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はてなキーワード: 薬師寺とは

2024-10-09

「無」と「空」のちがい

薬師寺寛邦さんのYouTubeみて、般若心経唱えたくなり寛永寺弁天堂にまたに行く。

朝倉行宣さんのテクノ法要も見て「すげー」となったけど、お経が日本に来て初めて聞きた人の「すげー」って感覚とたぶん同じ。

時代超越 衆生熱狂 救済妙音 念彼観音

みたいな。

観音経のねんぴーかんのんりき、ってキャッチーフレーズだな。

般若心経にはやたら「無」と「空」が出てくる。

「有」に対して「無」なのはわかる。

「空」は?

存在はわかる気がするけど、何なのか説明するのは難しい、広がりを持った、満たす必要が無いもの、、、ではないか

「満たす必要が無いもの」が、何だか引っ掛かっている。






 

2024-06-05

anond:20240605092442

あるあるすぎて爆笑しちゃっただろ!

アニメ見てないのにアニメの一部のシーンだけくわしくて

つぎはぎだから物語理解がまちがってるんだよなw

薬師寺天膳が死にまくってることとかしらないの

2023-12-13

にじさんじ卒業生が多いのは何故??

ホロライブ継続多いのも何で?

その前にエビデンスちゃんとしとこう

 

ホロライブ

鏡見キラ(ホロスタ)2019/6→2020/11 一身上

薬師寺朱雀(ホロスタ) 2019/9→2020/3 一身上

九十九佐命(EN) 2021/8→2022/7 一身上

魔乃アロエ 1ヶ月以内 一身上炎上

桐生ココ 2019/12→2021/7 中国問題

ホロライブCN 同様

潤羽るしあ 2019/7→2022/2 スキャンダル解雇

 

にじさんじ

羽黒兎 1ヶ月以内 2018 一身上

神成ポアロ 1ヶ月以内 2018 一身上

鳴門こがね 1ヶ月以内 2018

真堂雷斗 1ヶ月以内 2019

夜叉神 2018/6→2019/4 一身上

八朔ゆず 2018/6→2019/5 一身上

名伽尾アズマ 2018/6→2019/5 一身上

闇夜乃モルル 2018/7→2019/6 ホロ移籍

久遠千歳 2019/1→2019/8 一身上

雪汝 2018/7→2019/10 一身上、転生のち引退

月見しずく 2018/8→2020/1 一身上

モアリン(KR) 短期 炎上解雇

遠北千南 2018/8→2020/3 一身上

にじさんじKR カエン、ロロハクレン、ユ・ルリ一斉に卒業

ウィフィ(KR) 2020/1→2020/11 不明

金魚坂めいろ 2020/6→2020/10 炎上夢月ロア騒動

出雲霞 2018/6→2020/10 一身上、転生

御伽原江良 2019/3 → 2021/3 転生、タレント

シン・ユヤ 2020/1 → 2021/6 一身上

鈴原るる 2019/4 → 2021/6 一身上?、タレントに戻る

ヌン・ボラ 2020/8 → 2021/11 一身上、転生?

コ・ヤミ(KR) 2021/9 → 2022/2 不明

イ・シウ(KR) 2020/5 → 2022/3 不明

イ・オン(KR) 2021/9 → 2022/3 不明

シン・ギル(KR) 2020/10 → 2022/3 不明

ハン・チホ(KR) 2020/1 → 2022/4 不明

童田明治 2019/1 → 2022/4 一身上

ソン・ミア 2021/4 → 2022/5 不明

メリッサキンレンカ 2020/2 → 2022/5 不明

黛灰 2019/7 → 2022/7 不明、転生・個人

ミユ・オッタフィア 2019/12 → 2022/11 一身上

アクシアクローネ 2021/7 → 2022/11 アンチ

遊間ユーゴ(EN) 2022/2 → 2022/12 解雇

ランザー・罪恩(EN) 2022/12 → 2023/3 解雇

朝日南アカネ 2020/8 → 2023/5 一身上

ID一斉卒業 ゼア コルネリア、タカ ラジマンシスカ レオンタイン、アミシア ミシェラ

郡道美玲 2019/1 → 2023/6 炎上一身上

狐坂ニナ(EN) 2021/10 → 2023/7 一身上

ミスタリアス(EN) 2021/12 → 2023/8 一身上

相羽ういは 2019/7 → 2023/12 一身上

勇気ちひろ 2018/2 → 2024/1 一身上

 

 

いや、こう見るとホロライブが異常な気がしてきた

AKBだってホイホイ辞めるしなあ

ホロって採用時点で一生ずっと生主やりそうな人集めてる説無い?配信中毒者の寄り合いみたいな雰囲気ある

 

でもにじさんじ一期生はかなり生き残ってるんだな

ビジネス的にはどっちの箱も人気上位15人くらいが支えてる感あるし

それ以外の人らの取り扱いなのかな

にしてもホロスタの継続率高くね?あと海外

2023-11-01

奈良市八条大安寺周辺開発計画について

奈良育ちで今は少し離れたところにいるが何年後かにまた奈良に戻って住もうと考えている者なんだけど、

JR奈良駅とJR大和郡山駅の間(もともと間隔広すぎとは言われていた)にとうとう新駅ができる予定で

インバウンド絡みの案件とは言え、その周辺もあわせて開発されると言う話になっていると言うのを聞いて、

少しは一緒にまともな住宅地(*1)も開発されるかも、と思って資料を漁ると、

八条大安寺周辺地区まちづくり基本構想について

https://www.city.nara.lg.jp/soshiki/163/65725.html

というページにあるPDF資料17ページ目に、まさにそんな感じの住宅地エリアが予定されており、おっ、いいかも、と色めき立っていた。

しかし、2019年時点の上記資料でせっかく住宅地も一緒に整備しようと言うまっとうな意見が盛り込まれていたのに、2022年更新された

意見募集結果】奈良八条大安寺周辺地区まちづくり基本計画(案)

https://www.city.nara.lg.jp/soshiki/163/141074.html

では、住宅地予定のエリア(なお現在田んぼ)についても駅前から繋がる商業エリアということになっていて、しか言うに事を欠いて

先端技術活用した新産業創造拠点形成

大安寺歴史継承し、駅とICが近接する交通結節機能や市の産業特性を活かした「知の交流拠点」となる新産業創造拠点形成

という意味不明文言付与されていた。近鉄に負けているJRの新駅と30年塩漬けにして補助金を切ると脅されてようやく腰を上げた京奈和自動車道IC

あるだけの田舎先端技術活用した新産業創(以下略)・・・ブレイキングバッドの見すぎでヤクを決めている気分になって起稿したとしか思えない迷言だ。

なお、2019年の段階では駅前商業エリアについても

★来訪者向けの拠点づくり

外国人観光客向けのサービス機能確保

生活利便施設誘導

子育て支援の充実

地区特性を活かした面的整備の誘導

と、地に足のついた開発効果に期待が持てる記述が付されていた。

最後の1つはやや意味が分かりにくいが、おそらくちゃんと道をつなげて近隣地域と面で土地活用できるようにしようという話ではなかろうか。わざわざ書かなければならないあたりが泣ける)

なぜ改悪された・・・?と訝しんでいたら、

維新所属市議会議員らしき人物の「JR新駅周辺の面的整備について」というページで解説がされていた。

住宅ゾーンをなくしたことは、周辺の住宅地では空家もあり、既存周辺住宅地住宅ゾーン見立てて、広域なエリア全体を活性化していこうとの考え方です

(なお、この議員らしき人物は、この県の担当課長(令和2年新設)とは考えが一致する、と書いているだけであり、直接なにか働きかけをした結果だとは書いていないので元凶とまではいうまい

・・・

解説してくれたことには感謝する。しかし、これは大愚策だとしか思えない。

周辺の住宅地がなぜ忌避されてると思っているのか!?やたらめったら不便だからだよ!見えているところに行くのに車だと大回りしなきゃいけないとか渋滞に突っ込まされるとかばっかりなの!!

せっかくまともな道路と一緒に住宅開発できそうなチャンスをつぶしてるんじゃないよ!!何だよ、新産業って!!見栄張らずにインバウンド支援市街地機能改善に専念しろ!!!




*1 悲しいことではあるが、すれ違いに苦労しない道路けが張り巡らされている住宅地、というだけで奈良市の平城宮跡より東のエリアではレアである

表題にも入っている大安寺エリア県道122号線からして途中ありえない狭さの場所があり、切なさを醸し出している。なおWikipedia奈良県道122号線のページ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E9%81%93122%E5%8F%B7%E4%BA%AC%E7%B5%82%E5%81%9C%E8%BB%8A%E5%A0%B4%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E7%B7%9A

には「史跡大安寺境内~を通っているため、付近道路拡幅が困難」と書いてあるが、Googleストリートビューで見る限りほとんどの場所は両側民家であり片側に柱跡が保存されている場所でも反対側は民家でしかない……解せぬ。

なお、この県道のずっと西方面にある薬師寺境内通過部分はガチで両側が寺なのでどうにもならなさげ

2023-07-23

先週(2023-07-16)の棋譜

赤:熊谷由加里@東京43  緑:渡邊歩@大阪46  白:薬師寺恵@愛知42  青:中本克哉@東京44  

白13 

青12 赤11 青14 赤15 青 8 赤 3 青18 白 7

緑17 青 6 赤 ×  白22 青16 赤 1 青 ×  赤21

白 2 赤23 白 4 緑 9 赤 5 

赤10 > 13

白20 青 ×  スルー 赤13 

青25 白24 赤19 

+--+--+--+--+--+

赤: 22枚  ○ 10 × 1

緑:  0枚  ○ 2 × 0

白:  2枚  ○ 7 × 0

青:  1枚  ○ 7 × 2

問題数: 30   スルー:  1

https://anond.hatelabo.jp/20230716142459

2022-05-10

anond:20220510115405

賛成。

ろくでなしブルース四天王薬師寺が弱くて幼馴染だったり

まだ人間ドラマがあるけど

クローズは結局花道が出てきてドカーンだもんな。

今日俺か特攻の拓



今日俺の中野VS伊藤11巻とか

特攻の拓

無駄文化や昔の音楽を知れるのも好き

2018-05-24

日本刀を見て何が面白いの?

ワイ萌え豚、3年前に刀剣乱舞流行り始めた頃、艦これのついでに少しプレイしたことがある。

ゲーム自体は5面くらいで飽きてしまったが、リアル燭台切の再発見なんかは端から見てても感動したので、日本刀を見に行くようになった。

幸い関西住みなので展示は多い。

石切神社を皮切りに、北野天満宮、京博、大阪歴博薬師寺霊山歴史館等々を見て回った。

遠いところではラブライブ聖地巡礼ついでに、三島蜻蛉切を見に行ったこともある。

金沢野村家にあった刀が、さらっと「加州清光」とあったのには驚いた。(もちろん沖田のとは別の清光だろうけど)

刀剣女子ばかりの場所に行ったら白い眼で見られないだろうか…とか行く前は思ったが、余計な心配だった。

場所にもよるが、圧倒的に年配の人間の方が多い。

この前の薬師寺刀展なんて平日に行ったせいか若い人はほぼ見当たらず、おじさんおばさんだけが列をなしていた。

しかし列に並びながらふと思った。

自分含めこの人たちは、刀なんか見て何が面白いのだろうか?

ぶっちゃけ日本刀の良しあしなんてサッパリからない。

「これは龍馬の刀です」「これは信長の刀です」とか言われても、正直どれも同じに見える。

村正なんてその場では「ほーこれがあの妖刀フムフム」とか言ってたが、今どんな刀だったか思い出そうとしても全く思い出せない。

これが陶磁器とか漆器なら模様や細工の美しさが分かるんだが、刀文の美しさとか言われても「美しい…のか?」という感じ。

でも実際見るとテンション上がるし、また見に行ってしまうんだよな。

自分でもよく分からん

やはり武器からなのだろうか。

この刀を持った最強の自分イメージしてしまうからだろうか。

例外として、熱田神宮で見た太郎太刀は分かりやすく感動した。

とにかくデカいし説明不要

写真撮影自由なので、若いカップル大勢見ていた。

ゲームでも自軍の主力だったので感慨深い。

アニメ花丸で空気だったのでモヤモヤしてたが、2期でようやく主役回があって良かった。

そういや花丸2期面白かったのに、売上は1期の半分らしいね刀剣女子さんは買ってあげてくれ。

俺? 萌えアニメで忙しいので…。

2017-09-06

寺で始まる名字はクソダサなのに寺で終わる名字はかっこいい:寺終わり一覧

秋篠寺 あきしのでら

芦峅寺 あしくらじ

飛鳥寺 あすかでら

安寺 あてら

阿寺 あてら

天寺 あまでら

尼寺 あまでら

阿弥陀寺 あみだ

阿見寺 あみでら

荒寺 あれでら

安岡寺 あんこう

安国寺 あんこくじ

安全寺 あんぜんじ

安用寺 あんようじ

安養寺 あんようじ

安楽寺 あんらくじ

石寺 いしてら

石山寺 いしやまでら

板寺 いたでら

猪名寺 いたでら

一乗寺 いちじょうじ

一条寺 いちじょうじ

一寺 いちでら

一坊寺 いっぽうじ

井寺 いてら

威徳寺 いとくじ

伊堂寺 いどうじ

稲寺 いなでら

今寺 いまでら

岩峅寺 いわくらじ

岩寺 いわでら

巌寺 いわでら

巖寺 いわでら

上寺 うえでら

氏寺 うじでら

永源寺 えいげんじ

英勝寺 えいしょうじ

永徳寺 えいとくじ

永平寺 えいへいじ

永保寺 えいほうじ

永満寺 えいまんじ

永養寺 えいようじ

江寺 えてら

慧日寺 えにちじ

家原寺 えばらじ

円覚寺 えんがくじ

円行寺 えんぎょうじ

円光寺 えんこうじ

圓光寺 えんこうじ

円護寺 えんごじ

円勝寺 えんしょうじ

円正寺 えんしょうじ

延勝寺 えんしょうじ

延壽寺 えんじゅじ

延寿寺 えんじゅじ

円城寺 えんじょうじ

円成寺 えんじょうじ

圓城寺 えんじょうじ

圓成寺 えんじょうじ

延対寺 えんたいじ

円通寺 えんつうじ

円道寺 えんどうじ

圓道寺 えんどうじ

円頓寺 えんどんじ

円応寺 えんのうじ

円能寺 えんのうじ

円福寺 えんふくじ

圓福寺 えんふくじ

円満寺 えんまんじ

円明寺 えんみょうじ

延命寺 えんめいじ

延暦寺 えんりゃくじ

王寺 おうじ

王禅寺 おうぜんじ

押領寺 おうりょう

大谷寺 おおたにじ

大寺 おおでら

大野寺 おおのじ

大庭寺 おおばでら

岡寺 おかでら

海印寺 おくかいいんじ

奥寺 おくてら

奧寺 おくてら

小倉寺 おぐらじ

長寺 おさでら

尾寺 おてら

御寺 おてら

小埜寺 おのでら

小野寺 おのでら

小見寺 おみでら

表慈恩寺 おもてじおんじ

音光寺 おんこうじ

園城寺 おんじょうじ

遠城寺 おんじょうじ

温泉寺 おんせんじ

隠明寺 おんみょうじ

園林寺 おんりんじ

海印寺 かいいんじ

海応寺 かいおう

海音寺 かいおんじ

皆尺寺 かいしゃくじ

海蔵寺 かいぞうじ

海藏寺 かいぞうじ

覚王寺 かくおうじ

覚寺 かくじ

覚満寺 かくまんじ

駆け込み寺 かけこみでら

駆込み寺 かけこみでら

笠寺 かさでら

嘉祥寺 かしょうじ

勧修寺 かじゅうじ

門寺 かどでら

金森寺 かなもり

上古寺 かみふるてら

川寺 かわでら

寛永寺 かんえいじ

観音寺 かんおんじ

観海寺 かんかいじ

観喜寺 かんきじ

舘山寺 かんざんじ

観修寺 かんしゅうじ

官寺 かんじ

観世音寺 かんぜおんじ

神大寺 かんだいじ

神道寺 かんどうじ

感応寺 かんのうじ

感應寺 かんのうじ

観音正寺 かんのんしょうじ

甘露寺 かんろじ

願海寺 がんかいじ

元興寺 がんごうじ

願興寺 がんごうじ

願成寺 がんじょう

北久宝寺 きたきゅうほうじ

北寺 きたでら

城田寺 きだいじ

吉城寺 きちじょうじ

吉祥寺 きちじょうじ

木寺 きでら

紀寺 きでら

木佛寺 きぶでら

紀三井寺 きみいでら

久宝寺 きゅうほうじ

久本寺 きゅうほんじ

清水寺 きよみずでら

金閣寺 きんかくじ

金山寺 きんざん

金勝寺 きんしょうじ

金仙寺 きんせんじ

金泉寺 きんせんじ

金熊寺 きんゆうじ

金楽寺 きんらくじ

祇園寺 ぎおんじ

行願寺 ぎょうがんじ

玉泉寺 ぎょくせんじ

銀閣寺 ぎんかくじ

久遠寺 くおんじ

久能寺 くのうじ

九品寺 くほんじ

久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら

窪寺 くぼでら

鞍馬寺 くらまでら

弘法寺 ぐほうじ

弘明寺 ぐみょうじ

恵林寺 けいりんじ

敬礼寺 けいれいじ

華蔵寺 けぞうじ

顕聖寺 けんしょうじ

建長寺 けんちょうじ

建仁寺 けんにんじ

源法寺 げんぼうじ

高安寺 こうあんじ

光悦寺 こうえつじ

高円寺 こうえんじ

光音寺 こうおんじ

光源寺 こうげんじ

高源寺 こうげんじ

興国寺 こうこくじ

広済寺 こうさいじ

耕三寺 こうさんじ

高山寺 こうさんじ

興聖寺 こうしょうじ

光寺 こうじ

国府寺 こうじ

國府寺 こうじ

高水寺 こうすい

高専寺 こうせんじ

高專寺 こうせんじ

光善寺 こうぜんじ

高蔵寺 こうぞうじ

高台寺 こうたいじ

香寺 こうでら

皇徳寺 こうとくじ

高徳寺 こうとくじ

光同寺 こうどうじ

興福寺 こうふくじ

光明寺 こうみょうじ

広隆寺 こうりゅうじ

粉河寺 こかわでら

国済寺 こくさいじ

国泰寺 こくたいじ

國分寺 こくぶじ

国分寺 こくぶんじ

国分尼寺 こくぶんにじ

苔寺 こけでら

古正寺 こしょうじ

小寺 こでら、こてら

駒寺野 こまでらの

金戒光明寺 こんかいこうみょうじ

金剛寺 こんごう

金剛峯寺 こんごうぶじ

金剛峰寺 こんごうぶじ

権寺 こんじ

金蔵寺 こんぞうじ

金胎寺 こんたいじ

豪炎寺 ごうえんじ

豪徳寺 ごうとくじ

五雲寺 ごうんじ

獄寺 ごくでら

極楽寺 ごくらくじ

極樂寺 ごくらくじ

護国寺 ごこくじ

後藤寺 ごとうじ

権正寺 ごんしょうじ

権常寺 ごんじょうじ

西安寺 さいあんじ

西円寺 さいえんじ

西園寺 さいおんじ

西園寺公望 さいおんじきんもち

西教寺 さいきょうじ

西元寺 さいげんじ

西光寺 さいこうじ

最勝寺 さいしょうじ

西照寺 さいしょうじ

西寺 さいじ

最乗寺 さいじょうじ

西大寺 さいだいじ

西大寺上 さいだいじかみ

西大寺中 さいだいじなか

佐井寺 さいでら

才寺 さいでら

西徳寺 さいとくじ

西方寺 さいほうじ

西法寺 さいほうじ

西芳寺 さいほうじ

斉明寺 さいみょうじ

斎明寺 さいみょうじ

最明寺 さいみょうじ

齋明寺 さいみょうじ

西明寺 さいみょうじ、さいめいじ

西來寺 さいらいじ

西蓮寺 さいれんじ

西連寺 さいれんじ

境寺 さかいでら

讃州寺 さんしゅうじ

三世寺 さんぜじ

三代寺 さんだいじ

三大寺 さんだいじ

三福寺 さんふくじ

三宝寺 さんぼうじ

財光寺 ざいこうじ

在国寺 ざいこくじ

在國寺 ざいこくじ

坐光寺 ざこうじ

座光寺 ざこうじ

紫雲寺 しうんじ

四王寺 しおうじ

塩寺 しおでら

志観寺 しかんじ

下寺 したでら、しもでら

四天王寺 してんのうじ

志堂寺 しどうじ

嶋寺 しまでら

海印寺 しもかいいんじ

下法軍寺 しもほうぐんじ

社寺 しゃじ

舎利寺 しゃりじ

修善寺 しゅぜんじ

修禅寺 しゅぜんじ

朱膳寺 しゅぜんじ

祥雲寺 しょううんじ

正円寺 しょうえんじ

正観寺 しょうかんじ

正覚寺 しょうがくじ

正行寺 しょうぎょうじ

承元寺 しょうげんじ

正源寺 しょうげんじ

生源寺 しょうげんじ

勝興寺 しょうこうじ

相国寺 しょうこくじ

正権寺 しょうごんじ

荘厳寺 しょうごんじ

清浄光寺 しょうじょうこうじ

諸徳寺 しょうとくじ

正道寺 しょうどうじ

正福寺 しょうふくじ

正法寺 しょうほうじ

淨法寺 しょうほうじ

昌明寺 しょうみょうじ

正明寺 しょうみょうじ

称名寺 しょうみょうじ

勝楽寺 しょうらくじ

正楽寺 しょうらくじ

正暦寺 しょうりゃくじ

勝竜寺 しょうりゅうじ

青龍寺 しょうりゅうじ

少林寺 しょうりんじ

松林寺 しょうりんじ

正蓮寺 しょうれんじ

青蓮寺 しょうれんじ

城寺 しろてら

眞行寺 しんぎょうじ

真行寺 しんぎょうじ

真光寺 しんこうじ

神護寺 しんごじ

新勝寺 しんしょうじ

神松寺 しんしょうじ

神清寺 しんせい

新寺 しんてら

真如寺 しんにょじ

真福寺 しんふくじ

新福寺 しんぷくじ

真綾寺 しんりょう

慈恩寺 じおんじ

慈眼寺 じがんじ

慈光寺 じこうじ

持光寺 じこうじ

慈照寺 じしょうじ

地蔵寺 じぞうじ

実相寺 じっしょうじ

實相寺 じっしょうじ

実法寺 じほうじ

慈明寺 じみょうじ

神明寺 じみょうじ

甚目寺 じもくじ

十楽寺 じゅうがくじ

十樂寺 じゅうがくじ

十禅寺 じゅうぜんじ

十蔵寺 じゅうぞうじ

十藏寺 じゅうぞうじ

鷲林寺 じゅうりんじ

十貫寺 じゅっかんじ

寿福寺 じゅふくじ

順教寺 じゅんきようじ

浄圓寺 じょうえんじ

淨円寺 じょうえんじ

常願寺 じょうがんじ

成願寺 じょうがんじ

城光寺 じょうこうじ

定光寺 じょうこうじ

常光寺 じょうこうじ

常称寺 じょうしょうじ

定禅寺 じょうぜんじ

浄智寺 じょうちじ

浄土寺 じょうどじ

城南寺 じょうなんてら

浄法寺 じょうほうじ

上坊寺 じょうぼうじ

浄明寺 じょうみょうじ

常楽寺 じょうらくじ

常樂寺 じょうらくじ

定林寺 じょうりんじ

神宮寺 じんぐうじ

神向寺 じんこうじ

秦泉寺 じんせんじ

深大寺 じんだいじ

神武寺 じんむじ

水前寺 すいぜんじ

周船寺 すせんじ

須磨寺 すまでら

随応寺 ずいおうじ

瑞巌寺 ずいがんじ

瑞泉寺 ずいせんじ

頭陀寺 ずだじ

清閑寺 せいかんじ

清岸寺 せいがんじ

清河寺 せいがんじ

誓願寺 せいがんじ

青岸渡寺 せいがんとじ

清玄寺 せいげんじ

成勝寺 せいしょうじ

西伝寺 せいでんじ

青明寺 せいみょうじ

清涼寺 せいりょう

関寺 せきでら

泉岳寺 せんがく

泉正寺 せんしょうじ

浅草寺 せんそうじ

千提寺 せんだいじ

泉涌寺 せんにゅうじ

泉湧寺 せんにゅうじ

千音寺 せんのんじ

善応寺 ぜんおうじ

善久寺 ぜんきゅうじ

善慶寺 ぜんけいじ

善源寺 ぜんげんじ

善光寺 ぜんこうじ

善根寺 ぜんこんじ

禅昌寺 ぜんしょうじ

善通寺 ぜんつうじ

禅寺 ぜんでら

善導寺 ぜんどうじ

善如寺 ぜんにょじ

善能寺 ぜんのうじ

善福寺 ぜんぷくじ

善法寺 ぜんぽうじ

善養寺 ぜんようじ

善立寺 ぜんりゅうじ

禅林寺 ぜんりんじ

総持寺 そうじじ

崇禅寺 そうぜんじ

崇福寺 そうふくじ

造寺 ぞうじ

増上寺 ぞうじょうじ

太岡寺 たいこうじ

躰光寺 たいこうじ

大山寺 たいさんじ

大石寺 たいせきじ

泰泉寺 たいせんじ

太寺 たいでら

大寧寺 たいねいじ

太平寺 たいへいじ

当麻寺 たいまでら

太融寺 たいゆうじ

太陽寺 たいようじ

高田寺 たかだじ

高寺 たかでら

髙寺 たかでら

宝寺 たからでら

滝寺 たきでら

瀧寺 たきでら

橘寺 たちばなでら

舘寺 たてでら

館寺 たてでら

田寺 たでら

多門寺 たもんじ

誕生寺 たんじょうじ

大安寺 だいあんじ

大雲寺 だいうんじ

大雄寺 だいおうじ

大覚寺いかく

大巌寺 だいがんじ

大願寺 だいがんじ

大京寺 だいきょうじ

題経寺 だいきょうじ

大宮寺 だいぐうじ

大源寺 だいげんじ

大光寺 だいこうじ

醍醐寺 だいごじ

大師寺 だいしじ

大正寺 だいしょうじ

大聖寺 だいしょうじ

大慈寺 だいじじ

大樹寺 だいじゅうじ

大乗寺 だいじょうじ

大泉寺 だいせん

大善寺 だいぜんじ

大通寺 だいつうじ

大徳寺 だいとくじ

大導寺 だいどうじ

大道寺 だいどうじ

大日寺 だいにちじ

大宝寺 だいほうじ

大楽寺 だいらくじ

大琳寺 だいりんじ

達磨寺 だるま

檀那寺 だんなでら

旦那寺 だんなでら、だんなじ

智恩寺 ちおんじ

知恩寺 ちおんじ

竹林寺 ちくりんじ

千見寺 ちけんじ

知見寺 ちけんじ

千葉寺 ちばでら

中元寺 ちゅうがんじ

中願寺 ちゅうがんじ

中宮寺 ちゅうぐうじ

仲元寺 ちゅうげんじ

中権寺 ちゅうごんじ

中在寺 ちゅうざいじ

中善寺 ちゅうぜんじ

中禅寺 ちゅうぜんじ

中尊寺 ちゅうそんじ

中堂寺 ちゅうどうじ

長安寺 ちょうあんじ

長栄寺 ちょうえいじ

潮音寺 ちょうおんじ

長久寺 ちょうきゅうじ

長慶寺 ちょうけいじ

長源寺 ちょうげんじ

長興寺 ちょうこうじ

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長松寺 ちょうしょうじ

長泉寺 ちょうせんじ

重染寺 ちょうぜんじ

長徳寺 ちょうとくじ

長坂寺 ちょうはんじ

長峰寺 ちょうほうじ

長命寺 ちょうめいじ

長楽寺 ちょうらくじ

通元寺 つうげんじ

通法寺 つうほうじ

津寺 つでら

貞永寺 ていえいじ

天花寺 てんげえじ、てんかじ

天現寺 てんげんじ

天性寺 てんしょうじ

天正寺 てんしょうじ

天寧寺 てんねいじ

天王寺 てんのうじ

天籟寺 てんらいじ

天竜寺 てんりゅうじ

天龍寺 てんりゅうじ

伝法寺 でんぼうじ

傳法寺 でんぼうじ

東慶寺 とうけいじ

東光寺 とうこうじ

唐招提寺 とうしょうだいじ

当寺 とうじ

東寺 とうじ

東泉寺 とうせんじ

東禅寺 とうぜんじ

東大寺 とうだいじ

東長寺 とうちょうじ

塔寺 とうでら

東福寺 とうふくじ

灯明寺 とうみょうじ

徳大寺 とくだいじ

道光寺 どうこうじ

道寺 どうじ

道場寺 どうじょうじ

道成寺 どうじょうじ

導寺 どうでら

道明寺 どうみょうじ

道明寺粉 どうみょうじこ

中秦泉寺 なかじんぜんじ

中寺 なかでら

中山寺 なかやまでら

若王寺 なこうじ

那谷寺 なたでら

成相寺 なりあいじ

南禅寺 なんぜんじ

南蛮寺 なんばんじ

南林寺 なんりんじ

飯寺 にいでら

西秦泉寺 にしじんぜんじ

西寺尾 にしてらお

西寺方 にしてらかた

西本願寺 にしほんがんじ

西本成寺 にしほんじょうじ

仁頂寺 にじょうじ

日東寺 にっとうじ

如法寺 にょほうじ

忍頂寺 にんじょうじ

仁和寺 にんなじ

念仏寺 ねんぶつじ

能仁寺 のうにんじ

野寺 のでら

廃寺 はいじ

長谷寺 はせでら

畑寺 はたでら

鉢ヶ峯寺 はちがみねじ

八九寺 はちくじ

幅寺 はばでら

浜寺 はまでら

林寺 はやしじ

原寺 はらでら

般若寺 はんにゃ

梅津寺 ばいしんじ

梅林寺 ばいりんじ

番生寺 ばんしょうじ

日向寺 ひうがじ

東本願寺 ひがしほんがんじ

東山寺 ひがしやまてら

引寺 ひきじ

百済寺 ひゃくさいじ

白毫寺 びゃくごうじ

平等寺 びょうどうじ

富貴寺 ふきでら

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福禅寺 ふくぜんじ

福寺 ふくでら

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普済寺 ふさいじ

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二ツ寺 ふたつてら

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舩寺 ふなでら

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仏国寺 ぶっこくじ

仏生寺 ぶっしょうじ

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宝積寺 ほうしゃくじ

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宝仙寺 ほうせんじ

宝泉寺 ほうせんじ

法泉寺 ほうせんじ

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宝藏寺 ほうぞうじ

寳蔵寺 ほうぞうじ

寳藏寺 ほうぞうじ

寶蔵寺 ほうぞうじ

寶藏寺 ほうぞうじ

法蔵寺 ほうぞうじ

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法傳寺 ほうでんじ

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良福寺 りょうふくじ

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臨済寺 りんざいじ

輪王寺 りんのうじ

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蓮台寺 れんだいじ

楞巌寺 ろうごんじ

鹿園寺 ろくおんじ

鹿苑寺 ろくおんじ

六泉寺 ろくせんじ

六湛寺 ろくたんじ

六波羅蜜寺 ろくはらみつじ

和寺 わでら

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

2016-02-16

関西人からすると奈良という土地を有難がる奴はセンスない

奈良東大寺千葉ディズニーみたいなもん、

それスポイルしたらコンビニすらろくにない

いや、マンネリに陥らないよう企業努力を重ねているTDL

ちゃんとベットタウンとして機能している千葉県と比べたら駄目だよな

宗教文化的価値は計り知れないが観光資源だとすると微妙な部類だと思う

東大寺面白い物は全部未公開だからな、仕方ないけど

さすがに国立博物館とかすごいと思うし

仏像好きだから薬師寺とか法隆寺とかスポット単体なら行きたいとも思うけど

奈良という土地自体に魅力は感じないんだよな、街として密度が低いもん

自然が残ってるといえば聞こえはいいけど鉄道全然通ってないしさ

奈良の寺一通り回って「大仏でけー」で満足なら鎌倉でもいいと思うんだがね

こじんまりとしていても滋賀の方がまだ見所ある気がするわ

京都大阪魔法の国かなんかと勘違いして具体的にどこ行くかも決めず

「なんか普通じゃね?幻滅した」という具合にほざいてる輩は

黙って1泊2日の"小京都"金沢旅行にでも行くかずっと映画村に留まるかすればいいんだ

異国情緒を求めて海外に行く人すら今は減ってきてるんだぜ?

ノスタルジックな物を期待して地方に来る人なんて田舎神聖視してる視野の狭い馬鹿みたいじゃないか

2010-05-18

奈良楽しかった

法隆寺金堂釈迦三尊像を楽しみに行ったんだけど、

薬師寺金堂薬師三尊像にうっとりした。

しかも薬師寺東塔特別開扉なんてやってたし。

阿修羅阿修羅気分で興福寺行ったら、

仏頭のが好きかもと思ったり。

せんとくん?別にって思ってたけど、

見慣れてくると、タオルを買ってしまったよ。

でもやっぱ、鹿かな。初鹿せんべい体験した。

あれ、楽しい

今度、正倉院展行きたい。

あと、鹿とか鹿とか鹿。

2009-08-18

ホンの少しの差で、理系男子のツボにハマらない女の子の3つの理由

趣味が似てたから「この娘とつきあったら楽しいかも」と思ったんやけど、ちょっと突っ込んで話したら全然違った。

別に俺は理系男子を代表するつもりはないけど、下の3つは多くの理系男子共感してくれるんじゃないだろうか?

 

 

理由1、漫画好き…だが少女マンガしか読まない

 出てくる男が全部ホモくさくて、なんだか共感できない。

 とはいえ、俺は割と何でもそれなりに楽しく読むんだが、俺の薦める本は読んでくれない。

 絵がゴチャゴチャしてて読みにくいらしい。

 ジョジョが読めないのは仕方ないとしても、何でプラネテスも読んでくれないんだよ!!

 

 

理由2、車好き…だが好きなのは薬師寺みたいなピッカピカのカスタムカー

 理系男子メカ好きだが、通常カスタムカーが好きなのはDQNだろ。

 前に付き合ってた男がそういう趣味だったんだろうか?

 湾岸ミッドナイト的な車好きか、せめて頭文字D的な感じであれば、割と理系男子と話が合うんじゃないだろうか。

 

 

理由3、男っぽい…だが肝心なところは結局女の子

 全体の雰囲気は男っぽくて良い感じなんだが、理論的に話ができないし、感情的に怒る。

 結局、女の子の一番めんどくさい部分を持ってる。

 男友達との様に話ができるかと思ったけど、やっぱり全然違う。

 

 

 

同じ野球好きでも阪神ファン巨人ファンが相容れないようなもの。

趣味が同じであるという事と考え方が同じであるという事はやっぱり違うね。

 

俺も彼女もどちらも歩み寄れないってんじゃあ共感できないよな。

 

ココが改善できれば、その女の子理系男子からモテモテに大化けすると思うんだけどね。

逆に言えば、俺が向こうに合わせれば女の子にモッテモテになるのかな?(笑)

 

1と2は改善できそうだけど、3はどうしても改善できないのかな?

女の子ならもう仕方ないのか?

 

 

まぁ理系男子を狙う女の子は参考にしてみてください。

2009-01-18

ジャンケン哲学

修学旅行で行った奈良薬師寺の坊さんの話をいまだに実行している殊勝な俺。

薬師寺の坊さんは、講話が面白いことで有名なようで、今でも修学旅行の生徒たちが坊さんの話をきくのは、定番メニューらしい。

「なぜ、仏法ではご祈祷をするとき、手と手を合わせるのかご存じですか。指と指のシワを合わせて、シワ合わせ、つまり幸せを願うのです」

これ、のちに仏壇のコマーシャルでもやった。

「また、手の甲の側を合わせて逆にしてはいけません。なぜなら指の節と節を合わせるとフシアワセになってしまうから」

これで一同意味なく感心。

「さらにこの話は3つでワンセットになっているのです。爪と爪を合わせてみてください。ほら詰め合わせ。ワンセットです」

一同笑い。

この話をきっともう何十年もしているのだろう。

修学旅行の生徒さんがこの寺を訪れると、わたしたちは講話をさせていただくことになっています。しかしこれはあまり我々も進んでやりたい仕事ではありません。そこでジャンケンをして当番を決めるのですが、みなさんは普通、嫌な仕事の当番をジャンケンで決めるとき、負けたほうに決めますよね?」

「我々は違います。勝ったほうが当番をすることにしているのです。ジャンケンで勝つと嬉しい。やった、勝った!と思います。嬉しい人が、嫌な仕事をするのです。結局おんなじことなんですけど」

以来俺はジャンケンをするとき、嬉しいことを決めるときには負けたほう、嫌なことを決めるときには勝ったほう、ってことにしている。今でも。

別に仏法精神に則ってるわけじゃないよ。そのほうが幾分かおもしろいから。

めんどうな仕事担当を決めたりするときに、「勝ったほうにしようぜ」と言うとたいてい怪訝な顔をされるけど。

実際やってみると、分かるひとには分かる。と思う。

2008-07-08

薬師寺凉子の事件簿のアニメを見た

「しめきりのびた」はシャレになってないです(><

2008-05-08

http://anond.hatelabo.jp/20080508164128

鑑賞中の人の前に割り込んで立ちはだかったりしなければ、座っても壁に寄りかかってもいいんじゃないすかね。

例えば私の恩師は展覧会では「会場をざっと一周して、自分がこれだと思った作品をじっくりと見る」と言っていました。

女性の表情でも、月の描き方でも、あなたの見たい位置からあなたの見たいところを好きなだけ見ればいいんです。きっと。

作者の伝えたいことは明確にあるだろうけれど、それと「実際に作品をみてあなたが何をどう感じたか」はまた別の話。

で、気になったところは後から関連文献に当たるなどして改めて考えてみたり、その上でまた再度鑑賞してみたり。

あと日本美術展の説明(キャプション)は極端に小さくて複数の人が同時に見辛いので、改善して欲しいっすよね。

ちなみに自分はGW中に薬師寺展行ってきましたよー。

2007-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20071024120435

薬師寺シリーズ創竜伝読めばわかるじゃん。

彼は右翼ファシズム全体主義権力が大嫌いでそれをこき下ろすことが生き甲斐人種だってことが。

共産主義はこき下ろす側だからね。

 
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