はてなキーワード: 定時制とは
・資格なし(普免もなし)
・彼氏なし
・友達なし
・病弱
働いている会社から雇止めを受けて、転職活動をしているが上手くいかない。
先週も免許について記述がない求人に応募したのに「免許がないと厳しい」と言われるし。
上記について知人に話したら「転職活動上手くいかないなら、もう少し頑張って障害者手帳取得目指したらどう?」とアドバイスされた。障害者枠採用か年金狙いなよ、と。
昔、双極性障害と診断されたことがあったが、いつの間にか精神が不安定になることがなくなったので、今は病院に通ってはいない。
その路線で通院しなおして、手帳取得……それってどうなの?とは思うが、一つの選択肢としてありなのか?
周りを見ても私よりはるかに経歴がまともな子たちが、手帳を取得したり発達障害と診断されているもんな。
その子たちよりまともじゃない経歴の私なら、障害者にもなれるかもしれない。
こんな経歴だから希死念慮は多少あるし、常に眠たくて会社で気絶しそうになるし、うっかりが多くて上司によく叱責される。
嫌味や冗談がわからないし、「人の気持ちがわからない人だよね」とよく言われるし、言われてもなんも思わないし。あと機能性ディスペプシアだし。
この特徴を外で隠して生活しているから、どうにか生きていけている。これらを大袈裟に説明すれば、適当な病名くらいはつきそう。
大昔に学びになった話。大昔の話なのでフェイク入れずに書いちゃうけど、もしどこの高校か分かった人がいても黙っておいてもらえるとたすかります。
高校生の頃、大規模なカンニング騒動が起きた。一部の生徒が早朝に職員室に忍び込み、テスト用紙を盗んだのだ。
この時点で世代が分かると思うんだけど、PCがまだ一般化する前でテスト用紙もワープロで作成していた時代だ。
で、そのテスト用紙が一部の生徒にまわって、あるクラスの平均点が爆上がりしたせいで発覚。全クラスの平均点が70点ぐらいだったのに、そのクラスだけ95点とかとったらしい。アホすぎるだろ。
テスト盗んだやつはいわゆるスクールカーストの最上位の奴らで、中の下くらいにいた俺はそいつとクラスも違ったのでまわってこなかった。逆にまわってこなくてよかった。もしきたら絶対見てた。
前代未聞の事件で学校中がざわついたんだけど、学校の対応は冷静で素早かった。
まずはカンニングしたであろう生徒全員にヒアリングを行い、そして全員を停学にした。平均95点出したクラスは停学にならなかったのが5人くらいで笑った。先生も5人に向けて授業するのダルかっただろうな。ちなみに昔なので1クラスで40人くらいいた。
次に首謀者とその周辺の特に性質の悪いやつらを退学にした。なんだかんだ停学で済ますのかなと思ってたんだけど、20人くらいが一斉に退学になってびっくりしたのを覚えている。うちの高校はタバコ、バイクの免許、携帯、バイトあたりの校則で禁止されていることが3回ばれると退学というルールだった。今回の件はよほど悪質と判断したのだろう。当たり前だけど。
書きたかったことはここからで、俺はその退学になったやつの1人と割と仲が良かった。けっこう男前のやつで、ユーモアがあって、自分勝手なやつ。カースト最上位の人気者。自宅の方向が近かったからたまに学校にいっしょに行くことがあったくらいなんだけど。
当時の俺はカースト上位のやつらが女子と仲良くしているのを嫉妬に狂った目で見つつ、興味ないフリするという典型的なイケてないやつだったから、表立っては言わなかったがそいつのことは好きじゃなかった。あんな軽薄なやつが人気者でなんで俺はこんな日陰者なんだと思っていた。ちなみに当時の俺は声優の林原めぐみのファンだった。どうでもいいな。
退学は突然だったからお別れをするわけでもなく、ある日からそいつは学校に来なくなったし、俺もそりゃあそうだよねと思って特に気にも留めてなかった。ざまあみろとも思わないし、同情するわけでもなく、いなくなったんだな程度だ。
それから半年くらい経ったある日、駅前を歩いていたら急に話しかけられた。退学になったあいつだった。定時制の高校に通っているらしい。前よりもなんだかチャラくなってたし、軽薄な語り口は相変わらずだった。聞いてもいないのにあいつはいまの環境の良さをベラベラと語った。
やれ「退学になって視野が広がった」だ、「いまの学校は競争が激しくておまえよりもいい大学にいけそうだ」だの。ちなみにうちの高校はエスカレーター式で9割は無試験で大学にいける。いわゆる有名私大だった。それよりも上だから国公立だろうか。
世界が広がっていろいろなチャレンジができるようになった、だから退学になって逆によかったとそいつは語り続けていた。その姿が俺には哀れに思えた。もしかしたら本当にそうだったのかもしれないが、俺にはあのイケていたカースト上位のあいつが必死に言い訳しているようにしか見えなかったからだ。
この再会は当時の自分にとって衝撃的で、いまでも学びになっている。こんなダサい人間になりたくない、たとえつまらなくても真っ当に生きるべきなんだと。
BRT という言葉の定義を調べると、だいたい以下のように書かれている
Bus rapid transit (BRT), also called a busway or transitway, is a bus-based public transport system designed to improve capacity and reliability relative to a conventional bus system.[2] Typically, a BRT system includes roadways that are dedicated to buses, and gives priority to buses at intersections where buses may interact with other traffic;
https://en.wikipedia.org/wiki/Bus_rapid_transit
道路上に専用軌道を設け、複数の車両を連結したバスを走らせる交通システム。バス高速輸送システム。BRT。
BRT(Bus Rapid Transit)は、連節バス、PTPS(公共交通優先システム)、バス専用道、バスレーン等を組み合わせることで、速達性・定時性の確保や輸送能力の増大が可能となる高次の機能を備えたバスシステム
https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha01_hh_000040.html
BRT という言葉は、通常バス専用道路を走り、渋滞に巻き込まれたりしない、電車とバスの中間形態のような交通システムを指す。線路を引かなければいけない電車ほど初期投資は必要ではないし、専用道を走るので定時制という点でバスに対して大きな利点がある。
ところで、東京BRTというものがあり、これは現状晴海のタワマンエリアと新橋を結んでいる。将来的には豊洲やビッグサイト方面にも運行を延伸する計画とのこと。だが https://tokyo-brt.co.jp/about/ を見ていただければわかるが、専用道を建設するつもりはないという。
ここで↑に挙げた引用を改めてみてほしいのだが、辞書的には「道路上に専用軌道を設け」ることが「Typically」であるという。一方で国土交通省の定義では「連節バス」の使用がBRTを名乗る条件であるかのように名乗っていて、ずいぶん設備投資の要件が後退している。またこの定義に則ったところで実際の東京BRTは連節バスの運行は限定的で、ほとんどの便が通常のバスで運行されている。
これではどのような意味においても、都が京成バスを下請けにしてただの新しい都営バスを作った、という話でしかなくて、これを「BRT」と名乗るのは、夜郎自大でしかないのではないか。もっとわかりやすく言えばたんに嘘つきだ。
僕はこの種の嘘が日本 COVID-19 騒ぎの本質のひとつではないかと思っている。「行政や政治が嘘つきだから感染拡大を防げなかった」と言いたいわけではない。韓国やヨーロッパでも日本と同時に第三波の感染拡大が起きており、先進国で日本だけがこれを防ぐことができたと考えるのは寝言にすぎない。
そうではなくて、「私権の強力な制限が必要なレベルの医療崩壊」が叫ばれていることが問題だ。イギリスでは連日 5 万人台の感染者が報告されているし、ドイツも 2 万人レベルの感染者が報告されている。一方で日本では感染者が 4000 人を越えたあたりで「すでに東京や大阪では医療崩壊が起きている」などと言われている。これはようするに「日本の医療はイギリスの 1/10 、ドイツの 1/5 の水準しか能力がない」ということを示している。「COVID-19 にかかわっていない医療機関などもあり資源を最適配置すればまだまだ余裕はある」などという言い訳を菅総理などは用意しているようだが、そういう配置システムまで含めて医療の能力であって、「日本の医療はイギリスの 1/10 の能力」というのは、確定判決だ。
結局これは「BRT」ではないものを「BRT」と呼んでいたように「医療」ではないものを「医療」と呼んでいたということではないのか。「病院と病床」はあったはずなのに、実際にはそれはイギリスの 1/10 の能力しかなかった、ということが明らかになったのだから、一体どういう嘘をついていたのか、今検証しなければいけないと思う。
SARS, MERS, COVID-19 と新型コロナウイルス感染症の流行はここ 20 年のトレンドであり、今後数十年間にわたって新型コロナウイルス感染症の流行は続くと考えたほうがいいのではないか。 SARS より MERS 、 MERS より COVID-19 のほうがひどいことが起きたし、イギリスの 1/10 の医療システムで次の新型コロナウイルス感染症を防ぐことはできないだろうから。
生きたくないなあと思う。
ただ親には感謝しているので、自分を育ててくれたのに使った金だけでも返したい。目下の生きる目標はそれ。
でも自分を育てるのに使ったお金っていくらかわからないのでだいたいでいいから教えてほしい。
保育園は職場の併設?で、中学まで普通の公立、高校は公立の定時制、今は1年100万の3年制に通ってる。
車の免許で30万、教科書とか参考書諸々で50万あれば足りるかな?
あと子宮取るのに100万使う予定。身体的な病気じゃないから多分満額自己負担になると思う。
姉だって3人いるのに自分は不要じゃないかとは幾度も思ったことがある。
片付けも集中もできないし部屋は常に散らかしっぱなし。服だって3日に一回は替えてるけど1週間一緒でも不満とかないし、医者にかかったら発達障害ですねとか言われそう。言われなくてもグレーゾーンの気があるなとは自分で思ってるけど、まあ生きていくだけならちょっと苦労するだけで普通だから個性と言い張れるかもしれないくらいの、微妙な人間。
せめて男に生まれられれば良かったのに。そしたら家を残すくらいの目標はできたかもしれない。
金を返したら目標もなくてやっぱり死んじゃうのかな。それともその頃には親の介護が目標になるのか。
どっちにしても早く終わらせて早く死にたい。
ハイローとの出会いは「TLで見かけた眼鏡」がきっかけでした。
そしてTLで見かけた眼鏡の話を知人の限界オタクに話したところ、ハイローに行き着いたのです。
劇場版がもうすぐだと言われ、なんとマイフェイバリットヒューマン(訳:推し)の裕太さん(三次元の推しは現人神として神格化するタイプなので推しに対して敬称をつける)も出るということで、なんやかんや遅れに遅れ一ヶ月ほど乗り遅れてWORSTを観に行きました。
・裕太さん開幕喪服で出てきた💮💮💮
「やっぱこれも青山で買ったんかな?」って真っ先に思ったけどそんなクソはすぐに吹き飛ぶくらい最高of最高の喧嘩、裕太さん動いてる方が素敵だから一生止まらないで欲しい、マグロみたいに生きて下さい。喪服で喧嘩するのなんて人生で龍が如くでしか見たこと無かった。喧嘩してるところスローモーションで見たい、あと倍速でも見たい、裕太さんが動いているシーンをリピートし続けたい。特にキックが最高、来世では足置きになりたい。もしくは特に意味もなく蹴飛ばされるドラム缶。
・裕太さんの演技💮💮
「喋らない」役、適材適所の極み。裕太さんは長々とした台詞を喋るよりも身体を動かしているキャラクターの方が向いていると思う(オブラートに包んだポジティブな表現)
正直情報だけ見てた時は「似てねぇだろ腹違いかよ」って思ってたけど見始めたらその辺はどうでも良くなった。腹違いの8人兄弟とか出てきてもおかしくない世界観だもん、血は繋がらない他人でも義兄弟みたいなの何組もいるでしょこの世界。
ハイローさんは2時間では詰みきれない量のキャラクターを出す癖にそれについて全く説明するつもりが無い、そんな中で「こいつはこういう奴だな」って一瞬で理解(わか)らせたドカちゃんは強者。そこに裕太さんも巻き込まれて「なるほどこういう男か」と教えてしまうドカちゃんは強者(二度目)。しかもドカちゃんさんったらハイローの世界で一番強い「車」を運転した人間に勝ってましたよね?実質ハイローの世界で最強なんだよな。
これは裕太さんの部分だけの話じゃ無いけど、最後のくっついたシーン(happy end)の「えー!?」って奴、すげぇ棒。ハイローの「えー!?」って全部棒じゃない?個人的にはコメディっぽくって好きだけど。
・轟くんの眼帯💮💮💮💮
捨てるくらいなら売ってくれればいいのに。5万で買う。領収証下さい直筆のサインも宝物にするんで。
・友達がいない轟くん💮💮💮
強いのに人望ゼロの轟くん、友達居ない轟くん、お前には誰も着いていかねぇよって評価されてる轟くん、最高の極み、轟くんはそれでいいんだよ。鬼邪高はなんだか絶対数が多い故に仲間の母数が多いからみんなそれぞれの友と一緒に心が成長してしまって微笑ましくも悲しい、そんな中で轟くんにはドブ川のような心を忘れないで歩き続けて欲しい。
ところで轟くんのコバンザメはどうしてジョーカーとハーレクインの子どもみたいな髪色になったの?「お前の髪何色だよ!」って私の言いたいこと全部言ってくれたあのヤンキーのこと推すわ。
・轟くんが喧嘩してる💮💮💮
轟くんが殴ってる!轟くんが殴られてる!!轟くんが殴られてる!!!轟くんが殴られてる!!!!0.5倍速で殴られ轟くん見たいので円盤買います、そしたら殴られてるのも髪の毛振り乱してるのも動きに合わせて揺れる学ランも全部見れるよね?轟くんのシンプルなピアス大好き、精一杯のイキりでピアス開けたんだろうな、ヤンキーのセンスにはなれないしなりたくない轟くん、クロムハーツとか絶対に無理な轟くん、心の根っこがドブになったままの轟くん、流れない水は腐るしかない、その川に流れを与えて轟くんの心を浄化しようとする奴を見つけたら私が猟銃持って家まで行く。ハイローの世界で一番強いのは突っ込んでくる車だが二番目は銃だってことを思い知らせてやる。
・石を投げる轟くん💮💮
最高、向こうが石投げて来たのを見た時点で「お前も投げるだろ?」と脳内で投げろコールが始まる、ピッチャー轟洋介、ボールは石。轟くんなら投げるよね?その前にアピールしたコントロールの良さも「これから轟くんが石を投げますよ〜!」って伏線でしょ?
投げるよね?投げるしょ?投げろよ?投げたぁーーー!!!!あの時の心の瞬間風速は今年最速だったかもしれないですね。
あと今回のが少年漫画とのコラボじゃなかったら絶対に「目」狙ってましたよね?!最高。
このシーンではぶつかり合いになる前に轟くんが眼鏡を外すんですよ。眼鏡キャラが眼鏡を外すことには賛否あると思いますが轟くんの場合ちゃんと胸ポケットにしまうので私としては好感度が高いです。でもね、このシーンでは「轟くんが眼鏡を外して」「胸ポケットにしまう」前にカメラが引いてしまって肝心のシーンが見えない、ハゲの頭と背中しか見えない。このシーンだけカメラさんの脳味噌も鳳仙のハゲの頭みたいにツルツルになってたんじゃないかと思います(暴言)、君達は分かってない、ちゃんと出来るんだからもっと頑張って欲しい。一度見たからって省いていいもんじゃないんですよ、一番いいシーンは何度だって見たいんだよ。子どもは無限にアンパンマン見るだろ、同じだよ。
・何故轟くんが「鬼邪高の仲間たち」の一員みたいになってしまっているのか?
違うよネ⁉️どうして轟くん👓に友達🤝がいるのカナ❓❓😅💦
フジオの少年漫画イズムに飲まれて轟くんが「ちょっと捻くれ者っぽいメガネキャラ」みたいになってるじゃないですか、違いますよね?もっと汚いですよね?轟くんの抱え育んできた葛藤や苦しみはそんなポッと出の陽キャに飲まれてしまうような浅い物じゃないよね?ね?違うと言ってよ(懇願)殴り倒した相手の写真集めてニヤニヤしてた轟くんはどこに行ってしまったの?轟くんの獲物フォルダのクラウドに侵入したいんだよ私は。ハイローはねぇ、キャラクターの殺意がまるで淡雪のように溶けてしまいやすいのだけが難点、お前の殺意わたあめかよ、もっと根性見せろや予告で流れたカイジのが全然力(リキ)入っとったぞ?
ゆーてバイト先のくだりの時点で読めてましたよ、きっと今後就職しちゃうんだろうなって。でもあまりに早過ぎたのではないか、まだ心の準備出来てないです。やっと私も「プァアー(高い音」のイントロ聞いた時点で元気になれる病気に罹患した所だったのに、こんなのってないよ。一生子どもでいてよ、鬼邪高はネバーランドだろ。いちごみるくの子も定時に置いてけぼりやんけ!
村山さんがバイト落ちて暴れる所はマジで最高だった、キラキラ輝く狂った汚い子犬みたいな村山さんでいて欲しかった、でもハイローって少年漫画イズムと青年漫画イズムのキメラみたいな作風だから成長しちゃうのも仕方ないかなって思ってるよ。あの狂ってる癖に身内では仲良しでultrahappyな感じの鬼邪高大好きだもん、大好きだから寂しい、嫌じゃないけど嫌だ、永遠の高校生だからこその定時制だと思ってた、相反する感情が反物質としてぶつかり合って私という存在が対消滅しそうだ。
サイコパスの狂犬が感情を得てしまう流れ、ただただ悲しい。もう日向一家にしか私の求める狂気を満たせないのかな。村山さんには永遠に子どもでいて欲しかった。これでもしも万が一次作で村山さん達が山王入っていい子になっちゃったら山王は私が潰してやるからな、それまでに大型車の免許取る。
・鳳仙のハゲ
最近、毒親って言葉を耳にするようになってきましたが、自分の親がその「毒親」かもと認識するのってどういうタイミングなのでしょうね。
私は親に会う予定日が近付いたり、親に会った後に体調不良に悩まされることが多いです。
とにかく親に会うのが辛い!!
精神が不安定になっているのか親に会った後の帰り道で急に涙が出てきたり、頭がボウッとしたり等々。
人が何かを話すとすぐ自分の昔の話に話題を切り替えて「お母さんは本当に大変だったのよ」となる!
いいから私の話も聞いて!
母が大変だったのはともかく、私の話を聞いて!!
ああ、この人は他人の話が聞けない人なんだなぁ、と諦めてはいるのですが重要な話をしなければならない時にこのパターンに入るととにかく面倒!!
かといって話を遮れば怒鳴る!
下手すると殴られる!
親と絶縁をしたいけれど父方の相続関連のことがあるので、それが済むまでは絶縁できない!!
父と母と二人揃ってパチンコに行って、私たち子供はパチンコ屋のカップラーメン自販機で夕食、とか普通だったからね!
パチンコで子供を置き去りにする親を信じられないとか、母達はそんなことは一度もしなかったとかよく言いますけど、似たようなことしてますからね!!
まぁ、それを面と向かって言うとヒステリーを起こして怒鳴られたり殴られたりでもっと面倒になるので無視しますけど。
あと、意味わかんないのが「女に学歴はいらない」「お母さんは父親が早くに亡くなったから高校さえ行けなかった」「家事の全てを切り盛りしたのに妹は自分だけ定時制の高校に通ってズルかった」とかいうの。
そんなに言うなら今からでも定時制の高校に通えばいいのに「お母さんは勉強苦手だから」「文字読むと頭痛くなる」と。
たんに、羨ましいだけなんでしょ?
小学生の頃に賢い同級生に宿題を押し付けてたのを「お母さんは賢かった」って何度も聞かされましたし。
本気で単純に自分に出来なかったことを他人がしているのが羨ましいだけで、自分がしたいわけじゃないんでしょ、と。
とにかく親が鬱陶しい。
親がストレス。
親だから敬えとか無理。
地元に帰ると最終学歴が中卒で社会に出たような連中の話を聞いたりする。
高校くらいのときに中卒と一時期遊んでいたが彼らの周囲の人間はほとんど中卒(定時制やら高校に行くが中退)だ
地元の誰が強いだとか悪いだとか本当に低レベルで低知能な物差しである。
彼らは何もしていないか仕事をしている。※仕事をしていても偉いと思ってはいけない。
だいたいは不良(これも中卒)先輩つながりで仕事に就く。
そのほとんどは土方である。※「土方」と本人たちは当たり前のように自称している。
昼間は仕事をして仕事が終わると原チャや単車で友人と合流したり女友達とたむろする。
先輩に呼び出されて彼らはどこかへいつも行っていた。
次の日あのあと何していたのか?と聞くと大した用もないのに呼び出されただけだと愚痴を言っていた。
彼らはこのように無駄に朝まで過ごしたり、夜はそのまま暴走したりひったくりをしたりしているだけだ。
仕事をしているからといって真面目なわけでもないし、ほとんどは社会に迷惑をかけている存在だ。
いまの子供らと20年30年と年齢差があるかもしれないがツール(SNSなど)が増えただけでやっていることはそう変わっていないだろう。
男子の草食化、性欲が無いなど言われているが、それもこいつらの世界ではそんな変化はないのではないだろうか。
だいたい15歳から16歳で童貞は卒業するし女の場合は年上の先輩にあこがれるので中学の時点ですませているのが多い。
私もそのような繋がりからすぐに彼女ができたし出会い系サイトをよくやっていた。あの時代のほとんどはスタービーチなどをやっている。
たまに18歳で彼女ができたやつを知ったときは「え!? 遅っ!」という反応しかなかった。
それほど彼女ができるとか童貞を捨てるというのは普通の感覚なのだ。
むしろ高校生活で何もしてないやつらは何をしていたのだろうか、といまだに思う節はある。
中卒の連中とはたまに遊んでいた(原チャでコンビニにたむろしてタバコを吸うだけ)が、ごく普通の人とも遊んでいたし、アニオタの友達もいた。
彼に魔術師オーフェンが面白いというのでその本編ではなく外伝を読んだ。たしか無謀編だったか。そんなオーフェンも今年になって再アニメ化だそうだ。
中卒のやつらは18になるころには単なる犯罪者になっている。
彼らは鑑別所にいったり少年院にいったりたばこどころか草(ガンジャ)や早いの(覚せい剤)をいったりしている。
18になると車の免許をとるので車のチームに入るのが多かった。当時は池袋ウエストゲートパークなどがはやっていたのでギャング系が多かったと思う。
石田衣良による負の功績は大きい。
それより少し前にドラゴンアッシュがじぶらなどのヒップホップをかなりメジャーにしたことでそっち系のファッションも広まっていた。
ギャル系のブームで、男子ではサーファー系やギャル男もいて、選ぶならヒップホップなどのB系か前述のどっちかである。
ちょっとおしゃれをしたいやつはB系でもなぜか髪を伸ばしていてミスマッチがひどかった。
車のチームに入ると意味のないドライブや深夜から朝にかけてずっとナンパをするのである。
そして、どこどこのだれだれが揉めているだとか、誰かの先輩の女とやったのでそいつを捕まえるなど、延々と揉め事を繰り返す世界線へ突入してゆくのである。
彼らは当然いま社会問題となっているあおり運転を平気でするし原チャを幅寄せしてけんかをふっかけたりする。
原チャに乗っていて襲撃されたという話をきいたことがある。白色のハイエースが幅寄せしてきて停められて中から全員バットを持った連中が出てきてどこのやつだと
殺されそうになったそうだ。
彼はこの出来事を地元の先輩に話をすると今度はその連中が白色のハイエースを片っ端から探す。彼らは武勇伝として話をするのでまわりまわって
白色のハイエースの連中がどこの人間なのか判明するとそいつらの縄張りまでいってけんかをふっかける。
そして喧嘩をしたりヤクザがでてきたりして白のハイエース側が「筋違い」となり彼らにお金を用意しろということになるのである。
まあひったくりなどをしてお金を集めるのであろう。白のハイエースの後輩つまり15歳から16歳のヤンキーデビューした人らにも至急金を集めろとなるのである。
そうして彼らはお金集めのために後輩を深夜に呼び出したりするわけだ。
やがてこのような生活に馬鹿馬鹿しく感じると20代前半で彼女もできたしとか、落ち着くのがかっこいいと思い込んでいる単純な不良は仕事一筋になり始めるのである。
これらは遊びはごく普通になるがやはり根は社会のクズなのだ。車ではあおり運転をするし暴力などをちらつかせて周囲になめられない負けないようにするのだ。
しかし、彼らは単純なので、簡単に操ることができる。とりあえず敬語で話していればいいのだ。不良同士だといくらでも馬鹿がいるので、同じ年くらいと思えばタメ語で話すやつがいて
あいつ舐めてるのか?となり良い印象がないまま喧嘩に発展するのである。そして、とりあえず武勇伝とやらをすごいなと褒めてやればいいがあまり食いつくと仲良くしてくるので
注意が必要だ。かれらは馬鹿なので気がよくなって飲みに連れて行ってくれる。普通のやつが勘違いして元不良とかと接点を持つとあとで大変な目にあうのだ。
まれにいる酔うとキレるやつとかだ。不良同士なら喧嘩ができればそれでいいが、普通のやつはそれができないのでたいていは殴られ支配下におかれるなんてこともある。
親しくなると彼らは金遣いが悪く馬鹿なのですぐに金を貸してくれと言ってくる。しかもやばいのが金を基本的に返さないのだ。
彼らが返すのは自分より力がある人間だ。つまり先輩だとかヤクザだとかそういうたぐいだ。
ほとんどはブラックだ。借りても途中から返さない。返すわけがないというのが彼らの認識だ。しかし金に困るので犯罪を犯す。
私の知っている限りほとんどの中卒や高校中退は犯罪者だ。当時の人らのうわさ話を聞くとやはりヤクザになってそのあとどこかへ消えたとか、
刑務所に入っているだとか、入っていただとかを耳にする。
たまに大卒も悪いやつはたくさんいるという人がいるが、実感するだけでも大卒なんて真面目なやつしかいないのが事実だ。
2010年の法務省『矯正統計年報』によると,同年中に刑務所に新たに入所した者の数は27,079人です。この27,079人の学歴構成を整理
⑫:不詳 ・・・ 21人
「新たに」であるが、こうなるようだ。※小卒中学中退などというのはおそらく古い世代だからあまり気にしなくていい。
②+④+⑥を「小・中学校卒」,
⑥+⑨を「高校卒」,
⑩を「大学卒」とします。順に10,609人,4,919人,812人なり。この数を,2010年の『国勢調査』から分かる学歴人口(男性)で除して,3群の刑務所入所率を計算
「小・中卒の率が飛び抜けており,この群の入所率は全体の4.6倍,大卒の27.5倍です。」となっている。
http://tmaita77.blogspot.com/2013/03/blog-post_21.html
男女とも,中学校卒業というカテゴリーが最も多くなっています。
男性入所者では42.1%,女性入所者では37.6%を占めます。均すと約4割。
刑務所入所者の5人の2人が,中卒の学歴ということになります。
当然ですが,高校進学率95%超,大学進学率50%超という今の社会において,
中卒者はこれほど多くはありません。2010年の『国勢調査』の抽出速報結果によると,
15歳以上人口のうち,最終学歴が小・中学校卒業の者が占める比率は,男性は14.3%,女性は16.7%です。
社会全体の学歴構成を勘案すると,刑務所入所者は,低学歴層に明らかに偏しています。
刑務所の入所率
男性でいうと,
小・中卒の入所率(219.0)は,
http://tmaita77.blogspot.com/2012/02/blog-post_29.html
ヤクザにもいい人がいるなんて少数であってもヤクザはヤクザ、みんなクズでひとくくりするように、
中卒は危ないとひとくくりにして、つるむべきではありません。ヤクザと並べるな?
刑務所入所率が219倍。それでもいい人はいるはず?と性善説を信じて友達作り、人脈をしたい人がいるならどうぞ作って下さい。
中卒のほとんどは不良だったやつら。それ以外のわずかな人なんてなかなか出会えませんよ。まあ出会ってる人は出会ってるんだけどなんて言うけどね。
それはたまたま。
偶然。
平日の午後4時。小学生はお家に帰り、中高生は部活やバイトに勤しんだり、社会人は会社でお仕事したりなんだりかんだりしているんだろう。
ただそれは一般的で平均的な人たちだけの話で、一般的で平均的な人生を歩めるレールから零れ落ちた人間はその限りではない。
現に私は高校生だ。花の17歳、ただしクラスメイトもお友達も恋人もいない。なんなら同年代の知り合いもいない。おまけに平日の午後4時に布団の上でこれを書いているJKだ。自堕落の極みか。
いや、別に学校をサボって増田なんぞに長文を投稿している訳ではない。皆さんご存知の一般的で平均的な高校生活、「ではない」高校生活を送りながら、今この増田を書いている。
高校というものには、実は様々な形がある。「全日制」、「定時制」、この二つは聞いたことがあるという人もいるかもしれない。
全日制は、平日昼間に学校に通い、毎日授業を受けて単位を得るシステム。定時制は、昼間ではなく夜間に毎日学校に通い、授業を受けるシステム。
通信制とは、毎日ではなく週に何回か、月に何回か、といったペースで学校に通って授業を受け、その他の基本的な学習は自宅に送られてくるレポート(教科書を基に作られた問題)で進めていくシステムのことを言う。
このシステム自体の是非はとりあえず置いておいて、「学校に毎日通わないとか、友達できんの?」と思ったそこのあなた。正解です。先程述べたとおり知り合いとか友達とか一人もできない。それどころか担任の名前すら覚えられない。なぜなら必要以上に他人と関わらないから。
人間関係は絶望的に希薄であるものの、それが心地良いタイプの人間にはそれなりに居心地の良い場所になる。私もそのタイプだ。学校に行っても最低限の会話しかしない。下手したら週一しかない登校で一言も喋らなかった、なんてこともある。
学習やレポートも、基本的には自学自習、教科書や学習書から自分だけで進める必要がある。これはなかなか壁になる場面も多いが、「教師の言ったことをノートに丸写しして課題を進める」よりは学習内容が身に付いているのかもしれない。
圧倒的に暇。なぜなら登校日以外ずっと家に居るから。
というかそもそも暇じゃなきゃJKは増田なんて見ない。もっと身になることに時間を使うべきである。
「暇ならバイトとかすれば?時間は有り余ってるんでしょ?」ごもっともである。しかし絶望的に人間関係が希薄な通信制高校に入学した高校生がバイトなんてやったらどうなる?
同僚たちとの会話、接客業の場合は来店した客とのやり取り……想像するだけで地獄。ひょっとしたらそこにたどり着くまでの面接やらで燃え尽きるかもしれない。
失敗するのが分かり切っている挑戦は避けて、お家で増田やらTwitterやらソシャゲやらでスマホをポチポチしながら時間を無駄にしている方が私には向いている。多分。きっと。絶対に。
私は12年ほど引きこもっていた。
きっかけは中学2年生頃に起きた塾通い勢による授業妨害。先生が怒って出ていくなど度重なる中断にも関わらず授業内容は先へ先へと進む為に塾に通っていなかった私は徐々に勉強について行けなくなり、唯一の心の支えだった友人は悪の道に......
チンケな正義感から小姑の如く注意していたが説得の甲斐もなく邪険にされ軽い無視をされた。その頃から原因不明の腹痛を発症し1日で最長6時間トイレに籠るという日々を過ごし腹痛と長時間トイレに籠る疲労から勉強もろくにせず3年生へ、トイレにいた記憶ぐらいしかない不登校生活でそのまま卒業。
卒業後に定時制に通うも引きこもってる間に人と接する事が苦手になっておりヤンキーだ、暴走族だそのような気質では無かったので今まであった事もない人達にビビり腹痛と共に入学式の翌日に退学。ここで踏ん張ってたらと今でも思う。
定時制を中退してからは引きこもりになった。バイトも一度だけやったが5000円ぐらい稼いで辞めた。12年間ひたすら家族に嫌がられないよう積極的にコミュニケーションを取り弟が不登校になりかけた時は自虐ネタで学校に行かせ、成人し就職して悩んでいた時も励まし続けた。父と母も共働きだったので家事をしてた。
だが27歳の時にある出来事があった。
父と母が旧友と飲みに言った際に私の話になり、引きこもったのは俺のせいだと父が泣いていた事を母から聞いた。
両親は60を過ぎても働いている。父が務めていた会社が倒産した時に持ち家のローンも払えなくなり破産したからだ。父は破産した時にこれで悩む事は無くなったと笑っていた。
私はこのままずっと両親に心配かけたまま生き続けるのかと......
私は一切両親の事は恨んでいない。こうなったのも全ては自業自得。むしろ両親の事は大好きで愛している。今でも引きこもる以前に両親と何をしていたのか鮮明に思い出せる。忙しい仕事の合間に連れて行ってくれた海や遊園地、誕生日やクリスマスと楽しい思い出が沢山ある。両親が私を憎めど私から恨む理由など一切ない。
それからは自分でも信じられないぐらい行動意欲が出てきた。今度こそ生まれ変わるんだと一念発起。
奇跡的にも高卒からしか募集をしていない会社に中卒でも雇って貰えた。孫は弟に託した、私は両親が死ぬその時まで一人でも大丈夫だと言い続けたい。だから働くんだ。
今年で30歳になる。会社にはなんとか馴染め周りにも恵まれ楽しく過ごしている。しかし私はピンチに立たされている。上司に将来の為に通信でも良いから大学を出ろと言われたのだ。
はっきり言って勉強を習いに言ってる時間はなく独学で勉強するしかない。まずは高認を取る必要があるのだが大きな壁にぶつかってしまった。
数学がどうしても解らない。
試しに高認の過去問をやってみると不等式だ,有理化だ,ルートだ,展開だ,因数分解だのxやyは何処から出てくるんだ!と叫びたくなる気持ちで一杯だった。
困ったのは中途半端に頭に入ってるせいで何処まで理解出来て何処まで出来ていないのかも把握出来ない。
今は便利な世の中で1を調べる100ほど出てきてどれを選択すれば良いのかも解らない。
私に勉強のやり方を教えて下さい。
皆様、アドバイスありがとうございます。
今、残業中なんですけどもうデスクで涙をこらえるのに必死で何もできないので気をそらすためにも自分の話を書きますね それぐらいは許される職場なんです。いいでしょう。私がすべて悪いだけの、きっといい職場なんです。
私は小学校と中学校、合計で五年間ぐらい不登校(保健室登校)でした。原因はなんだろうな。今考えてもわからないんですけど、とにかく行けなかったんですよ。なんでだろうね。
面倒くさかったんです。たぶん。鬱かなってちょっとだけ思ったりもしたけど、でも、私は当時からオタクで、ネットで動画とかを見て笑ってたからただの甘えだったのかもしれない。徹頭徹尾、甘えているだけの人間なのです。小学校の三年か四年から二年ぐらい通えなくて、六年生で復帰したけど、中学校一年でまた行けなくなりました。勉強ができないわけでも無かった。昔から地頭は良い方で、ただ集中力は無かった。何事も長く続けられなかった。極度の面倒くさがりで、家事も何も一切できなかった。
両親は、学校に行きたがらない私を叱ることもなく、いろいろ考えてくれました。なんたらスクールみたいな不登校児の集まるところに連れて行ってくれたり、カウンセラーが居る部屋に週数回だけ通うように調整してくれたり。
結果としては、私は自分の中でなんで教室に行けないかわからないまま中学の三年間を過ごして、そのまま都立のチャレンジスクールっていう学校に進学しました。都立高校で、定時制。
そこには私みたいに理由もなく学校に行けなかった人って全然いなくて、病気だとか、働かなくちゃいけないから夜間で通うとか、親が離婚してから生活が変わって学校に行けなくなったとか、たくさん理由があったんです。私はなんで自分がここに居るんだろうってちょっと思ったりもしたけど、未だに仲よく遊ぶ友達ができたのもここでした。
でも高校はやっぱり三年しかなくて、私は大学に行くことにしました。良いなと思った大学を目指して、母がこのころ癌になったのに無理して私に英語の家庭教師までつけてもらったけど、受かりませんでした。その年だけ倍率が平素の三倍ぐらい高かったんです。なんでだろう。
結局私は担任の先生の勧めで、少し遠いけど私なら絶対入れる私立大学の文学部に入ることになりました。試験はびっくりするほど簡単で、これなら中学生時代の私でも入れるな、と思いました。教科は現代文だけでした。
でもこの大学で、私は今でもたくさん遊びに行く友人ができたし、その一人は先日入籍もしました。おめでとう。
大学は面倒くさいこともたくさんあったし、さぼったりもたくさんしたけれど、たぶん楽しかったんだと思います。バイトを始めたのも大学に入ってからです。最初は友人の勧めで飲食で働いていたんですが、給料未払いで数か月で辞めました。
次に私が応募したのは、カードゲームのショップでした。ちょうど流行ってたんです。シャドバなんて出る前で、ハースストーンは一部の人しかやってないし、MTGはオンラインが全然無かったころの話です。私はろくすっぽカードゲームなんて知らないままそこに面接に行って受かりました。
仕事はたぶん楽しかったです。結局二年半ぐらいやったのかな。みんなオタクだったし、嫌な客もいたしわかんないこともいっぱいだったけど、それでもバイトって責任もなくて気楽だったし、本当に楽しかったと思う。
その時直属の上司だった男の人とは今でもなんだかんだ年に数回会って、二人で飲んだり二回ぐらい日帰り旅行したり誕生日ディズニーしたり一緒にコンサートいったりします。私たちの関係は何なのか、こうやって書きだしても未だによくわかりません。良い友人なのかな。友達以上恋人未満の関係、結構好きです。気楽だし。いい関係ですよね。
そして私はバイトと遊びと勉学と文化コンテンツで日々を過ごしました。三人しかいないゼミでひいこら卒論を書き、その間に就活をしました。
私の父は大きな会社でそれなりに能力もあって、管理職ではないけれど責任感のあるポストについています。そんな彼と日々話をしたりしているうちに、私もこの業界にしたいな、と漠然と思っていたので、そこを受けてみることにしました。一応ほかにも数社受けました。
受かったのは二社。もう一つは金融系の会社で、少し怖くて辞退しました。その時私は卒論が楽しくて、就職の方がたぶん大事なのにそんなこと全然考えてなかったんだと思います。
そうして弊社に決めました。もうゼミ以外には大学に来る予定なんてなくて、バイトばっかりしていて、オタク趣味にお金を使いたかった。早く就活を終わらせたかった。
もともと視線恐怖症なのもあって、沢山の人がいる中で自分をアピールしたりすることが怖かったのかもしれない。
私は卒論を頑張って(学部で優秀賞をもらいました)、大学を無事卒業して、弊社へ入りました。
入ってから、ああ、結構体育会系というか、業種のくせに古臭い企業だな、と思った事は事実でした。けど、父が言うにはこの業種の中小はみんなこんなものだという話だったので、特に気にしませんでした。自分にマメさが求められる事務職は向いていないと思っていたからです。
それでも今の部に配属されて、訳の分からない言葉はいっぱいだし、教えてくれる先輩の一人は私に教える片手間ずっとグラブルをやっていた。もしかしたらグラブルをやっている片手間私に色々教えてくれたのかもしれない。
今のオフィスは、弊社の大口顧客(元請け)がほぼほぼ占めているビルです。
私は二年間、同じプロジェクトで、ワーカーホリックの上司の下で仕事をしました。
上司はイエスマンだから無茶な仕事をいっぱいもらってきちゃうし、自分がワーホリだからほかの人も同じぐらい働けるとか思っていたし、謎に有り余る体力で飲み会とかにも大体参加していましたが、怒らないし、わからないというとある程度は聞いてくれたりするし、たぶんとってもいい人でした。私が生意気言っても怒りませんでした。ただ彼自身は毎月残業60時間とかいってるワーホリでした。いまでもそうです。
それでもそのプロジェクトは楽しかったです。つらいこともたくさんあったけど、愛着もありました。
なんだか身体がおかしいな、と思ったのは去年のどこかぐらいからだと思います。去年は忙しい月が数回あって、残業が40時間を超えるぐらいの月が飛び飛びに数回ありました。
昔から起きるのが早くて、朝五時とかに起きちゃっていたんですが、三時ぐらいとかに起きちゃうようになりました。
私はスマホ依存症に近いものがあって、何かあるとすぐスマホを見ちゃうんですが、それのせいもあったのかもしれません。睡眠の質がきっとどんどん悪くなっていきました。
プロジェクトは今年の春が大詰めで、みんなピリピリしてたし、急な雑務も増えました。
視界が一瞬真っ白になって、風呂場の椅子に座りこんだと気が付いたときには、身体のいろんなところが強くしびれていました。特に強かったのは手で、勝手に力強く握りしめられていて動かせませんでした。
母を呼びました。母は全裸で浅い呼吸をしながら手を強く握りしめている私のことをひどく心配してくれました。父も風呂場の外にはいてくれて、状態を調べたり、スポーツドリンクをくれたりしました。
その日は固まった手で何とか飲み物を飲んで、少ししたら回復しました。
でも、結局数日たってからも体調がすぐれず、午前半休を取って病院に行きました。
あのしびれの正体も知りたかったからです。結果は「抑うつ状態から過呼吸を引き起こしたのでは」ということでした。
お医者さんには産業医面談を受けるように言われました。私は素直にワーホリ上司へそのことを話して、午後に出社しました。
休憩スペースで面談をしました。診断の詳細、そして産業医面談というものを受けるかどうか。
受けるなら俺から上に言うよ。そういわれて、少し困りました。プロジェクトが本当に大詰めだったからです。私はその時まだ二年目のぺーぺーでしたが、そんな私でももしいなくなってしまったら困るかもしれないと思ったからです。結局上司はそのあと産業医面談の話はせずに、春からの仕事の話をされて終わりました。
その週の金曜日、私はどうしても体調がすぐれず、うまく動けなくて、会社を休みました。
私自身が、どうしてこんなにストレスを感じているかがわからなかったからです。それが仕事のせいなのか、無意識にプライベートでため込んでいたのか(その時ちょうどフォロワーとちょっとトラブルがありました)、単純に満員電車がストレスなのか、わからなかったからです。
翌週、私のところにやってきたのは課長でした。
「別に産業医面談を拒否するわけではないし、受けたいなら調整するんだけど」彼の言葉はこう続きました。「俺たちの権力より上だから、部署移動とかを指示されたら逆らえないしなあ……」
課長は私が部署を移動することになってしまった場合の人間リソースの低下を懸念していたのです。
「とりあえず、今月は今のプロジェクトを頑張って、春以降もう一度相談します」私は言いました。
もしかしたら、本当に私が居なくなったことでこのプロジェクトにクリティカルな何かが発生してしまうかもしれない。それが嫌だったのです。課長が明言してしまうことで、それが私のせいにされてしまうのも嫌だったのです。
薬を飲んでいれば出社はできました。なぜか倒れたときから咳が止まらないけれど、風邪が長引いているのだろうと思いました。
私は抗不安剤と睡眠導入剤を内科でもらっていたので、薬がなくなった時についでに咳止めの薬をもらいました。
咳止めとして飲んだ抗生剤と私の相性が悪かったのかもしれません。私は朝の満員電車の中でお姉さんに助けてもらい、途中の駅で降りて、でも歩けなくて、駅員さんに車いすに乗せられて詰め所みたいなところの長いすに横たえられ、母親が来るのを泣きながら待っていました。
母は病気です。私が高校の時からずっと治療しています。手術もしました。私なんかよりもずっと大変なのに、毎日ご飯を作ってくれて、こうして迎えに来てくれるのです。私は親不孝者でしたが、母が迎えに来てくれたので、駅から外に出ました。その日は散歩をして、会社を休みました。
体調の悪化が治りません。毎日薬を飲まないとうまく動けません。
それでも日は回るので、春から新しいプロジェクトに参画することになりました。すでにある程度進んでいるプロジェクトは初めてでした。
私はわからないなりに、以前の経験と知識を使って頑張ろうと思いました。そのプロジェクトの上長は先日面談をした課長でした。
参画してから一週間ほどした日、私は唐突に課長に仕事の依頼を受けました。
この業種において、一から自分で作ることは大して難しくはありません。今のプロジェクトの様子確認も兼ねて、大丈夫です、やります、と言いました。
どうやら課長のその認識が根本的に間違っていたらしいと知ったのは、その週末のことでした。
どうやらそれは、私が触ったことのないソフトを触って、すでに動いているシステムに「絶対にミスをすることなく」仕様追加をするというものでした。
私は困惑しました。だって自分が触ったことのないものを「ミスなく」と言われても困ります。練習ができません。経験もありません。
しかも、それは私一人でやるという話でした。ベテランの技術者が後ろについてくれると言いましたが、彼は他の仕事で忙しく、週に一回、数時間様子を見てくれるだけでした。
彼がとっても忙しいのは知っていました。だから仕方ないとは思いました。上長に聞いていた話と全然違っても、もう請けちゃったと言われたら若手にはどうすることもできませんでした。
元請けからはことあるごとに「絶対にミスは許されない」と言われました。私は状況の調査から始めました。
手順書や設計書は用意されていました。ただ、前任の会社が中途半端に撤退していたため、それが正しいかどうかの調査から始めなければなりませんでした。
けれど、私が触ったことのないソフトウェアの設計違いを、どうやって見つければいいのだろう。それはとっても疲れることでした。
上長はいつもなぜか忙しそうで、私が疲れたとか、産業医面談の話についてを問いかけることは憚られる雰囲気でした。半分炎上していたのかもしれません。プロジェクト未経験が私含め半分以上を占めていた上に、その中で唯一構築経験があった私が一人での仕事に回されてしまいました。
ポテンシャルって便利な言葉ですよね。とりあえずそう言っておけば良い感をひしひしと感じます。絶対失敗できない仕事を依頼されたなら、失敗しない人を連れてくればよかったのです。
私はそれでも何とか資料を調べて不明点を上げ連ねて、ベテランと上長との進捗報告に参加しました。訳が分からないことだらけでした。たくさんのことを言われましたが、すでに集中力が平時の半分ほどしかなくなっていた私にとって、それは呪文のようでした。半分ぐらいわかりませんでした。わかったふりをしました。
産業医面談に行けなかったので、有名な精神科のある病院の予約を取りました。その時にはもう、睡眠導入剤がないと眠れない生活になっていました。
新しい病院で、紹介状は無いんですとだけ伝えて診察を受けました。睡眠導入剤のほかに睡眠安定剤をもらいました。でも、睡眠安定剤を飲んだら昼間もものすごく眠くなってしまったので、二回しか飲めませんでした。結局抗不安剤と睡眠導入剤だけを今でも飲んでいます。飲まないと眠れないし、仕事に行けないからです。
このころから、ホームで電車に不必要に近づいてしまうようになりました。(私が使っている路線は都内なのにホームドアがないのです)無意識でした。私は死にたいのかな、と思うようになりました。
転職をすればいい、とか、周りの友人は言っていましたが、どう客観的に見たって私のメンタルが弱いだけの甘えなので、私が悪いのです。昔から私が社会や親に甘えているだけなのです。その自覚があったし、転職はとっても怖いもののように思えて仕方がありませんでした。だって自分には実力がないのです。転職活動で落とされることも怖かったです。評価されないことは、訳の分からない仕事を一人でやらされることと同じぐらい怖いことでした。
今日も偉い人たちを交えての打ち合わせがありました。私はやっぱり、「絶対にミスできない」ということを念押しで言われました。それならなぜ、ソフトウェアに触ったことがないたかが三年目の私がその仕事をしなければならないのかがわかりません。他の人にも仕事内容の相談ができません。調べても全然出てきません。他のメンバーはいろいろみんなで相談しながら前に進んでいるのに、私は自分が一つわからないことがあるだけでそこに立ち止まってしまいます。解決策がわかりません。どうすればいいかわかりません。集中力がなくて、どうすればいいかもよくわからなくなってしまいました。
少し、辛いな、と思いました。
別に残業が数百時間だとか、あまりにも激務だとか、そういうことはありません。家族はとっても優しいです。私はきちんと笑えています。両親はたくさんのことに関して理解もあります。母は自分の身体も悪くて病院に通っているのに、私が精神科に行くとき一緒についてきてくれました。
部長も課長も主任もワーホリですが、きちんとしてはいると思います。中小ですが、それなりに長く続いている、頑張っている会社です。
だから、私があまりにも社会に甘えているだけなのです。私が弱くて、今まで甘やかされてきたから、ちょっと普通なぐらいのところに来ただけで耐えられなくなっているのです。
それは悪いことだと思っています。だって私が弱いのが悪いんです。甘えなのです。でも、強くなる方法がわかりません。
どうしてこうなったんでしょう。生まれたときから弱かったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。仕事ができないことが悪いのでしょうか。
薬を飲んでいるとお酒が飲めません。友人との飲み会も、友人が気を遣って飲み放題プランを外してくれます。気を遣って一緒にソフドリを飲んでくれようともします。
優しさが申し訳ないです。私が弱いだけなのに。私が弱くて薬を飲んでいるだけなのに。
仕事が嫌いなわけじゃありません。色々考えて、正解を導き出せたときや、トラブルを解決できた時はとっても楽しいです。
ただ、たぶん、もう一人だけいたら、こんな気分になっていなかったのかな、とは思います。自分にとって、「絶対にミスできない」一人きりの仕事が、案外つらいのでしょう。ゆとりなのです。弱いのです。世間様に甘えているから仕方がないのです。責任を一人で負いたくないのです。「わからない」と隣に相談する環境が欲しいのです。
会社の最寄りの駅にはホームドアがありません。今は想像するだけだと思ってはいますが、段々と黄色い線の向こうを歩いていってしまって、いつか飛び込んでしまったら、と思うととても怖いです。それも、私が弱いからなのでしょう。
生きたいです。オタクは楽しいし、ちゃんと毎日笑っているし、友人もいい人がいっぱいいます。でも、いつまで生きればいいのか、よくわかりません。勝手に涙が出たり、ベッドから動けなくなってしまいます。
私よりもっとつらい人はそれこそ数えきれないほどいるはずなのに、どうして自分はこんなにも弱いのか。どうしたら強くなれるのか。
なんで生きてるのか、わからないのです。
それを吐き出したかっただけなのです。
印象的な出来事だったので、ネットの海のどこかに残してみたいと思った。この場のことは代名詞が増田さんなことくらいしか知らないが、唐突な自分語りをしても許されそうなのでここに書くことにする。
妹と私は年が離れており、私は妹の生まれた時から姉と母親の中間みたいな立場で妹の成長を見守ってきた。
幼い頃の妹は、子供らしくて可愛い子だったけれど、あまり要領の良い方ではなく、優等生タイプだった私としてはヒヤヒヤすることが多かった。たとえば、自分から率先してクラスの中心にいる意地悪な女の子の取り巻きになって、何でも借りパクされてしまうような子だった。
この頃から成績は良くなく、田舎の公立小学校のテストでも平気でひどい点をとっていた。妹曰く「提出さえすれば自由時間になるから半分は解かずに出してた」とのことだったが、それを差し引いても何をどこまで理解していたのかはわからない。たぶん人間関係的に、良い点を取らない方が便利だったのだろうと思う。
そんな妹は、地元の中学校に入ってから、当然のように性格の悪い女の子の取り巻きになって媚びへつらうようになってしまった。成績は5教科で280点くらい。そして、案の定といっては可哀想だが、ひどいいじめに巻き込まれて不登校になってしまった。
このとき私はちょうど東京の国立大学に合格し一人暮らしを始めたところだったのだが、電話で親と話しながら妹の気持ちと将来を思うと、心がヒリヒリした。妹の体験と比べたら大したものではないが、自分にも荒んだ公立中学校独特の空気の中で、自己肯定感を失っていく気持ちには身に覚えがあった。
妹が幸運だったのは、両親が進歩的な考えの持ち主だったことだろう。
保健室登校で今の学校に通ったらどうかと言う私や学校教師の意見を無視し、両親は妹を不登校児の集まる遠方の私立中学にさっさと転校させてしまった。とにかく制服が可愛く、規則が緩い学校だった。集合写真を見ると、男子生徒の地味さと女子生徒の派手さがアンバランスな程際立っていて、私は「こんなのいかにもじゃないか」と心配した。
しかし、妹は、この特殊な学校への転校という大きな賭けに勝ったようだった。半ばカウンセラーのような先生方と一緒に時間をかけて精神を回復させ、1年ほどすると転校前の同級生がいない遠方の遊び場になら外出出来るようにもなった。
また、この頃から、いつかは昔の同級生を見返してやりたいと思うようになったようで、美容と勉強を頑張るようになった。特に勉強に関しては、多くの同級生が通信制や定時制の高校に進学する中、普通科高校に行きたいと強く希望した。当初の妹は不登校時代のブランクのため中3頭になってもbe動詞の活用だとかx^2-4=0の因数分解だとかが分かっていなかったのだが、元が低いだけにやる気になってからはぐんぐん伸びた。そして、進学校ではないものの、偏差値60弱くらいの私立高校の進学系のコースに最低点で滑り込んだ。なぜ最下位なのを知っているかと言うと、入学後に先生から異例の二者面談を組まれ、激励されたからだ。
そこからの妹は一層、人が変わったようだった。「JKっぽい遊びは中学でもうこりごり」とばかりに、不登校時代にやっていた痛いSNSもネット上の囲いも捨て、半ば遊びだった彼氏もいなくなり、字が綺麗になり、プリクラが減り、電車内で英単語帳を読むような高校生になった。高校のレベル別クラスも、半年で1番下から1番上まで上がり、これには両親と私も驚いた。
特に、ビリギャルに倣ったのだろうが高1高2では英語ばかりを熱心に勉強していた。英語系の塾にも通い出し、1年ほどで当時TOEIC800点の大学院生だった私をゆうに追い越してしまった。中学まで不勉強だった名残で、英単語帳に出てくる日本語の単語の方を知らない、漢字が読めないということが多発し、英語の語彙が増えるに連れて日常会話がルー大柴化した。その後、次第に英語以外も徐々に勉強するようになり、成績はうなぎのぼりだった。もちろん本人の中では、伸び悩んだり、不安になったりすることもたくさんあったそうだが、側から見ていると面白いほどに成長していた。志望大学もどんどん上がっていった。
そしてこの春、妹は通常より1年余分にかかったものの、早慶MARCHの滑り止め受験校3校をすべて合格したのち、晴れて第一志望の大学に進学する。妹は「これでようやくお姉ちゃんと肩を並べられるわ~。姉が○大生とか、これまでは人に言えなかったんだからね」と言った。
姉からすると、どん底から這い上がってきた妹の方が、とっくに自分よりすごいと思っていたので、妹がまだそんなことを思っていたことに驚いた。でも、自分がプレッシャーになっていたと同時に、ひとつの道しるべにもなっていたようでそれは嬉しい。
もともと地頭が良かったんだろうとか、親に金があったからできたことだとか思う人もいるかもしれない。また、大学合格なんてまだ単にスタートラインに立っただけじゃないか、まだ何も終わってないぞという指摘があるかもしれない。ごもっともだ。それでも、私はここまで来た妹の努力がすごく誇らしいのだ。
この先の人生、私たちの出身地の田舎じゃできないことをたくさんしていってね。姉はあなたのことを応援しています。
姉増田より
参考になるか知らないが、適当に綴ることにする。
3歳になっても言語を全く話せず、クレーン動作を始めとした典型的な自閉症状を示していたため、児童センターを介して専門機関で受診したところ、聴力も問題なく知的障害(自閉症)との確定診断。
応募した私立保育園には全て断られたものの、自宅から少し離れた市立保育園へ無事入園。
「知的障害児」ということで、ほぼ専任のような保育士さんを増員していただき、時々奇声を上げて脱出を企むながらも、最後まで追い出されることなく何とか卒園。
保育園の間は、ずっと会話は不成立。
3歳でビデオデッキの操作(VHSカセットの交換・スロー再生・逆再生等々)をマスターしていたものの、毎日テレビの前でビデオ操作しながら、全く同じシーンを延々繰り返しながら奇声を上げて踊ってる有様。
確か「お母さんと一緒」のビデオだったと思いますが、キメのポーズのところで一緒にキメて、そりゃ見てて可愛いわけですが、親からの会話は理解できていない。
テレビに映った、いわゆる芸人さんの笑いを(意味も分かってないくせに)オウム返しし始めたあたりで、これはヤバいと感じ、(当人は知らない)裏のコンセントをコッソリ抜いて「テレビさん壊れちゃったみたい」ってやってやりました。
しばらくは寂しそうにしていたのですが、何ヶ月かしたら、直ったか試すこともしなくなったので、未練がなくなったのだろうとテレビごと廃棄。
たしか4歳か5歳の頃だったと思いますが、この時から自宅からテレビがなくなりラジオだけの生活になりました。寝る時に子守歌かわりの童謡のCDを流す習慣にしていたのですが、高校1年くらいまでは寝る時に自分で操作して鳴らしてましたね。(ずっと川の字です)
テレビがなくなると空いた時間を埋めるべく、絵本をめくったり、オモチャを手にしたり、パソコンに興味を示したりするようになりました。テレビは捨てて正解だったと今でも確信しています。(モニターでDVDは視聴可)
発語はあるが会話は成立しないのですから、小学校は当然にしてストレートで特別支援学級です。
集団登校には親の同伴を求められたので、6年間ずっと同伴通学でした。(とは言え、後半は列の後方から見守る程度ですが)
「環境の変化」と「予想しない事態」に極度のストレスを感じるのが自閉症児の特徴なのですが、特別支援学級の1年生~5年生まで、担当教諭の異動がなかったことが幸運。安心すると精神状態が落ち着くんですね。
特別支援学級の教諭って、ナニかワケありで左遷ポストみたいな雰囲気があると思うんですが、1年生~5年生まで担当して下さった教諭は全く違ってました。
言葉で書き尽くせないのですが、自閉症児では健常児以上に苦手なところが多いのですが、無理矢理に克服させようと正面突破させるのでなく、苦手なところを避けて歩く方法みたいなことを息子に伝授してくれたように感じます。
予期しないことが起きるとパニックに陥って奇行が始まるのですが、先に予定が分かっていて、その予定どおりに進行すればパニックは起きにくく、そういう特性を最初から見抜いて下さって、本当に上手に導いて下さいました。
伊藤先生、今でも感謝しきりです。(年賀状は欠かさず(息子に)出させてます)
息子にはとにかく外界からの刺激が必要だと思って、ほぼ毎週、公園だの何だの、とにかく外へ連れ出しました。200キロの距離にある実家へは毎月通ったり、とにかく土日2日とも家に籠もっていたことは年に数えるほどだろ、という位に連れ出しました。
電車が好きだったので、環状線一周(全ての駅で降りて看板と写真を撮る)みたいな、そんなオタッキーなこと喜ぶ児童がいるのか?みたいなことやってました。時効だから打ち明けますが、1区分の切符でずいぶんと遠回りさせて頂いたこともあります。
地名や駅名とかはすぐに覚えましたね。
実家へは(下道で行くと)幾つものトンネルをくぐるのですが「このトンネルが最後」みたいなこと言ったり、いついつにこういうことがあった、みたいな何年も前のことを年月日まで揃えて呟いたり、とにかく記憶力だけは半端ない。
ちなみに息子と年子の妹(健常児)がいるのですが、彼女の存在も大きかったように思います。友だちのいない息子にとって、唯一の同年代の子どもが妹だったのですから。
特に小さい頃の妹は兄の障害のことが分からないので、時々は手を繋いだり引っ張ったり(兄のほうは照れて逃げ回ったり)、それはそれは友だちのように接してくれたのですから。
家族での外出のほか、JRが沿線で企画するウォーキングに猛烈に参加しました。
参加するとスタンプが貰えるのですが、有効期限内にフルコンプリートして最上位の景品を貰えるくらい、1級障害者じゃないので運賃は安くならず、相当お金はかかりましたが。
他の子達と同様、かならず電車の最前列に張り付いて、運転手さんの呟き(点呼)をオウム返し。運転席に手が届くような、どこぞの超ローカル線に乗った時は、運転手さんが息子の点呼(出発シンコー)に合わせてマスコン操作してくれたりで、電車が大好きになったようです。
あと英語のナレーションも覚えたみたいで、英語が流れないローカル線でも自分で英語で This train ・・・ Bound for ××× Thank you! って大きな声で「通訳」すると、周囲の大人が褒めるもんだから、より調子に乗って・・・みたいな。
10キロとかの健脚向けコースに参加しているときなんかは、おばちゃん達が「小さいのに偉いねぇ~」って飴ちゃんくれたりするものの、会話が成立しない(がんばって1往復)うえに当人は飴なるものを口に入れたがらず。
食へのこだわりが強烈で、少しでも怪しいものは決して口に運びません。妥協なんてありえないのです。
ヤフーキッズをブラウザのデフォルトにしたのと、使用時間に制限(夜の9時だかを超えると使えなくなる)したくらいで、基本的にノンフィルターで使いたいように使わせました。
パスワードはかけてなかった(息子も自分でかけようとしなかった)ので、時々何をしてるか監査してましたが、Youtube で馬鹿な映像を見てるほかは名探偵コナンを追いかけてる風。あとドラえもんとプリキュア(笑)
年頃の男の子が興味を示すサイトへは立ち寄った形跡もなし。アニメや芸能関係の Wikipedia の更新もやってたみたい。
基本的には「泳がせながら監査」という状態を続けましたが、ずっとパソコンで遊べるわけじゃありません。
時々妹がやってきて「私もパソコンを使いたい」って言う話になれば、兄に勝ち目はないので、みすみすパソコンを奪われることに。
まぁずっとパソコン漬けはよくないし、時々はパソコンを奪われたほうがいい(占有じゃなくて分け合う)と思うので、パソコンを追加することなく喧嘩させる選択(妹相手に喧嘩の練習をしておけ、と)
3年生か4年生くらいになると、少しずつ会話が成立し始めました。
その奇行ゆえ、運動会では常に、どんな遠くからであっても、あれが自分の息子だ、って識別できていたのですが、5年生の運動会くらいからでしょうか、一生懸命に探さないと見つけれなくなりました。
小学校の入学当初は「修学旅行へは親さんも同行してもらうことになりますから(同行できないなら修学旅行は無理です)」って言われていたのですが、伊藤先生の後任の女性教諭も「大丈夫でしょう」と。
無事に一人で(同級生と)行ってきました。
プラスチックの刀を土産に買って帰ってきましたが、どこが気に入ったのか今でも理解不能。
養護教諭のフォローなしに壇上で卒業証書を受け取る息子を見て涙が出ました。
奇行も減って落ち着いてきたので、普通学級でも辛うじて何とかなるかも?って言われつつも、他の生徒さんに迷惑がかかるといけないと思い特別支援学級を希望。
2人の学級で、これまでは異学年の混合授業だったのが、初めての同級生が出来ました。
しかも女の子! だけど家庭の事情(引っ越し)で1年で転校して行ってしまいましたが、別れの日は私物を整理して親と一緒に帰る時間に見送りに行ったようです。買って持たせた花束の中に、コッソリ前年の年賀状の余り(自宅の住所が印刷されている)を忍ばせておいたのは私なのですが、お礼状と共に今でも年賀状の往復だけ続いています。
その子もワケありなんだけど、息子とは特性が違う(不得意分野が違う)ので、嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ~とは心の中の声。
気に入った女の子が出来たみたいなのですが、息子の挙動があまりにキモかったらしく、当人から拒絶されたうえに親にも厳重注意
(性的なことをやったわけじゃありません)
当人は加減を知らないし、女の子のほうも自閉症児につきまとわれるのは嫌でしょう、分かります。
中学校の特別支援学級の担任は、父兄の間で評判の良くなかったらしい教諭が着任して翌年に異動とか、産休予定の教諭が数ヶ月だけ担当して交代とかアレな風でしたが、本人には良い意味で刺激になったよう。
3年生になり進路が気になるころ、どこへ進学するかはともかく、特別支援学級という超少人数学級じゃなくて普通学級にも慣れておかないと選択肢がないと思い先生に相談。
数学や理科は進度が全く違うという理由で NG が出たものの、それ以外は何とかなるだろうと(授業の妨げになるなら追い出す条件で) OK。
7割は同じ小学校から上がってきた生徒で一応は幼なじみ。1学年50人ちょっと(ギリギリ2クラス)という少人数な学校だったこともあり、先生の目が行き届きやすいという判断もあってのことだろう。
JRのウォーキング企画を始めとして外にばっか連れ出したおかげか、地名(都市の位置関係)に関しては健常児を超えていたと思う。
理科は小学校から全く履修していなかった(見込みなしと見捨てて他の教科に割り振られた)のだけど、履修してない教科があったのに卒業できてしまうとは。
その下は定時制しかないというランクのところではあるものの、「荒れてない」という理由だけで選択した公立高校に無事に合格。
たまたま定員割れしていた年で、落ちた生徒はいなかったと思うのですが、翌年は定員超えしていたので1年ずれてたらヤバかったかも。
9年間、無遅刻・無欠席ということで学校と市から表彰されました。
ちなみに一つ下の妹のほうも同じく9年間無遅刻無欠席。
4歳だか5歳の頃に妹のほうがキャンプに行きたいというので「キャンプ場は遠いよ」って言って大正池から徳沢まで歩かせたり、お山に行きたいと言われれば「山小屋は売店であって泊まるとこじゃない」と諭してテント背負ってガチな登山に連れて行ったり、ロープウェイに乗ってみよう!って誘っておいて「入り口は上にあって登らないと乗せてくれない」って登らせて下りだけロープウェイとか、とにかく欺しまくりました。
温泉に行きたいって言われて湯俣温泉に連れて行った(吊り橋の先の河原で掘って「これが温泉だ」って)のが最凶だったと自覚してます(小2+小1)
よって、うちの子たちは本当に頑丈です。
中学までの26~27人学級と違って、40人近い教室で、一人も知り合いのいない学校。つまり他の生徒も息子の特性を知らない。
小学~中学は通しの生徒が多いせいもあって、息子がワケありってのは全校生徒のみならず、その親にまで知れ渡っていて、わざわざ寄りついてくる奇特な子どもはいなかったのだけど、高校では最初のうちは先入観なく普通に接してくれたみたい。
同級生から寄りついて来られたことのあまりなかった息子は話しかけられただけで「友だちができたかも」って思い込んで家に帰ってニコニコ自慢してましたが、それが「ぼく友だちいない」に変わるのはそう遅くはありませんでしたけど。
とはいえ、友だちが出来ないまま15歳まで過ごしてきてるので、全く気にならないようではあります。
年に数回、学校開放みたいな行事があって親も観に行っていい日には出かけたのだけど、偏差値が低い=ガラの悪い生徒が多い という先入観を見事に打ち破ってくれました。いやほんと、殺伐感の全くないノンビリした校風の良い高校で良かった。
迷惑をかけるのだからせめてもの恩返しということで、学校の保護者委員?(PTAに近いと思うが、もっとイージー)は進んでお受けし、時々校門にたって挨拶運動とかに参加したわけだけど、先生の命令に従って渋々挨拶してるような感じはなく、どの子も自分の言葉で挨拶してくれて、挨拶運動に参加するのはとても楽しかった。
高校になってから自我が芽生えたか、親と出かけるのを嫌がるようになり(本気で拒絶するほどでもないが)、親としても自立する方向に誘導しないといけないため、JRのウォーキング企画に一人で参加することを許可
前日までに行程(電車の乗り継ぎを含む)と予算を紙で提出すれば金は出すという条件で。
コンビニの外ベンチにDSを置きっぱなしのまま買い物に行って、案の定その間に置引きされたときがあるんですが、ちゃんと自分で交番に行って遺失物届を出してきたり、普通じゃないながらも何とかなる次元には成長
学校行事か何かで、家から最も近い私大(偏差値40~50クラスか?)の見学に行って、学食としてマクドナルドみたいなバーガー屋を含む何軒もあったりで感動したのか、コンビニなんてものが学内にあることに恐れ入ったのか、コナンに出てくる大学生のイメージと重なったのか、どういう訳でか知らないが大学なるものに興味を持った模様。ただし、最初に見に行ったそこだけが気に入ったみたいで、他の大学へは見学すら行かない。
高校になると授業参観なるものが滅多にないのですが、高校3年の最後の文化祭(平日)へは仕事を休んで観覧。
劇で何の役をやるのか教えてくれなかったので、観に行くことも言わずに黙ってビデオ回しながら見てたのですが、ステージの袖からナレーター(司会だったらしく)として登場したところで目を疑う。
名探偵コナンのナレーションを意識しているとハッキリと分かるのですが、恐らくは普段の息子と全く違うキャラだったこともあってか、会場の体育館は大爆笑の渦に。適度なアドリブ(意外性に沸く観客生徒に向かって「ありがとう!」って言ってみせたり)を交えたり、完全に自分の世界に没入していたのだろう、とにかく凄かった。
審査と表彰式まではいなかったのだけど、息子のクラスは最優秀賞を、息子は最優秀個人賞を、それぞれゲットした。
進路指導の先生からの「なりたい職業に応じて学科を絞って学校を選ぶべきだ」という助言を無視する形で、第一希望~第三希望まで全て前述の大学にある学科で、文系・理系おかまいなく・・・という風に進路希望を出していたので三者懇談では「本当にいいのか?」って迫られたけど、「息子が大学に行きたいと思ったキッカケは、そこの大学に出会ったからです」なのだから仕方ない。
いわゆる進学校ではないため、一般入試での合格は絶望的だろう、と先生から言われ、最初で最後のチャンスということで指定校推薦に応募
そもそも、その下には定時制しかないような、こう言うと悪いんだけど学力的には良くない生徒の集まる学校だったのだけど、挨拶運動で感じたようにガラの悪い生徒はおらず、確かに当たりは少ないけど外れはいない、そんな学校ゆえにか「指定校推薦」という枠が設けられていたのは凄い幸運だった。(誰しも外れを引くことを恐れるわけで)
第一希望の学科(息子はパソコンが好きだったのでそういう系)は成績が足りないと言われ、第三希望くらいのパソコンとは無関係なところだったら・・・みたいなこと提案に乗って応募。ちょまどさんだって文系の大学なのにプログラマやっててマイクロソフト行かれたんだから、その気があればどこの学科であってもパソコンの仕事はできるのよ。
劇のナレーターで最優秀個人賞をゲットした余韻もあってか、上手に面接をこなしてきたのと指定校推薦で落ちるのは難しいという条件が重なって、無事に合格の通知。
高校3年でやっと中学生?ってくらいの状態なので、大学を卒業できるか知らないが、ちょうど卒業時点で高校生くらいの状態になるかもしれない。
完治は無理、喋らなければバレない、くらいが限界なんだけど、健常児を遙かに超える得意な分野があるので、そこだけ見て、ダメなところは諦め。
ただ普通の子に近づいたせいか、幼少期に感じた「ありえない記憶力」とかの特殊能力は徐々に衰え、ヒゲも生えだして、すぐに忘れる平凡なオッサンに近づいてることに寂しさも。
昼間定時制高校はどう?
私の通っていた昼間定時制はこんな感じでした。
・通ってる人は、不登校だった人、高校をやめた人、スポーツ選手になろうとして高校に行かなかったが怪我等でリタイアした人。
・年齢層は15歳~22歳くらいが多かった。
・単位制だった。好きな授業を大学のように自分で決めて学習できる。
・時間割を自由に組めたため、週4で通い、週3でフルタイムのバイトすることができた。
・文化祭や運動会はなかった。修学旅行は任意で参加率10%程度。
・定時制なので大学入学資格検定(今はなく高等学校卒業程度認定試験に変わっている)を受験することが出来た。
・大検の合格科目を高校の単位に読み替えできたし、高校の単位を大検の免除科目とすることも出来た。
・昼間通えるので、夜時給の高い仕事ができた。
・男女比率はとんとん。結構可愛い子も多かったし、イケメンも多かった。もちろんアキバ系も。
・私から見てもバカが多かった。英語はアルファベット26文字書く授業から。なお、書けない人もいる・・・。
・それでも、数学3Cとか、保育とか、商業、工業、プログラミングなどなど、特化したければ難易度の高い授業も取れるし、その授業に来る生徒はガチで頭いい。
願書は余裕で間に合うよ。
年齢隠してなかったけど、年齢を知ると、ストレートに大学へ来てる人たちは急に敬語になるし、
先輩ですら、敬語になったりするものだから、必要なければ言わないようになった。
私は2回目の高校休学して、1年予備校通って、大検使って大学進んだけど、
1年で中高6年分の勉強は大変だったけど、予備校前と大学入学後の学力は段違い。
21歳も22歳も変わらないし、一度真面目に学力上げて、できるだけ上の大学狙ってみるのもいいと思うよ。
正直、大卒ってだけで、日本じゃ大分楽になれるからどこでもいいっちゃいいのかもしれないけど、
1つのラベリング効果受けるから、偏差値高い大学のほうが気分も待遇も大分違うはず。
先のこと考えて生きてる人間なんて1割もいないんじゃないかと。
もちろん、考えて生きてる人たちは、ほとんど成功してる人たちだけど。
少なくとも、匿名掲示板でぼやいて、匿名で煽る人たちのネタになって、嫌な思いしてるよりは、
高校受験してみて、失敗したらそれはそれ。
2回目の高校に無事通うことになって、やっぱり気が変わったとしてもそれはそれ。
もちろん、やってよかったと思えたら、大勝利。
とらわれていることがあると人は成長が止まる気がしてる。
まずは、君の視界を晴らそう。
弟が東京の大学に行きたいらしい。控えめに言って頭が沸いてるんじゃないかと思う。
どうしてやっと入れた高校を留年しかけた弟が、東京の大学に行けるのだろうか。
別に特段レベルが高いわけでもない、ただの公立高校の癖に、課題すらまともに出せなかった弟が。
定時制に無理やり転校して、そして結局この一年何の反省もせず、勉強もせず、だらだらごろごろしていた弟が。
高校時代、いや中学の頃から私は勉強を強要された。でも、大学に行きたいとも思っていたから私なりにも頑張って勉強した。
憧れの東京の大学、そして地元の大学、どちらも願書を出したのは国公立だった。滑り止めは受けなかった。
親に「東京の私立受けてもいい?マーチとかなら、受かるかもしれない」と聞いたら、「受けてもいいけどそんなとこに通わせるような金はないよ」とそっけなく返されたからだった。
落ちたら浪人しろと言われた。予備校に行くお金はないから、本当に全落ちしたら宅浪だった。
うちは貧乏なんだと思った。だから、三つ下の弟の成績が揮わなくて、理科と社会の授業も追加しようか、でもお金がないと話す親を見て、「じゃあ、私は塾辞めるから。弟にその分回して」と言った。お金がない私の家計と、頭の悪い弟の助けになるなら。
私は東京の大学は受からなかった。地元の大学には引っかかったから、そこに通うことにした。私の塾代を何食わぬ顔でふんだくった弟は、進学校でもないごく普通の高校に入って、挙句留年した。
高校三年にもなって、弟が自分の進路を何一つ決めていないのは火を見るよりも明らかだった。同級生は就職したり、専門学校に行ったり、次々進路を決めていると言うのに。
いや、ちょっと前までは東京の声優の専門学校に行きたいと言っていた。くそだと思った。
親は何も決めていない、何もしていない弟を見ながら「どうする?予備校に行って浪人?」とか言っていた。こちらはよりクソだと思った。
そんな弟が、突然東京の大学に行くと言い出した。親も私から隠れて、弟の入ることの出来るFラン大学を調べているようだ。返す言葉もない。
そんな金はどこにある。東京の私立に行かせる金はなかったんだろうが。
マーチですら出せないのに、どうして名前も聞いたことがないようなクソみたいな大学に、クソみたいな弟を入れる金があるんだ。殺すぞ。
高校すら留年するのに、どうして大学は留年しないと思っているんだ。親の目から離れて、東京に出たいだけじゃねえか。「俺の生きる意味なんてない」なんて、面倒臭いメンヘラ女みたいなことを言う男は、彼女作ってぱこぱこし放題か、パチンコ三昧だ。大学なんて行かねえ。
下記は、両立支援・雇用平等関連資料・パンフレットダウンロード | TOKYOはたらくネットの資料です。
良いことが書いてあるので、是非読んでみてください。
http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/equal/siryo/23saiyou04.pdf
例えば、障害者が応募できないとしている企業には一切選考も面接もせずに、先入観で「障
害者では仕事ができない」と決めつけてしまう考え方があるのではないでしょうか。
また、家庭状況(親の職業や兄弟姉妹のことなど)を選考・採用のポイントとして考えるこ
とは、親が大名ならその子はたとえ能力は低くても大名という封建時代の考え方とあまり変わ
「企業防衛上同業者の子弟は困る」、「自営業をやっている家の子は定着性が悪い」、「親の職
業がしっかりしていない家庭の子は、金銭を扱う仕事なので困る」といった考え方には、応募
者の基本的人権を無視することに痛みも感じない一方的な人事の体質というものがあるのでは
ないでしょうか。
企業にとって従業員を採用することは、その繁栄成長につながる大変重要なことですから、
単なる憶測や、予断と偏見に左右されない公正な選考というものがいかに大切であるかは、企
業経営者が一番よく御存知のことであり、強い関心をもっていることと思います。
「うちの会社の選考体制は、長い間にわたって改善を重ねてきたものだから大丈夫だ」と安
心する前に、同和問題をはじめとする人権問題についてどの程度認識しているか、正しく理解
もし、十分に認識・理解していない場合には、やはり予断・偏見といったものが残存してい
以上のことがらを点検するためのチェックポイントは次のとおりです。
② 雇用条件・採用基準に適合するすべての「人」が応募できる原則が確立されています
か。
③ 次のような人を排除しようとしていませんか。
ア 同和地区出身者 イ 女性 ウ 障害者 エ 母子家庭や父子家庭の人
オ 定時制・通信制課程修了者 カ 外国籍の人 キ 特定思想・信条の人
ク その他(高齢者、HIV感染者等、刑を終えて出所した人、破産者など)
④ 応募者本人の適性や能力以外のこと、例えば、親の職業や家庭状況等を採否の基準と
していませんか。
⑤ 採用方針、採用予定の職種や人員が計画的・合理的に定められていますか。
守るべきことがら
考 え 方