はてなキーワード: かまくらとは
私は3歳の頃、弟が産まれるからと半年ほど祖父の家に預けられた。祖父のことも祖母のことも好きだったので嬉しかった。
祖父は民謡を流しながらトラックに私を乗せて苗を買いに行ったり田に連れて行ってトラクターやコンバインに一緒に乗せてくれた。
スーパーに一緒に行って買い物をしたり、祖父知り合いの家にこれがオレの孫だと連れて行かれたりしていた。
当時はおじいちゃんってすごくお年寄りなのに私のこと大好きでアクティブですごいって思っていたけれど当時55歳だったんだよね、若かったんだなーって。
その後も盆正月におじいちゃんの家に行くとおじさんたちが集まって、私や弟、従兄弟たちと花火したりバーベキューしたり川にカニ取りに行ったり、かまくら作ったり雪合戦したりとかまってくれたんだけど、若いおじさんたちってまだ50歳なってなかったんだなーって。
それだけなんだけどさ。
私が今36歳で、結婚して住んでるとこから飛行機2回乗り継いで、今日5歳と3歳の子ども連れて実家に来てるんだけど、88歳になるおじいちゃんは今もすごく元気で、私と私の子どもたちに会えたことをすごく喜んでくれて。
幼い頃、年に一度母の実家へ遊びに行っていた。歩いて行ける距離に駅はあるものの本数は日に10本くらいの田舎だった。
祖父が建てた家に泊まり、祖父が作った米や野菜を食べ、祖母にちまきの作り方を教わった。家の前は畑で夏に行った時は野菜を採り、冬は雪で大きなかまくらを作った。山から引いた水は冷たくて美味しかった。
夏は家の前で焼肉をした。肉はもつだった。夏だけど鍋もあった。鯨のコロが入っていた。ギリギリ歩いて行ける距離に温泉とプールがあり、たまに遊びに行っていた。一度だけ祖父が打った蕎麦を食べた。残念ながらあまり美味しくなかった。
20年以上前だから夏でも今より暑くなかったが、流石にある夏の朝起きたらストーブが焚かれていたのは驚いた。
覚えてないことも多々あるけどとても楽しい日々だった。もう祖父母はいない。あの家もなくなったそうだ。ふとした瞬間に思い出す幼い頃の楽しかった記憶。もしかしたら思い出補正が多分に掛かっているかもしれないが。
プレトリウーッス
本日は日本において春一番名付けの日、秋田の横手市ではかまくらを造るそうです。
なんかカーゴカルトってのが戦時中にはあったそうで、その名残の日なんだと。
まぁ昔の植民地時代のやり過ぎから土着信仰に強い拘りが生まれて、それがいつか報われる日が来ると思っていたら戦争が始まって、その時に米軍が兵糧持ってやってきたから『アメリカのジョンから恵みをもらった!アメリカ神!』ってなって今でもジョンフラム(アメリカ)を信仰してるのだとか。
まぁ信仰の話はちゃんと調べないと経緯がわからないので「なんでそうなる!」と思いながら読み進めると楽しいかもしれません。
まぁでも感謝をすることは大事ですね、だからといって信仰になるのはどうかと思いますが。
それも感謝の度合いなのだとしたら、それもどこかで止めとかないとクセになっちゃいそうですね。
ということで本日は【程良い感謝よいか】でいきたいと思います。
部下指導能力や責任能力、自主性と言った類が一切合切皆無なのもあってまだ係長にもなれてない。
仕事は好きじゃないし、自分が取り扱ってる商品もなんとか経済に組み込まれてるだけの寄生虫だなとしか思えない。
でも今更転職とか考える気にもならんし、漠然とこの会社が潰れたら潰れたで同業他社に入るんだろうなぐらいに考えてる。
天職を見つけられなかったままダラダラやってきた人間の末路って悲惨だなと我ながら思う。
そんな中で特定の商品やチェーン店が愛されて10周年どうこう言ってるのを見ると、俺とぜんぜん違うなと思う。
俺はもうただ会社のネームバリューみたいなものにぶら下がっておくための最低限の握力を誤魔化しながら維持することしかしてこなかった。
自分に対して自信は持ててないし、毎年の査定面談とかも「へへへ……あっしは別に今年も可も不可もなくって感じでゲス……へへへ……」と適当にすり抜けるだけだった。
会社が始めたなんちゃって成果主義の中で貧乏くじを引くような役目を負うことを条件に、業務量や責任が増えないようなポジションを回避するようなこともした。
大学卒業した頃、就活ですっかりメンタルがボロクソになって、せめてリクルートやパソナの社長でもなんとか暗殺してそれから死のうかなって毎日考えてた頃のメンタルを今でもどこかで引きずってるように思える。
ひとまずビバークして死なないようにって所から、そのまま下山も諦めてかまくらに住み続けたような状態だ。
俺はもうどうしていいのか分からん。
こういう時、ネットだと安易に転職すりゃいいじゃんって話になるが、10年かけて身につけたのが自社商品と他社商品の違いだとか、社内ルールに上手く擦り寄って暮らすこととか、評価されすぎないようにすることをトレード条件に緩い仕事をあてがって貰うような卑屈とも取れる生き方とか、そういったことだけだと結局どこの会社も評価しないと思う。
問題を起こしそうもない人間であればいいという目線で見ても、精神構造が決して頑丈でない人間と言うだけで雇う側(の人間に人事として問題ない人材として紹介する側)としてはリスクを感じるだろう。
ある程度組織が大きいと、そういう痩せ我慢をしながらストレスを溜め込むタイプにも、組織内の自己主張の数を抑えつつ頭数を増やしたいというニーズの中で需要があるので、いざ入ってしまえば居場所はある。
が、そういったタイプは採用ガチャで積極的に引きに行きたくなるような弾じゃないのは自分でもよく分かる。
10年かけて、結局俺は市場価値を積み上げることが出来なかった。
そんな俺から見ると、愛されて10年生きたと主張する奴らに恐怖すら感じる。
俺は10年積み上げたものがなく、更には10年30年先でなにが出来るかと言われても、相変わらずひとまずその他大勢として組織に寄生するだけだろう。
ひとまず死ななきゃそのうち何とかなるだろうで子供の頃からやってきた。
ワンチャン突然覚醒する可能性を信じて、やっぱり何もないままだった。
無だ。
いつかトータルで勝つと信じてパチ屋に居座り続ける死んだ目の中高年達、奴らと俺の人生に何が違ったのだろう。
見下している場合じゃなかったな。
だがアイツらに同情しても意味がない。
俺に分かるのは、ただ詰んでるってだけの話だ。
分かるよ、俺も田舎生まれ東京暮らしで過ごした期間が同じくらいになっているから。
田舎か都会かの選択の問題はあんまり関係がないと思っている、それはその人の中の物事の優先度次第、状況次第、決断次第だから。無限通りのパターンがあるから。
人間生きてると考えが変わるし、知識や体験が増えるから、なんというか物事に対する解像度みたいなものが高まることがあるんだと思う。
昔は生まれ故郷の冬に降る雪は、雪かき手伝いを発生させる迷惑なもの、でも雪だるまや雪合戦、かまくらなんかの遊びに使えるもの、くらいに認識していたものが、今見ると手のひらに降った雪の結晶の形がそれぞれ違っていて、ずっと飽きずに見ていられるような。雪の積もった夜に家の中にいると、建物の柱と一緒にその重みを感じ取ったり、掛け布団の重みに雪の重みを重ねて屋根の気持ちを想像するような。
日常から感じ取れる物事の解像度が上がれば、田舎の閑散とした風景も都会のごちゃついた街並みも違った風に見えてきて、もっと楽しむことができるんじゃないか。そんな感じがする今日この頃。
両親が駅弁フェアで買ってきたやつしか食ったことない。あれはいわば死んだ駅弁・養殖の駅弁で、天然の駅弁・活きた駅弁は車内でしか食えないと俺は思う。調べてみるとわりと駅弁趣味の人なんかもいるみたいで、旅行をしては駅弁を食べ比べてブログに綴るその姿はかなり眩しい。
いつか食いたい。できたら新幹線とかで食いたい。
かつては時々見かけてたけど最近は全然見ないな…と思ってたけど、実はかつてより全然見てないんじゃないか?俺が飛行船を見たと思ってるのはニセ記憶なんじゃないか?という疑惑がある。それほどまでに朧なのが飛行船というもの。「飛行船 (都市名)」なんかで検索をかけても2008年の記事とかしか出てこないあたり、いまの日本で飛行船に乗るのはかなり難しいっぽい。
なんとなく豪華客船並みの広さを持つ船内で優雅に過ごせるイメージを持ってたんだけど調べてみると客室はショボい飛行機程度の広さしかないみたいで、なんというか夢破れた気分。でも憧れは憧れだし、機会があったら乗りたい。
SF映画に出てくるようなゴリゴリのホログラムデバイスを使いたい!「物理画面使いは老害」みたいな世の中にいつかならないかなあ。
羊肉、カレーとかでしか食ったことなくて味が全然わからない。いっぺんガッツリ食ってみたくて、となるとこれもまた味がわからないジンギスカンと組み合わせてエニグマチックな食体験に臨みたい。
ジンギスカンに関しては謎を残しておきたくてあえてあまり調べないようにしてるところがある。中央が出っ張った謎の鍋を使う焼き肉のようなものらしいが、はたして…
一回も受けたことない。姿勢悪いし、絶対すげえ効果があるというか、効果はなくても劇的な体験になるだろうと思う。
そのうちそのうちと思ってるうちにコロナで行きにくくなってしまった、というのは大体の憧れに共通するな。涙、涙、涙!
「自転車で海まで行った」という思い出が欲しい。
あまり雪の降らない地域で生まれ育ったので雪をみるとテンションが上がる。雪だるまくらいは作ったことがあるけど、かまくらを作るには至らなかった。
かまくらの中で何か(みかんなど)食べたい。せっかく作ったんだしと思ってできるだけ長居するけどやがて寒くなって家の中に逃げ帰り、こたつに潜り込んだときの安心感!同時に感じる一抹の罪悪感と未練!そういう体験がしたい。
皿に並んだフグ刺しを箸でガッと4〜5枚とか取って食うやつ絶対やりたい。
弦楽器はギターしか触ったことなくて、バイオリンとかの弓つきのやつに憧れる。たぶん才能ないからロクな音は出ないしすぐ飽きるんだけど、それはそれとして一音でいいから出してみたい。
絶対行けるんだけどなんかめんどくさくて行かないままになっている。3時間とか取って入りたい。そして1時間半くらいでグロッキーになって知ってる曲を入れるだけ入れて伴奏だけ聞いたりするんだろうな。それでもいい!
イイって言うしいっぺんくらい試してみたい。幻覚が見えるって感じでもないのか?これまで明確な幻覚とか幻聴を感じたことがないので、もし感じられるんならわりとライフチェンジングなんじゃないかと思う。感じられんくても良い。
ときどき酒を飲んだ時も思うんだけど、化学物質で思考パターンが変わるのって人間の儚さのようなものを感じられてメチャいいよね。脳!脳か〜!脳だよなあ〜(最悪の酔い方)
考えてみると俺はふつうの水の浮力しか知らないわけで、もうちょい強いのを試してみたいという気持ちがかなりある。
怪我をした状態で入ると染みるから気をつけて!なんて注意があるのがまた渋い。
Twitterなんかで知り合った、というかフォローしあった人と現実で会うの一回くらいはやってみたい。でも会いたくなさもかなり強く、難しいところ。一方的に見たりできねえかな。