はてなキーワード: つくば市とは
私は、茨城県南のつくばではない市に住んでいる。茨城在住ではない人は茨城について魅力度と納豆ぐらいのイメージしかないだろうが、つくば市は茨城の市というより「筑波研究学園都市」として馴染みがあるだろう。約300の研究機関、2万の研究者を擁し、そのヤバさたるや時に「悪の組織」などと言われるレベルである(実際には多分悪の組織ではない。JAXAの見学とか楽しいし)。秋葉原からつくばを45分で繋ぐつくばエクスプレスが走り、キャンパス敷地内をバスが走るクソやべえデカさの難関国立筑波大学があり、国際会議場があったりもする。茨城にこんな重要そうな場所があっていいのかと思う。
私は、つくば市に原因不明の憧れを持っている。上につくば市の良い(と思われるところ)を挙げたが、それらが理由ではない気がするし、幼い頃から日常的につくば市に行っているのでつくば市への幻想は砕かれていると思う。実際にはホイホイその辺の歩道をロボットが走っていたりはしないし、他の市よりは発展してはいるものの都会を名乗れるほどではないし(なんなら筑波山ふもとあたりはクソ田舎)、国際会議場のレストランの冷やし中華はマズいし、あと交通の便がめちゃくちゃ悪い。つくばエクスプレスはあくまで東京との行き来に便利なのであって、現地民が使うには駅の場所が微妙だし高い。乗ったことないけど通学で使ってた友達がやりづらそうにしてた。あとイーアスへの交通の便も悪い。
それなのに、私はオシャレな街を思い浮かべるとき、渋谷や横浜、名古屋などではなく、曇り空の洞峰公園近くの道路や、日が落ちた後の竹園などを思い浮かべる。3DSのNintendogs+catsの街みてぇな雰囲気のところに住みてぇなと常日頃思っているのだが、それと同じノリでつくばのことが思い浮かぶ。もしかしてつくばってなんかの開発のモデル都市とかになってたりする?よくわからん
自分の住んでいる市が嫌いなわけではない。故郷なわけだしむしろ好きな方。研究学園都市に比べればクソ田舎だが。
田舎者なので先程挙げた渋谷などのようなゴリゴリの都会への馴染みが薄いというのもあるかもしれない。それに比べてつくばの安心感たるや。両親は結婚する前、つくば近郊で働き、つくばのアパートで同棲していた。私は幼い頃はつくばにピアノのレッスンに行き、その発表会をイーアスのホールでやり、シネプレックスつくばに映画を見に行き、国際会議場まで入試を受けに行った。多くの場所がメチャクチャ馴染みがある、かといって自分が住んでる市ほど詳しくはなく、僅かな「特別な場所」感が残っている。つくばは私にとって東京よりも身近な都会なのだ。クッソ高えビルとか巨大な画面のついたビルとかヤバいほど歩いてる人とかに慣れていない私にとってはこのぐらいがちょうどいい。私の家の前歩道の白線すらないし。
これからも世界に羽ばたいてくれ筑波研究学園都市。あとはバス多くしてどっかにアニメイトとかデカめの映画館とか建ってくれたら最高。上映館が少ない映画は柏か水戸まで行かないと見られないことが多いし、シネプレックス死にかけてるし。
住みたいかと言われれば交通の便から微妙だけども、いつか1日かけてつくばをゆっくり見て回る日を設けてもいいかなと思っている。観光名所などではなく、幼き日のピアノ教室だったり、今はもうないアジトオブスクラップの近くのパン屋だったり、母が馴染みだったと言って連れていってくれた洋食屋やケーキ屋だったり。そこで美味しいオムライスを食べながら、受験説明会の時に国際会議場で食べた冷やし中華はクソ不味かったなあと感慨に浸りたい。
警察官を名乗ってニセ電話詐欺の「だまされたふり作戦」に協力を依頼し、現金などを送らせる手口の詐欺事件が茨城県内で確認された。つくば市の無職女性(85)が、現金計約3250万円をだまし取られたという。
県警つくば北署によると、9月19日午後4時ごろ、女性宅に警察官を名乗る男から「ニセ電話詐欺に注意して下さい」という電話があり、「相談窓口」の電話番号を伝えられた。「050」で始まる番号だった。
翌日、女性の親戚を名乗る男から「不倫相手を妊娠させた。示談金を工面してほしい」などと電話があった。「詐欺だ」と思った女性が前日伝えられた番号に電話したところ、警察官を名乗る男から「犯人を捕まえるため、だまされたふりをして送金してほしい」などと要求された。
信用した女性は、指定された都内の住所に現金250万円を宅配便で送金。その後も警察官を名乗る男から複数回指示があり、10月3日までに2回、現金計200万円とキャッシュカード2枚を宅配便で送った。
女性はその後も男と連絡を取り合っていたが、先月30日、電話がつながらなかったことで不審に思って警察に通報し、被害がわかった。カードの口座からは先月21日までに計約2800万円が引き出されていた。
”新しい家族の形”とは全く言えないが、社会全体で子育てをしていこう!という取り組みのひとつとして、シルバー人材センターが個人的には挙げられる考えている。ここではその内容と、実際に自身が使ってみた感想、より良いものにするために足りないものが何か、個人の意見を述べる。
⒈はじめに
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」(尾崎マリサ准教授)内でシェアオフィスRYOZAN PARK(https://www.ryozanpark.com)を経営する竹沢徳剛さんの話を聞いた。RYOZAN PARKは、「働く」「学ぶ」「暮らす」「育てる」の新しい形を提案するシェアコミュニティとして活動しているとのことだが、「さすがは東京!色々おもしろそうなのがあるな!」と言うのが率直な感想で、身近にあれば是非参加してみたいと強く思う・・・。と言いつつ、地方暮らしの企業勤めの人間には無理だなぁ、というのが正直な感想である。若い人が羨ましい。
我が家は共働きで、仕事が忙しい時に夕方二人の子供をどちらが迎えに行くかや、保育園の休園時に子供の面倒をどうやって見るか、という問題によく直面する。現状、妻に代償を払ってもらうことが多くて大変心苦しいのだが、お互いどうしても都合がつかないときは、シルバー人材センターにお願いして、子供を預かってもらっている。以下では、このシルバー人材センターの概要と、実際にお願いした結果感じた点について述べる。個人的には、このシステムを上手く回すことが、今後の日本高齢化社会を支える上でのひとつのキーになるのではないかと考えている。
2.シルバー人材センターとは
シルバー人材センターとは、簡単に言ってしまうと、高齢者人材に仕事をお願いする場所である。私の住む茨城県では、つくば市(http://www.tsukuba-sjc.or.jp)の場合、「高年齢者が持つ豊富な経験と技術を活かし、働くことを通じて生きがいを高め、社会参加し、活力ある地域社会づくりに役立つこと」を目的とした団体とのことである。頼むことのできる仕事の内容を見ると、事務作業や植木の剪定など、多岐にわたる業務を依頼できるようである。色々お願いできるわけではあるが、ここでは講義のテーマである”家族の形”とリンクする「子育て支援」についてピックアップする。
3.シルバー人材センターの子育て支援
■保護者の産褥期の援助
実際に子供を預ける際は、市の子育て支援センターに預ける場合、面倒を見てくれる高齢者の家庭に預ける場合など色々と選べるようである。
このセンターの活動の良い点は、子供を預けたい親と、そのサポートをしたい高齢者双方のニーズがマッチする点にある。我々親の側は比較的安く預けることができることに加え、上手くいけばいつも同じ方に子供を預けられるので、子供も親も安心して頼むことができる。一方高齢者の側も、仕事を続けられる、社会とのつながりを維持し貢献できるので、皆楽しそうに働かれている印象である(話をすると楽しそう)。
4.実際に使ってみた印象
我が家では、市の子育て支援センターに子供を半日預け、その間は高齢者の方々に子供の面倒を見てもらうことが何度かあった。実際に活用してみて、良かったなと思う点と微妙だなと思った点は、主に下記のような点であった。
■良かった点
・希望して都合が合えば以前利用した時と同じ方を選べるので、親も子供も安心
・子供1〜2人に一人ついてくれるので、保育園よりも目が行き届いている様子
・子育て支援センターのイベントごと(外部のパフォーマーのステージが見られる、など)に参加できる
・安い
■微妙だった点
・週末は満員で受け入れNGのことがある(人気がある)
・高齢者個々人の育児思想が垣間見えることがあり、少し微妙な空気になることがある
これらは個人の感想ですが、どの家庭でも概ね似たような感想を抱くと思っている。時間内はしっかりと面倒を見てくれる点では大変ありがたい反面、育児思想の点が少し難しく、個々人色々とポリシーがあるため、大変面倒臭い。
5.まとめと提言
ここでは、地域社会全体で子育てを支援するという観点で、シルバー人材センターの子育て支援に関して述べた。この支援の形は昔からあるはず(つくば市は平成3年設立)で、なんら新しいスタイルではない。とはいえ、シルバー人材センターが掲げている思想は、RYOZAN PARKの思想のうち、「育てる」の観点では殆ど同じではないかと思う(金銭が発生している点ではもしかしたら違うかもしれません)。じゃあ何が違うのか、と考えると、その一つは働いている人たちの間での”哲学の共有”ではないでしょうか。社会をどうしたい、この子供達をどう育てたい、といった哲学がRYOZAN PARKにはあって、シルバー人材センターにはない。逆に言うと、哲学を共有できるシルバー人材センターができれば、もっと多くの人が使うはずだし、それこそ大きなビジネスになると思われる。
高齢者の方々はこれまでの経験から様々な知を有しているはずで、子育てに関しても多くの経験をもっているはずである。ここに今の我々が考える哲学・思想を加えてあげられれば、きっと地方でも良いコミュニティが作れるのではないかと考える。
以上
生殖医療の現状について、現行の制度がどのようになっているか調査してみました。自身が30代半ばの社会人という観点から、調べた感想を講義の内容を含めて述べます。
1.はじめに
私の住む茨城県の県北地域は、常陸太田市の様に子育て支援の充実度をPRする自治体が多い印象です。
(http://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/data/settle/16/ )
実際、私自身は子供が二人いるので、いばらきKidsカード( https://www.kids.pref.ibaraki.jp)のようなサービスの存在は、非常にありがたいと思っています。ファミリーレストランで子供用のジュースがサービスされる程度ではありますが、あるとないとでは大違い。ジュースがあれば子供は泣き止みます。
これらはあくまで、産まれた後の話です。では、その前の段階である妊娠・出産に関してはどうなのか。子育て支援も大事ですが、子供が産まれないことには始まりません。ということで、妊娠・出産に関して、国がどのような制度を設けているのか、また、自治体がどのような考えを持っているのか、調査してみようと思いました。特に今回は、東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」(尾崎マリサ准教授)内で生殖医療の現状に関して講義を受けた後ということもあり、不妊治療に関して掘り下げることとしました。
茨城県の不妊治療助成事業に関する説明は、いばらき結婚子育てポータルサイトに記載がありました。( http://www.kids.pref.ibaraki.jp/kids/birth01_1_1/xs=_.RoYzvWEN82T/ )
体外受精,顕微授精
(http://www.kids.pref.ibaraki.jp/~kids/kosodate/birth/birth01_1/stage.pdf)
■助成内容
(1)助成限度額
1回目:30万円
2回目以降:20万円
男性不妊治療を行った場合:上記+初回30万円(以降20万円)
(2)助成回数
40〜42歳まで:通算3回
■対象者
(1)治療開始時に法律上の婚姻をしているご夫婦で、夫又は妻のいずれか一方が県内に住所を有すること
(3)申請日の前年(申請日が1月から5月の場合は前々年)の夫婦合算の所得額が730万円未満であること
(4)茨城県が指定する医療機関において実施した治療であること
治療終了から60日以内(治療終了とは、妊娠または医師の判定による)
(http://www.kids.pref.ibaraki.jp/~kids/kosodate/birth/birth01_1/2019hunintiryouhijyoseijigyou.pdf)
3.所感
不妊治療制度そのものは厚生労働省主導の事業なので全国共通と思われるが、調べて一番驚いた点は、所得額の観点から、共働きで夫・妻ともにバリバリ働いているような家庭は、助成が想定されていないという事実です。また、講義中でも述べられていた通り、助成を受けられるのは、結婚している場合のみであり、同性のパートナーのようなケースはそもそも想定されていないことがわかります。
上限年齢を見ると、講義でも述べられていたリミットの44歳前後が対象上限となっています。しかし、妻の側の年齢上限が設定されているにも関わらず、男性側の年齢上限が特に規定されていない点も、講義を聴いた後だからこそ、違和感を覚える点です。講義で述べられていた値をそのまま書くと、不妊の原因の4割が男性起因とのことで、その一因が女性の側と同じ年齢にあることは容易に想像できます。
一方で、助成対象範囲内に胚凍結が含まれていることから、若いうちに予め卵子・精子を凍結し、その数年後に不妊治療を受ける、といった形は、選択可能な様です(結婚していることが前提な様だが)。
日本はこれから人口が減るわけですし、出産・子育ての問題は、これからの日本社会をどう構成していくかを考えるうえで大きな課題と個人的には考えています。将来、自分の子供たちに負担を強いることになるわけですし、それは避けてあげたい、と親なら誰しも思うはずです。幸い、私の住む茨城県の県北地域は、保育園の数も多く待機児童が少ない印象で、共働き家庭にも子育てがしやすい印象です。物価も安いですし。
「問いを立てるデザイン」内の主要なテーマのひとつであった“多様性(この場合は多様な家族)に寛容な社会”のためにも、もう少し多くの人が取り入れられる助成制度に変わっていくといいなというのが、今回制度を調べた後に感じる正直な感想です。
以上
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
いわゆる「平成の大合併」で生み出された
元々はこの他に水海道市という自治体も参加する予定だったが破談した。
対等合併では旧自治体の名前は採用しないという暗黙の了解があったため、
住民アンケートの結果から「筑波みらい」が新市名として決まりかけた。
特に谷和原村サイドは「みらい」という言葉にこだわりがあったらしく、
水海道市も参加していたときの合併新市名案に「みらい市」を推していたほど。
しかしここで突然谷和原村が「つくばみらい」にする案を突然提案。
当然伊奈町は「近隣のつくば市と混同する名称は避けるべきだ」と猛反発。
という提案まで飛び出す始末。(住民に説明できないと当然却下された)
「つくばみらい市」となった。
個人的には、市名を言われてもどこにあるかわからない地名だと思う。
「西東京とは言うが、東京全体から見たらむしろ東のほうじゃないか」
と突込みが入ったという逸話もある。
両方とも歴史ある地名で、とくに喜連川町は足利尊氏の次男を祖とする
それだったらここに限らないんじゃないかと思うのは私だけじゃないはず。
ミスター長嶋茂雄の出身地である千葉県佐倉市を想像しちゃうのもマイナスポイント。
それぞれの県庁所在地まで高速道路で1時間でアクセスできるから」らしい。
聞いてもよくわからない。
ちなみにこの市名も「高輪ゲートウェイ」と同じように、住民投票結果の最下位から選ばれた。
第一位は所属していた郡名から取った「宇摩市(うまし)」。もしこれになってたら
「愛媛県、うまし。」みたいなキャッチコピーができてたかもしれない。
今日のところはこれまで。
地震、豪雨、酷暑、台風・・・今年、日本列島は、かつて無いほど立て続けに深刻な自然災害に見舞われている。
この危機的状況を踏まえ、日本国政府は200年ぶりの新天皇への譲位と、それに伴う改元、更には池袋大仏造立と、あらゆる霊力を尽くして災害への対策を進めている様だが、今般、北海道においても大地震が発生し、依然として自然災害の勢いが治まる様子は見られない。
東京は、常に人口過密状態にあり、いつ何時、自然災害により壊滅し、甚大な被害が生じてもおかしくない状況下にある。
家康公の江戸開府以来、江戸=東京は、幾度となく壊滅しても不死鳥のように蘇った都市ではあるが、我々日本民族はかつての輝きを失いつつあり、次に都市が壊滅した時は、もはや没落するしかないであろう。よって、機運の高まっている今こそ、東京オリンピックを返上して遷都すべきなのだ。
さて、遷都先については既に諸説あるが、私は是非「つくば」を推したい。
つくば市は、中心部は台地状となっており、大きな河川も無く、水害に見舞われる可能性が非常に少ない。茨城県の地下には、フィリピン海プレートと太平洋プレートが潜り込んでおり、比較的小規模な有感地震は多い方であるが、大規模な地震を起こすような活断層は見られず、地震に強い土地である。霊的にも、東に桜川(青龍)、西に常磐道(白虎)、南に牛久沼(朱雀)、北に筑波山(玄武)と、四神相応の地であることは言うまでもない。また、公務員宿舎跡や国立研究機関等、官庁街へと転用可能な国有地が多く存在する。噂では、かつて東京の過密対策を目的として、富士・赤城・那須・筑波への遷都が検討され、旧東京教育大学(筑波大学)も無理やり移転させられたが、なんだかんだあって規模が縮小されて研究学園都市となってしまった。その後、民主党政権下での決定によって一部で国有地の転売が進められているが、即刻これを停止して、皇居や国会議事堂、中央官庁等のつくば移転を実施すべきである。
気が付いた時は,何話か放映した後で,その後も見られない回があって,虫食いで見ていて,本放送時に最終話が見られたのは良かったけど,
全部見られていないストレスを感じていて,DVD化や動画配信もされていないので,Googleアラートで「悪女 わる DVD」とか設定していた程だった。
映像は見られなかったけど,楽曲が良く,CD類は全て手に入れて,今まで聞きまくっていた。
それが,ふと「悪女 ドラマ」で検索したら,YouTubeに全話上がっていた!
で,一気見した。
(再放送もされない中,当時レンタル用なのか,ビデオテープで発売されたソフトをエンコードして上げたようでした。)
あ~,今までの思いが昇華された感じで,人生思い残すことが一つ減った。
このドラマの見所は,ヒロインの田中麻理鈴こと,当時19歳の石田ひかりの初々しい演技もさることながら,
その他配役が豪勢で,キティ・フィルム作成なので,うる星やつら的な楽曲が楽しめる事。
しいて上げるなら,渡辺満里奈演じる木村美佐子のクールさはもとより,
若き日の鶴田真由の超!馬鹿OL・佐々木チエの演技が,感情に刺さる刺さる。(超!むかつく!!)
この作品がDVDや配信されていない理由として,WiKiによると,当時未成年の石田ひかりの演技として,喫煙・飲酒・自転車2人乗りのシーンが多いことかなと思われる。
ただ,時代背景的に,当時は問題無い事とされていたのだし,このような名作が埋もれてしまうのは,なんとももどかしさを感じてしまう。
26年前のバブルな時代。インターネットも携帯電話もポケベルも無い時代。
パソコンの描写は,Window3.1っぽいし,劇中CMの再生はVHSテープだったりする。
劇中設定で,会社の研究所が存在する「つくば市」には,JR土浦駅からバスで行くシーンとかもある。(つくばエクスプレスは開通してないし!!)
けれども,今見ても色あせず,楽しめる作品でありました。
地方に高速道路や新幹線、橋などの交通インフラが整備された際に、地方の活力が大都市に奪われてしまう現象。
「コップ」(地方部)の水(活力)が「ストロー」(橋・鉄道など)で、都心部に吸われるさまに例えた表現。
都会から地方部に人が来るのではなく、逆に“地方部から都会に”人が『逃げ出す・通う』ことで、地域の商店や企業の存続意義が失われる例がしばしば見られる。
はてなブックマーク - 「つくば市をアジャイル行政に」——26歳財務省官僚がつくば副市長に転身した理由 | BUSINESS INSIDER JAPAN
の下記ブコメ
eirun つくばは駅周辺がストロー効果で苦しんでいるけれど、だからこそ不動産とかは多いし、TXのおかげでベッドタウンとしての伸びしろもおおきい。チャレンジのしがいのある場所だから頑張って欲しい。
筑波大学(茨城県つくば市)の建物で、渡り廊下の屋根が落ちたという。この建物は筑波大学創設のときに完成した一番古い部類の建物である。
しかし、この建物の回収工事は全然行われておらず、崩壊するまで、渡り廊下の屋根が落ちるまで改修はされていなかった。
検査をしなかった大学も問題であるが、そもそも改修する予算が確保できないくらい予算を削っている文部科学省が問題なのである。
いつ渡り廊下の屋根が落ちるかどうかわからない危険な場所がどうしてスーパーグローバル大学のトップ型になるのだろうか。
現在「人づくり革命」という政策で高等教育の無償化と政府が言っているが、その前に既存の国立大学に必要最低限の投資すら回っていない。
年々国立大学への運営交付金が下がっているが、最低限を切り詰めてはいないのだろうか。
政府は新しい政策を打ち出す前に現状をしっかりと考えてほしい。
このままでは、無償化しても高等教育を受けることができなくなってしまう。
ファミリーマートが新商品として鳴り物入りで発売した「忖度弁当」が全く売れない、とファミリーマートの関係者と思われる書き込みがツイッターに投稿され、話題になっている。
2日未明、「天探女・スリ」との投稿名で「忖度弁当全く売れねーじゃねーか。ばかああああああああああか!!!!!今日の分、全部廃棄処分だぞ。クソがあああああああ!!!!ファミマ店員の魂の叫びだ、バカやろぉぉぉぉぉおおおおお!!!!!!
売れるわきゃねーだろ。800円もすりゃよぉおおおお!!!!」と!を多用した書き込みがあった。
また「一応食ったよ、忖度弁当。800円の価値があるかって聞かれたら俺、舌が貧乏だからうーんってなっちゃうけど、まぁ美味しかったよ。でも特別な日でも何でもないのにコンビニでバカに高い弁当なんか買う気は起きないね」との書き込みもあった。
一部のネットメディアでこうした投稿が取り上げられ、NETGEEKでは「忖度というネガティブなワードがマイナスイメージを誘う上、値段が高すぎる」と分析。
「滋賀県の店長です。2日で13個中12個廃棄」との具体的な書き込みもあり、事態はなかなか深刻なようだ。
「忖度弁当」は正式名称は「忖度御膳」。1日から数量限定で予約を受け付け中で、ファミリーマートのほか、サークルK、サンクスでも取り扱っている。キンメダイやノドグロ、あんかけのさつまいも、豚肉炒めなどを使い、税込み798円。「忖度」は「他人の気持ちを推し量ること」の意で、本来は良い意味にも使うが、今年は森友、加計学園問題をめぐり、ネガティブな意味で用いられたことで人の耳に入ったこともマイナスに働いた可能性もある。また、PRチラシなどの中でもわいろの授受をうかがわせるような写真が添えられていて、イメージが悪いのでは、という意見もツイッター上にはある。(WEB編集チーム)
鳴り物入りのファミマの「忖度弁当」 「2日で13個中12個廃棄」「売れるわきゃねーだろ」店員から?悲痛な声も(産経ニュース・17.12.3)
http://www.sankei.com/life/news/171203/lif1712030048-n1.html
東京・秋葉原と茨城県つくば市の間で「つくばエクスプレス(TX)」を運行する会社が、電車を定刻より20秒早く出発させたとして謝った。海外メディアは「遅れや運休でもないのに……」と驚く。「20秒」の差は謝るべきなのか。
■「9時44分」だけど
「定刻9時44分40秒のところ、発車時刻を十分に確認しないまま、9時44分20秒に発車してしまいました。大変ご迷惑をおかけし、深くおわび申し上げます」。つくばエクスプレスを運行する首都圏新都市鉄道のホームページに14日、こんな謝罪文が載った。この日、秋葉原発守谷行きの普通列車が南流山駅(千葉県流山市)を定刻より20秒早く出発していた。乗務員に「基本動作を徹底するよう指導した」という。
ただ同社によると、駅の時刻表には「44分」としか記されておらず、4分後には後続の電車が来ることになっていた。乗客からの苦情もなかったという。同社広報課は「発車を知らせる駅の放送が発車後に流れてしまった。謝罪は当社の基準に基づいており、今後も同様の対応をする」。昨年6月にも、北千住駅で30秒早く出発した際におわびを出したという。
これが英語のネットニュースで報じられると「(日常的に遅れる)ニューヨークの地下鉄なら、謝罪のためだけに職員が必要だ」とツイッターなどで話題に。英紙ガーディアンは、日本の鉄道の正確さは素晴らしいとしたうえで、「時間厳守が悲劇を生んだこともある」として、107人が死亡した2005年のJR宝塚線の脱線事故で、運転士が約1分半の遅れを取り戻そうとしていたことが一因とされていることに触れた。
日本の鉄道史に詳しい原武史・放送大教授(日本政治思想史)は、日本のダイヤ厳守の習慣は、天皇が乗る「お召し列車」に源流があると指摘する。「1928(昭和3)年に天皇が京都へ行った際、30秒単位の特別ダイヤが組まれ、ほぼ正確に運行されたと言われている」という。原さんは「TXは他社との乗り入れがないため、ダイヤがシンプルで乱れにくい。それゆえ、少しの狂いにも過剰に反応しているのかも知れない」ともみている。
とはいえ、今回の謝罪を「ダイヤは秒単位で作っていても、客にとっては同じ『9時44分』。いちいち公表する必要があるのか」と原さんは言う。鉄道会社の横並び意識も感じるといい、「他社が少しのダイヤの乱れでも謝るので、自分たちも、と儀礼的に謝っている面もあるのではないか」と話す。
■先回りで謝る企業
米紙ニューヨーク・タイムズは記事で、過剰に謝る日本の企業文化が背景にあると指摘した。日本社会を「世間」という切り口で研究する佐藤直樹・九州工業大名誉教授(刑事法学)は「日本では場の空気を壊さずに円滑にものを進めるため、『とりあえず謝る』習慣がある。企業も同じで、苦情やネットでの炎上を恐れ、先回りして謝ることが当たり前になっている」。ここ20年ほど、小さなことでもクレームを入れる風潮が強まり、企業の謝り方がどんどん過剰になっていると感じるという。
佐藤さんは「20秒早く出発して謝るなんてやっぱりおかしい。消費者自身も、普段から要求が行きすぎていないか、考え直す必要があるのではないか」と話す。
(仲村和代、田玉恵美)
ネットの噂を記事にしてもきちんと話題の当事者にコメントを取り、また記者の問題関心に合わせた専門家のコメントをとっている朝日新聞の記事に対してツイッターとnetgeek(!)の言っていることをただただそのまま垂れ流すだけという忖度弁当の記事。おそらくはその記事を再びまとめサイトが、新聞に載ったとして記事にするという連鎖関係なのだろう。産経でこの程度の記事が出たのは一度や二度ではないはずだが、ファミマへの電話取材の労もとらないようなら「新聞」の看板を下ろすべきなのでは?
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
https://codeiq.jp/magazine/2016/08/43256/
で、ヨッピーが取材していた春日学園の研究発表があったので行ってきました。
http://www.tsukuba.ed.jp/~2020manabi/
んで、感想。
誇らしげに言っていたけど、それは校長のマネジメント能力がないという自己紹介になっているし、そこまでしないとできないならやめた方がいいと思う。
やっぱり、あのヨッピーが取材していた先生は残業してたんだろうなぁ。と。
つくば市は小中学生のプレゼン大会が開かれるほど、プレゼンテーションに力を入れている。
それなのに、まずパワポがまともに使えない。
読み上げているだけの発表で、ん?って感じ。
次、公開授業。
小中一貫なのに、小中学生が入り交じっての授業はなし。導入でビデオレター流すくらいだった。
素晴らしい授業もいくつかあったけれど、そこには思考ツールがその思考ツールである必然性がちゃんと研究されており、子ども達に無理のない使用法であることが根底にあった。
無理やり思考ツールを使った授業では、子ども達はその思考ツールが書かれたプリントを埋める作業にほとんどの時間をとられ、その結果何が学べたのかまでは至っていなかった。
社会の所信演説を考えるという授業では、プリントに思考ツールで考えた内容を、そっくりそのままパソコンに打ち直している子がいた。それっていらないと思う。写真撮って貼り付ければいいのでは?そして、ここに中学生を入れて、中学生は国語の書く単元として6年生の所信演説を直すというタッグが組めたら面白いだろうにと思った。そう言うのが一貫の強みなんじゃないのかな。パソコンの操作方法を教えるサポートセンターじゃないぞ。
ICTの面では、Kinectとスクラッチを組み合わせたプログラミング学習が、完全に失敗している。全然楽しそうじゃない。
そもそもKinectとスクラッチを組み合わせる必然性はあったのか。彼らのスクラッチの習熟度を見るにまだそこまで達していない。
マイクロソフトからKinect借りたのでやってみました感が半端ない。さらには、10インチかそこらのSurface1台で5人のグループ学習は無理だと思う。スクラッチのプログラミングがプリントに印刷されているのも、まだまだ使いこなせてない感がある。
パーツだけ開始条件をつながない状態で用意しておけばいいのでは?
ふと見た家庭科の授業(公開ではない)では、まち針の使い方を、子どもたちを前に集めて授業してた。あれ、そここそ、実物投影機の出番じゃないのかな。要するに、日常的にICT機器を使っているわけではないということだ。
職員室も外から見えるのに、パソコンの画面がログイン状態で見えるようになってたし、セキュリティ意識もかけている様子。
というわけで、大々的に、2020年代の学びと銘打っている割には、ただの金持ち学校がドヤ顔でくだらないことをしていると言うのが私の結論。ほとんどのクラスで死んだような目で授業している子どもたちが可哀想だし、「書写ノート進める」としか書かれていない黒板で自習を静かにやっている子どもたちもかわいそう。
成績はいいんだって。でも、その代わりに子ども時代でしか経験できないワクワク感を全部捨て去っている気がして、ボクは今回のほとんどの授業で行われている提案には反対。逆に賛成なのは音楽と体育でした。
音楽では教育用の初音ミクを用いて、1年生に贈る歌を4年生が制作。初音ミクというお手本がいるから、子どもたちも一緒に歌うことに抵抗感がない。あちらこちらでミクと一緒に歌う班がたくさんで和む。試行錯誤できる環境をちゃんと与えているのがいい。何よりも、VOCALOIDをちゃんと研究してある。歌詞を考えるワークシートから既にピアノロールの画面を意識したものになってるし、後から音程は変えられるという特性を生かしてまずはメロディのリズムだけを打ち込んで無理がないか確かめるというステップをちゃんと踏ませている。
体育は少ししか見られなかったけれど、無理やりタブレットを使わず、アナログでできること、そっちの方が効果があることは割り切ってアナログでやるというのがはっきりしていていい。
自分の校内研修では、ワクワクしながら思考ツールを使ってみたり、あーでもないこーでもないって面と向かって話し合ったり、結果をデジカメで撮っておいて次に活用したりできる子どもたちを育てていこうと、強く思った。
まだあまり知られていなかった時期、注目が多かった時期、飽きられてた時期があるので、リツイート数と面白さはちゃんと対応しませんが、私が選ぶよりは客観的でしょう。
男性のもののほうが伸びやすかった印象があります。サクラやbotが多かった情報が知られているので、女性のものはどう受け止めていいかわかりずらく、男性のもののほうが素直に読めたということでしょう。
(男 稲毛区 1965)特殊能力は、ありますが、公的に、タブー扱いなので、普通で。しかし、人に聞こえるので病気と区別できます。 特殊能力は、テレパシーです。テレパシーは、聞けばわかりますが、マスコミ的にタブー扱いのため、強制的に、普通の生活をしてます。統合失調症ではありません。
310RT
174RT
(男 京都市 1955)少しだけ インドネシア語が話せます
153RT
(男 富士市 1984)車のボンネット上で目玉焼きをされました。この犯人探しか、飲みに行ったり、まったりした関係を希望です。
133RT
(男 郡山市 1960)我が力は、正義に基づく大義なり
121RT
119RT
(男 奈良市 1984)IQ高い子供を生ませる副業をしている。13歳のときにある奥さんとのSEXで生まれた男子が2013年東大理科1類に合格
118RT
(女 中央区 1980) 社会的地位が非常に高い方や所謂有名人としかお付き合いしたことがありません。まずご自身が世間でかっこいいと定評のある有名人と比べ遜色ないか、よくお考えくださいね。 最終学歴は世界ランク200位以内の大学・大学院卒の方しか受け付けません。
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(男 杉並区 1981)神威 龍牙だ よろしくな
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(男 大田区 1973)裸で歯を磨くとプルンプルンします
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(男 甲府市 1976)不倫興味なし。
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(男 新宿区 1985)アマゾンのワンクリック注文って危険な機能だと思わない? とりあえず俺をワンクリック注文してみ!w 速達でお届けすっからw
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(男 横浜市 1962)まずはお話を聞いて下さい。ある特殊な事情があり理解して下さる方を探しています。 乳首が涙が止まらなくなるほどの性感帯です。乳首だけでイってしまいます。
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(男 港区 1953)煌めくシャンデリア。グラスには貴女の血潮のように紅いトスカーナのワイン。さて、時は満ちた。透き通る白い肌の下の熱情を汲み取ろうか・・・ 都内の内科医です。
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(男 松戸市 1969)自分にはなんの力も無いことわかってる
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(男 江戸川区 1970)経絡秘孔を超正確にピンポイントで刺激すると 人間はヨダレを流して気絶する状態になるんです。 そんな体験をしてみたいですか? 漫画の世界では無くて、経絡秘孔が実在して驚くべき効果が有る事を多くの人に知ってもらいたいと思います
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(男 遠賀郡 1970)金は無いぞ!
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(男 足立区 1974)健康体です。
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(男 つくば市 1964)3P希望。女性2人組待っています。 3P希望です。女性2人組待っています。
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(女 鹿児島市 1990)彼氏が登録してるみたいなのでみてます…なにもゆわないからもうやめて。なにがしたいの?結婚するんぢゃないの? けんかしたときに登録しただけって、信じてる。 わたしはみーちゃん。えまーぶる。
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(男 我孫子市 1979)マイちんぽisビッグスナイパー さあ、ゲームのはじまりです 僕のポ○チンは偉大です しゃぶりにきてください オーヤー
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(男 世田谷区 1970)いい国つくろうキャバクラ幕府!!源の~?? 元気に!明るく!愉快に!楽しく!! 楽しくて、気持ちよくて、ハッピーな夜を過ごしましょう!旨いものを食らって、楽しく飲もう!!
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(女 港区 1976)南無阿弥陀仏
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(男 中郡 1939)74才です。 前戯を楽しむことがすきな女が好き。 だって僕は75歳。持続時間が5分しか ないんだもん。
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(男 神戸市 1991)子供の頃から不倫が好きで、芸能界では2~3位になれる位不倫をしてます。
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(男 浪速区 1940)瀕死の爺
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(男 練馬区 1960)実はヨーロッパの王族の生まれ変わり、無念にも謀殺され、この世に未練たらたら
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(男 高松市 1969)うどんが好き
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(男 港区 1958)憧れを知る者のみわが悩みを知る 知的職業(医師・歯科医師・弁護士)大学教員など希望。企業ならば研究職 出版編集関係。10冊本を出版しているので興味を持ってくれる方、ファン大歓迎。英語とドイツ語は不自由しませんが、フランス語とイタリア語は片言です。
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(女 東区 1939)おほほほほ、これが私の正体よ 私は悪い女よ。 私に触れると大火傷するよ。 私は嫌われ者の女。
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(男 若松区 1970)ワォー 恥ずかしながら、わたくしチ ェリーボーイ・・・ チェリーおっさんです。 お手柔らかにお願いします。
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(男 小牧市 1990)一人日本にいる寂しさ 一人日本にいる 寂しさ
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(男 天白区 1992)人間大好き!
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(男 川島町 1987)無職・童貞ですが、どなたかやりとりしませんか? お酒は飲めませんが、いっぱい食べることが好きです。一番好きな場所は布団の中。特徴、怠け者。体型はデブで風貌はブサイクです。超貧乏です。
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(男 刈谷市 1974)ブ男好きいるか~い?デブ男好きいるか~い?ここに、デブでブ男がいるよ~ぃ。 おまけに変態だよー!最悪だね~。 俺で冒険してみな~。冒険て意味では後悔させないけど、期待はずれになるかもだけど!・・・ん?ダメじゃん! 頑張る!えっち頑張る!そっち頑張る!
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(男 広島市 1979)金属のひんやりした感じが何か好き
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(男 足利市 1983)大量精子
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(男 府中市 1960)人類最高
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(女 横浜市 1990)the 性欲 マシーン
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(男 大東市 1990)優しくて癒やしてくれて甘えさしてくれる年上の女性が大好きです たまにチ◯コを出して歩いてます
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(男 八幡市 1971)ひと時の二人旅へ旅立ちませんか? 優しくゆっくりと、時に激しく、舌先で転がすように貴方を包みこんであげたい。 穏やかに優しく、抜けてて可愛く、明るく楽しく。でも、ベットでは欲望のままに。そんな方が理想。
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(男 横須賀市 1963)世の中は男と女しかいません、女性の性感は男性の50倍と聞きます。上手く引き出して沢山感じてほしいですね。それだけではありませんよ(笑)ランチやお酒(弱い)もいいですね。 相性もそうですけどエッチだけでなくランチやお酒もいいですね
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(男 豊島区 1977)変態ならだれでもいい!!
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(男 いわき市 1954)別居中で離婚寸前です。妻は放射能を異常に恐れ、震災後私を残して東京へ行ってしまいました。 現役バリバリの私はセックスの処理に困って、風俗を使用していたのですが、制限時間が気になって落ち着かないし、会話がはずまないので今は、やめています。
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(男 小金井市 1986)とりあえず子種を体内に放出したい
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(男 港北区 1979)やっほー 女体の神秘
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(男 横浜市 1969)小学三年生で童貞をクラスメートに奪われてからいつも卒業まで、女性4対私の行為が続きました。中学では6対1に毎日まさに奴隷です。高校ではクラスメートの女性24人に回され、大学で漸く一人の女性とお付き合い6年程いたしました。但しお相手はとは、一度もいくことなくこのまま結婚しても、性格の不一致は実は性の不一致とわかり、わかれました。その後は、違う女性と何人かお付き合いし行くことが出来ました。難しいですね。六年間はいつも彼女に謝ってばかり、一回の間に向こうは4回も行き私は違う女性を想像しながらと、 ツンデレ系・Sの方・竹を割った性格の方とのお付き合いが今迄多いです。私自身が人に合わせる、自分を殺す性格かと。 私は過去一般の方以外に、ヘルス嬢(ビックリしました東大生)ソープ嬢とお付き合い致しました。お2人とも学生で就職も内定していたので辞めさせました。当然私は2回ぼこぼこにされました。人生の修羅場の一つかと思います。もう一つの修羅場は真冬のアラスカで漁船から落ち10秒で死ぬところを現地の漁民に助けられた事です。別に私自身漁民ではなく、総合商社の水産部に配属され、一年目の出張事です。最後の修羅場は学生時代のモスクワ留学時代にクーデターに遭遇しました。流れ玉が顔の横を通過した時は冷や汗でました。そのような出会いまでは望んでいません。私といるとスパイ映画ミッションインポッブルやボーン・アイデンティティ(大学の後輩)の様な体験が出来ると思います。これを素敵な逃避行とは言いませんが、 スリリングな(^^)海外では、特にアフリカ・中近東等事務所ではミサイル飛んでくるとか、何時ものことでした。 また、両親の介護が他界により終わり、来年4月から社会復帰します。色々と御見合話と知り合いの紹介等頂ますが、2つ問題があり現実的には中々御相手と上手く行きません。一つは種無しです。もう一つは相続でもめています。結婚を前提であれば女性は皆避けるでしょう。あたり前と思います。今回特に思ったのは女性は結婚を求めているのではなく子供を求めていると。
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(男 朝倉市 1950)家内は亡くなりました
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(男 鶴見区 1957)愛の高まりはスピリチュアリティの高まりとともに! UFO、テレパシー、異次元探究など不思議なことが大好きです 一緒に宇宙を体験しませんか?
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(男 交野市 1981)生セックス希望! 鍛え抜かれた体・高い知性・有り余る財産、完成された雄である私を楽しませる雌は飼育しているが、それだけでは楽しめないので完璧な奴隷作成用の孕み肉奴隷を募集する。 私は酒豪・規格外の絶倫巨根・資産家・奴隷を7匹飼育中
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(男 静岡市 1971)パンティが大好きで、男なのにパンティを履いている変態です。ブラは着けません。男物には無い、素材の肌触りや綺麗なレースに魅力を感じて履くようになりました。 妻はパンティを履くことを付き合う前から知っています。
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(男 東大阪市 1977)社交性有ります
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(男 京都市 1991)黒フランス人です。 黒フランス人です。
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(男 八王子市 1982)人生はクソだ 人生は、クソだ。
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(男 中野区 1971)私はデジタルのゲームデザインを仕事にしています。長い間仕事に集中していたため、女性のことを良く理解していません。今更ですが性としての女の子を良く理解したいと思います。
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(男 飯田市 1976)抗菌仕上げ
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(女 東京 1973)にゃんにゃん
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(男 東京 1986)私今 日本の大学生です。日本に三年半住んでいました。元中国の刑事です。
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(男 芦屋市 1955)50代後半の理学博士会社社長です。仕事で海外を飛び回っています。貴女との出会いはリッツでシャンパンから始めましょう。リッツかウェスティンでゆったりしながら過ごしましょう。眼下に広がる光景を見ながら冷えたシャンパンで乾杯を。そして・・・・・
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(男 日野市 1978)部屋に来ませんか? 色々…ありますよ。 幻覚に夢、麗しの錯乱、 可笑しお気楽極楽さん。 浮世なら死に花爛漫に、咲き乱るるは絢爛豪華。 そこのお人は冗談がないようだ。 マブつき女郎は、阿鼻叫喚。 背骨反らし狂乱の白昼夢。
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(男 三重郡 1975)なかよくしてくれにゃん
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(男 高岡市 1943)wao-wao 若干71歳ですが 心豊かに過ごしています。どうぞよろしくおねがいします。
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(男 杉並区 1965)やほー 体だけの関係でないソールメートみたいなのもあるといいと思います。サテンでコーヒー飲みながらまったり会話するのがすきで。一応絵描きやってます。外見の美しさだけでなくて内面性の恥じらい優しさ未知なる世界への憧れ佳境への高揚興奮など理解できます。
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(女 港南区 1978)ココの男性は、バカ丸出しが多すぎます。男なら、正々堂々と正面からぶつかって来なさいよ!写真なし、目線入りはパス。モロだし写真もパス! 千件を超えるメールから選ぶの、本気で気合い入れて来ないのは、箸にも棒にも架からないわよ。
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(男 新潟市 1958)心、癒します。トキメキをもう一度。 焦ることなく、エキゾチックに、エキサイトに、決して過度なアブノーマルでなく、けれど恥ずかしがりながらも、卑猥なことを、映画を観ながら、時に海の中で。 超ミニスカートやボディコンが大好きです 長いお付き合いです。
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(男 小平市 1973) MYライフスタイル:現在肉体改造中(運動大好きです) 小説、活字好き(時間空いたら本読んでます)ヌードで水泳。泳ぐのと海が好きな自分としては迷わずチェック。透明感抜群、魚に珊瑚あふれる海でヌードで水泳。アドレナリン、過剰分泌間違いなしです!
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(男 京都市 1960)優しいひろし
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(男 瑞穂区 1977)女性を楽器と勘違いしている男です。 いい音で鳴いてくれる女をひたすら鑑賞したい。 楽器として私を楽しませてくれる女性を探しています。
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(男 練馬区 1965)My name is Micheal Westin. I used to be a spy
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(男 港北区 1973)すごいH力
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(男 板橋区 1963)100年に1人の紳士です
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(男 立川市 1944)破滅人生を救える心豊かな淑女を求む
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(男 枚方市 1985)右利きです
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(男 春日井市 1974)演歌歌手の父と宇宙飛行士の母の間に生まれた僕は、森の木こり。日夜、目指せ、与作をモットーに、斧の技術を磨いている。
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(男 東灘区 1991)豪邸に住む皇帝です ウクライナ、ウクレレ弾く、ひくいどりとホークブリザード、負けないで、もう少し
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(男 今治市 1958)おなごがほしい
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(男 豊橋市 1956)レロレロ 妻が亡くなって15年経ちました。そろそろ前向きに歩もうと思いました。
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(男 鬼北町 1970)金たまパンパン
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(男 半田市 1962)実はハゲてます
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(男 西区 1978)完全女装、人妻系です。50歳以上のおじ様と深夜ドライブに行きたいです。
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(男 武蔵野市 1974)bye 気持ちを押し殺してクールを通すように育ってきたのはいいが、内から湧き出る愛情?が家族に注いでもまだ溢れ出てくる。自分でもよく分からないが性欲とも違う何か。この気持ちを受け止めてくれる愛に飢えた貴女に捧ぐ。
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(女 ふじみ野市 1978)いくぞおお
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(男 大牟田市 1960)いい人です
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(男 浜松市 1973)不倫王になりたい
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(男 高松市 1967)スイッチャー 全身が敏感になり,やがて性感帯となる感覚を味わってみませんか。世界が変わるかも^^ onとoffの切替はすべてのことに通じる。ONのスイッチをつくることでOFFが充実し,OFFの充実がONを活性化させる^^
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