はてなキーワード: 学位論文とは
文系のことは知らんけど、自分のいた研究室は毎日来るのが当たり前の情報系だったので、そことは大いに違うな。
個人的感覚だと、研究室が課している出席のルールを満たしていてこれはちょっとあり得ない。
過去、卒論をそんな理由で失敗していた学生なら見たことはある。
一つ下の学年の自分から見てもヤバいと思うような発表内容で、回覧に出されていた卒論もほとんど何も書いてない感じのだった。
後で聞いた話だと、その発表をした学生はほとんど研究室に来ていなかったらしい。
...まあ、こういう状況で「これでは修士に値しない」はわかるけれど、それなりに研究室に来ているのにそれをもらうのははっきり言ってブラック研究室。
実際に見たことはないんだけれど、自分のいた学部にかつて卒論発表会で自分の学生にパワハラを始める人がいたらしくて、
その研究室に行くとヤバいってことが知られているところがあったな。
今でいうAIのような流行りもののテーマを扱っている研究室だったので、憧れだけで研究室を選んで地獄を見る場所だったらしい。
文系大学院の常識は知らんけど、自分の感覚だと修了率50%は相当ヤバいと思う。
この研究室で論文を書く場合って、指導教官はauthorに入りますか?
ゼミで指導をしたと言えば言えるのかもしれないけれど、文系の研究室はえらく気が長いんですね。
月1程度(1回1.5時間ほど)以外は研究について話すのNGなんですよね。
研究を進めるうえで研究室で特殊な機械を借りたり、先生の人脈を使ったりしてますか?
自分の感覚だと、その程度の相談時間で、研究室のリソースも使わないとなると、指導教官をauthorに入れていいのか怪しいレベルだと思うんだけど。
ちなみに、自分のいたところは毎日指導教官とテーマについて話してました。
論文を書くときは構想から相談して、添削もしてもらってました。
「増田君が言いたいことはこういうことでしょ」と先生が書き直したことも時々あったので、ぶっちぎりでauthor感があった。
これが1カ月に1回。ほんとに研究室の進捗がslowなんだな。
そして、シン・仮面ライダーのメイキング(NHK制作のドキュメンタリー見てくれ)よりもひどい世界だ。
早いフィードバックで何度も回すのが自分の周りだと普通なので。
もちろん、先生に毎回確認するのは気が引けるので博士などの人が先生に質問をするときに一緒に居たりして、一緒に先生の話を聞いて意図を組んで、その人と壁打ちをすることが大半だと思うけど。それでもって、その博士の人もauthorに含まれる。話しているうちに博士の人のアイディアが入ることもあるし。
は別に正直でいいと思うんだけれど、先生の知り合いでその分野に明るい人を紹介してもらって共同研究できないんだろうかとかは考える。
④ヒステリックになっていると言われる
「先生方は現状をどのようにお考えなのですか」の回答はそんなに問題があるとは思えない。
「お考えですか」だからね。
大学としてこの修了率は普通のことなのか、普通じゃないのか?みたいなところからだな。普通のことだったら、それ以上の会話はないよ。
普通じゃなかったら改善案についての話になるけれど、普通のことだったら改善などないからね。
正直、元増田のお気持ち表明以上の意味がある質問には見えない。
修了率が高い研究室に移れないかを考えてもいいとは思うけれど。
⑤計画性がないと言われる
ここまで読んでいて思うのは先生には学生を育てる動機づけがないってことかな。
先生の問題というよりも、大学やその業界の問題のような気がしてならない。
うちの分野だと自身の研究成果はさておき、育てた学生(特に博士)の数や研究も評価の対象になるので、下を育てることにそれなりの動機付けがある。
多分、指導能力がない(学生を育ててない)人はテニュアトラックに乗れないんじゃないかなと。
あと、先のところでも書いたけれど、もしかして、元増田の通っている大学院は別に修了しない学生が多くても構わないって思ってない?
自分のいたところはその分野の人材を育てるという意味合いもそれなりにあったのか、修了率はかなり高めだったと思う。中途で消えた人は見たことない。
でも、修了率50%でなんとも思わないというのは研究室どころか、その専攻科がそれを良しとしているとしか思えない。
え?先生って定形勤務なの?てっきり裁量労働なのかと思ってた。
働きたかったら何時間でも働いていいけれど、働きたくなかったら別に何もしないでもokみたいな。
ふんわり定時みたいなのがあったほうが自分も学生も働きやすいからそういうのをやっているだけかと思ってた。
でも、この書類もGW直後に見てもらうのだと間に合わなかったんだろうかとも思ったりする。
先生にだって休みの日を休みの日として過ごす時間は必要だと思うので。
家族サービス中にちらちらとメールチェックをするのはokですか?ngですか?
ちょっと研究室にいた時間と自宅にいた時間がかぶってて、なんかおかしいので時間帯はわからんけど、
理系だと追い込みの時期に研究室に住んでいるみたいな人は普通にいる。
ま、事実上研究室に住んでいるような人生を研究に捧げた先生なんかもいるらしいしね。
学位論文書いてた時は研究室から徒歩数分のソバ屋で年越しそば喰って、正月も研究室にいたけれど...
研究に費やす時間についてはこんなものだと思う。修了できなかったら死ぬみたいな気持ちでやってたのは事実で、文字通り命を削って学生してた。
親はモラトリアム楽しんで遊びに行っていると思っていたようで、恥ずかしいからと親戚の集まりに来ないように仕向けられてた。
労働基準法で守られているし、学位を取れなかったら死ぬみたいな謎な緊張感もないしね。
でも、指導教官の対応はなんかおかしいと思う。そもそも、学生を育てようとか卒業させようとかいう意思を全く感じない。
でも、それは個人の問題というよりもシステムの問題なのかもしれないとも思う。
もし、増田の分野が人を育てることを重視していないなら、それは業界の問題であって個人の問題ではないし、
そこは手厚い育成を求める人たちが行ってはいけない分野なんだと思う。
法テラス?
普通に考えると、この手のトラブルは弁護士に話す案件かなーと思った。他の人の状況や客観的な証言を集めたかったら探偵も使うのかもしれないけど。
学位論文「二極化する社会における社会保障制度」https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/1313/files/zk804.pdf
もっとも,表 2-3 において専業主婦・専業主夫の離婚率を見た場合,男性が専業主夫である場合の離婚率は,女性が専業主婦である場合より総じて高い。これは専業主夫のみに限らず,夫の所得が概して低い場合には離婚率も高くなっている。男性の経済力の不足は直ちに離婚確率を上げるという他の先行研究と整合的な結果が見られる。
普通に考えて夫が低所得になるほど夫からの離婚が増えるわけはないので、これは妻が夫を養うのが嫌になって離婚してるということだろ
妻が養ってくれないなら、そりゃ専業主夫になりたくてもなれないよね
人文系研究者のハシクレ(そろそろ若手じゃなくなりそう)として補足しておく。
文系、特に人文系では博士論文の執筆がキッチリ3年で終わる人は少ないし、博士課程にいられる年限を使い果たしてしまう人も多い。しかし、東大をはじめとした多くの大学では「博士課程単位取得退学後3年間のうちに博士論文を出して防衛できたら、課程博士と見なす」という運用をしている。
したがって、最近よく見る経歴は、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」というもの。これは単位取得退学したあとに博士号を取得した、という意味。
実際に単位取得退学で助教や講師のポストをゲットした人は最近でもたまに見かける。増田の同年代で2~3人くらい(あくまで増田の観測範囲なので、実際はもっと多いだろう)。まあ、そういう人たちは和文論文だけじゃなくて、英語論文(分野によっては+英語以外の外国語論文)書いてたし、下手な博士より論文数多かったけどね……。博士号取得者を蹴落として任期付きポストをゲットした単位取得退学者も知ってる。純粋に業績が多ければたまに博士号取得者ではなく単位取得退学者が選ばれる場合があるということ。
このように、形式上は単位取得退学でも応募できる公募は今でも多い。JREC-INで文系の公募を見てみると、「博士号取得者、あるいは、博士の学位を取得した者に相当する能力を有すると認められる者」っていう募集条件が書いてあることがあるけど、後者が単位取得退学を指している。こういう条件の公募、普通に東大でもまだ出てるからね。ただ、条件に書いてあるからといって選ばれるかというと、よっぽど卓越してない限り厳しいんじゃないかしら。
(修士号しか持ってなくても業績が卓越してれば採用されるというのは、みんな大好きユーリィ・イズムィコa.k.a.小泉悠センセが示しているところだと思う。彼はそもそも博士課程に入ってないはずだけど、ロシア軍を分析するアカデミックな著書を何冊も出してたら東大の専任教員にまで上り詰めた)
とはいえやはり、博士号持ってない人への風当たりは強まっている。一部の宮廷や有名どころの国立大学では、常勤ポストの募集にあたっては人文系であっても博士号を要求しているし、学振PDや海外学振は10年くらい前から文系でも博士号必須になっていたはず(逆に言えば、40代以上の文系研究者の中には、博士号なしで学振PDやってた人が大勢いるってこと)。
ただし、博士号持ってない人への風当たり、というのはあくまで若手の就職市場でアカポスに採用されるかどうかという話で、もう就職しちゃったセンセについては博士号の有無とかあんま気にしたことない……博士論文以降ロクに論文書いてない人より、単位取得退学で面白い論文や著書いっぱい書いてる人の方がエラいじゃん? というのが文系の感覚だと思うんだが、どうだろう。池内恵センセくらい業績があったら、博士号の有無なんてもう誤差でしょ誤差。
ただ、外国で博士号獲った人についてはやっぱり一目置くかも。はてな界隈で有名な人だと北村紗衣センセとか。博士論文というのはだいたい1冊の本になるくらいの分量のものを書くということなので、それを外国語で書いてる時点ですごいよ。特にアメリカだと博士課程では厳しいコースワークがあるから、あれをくぐり抜けたってことだもんね。
最初に「文系、特に人文系」って書いたけど、「文系」と「人文系」は違う。「文系」は「人文系」と「社会科学系」に分かれていて、文学とか哲学とか歴史学とかは人文系、社会学とか政治学とか経済学とかは社会科学系、ってことになってる(あくまでもこれは日本の話。国によって分類は違う。たとえば歴史学を社会科学系に入れる国はヨーロッパにはいくつもある)。「単位取得退学」はもともと文系全体でよくある経歴だったけど、今ではほぼ人文系に限られてる印象。上で書いた単位取得退学でポストをゲットした人たちも、観測範囲ではみんな人文系。
ただ、法学・政治学は20年くらい前まで学士助手という制度があったので、学歴という点では人文系以上にガラパゴスだったりするのだが……学士号しか持たずに教授になってらっしゃる人たちが何人もいる分野です。はてな界隈で有名な人だと木村草太センセとか大屋雄裕センセとかね!
ところで、公募条件に「外国で出された博士に相当する学位」という謎の文言があることがある。外国で出された博士、ならともかく、外国で出された博士に相当する学位って何だよ。
実はかつての日本同様に博士号は功成り名遂げた大物が書くものという文化がまだ残っている国があって、具体的にいうとロシアとかそのへんの旧ソ連諸国。あのあたりでは博士候補(カンジダート・ナウク; кандидат наук; kandidat nauk)っていう学位があって、これがPh.D.に相当する。博士候補論文は大学院に進んで数年かけて書くやつで、実質的に博士論文。博士候補号を持ってればロシアでは准教授になれる。ロシアに留学して博士号獲った、って言ってる人のかなりの割合が、実は博士候補号の取得者だったりする。まあ、ロシアのカンジダート号は他国のPh.D.と同等っていうのはよく知られてるから、別に嘘じゃないんだけどね。
ところでウクライナでは2014年7月にこの博士候補制度をPh.D.に置き換える制度改正を始めて、2020年には全廃したらしい。うーん、ロシアとの縁を切って西欧と共通の制度に置き換えるなんて、2014年にいったい何があったんやろなぁ(棒読み)(時期的に完全な偶然というのもありそうだけど)。
“博士課程単位取得退学、博士”これは課程博士と同じ扱いです。3年の課程を修了し学位論文間に合わずに退学した場合も、3年以内に学位論文が出れば課程博士となるのです。
厳密には、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」のすべてが課程博士というわけではありません。単位取得退学から10年後に博士号取得したら論文博士ですし。なので、経歴を見るか(たとえば、2022年に単位取得退学して2023年に博士号獲ってればほぼ確実に課程博士)、あるいはCiNiiで博士論文を検索するかしないとどちらかはわからないですね。
色んな理由があるので一概には言えませんが、本人の博士論文の構想が壮大すぎる、とか、書き上げる前にポストゲットできたから退学しました、とか、そういう場合が多いんじゃないでしょうか。課程博士論文を書き上げた人の経歴はみな似通っていますが、博論を書き上げられなかった人はそれぞれの理由があるものです。
そんな人、少なくとも最近は聞いたことないですけど、いつの時代の話ですか? 何がしかの業績(必ずしも論文という形である必要はないです。たとえば安藤忠雄センセみたいな場合)がなければ大学のポストには就くことはできません。もちろん霞が関から元官僚がゴリ押しされたりすることはあるかもしれませんが、それは業績なんも関係ないし……
この議論ならストレートで論文博士の東浩紀はそれだけで尊敬されても良さそうだけど学者からも石投げられてるし結局空気なのかな
東浩紀センセは、デリダ研究で博士号を獲った俊英だから叩かれてるんじゃなくて、彼の政治的意見を気に食わない人が多いから叩かれてるんでしょ。博士号獲った人は尊敬に値するけど、それはそれ、これはこれですよ。海外で博士号獲ってる人の意見に同意できないとか、日常茶飯事だし。
てかこの話の学生バイトってのがどういうものなのかよく分からん
自分が大学でやったり見聞きしたことあるのはもっと単純作業のもあったから
大学教員だけど、もう学生雇いたくない。理由はお金がないからじゃない。労務管理がめんどくさすぎるしペナルティが重すぎるから。
お給料の原資となる研究費はたくさんあるんだよ。自分は科研費で年百万円近くもらってる。
研究補助で学生雇うじゃん?でもって、その学生になにか仕事頼むじゃん?何時から何時まで学生が大学に来て仕事したか、記録つけたり訂正したりするの全部教員の仕事になるのよ。で、実際学生が働いてるかチェックされて、もしその時間サボってたり学校来てても研究室にいなかったりして記録が間違ってると、教員が研究不正をした扱いになるわけ。捕まると科研費取れなくなって事実上研究者廃業。
こっちは一ヶ月以上かけて何年も前から必死で科研費の申請書出して、数年がかりで血眼になってようやく取ってきた研究費なのに、ヘラヘラ学生がバイト入りましたーとか言ってドタキャンされて、仕事に従事した時間の変更が必要になって、それで数年がかりで組み立てた研究が危険にさらされるわけ。
リスク高すぎて学生を研究に参加させたくない。見せてあげるのと卒論や修論の面倒見るのは科研費や研究と関係ない教育業務だからやるけど、科研費の研究に学生関わらせたくない。研究をリスクに晒すだけで、なんのメリットもない。学生雇う金あったら、しっかり見積書請求書納品書が出る機械を買いますわ。どうせ高々数十万円だし。
記録を正確につけるための手間暇や、学生に研究説明するための手間暇考えると、結局、学生雇わず全部自分でやった方が研究進む。
…というのが、国立大学の現状です。こういう原状を理解してほしい。
予想外に人気なので、返答返していくね。
規則上は雇えるよ、秘書さんの雇用費用も年百万円の予算から出せればね!
大多数の大学教員は自分より少ないと思うよ。特に若手は。理系・文系によらず、科研費若手研究は数年で五百万までなので、1年約百万円だよ!
あと、基盤研究も個人で出してあたりやすい基盤Cも同額だよ!年一千万とかある研究費も、よく調べてみると研究分担者がたくさんいて、科研費一人年百万円は平均より上だと思うよ!
科研費以外の研究費も合わせると年百万円以上はもらってるけど、人件費や謝金を複数予算から出すのは、聞いたことないしできたとしても労務管理倍ぐらい大変そうだからやりたくないよ!
もちろん、年一千万もらえる研究費があるのは知ってるよ!ITぐらいの広いくくりで、旧帝大や国研の助教〜准教授クラスの人が激戦の末、日本全国で年10人〜30人ぐらいがもらえるのがその額だよ!旧帝大にポスト取れなくてごめんね!
もらえる研究費の額が少ないから、実質、家庭教師や飲食店アルバイトと同程度の額しか出せないよ!それでも、大学内で給料が出るバイトができるので、交通の移動時間考えれば嬉しい学生にはメリットだよ!
もちろん、ポスドクや特任助教がこの額で雇えないことは分かってるよ!だから、研究以外の仕事もやってもらわないと、大学からはお金出せないよ!(科研費は大学じゃなくてJSPSという別の組織から出ているお金だよ!)
できれば、授業とかもできる特任教員として入ってくれると嬉しいな!
まだ僕の研究室には博士の学生いないからだよ!今後5年で来てくれる人がいるかもわからないから、そんなのあてにできないよ!あてにして学生に論文書かせてる教員がいるのも知ってるけど、そうすると、焦って研究させたい教員と学生との間で衝突が起こりやすいし、アカハラになりやすいよ!アカハラ起こすと最近はクビだから、リスク高すぎだよ!最初から学生は一切あてにしないで孤高の研究者徹したほうが、学生も教員もみんな幸せって思ってるよ!僕の考えだけどね!
何度も言うけど、旧帝大みたいに一年に一研究室十人近く院生が入ってくる環境は、また全然別だと思うよ!そういう環境なら、学生に研究してもらうのが必須だね!でも、そんな環境は旧帝大にしかないと思うよ!旧帝大の准教授ポストはたいてい今はテニュアトラックで、任期なしになれるか不安だよ!それを受け入れられる人もいるのは知ってるけど、僕は受け入れられなかったよ!ごめんね!
バズったから、もっと恐ろしいことを書いていくよ!勤怠管理システムを科研費以外の何らかの予算で導入したとして、それが科研費で雇用する研究補助員の勤怠管理に使えるかは、勤怠管理システムを請求したときの予算との兼ね合いになるから、すぐにはわからないよ!
「教職員」の勤怠管理のためのシステムに科研費の研究補助員を登録したら、本来は教職員の管理のためのシステムを科研費という全く別の目的で使用した事になるから、規約上、システムを不正使用した事になる可能性が結構あるよ!
後は、勤怠管理システムで管理してしまうと、学生と大学の間の雇用関係を認めたことになりかねないよ!「労務管理」と書いたけど、おそらく、学生が何時から何時まで研究室にいたかを記録するのは、納品書と同様に支出の証憑を作成しているだけであって、大学と学生の間に雇用関係は成立しておらず、謝金という扱いでお金出ている可能性が割とあるよ!詳しくは裁判してみないと誰も分からないと思うけどね!
冗談じゃないよ!分野によらず、若手研究や基盤Cなら、3~4年で上限500万円程度って決まっているから、科研費だけなら約年100万円になるよ!
若手研究も基盤Cも採択率は20%~30%台だから、全大学教員の中で見れば、「科研費だけで年100万円」は明らかに上位の方だと思うよ!後、文系だと自分よりもっと少ないと思うよ!
もちろん、研究費は科研費以外にもたくさんあって、分野によっては科研費じゃやっていけないからもっと高額の研究費がもらえたり、共同研究でもっと高額の研究費が簡単に出る分野があるのは知ってるよ!
あなたの分野はたくさんお金が出る分野でよかったね!全大学教員で見れば明らかに、あなたは上位の方だから、認識改めた方がいいと個人的には思うよ!そうじゃないと、同じ大学の他の分野の先生からねたまれるかもしれないよ!
そうですか!ぶっちゃけ、自分の業績ではもう旧帝大にポストを持てることはないと思うし、仮に「任期付きで学内研究費もたんまりあげるからおいで」って言われても、せっかく、なけなしの研究費で何年もかけてそろえた研究設備捨てて移る気もないし(研究室の移転費用は、自腹の事も多いと聞くよ!)!旧帝大に就職できたのは、10年に1人レベルの天才男性か、女性ばかりだし!要するに、旧帝大は自分程度の人間は必要としていないと思うよ!実際、自分は、昔、任期付き助教もポスドクも、旧帝大は全部落ちたよ!だから、ぶっちゃけ、そんなに同情できないよ!今度10兆円ファンドもらえるらしいね!あれで、トップジャーナル基準満たすためにトップジャーナル以外に学生が論文出せなくなったり、期待されている水準の利益を獲得するために問題頻発で、日本の旧帝大は壊滅すると僕は個人的に思っているけど、僕にはどうしようもないよ!年100万円の研究費の使い道で、これだけ色々考えて怖がっているのだから、10兆円とかストレス半端じゃなさそうで、旧帝大にポスト見つからなくてよかったとすら思ってるよ!あんまり同情できないから、旧帝大の中の人は勝手に頑張ってね!
大学教員側からは言ったって何のメリットもないよ!そもそも科研費もらってなくて研究全然していなくて業績ないけど、授業・教務・大学運営を積極的に受け持って、皆からありがたがられている先生もいるんだよ!そういう先生に頭を下げて、研究のために教務や大学運営の負担をちょっとずつ減らしてもらっているんだよ!旧帝大以外は研究成果なんてどのみち、あまり期待されていないし、世界を変えるような成果はそうそう出ないし、国立大学は何もしなくても学生は来るし、研究は、他の大学教員や事務職員に大して利益にならないので、「研究頑張る」という教員は、他の大学教員や事務職員に迷惑かけて頭下げて「研究させてもらっている」側なんだよ!文系・理系関係ないよ!僕の研究も理系だよ!そんな状況で「事務のやり方がおかしい、変えてくれ」なんていったら、「わがままばかり言うな」と反感買われて、来年から入試や委員の仕事をたくさん押し付けられて、研究時間が取れずに研究が破壊されるよ!もっとこわいのは、「労務管理が面倒くさいなんて、何か不正でもしてるんですか?」みたいな疑いを他の教員からかけられることだよ!そんな疑いかけられたら、また、研究が破壊されるよ!年百万円が上位といったら結構馬鹿にされているみたいだけど、それでもうちの大学じゃ明らかに上位だよ!研究的にはすごくないけど、ご自身の研究能力を理解したうえで積極的に教務や大学運営を負担してくれる先生がいるから、僕が年百万円でも結構研究できているんだよ!自慢じゃないけど、これでも、狭いテーマに絞れば、旧帝大の大型予算ラボと同程度の業績出せてると思うよ!
まぁ、ごちゃごちゃよく分からないという人は、小学校のPTAで誰も委員をやりたがらなくてうつむいているのと同じだと思うといいと思うよ!
まず、認識が間違っているよ!「先輩」じゃないよ!やらかした世代の人らは、今自分が勤めている大学に入った時から任期なしだと思うよ!一方、僕らは誰もかれも、任期付きの恐怖を味わってきているよ!研究失敗して一年でも棒に振ったら5年任期の末までに論文成果が出なくて雇用継続されないみたいなのを見てきたよ!正直、任期付きの恐怖を味わったことがない人が同じ職業だとも先輩だとも思えないよ!一般向けにコンビニで例えていえば、僕らはバイトリーダーから雇われ店長になったのに、彼らは最初からオーナー店長だったよ!オーナー店長が昔やらかしたから云々言われても全く納得も同情もできないよ!
だいたい、本筋は労務管理を教員の仕事にさせするなってことだよ!先輩たちがやらかしたなら、なおさら、教員みたいな信頼できない人たちに労務管理させないのが普通の問題解決策だと思うよ!レジのお金ネコババした新米店員がいたら、指導役の雇われ店長の責任にするっていうのがおかしいよ!コンビニですら、そういう事案がおこったら、新米店員には弁済させて、雇われ店長の評価にはそんなに響かないんじゃないかと思うよ!その意味では、大学教員はコンビニ雇われ店長以下の仕事だよ!
2階が何かわからない人はググるといいと思うよ!読んだけど、頑張れば大きな予算もらえるから我慢しろみたいになだめられても、あんまり刺さらなかったよ!労務管理はしっかりしないといけないと思うけど、教員に大して研究不正にするぞって脅して恐怖で押さえつけることによって事実上、学生を雇えない仕組みが作られているという事を学生の人にも知ってもらって、将来、日本のどこかで「あの先生はたくさん科研費もらっているからたくさんバイト代出るのに、どうして先生の所はバイト代出さないの?先生がケチなのか、先生が何か悪い事してるのかな?」とか考える勘違い学生が出てこないようにするのがこの記事を書いた目的だよ!
自分自身は本当に、今の自分の環境では、学生をあまり科研費の研究には参加させない方がwin-winになると思っているので、科研費について労務管理が大変以外は大きな不満はないよ!学生に教えるのは楽しいけど、別に科研費の研究に関わらせることだけが教育じゃないからね!学生には科研費の研究じゃないことを研究としてやってもらえばいいと思っているよ!
知ってるよ!これまで書いた中で、「2階のコメント」
そうだね!でも、何度も言ってるけど、(大学にもよるけど)世の中の国立大学の大学教員の8~9割は年間100万円程度しか研究費をもらえてないよ!それが「選択と集中」の意味だからね!そこを批判した所で、「スーパースターになれないお前が悪い」と言われているようにしか聞こえないよ!
学生以外を雇用しようと思ったら年間1,000万円程度の研究予算×5年ぐらいは必要になると思うけど、そのレベルの研究費が継続的に取れている大学教員は、旧帝大とか研究大学とかにポストを取れた1分野数人の人たちだけなんじゃないかな!そんなごく一部の例外の話をしてもしょうがないから、大多数の大学教員の現状を知ってもらいたかったよ!事実上、「アルバイトの代わりに大学でお金が稼げる」というところをウリにして、学生をアルバイトで年間100万円程度の予算で雇用するしか手がないよ!逆に、確実に年間100万円で回せるようにしておけば(それだけでも全大学教員の半分以下だと思うけど)安定操業できるでしょ!学生にとっても、あらかじめどの程度の額でどの程度の働きが期待されているのか予測がつくから、親切だと思うよ!
「その数人になれなかったお前が悪い!低業績!」とあおられているようにしか聞こえないよ!批判するなら、まずは、自分がその数人の1人になってから言ってね!
知ってるかもしれないけど、大学によっては、そのとられた間接経費の中から、科研費取った教員に学内研究費として再配分してくれる大学があるよ!一回大学のお金になっているから完全に合法だよ!その辺は、大学によって完全に制度がバラバラで、採用前には一切外からはわからないから、入ってみてからのお楽しみだよ!もし知らなかったらあなたは損しているよ!
長くなってきたので続きはこちらに: https://anond.hatelabo.jp/20221217001728
渡辺 真由子 STAP細胞レベルでこいつの主張をソースに何か語るだけでアウト
慶應大、渡辺真由子氏の博士学位を取り消し「学位論文に適切な表示を欠く流用があった」
https://news.line.me/articles/oa-bengo4com/8f26b764fbd6
暴力的ゲームは子どもに影響なし--ハーバード大心理学者が調査
https://japan.cnet.com/article/20373140/
暴力的なゲームで遊んだ子どもは「攻撃的」になるのか:英国の長期調査
気持ちはわからなくはないが、なぜそこで「twitterを辞めろ」という方向になるのか・・
別にその論評とやらのことをしてなければ特に問題ないでしょ・・
学生が常時学位論文に取り組んでるわけではないだろうし、余暇としてなにかやってることそのものの否定に行くのだとしたらちょっと違うかと思う。
「社会学者」という肩書ではもうTwitterで発言しない。それだけでネットの社会学叩きは止まる。SNSで遊ぶのはお終いにして、仮説・調査・検証のサイクルを回すお仕事に戻ろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210131185208
SNSで妄想大系の「宇宙論」を語っている物理学者が多数観測されて、彼らが海外の一流大学で学位を得て、国内の名門大学で教職に就いて、同業者から「アイツはトンデモだから」という批判も出ない、
という状況になったら「物理学徒は頭おかしい。こんな学問税金の無駄」と素人の市民は思うようになるでしょう?
いや社会学はあまりに対象が広く使ってるフレームワークも分野ごとに違い過ぎるから、同業者でも他分野の人の「正しさ」を検証するのは難しくおいそれと口出しできない、という状況なんだろうなと同情してるけど。
https://togetter.com/li/1660066
このTwitterの社会学叩きが酷すぎて鬱になりそうな院生さんも「自分はあの人達とは違うんです」と思うなら、Twitter止めて真面目に学位論文に取り組めばいいんじゃないですかね…
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 111 | 14971 | 134.9 | 40 |
01 | 58 | 7464 | 128.7 | 57.5 |
02 | 49 | 9291 | 189.6 | 77 |
03 | 36 | 4000 | 111.1 | 62.5 |
04 | 46 | 2759 | 60.0 | 46 |
05 | 9 | 794 | 88.2 | 55 |
06 | 28 | 2680 | 95.7 | 48 |
07 | 52 | 4821 | 92.7 | 36.5 |
08 | 136 | 11573 | 85.1 | 39 |
09 | 135 | 11843 | 87.7 | 44 |
10 | 176 | 17111 | 97.2 | 54 |
11 | 148 | 18545 | 125.3 | 46 |
12 | 186 | 16227 | 87.2 | 39.5 |
13 | 164 | 23316 | 142.2 | 43 |
14 | 140 | 20924 | 149.5 | 46.5 |
15 | 135 | 15908 | 117.8 | 42 |
16 | 123 | 10711 | 87.1 | 40 |
17 | 137 | 19785 | 144.4 | 43 |
18 | 194 | 15023 | 77.4 | 43 |
19 | 154 | 13202 | 85.7 | 44.5 |
20 | 162 | 15203 | 93.8 | 41.5 |
21 | 175 | 20239 | 115.7 | 40 |
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23 | 126 | 9915 | 78.7 | 45 |
1日 | 2856 | 300516 | 105.2 | 43 |
双葉社(3), 学位論文(3), たまごボーロ(3), ウズベキスタン(3), 映画秘宝(7), チートツール(3), ファストパス(3), 検察審査会(3), こわーい(5), バームクーヘン(3), 望遠レンズ(3), トランスジェンダー(12), トランス(15), クンニ(14), ホルモン(12), ✋(9), 知的障害(9), 外資(8), 本名(8), 飛び出し(6), 後遺症(10), 産み(10), ワクチン(27), 自粛(85), 障害(36), 自立(11), ほんとうに(8), 強姦(8), 遺伝(8), デジタル(7), 発達障害(22), 発達(16), 障害者(15), 働か(14), コロナ禍(13), 高齢者(14), 飲食店(14)
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学位論文を先日書き上げたのだが、論文最後にある「参考文献」の欄でケチを付けられた。
その教授いわく、参考文献欄で取り上げた文献は必ず本文で引用しなくてはいけないとのこと。
え?それって俺ルールじゃないの?
だって、この分野の概要を示した文献とか、この論文に引用する必要は無いけど、参考にはなる文献だよね?
そもそも、あなたの話って「参考文献」じゃなくて「引用文献」と書いた場合の話ですよね?
そういうことを聞いたら、「そういうものだからそうすべき」とだけ言われて、日本語論文のピリオド+カンマもそうだが、アカデミックな謎ルールに閉口してる感じ。
いや、別に学位取れればいいから最終的には治すんだけど、論文審査は俺ルールという権威を押し付ける場じゃないと思うわけですよ。
よくある意見に、「さすがに東大法学部と底辺理系なら、東大の方が上だろう」みたいなのがあるが、間違いだ。
もちろん「底辺」というのが「ボーダーフリー」の意味なら話は別だが、偏差値50前後の誰でも行ける大学という意味なら、
だ。
まず、日本の大学の文系と理系とでは、卒業に課せられる要件がまるで異なる
ほとんどの理系学部では、卒業するためには学位論文(学部なら卒業論文、大学院なら修士論文・博士論文)を書かねばならず、その前提として求められる専門知識も高度である。
一方、文系は遊んでいても単位は取れるし、卒業するための「提出物」も簡単に書ける。
一方、文系の卒業論文なんて、先生の指定した文献(素人でも読める。というか、卒業するだけなら読む必要すらない)を読んで、サーベイもどきの読書感想文を書くか、アンケートかなんか取って小学校レベルの算数でまとめるだけ。
数学者になるような人は、1学んで10修める人です。彼らは、実例を計算したり、同値な言い換えを考えたりしている内に、誰に教わらずとも独自に現代数学の概念を再発見したり(場合によってはオリジナルな結果を発見したり)します。たとえば、テイラー展開を考えている内に自然に解析接続の概念に到達するとか、連立方程式を考えている内に行列式の概念を独自に発見するとかです。
これはそれほど難しいことではありません。数学が好きな人が普通にしているようなことを習慣的にしていれば、いくつかあるものです。つまり、具体例を考えたり、別証明を考えたり、定理を一般化してみたり、仮定を除いて反例を作ったり、と言ったことです。そもそも、数学者は既存の論文に無いオリジナルな成果を出すのが仕事なのですから、これは何も特別なことではありません。
逆に、いつまでも「教えてもらう」という態度では、数学者になるのは明らかに厳しいでしょう。むしろ、上に書いたようなことをするのは当たり前であって、「指導教官の出す課題に取り組んでいれば、困難なく数学者になれる」などと思う方が異常ではないでしょうか。
ところで、こういうことができる人というのは、一日に何時間くらい数学を勉強しているのでしょうか。この答えははっきりしています。
「寝る時間以外ほぼ全部」です。
数学者になるような人のほとんどは、数学が楽しくて仕方なく、気がついたら数学に没頭しているような人です。机に向かって本や論文を読むだけが数学の勉強ではありません。彼らは食事中だろうと入浴中だろうと一途に数学のことを考え続けています。
正直、「数学を勉強しよう」なんて意識している人は、あまり数学者に向いていないと思います。世の中にはもっと楽な道があるのですから、そちらに進んだ方が得です。国立大学の教授なんて、就職倍率は何百倍もあり(それも東大等の中でも極めて優秀な人材の中で)40代後半になってやっとなれるのが普通なのに、年収900万かそこらです。大企業や外資系企業等に就職する方がよほど理にかなっています。
数学者になること自体は、そんなに「天才」でなければいけないということはありません。
があればなれるんじゃないでしょうか。誰でもなれるとは言いませんが、天才である必要はありません。数学の世界での天才というのは、もっと常軌を逸した人たちです。
日本の大学生の多くは、大学に入ったら何も勉強しません。40人のうち約半分が、1〜2年生の勉強にすらついて行けず、以降はギリギリの成績で単位をなんとか取るだけで、何も身に付けずに卒業していきます。
数学で最新の論文が読めるのは早くて学部4年の後半、ふつうは修士1年の後半から2年です。したがって、それまではセミナーで教科書の講読をします。このただの「読書」が、最低限の水準でできるのは、40人中10数人です。最低限の水準とはつまり、
等です。あとの30数名は、セミナーの体を成していません。数学者を目指す場合、まずこの「同学年の上位10数人」に入り込めるかどうかが1つの肝になります。まあ、これは普通に勉強していれば余裕できます。
昔は、この上位10数人だけが大学院に行き、そのうちの半分くらい(全体の上位1割くらい)が学者になったようですが、今は(少なくとも私の周りでは)もっと厳しいです。ポスト自体が少ないのと、大学院生のレベルが下がったので周りに吊られて気が緩むのが原因のようです。
(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。
本論文は日本語の文法事象を中心に扱っており、その記述・分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語・目的語、自動詞・他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧的パラダイムによる言語研究で標準的に使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。
日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念そのものの再検討を迫るという点で、本論文は日本語学研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文は日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論的憶測ではなく、万葉集や源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。
本論文は共時的な言語事例と通時的な言語事例とを並行的に分析し、日本語の言語現象全般と個別現象の解明を目指した統合的研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点を提供している点で、学術的価値は高いと判断される。
まさにお墨付きだ。
最後にちょっと真面目な話。『認知言語類型論原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説を踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこと自体は問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型論原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由に批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判をしたことで将来不利益を被ることがあってはならない。
それにしても、どうして『認知言語類型論原理』は『日本語に主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語に主語はいらない』は大手出版社から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型論原理』は学術専門出版社から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型論原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系の学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た
なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。
言っとくけど、これは剽窃や無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。
標準的な理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくまで架空のものです)。
Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……
この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文・書籍のことなのかわからないもん。だから、論文の末尾に文献リストをつけて、
って書く必要があるわけです。これがないとアウト。
トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)
※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.
※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.
って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから。
なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系の論文だと、
みたいな資料を引用することが結構あってですね、そういうタイプの資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式で引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。
あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
おっ、せやな。シカゴ・マニュアルそのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。
本書は、2つの最も一般的な引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学と物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)
参考文献目録方式の引用では、資料を使ったことを、典拠に言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。
He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1
それから、対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポートの最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通の形式をとる。
N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)
※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴ・スタイル――研究論文執筆マニュアル』慶應義塾大学出版会、2012年、194頁。
※2 同、195頁。
元増田でも例を挙げたけど、この方式を採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文をダウンロードして形式を確認した限りということ)では、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語の学術論文でこの形式は許容されてる。
海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。
人文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって、文系は理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?
もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思います。だってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務は果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リストを絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……
先月、韓国の「天才少年」が起こした論文盗作事件が日本でも韓国紙の日本語版記事としてインターネット上で報道された。
韓国の「天才少年」として有名なソン・ユグン少年(17)が彼の指導教官のパク・ソンジェ研究員と共に執筆した論文が、米国の天文学会が発行するAstrophysical Journalに掲載されたのち、韓国のネチズンの指摘をうけ撤回されたというものだ。少年は博士号を取得する間近で、国内最年少博士学位取得の記録も白紙となった。論文が撤回された理由に関してはすでに他に解説がある。
ここでは実際論文がどのようなものだったか、そして推測されることの経緯を探ってみたい。
対象になっているのはパク研究員の2002年の韓国内の研究会の集録に掲載された論文と少年が主著でパク研究員が共著の2015年のAstrophysical Journalの論文だ。論文の中身自体は購読していない限り読めないようだが、双方のページにある論文の概要を比べるとほぼ瓜二つで少年が自分の言葉で執筆していないことがわかる。また別の方法で論文の一部を確認できる。2015年の論文の1ページ目はgoogleの画像検索で確認ができ、google bookで2002年の集録論文のほぼ全文がみれる。見れる範囲では節の名前やほんのわずかな文を除いて、両者はほぼ一致している。
論文は概要と4つの節からなる本文で構成され、最初の3節は過去の研究の説明にあてられ4節目がこの論文の結果になっているようだ。コロラド・デンバー大学のJeffrey Beall氏のブログでは概要と最初の導入の節の比較図があり、そのままコピーされているのが示されている。論文の主要な結果が書かれている4節目もモナッシュ大学の天文学者Michael Brown氏のtwitter上で画像(リンク1、リンク2)が比較されている。こちらも式番号を除けばほぼ完璧に文章と式がコピーされている。氏によると多少の式の変形が見られるが、50以上の式がそのままコピーされているとのことだ。
前述のブログのコメントを読むと上記の部分以外に目を向けても、ほぼ全体にわたって式と文章が完全に位置するという指摘もある。研究者の世界では研究会で先行する成果を見せて、議論ののちに査読雑誌に本論文を投稿する、というのはよくあることだそうが、ここまで一字一句一致するとなると研究集録といえど著作権上の問題から二重投稿として判定されるのは極めて妥当だろう。
興味深いのは前述のブログのコメント欄にあるソン少年が導出したとされる偏微分方程式(論文中の式(4.24)のようだ)を含めた4節目の多くの式でミスがみられるという指摘だ。多変数関数をある独立変数で偏微分する際に他の独立変数を偏微分すると0になることは理系の大学1年生あるいは少し進んだ高校生なら理解できるだろう。ところがソン少年の論文では本来0になって消えるべきこのような項がたくさん残されているという指摘である。この指摘が本当だとすれば、ソン少年かパク研究員のどちらが導出したのかに関わらず、にわかには信じられないミスだ。
少年が導いた式(4.24)は論文の概要にある主要な結果である"Transfield Equation"の可能性が高い。そして上のコメントでは例えばφとωの上にドット(・、時間微分を指す)がついたものは0ではないかと指摘している。面白いことにこれらの項を消すとこの式は2002年の集録論文で同じ"Transfield Equation"と記されている式(61)にかなり類似している。ここからは私の邪推であるが、ソン少年の「功績」とは、式(61)の2、3項目のCの時間微分に式(54)を代入し、4項目のEの時間微分とmの内積を式変形したことなのではないだろうか。しかも上記の初歩的なミスを犯している可能性がある。さて私はAstrophysical Journalを読むことはできないので、論文にある初歩的な間違いが本当か、そして私の邪推が当たっているかはこの論文誌を読める天文学の専門家にぜひ検証してもらいたい。
いずれにせよ、2015年の論文の文章の大半を執筆したのは(13年前の)パク研究員であることにおそらく疑いの余地はない。さらにソン少年が導出した式(4.24)がもし論文の核となる"Transfield Equation"であれば、これはすでにパク研究員が2002年の段階で導いている。ソン少年のこの研究への貢献はその式の単なる変形だけであり、しかも初歩的な間違いを含んでいる可能性が指摘されている。
ソン少年の主著で論文を出版することは目をつぶっても、これを博士課程中の少年の主要な研究業績とするのは倫理的に問題があるのではないだろうか。
ことの経緯はソン少年が博士号を取得するプロセスに密接に絡んでいるようだ。
報道によるとソン少年が所属する科学技術聯合大学院大学校(UST)では博士論文の取得要件として、国際的な査読論文誌に主著で少なくとも論文を一編投稿し、受理される必要がある。ソン少年はこの条件を満たすためにパク研究員の13年前の研究成果をもとにパク研究員と共に論文に投稿したのだろう。
倫理的な是非はさておき、主著のソン少年がパク研究員の研究内容を咀嚼し、自らの言葉で書き直していればここまでスピーディーに問題が明るみにでることはなかった。ところがソン少年とパク研究員は、13年前の集録をごく一部を除いてほぼ一字一句コピーして提出してしまった。このことが原因でAstrophysical Journalから掲載を撤回される今回の事態に行き着いた。
韓国メディアの邦訳や英訳されている記事は、今回の論文撤回によって少年が博士号の取得を逃したということを報道するものが目立つが、ことの経緯が事実であれば倫理的には大きな問題である。本人の意思がどの程度介在したかは分からないが、ソン少年は、他人の業績を自分のものとして出版することにより、博士論文の取得条件をすり抜けようとしたと見られかねない。これは当然、学位を申請したソン少年も認識していたはずだ。これは韓国における"博士"の価値に大いに傷をつける行為なのだが、英訳されている韓国のメディアの記事を見る限り、メディアは国内の研究者への影響には着目していないようだ。
今回の件で合格は撤回されたものの、ソン少年は博士論文の審査に一度は合格したと報道されている。この論文が審査当時少年の唯一の受理された査読論文であった。博士論文の内容は報道では明らかになっていないようであるが、もしこのソン少年の博士論文に撤回された論文の研究内容が含まれていれば彼は他人の研究とみられかねない研究内容で博士号の審査を通り抜けたことになる。先進国の大学では退学などの大きな処分が免れないレベルの大きな不正行為だ。ソン少年は現在新たな論文を準備していると報道されているので、こちらの成果のみが学位論文にまとめられていると期待したい。
パク研究員は国立の天文学研究機関である韓国天文研究院(KASI)に所属しており、 ソン少年がUSTに入学した際に院長を務めているなど韓国を代表する天文学者のようだ。国を代表する研究者が論文の投稿を主導したとすれば、そのインパクトは大きい。
一方、ソン少年が主導したとすれば、彼は研究者の"免許"である博士号を正当な方法ではなく、自らの意思で非良心的な手段で取得しようとしたことになる。ソン少年はおそらく知的には非凡なのだろうが、それに見合う倫理観と良心を持ち合わせていないということを示してしまったことになる。
もっとも論文が13年前の集録の完コピーであったという事実は、彼がパク研究員の成果を咀嚼できておらず、自分の言葉で書き下すことができなかったということを示しているのかもしれない。いずれにせよこの件が明るみになった今、ソン少年の研究者としての信頼とキャリアに大きく傷がついたことは間違いない。
今話題のパクリ騒動で厄介なのは、色々な争点がごっちゃになっていることだと思う。佐野氏を擁護する意見に対して、擁護の主旨から外れた批判を浴びせるという状況もしばしば目にする。祭りに乗じて誰かを叩きたいだけの人からすれば、これぐらい混乱していたほうが楽しいのだろう。
折角なので、この騒動における争点を簡単にまとめておきたい。
(1) オリンピックのエンブレムが (個人の好みとして) ダサいから嫌だ
(2) オリンピックのエンブレムが、(素人目には) パクリであるように見える
(3) (2) の騒動を受けて、佐野氏や大会組織委員会が行なった弁明が迷走中
(4) 何人かのデザイナーが、単なる感情論で佐野氏を擁護したり、素人を見下したような発言をする
(5) 佐野氏の名義で世に出されたデザインに、他人の著作物が無断利用されている
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佐野騒動は、少なくとも上記の5つが絡み合いながら拡大を続けている。
(2) は、相当厄介な問題。シンプルな幾何学模様のデザインだから、似通ったものが偶然見つかったというのは、それほど不思議なことではない。デザイン業界の人たちが言うには、ぱっと見で似ているかどうかではなく、デザインの背後にある考え方やメッセージというのが本質的に重要らしい。
(3) では、なぜか、佐野氏の立場が悪くなるような燃料が、本人側から次々と投下されている。すでに、主張に整合性を持たせるのが苦しくなってきているし、コンペティションの公平性も疑問視される事態を引き起こしている。これは明らかに不自然な状況なので、何か、単純かつ重大な事実を隠しているのではないかと勘ぐってしまう。
(4) は、擁護する側の気持ちになってみれば、自然な反応だと思える。佐野氏の個人的な知り合いや、彼を尊敬するデザイナーからすれば、この騒動に関して感情的になるのが当たり前だ。また、(2) のような状況でエンブレムが取り下げになると、デザイン業界に悪しき前例ができてしまう。だから、佐野氏個人に全く興味が無いとしても、(2) に関しては擁護しておきたいデザイナーが多いはず。ところが、デザイナーとしての理屈を、慎重な言葉遣いで、素人の神経を逆撫でせずに語ることのできる人は少ないようだ。世の中には、自分が見下されたと感じると物凄い勢いで怒るひとが結構いるので、迂闊なことを言うと、むしろ火に油を注ぐことになってしまう。
(5) は、擁護のしようがない。佐野氏の普段の仕事における雑さや倫理観の欠如が、絶妙なタイミングで表に出た形だ。もちろん、理屈の上では、これはオリンピックのエンブレムの正当性とは全く関係がない。だが、大抵の人は理屈よりも感情を優先する傾向にあるので、信用出来ない人が作ったエンブレムは、やはりいかがわしく思えるだろう。
以上の騒動は、佐野氏のデザイナー生命にとって致命傷になりかねないし、ひいてはデザイン業界に大きな打撃を与える可能性がある。
小保方氏の論文不正が発覚した後、早稲田大学で受理された過去の博士学位論文をはじめ、他研究者の論文不正が数々掘り出された。デザイン業界でも、今後同様の現象が起こると予想するのは、ごく自然なことだろう。