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はてなキーワード: 事象とは

2019-11-18

anond:20191118103256

医学的でもなんでもない単なる持論だけど統失患者なんかでも重篤化する前は常識的に考えて有り得ない事柄なんかはわかってて、人に体験談を話したりする間に否定されて思い込みブレーキかけることが出来るんだけど、インターネットのおかげで共通の(ように見える)体験したことがある人が簡単に見つかって思い込み事実へとすり替わっていってしまうんじゃないかなって。

Twitterなんかだと統失クラスタがたやす形成されてしまって彼らのクラスタでは集団ストーカー監視社会なんかは当たり前のように警戒されてるし、信頼の置ける友人が言うことだから自身経験したことのないどんな突拍子もないことも、いともたやすく当然あり得る事象へと格下げされして共有知識として認識され、人類の敵は加速度的に肥大化していく。

こんな根拠のない自説を信じ込んでる自分なんかも一歩踏み込んでる気がして少々怖い。

2019-11-16

これが独居老人ってやつか・・・

仕事帰りに、家の最寄駅で倒れているおじいちゃんを助けた。

仕事で遠出して、くたびれて家に帰る途中で。

最寄駅を出ると、腰を折り曲げて何かを探しているおじいちゃんが目についた。

一生懸命何か探してるように見えて、サポート必要なのかな?と思いつつじーっとみて、でも通り過ぎてしまった。

声をかければよかったかな、思ったけど、きっと大丈夫、と思ってスーパーに入って買い物をした。店を出た時、やっぱり戻って見てみよう、もしも居なければそれはそれで解決したと安心できるし、もしまだ居るならばとても困ってるということだから、助けようと、思った。

戻ると、あろうことかおじいちゃんは倒れていた。

荷物を道に投げだして。

何人かの人はおじいちゃんを横目で見ながらも、酔っ払いホームレス判断がつかなかったと見えてみんな通り過ぎてゆく。

おじいちゃんに近寄ると、思いの外おじいちゃんは目をパッチリと開けて空を見上げていた。

寝てるだけです風を決め込んでいたのだ。

大丈夫ですか?」話しかけると

大丈夫です」

とかすれた声で言う。

救急車を呼びますか?」と聞くと

大丈夫です」

と言う。

「どこか具合が悪いですか?」と聞いても

大丈夫です」

気づくと横に主婦がいて、

救急車呼んだほうがよさそうですね?」と言う。

でもおじいちゃんをみるとどこが具合が悪いのかは分からない。

一応もう一度聞く。

救急車呼びますか?」

大丈夫です」

主婦の人が駅員さんを呼んできてくれた。

駅員さんも一通り上のやりとりを繰り返して

警察を呼ぶことにした。

11月の地べたに横たわるおじいちゃんは、しきりに寒い寒いと言う。

「地面に寝てるからですよ家に帰りましょう?」

「いいや、それはちょっと、、、」

おじいちゃんはすこし起き上がりたそうだったので、起き上がりをサポートすることになった。

手を握る。瞬間にすこし緊張した。

このおじいちゃんは身なりも綺麗で体格もしっかりしていて、きっとホームレスの方ではないだろうということを自分に言い聞かせる。

おじいちゃんの手をとると、冷たくて、誰かの手をずっと求めていたみたいに、しっかりと握り返してきた。

駅員さんと、主婦と、力を合わせて起き上がらせる。

おじいちゃんはどうやら、この辺に住んでる人で、家族はおらず一人暮らしで、家がどこなのかは分からなくなっちゃったらしい。

私は多分、最初に話しかけた瞬間から、7年前に亡くなった祖父のことが重なっていた。

祖父も昔、迷子になってしまって、近所の人に送り届けてもらったことがあった。

本人も、わかってたはずのことが分からなくて、こんなことが分からないなんて恥ずかしくて、人に分からないというのもショックだったはず。

気づくと飲み帰りの中年サラリーマンも立っていて、彼の提案で、飲み屋から椅子を持ち出して座らせることにした。

おじいちゃんは私の手を強く握ったまま離さない。認知症の人の症状なのか、手を何度も何度もニギニギしてくる。

隣の主婦はおじいちゃんの脈に触れており、聞けば看護師だと言う。

どおりでこの人は一番、状況判断が早い。

もう救急車呼んじゃえば?と早い段階で言っていたのもそういえばこの人だった。

そこから警察を待つこと30分。

駅員さんは持ち場を離れることの事務連絡を同僚にし、サラリーマンは飲み仲間に事情説明して遅れることを詫び、主婦は家庭のことを思っただろうし、私は明日もまた仕事遠征だなと思った。

現実的個人事情と、でもこの人を見放すことはできない感情と、後者が勝った人達がこのシチュエーションを共にした。

赤いライトが見えるたびに、警察やっと来たか?!とざわめいて、だけどなかなか警察は来なかった。

ようやくパトカーが見えた。赤いライトは付けずに、すーっと来た。

警察がつくとホッとしたのと一緒に、こんなに時間がかかるものなのかと。

このおじいちゃんをしっかりサポートしてくれるんだろうかと、なぜだか小さな敵対心私たちは感じた。

警察が来たことで、初めておじいちゃんリュックは開かれた。

中には幸い、おじいちゃん家宛のいろんな書類が出てきて、これでもかとばかりに、おじいちゃん名前と住所を主張していた。

警察はおじいちゃんに対して

「住所は分かりますか?」

と聞くけれど、下を向いたまま頼りなさげに首を振る。

警察が仕方なく住所を読み上げる。

そして「家に誰かいますか?」と聞いても

「誰もいない」と言う。

そして、「家に帰れますか?」と聞くと、流石のおじいちゃん

ちょっと厳しい、、」という。

すると警察は、

パトカーで来てるので家までお送りします」と言う

私とサラリーマン看護師主婦は、家に帰ってもおじいちゃんが一人きりという状況を一番心配していた。

この状態のおじいちゃんがいつまた、分からなくなっちゃうのか、わからない。

最悪の場合は、、、と色々考えると、おじいちゃんパトカーで家に送り届けるのは、全く不完全なソリューションに思えた。

とはいえ同居人やお子さんもいないとすれば、独立した一個人であるおじいちゃんの、その後の選択肢私たちが決めることもできない。

かなりモヤモヤして不安そうな顔をした私に対して、サラリーマン看護師主婦は「まぁしょうがないよな」と努めて前向きに言う。

きっといろんなことを知っていて、だから、これが最善だと理解したんだろう。

警察にお礼を言われたので私たち解散をすることになる。

お疲れ様でしたと言って、すごい2人とも早歩きで立ち去るのでびっくりした。

動揺の35分を過ごした私たちは少なから仲間意識を感じていたはずだけれど、あっという間に元の他人に戻っていった。

帰り道はかなり重い気分になった。これが現実だと思ったし、こういうことが日本のいろんなところで起きてるんだと思った。

縦長の狭い部屋に身を隠すように暮らす東京人達プライバシー私たちを守ってくれる一方で、こういうおじいちゃんを見えなくしてしまう。

まぁしょうがないよな、といったサラリーマン椅子まで持ってきてくれる優しい人が日本にはたくさん居るのに、それ以上のことを出来なくさせてるのは何なんだろう。

ご近所コミュニティ崩壊

プライバシーを守られたいのは誰?

これから高齢者マジョリティになっていく中で、プライバシーより重視されるものがある気もする。

こういう事象に対するソリューションはないんだろうか。単純じゃないのは分かってるけど、、、。

最寄駅で倒れているおじいちゃんを助けた。

助けたんだろうか?

新潟地裁にて(NGT48

平成31年(わ)162号

準備書面を閲覧。

文書き写しは不可のため、重要と思われる部分のメモ

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準備書面

山口からの「繋がっているメンバーは誰か」の問いに対して

(ア)被告1は「CとAと俺、直接じゃないけど。Dと誰かと。あとまあ、Eと、今回の件には関係ないけど。FとかGとかHとか、あとまあ。」と答えた。ここで山口発言があったため、回答として完結しないまま終わっている。

(イ)被告1は「繋がり」を持つという行為をしている当事者説明するため、メンバー側の当事者と、ファン当事者を挙げている。

(ウ)被告1は「CとAと俺、直接じゃないけど。」と発言している。この部分は、CとAと被告1自身が「繋がり」を持っているということを意味する。そして、それに続く「直接じゃないけど。」の部分は、C及びAと被告1は、いずれも直接の繋がりではなく、被告1の友人がC及びAとの「繋がり」を持っているため、被告1もCやAと接触を持ったことがあるということを意味している。

(エ)被告1のこれに続く「Dと誰かと。あとまあ、Eと、今回の件には関係ないけど。」との発言は、「Dとファンの誰かが繋がりを持っている。」という意味である。「あとまあ、Eと、今回の件には関係ないけど。」以下の発言も、ファンと「繋がり」を持つという行為をしているメンバー固有名詞(E)を挙げた上、Dと誰かの繋がり、Eとファンの繋がりは「今回の事件には関係ない。」と説明している。被告1は、「CとAと俺」について「直接じゃないけど」と説明をしているのと同様、ここでも「Dと誰かと。あとまあ、Eと」と当事者特定してから、その繋がりは「今回の件には関係ないけど。」と説明している。

(オ)以上のように、被告1の発言は「繋がり」を持つという行為をしている当事者を挙げたものであり、山口氏の自宅前でのトラブルに関与したメンバー名前を挙げたものではない。このように、被告1は、「繋がり」を持つという行為をしている当事者を挙げているため、「CとAと俺。」「Dと誰かと。」というように、メンバー側の当事者と、ファン側の当事者の双方を挙げているのである

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▼以上(ア)〜(オ)を通して

被告らが、一連の言動により、本件事件に他の複数メンバーが関与していることを認めたとの点は、否認する。

その詳細は前記のとおりであり、被告1は「繋がり」を持つという行為をしている当事者を指摘したに過ぎず、本件事件に関与したメンバー名前を挙げたものではない。

また、山口氏が「他のメンバー事件に関与しているのではないか」といった疑念を抱いたとの点は、否認する。

被告らは、山口氏と話をするために、山口氏を自宅前で待ち受け、山口氏が帰宅した際に、被告2において、山口氏が玄関ドアを閉めるのを妨げたに過ぎない。

したがって、客観的には、原告準備書面にいう「およそ一般人から見て犯罪であると思しき事件」が存在しない。

そして、山口氏の主観基準として見た場合被告2がとっさに山口氏が玄関ドアを閉めるのを妨げた瞬間に限定すれば、自己が「犯罪と思しき事件」に巻き込まれいるかもしれないとの不安を抱くことは、合理的である

しかしその後、被告1が名乗り出たのであるから自己被告1との関係知悉しており、さら平成30年10月21日に開催された握手会において、被告1から「今度話をしに行きたい」と言われていた山口から見て、遅くとも公園に赴く前には、被告らが山口氏と話をするために、山口氏を待ち受けていたことを認識していたと認められる。

したがって、山口氏は「およそ一般人から見て犯罪であると思しき事件」が存在しないことを認識していたはずであるから存在しないと認識している事象に、他のメンバーが関与していると疑うことは、論理的にありえない。

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被告1の陳述書】

事件当日について

314号室で待機していると足音が聞こえた。のぞき穴で確認したところ、山口氏が帰宅していたので、まず被告2が廊下に出て、山口氏に声をかけた(かねてから被告2に間に入って欲しいと頼んでいたため)。

被告1は被告2がすぐ帰ってくると思ったが、数十秒ほど経っても帰ってこなかった。

どうしたのかと思い廊下に出てみると、山口氏と被告2は303号室のドアを引っ張り合っていた。山口氏は室内から被告2は廊下からドアを引っ張り、山口氏は被告2の胸のあたりを手で押し、追い払おうとしていた。

この際、山口氏が「助けて」などと言ったり、叫んだりしていた記憶はない。被告1は慌てて二人に近づき、山口に「僕だよ、○○(※)だよ」と声をかけた。

(※)は被告1のニックネーム

山口氏は被告1の顔を見て、被告2の胸を押すのをやめ、ドアの引っ張り合いも終わった。被告1も被告2も山口氏の玄関内に入っておらず、顔も掴んでおらず、アイアンクローもしていない。

山口氏は玄関から出てきて、「いきなり、どういうつもりなの?」「どうして被告2がいるの?」「被告2の推しメンは○○でしょ」「○○は314号室にいるんでしょ」「被告1も○○と繋がっているんでしょ」などと発言した。興奮していた様子だったが、泣いてはいなかった。

エレベーターから降りてきた男性が通りかかったのは事実だが、その際は山口氏と被告1被告2が廊下で話しているだけである山口氏も、通りかかった男性に対してまったく訴えていない。

そのためこの男性は、「おおよそ一般的に言われるような事件が起きているとは到底思うわけもなく」、その場を立ち去っている。

被告2について

被告1は山口氏と話したかったが、自身だけでは難しかった。被告2はメンバーの間でもひょうきんで明るいファン認識されており、おかしなことをする人間ではないという信頼があったため、間に入ってもらった。

公園での会話について

山口氏はAKSスタッフの前で「何で私の部屋を知っているの?」と聞いてきたが、これに正直に答えると「山口自身から聞いたから」ということになる。これはスタッフの前では言えなかった。

▼補足:公園にいたスタッフについて

ネット上で言われている諏訪氏名前記載なし。初瀬という名前記載されている。

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ほか、山口氏と被告1が繋がりを持った経緯や時系列記載あり。これは文春が報じた内容と同一。

2019-11-15

anond:20191115115258

起きた事象と結果を切り分けられないんだねって話に切り分け基準がどうこうってさすがに笑う

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件2

(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。

論文日本語文法事象を中心に扱っており、その記述分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語目的語自動詞他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧パラダイムによる言語研究標準的使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。

日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念のものの再検討を迫るという点で、本論文日本語研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論憶測ではなく、万葉集源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。

論文共時的言語事例と通時的言語事例とを並行的に分析し、日本語言語現象全般個別現象の解明を目指した統合研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点提供している点で、学術価値は高いと判断される。

よって、本論文博士人間環境学)の学位論文として価値あるものと認める。

また、平成26年11月26日論文内容とそれに関連した事項について試問を行った結果、合格と認めた。

まさにお墨付きだ。

最後ちょっと真面目な話。『認知言語類型原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこ自体問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判したことで将来不利益を被ることがあってはならない。

それにしても、どうして『認知言語類型原理』は『日本語主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語主語はいらない』は大手出版から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型原理』は学術専門出版から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-11-13

パンティーのパ

パンティーのーって口頭でどうやって説明するんだろう。

ドーナツの穴のようなものだ。

パンティーにも穴はあって、穴があるからパンティーで無かったらただの布なんだけど、俺はただの布を巻きつけている方がエロいと思う、はい今うなずいた人、それはフンドシっていうんです。不思議だよな……どうしてフンドシって言葉を浮かべて思い浮かぶのはオッサンの汚いボツボツした尻なんだろう。美少女がフンドシをしていてもいいのにそれがない。それはこの国に男女平等がまだないからだよ。そしてそんなもの永遠にどこにも存在しない。目指すべきは必要以上の区別がないということで、でもそれは平等なんてものを目指していてはたどり着けない。でもそれに相応しいことがないから皆使っている。ブレインウォッシュという英語洗脳という日本語と一致していて驚いたことが僕にはあるが、そもそもこれは中国語洗脳世界中が使っているからなんだ。でもこの言葉が生まれたのは結構最近なんだよな。この世界には存在しているけどまだピッタリくる表現が見つかっていない事象が沢山あるんだよ。サウダージ黄昏意味する所は寂寥であり、似通っていてはそれが意味する概念完全に一致することはなく、お互いがお互いの単語によってしか干渉できないピンポイント領域を持ち合わせている。そんな場所に、僕らが今平等という言葉で無理やり表しているガンダーラがあるんじゃないだろうか。

パンティーは人生大切なことをいつだって教えてくれる

最近特に偏向報道が酷いからな

弁護士ドットコム、お前の事やぞ。

秋葉原アダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査千代田区指導

https://www.bengo4.com/c_23/n_10366/

これもI氏とかが書いた記事かな?

2019-11-12

anond:20191112174833

事実として前提条件抜きで言えば喜ばれる可能性は高いでしょ。

「頭良いですね」とか「優しいですね」とかと同じ。

もちろん知らない奴にいきなり「頭良いですね」と言われたら

逆に「馬鹿にしてんのか?」と思うけどそういう話じゃないよね?

からない?

本当はわかってるよね?

それがポジティブ事象であるかどうかという話をしているのに

おまえは「それが不愉快になりうるシチュエーション」をあれこれと膨らませてるだけじゃん?

anond:20191112171634

じゃあ魅力的でないほうが嬉しいの?

って聞かれればまあよっぽどの捻くれ者でないかぎり「魅力的であるほうが嬉しい」と答えるよね。

結局「魅力的ですね」という言葉から派生する「お世辞」「ナンパ」「周囲の嫉妬」「キモいから好意を向けられる面倒くささ」などなどが嫌なだけで「魅力的であること」自体ポジティブなんだよ。

で、その「(男性にとって女性が)魅力的である」という事象はどうしても性欲と切り離せないわけで、そこで「性的消費」や「煽情」と「魅力」を区別しうる理屈は無いという話ですよ。

2019-11-11

anond:20191111125741

おめー、頭いいな~!

ぼんやりと感じてた事だけど文章化すっとこんな感じになるんだな!

ストンと入ってきた感じあっぞ!あんがとな!

しか基準は難しいな、オラもそれ普段から思ってんだ。

例えば、動物同士の交尾表現するとしても、ケモナー目線エロ漫画を描くように描いてもそりゃ動物交尾だよな

ただ動物交尾なんてーのは学校教科書にも載ってるもんな!

その二つの差は目的の違いではあんだけど、表現されているもの動物交尾って事象だもんな

でもエロ目的動物交尾をそれを好まない層に届けないってのはそんなに難しいんかなぁ…?

そりゃ、オラも方法はわかんねえけど

無用な争いが起こらずにそれへのアクセスが出来ればいいんだけんどなぁ

2019-11-10

anond:20191110045524

自分の超個人的事象しか恋愛!)を世界こじつけた、ある意味とてもくだらないがある意味どうしようもない思春期の過ちだよねアレ

2019-11-09

耳の聞こえ方が他の人と違ってた件について(聴覚過敏?)

■今何歳?

24歳児です。

現在持っている病気

双極Ⅱ型障害(3年前から)

■音割れはいから

謎?

■なぜ今日気づいたのか

理由は、劇場映画を見たのですが、戦闘シーンで大きめの音が出ると、"右耳だけ"音割れたからです。

(左耳は普通に聞こえている)

■なぜいままで気付かなかったのか

⇒大きめ音では?(それなりに頻度が多い)

例としては、ライブ体育祭などです。両耳で音割れを起こしていました。

みんな音割れして聞こえているのだと思っていました。ライブに至っては音割れするのもを楽しむものだと思っていました。

⇒その他の事例1 飲み会などの雑音で音割れを起こす(殆どの頻度で発生する)

この時、非常に全体の音が大きく聞こえ、よく音割れを起こす。正直、発する音が全体的に大きめで発信源が多い場合(飲み会パーティーなど)に、音が途轍もなく聞こえないことが多く困ることが多かった。しかし、この場合も、そのようなものだと思っていた。

状況としては、殆ど夜に行われた、またお酒が入っていることもあった。

今までの最悪の事象は、ただの雑然とした打ち合わせで音割れ起こした。

⇒その他の事例2 イヤホンの音が音割れを起こす(稀に起こる)

完全にイヤホン故障だと思っていた。

⇒その他疑われる事象

通常の状態で人の声が上手く聞き取れないことがある。

(よく他人から言われるので、他の人に比べ頻度が高いと思われる)

■言いたいこと

割れして聞こえているやつ、それ普通じゃねぇから

そして、自分ポンコツ加減にうんざりした…

anond:20191109083033

スタッフ10前後工務店とか小企業で、

社長の嫁さんが経理副社長みたいな立ち位置で、

日本では昔から事象だね

あい会社って

社長奥さんで既に2票持っちゃうから

何か意見出しても通らなくて面倒なんだよね

2019-11-08

PSYCHO-PASS 3 サイコパス3 3話まで観た適当感想

全体的な物語の流れとして、一話で起きた様な

自覚なく一人一人がほんの少しずつとある事象に絡み合った結果、最終的に巨大な犯罪(事象)が引き起こされる」んじゃないかと思った

勿論一係も全員、主人公達も自覚なく加担する結果になるのでは、

その結果彼ら自身過去事件でも自覚なく何らかの引き金を引いていた事を自覚して、ショックを受ける展開がありそう

一話から既に彼らの行動がその流れに入っているとか

外務省側がどう組み込まれいるか不明だけど

巨大な犯罪についてはみんな揃って自覚なくなので恐らくシビュラに裁けない事件になる、若しくは国民執行対象にならざるを得ない故演算不可

シビュラに対する信頼が根底から崩れる

→ 多分それがビフロスト側の最終的な狙い?

朱ちゃん過去に同様の裁けない事件に遭遇し、シビュラではなく自分意志で裁く行為に出た結果軟禁状態になっている

シビュラ演算の結果朱ちゃんシビュラが裁けないと言う結果が出たか朱ちゃんは宙ぶらりんなあの状態なのでは

朱ちゃんはあそこに誰かが来て人に裁かれるのを待っている → 灼と炯の二人に期待している?

朱ちゃんは結果無罪で出る事になるのかどうか

ビフロストは北欧神話的だと天国と現世を繋ぐ虹の橋、だけど元々の意味は「ぐらつく橋」

ラウンドロビンは元々「嘆願書トップが誰だか分からない様に円形に署名した」のが由来で、責任分散させる、役割を回り持つという意味がある

その辺が話の根幹にかかわっていたら面白そうだなと思ってこんな事を書いた

4話が楽しみ

2019-11-05

ネトウヨコラ画像展の作品ってどれも最初はコラだって皆知ってたんだ

面白おかしくでも高クオリティに作られたコラがいつの間にかホンモノの画像って事でばら撒かれるようになった。

ツイッターで起きていることと基本は一緒なんだよ。

ある事象についての一部分だけが切り取られて、それに対して別の意見が付け足されて拡散され、いつの間にか事実の側が意見からの逆算によって推察され本来の物とは別のものに変わっている。

それで私は何が言いたいのかって言うと2つあって

①コラやネタを作る時にはもういっそ左下に「ネタ画像」って入れるのを義務付けたほうがいいんじゃないかな

だってもう面倒くさいじゃん。単なるネタがいつの間にか一部の人間に武器として利用されるのって。

土木工事のために作ったダイナマイト戦争の道具になって金持ちになったノーベル最後は病んで「人類未来に貢献した人を偉人として祀ろう」とかFGOみたいな事言いだしたのと同じ状況よ。

やめよう。

その流れは面白くない

②単なる面白半分で作られた画像最初からフェイクニュース目的で作ったかのように断じるのはちょっとズルいよね

まあココに関しては最初からゴールポストが「ガチ政治議論」「単なるネタ」っていう両端の中央に置いてあって、状況に合わせて動かせるようにされているんだろうなって気がするからこっちもマジメに取っ組み合う気はないかな。

どうせ状況に合わせてユラユラ動かすんでしょ?

こうやって言われたら今度は「レッテルを貼ってきたな!さすがはクソ共だ!」とトラップカード発動ってなるように仕組まれてる気もするけど乗っかりました。

何だろうね……そもそもネットにある政治活動のほぼ全てがこの「ゴールポストガチネタ中間地点に置いて状況に合わせて動かす」をやりまくっているのを散々見てきたんだけど、そろそろイエローカードを叩き込まれる時期に来てると思うよ。

しかしたら既に一発レッドになるのかも知れない。

これは別にネット政治議論を刷るなって話じゃなくて、ガチで話してるのかネタで話してるのかは自分の中で切り分けておくべき時期に来たっていうのと、自分ネタだと思っても相手ガチだと捉えられるリスクの高まりヤバい時期だからネタから許される」っていうラインを超えるのは、個々人の生存戦略としてはもう止めた方が良いんだろうね。

この増田ネタです

2019-10-30

anond:20191030135416

全部「外からどう見えてるのかに意識が行っていない」ってだけの話だと思う。

個別事象を気にするんじゃなくて、外からどう見えるか、発言に対して相手はどう思うかを考えたらいい。

NHKに負けた

20代一人暮らし始めた当時

2ちゃんだったかブログだったか、はたまたまとめだったか一人暮らしライフハックを探していて「NHK撃退法」を見かけた。

そこには、いかNHKが腐敗しているか公平じゃないか中立じゃないか、横柄かがたくさん書かれており、若さ故間に受けてとても憤りを覚えた。

「クソだ!終わっている!」「こんなクソに金を払うなんて!」「潰れればいいのに!」

そう思ってテンプレにあるいくつかの撃退方で訪問員を撃退していった。

こういうことがロックパンクで反骨精神なんだと思った。

時には狂人を演じたり、時にはああいえばこういうで屁理屈こねて倫理武装した気になった。

時には集金人のおじさんを諭そうとしたことさえあった。

録音するぞ、録画するぞ警察呼ぶぞと凄んだこともある。

一通りやりつくして気づいたのは「この熱量でこの人たちと対峙しても本丸はかわらない」

いつしか手軽に「テレビないんで」か「お引き取りください」の一言で終わらすことにした。

それでも芯の部分は確実に強いものだった。

時間は流れて結婚した

配偶者にも同じ価値観でいてもらいたかったので説明して、理解してもらって憤怒してくれて同じ気持ち我が家訪問員 断固反対になった。

配偶者はもっぱら「留守番の者なので」で撃退していた。

夫婦反体制精神を分かつことができてよかった。

やがて子供が生まれ

うちはわけあって実家家族支援を受けれない妻と夫の2オペ育児だ。

実際は一人は平日日中フルタイム仕事にでているので1.5のリソースになる。

日中一人で子育てをしている時に響くピンポン」この出来事子育て経験している者ならどれほどのストレス共感したくれるだろう。

せっかく寝かしつけたところでチャイムが鳴ったら最悪なもので、なのでチャイムは消していた。

ところがその日はチャイムで出ないことがわかるとアイツはあろうことかドアをドンドンと直接叩いて叫んできた。

「すみませーーーん!!!ますかーーー!!」

柴1「ギャンギャン!!(威嚇)」

柴2「キャンキャン!!(恐怖)」

猫1「ワオーーー(通知)」

猫2「・・・・・(爆睡)」

その大合唱を聞いた赤子は当然

「ギャーーーーーーー!!!

その出来事パニックになってしまってとっさに玄関口に出てしまったら最後

訪問員はチャンスとばかりに全回答YESになるような巧みな営業トークで畳みかけてきた。

後ろで大騒ぎするワンニャンズと、ドアを殴られたことに理解が追いつかない、YESの積み重ねでうっかり契約しますか?に回答してしまいそう

パニックと恐怖で「家主がいないので」と言ってドアを閉めるのが精一杯だった。

そこからマイナス感情だけだった

アイツは恐怖を植え付けきた

自宅を知られている

犬猫赤子がいることも知られている

逆恨みしてイタズラや放火されても特定できないか

そもそもご近所さんで払っていないのはうちだけじゃないだろうか

払わないことが少数派で異端なんじゃないだろうか

そして細く弱くなった心はとても簡単に音も立てずに折れた。

配偶者出来事と心境を話したら、「きっとこの先おかあさんと一緒をみるしいいタイミングなのかな」ということだった。

こうして環境事象とが重なっただけでいとも簡単に信念が折れてしまった。

本当に無様でみっともなくてダサいし恥ずかしい。

今でも納得していないことはクソ多いし、ぶっ壊してほしいと思っている。

けど我が家は負けてしまった。

2019-10-29

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732 の続き

下着広告って性的じゃないの

少し脇道にそれて、下着広告について考える。街に下着広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスター掲示するわけではない。しかし一方で、下着広告性的であると受け取る人間存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である

赤十字ヴィクトリアシークレットコラボレーションを行い、下着姿の女性献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性下着広告から切り離した場合、それは過度に性的存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来性的であり、下着宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在日本においては、下着宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意今日日本で得られているかというと、下着というのは、日常生活でほぼすべての人に必要からであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在日本において、という前提である宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。

このような合意が、他の性的表現と比べた場合一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的露出度などを基準性的表現判断することを是とする場合、「下着広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈理解する力が弱い子供にとって、下着広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告性的意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着広告露出度基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着広告性的に見るためのものではないので、勝手性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。

この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着広告ポスター規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなた下着広告ポスター規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんポスターに対する批判バカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないもの勝手エロく見るほうが悪い」といえば問題解決するだろうか。

ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。

かわいい、綺麗、エロ

ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃん性的表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。

1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃん性的である、というポスター批判派の指摘には、一定妥当性がある。

2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋一般的表現になっている世界において、宇崎ちゃんちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれ場合、宇崎ちゃん性的意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃん性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないもの勝手エロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋性的表現ではないという前提は、現在日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。

実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツ一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋猫耳ぐらいのカジュアル属性かもしれない。また、乳袋韋駄天靴下は極端にしても、絶対領域ミニスカート胸の谷間おでこ猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに一方的責任押し付けることが難しくなる。

これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図表現者に存在たかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。

今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識であるオタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。

繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。

多様性尊重するべきなのではないか

多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスター性的であったとしても、「そういう表現好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護からはこのような世界理想とした言動が見受けられる。

しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスター女性差別問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断努力とはこういうものなのだろう。

宇崎ちゃん性的であるとして、そこをほじくる意味はあるのか

ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスター女性差別性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題存在するのではないかという指摘である私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんポスター性差別問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味であるしかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカル対応する必要がある。論者自身姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。

ずっと譲歩していたらブルカみたいにならないか

極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出性的とみなす言説が現れたとしても、現在日本において多数派同意は得られないであろう。

差別の苦しみを知るのであれば

ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたときその男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由ハイヒール強要されることを良しとしないのであれば、ある男性男性という理由だけで責任押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。

ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。

違いすぎる前提と背景と強い言葉(内容がメタ化してきたぞ)

ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会階層年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定グループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性倫理的良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。

インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回り男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。

以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲のものであるしかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイング戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。

まだ続くのすごない?

https://anond.hatelabo.jp/20191029133051

2019-10-27

それでは皆様、ご待望の答え合わせのお時間です

いやさ、投下12時間後位に見たらノーブクマ煽りトラバから、こんなに大漁になってたの気付かなかったわ、めんごめんご!

あと、文章なのはごめんなさいその通りです、完全片手間&やっつけ仕事です。まあ、言い訳と言われればそれもその通りよ。しっかし3行目から消して適当文言入れ忘れてるし、小見出し2つ目も入れ替えるの忘れるし、かといって今から手直しも卑怯っぽいから、直すに直せなくなったなこれ

一応ケツに「反転可能性」と書いたので、やや牽強付会に最大限、愛トリに寄せたつもりではあるが、他人思考トレースするの難しいっすね

では皆様の二枚舌(あるいは信念による鉄面皮)をご覧ください。

両方ノーコメントだったブクマカは省略

https://fut573.com/compare/?url1=https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F20191016150214&url2=https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F20191019000050

name献血イラスト問題についてトリエンナーレアート問題について短評
id:aomeyuki献血は困っている人を助ける為の良い行いだから、そこで発生する「モノ化」は甘受せよってロジックが増え始めてるけど、それこそが性や身体への搾取の具体例なると思うんで、それを広めて大丈夫かな。自分は「日本人」ではあるけど、「日本」ではないのでよくわからない話だった。それと憎悪嫌悪人間内包している当たり前の感情感覚なので、それが外側に出てしまう事を殊更に避けるのも不自然その「よくわからない」から出るそぶりを出せるかよ
id:SweetGiraffeこれは日本赤十字も『複数女性性交渉を持たず体重がそれなりにある若い男性』に寄り添った広告は打てなくなる。残念だが2019年では『人の命』より『政治的な正しさポリコレ』の方が重くなってきてるのだ。表現に対する嫌悪感』は、あいトリも献血ポスターも同じでしたね。 
id:kyo_juすげぇ。ビリーバーだ。釣りかそのぐらいかは見抜こうぜ
id:memomizawaなぜこの絵がエロいと思えるのか、他の絵はなぜエロくないか、考えていくと美術って面白いと思いませんか?そこには文脈がある。我々は性によって生きている、存在しているということもまた事実であるのです…日本に対して絶望したり、憎悪したりすることない?この主張だと公的な場では愛国的な作品しか見れなくなるよ。誇りに感じている日本の歴史を振り返れよ。ほら、「みんな憎んでる」としか見えてない
id:onigashira_3追記読んでも主語デカいなとしか思わなかった。個人の話を男女の話として語ってるだけ。  
id:kiku-chan複雑な問題なのに、単純化したブコメ星がつくのな。/ 戦略として「思考停止」って言葉を使わないほうが言葉は届いたのかな? 丁寧に言っても届くべき人には届かないようにも思うが日本過去の過ちに言及すると「反日だ!ヘイトだ!」と騒ぐ人の思考が見えた気がする。そりゃそれを見せようとして訳でな
id:myogabとは言え、切りが無いよなあ…。襟足や首筋や足首にフェティッシュを見出す者も定番として、古来から居たわけでな…。裸にペイントしたような「服」は画力が無いよな…とdisりながら潰してゆく方向かなあ。苦痛があるのは理解するが、被害者特権を振りかざし更なる弱者により酷い苦痛を与える事を容認する事には無理があるわな。弱者恫喝サヨクだと批判してきた事だろ。建前は守れよ。まず救う事によって救われようよそれ結局弱者トーナメントっすよね。あなた基準では後者の方がまだ強者だとおっしゃってるだけで
id:mimoriman貞操逆転世界をみんなに読んでほしい。原作エロ同人らしいんだけど、商業化で女の子主人公に。男性性的な目で見られまくる世界転移してしまう話。正直ここまで女性エロと密接に生きてきたのかと衝撃だよ?言葉尻をつかまえてるブコメ多いけど、たぶん若い子はこんな考えの人多いよ。自国ディスしまくりのインテリ層の大人辟易しながら成長したんだよ。今の若い衆、そんななの?
id:pikopikopan最近性の教育が適切でないから、無駄に傷ついたり傷つけたりして、結果殴り合ってるのではないかと思い始めてる。  
id:tomoya_edw性的消費」という文言への思い込みいね。この絵の対象世代はとっくに意識変わってるのにな。思考停止はどっちなんだろうか、女性という性はそこまで特別扱いか?この作品ですらその部分の捻りがあるのに。思考停止という言葉は嫌い。誰だって考えている。同じ言葉とて受け入れられるタイミングは異なる、そういう経験あるでしょう。党派性は雑フィルターだと思っている、普段は働かせていないと脳みそ負担がでかいとはいえ、何のフィルタもなしに世界を受容することが出来るかというと
id:tatsuya_memo宇崎ちゃんワンピースセーラームーン。挙げられた個々の例へのスタンスはどうあれ増田主張の骨子は理解できるはずだし、特に男性は深く受け止めるべき。意識しないと無自覚女性差別し続けるよ。自戒を込めて。例のポスター表現の自由が侵害された案件ではなく、ミラーリングのつもりなら不適切萌え絵を扱った美術展に展示されていたとしても誰も文句言わないだろう。その他ツッコミどころ満載で頭の悪さが溢れ出ている。ところがぎっちょん、美術展にも放火あったんだなぁ
id:RRDこの議論からポジショントークしかできないアニメアイコン排除して欲しい。まずはそこからそもそも日本」ってなんだ? ってところから考えるのが思考だよ。こいつは間違いなく、「日本」とはなにか考えたことがないことが文章からよくわかる。考えたことない人、ちっすちっす。いきなりアイコンだけで排除しろって、それ考えてやってるの?
id:mohno思考停止しないで聞いてほしいが、「不快ものから否定するのはおかしい、表現の自由」という看板を掲げていたあいトリエンナーレ応援してた太田弁護士自分不快とき看板下ろすなよ、と言ってるんだ。そもそもあいトリエンナーレ」は実施から男女平等じゃないくらものすごいことが起きる」と“認識してやったこと”だから、“予期せず話題とされた”であろう「宇崎ちゃん」と比べるものでもないんだよね。そこまで細かいフレームを比べだすと、凡てモノは比較できなくなるのでは
id:Ayrtonismこの意見に賛成の人も反対の人も、一行一行に反応するのを止めて、一旦最後まで読んで、胸の中に収めて、咀嚼して、消化してみてほしい。それくらいよくまとまっている。自分もすごく参考にしたい。最初から前提が全く理解できないので、全編通して全く理解共感もできない。「日本に対する憎悪を煽っている」という自分勝手に設定した前提を疑わないことこそが「思考停止」そのものじゃん。理解できないんじゃなくて理解したくないんでしょ?宇崎ちゃんエロ、って自分勝手に設定した前提じゃないって言いきれるの?
id:deep_one非実在に対して「性的に消費」とか言われてもな。しかもあのレベルで。そう来るか。当たり前だが元を崩せないから内容は無茶苦茶だな。そこがこの芸の弱点よ・・・
id:asx個人としてあの手のイラストは好きじゃないんだけど、ただの「お気持ち」だと自覚してるからなくせとは思わない。基準があるようでない「性的消費」を印籠にこの手の議論をするのは悪手なのでは。思考停止」という言葉、左右フェミその他問わず結局「自分意見が違う人間は間違っている」とイコールで使われすぎで、この単語を見ただけでそっ閉じしたくなる昨今。正確には「この思考に従って停止せよ」って話よね
id:EnergeticDuckセーラームーンSM連想させるので公に出すな、まで言うならまだしもフェミニストから同じ熱量で上がってきた事は無いので、お気持ちでしょう。自分を善人の顔した利己主義者だとも振り返って頂けませんか?"日本を憎むことは普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。" 子供自己肯定感かに関係しそう(アメリカ人アメリカ肯定感つよそうUSA!USA!が大前提からあいつら・・・
id:kyoto117性的に消費」という言葉定義がよくわからない。性を意識する部分を強調した描き方をしたポスター問題なのか、それを使うことが問題なのか、ポスターを見て「性的に消費」することが問題なのか。単に文字遊びをしたいのか、事象皮肉りたいのか、だとすれば対となる元ネタとしてこれを採用した意図は何か、つまるところどういう効果企図したのか、全てにおいて不明瞭。わかりやすくいうと覚悟が足りない無名者に何の覚悟の在らん。迷陽迷陽无傷吾行
id:grdgsあの絵が性的欲情を狙って描かれているのは明らかだからな。一応言っておくが性的がすべて駄目ではなく議論余地はあるってこと。議論スタートにも立たず「オキモチダー!」ってそれこそお気持ち思考停止だよね。あれを作った人・支持する人は日本を憎んでいるという発想が間違っている。「憎んでいるに違いない」というお気持ちだよ。被害妄想批判=増悪と単純につなげる雑な「思考停止」多すぎ。自陣以外に正しいお気持ちはないらしい
id:world3話の前提がおかしい。献血ルームは日本赤十字の管理する私的空間であって公共の場ではない。なんだかよくわからんけど、元ネタの出来が悪いから改変後もイマイチすまん、こういう時はすべて改変者がへっぽこなせいだ・・・元ネタ悪くない
id:teto2645ただ単に面倒で図々しい人。なるほど。思考停止という言葉には普通に考えれば自分と同じ考えにたどり着くはずなんじゃ低脳どもが、という意味がある訳ですね。わかりますまあ、左側の前衛史観に立つとそうなりがち
id:amematarouあれを東京オリンピック公式キャラにして世界に発信する事を考えてみてよ。公的機関がやる事じゃないって思わんのかなぁ?こんな奴がいるから、漫画アニメオリジナル天皇が出てくる作品が作れないんじゃないの?漫画オリジナル天皇出てくる筋が見えねぇ・・・
id:ug_idolsexual objectification の概念なんて馬鹿には理解できない  
id:right_eyeでもそれを言うならアイドルガーリーな服等も性的消費だし、性的消費を肯定する女性向けの媒体女性誌のモテファッション特集等)も全てアウトと思いますが、なぜポンチ絵ばかり?思考停止せず答えて貰えますか?検閲を是とする気も少女像否定するつもりもないが、「これは日本人に向けたものではない」「これは日本否定ではない」という主張には説得力がないと思う。明らかにその要素はあるし、あった上で表現の自由が必要萌え絵あなたに向けたモノではない」
id:tikuwa_oreうん、いいから、黙って病院に行け。脳の。自分モデルになってるワケでもない単なる「絵」を、「女性」という共通点つのみで自分と同一視するんだからマジで病気以外の何者でもないワケだが。表現不自由展については「国家自治体国益を損なう表現に対し公金で支援する必要はない」「民間企業個人が自費でやる表現国家が口出ししてはいけない」でいいんだよ。 
id:kincity女性社会からどう見られたいのか」って人間として見られたいんじゃないの?男は精子供給するだけの存在と見られたいの?/「黙って病院行け」←君がな。君女が男より犯罪率高いてデマ流して撤回もしてないだろまぁ昔はそこらじゅうでフィリピンかにまれててそれが雑誌に載ったりカジュアルにしてたんだけどね。古本屋行ってごらん。じゃあ、昔はいっぱいあったかヌードカレンダー復活させようぜ!って違うだろーッ!
id:laislanopira……。あるいは一番正解かもしれない
id:inferio北拳見て現実人間殴るヤツはそいつキチガイだ。エロい絵見て現実人間危害加えるやつもそいつキチガイなだけ。自分不快に思う以上の意味を持たない主張に社会正義のような絹を纏うやり方は不誠実だまず旧日本軍ていうのがキチガイカルト民衆がハックされた状態なわけで、そんなもんに唾を吐きかける表現が今の日本の何を傷つけるのか分からない。オウムテロの行状くさして展示してるようなもんやろオウムほど彼岸ではなくない旧軍?ってか、その孫曾孫に至るまで謝罪のため拝跪せよって話なんすけど先様は
id:udukishinだったらスナックとかキャバクラとか接待する店を非難しろよ。あっちは「実在する人」が性的搾取されてるぞ。「生活のため」?ならイラスト関係者や漫画家は?他の職業しろ?それならスナックとかも同じだろ!あーなるほど「それ敵増やすだけだからやり方考えよ?」と言いたいのか。それはわかる。そこまでどっちかに肩入れしたいわけではない
id:LittlePenguin新宿二丁目ポスター修正が求められるのと同じだね。制限かけたい人々がいる。 http://murapo.sakura.ne.jp/pl2/?p=84弱者ランキングが始まったようですね。併せて性的消費で女性弱者なのかBLについて https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1910/23/news105.html[後で読む]
id:mutinomuti増田性的搾取されていると感じる公的コンテンツは許されない(´・_・`)まで読んだ読んでないけど思考停止するなと言う人の多くが思考停止してあらかじめ自分の考えたストーリーしか提示できないので読む価値は低そうである(´・_・`)逆もまた言えなくはない、という話なので、そこが読めれば見る価値が低いことはある
id:mukudori69あの絵自体は明らかに、胸を強調するための構図・彩色・視線誘導だよ。性的魅力を強調するため以外の目的あるんだろうか。性的魅力の強調度合いは露出や肌面積で一義的には表せないと思う。してやったりと思ってるのかな。苦笑しかないけど。公的な場って何回も自分で書きながら意味差異を考えなかったの?…書いてないのか。しょーもな自分で書いておきながらその共通性も考えなかったの?しょーもな
id:quick_pastサヨ叩きしてる愛国者連中や、少数者を社会から追い出してコスト削減したがってるネオリベとか、これもだけど行き着く先は欲望を好きな時に開陳できる、ケンのいない北斗の拳なんだが、それでいいわけか?から、なんども言ってる通り、ちゃんと、相手言葉を、一度でもいいから、真っ直ぐ、聞いて、知って、その上で解釈して、それから自分なりに考えたことを、書いてください。一度でいいから、脳味噌を通して。君も、条件反射じゃなくて、一度でいいから、脳味噌を通して。
id:cha9ファンタニマチらによる一大性的消費コンテンツ男性の裸体丸出しの大相撲公共放送毎日お茶の間に届けられてる異常な国ニッポンに関して増田はどう思ってるんやろ。伝統だしセーフは無しな、元は丸裸なんや自然文章だなと思ったら改変後の主体おかしい。比較揶揄するならフェミ弁護士の双極になるのはガソリン脅迫犯や電凸やった奴ら。で日赤漫画作者に当たるのが表現不自由展。日本不自由やと思考停止の例何らかの表現を葬ろうとした段階で同じでは。フェミ弁の双極はあえて言うなら名古屋市長付け火して煙喜ぶ連中よ
id:frothmouth🤔 フェミニスト学会とかで、この絵は性的ポイント何点とか基準を作ったらどうだろう?80点以上はフェミニスト的には禁止とか?もちろん、社会の側はそれに従う必要はないけど...パロディなのか真剣なのか7:3位っすね正直
id:mouseion自衛官イケメン化するのも辞めて欲しい。僕はごつごつしたラグビー稲垣選手みたいな自衛官の方が大好きです。むしろ野人系推してけよ~。アゴラ読売記者ネトウヨがね、この間僕を名指しで日本不自由なのか“バカサヨ”って発言してるのよね。そのリテラシーの欠片もない不自由発言を僕は評価したい。左翼バカなら右翼もっとバカなのだとね。ごめん誰か解説して

anond:20191019000050

2019-10-26

確率分野の余事象問題に苦戦している。

ベン図を使って余事象を考えるとかって、基本のキの字だと思っていたけれど。

トレーニング次第なのかな。。。

教科書参考書の例題をみるとなるほどーって思うけれど。

いざ問題を目の前にすると、足踏みしている。。

 

言語論理

図形と論理

組み立てる力って、どうやったらつくのか?

久しぶりにはてな民バカだと思った

松本人志探偵ナイトスクープ局長になるというニュースブコメ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191025-00010005-wordleaf-ent

まだ実際どうなるかもわからないのにあれこれ想像仮定で嫌がっている。

また、松本人志を起用するか否かの権限は我々にはない。

代議士のように選ぶシステムにないものをあーだこーだ文句つけている。

脳と感情リソース無駄

お気持ち」でブコメしてももちろんいいんだけれども、その「お気持ち」の質が幼いというか、動物的というか。

繰り返すけれど、現象が起こってから批判しろよ。

現象が起こる前から批判するべき事象との区別もつかないのかよ。

2019-10-24

自分神経質なのかなと思うところ

病院の診察待ちでよく起こること。

病院の受付に行くにはエレベーターに乗る必要がある。

自分が一番最初エレベーターに入る

→後からエレベーターに人が続々乗ってくるので、開ボタンを押して全員乗るのを待つ

目的階でエレベーターが止まる。自分が一番操作盤の近くにいるので開ボタンを押し続け一番最後に出る

→結果、後から来た人たちのほうが早く診察券を出し、早く診察される

たまに、診察券先にどうぞって言ってくれる人もいるけど、ほとんどない。

病院に限らず、飲食店でもよく起こる。

この事象にいちいちモヤモヤしてしまう。

目的地(この場合は受付)にいち早く着いた人が一番目であって、エレベーターにどれだけ早く着いたかどうかは関係ないのだ、と自分に言い聞かせている。他の人を押しのけて我先にエレベーター降りるのもなんか恥ずかしいし。

でも毎回毎回モヤモヤしてしまう。

2019-10-23

問題問題にしない限り問題にならない

なんてことを誰が言ったかは覚えていないが、実際その通りだと思うことは日常に溢れている。

あらゆる事象に対して、翻すなり適当物差しをあてがってやれば問題の一つや二つ浮かび上がらせるのは難しくない。

実際問題にならないものでも無理やり問題にすれば問題になりうるというわけだ。

それは言い換えれば「こじつけ」だとか「いちゃもん」の類で、気取って難しい言葉を使うなら「牽強付会」にあたる。

そもそも問題だと思っていない側は、さぞ頭を抱えるだろう。

是非もなしと考えているため、擁護のための理屈を持ち合わせている人間は少ない。

問題にする側の言うことは大した理屈ではないが、それでも一理あることは確か。

見過ごせば問題だと暗に認めることになる。

そうした危機感を持つものは、屁理屈に乗っかるなり突っぱねるしかない。

とどのつまり不毛な諍いの勃発である

たぶん、問題にする側は何らかの意図があるからこそ問題にしているのだろう。

しかしたら「問題にしてやっている」くらいの自負があるのかもしれない。

何か漠然とした、世界をより良くする“何か”のために。

しかし、その結果やるのが相手が折れるまでやめない屁理屈合戦だというのだから、この世界治安は益々悪くなる一方である

監督作家から見る「ジョーカー分析

話題映画ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキング描写気持ちは激しく動揺した。

これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。

まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である社会が見せる夢に取りつかれた青年現実妄想の間でもがく、という題材をひとつテーマとしている監督だ。アメリカンドリーム皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者狂信的な思いを貫くことで結果的社会カウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組司会者を演じているのも意図的皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。

だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。

似たような余韻を残す作家連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキー絶望職人であるこちらも現実妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失のものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。

では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップス独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアル描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ

過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激モチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか

だとすると、やはり「ジョーカー」という作品社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会ありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか社会問題全部盛り、過激表現シマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺意図や分かりやすメッセージはおそらくそこにはない。

新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である

※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及たかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した

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