動的自然発生する権利であるからなんだよな。

企業解散、もしくは権利者の死亡で上手く著作権譲渡されなかった著作権本来消滅するのだけれど、

本当に譲渡されなかったかどうかを確かめる術はあまりにも少ない。

権利者が生きているのか死んでいるのかすらわからないこともある。

そういった理由で宙に浮いたまま誰が著作権を持っているのか分からなくなってしまった孤児著作物が世の中にはたくさんある。

 

日本を含めたいくつかの国には一応裁定制度という「ちゃんと探したけれど権利者がどこにいるのかわからなかったらつかってもいいよ」という仕組みがあるけれど

利用された例はまだ多くない(ファミコンミニジャンプに収録された北斗の拳とかヤマジュンパーフェクトのような使用例はあるんだけど)しその上

裁定制度根拠ベルヌ条約途上国向けの附属書に書かれている強制許諾という仕組みなのでそもそも先進国では条約違反なのではないかという声すらあるという。

 

著作権がどうなっているのか、

孤児著作物を減らすにはそういう風にして誰がどの版権を持っているかという情報を公にしていくしかないと思うんだよなあ・・・

もちろん無形式主義は維持しつつ、著作権著作者の手から離れたり著作者以外に利用されたりする時には登記義務づけるようにして

それが正しく行われず権利者が分からなくなったら強制的にパブリックドメインにするというのは何か問題あるかな

2020-09-22

騙されやすい人が多い

オレもたぶん増田から見たらはてサの一員だと思うんで、いっちょかみしていい?

あのさー。そもそもあの弁護士センセの話は、「ダイバーシティ尊重イコール制服否定」という例から始まっているけど、たとえば「制服」によって同列に並べることで初めて個々の違いを尊重できるというケースもあるのだから(たとえば身分制社会においては、貧富の差を感じさせないことで各自社会階層に固定せず多様な性質の発露が期待できる)、制服イコール画一主義という発想があまりに単純でおかしいのね。従って、この人は極めて単純で形式主義的なダイバーシティ尊重の話をしている(あるいは堀弁護士そもそも形式主義的なもととしてしかダイバーシティ理解していない)ということになる。

その前提の下で「多様性ダイバーシティ尊重という主張は形式主義的だ」「本当に大切なのは個性尊重だ」とか結論付られても、それは「アナタ定義デハソウデスネ…」としかいいようがない。その「あなた定義」がそもそもおかしいので、話にならないんだわ。つまりこれは典型的案山子論法だってこと。「自己の考えたおかしな主張」を引っ張り出し、実在ならぬ「案山子」を相手勝負を仕掛けて「お前はここがおかしい!」とドヤって勝利宣言。そりゃ勝ったように見えるよ。だって相手案山子もの

こういうお話を真面目に相手するやつがいると思わなかったので、今回の弁護士記事はさくっとスルーしたよ。けど、案外騙されやすい人も多いもんなんやなって。

あんなんスルー対象ですよ? 相手してるのは論理的思考力が少々不足してる人だけ。

anond:20200921113551

2020-06-14

anond:20200614175002

そうかねえ

膝でもついとけって悪しき形式主義が出来たと思ってる

やってる感出してるパフォーマンスじゃないの

2020-05-28

こんな御時世ですから

黒澤明「生きる」を是非ご覧になって頂きたい

市役所市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民陳情市役所市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。

ある日、渡辺体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分人生意味を見失った渡辺は、市役所無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコダンスホールストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。

その翌日、渡辺市役所を辞めて玩具会社工場作業員転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。

それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザから脅迫にも屈せず、ついに住民要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園ブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。

通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。

2019-11-06

有識者会議」の思い出

大学入試英語民間試験導入の経緯で「有識者会議」の議事録がないとか話題になっている。本来それがないはずはない。形式主義のお役所で基本中の基本である議事録をつくらないわけはないので、実際には存在する議事録を「いや、それは職員メモで…」みたいな言い訳をするつもりなのだろう。実際、決済者のハンコがないとかなんとかで、正式議事録扱いにはなっていないのかもしれない。ただ、それはお役所の内部の手続きだけの話であって、記録を残さないような杜撰なことは役人はしない。

それはともかく、この「有識者会議」、だれがよばれるんだろうと思う人がいるかもしれない。大学教授なんかは、想像がつきやすいだろう。私も身内にそういうのが一人いるが、深刻ぶった顔をして、いそいそと出かけていく。その話は後でするかもしれない。

ただ、そういう「学識」系の人ばかりがよばれるわけではない。「学識経験者」の後ろ、「経験者」の方は、かなり広範な対象から選ばれる。選ぶのは役人だ。彼らの基準がどうなっているのか知らないが、たぶん、影響のありそうなところから文句が出ないように、バランスを考えて選ぶのだろう。民主主義でもなんでもない。彼らのアンテナの感度が悪ければトンチンカンな人選にもなるし、あるいは政治的圧力が入りやすいところでもあるだろう(たぶん)。

そうこういう私も、なぜだか「学識経験者」の端くれとして、ある会議によばれたことがある。さすがに国の省庁レベル会議ではない。もっと末端の、県庁レベル政策を決めるための会議だ。実は、「経験者」枠だとこういう会議によばれることは決して珍しいことではないらしい。というのは、後になってある団体非正規雇用で安い報酬である事務所に詰めていたとき、隣の席の私同様に冴えないおっさんが、やっぱり彼の専門分野で(確か電気系の技術職をどっかの会社でやっていたはずだ)何かの有識者会議によばれたことがあると話していた。だから、これを読んでいるそこらのおっさん、おばさんであるあなたも、県レベルくらいならある日突然に会議に招かれることがあるかもしれない。

ともかくも、私がそういう場によばれたのはもう16、7年も前のことだ。ずいぶん古い話になってしまったが、お役所仕事はどうも驚くほど進化しないようなので、雰囲気はたいして変わらんだろう。いろいろあってちょっと欝気味で引きこもり気味だった私のところに電話があって、確か日当1万円ぐらいだったと思うが、3回連続会議に出てくれと言われた。ちなみに内容まで言うといろいろアレなので言わないのだが、なんで私に声がかかったかと言うと、それはその頃、私があるメディア事務仕事をやっていたからだ。ちょっとちがうかもしれないが、保育園問題検討するのに匿名日記サーバー管理者に声がかかったようなイメージももってもらえればいいんじゃないかと思う。もちろん私は「もっと適切な人がいますから」と断わったのだが、こちらが別の人を紹介するつもりで話しているうちに、いつの間にか役所担当者丸めまれしまった。このあたりの詭弁は、なかなかたいしたものだ。

で、会議の方だけれど、確か「学識」側が3人、「経験者」側が3人くらいだったように思う。私以外はみんな顔なじみらしく(「経験者」枠の1人は私同様だったかもしれないが、学者同士は同じムラ社会をつくってるようだった)、私はけっこう居心地がよくなかった。広い会議室に、基本はその「有識者」たちが討論をするのだが、事務方が何人か座って(一応、「議長」は有識者から互選するのだけれど)、議事進行をつとめた。驚くのは、その会議室の後ろ半分には役人たちがたぶん20人くらいはいたと思うが、ずらりと傍聴している。もちろん書記方もいる。なんやかんやで、四方を取り囲まれたようななかで、会議ははじまる。

手元には、分厚い資料コピーがある。そのコピーに記された議題通りに議事は進行する。頭のいい役人がつくったのだろう、実によくできている。よくできているというのは、もう結論がわかりきったようなことしか書いていない。「皆様はどうお考えですか」と議長に言われても、「いや、そりゃそうでしょう」と頷くしかないようなことしか書いていない。

では、それで問題はすべて解決するのか、といえば、そうではない。そもそもその問題の切り取り方がおかしいんじゃないの、ってことはすぐにわかる。けれど、そこまでちゃぶ台返しをしていいもんだろうか? 枠組みを示されてそれにもとづいて知恵を出せと言われているときに、出発点から疑うようなことが許されるだろうか?

それでも私は、やっぱりそれが自分存在意義だと思うからオブラートに包んで、そういうことも言う。じゃあそこで議論がひっくり返って一から話がはじまるかといえば、そうはならない。「先生のご指摘はたしか重要なことかと存じます。それに関しましては、さら勉強させて頂き、次回の会議までには議事に盛り込むようにいたします。それでは次の項目に移らせていただいてよろしいでしょうか」と、実にそつなく無視される。そして、その次に行ってみると、私の爆弾発言はすっかり骨抜きされ、やっぱり「そりゃそうでしょう」と頷くしかないような項目に落とし込まれている。いや、そこまでいうんなら私はもう文句は言えないよ、でも、それってそうじゃないんだよなあって思っても、反論できない程度に役人たちの頭はいい。

結局のところ、私は3回のあの会議で(4回目は議長先生個人的な都合と判断で開かれなかった)、ただただ渋い顔をして頷いていただけだった。すべての枠組みは予め決められていて、それをひっくり返すなんて、技術的にも不可能なぐらい完璧にお膳立てされていた。そして、仮にそれに反逆することができたとしても、「そのような意見があったことは十分考慮いたします」の一言でそれ以上の追求はできず、そして最後事務局のさじ加減でそれがほぼ無意味なくらい矮小化されるのが関の山だった。

身内の大学教授に聞いても、基本的有識者会議みたいなものはだいたいそういうことになっているようだ。ほとんど無意味じゃないかと彼に追求したら、「けれどそこで一言言って議事録に残しておくことに意味があるんだよ」と諭すように言われた。それはそうなのかもしれない。だからこそ、「議事録ないなんてありえないよなあ」と、こんな昔話を思い出したわけ。

2018-12-03

anond:20181203112232

組織するということが全く身についていないんだよなあ

終戦の時に米軍が進駐してくると文書主義形式主義の徹底とその効果に驚きまた疲れたなんて話を見るけど

その頃からずーっと烏合の衆を寄せ繋ぎ止める方法しか日本にはない

2018-10-09

anond:20181009002959

査読は質を担保する仕組みの1つとして有用だが、なかったからといって即座にダメというわけではない、という話。

だって当たり前だけど査読で落とされたことはあるし、査読重要な指摘を何度もされてきたから、査読重要性くらいは理解してますよ。

ただ、査読はついてないけど面白い研究重要研究というのはあるし、それを査読がついてないという点だけで批判されると困惑する。

だいたい査読がついてたってサラミ論文とかあるわけじゃん。査読つきサラミ論文と、査読はないけど面白独創性の高い論文、どちらが高く評価されるべきかといえば私は後者だと思うんだけど、どう? もちろん査読つきで良質な論文が一番いいけど、査読つきゴミ論文と無査読で良質な論文だったら、後者の方がよくない?

論文学術手続きに従って検討され精査されるべきだ。それは学問として当然。そのための仕組みのひとつとして査読というのは有用だ。そこにも異論はない。

でも、査読がついてないかゴミ、無価値、というのはおかしい。そういう話です。

(ていうか日頃は文系のこと権威主義とか何とかいうくせに自分らのほうがよっぽど権威主義、というか形式主義だよな。論文読んで出来不出来を判断する頭もないのかね)

あと、投稿オープン学術誌って(一昔前は知らんけど、今は)たいてい査読つきだと思うよ文系でも。査読がないやつって、出版社が発売するのでそもそも一般投稿を受け付けてないやつとか(当然定評のある研究者のところにオファーが来るし編集がチェックする。私には来たことないけど)、会議シンポジウムの論集とか(ふつう信頼できる研究者を集めて論集を作るよな)、紀要とか(当然紀要紀要として扱われますよね。しか最近紀要査読つきのが増えたなー)、じゃない? もちろんそれらの事前チェックが査読代替になると言うつもりはないけど、査読なしの媒体ってある程度限られてると思うんだよなー。

2018-09-18

女って真面目で常識に無警戒だから政治に向いてないと思うわ

女って正しさや常識には敏感なのに高次の理念に考えが至らない人が多いか政治に向いてないと思うわ。

経済的資本主義的、美人投票承認構造、低次元現実観、階級差別形式主義、非加害者加害者、無敵の受動性、正しさには敏感でも寛容の意味を知らない

これらの特徴は女性一般に見られる。

たとえばホームレス貧困者などの社会的弱者には正しさとして接することはあってもえてしてまじわることはない。非マジョリティーという認識をもってマイノリティーに接する態度。差別はしないが区別はする区別主義者

自分空気をつくることはせず男性が醸成した空気には気に入るか気に入らないか判断して批判してもかまわないという無敵の受動

イケメンと人が判断する人を自分イケメンだと無自覚に考える無思考承認構造

常識法律マナーなどには敏感であるが法を超えた仲間意識を持つことはない。

社会全体を考える社会主義、ではなく現存社会性に準拠した正しさに敏感な社会主義者

メタ倫理の欠如、正しさを俯瞰しない不寛容

公正性について考えない。

哲学的態度のなさ。

無自覚無謬主義者

経験主義

逐一正しさを棚から引っ張り出してくる瑣末主義者

これらすべては女性一般に見られる特徴である

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