はてなキーワード: 上野国とは
ファミリーマートに入った時になるメロディはファミマ特製のものではなくて、パナソニック/ナショナルが1982年から作っている赤外線入店センサー、メロディサインシリーズ。
EC5117/EC5227/EC5347型。一番安いのは4000円。
東京などJR東日本の駅には緑の文字盤の時計が吊るされていて、JR東のコーポレートカラーの緑の特注品に見える。
しかしこれはSEIKOの親子時計(駅や工場など時間狂いが許されない箇所に使われるシステムで、正確な親時計が30秒or1分毎に指令を出して子時計が運針する)のうち、バックライトがなくても視認できる蛍光塗料を使った商品で特注ではない。つまりは目覚まし時計が緑なのと同じ。
無印の横長で四角い「駅の時計」は国鉄ものと誤認されがち。だが国鉄は秒が刻まれた時計を採用していたので間違い。
目盛りが分刻みのあのデザインを使っていたのは地下鉄の交通営団。天井の低い銀座線、丸の内線で使っていた。
名古屋でもういろうは売られていたが、ういろうの名産地と言ったら小田原だった。
だが東海道新幹線が開業すると、ういろう販売店の内、名古屋の青柳総本店だけが車内販売権を獲得。当社は電車が名古屋を出ると「名古屋名物ういろう」と売りまくったためにういろう=名古屋と利用者に刷り込まれた。
漢の時代の中国で四季に合わせて漢詩を詠む事が教養となり、それを日本も倣った。漢詩→和歌→俳句→散文と受け継がれ、風流と教養から手紙の頭などに必ず季節を入れるのが常識となった。
この為に日本の特徴的な季節である梅雨などは無視されるか夏に入れられている。
梅雨前線が停滞することで起きるので青森~台湾~中国沿岸部しか梅雨にならず、中国沿岸部の梅雨は軽度でしかなかったため。
商店街が銀座を名乗るのは賑やか、高級のイメージと思われているが、最初に銀座を名乗った戸越銀座がそう名乗ったのは本物の銀座で使われていた煉瓦を舗装に使ったため。
関東大震災の復旧で銀座の舗装をやり直す事になり、それまで使われていた煉瓦の敷石が戸越に譲渡された。戸越は煉瓦舗装で雨の日でも泥まみれにならなくなったので「戸越銀座」を名乗った。つまり銀座の根拠は煉瓦舗装。
ペリーの黒船は蒸気機関車と混同されて鉄製+石炭蒸気船のイメージがあるが、木造の帆船。
木に腐食防止のコールタールを塗っていたので黒く、普段は帆走していて港での移動にのみ蒸気機関による外輪を補助的に使っていた。
昔のヨコハマタイヤが看板広告に使っていた、タイヤの中に濃い顔があるデザインは頭おかしい系怖いデザインとして有名だが、実はヨコハマタイヤの意匠ではない。
アメリカのBFグッドリッチ社がディーラーサイン(取扱店)として配布していたもの。(The Smileage!)。だからヨコハマタイヤのも取扱店の目印で、大村崑のオロナミンCホーロー看板と同じ。
BFグッドリッチが使っていたのは戦前~戦後初期と古く、また白黒イラストに赤文字だったのだが、戦後下ってから何故かヨコハマタイヤが色付けして復刻。その姿で多くの幼子を泣かせた。
錆びると紫外線遮蔽力が弱い白目部分と赤い唇の塗料が先行して剥げ易く、目と口から赤い錆汁を垂らすようになる。サイレントヒル。
尚ヨコハマタイヤは古河財閥とBFグッドリッチの合弁。戦争で関係が切れていたが戦後に関係が復活したのでキャンペーンデザイン統一した意味があったのかもしれない。
BFグッドリッチ社はオーチスエレベータ等も擁するユナイテッド・テクノロジーズ社に吸収されて消滅。タイヤのBFグッドリッチブランドはミシュランが持っている。
google:image:BF GOODRICH TIRES SMILEAGE
新幹線は固有名詞になっているが、元は単に幹線鉄道に平行する新しい幹線、って意味。
元は瀟湘八景で、中国湖南省の水郷地帯を季節を違えて八か所描いた山水画。
「四季」と同じくこれが日本で教養化されたもの。元が侘び寂び的であるので日本で更に洗練された。
山水画だけでなく連句を詠む/選ぶ、散文に登場させる、浮世絵、写真、単に選ぶなどのスタイルで流行した。
晴嵐、晩鐘、夜雨、夕照、帰帆、秋月、落雁、暮雪のテーマをなるべく入れる事が求められ、何も入っておらず単に綺麗な景色8選だと無教養と評される。
金沢八景は全八テーマが網羅された景色であり、多くの漢詩や俳句や浮世絵が作られた。
当地は沈降海岸(リアス海岸)で入り江と小さい島が多く松島のような絶景で富士山詣での返りにわざわざ訪れたりするほどの景勝地だった。
後に埋め立て等で景色は全て失われて八景の由来も判らなくなったが、「眺めが素晴らしい金沢」みたいな駅名である。
だがその駅により周囲の埋め立てが進んで八景が無くなったのだから皮肉である。
数年前の鬼怒川決壊氾濫で、過去にも「鬼が怒った」ような暴れ川だったと考える人が居るが、単に鬼怒川の源流付近を昔「けぬ」と言っていたからである。
前橋から奥日光、群馬から栃木西側に掛けてけぬ(毛野)と呼ばれていた。後に上野国(こうづけのくに)下野国(しもつけのくに)となるが、読みの「こうづけ」の「け」は「けぬ」の「け」であって、漢字の方で脱落してしまったもの。
ビショーネという。google:image:biscione
故安倍晋三前総理も若い時に乗っていたというアルファロメオのエンブレムには十字架とビショーネが描かれているが、これはアルファの象徴という訳ではなく、都市国家ミラノを支配していたヴィスコンティ家の紋章である。
ミラノの商人や貴族はビスコンティ家より紋章が描かれた皿を下賜され、忠誠の証しとして家に飾っていた。
余談だが安倍総理が乗っていたアルファは年代的にアルフェッタという車種と思われる。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/1978_Alfa_Romeo_Alfetta_GTV_%287254572400%29.jpg
実はこの年代のアルファはソ連製鋼板の品質に由来する品質問題を抱えていて評判を低下させた時期である。自動車用鉄板は防錆の為に亜鉛メッキされているのだが共産国ソ連の生産管理のダメさによって亜鉛メッキがちゃんとされておらず錆だらけになってしまう。
なぜソ連製鉄板など使っていたかというとデタントでソ連との交易を増やそうというイタリア国策である。だがこれはイタリアが東寄りだったいう訳ではなく旧枢軸国の独裁国でフランスなどに経済制裁されていたスペインにも工場進出しており単に節操がない。
当時日本の鉄鋼が米国を打ち負かす程の伸長をしており、日本製鋼板を使っていればこんな事にならなかった。アルファに乗っていた安倍氏は卒業後に日本の鉄鋼会社に勤めていたというのが皮肉である。
あと一つ入らないから続く→https://anond.hatelabo.jp/20230613182714
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。