はてなキーワード: 事象とは
https://www.itmedia.co.jp/business/spv/2001/06/news029_0.html
を見て。
女子大生くらいの女性がイベントコンパニオンと同等以上に稼げるバイトは少ない。家庭教師、水商売、風俗くらいだ。
この中で、家庭教師が出来るような人はそもそもコンパニオンをやらない。
つまりイベントコンパニオンの仕事が無くなったら、今までこの仕事で稼ぐような人達は水商売か風俗しか稼ぎ場がなくなる。あとは出会い系サイトを活用したパパ活かAVくらいだ。
その結果、その手の仕事は人材供給過多となるため、キャバクラや風俗店は女の子の質が上がって利用料が下がるという事象が起きる。
上記の記事を書いた人が最も嫌うエロオヤジ層が得する展開になるのだ。
バカだねぇ。
不謹慎だのなんだの言われるのはしょうがないが、全員が全員、バズりたくて投稿したわけではないのだと思う。
どう反応すればいいのかわからないのだと思う。
津波の時に状況を報告する感覚と同じだったんじゃないだろうか。
初めて出会った事象にどう反応するのが正しいかわからず、SNSで答えを求めたくて投稿する人もいると思う。
嫌な思いを吐き出して軽くなりたいから投稿する人もいると思う。
もちろん仏様を撮るのはその人と関連する人、知る必要なかった人にまで何かしら嫌な思いをさせる事になるかもしれない。
知る必要がない人にとっては昔あったチェーンメールみたいな感覚だと思う。
それに、個人が特定される可能性がある状態で拡散する事自体、冷静に考えれば自分自身にも社会的な影響があるかもしれないから拡散なんてやるべきじゃない。
とにかくショックだった。
しかも無理やりではなく、母の了承を得てコトに至ったと言う。
いや酔っていても思春期の息子にそんなこと話すなよ、と思ったが、それよりとにかくショックが大きかった。
父も母も公務員で真面目な両親だった。
なぜそんなモラルのないふしだらなことをしたのかと思い悩んでしまった。
いや、一時の快楽のためにリスクを犯すような愚かな親ではないはずだ。
わりと家族間の距離は近い方で、父は私に「そのときがきたらゴムつけろよ」と言われたこともある。
まだ私は彼女がいないので、いつも面倒くさそうに「彼女いねぇ」と返していた。
そんな父親が自分はコンドームを付けなかったこともあるというから驚きだ。
高校生にもなると友達が彼女やエッチの自慢をしてくるようになる。
ただ当然コンドームはつけているようで、同級生は「生でしたい」だの「ゴムがきつい」だの言っている。
先日、部活の先輩は「生でやった」と部活のみんなに自慢していた。
ただ当然外に出したようで、話を聞いていた他の同級生や他の先輩も羨ましそうにしていた。
コンドームではなく、女性側のピルという方法もあるが、費用面と通院の手間があるため、まだまだコンドームよりは一般的ではないと思う。
それだけ私の中でコンドームを付けずに挿入し、そのまま中で出すというのはありえないことなのである。
ここでさらに衝撃的な話がある。
完全な極悪人だ。
安全日だからってコンドームを付けずに挿入していいわけないのに!
危険日にそんなことを・・・
本当に頭が痛くなる。
んだね。
「こんにちは」は「こんにち(今日)はいいお天気ですね」とかそういうのの短縮だし、「こんばんは」も文字通り「今晩はいい月夜ですね」とかだもんね。
夜に「今日はいい日だね」って言うのはもう終わりかけの日に対して言うにはちょっと難しいから?
フランス語は「Bonjour」は「Bon(よい)」「Jour(日)」で、Bonsourは「Bon(よい)」「Sour(夜)」だよね。
タイ語のサワディーは人と会った時の挨拶の他に人と別れるときにも使われるらしく、語源は「Sawat(善、平安、繁栄、幸福、安楽)」「dii「良い」」とのことなので、人と会ったときにその時間の事象については言及しない国には、時間による挨拶の使い分けがないのかもね。
これを言い出したのは、要するにしばき隊とかそのあたりの左翼が「日本人に対するヘイトを在日がやってたのを擁護する必要性に駆られて」なんだよね。
日本人を取り囲んでリンチとか、そういう朝鮮学校のヤンキーみたいな事象をヘイトだと認めると何かと都合が悪かったんだよね。
だから「多数から少数がヘイトで、少数から多数へはヘイトではない」という独自ルールを作っちゃった。
でも、世界のスタンダードから見ると、「むしろヘイトスピーチやヘイトクライムは少数から多数への過激攻撃においてよく見られる」ので、混乱が生じてる。
過去の虐殺なんかも、少数派が人種的優位性を主張して、多数派の女性への婦女暴行やレイプなんかを扇動しやらかした例はごろごろある。
なんでこんなことになったかというと、彼ら社会運動家と、その思想を保証する社会学者系のインテリは、とりあえず理論をでっちあげて検証をしないことにあるんだよね。
明らかな間違いを犯した理論も、すべてアカデミズムの肩書で保証してしまう。
このあたりに社会学とか文系学問出身運動家の腐敗があるわけなんだけれども。
川崎のヘイトスピーチの話も「外国出身者以外にもヘイトスピーチはあるかないか」というばかばかしい理由でもめた。あるに決まってるのに、左派系が必死に抵抗した。
アレは、「ヘイトスピーチはあらゆる属性が対象になる」なんて基本を、「他の属性差別はフリーにしておきたい」という意図でかなりもめた。
「ウミガメのスープ」型の問題(水平思考問題などと言うらしいが)を楽しもうと思い検索しているのだが、どうもつまらない問題が多い。出題形式こそ「ウミガメのスープ」と同じだが、この問題の良さを正しく踏襲している問題は、少ないどころかほとんど見当たらないのだ。そこで何故、他の問題が「ウミガメのスープ」のように機能しないのか、この種の問題はどのような理由で悪問となるのか、ということを考えてみることにした。
Q. 薄暗い部屋で一人、ピアニストの女性が熱心なファンレターを読んでいた。読み終わってすぐに彼女は、自らの死を悟った。何故か。
A. ピアニストの女性は盲目でファンレターは点字。点字の間には毒針が仕込まれていて、ファンレターの最後に毒針のことが書かれていた。
これは私がつまらないと感じた悪問の典型だ。この例題の問題点は客観的に明らかであるはずの手紙の文面や毒針の存在が明かされていないことだ。それらを知っていれば謎など全く存在していないにも関わらず、出題者の脳内の状況を明らかにするために質問を重ねていかなけばならない。何故、こんなことが起こるのだろうか。
普通、推理の問題というのは答えに必要な情報は予め開示しておかなければ成り立たない。だが「ウミガメのスープ」型問題では回答者が質問をし、それに出題者がYes/Noで答えるというプロセスが含まれる。そのため、普通なら許されない情報の後出しが許されてしまうのである。出題者はあえて問題文を曖昧にし、部分的な情報しか明かさないことで、回答者からの質問回数を増やし、あたかもこのゲームが機能しているように振る舞わせることができるのだ。だが実際はこの時に行われているのは推理ではなく、単なる問題の補完に過ぎない。
例えば算数の問題に置き換えてみよう。まず、「3218+877=?」という問題。これは暗算で解くには少々集中力を要する問題と言えるだろう。次に「a+b=?」という問題。こちらの問題では回答者が「aに入る数字は1ですか?」「2ですか?」「3ですか?」…とひとつずつ尋ねていかなければならず、最終的に明かされる問題が「2+5=?」となっているとしよう。結果的に問題を解くのには同じぐらいの時間を要したとしても、どちらの問題がより思考を要するかは明らかだ。このように問題を明らかにする過程というのは決して知的なものではなく、単に参加意欲を満たすだけのプロセスでしかないと言える。
この点、「ウミガメのスープ」で伏せられた情報は非常に自然だ。情報の欠落は男の過去に限られており、これは客観的に起こりうるものだ。問題文の因果関係に偽りは無く、ウミガメのスープを食べた事と男が自殺した事という一見繋がりの無い2つの事象を結びつける男の過去を推理している。必要な推理材料は最初から揃っており、極論すればヒントなしでも真実に行き着くことすら可能だ(逆に言えば多くの問題は出題時点では問題として成立してさえいないと言える)。実際に作るとなると難しいのは確かだが、このように問題としてきちんと成立した良問が増えていってほしいものである。
(変則的な例として問題文に叙述トリックやミスリードが含まれているパターンもある。これについては回答者の気付きひとつで解けることもあるが、推理小説の面白さと叙述トリックモノのミステリーの面白さが別と言われるように、やはり別ジャンルと扱うべきで、どちらかと言えばクイズのような出題形式が適しているだろう。)
好きすぎるが故に盲目的になりすぎて指摘を一切認めず、時には逆上するところ
アナ雪ステマ騒動で漫画家のオタクが「漫画家は悪くない!ディズニーと広告代理店が~」「そもそも何が悪いのか分からない」みたいな擁護と責任の押し付けをしてて心底気持ち悪いかった
それだけじゃなくゲームオタクはゲーム依存っていうWHOが正式に認定した障害に対して「ゲームが悪だというのか!」「ならあれはどうなんだ!これはどうなんだ!」みたいな頭の悪い反論したり、AAAのオタクはAAAが逮捕された時に逮捕された人を擁護したり
(ここでいうオタクは『自分の好きな事柄や興味のある分野に、極端に傾倒する人。』 )
嫌でも肩入れしちゃうから自分が好きなことに関して客観的に見れない
それだけ好きになれることは悪い事じゃないけど自分達で自分達の首を絞めるだけって事が分からないのかな
・追記
伝わると思って語を変えなかったらまともじゃないと言われたので編集
自分が仮に転職したらという働き方というイメージが全く浮かばなかったし、
正直なにもかも足りてないという思いがあったので緊張よりオタク特有の早口でずーっとしゃべっていたら終わった。
...こんな自分にもJob description来るのかな?正直、途中で遮ってしまったことがあったし、コミュニケーション能力に欠けてる、はい終わりな気もしてあーーーorzと反省している。
いや、このエピソードは外資系でワールドワイドだからって内容ばかりだったから。前のめりにもなる。
サポートエンジニアで直面した技術的課題や仕事を聞いていると、
本番でやらかし系エンジニアのadvent calendarよりよほど楽しくて、
SREが30人いるユーザー企業と仕事をするとこんな感じなんだという憧れしか募らなかったが、就活生に立ち返ったようで楽しかった。
さて、おおさわーくすこと大澤氏が燃えている。ここでもまとめられているように、
今回の一連の発言の中でもっとも問題が明確なのは、11月20日午前11:12の以下のツイートです。「弊社 Daisy では中国人は採用しません」。なおこのツイートには11月24日18時時点で、318件のリツイートがなされ、511件のいいねがついています。
https://twitter.com/Ohsaworks/status/1196974667422035968
続いて同日午後1:21には、他のアカウントからの批判を受けて以下のようにツイート。「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」。
https://twitter.com/Ohsaworks/status/1197007069464842240
同日午後2:02には、さらに別のアカウントからの批判を受けて「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします。」とツイート。これは460件リツイートされ、385件のいいねが付いています。
という発言が問題視されてのことである。最初に見た時、これはめちゃくちゃな発言であり、こんなことをいう人間が身近にいたら絶対にお付き合いしたくないと感じた。しかし、『とんでもない差別許すまじ』とか『東大/マネックスに訴えて直ちにやめさせるべき』ということは思わなかったのだ。今となっては直ちに訴えるべきであったなあと思っているのだが、自戒も込めて、なぜすぐにそう思えなかったかということを書き記しておきたい。
『学環』といって一括りにするのは間違っていることは百も承知であるのだが、あえて言わせてもらうと、一部学環関係者のレベルの低さは底が抜けているように思う。私学のお飾り教授よりもはるかにひどい例が散見される。例えば大澤氏を除いて学環出身者で最も有名なのは落合某だと思うけれど、彼は知りもしない社会科学にしょっちゅうくちばしを突っ込んでいる。本業で何をやっているのか全く知らないけれど、他の分野のサイエンスにちゃんと敬意を払えない人間がまともな教育を受けてまともな研究をできているはずがない。あとしばらく前に炎上したのは『様』付けメールをもらってTwitterでぶちぎれていた伊東乾。教授という職業を己を飾るアクセサリーの一つ程度にしか考えていないことが明々白々である。あともう一人、個人的に比較的近くで見たことのある教授がいる。その人のグループが呼んだ講演者のセミナー要旨を見たことがあるが、完全に論理関係が破綻していた。論理関係が破綻しているというのは屁理屈とかそういうレベルではなく、モーダスポネンスや三段論法が成り立っていないとかそういうような次元の話である。高校生ですらもう少しまともな文章が書けるだろうなと思ったことを記憶している。もちろん、この講演者だけがヤバかったわけではなく、その人のグループの構成員のセミナーも後で見たが論理関係が完全に壊れていた。『情報』と名付けるからにはカリー・ハワード同型くらい教えてみてほしい。
というような感じで、見聞きした関係者でアカデミアにいる人々が全員、自己顕示欲に比べ人格・能力が釣り合っていないように思え、今更そのサンプルが増えたところで、すでに感覚がマヒしており別に何とも感じなかった。学環の一部関係者のせいで、増田のような外部者からは学環周りの風評はすでに地に堕ちており、今更東大に被害を与えるというようなことも想像できなかった。
問題視されている発言のもととなっているのは、例えば「中国人のパフォーマンス低い」というような話である。事実ではないことは明らかである。『人種、信条、性別、社会的身分又は門地』とその人間の能力は全く関係がない。こんなことは幼稚園児でもわかることである。ましてや2-30年も生きていれば優れた中国人系プログラマーなんていくらでも心当たりがあるだろう。正直ばかばかしすぎて、まともにとらえる気にもならなかった。大体がそもそもこのような根拠もクソもない妄言を吐く人間がまともであるはずがないし、それは彼のHTTPS周りの発言からも明らかである。まともでない人間のやっているまともでない会社に雇ってもらう機会を逸したところで痛くも痒くもないのではないか。そう思っていた。
しかし、それはどうやら増田が日本人で他人事だからそう感じただけらしい。よくネトウヨキッズが言うような『俺がお前の立場なら事実を言われても何も思わないけど?』という論理にはまってしまっていたのだと思う。そもそも考えてみれば『未踏スーパークリエーター』で『東大准教授』の発言である。ある種の権威や圧力をもって聞こえる可能性はあるわけだ。増田なんかはそもそも学環というだけで権威性に-infinityのゲタをかませているのだけど、世間的にはそんなこと関係がないだろう。上に書いたようにあまりにもばかばかしすぎて扇動にすら聞こえなかったのだが、『学環』とか『イキリ倒してる人』とかそういうバイアスを外して、「東大准教授が中国人の能力が統計的に低いと発言した」と言えばその問題点は明らかであった。
というわけで、バイアスがあったりすると人間はどうも問題を矮小化して捉えてしまいがちであるらしい、というお話だった。まあよくよく考えてみるとこういう事象は政治家の発言とかでもしばしばあって、安部や麻生がどんな妄言を吐いても国民がスルーしてしまうのに似ていなくもないかなと思った。
あと東京大学は大澤氏をパージするのはいいんだけど学環全体をお掃除してください。まじめにやっている人たちが(いるのだとは思いますが)かわいそうです。
誰かが言わないといけないことだけれど、だれも言わないから言う。
BL好き腐女子、エヴァ大好き左翼、エロゲアイコンだった学者。
おじさんおばさんのオタクの一部が、差別で自意識を拗らせた結果おかしなことになっているという話だと思って聞いてほしい。
彼らは、エヴァ放送時に、衝撃を受けてこんなアニメがあるのかと驚いた世代だ。もうちょいわかりやすく言うと林原めぐみ直撃世代か、そのもうちょい前。
深夜にアニラジを聞きながら、エヴァを延々と語り、オタクの仲間内で、「この作品なら一般人に見せてもばかにされないんじゃないか」とかひそかに期待していた世代だ。
同時にあの時代のオタクは、自分を肯定して生きていくことが厳しい時代だった。
オタクと呼ばれると、どんなに社交的で、どんなに良い人格で、どんなに収入があっても、社会的信用が失われる時代だ。このあたりの空気を知りたいというひとは、
https://togetter.com/li/1220676 このあたりのまとめがマイルドに教えてくれる。
もっと空気感だけ味わいたいなら、飛んで埼玉! の空気感。バレた瞬間最下層民になるって時代。
だから、アニメ好きは必死になって趣味を隠し、隠れキリシタンならぬ、隠れオタクという言葉が普通に流通していた時代だ。
声優ソングの歌詞を見たら、みごとに「生きにくいオタクの共感を呼ぶ曲ばっかり」だ。
自分らしく生きていくということを大変だけど頑張ろう、っていう曲だ。
そんな時代に作られた林原めぐみの「don't be discouraged」は、差別の垣根を越えて、「ゲイやオカマの心をガッチリとらえた」という現象まで起きた。新宿二丁目では涙を流して歌う人物もいるそうだ。「生きにくい世の中だけど、勇気をもって好きなことに邁進しよう。理解されなくてもきっといいことがあるよ」というのは、まさに被差別属性を持つ人々の心をとらえるだろう。そんな時代だった。
僕らが生きたのは「好きなものを好きというだけで多大なリスクを覚悟せねばならなかった」という時代だ。
余談になるが、当時の深夜アニラジというのは、精神を病んだオタクの駆け込み寺にもなっていた。声優さんにガチの人生相談が舞い込んだ時代だ。
学校でオタクだと馬鹿にされてつらいとか、いじめられているとか、そういうはがきが普通に舞い込み、それを声優さんがガチに回答するような、かなり狂った時代。あの時代のオタクの空気はまさにどんよりとした息苦しさをまとい、まさに被差別階層の様相を呈していた。それにしたって、なんで声優さんラジオに人生相談をするんだ、と言われるかもしれないが他に相談できる場所がどこにもなかったのだ。親も、教師も、友人も、兄弟も、警察も、政治家も、すべてがオタクにとっては敵だった。もう顔の見える敵ではない存在が、漫画家や声優しかいないというのは、あの時代を体験したものでないとわからないだろう。当然ネット環境もない。
そんななか、差別に直面し苦闘したオタクたちはオタクと呼ばれるのを極端に恐れていた。
「俺はオタクじゃない。マニアだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。ゲーマーだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。アニメ好きだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「オタクってキモいよね」と言われたら、正体を隠して「そうだねえキモいよね」と内心冷や汗流しながら相槌を打ってた時代だ。
当時、いじめられ、差別され、迫害され、バカにされていたオタクたちの一部が、「なぜ自分たちが差別されるのか」を必死になって考えるというのは、もうこれは宿痾の妄想のようなものである。
そんな中、一つの逃げ道に走ったオタクがいる。それが現在の左翼系でオタクバッシングをやっているオタクである。
「オタクはダメな奴らだ」とサブカル内部からオタクを批判することで、一般に認められようとする道を選んだ人間だ。
彼らの言い訳は「左翼思想からサブカル的にオタクを分析するためにオタク文化にかかわっている」というものだ。
「自分たちがアニメ・ゲーム・マンガ・ラノベを見るのはサブカルチャーの研究をやっているからだ。だから恥ずかしくない」と理論武装しなければ、好きなものにかかわることができなかった。
大学のサークル棟や居酒屋で、現実に起きた現象とアニメ作品をひたすらに絡めて、融合させて、一つの社会的事象としてとらえようと躍起になった時代だ。
具体例を挙げると、地下鉄サリン事件とオカルト系SF作品の影響を無理やりくっつけてトンチンカンな批評を、朝生みたいにオタク同志で語り合ったものだ。
それを見ていたクリエイターが「いまのオタクは作品も作らず、ただ批評ばっかりしてる」と嘆いていた時代。ただ楽しむではなく、「学問的批評という行動によって、ただのキモオタのブヒブヒ言う声ではなく、この作品が社会に与える影響や、社会的意義がどんなものか、左翼思想に合致するかチェックしている」という言い訳を自分に用意した。
彼らは、何の理屈もつけずにオタク文化を楽しむオタクを「ダメな奴らだ。キモイ。あんな奴らと一緒にしないでくれ」と、さげすむ自意識を持っていた。しかし、オタク文化は好きで好きでたまらなかった。
その鬱屈した倒錯は、傍から見ればただの変態の所業でありながら、それでも本人たちは大まじめだった。
左翼思想やフェミニズム思想を身にまとい、あのコンテンツはここがダメ、あそこが左翼思想から見るとダメ、右翼だ、女性差別だ、と言いながらアニメゲームマンガを消費したのだ。
ほかにも別の一派がいて、無理やり学問にこじつけて、オタク文化を鑑賞し、「CLANNADは人生」とか「fateは文学」とか馬鹿じゃないのかという発言が飛び出すこともあった。ネットで議論する際に「銀英伝」や「マブラヴ」で、政治を語り分析する人間がゴロゴロいた時代。
あれは、「馬鹿」だったのではなく「そうすることが差別を避けつつコンテンツを楽しむ作法」だったのだ。
しかし、時代は加速した。オタクは文化的にかなりの大成功を収めた。
オタク系候補が30万票や50万票取って、自民党の議員バッヂをつけてしまう時代だ。民主系や、社民系ではなく、よりにもよって自民党である。確実に時代は変わった。それも劇的に変わってしまった。(オタクが政治にいかに冷遇され続けてきたかは、それだけで10万文字を超えるエントリーを書かねばならないが、今回は割愛する)
要するにオタクコンテンツが一般趣味として認められつつある時代になったということだ。
そうなると何が起こるか?
いちいち思想とアニメを絡めて面倒くさい批評を書くよりも、萌えキャラがなんか頬を赤らめて「ばか」とつぶやくSS漫画をtwitterにあげるほうがRTといいねが数万単位で跳ね返ってくるようになった。
このアニメはリベラル思想に対して間違っていないか、とか考える面倒くさい学術オタよりも、SNSで萌え絵をアップして焼肉画像を上げてる大学生絵師のほうがよっぽど尊敬を集められる時代になった。
いまの時代、萌え漫画を読んだり、コミケに行ったりする程度で、「あいつはキモイオタクだから石を投げよう」みたいなやつはかなり減って、大勢がオタクであると公言できる時代になった。これは若い人達ほど顕著である。他人にどうみられるかを一番気にして、自意識をこじらせる男子高校生や女子高生たちが、人前で、FGOだのアイマスだのバンドリだののアプリのイベントを周回している時代だ。
オタク差別から逃れるためにくだらないうそをつかなくてよい時代が来た。
しかし、この時代はある一部のオタクたちには実に生きにくい時代になった。オタク趣味を低俗だ、腐敗してる、萌えなど女性差別だと繰り返しバッシングしながら、それでも萌えアニメや恋愛ゲームを消費せずにはいられなかったオタクたちだ。これには女子も含まれる。女子でも乙女ゲーとかそっち系のほうは「恥ずかしいもの」としてバッシングされた過去が間違いなくある。腐女子を恥ずかしいものとしてとらえてバッシングしたのは、「そういう意識が高い系のオタク、女子オタク」だったし、「腐女子の中でも様々な争いがあった」ことは間違いない。
彼らは、同胞のオタクを常にバッシングしてきたせいで、オタクにもたらされた「自由にオタク文化を楽しむ」という時代に参入できない。今更「実は俺も萌えキャラ大好きなんだよ~! バンドリ周回してる! アイマス最高!」とか職場の人間に言えない人生を送ってきてしまった。
ネット空間においてさえ「こんなものは女性差別だ。左翼思想の面から許容できない人権侵害だ。オタクがオタクをダメにした。オタク社会を俺が浄化してやる」ぐらいの発言をしてきた人間だ。
彼らもこっそりオタク文化を楽しんではきた。しかしオープンに楽しむなんてことはできなかった。それが許される時代が来てもできない。
だからこそ、全力でオタク文化が一般になるのを阻止しなくてはならない。
そうでなければ自分のゆがんだ自意識が、ただの卑屈さの産物であると認めなければならないからだ。
林原めぐみの作詞した歌詞のように、ドタバタ前向きに差別を恐れずに自分を肯定しながら生きていくということができればどんなに良かったろう。
しかしそれがいまだにできない。あの時代のえげつない苛烈さ、報道も政治も、だれもオタクを守ってくれない。その時代ゆえの後遺症だ。
だいたいは左翼的なシンパシーを持ち、左翼思想で自分を固めてきた。
左翼思想やフェミニズムが、彼らをオタク差別から守り、他のオタクと異なり特別たらしめている自意識だ。
それを用いて、オタクだとカミングアウトするのが明らかに不利益にしかならない時代を、何とか生き抜いてきた世代だ。
必死に左翼理論と自己演出で、オタク差別されないように自分を防御してきた世代だ。
世の中のオタク表現を常に探し、「これは左派思想に合致しないから規制すべき」とオタクをバッシングするのは、「自分はキモオタとは違う良いオタクだ」と差別を逃れるために左翼思想を選んだから。
若い人たちは彼らを見たら、「こんなことをしなければ生きられなかった悲しい時代があったのか」と思ってほしい。
「好きなものを好きというだけで多大なリスクを払わなければならなかった時代」があったことを少しだけ思い出してほしい。
追記 確かに主語が広すぎたと反省している。ただ、はてなとかで率先してオタクを叩いてるひととかはに、かなり当てはまるのあるケースだと思っている。