はてなキーワード: セーフティネットとは
若者が選挙に行っても行かなくても高齢者優遇の政策打ち出す政党が勝つに決まってる。
若者が不平等な労働制度に悩まされようが、生活保護よりも安い給料で服を買う金も無くギリギリで働いてるとか、
高齢者優遇の政策に予算を取られて、割を食う若者。これを不平等といわずなんというのか。
若者も将来高齢者になるから高齢者への保護は手厚くするのは当然だけれど、
そのために必要以上に若者のセーフティネットが薄くなっては、高齢者になるまで生きることすらできない。
これからの主力となる財源となる若者をないがしろにして、弱肉強食だ自己責任で耐えられるものだけ這い上がって来いって政策は
貧しい若年層は犯罪で稼がないとマトモに食べていけないような世の中を目指しているのではないかって気がする。
同じ仕事でも東京なら年収300万で、地方なら200万前後とか当たり前にある。
地方は通勤に自動車必要で交通費余計にかさむのに賃金が安い。東京でマトモな職につけない人たち以外は死ねっていうのか。
東京に居たって、マトモな仕事にありつけなければ生活すらあやういっていうのに。
なんだこれ。
受給者の方だけじゃなくて、ケースワーカーも取材しろよ鈴木大介
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/seikatuhogo/
常に問題視されるのは、最低賃金で働いている若者より受給者の額のほうが多い場合があるということだ。
これずっと言われてるのに最低賃金を上げようともしないし生活保護も下げようとしない。
生活保護の必要性の話なんかしてねえんだよ。 それすらも理解できないやつは何言っても無駄だ。
それより、鈴木大介は生活保護>最低賃金>年金についてこそ答えるべきだろ。
アメリカの4倍~5倍にもなる。
受給者は、生活保護費が少ないと文句を言うが、実際のところ「健康で文化的な必要最低限の生活」を送るためにこれだけ必要だと本当に言えるだろうか?
日本の福祉はなんとなくほかの国より低いと思い込んでる人がいるようだが数字としては一番高い。
もちろん物価の問題はあるが、それでもほかの国と比べて足りないとは言えないだろう。
基準が甘すぎる。
生活保護法は、「最低限度の生活の保障」と「自立助長」の2つを目的に掲げている。ところが、生保優遇により「自立助長」を妨げているといえる。
コンビニのバイトは、月に8万円程度しかもらっていない。生保優遇だから、滞留がほとんどとなり、自立率2%となっている。
仮に、生活扶助を欧米並みの水準に下げ、ボランティア活動への参加を義務化(但し寝たきりの人は除く)すれば、現在保護されていない人を救う財源が生まれ、働きたくない怠け者が出て行くので、漏給と濫給が大幅に減る。
全体の平均が1.6%だから、格段に高い率で生保となっている事がわかる。
こんな感じでさ。生保についてだが、鈴木大介的な草の根視点は否定しないが、それとは別に、鳥の目、つまりデータで語ることも必要だろう。
はてなブックマークのコメントを見ていると、そもそも生保の仕組みを理解してないで適当なことを言ってる奴ばかりだ。
生保は一度資格を得たら金渡して終わりだと思ってる? 違うよ。
私は一度仕事をやめて、ハローワークで失業給付もらうことになって初めて気づいたが、
機械的な対応しかしない職員に上から目線で説教されるというきわめて屈辱的でしかも役に立たない茶番を経なければ支給されない。
多分職員の中にはいい人もたくさんいるんだろうが、この国のセーフティネットの仕組みは、形だけしっかりしてるが中身がボロボロだ。
生活保護についても調べたが、やはりケースワーカーがついて指導する仕組みになっている。
だが、このケースワーカーは専門家がほとんどいない。とにかく忙しいだけでスキルがない新人に仕事を押し付けるような形になっている。
そして、受給者のプライドをズタボロにするような対応だし、自立をむしろ妨げるような給付の仕組みになっている。
http://seihokanzen.xyz/2015/10/12/caseworker/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13105104658
東京都23区の場合、平均年収は700万~800万円の間です。
労働時間については、8:30~17:15までです。
多くのケースワーカーに聞く限りでは、
こいつら年収高すぎだろ。
これは単なるひがみだが、明らかに仕事できない感じの人間が、こんだけ給料もらえるの世の中間違ってるよ。
https://note.mu/sbsnbun/m/m4bd73cf83898
http://sbshinbun.blog.fc2.com/blog-entry-457.html
月に一度、生存確認をしに訪ねてくるだけだった。私は早く働きたいと思っていたのだが、何も言ってくれなかった。ワーカーが「この人は働けない」と勝手に判断したのかもしれない。
さらに私は働き始めてからきちんと書類を書いて提出していたのだが、担当のワーカーは勝手に書類を作って提出していたことが発覚した。担当のワーカーは私に何度も「君は精神(精神障害者)だから働けない」と言ってきた。
実際に自分は、就労支援施設に生活保護を貰いながら5年以上居続けている人間を何人も見てきました
補助があるから仕事も雑談しながら適当にやったり自分と意見が合わないと自分の仲間を読んできて声を荒げたり、こちらの発言に対して一切耳を貸さない人間も見てきましたし、自分の思い通りに行かなかったからと言って自助会の代表者に延々と電話で嫌がらせを行い疲弊させ
終には休会させたりした人も居ました
1,分配や生み出す政策について
的なことを言って道路を走ってるんだけど、
『回収』もしくは収奪する事しか考えてないようで、どうなのかなって思う。
お金を生み出すことの政策についてはどう考えているんだろうか?
国民の4割が確か大企業の従業員だし、大企業がつくる製品のお世話にもなっているわけだ。
それを一方的に被害者加害者と国民を分断させるようなことを言うのはいかがなのだろうか。
実際、格差が存在するので、分断は起こっているといえるかも知れないが、
企業経営という形で日本に対して大きな社会貢献をしているのも事実だと思う。
一方で、内部留保が多いのは確かなので、
民進党の言うように税金とって多少の分配(高所得者にとっては回収)はあっても良いと思うが、
この景気後退局面(リーマンになりそうなんですか?)でするのは間違いではないだろうか?
分配(回収)もいいけど、生み出すことについてはどう考え散るのだろうか?
ということ。
庶民に対する分配政策でもあるし、企業も多分消費が増えていい景気刺激策になると思う。
(ちなみに、自民党の分配政策である地方創生についても自分は懐疑的で、配るのもいいけど、経済の土台を何とかするほうがいいのではないかと思う。自発的な成長を促せるという点で)
2,非正規社員➝正社員化だけでなく、無職の人➝働く(社員化)や働く➝無職について
非正規社員の正社員化はもちろんだけど、無職の人の社員化についてはどう思っているのか知りたい。
非正規➝正社員と叫べるし、それを進めることにそこまで異論はないのだが(企業の自由)、
果たして数年後、不景気の波が来た時に(景気には波があるって高校で習ったよね)、
この好景気時に正社員になった人が、どれだけ無職になり、非正規社員に落ち込むか、
ということを考えることはないのだろうか?(これは自民党も)
子育てできるセーフティネットづくり(歳入庁設置及び負の所得税など)のデザインを
うちの市役所には市長への投書箱みたいなのがあって、そこには「ばーーーかwww」とかそういう便所のらくがきみたいなやつから、真面目な話、窓口のクレームまで様々なご意見がつまっている
それは担当者が全部読んで、原本は市長に渡して、担当部署にこういうご意見がありましたっていう回覧にして回す
たとえば年金の窓口の態度が気に入らないって話だったらそこの部長に渡したりね
「まあそうだよな」と思うことから「それは自分勝手すぎるだろ」って意見までいっぱい入ってる
この前、それらを読んでいて悲しくなったのがあった
そのご意見は「シルバー人材の老人たちはまともに仕事ができないのだから、税金の無駄である」って内容だったんだよね
そもそもシルバー人材って労働力を期待して募るものじゃないだろう
やることがない老人たちに働いてもらうことで活力を得てもらうとか、社会から孤立しないようにコミュニティを提供するとか、そういうのが目的だよね
定年してから何もすることがなくなってボケてしまうお父さんとか、昔は結構いたらしいじゃないか
そういう老人たちのために、場を作ってあげるのが目的じゃないか
たいていの仕事内容は誰にでもできる軽作業だけど、労働力だけを期待して募集するならそりゃ若い人のほうがいいよ
だけどそういうことじゃないだろう
もしこの内容が「シルバー人材とはいえ労働なのだからもっと給金をあげるべき」とかだったら納得するよ
でもさ、年寄りに給料を払うのは税金の無駄とかさ、そういうこと言っちゃいけないと思うんだよね
役所の仕事って言うのは、民間ではできないことをやることじゃん
図書館だってシルバー人材だって、あんなの民間ではできないだろう
友人も家族もいない老人はだんだんひねくれてきて、世間や他人に文句ばっかり言って迷惑かけたりするんだよ
そういう人たちの精神的なセーフティネットがシルバー人材じゃないのかなあ
そういう場にすら効率を求めて費用対効果を計算してしまうのは悲しい事だよね
あのご意見を書いた人はきっと、心にも生活にも余裕がないんだと思った
とにかく悲しくなった
このブログを読んだ上でこれだけは言いたいと思って書きました。
どれだけ喚こうが、どれだけ叫ぼうが日本は死にません。自分が死ぬだけなのだということです
筆者の意見には否定的な反応が多いようですが、私は同情を覚えずにはいられない。
何故なら、私も筆者と同じような心境に陥っているからです
私の状況をお話しますと、学生時代に就活をしていましたが、内定を頂けず、現在は既卒での就活を再開しています。私は10社ではなく20社ほどに絞って就活をし、筆記テスト、グループディスカッション、一次面接、二次面接、ときには三次面接とくぐり抜け、10社最終面接にたどり着きました。そして、全て最終面接でお祈りをされることになりました。最終面接に10社辿り着けたということは、最低限の学力、コミュニケーション能力、理解力等は自分にはあるのでしょう。しかし何らかの理由で最終面接だけは通過できなかった。その理由は何なのか?フィードバックを頂いても、定まった答えは返って来ませんでした。自分の中でこれだ!と言った答えも見つからないままです
私が何を言いたいのか。
それはどれだけ勉強をしようが、コミュニケーション能力を磨こうが、インターンや自己分析、企業分析、OB訪問等の就活の準備をどれだけしようが、どれだけ○○をしようが落ちるときは落ちるということです。なので、まだ10社連続なら大丈夫。私のように落ち続けて既卒になった者もいます。生存競争において淘汰されるべき者はあなたのずっと下に存在します。
そういった感情論とは別に、筆者は日本の雇用問題に関して指摘をしている部分もあります。日本においては人材のミスマッチ率が非常に高く、そして雇用の満足度も低いという問題があります。日本はここ20年、経済成長を果たしておりません。諸外国と比べると、日本の物価はどんどん安くなっています。
日本のGDPが成長していない理由。それは雇用だけの問題ではないでしょう。生産性の低さ、消費の停滞、労働者数の減少、終身雇用によるチャレンジのなさ、ただパイを奪い合うだけの長時間労働・・・様々な問題があります。そもそも、GDPを指標にするということが古いのかもしれません。しかし、この企業と学生による化かし合いの新卒一括採用が雇用のミスマッチを引き起こし、満足度を低くしているのは間違いないでしょう。何がしたいのかも、何が向いているのかも明確に定まっていないまま、就職した最初の企業でうまくいく確率は低いとは思いませんか?
米国の若者は18歳から28歳までに平均6.2回の転職を行っているそうです。もちろん、ここまでの転職回数を認めろと言っているのではありません。ただ、転職について、雇用主も雇用者もポジティブに考える事で良い結果をもたらすのではないかということです。何故なら、流動性の高さはマッチング率を高めるからです。新卒一括採用と流動性の低さはミスマッチ度合いを高くします。恋人だって何人とも付き合って結婚相手を決めるのに、どうして雇用は流動性が低くて満足できると思えるのでしょうか。
運が悪く負ける人になったのか、実力がなかったのか、それは分かりません。
ただ、そこにある事実は面接に落ち続けた人ということであり、内定を貰えなかった人であり、それは必ず存在し得る人なのです。
そして、誰が助けてくれるわけでもありません
誰も助けてくれなくても、家族がいるじゃないか!という意見。ごもっともです。これまで様々な面で経済的援助、精神的な援助をしてくださった両親。非常に感謝しております。しかし、こと両親の分からない範疇、自分で決めたいと考える物事において、両親という存在が必ずしもセーフティネットになるとは限りません。何社受けたの?いつ決まるの?就活してるの?もっと○○したら?いい企業に入れないんじゃないの?など、自分は考えて行動をしていても、必ず親という存在はプレッシャーをかけてくるのです。仮に僕が社会人の方々に聞いてきたことが正しいとしたら、中には全くアドバイスにならないようなアドバイスをしてくる場合もあります。
就活や人生で悩んでいる子供を抱えている親の方がご覧になっていたら、子供に声をかける前によく考えていただきたいです。あなたの言葉がプレッシャーになり、子供の心を壊してしまう可能性があることを十分に理解しておいたほうが良いと思います。私のような人間を生まなくてすむでしょう。
私は分からなくなるのです。自分がどう生きていけば良いのか。自分に何ができるのか。やりたかったことが出来ない人生。
もしかしたらそこでしか出来なかったであろうこと。先のみえない人生。
それは筆者も同じでしょう。その中でもがいて生きていくのです。
日本は死にません。死ぬ必要もありません。自分に何らかの責任があり、自分が自らの失敗を背負うだけなのです。
踏ん張る。駄目なら色々な方法を試す。変化する。それでも駄目だ。
http://anond.hatelabo.jp/20160316231324
女性と男性、労働と結婚と出産などの、ここ100年くらいの状況って総括するとどうなるんだろ?
よくまとまってる記事とかブログとか本ってない? なるべく私怨が少ないやつで。
この辺の問題を論じるとき、参加者は背景の共有ができているのだろうか。できてないと話ズレるとおもう。
要点キーワード列挙するとこんな感じ
男女、歴史的経緯、政治の無策、教育、自分で考える能力のなさ(政治の無関心)、権力構造、時代に適応して価値観を変えたり次世代に引き継ぐことができない権力層
■昔
選択の自由がない単純化されたシステムだった。キツいが、役割を果たせば成立しているシステムであった。でも役割がキツすぎたのか反発が起きていく。
男性が労働して家族を養っていた。つまりそれだけの給料をもらえていた。ただ、家庭と職場の両面で社会的重責が課せられた。その反動か家庭内では暴力的だった。
女性は労働しづらかった。だから一人で生活が不可能なので、旦那を見つけて専業主婦するしか選択肢がなかった。たとえ暴力旦那でも。
男女がお見合いで利害の一致によってくっついて家庭になるので必然的に子供もできた。
このとき男性側のメリットって何なのだろうか?メリットというよりは社会的圧力だろうか。
あまり能力がなくても就職できさえすれば年功序列によって救われた。
女性は生きていけないので、旦那がイケメンかどうかとか言ってられない、なりふり構ってられない状況であった。だからブサメン男性も救われていた。
■現代
男性の給料が減り、家族を養うどころか自分一人を生かすのも危うくなった。男性一人の収入で家族を養えるのはごく限られた一部になった。
女性は能力と意志さえあれば働けるようになり、一人で生活が可能になった。とはいえ給料は男性と同じかそれ未満。給料的に置かれてる状況は同じ。金が無い。
このことから、子供を作る場合は共働きでないと収入面で辛くなった。それでも働いているので時間がなかったりしてかなり厳しい状況なので子供を作れなくなった。DINKSという。
仕事も育児もなんでもこなすスーパーウーマンなんかはごく一部である。共働きとはいえベビーシッターを雇えるような状況でもない。
親子間での殺人事件、ネグレクト、子供の騒音問題、ベビーカー問題、子供への犯罪、養育費の高騰、核家族化による育児サポートのなさ、大学まで行かせても低い就職率、ブラック企業、日本の将来性など、子供の未来にも暗い影があることも出産を抑制している。
それに子供以前に、結婚をしなく・できなくなった。女性は自活できるので、結婚への圧力は減り、恋愛は自由競争化しお見合いが減った。なので市場価値の高いものを志向するようになった。昔の男性のような家族を養える高収入、アイドルブーム、二次元の発達による美形、などを志向する風潮。
また、労働の能力や意思がない女性は、昔の時代の女性が受けた暴力の反動を根拠とするアジテートからか、都合の良いATM旦那や家事育児旦那を求めたり、痴漢冤罪や恋愛弱者男性の迫害といった、婚前・婚後を問わない男性への社会的暴力を開始した。昔の男性の罪など知らない現代の男性にとってはこれを不服とし、「イケメン無罪」「※ただしイケメンに限る」「メンヘラ」「(イケメンには良い顔をする)クソビッチ」などの揶揄・批判用語を作り出して応戦した。泥沼化している。
※昔の男性の罪は、現代の男性が負うべきなのだろうか。罪というかみんな別々の辛さだったんだけど。その批判なら男性でなく明治政府に対してすべきでは?
男性に対する結婚への社会的圧力も減ったので、男性側も結婚を選択しないで済むようにはなった。というか市場価値不足によってしたくてもできないのも大きい。女性の社会的暴力に辟易してしまう成分もあるし、二次元の発達、性風俗に従事する女性の美形レベルの向上もある。旦那がガンになったら捨てられたりする。熟年離婚。セーフティネット、互助機能が家族から失われている。「病める時も健やかなる時も〜」という宣誓は何だったのか。昔のところに書いたように、イヤイヤでも仕方なく結婚したケースも多いから仕方ないのか。
「労働の意思や能力があり、自活できる女性はDVから救われ自由を手に入れた」わけだが、「労働の意思または能力がないので高収入旦那ATMを必要とする女性」はあまり救われてない感じである。ATM旦那を見つけたとしても、そんな妻をもった旦那のほうはイヤイヤ結婚生活であり苦痛である。鉄道模型を捨てられたりするし。
恋愛市場価値の高い男性は引く手数多であり、未婚率が男性が高く女性が低いのは、そういった男性が再婚をするからである。
恋愛市場価値の高い男性と、低い男性との間でも溝ができた。「恋愛のアドバイスだって?じゃあさ、まず女の子と食事いくとするじゃん?」といった、前提レベルが違いすぎる分かり合えない溝を産んだ。
労働の能力や意思の無い(低い)男性は、強い社会的圧力にさらされている。
昔は年功序列によって無能も救済された。だが、徐々に能力主義になっていくにつれ無能は淘汰され、そもそも入社できなくなっていく。しかし昔の無能は年功序列によって上層部になっていくので、能力主義による淘汰を免れた。いまでは上層部の中・高齢者は無能と有能が混在し、中堅以下の中年や若年には無能が存在できなくなった。そういう組織構成になった。医療の進歩で寿命が延び、高齢化社会になったのもある。
それでもニートは200万人くらいいるらしい。「働いたら負け」の名言も産んだ。デイトレードと新小岩も産んだ。
※ニートはなぜか上限が35歳までで、そこまでしか統計を取っていないようだが、あまり年齢上限の意味はないと思う。
昔から現代を通じて「男性への労働圧力」はなんら改善されていないし、反発もされていないのだが、ニート200万人が無言の反発ともいえる。
昔の男女の役割固定の価値観は、現代の役割や生き方の自由化しようとしていることと相性が悪い。男だって働きたくない、男だって家事育児したい、女だって働きたい、女だって産みたくない。昔の価値観どおりにいくのはごく限られた一部であり、多くの現代人の足かせになり、もはや適さない。誰も得せず不幸にするだけ。
現代人は昔の人に教育をされたわけなので、昔の価値観が教育されている。それがもはや現代人を幸せにしない価値観なのにも関わらず。だから価値観を再構成する必要がある。そこに気づくことのできない、"優等生"現代人が、その意味も理解しないまま社会的圧力の次世代の担い手となり、自分自身をも苦しめている。昔の人の誰得価値観を守るために。20代-30代の労働における自己肯定感の低さと自殺率の高さたるや。棄民された氷河期世代も含まれる。
結婚・出産への社会的圧力は減ってはいるが、無くなったわけではなく、むしろ昨今の年金問題と少子化問題が深刻化するにつれて圧力が復活しているようにも見える。政治的失策を国民に責任転嫁する形で。
先述の「昔側の男性」に属する為政者による発言にもそういった圧力が増えた。産む機械発言とか。それが、男性へは収入(労働)への圧力、女性へは収入(労働)と出産への圧力となっていて、男女間でのさらなる火種となっている。というかすでに炎上しているところに油を注いでいる。
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
就活は最終面接で落ちたら終わりである。そこで落ちたらそれまでの努力はパァになる。かといって最終面接以前で落ちてもそこで終わりなので、まずはリク面までいってリク面に通るようになることが肝要である。リク面対策本みたいなものは需要の割りに供給不足なので書いてみた。好きなだけ偉そうに書いたがまぁほとんど失敗談で、言い訳が半分くらいを占めている。
・就活の前提
悪意を持って騙されたことがあるわけではないが、まず友人の言葉は信用してはならない。信用していい情報は1次情報だけである。「商社は激務高給。」これぐらいならまぁよしとして、「~~の業界はマッタリ高給。」こんなの絶対嘘である。しかし信じてしまう。それどころか面接で「友人と話をしていても御社は~~な点があると聞きますしー」などと言ってしまう。阿呆の極みである。自分で情報集めをしていないことをさらけ出すようなものである。「何月何日の何々ビルでの何々セミナーにて御社の何々様から~~と伺いました。それを聞いて私は~~と思いました。」と言ってもいいぐらいである。その会社についての情報はその会社の大人から聞くのが一番である。確かに人事は悪いことは言わないみたいなことはあるが、大抵の学生よりはマシである。2次情報、又聞き、無料の情報、友人の言は信用しすぎてはならない。この文章もそうである、貴方の就活に責任があるのは貴方だけである。
・どの会社を受ければよいか
行きたい会社業界だけではなくて、受かる会社も受けたほうが宜しい。受かる会社というのは、2chの就職偏差値ランキングが低い会社や業界4番手5番手の会社ではない。なんとなく待遇がいい会社、どことなくウェルカムしてくれる会社、ちょっと無理なお願いを聞いてくれる会社、学歴厨の偏差値脳にもわかりやすくいえば関関同立の人が多い気がする会社、学歴を気にしなくて学閥がない(早稲田慶応がうるさくない)会社とかである。こういう会社は後からでも好きになれる、好きになれば行ける。加えて給料が悪くない会社、ホワイトな会社であれば万々歳である。ただしBtoBメーカーは最早大人気過ぎて受かる気がしないからもう受かる会社ではない。ちゃんと探せばあるにはあるらしい。あと大人気なせいで若手は薄給な気がする。東レとか。どこかで本当にそうか聞いてみて欲しい。人が多い業界で給料が高いということは、仕事も多いということである。とにかくマッタリ高給激ホワイトな会社に就職できるくらい器用ならこんな文章読まなくていいはずだからそういうのは一旦諦めるとはいわないまでも、別の道にも目を向けたほうがいいだろう。商社メーカーインフラマスコミコンサル志望なら、金融業界にひとつはここなら行ってもいいと思える業界を持ったほうがいい。メーカーに受からなかったから言ってるってのはある。
50社100社とエントリーする馬鹿がいるが、実のところ何がしたいのかわからない、何が向いてるかわからない、自分に何ができるかもわからない人はまぁ、たくさんエントリーして見聞を広めるしかないのである。自分の周りの人がエントリーしてる会社しか受けないのは無謀、周りの人が受けてない会社にエントリーして満足するのは危険である。エントリーは質・量より早さである。危機感に煽られて後から後から持ち駒を増やそうとエントリー増やしてしまうのはどうしようもないが、ESの時期にエントリーをポチポチするのは、無益な感じだった。一方で持ち駒ゼロの状態は恐怖である、セーフティネットのない地獄である。就活ルールが異なるので年ごとに違うが、エントリーから面接までが近いなら、最初に多めにエントリーをやりきって、残りの持ち駒をみつつ増やしていくべきである。10社しか受けない、と言いたいのであれば10人リクルーターがつくまではエントリー数を増やすべきである。エントリーした数は持ち駒ではない、エントリーするだけなら誰でもできるし誰でもやっていることである。何人リクルーターが付いているかぐらいを持ち駒と考えたほうがよろしい。
説明会は情報収集の場である。しかしその業界の収益構造、簡単な歴史、景気のよさ、社員の雰囲気、羽振り、人間性を確かめに行くつもりで会場に行って、メモとって、家に帰ってそのメモを読み返しても、クソの役にも立たないんだなぁこれが。説明会にはESを書くつもりで行け。ESで詰まるのは結局志望動機である。説明の最後に社員か内定者に、当時の志望動機を聞け、そしてそれに自分のエピソードをまぜてパクれ。志望動機いっちょ上がりである。普通にやって書けたらいいんだが、ES書けないからってネットで拾ってきた志望動機をコピペするよりはこっちのほうがまだマシである。説明聞きながら志望動機書いてる人が実際に居た、賢いと思う。お手本にすべきクズである。
業界研究は頑張れ、リク面に使える。人よりちょっとやるだけで社員さんの反応が違う。大切なのは量ではなく正確さである。不景気な業界に景気いいっすねと言ったらアウト。不安定な業界に安定してますよねって言ったらアウト。こいつはわかってないと思われる。まず業界まとめ本見たいのを立ち読みして「この業界はAである一方でBである」みたいなちょっと凝った言説を用意する。次にその業界の社員に「業界研究を始めたところなのですが、この業界はAである一方でBであると本に書いてあったのですが、これはなぜですか?このほかにどういった特徴がありますか?」みたいな質問をぶつける。すると「それはCだよ」みたいな答えが返ってくるので、その業界の別の社員に「Cって聞いたんですけど」聞き、「それはDだよ」と返してもらうのを無限にやれば、リク面でこいつ業界研究ちゃんとやってんなと思われる殺し文句の完成である。このとき若い人事はカスみたいな答えしかくれないので、自分の仕事の抽象化ができてるオッサンに聞こう。まぁ「この業界競争的ですよね」的なこと聞いたらだいたいOKだが、使いすぎると阿呆がばれるのできちんと質問は発展させたほうがいい。人間阿呆にはなんにも教えてくれないが、わかってるヤツにはもっと詳しく教えてくれるもんである。とにかく社員さんに「そーなんだよー、業界研究きちんとしてくれてるね、うれしいよ」と言わせたら勝ち。会社研究はこれを会社単位でやればいいだけ。就活生が会社に抱いているイメージが曖昧で願望入っててズレてるのと同じで社員の会社に対するイメージもそうである、質問をたくさんぶつけて正確な会社像をあぶりださないといけない。
・ES
クズ人間にも“通るES”は書ける。まぁそう信じないと始まらないからそういう風にポジッておこう。通るESを書くコツは、コピペしないことである。これはもう黄金律と言って差し支えない。何故なのかは自分で体感すると思うが、とにかくコピペしたESは通らない。市販の志望動機集、ネットで売ってるやつ、ただで手に入るやつ、全部だめ。前述のとおり説明会で聞いたのを丸パクリするほうがまだマシ、よっぽどいい。自分が書いた別の会社のやつを別の会社にあてはめるのも、コピーアンドペーストはやめたほうがいい、1から書くだけで文章がよくなる。コピペしても通る人は勿論通る。羨ましい。
5回も10回もリク面してくれる会社は本当にいい会社である。フィードバックしてくれるので、面接にたどり着くころには大体の質問に答えられるようになっている。しかしだいたいのメーカーなんかの採用活動ではそんなところまでしてくれない。元々の枠が少ない中で、そんなことまでしてくれる枠に入るのは至難の業である。ES→Webテ→「面談という名の1次面接」→不採用、という急流くだりみたいなコースも珍しくない。そんなイキナリの面接、相手が自分のことをまったく知らず、相手が自分にそんなに興味も持ってない面接の場に唯一持っていける武器がESである。面接ではトラップだらけのESでないと役に立たない。面接官の質問を誘導し、どんな質問が深掘りされても答えられる、そんなESが理想である。だからESは面接を念頭において書かなければならない。面接練習を極めてから書けばまぁ落ちないだろう。そんなことは無理だが。
そしてESは早く出せ。絶対に早く出せ。就活失敗する原因はわりとここにある。ESを早く出すメリットは、ESさえ出してしまえば自分でスケジュール管理をする必要がなくなることである。スケジュールとタスクの管理はメモ帳に全部書けば誰でもできるとして問題は自分がスケジュール通りにESを書けないことである。予定通りにESがかける人間なら今頃こんなに単位が残っているわけがないのである。貴方はESはいくらでもサボれる。明日締め切りでも今日やらない、そういう人間である。だが一方で、3月7日にリク面に来いと言われたら絶対に行く人間である。そこまでサボるやつはどうしようもない。ESを出したらリク面の案内がくる。そしてリク面の案内が来るようになったら、あとはもう言われるがままに会場に時間どおりに行くだけなのだ。それは簡単にできる。だからESは早く出すに限る。世間一般に言われてるメリットもたくさんあるしとにかくESは早く出すに限る。
具体的なES執筆の方法論は「ロジカル面接術」を読め。これだけは買って2.3回読むのをお勧めする、少なくとも一回立ち読みはしたほうがいい。低学歴向けぼったくり就活本にしか見えないのだがどうしてどうして良い本である。
ネカフェで書いたESも落ちる。ネカフェには息抜きのためにいくべし。
・Webテ一式
ESを極めれば面接も受かるが、Webテを極めても面接には受からない。労力の配分は効率的に、てゆーかよくわからない。どの種類であれ、Webテは謎、悩むだけ時間の無駄、やるべきときに手を抜かずにやれば十分。ほんまによくわからん。
外資コンサル等に行きたい人は徹底的に勉強すべし。その会社のWebテがどの形式なのか、何回あるのかを、人事でも先輩でも内定者でも誰からでもいいからとにかく聞き出して対策すべし。
世間は受験シーズンもいよいよ終盤。受験生たち、保護者たちも後の大学生活を視野に入れつつあるだろう。
学生寮には試験日になると暇な親や試験後の高校生達が見学にやってくる。
家庭が貧乏だった私ももれなくその1人だったのだが、ぶっちゃけ見学に言っても何処を見れば良いか分からないだろうな、と思う。
せいぜいボロすぎる建物に引いたり、左翼系の落書きにビビったり、意外ときれいだわ〜とか思ったり。
寮が出してるパンフレットなんかは基本的に「寮最高」みたいな情報ばかり載っていたりするが、良い点様々あれど決して最高ではない。月何万も払って下宿に住む価値はそれなりにある。
このエントリーでは、初見では分からないであろう見学するときに調べておくと良い点や、寮の条件などが意味する所を、寮生活4年目のベテラン視点で考えてみたい。
とはいえ、このエントリーに書いてあることは一寮の一寮生の視点でしかないことはあらかじめご了承願いたい。寮によって状況や内部システムは様々なので、この視点がどれだけ他に適応できるものなのかは分からない。
・自治寮
・男女混合、数百人規模、留学生多数
・寮費5000円以下
・4人部屋
以下本題。
これで寮の性格は大きく変わる。
住んでる学生が管理してるのが自治寮で、大学が管理してるのが管理寮。
一般的な寮は管理寮だと思うけど、自治寮が派閥を効かせてる大学もそこそこあるね。ウチもこれです。北海道の恵廸寮なんかはNHKの密着取材を受けたりして露出が多いね。
管理寮については憶測でしかないんだけど、それぞれの特徴はこんな感じかな?
「管理寮」
・さすがに2人部屋が多いんじゃないの?と思ってます。1人部屋もあるところはあると思います
「自治寮」
・たいてい寮費が格安
・1人部屋はあまりない。ウチは4人部屋
・「寮の仕事」がある…当番や委員会、会議出席の義務など。一個一個は大したことないとはいえ、積み重なると結構めんどくさい。
簡単に解説すると
自治寮で「寮の仕事」があるって言うのは、管理寮で「寮母さん」「守衛さん」「大学局員」が請け負っている仕事を、全部学生たちで分担しているということ。例えばトイレが詰まったりしていたら、管理寮だと放っておいたり寮母さんに言えば、後は勝手に直っていたりすると思うけど、自治寮だと寮の中の委員会の人に伝えて業者を呼んでもらったり、学校に連絡して業者を呼ばないといけない。修理も立ち会わないといけない。そんな感じでめんどくさがって放って置かれたり、直るのに時間がかかったり、大学が直すの渋ったりするこおもあるので、自治寮はだんだん汚くなっていく。他にも寮の決め事のために会議に出席しないといけなかったり、仕事を請け負うための委員会に入らないといけなかったりするわけだ。他にも設備を拡充したい時は大学と交渉しないといけないし、大学はお金がかかるのを嫌がるのでなかなか設備は良くならない。というところである。
管理寮は綺麗で設備が整っていて、めんどくさい仕事がないのが魅力。悠々自適に自分の生活を過ごしたい人向け。
自治寮はめんどくさい仕事があったり汚かったりボロかったりする代わりに、ざっくばらんな雰囲気や横のつながり、自由さなんかが売りだろう。
大きな音を出さなければ夜中に共同スペースで楽器弾いててもあんまり怒られないし、学生同士で協力する場面が多いので横のつながりが厚い。お金の使い方も学生たちが話し合って決めるので、コンパや寮祭など楽しいイベントが開けたりする。こっちは学生的な生活にズブズブ浸かりたい人向け。
じゃあ次。
○何人部屋?
2人部屋だと相手が良い人だったり気が会う場合天国だが、合わない人と一緒になったり、喧嘩した時かなり辛いと思う。
3、4人だとそういうリスクは薄まるが、その分うんこな人間に出会う確率も高くなる。うんこな人間結構います。話し合っても、根本的な性格は直らないんですよね。
あとは研究室やバイトで夜遅いなど、生活が異なる人と生活を送ることになるので、人が多いほど部屋の中の生活習慣も雑多になる。寝てる時に多少明るかったり、物音がしたり。
このへんは各人の微妙な好み次第かなと思うけど、人間関係が怖い人は意外と多人数部屋の方がいいかもね。
○水場を見れば寮の美意識は分かる
はっきりいってあまり掃除したくない場所なので、ここを見れば美意識や管理状態が分かると思う。
管理寮は清掃員がいたりするのでまあ綺麗だと思う。汚かったら雇ってる清掃員が悪い。
自治寮だと当番制できっちり定期清掃してれば綺麗だろうし、そういう寮は他のとこも綺麗なんじゃないかな。
ウチは当番がなくて、清掃員も時々しか掃除しないので自主清掃。汚いです。
○立地が良い感じか聞いとけ
主に自炊しない場合の食事の調達場所(定食屋、コンビニなど)や銭湯などの有無なんかを聞いておくと良いかも。寮の設備を補完してくれる場所だね。
寮では、炊事場が共同で且つ部屋から遠かったりすると自炊がめちゃくちゃめんどくさい(6部屋隣の部屋に材料と調味料、調理器具を持ってキッチンを借りに行くような感覚。部屋と炊事場をめちゃくちゃ往復することになる。食器も使ったらすぐ洗わないといけない)ので、クタクタに疲れてる時とかに使えるコンビニや定食屋、弁当屋などが近いと便利だと思う。
シャワーのみだと時々湯船に浸かりたいですね。
居室の人間関係が悪化した、部屋が汚い臭い、夜更かししたい(パソコン、ゲーム、勉強)など、部屋以外の場所に居たいとき居れる場所があるか、ということ。
談話室や食堂とか。夜中でも使えるかとか。こういうのが管理寮にはどれくらいあるかはわからないけど、確認しておくと良いと思う。
○留学生の有無
国が違うと常識や感覚の違いからトラブルになるというのはよくある話。それを含めて寮生活の味わいともとれるが、私はわりと避けたい。
まあでももちろん話せば分かる人もいるし、国際交流もまあまあできるかな。お国の料理を食べれるってのはあんまりないよねー。
管理寮だと4年までというところが多いっぽい。
最初から留年するつもりの人はいないと思うが、いざという時心強いセーフティネットになってくれるので調べておいても良いと思う。
と、あまり包括的でない気がして申し訳ないが、こういうところに着目してみると寮生活の実態が見えてくるんじゃないだろうか。
とはいえ、個人的にはとりあえず一回寮に入っとけと思う。単純に出たくなったら出れば良いし。逆に下宿してから途中で入るのは大変。
これが誰かの役に立てばいいなぁ。
ジェンダーでは、社会の中で男性性や女性性が形成されると説かれる。
それはわかるし、そうした文化の中での規定が、特に女性を苦しめていたってのもよくわかる。
自分で自立自存できる(経済的にも精神的にも肉体的にも思考の上でも)強い女性ならいいんだけど、全員がそうではない。
結婚が解りやすい。今までは共同体や身分など共通項から自然と配偶者がマッチングされる社会だった。今はだんだんとそうじゃなくなってきている。
となると、自分で考え選択し、あるいは他者から考えられ選択されて、結婚に至ったりいたらなかったりする。
結婚しないという選択しすら次第に正当性を持つようになってきた。
一面これは自由なことでいいことだと思う。一方で孤独な戦いを個人は強いられることにならないか。
すなわち文化から解放してしまうことである種のセーフティネットを外すことにならないか、ということ。
自分個人で考えて自立しなければならないとなった時、それを出来ない人は一体どうすればいいのか。
月収16万円 40代アルバイトが餓死 生活保護申請通らず 市役所「知らん。俺は悪くない」 【2chまとめ】ニュース速報嫌儲板
http://newskenm.blog.fc2.com/blog-entry-47075.html
肉屋を煽てる豚は
自らが豚ではないと、いや豚になることはないと
例えば
ガンになったら?
車に轢かれて障害者になったら?
通り魔に襲われて半身不随になったら?
サリンガスによってまともに話せなくなったら?
火事で全てを失ったら?
生活保護を叩くことで得られるのはなんだ?
増田に告ぐ
明日もしも失職し全財産を奪われ家族が全員大病を患い自身が障害者になったら?
明後日を生きることはできるか?
自己責任の名の元に国民はだれもお前を助けなくていいとされている
それが、日本だ
家族のため犯罪に手を染めることすらいとわない人間らしい人間に
人生をうばわれるかもしれない
セーフティネットは誰が為にあるのか
情けは人の為ならず巡り巡って人のため
http://mainichi.jp/articles/20160105/k00/00m/040/124000c
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
はっきりいうぞ、
なまはげが続く東北は自分が子供の頃にされていやだったことを代々子供に繰り返し続けてきてそれを無形文化財扱いにしようとする陰湿国宝
下が下を叩きいつか自分に降りかかるかもしれない災難を予想もせず
自分のためにもなる底辺のためのセーフティネットワークを下を叩くために捨てよと叫ぶ
自分はこいつらよりも下になることはないとしたのみをみて安心しはいあがろうとすると叩く
ナマポなんて好きなだけくれてやれ
俺ら普通の職に就いてる一般人からしたら、生きていくのに最低源の金でかわいそうに思う
俺ら普通の職についてる一般人が怖いのは金がないからと犯罪に走られること
ナマポのセーフティネットワークで生きていくのに困らなければおにぎり一つ万引きして追ってきたやつを刺すこともないだろう
どんどんナマポだしてやれ
これ以上悲しい話を聞かせないでくれ
女はまだ化粧でごまかせるだろうが!
札束で頬叩くほど金稼ぐなんてこの時代じゃほぼ無理なんだよとくに人脈が広がりづらいブサメンにとっては!
多少マジメに考えると、
男のブサ率は4割くらいで、女のブサ率は3割くらいだと思うんだよね。
化粧で誤魔化せる層をブサから外せば、女のブサ率2割くらいになると思う。
つまりマクロでは男の方がブサで苦しむ人数が多く不幸だと言える。
でも、個人として考えた場合。もし自分が、外れクジ引きづらいはずの女なのに2割のドブスに生まれたとしたら、これはめちゃくちゃしんどい。
性別による有利さからも化粧によるセーフティネットからも零れ落ちた、僅か2割のド底辺にはもう救いもないし傷をなめ合う仲間も少ない。
キャッチフレーズにするなら、男ブサイクの闇は広く、女ブサイクの闇は深い、って感じか。
こういうのって、集団としては恵まれている率が高かったりチャンスも恵まれてるのにド不幸やド無能で例外的に落ちこぼれた奴は鬱屈を濃くするって話で一般化できると思う。
田舎のメンヘラは、福祉や病院や民間サポートが乏しいし、周囲の理解も乏しかったりして生活がうまくいきづらい。
でも、都会に住んでて、その辺の福祉が整ってるし、周囲の意識も多少よいという恵まれた環境で、なのに全然生活できないメンヘラって、めっちゃ歪んだりするんだよな。
あと、ゲームのビギナーモードやら初心者救済策やらで、全体としては楽しめる人が増えるけど、そのビギナーモードでも馴染めなかった奴はそのゲームやジャンルが大嫌いになったりしがち、みたいなアレとかさ。
間口を広く、できるだけ大勢に好かれるよう、長いものには巻かれて、マジョリティに合わせるんだよ。
エロゲに非処女ヒロインを出したら、全プレイヤーの中では嫌がる人間が多いけどそれが好きなマイノリティが必ずと言っていいほど買って、プレイ用保管用布教用に三つ買って、購入層が五分の一になっても売り上げが六倍になるなら出すよ。
でも、恐らくそうはならないでしょ。元々マイノリティなニッチ層狙いの低価格ゲームや同人ゲーならその戦略でイケるけど、大作ではそれじゃペイできない。
変わった選択肢を選んで、突飛なことをして、一瞬は話題になるかもだけど、じゃあそれで、長く、強大なマジョリティ達に愛してもらえ続けるか?
難しい。
では突飛な生き方をして人生に失敗した時、誰か救ってくれるか? セーフティネットは十分か?
とんでもない。
非正規雇用=忌むべきもの、最悪であるっていう報道ってマスコミ(あるいは政府の)国民分断作戦だと思うんだよね。
忌むべきなのは貧困であって非正規雇用じゃないでしょ? 賃金とか雇用安定とか社会保障の劣化が問題であって、非正規雇用そのものは悪いわけじゃない。だいたい非正規雇用=派遣じゃないでしょ。事実俺も期間限定雇用だけど年俸800くらいはもらってる。
非正規雇用こそが諸悪の根源だっていう宗教的なたたきが、逆に「正社員だけどブラック」なんてものを産んでると思うんだよね。一回正社員にしたものにたいして、非正規になっちゃうぞ、転落しちゃうぞっていう脅しをかけることによって会社に縛り付けるわけでしょ。それで出張させたり転属させたりサービス残業させて、忠誠心の踏絵をさせるとか、不毛だよ。組合がしっかりしているような大企業ならそういうのに対して自浄作用が働くのかもしれないけれど、日本の企業の7割以上は社員10名以下なわけで、そうもいかないのは火を見るより明らかだ。「自分のジョブスキルにあった次の職場が見つかること」ってのがブラック撲滅においては一番重要なのに、企業叩きをして留飲を下げてるようじゃ、いつまでたっても全体の構図は変わらないよ。
それとも、非正規たたきが終わったら大メーカー社員と公務員以外は幸せになれない下層民だとかいうキャンペーンを始める気なのかな? なんか叩く対象をでっちあげられて内ゲバをさせながら、本来進めるべき構造改革(貧困問題の解決や、賃金上昇、同一労働同一賃金の原則、雇用流動性に対するセーフティネット)を棚上げするっていうループにはまってる気がするよ。
だから今後20年は変わらないはず。
日本国は経済的な面における最低限のセーフティネットはどう考えても世界最高なわけで
"生まれてこなければよかった"考えて生きるのは単に精神的に貧しいだけで経済的な素養とは幼年期からなほぼ完全に枝分かれする、別ベクトルである。
”貧困の再生産をしない”と考えているのに、動物として生きていけるラインはほぼ絶対的に保証されているという前提条件を満たした国がいくつあるのか?
そして”生まれてこなければよかった”と考えながらもがき生き続けろと国は言っているわけでもある。
そこで行動や思考、生き方の改善を自身に起こす・起こさないも自身の意思で自在に決められるゆとりは日本国に基本的人権として完全に保証されている。
こちらの記事(http://anond.hatelabo.jp/20150928163536)、
(http://anond.hatelabo.jp/20150929000832)
なんだか私についていくつもエントリー(?)がついてまして…
いやはや、こんな思考の駄々漏れみたいなものにたくさんの人にお付き合いいただけて頭が上がりません。
少しだけ書きたいことが出ましたので2つほど追記を…
まず一点目。
前回の2つの記事についてご指摘がありましたが、これは私の自分語りです。
客観的に見れているか?と言われますと私は首を縦には振れません。
それを理解していただければ幸いです。
更に申し上げますと、前回の2つの記事は、『私がこの時、こうだったから、私は楽になれた。』
その、たった一例を出したに過ぎません。
誰でも彼でも救ってくれる、万能薬のような魔法の言葉を言われたわけではありません。
当たり前ですね、状況がまず違うのですから、そのことを他のコメントを見ながら痛感しています。
未熟者でお恥ずかしい限りです。
しかし、それでもあんなに簡単な言葉で私が今まで生きてこれたのも、また事実なのです。
だから一番近くで、犯人のような人や、私のような人を見てきた人だけが
助けてあげられるのかもしれない。とも思うのです。
でも近いからこそ、それが出来ないのかもしれないとも思います。
親しい人ほど、無様な姿は見せられない、という心境とでもいいましょうか…
難しいですね、これは私がベストアンサーを出せる問題ではないように思うこの頃です。
さらに前の記事では、こうしたらいいなどと厚かましい意見を述べてしまいました…
私と考えが似ていらっしゃるとのことで、
色々と関連したもの(動画など)を拝見させていただいたのですが、
私の思慮の浅さが露見するばかりで…
こんなに深い考えをお持ちの方に間違われるのは大変恐縮するばかりです。
この方のお言葉にハッとさせられたのですが、
「自分という存在」は「他者」に認められて存在が成り立つということです。
当たり前のことですが雷のような衝撃を受けました。
私は何も選んで生まれて来ていない。性別も容姿も親も何もかもです。
それを私だけの一存で好きになるのは難しいことですね。
というか私には不可能に近いです。
じゃなきゃ、自己肯定感がこんなに低いとウダウダ悩んでません。
だって好きで選んだものじゃないんですもの。しかも絶対に逃れることなんて出来ない。
そしたら、すんなり好きになれなくて当たり前です。
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私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、
人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、
【カール・マルクス、岡崎次郎訳『資本論(1)』(国民文庫一九七二年)一〇二ページ。】
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一九〇二年の本のなかでさきのマルクスと同じようなアイデアを定式化している。
すなわち、かれは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」として、
このような自我のありかたを「鏡に映った自我」(looking-glass self)と呼んだ。
他者と関わり他者の鏡に映った自分を認識することによって自我が形成されるのだ。
【C.H.Cooley, Human Nature and the Social Order,1902,p.184.】
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だからこそ私は他者を排除して自分を語ることが、どうしても出来なかったんだと思います。
人の目が気になってたまらないのも、きっと、ここら辺からきているのかな…
私という存在を求めてほしい気持ちがあるからこそ、他者からの無条件の肯定に焦がれてしまう
でも得るのはとても難しい…
ムムム…ここら辺はまだまだ私の中で考えていく必要がありそうです。
さすがその道に長けた方のご意見は納得させられるものばっかりです。
とても勉強になりました。南直哉さんのことを教えてくださった方、ありがとうございます。
気になる方は動画などもいくつかネット上にアップされているので、ぜひ拝見してみてください。
二点目は、エントリーについて少し触れさせていただきたいと思います。
◯『憎しみも怒りもなくふるわれる暴力』とエントリーを書かれた方
私はまずDVの話はしていません。
同じような「劣等感」からくる事件を持ち込むならまだ分かりますが
例えとしては、いささか整合性がなく、乱暴なようにさえ感じます。
そして加害者と被害者の言い分は別です。ごっちゃにしてはいけません。
もし、この言い分を使いたいなら私の発言はどちらかの立場だけに終始すべきです。
なぜなら私は被害者側の立場に立って、今回の話はしていないからです。
そもそも私が疑問に思った問題と、あなたが述べている問題点は相反するものではありません。
私が言いたいのは、犯人のやり口が卑劣だ、という犯行への結果ではなく。
どうして止められなかったのか?という過程へ向けた問いの話だけを今回の問題としてあげています。
分かりやすく言うならば、『起こったこと』(結果)、『今起こっていること』(現在)ではなく
『止められなかったのか?』という『過程』と、
『それはなぜ?どうしたら止められるの?』という『未来』の二点だけです。
むしろここで、ごった煮にして考えてしまって良いような問題ではないと思います。
『加害者擁護に感じる不愉快さは被害者の人権軽視の姿勢』についてのお話も
あともう一点だけ、トリイ・ヘイデンの「シーラという子」という本を引き合いに出されていましたが
これこそ、私が疑問視していたセーフティーネットが上手く発動した例にはならないのでしょうか?
社会という仕組みにある学校が、セーフティーネットとして、シーラという子を助けられたなら、
それはとても喜ばしいことに思えます。
他の場面でなら、彼女の体験はどう使えるのか、考えるヒントがありそうです。
こちらの子方は、いくつか引用を交えてお話させていただきます。
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犯人に自己を投影してしまうからこそその言葉が自分に返ってくるように感じてしまう。
コメントが賛否になるのは当然でどれに感情移入(主体として)するかによって風景が変わる。
コメントする人間は、自分がいちばん近い距離感に対し感情移入する。
であって、本人がこじらせている状態を「くだらない」と言ってるわけじゃない。
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そういう見方も出来るのですね!
私にはない見方でした。ひとつの方向だけを向いてしまう悪い癖です。
そうですね、どうしてあの時、母が「くだらない」と言えてしまうのか
とても疑問だったのですが、すっきりしました。
トラウマ的な部分もあって、私自身がそれに過剰に反応してしまった部分もありました。
こういったトラウマ的な部分は気をつけていても
反射で反応してしまうものなので、中々コントロールするのは難しいですね
そうった意味で言っていたのか、母には後日、確かめてみたいと思います。
ただ、やっぱり事件を「くだらない」と片付けてしまっていいものか…と私は考えてしまうのです。
背景は別々だけれど、同じような事件がたくさん起きているのは事実で、
なくならないかも知れないけれど、減らすにはどうすればいいか
もしかしたら犯人の人生において共通の何かがあるのか、ないのか…
私はそれを「自己肯定出来ない自分」という、ひとつの可能性と結びつけました。
探せばもっと違う可能性があるかもしれない。ないのかもしれない。はたまた、これ事態は関係ないのかもしれない。
それでも考えていくことを放棄したら、なんだかもっと危うい方へと世の中が転がっていくように私は感じてしまうのです。
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今この時の、家族の、学校の、大げさに言えば社会のセーフティーネットが機能していない深刻さ。
それを改善していく必要があるんではないかと強く思ったがゆえに投稿した記事でした。
ここに集約されてる。
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なので、こんなに恐ろしい気持ちを味わっていたらと思うと…と、
だいぶ犯人の側に入れ込んで前の記事を書いたことは否めません。
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問題のある家庭まで補正できるセーフティネットって具体的になんだろう。
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残念ですが私にも分からなくて、具体的なことはひとつも書けませんでした。
本当に何がセーフティーネットになりえるのでしょう?
そもそも、そんなすごいセーフティーネットを作ることって出来るのでしょうか?
家庭が駄目なら、どこでなら救うことが出来るのでしょうか?
直すべき形態はどこなんでしょうか?
殺人は犯人が悪いけれども、もし彼をそこまで追い詰めたものがあるとしたら、
それって何が悪かったんでしょうか?
遠くない私たちの問題なのかもしれないと、私は思ってしまいます。
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劣等感が「リセット」というキーワードと結びついて妄想が膨らんだ。
結び付いたらそれを「くだらない」といった母親の言葉が自分に向ってきた。
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そうですね、少ない情報から「同類だ」と勝手に思い込むのは良くなかったですね。
もっとじっくり考えれば、すぐに私と犯人は他人だと分かりそうなものですが…
そして、私の書いたものを共感してくださる方がいたのも事実です。
割り切れない何がある?それってなんだろう?
そうやって考える自分がいるのも確かです。
そして、私のことを「少ない情報で犯人と自分を同一視するな!」とおっしゃられるなら
「啓発にコロリと引っかかる」という型にはめた発言は訂正していただきたいと思います。
だって、わたしのこと、この2つの記事でしかあなたは知らないんです。
女か男か、はたまた性別も分からない人に、それを言うのは野暮ってものです。
やっぱり、自分の独り善がりで文章を書いてしまいますと、なかなか客観的に立ち返れずにお互い苦労しますね。
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犯人が違う理由を言いだしても増田は投影し続けられるんだろうか。
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「人を殺せば刑務所に入って人生をリセット出来ると思ったこと。」
よく考えれば、刑務所に入ろうという発想はありませんでしたし…
ただ、「小学生から大学生の今まで、自分は何をやっても駄目だと感じていたこと。」
「そのことを考えると夜も眠れず苦しかったこと。」
この二点は確かに私の味わった挫折感によく似ているので、
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自分の人生の責任も、運命を変えるのも、残念ながら自分でしかない。
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その通りですね。自分の人生をどうやったら大切に出来るか、自分なりに模索している最中です。
ただし、ご自分の人生へ責任を取るのなら『この記事だって誰の責任も取らない。』のではなく、
やはり言ったという事実には責任を持たれたほうがいいと思います。
持てないのでしたら、それこそ私などに発信せずに匿名でやってください。
私は匿名という時点で、心苦しいですがあなたと同じ土俵には立てません。
この発言をすることで周りへかかる迷惑を考えた結果の匿名ですので、
その点に置いては私は自分の発言に責任を持とうと思っています。
◯自分は自分であるというただ一点で何よりも尊い。についてエントリーを書かれた方
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「こうやれば楽に生きられるかも」なんてものは何も書けないと思う
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そうですね。そんな素晴らしい答えがあったら私も悩んでいません。
どうかその考えることを大事にしてください。
とてもいい環境で育てたのですね。それはあなたの財産であり、誇りになると思います。
どうかその世界をつくってくださった人を大事にしてあげてください。
そうして、きちんと悩めるあなたなら、誰かのために手を伸ばすことが出来るでしょう。
うらやましい限りです。手探りでは、なかなか及ばないところも多く、歯がゆい日々です。
でも、どうか私みたいにこれがいいと決めつけて傲慢にならないでください。
きっと時と場合によって回答は常に変化してしまうでしょうから。
時々、休みつつ、問題に真摯に向き合っていくことが大事なんじゃないかと思う今日この頃です。
ということを受け入れ始めることが出来てきたように思います。
その「尊い」という感覚は、きっとあなたがおっしゃるように他者との間にしか見つけられないものです。
そして、時にものすごく得ることが難しい。
「自分を愛せないのに、どうして他人を愛せようか」ということです。
そして、これが未だに誰かの胸を打つのは、この言葉が響く人が確かにいる証のように感じます。
書いてくれてありがとう。私の考えるきっかけになってくれて、ありがとう。
きっと苦しい状況はすぐには変わらないけれど、起こしてもらえるのってすごく大きな力になる。
あなたの人生を曲げない範囲で、どうか他者を労ってあげてください。
私もあなたのようになりたいです。ほどほどを忘れずにね。
以上で追記は終わりです。誤字脱字はご愛嬌の範囲でお願いします。
そして、私の個人の思う所を書いたという点だけは、重ね重ねですが、どうかご了承願いたいです。
この一連の記事を書く前は私は魔法のような一発で解決する答えがあるんじゃないかと
心のどこかで思っていました。
でも、たくさんの意見に触れてそうじゃないと気づけた。
きっと、現状を少しでも良くするためには、どうすればいいか?
それを柔軟に考えていくのが大事なんじゃないかと思えました。
これが現時点での結論です。
きっとまた四苦八苦して変えて、いかなくてはいけないのだと思います。
この投稿は、私の疑問の声であるという点を汲んで、少しでも考える機会になったら
これほど書いてよかったと思うことはありません。
長文、失礼いたしました。