はてなキーワード: 矮小化とは
お笑い芸人で絵本作家の西野さんについて、「無料公開はクリエイターの首を絞める」「いや、無料公開はいいけど、あの態度が問題だ」とか色々な論争が起きてるじゃないですか。でも、ぶっちゃけ全部ずれてると思います。彼はクリエイターなんだから、彼の作品のみによって批判されるべきだと思うんです。
この論争で誰も触れないですけど、あの絵本面白いですか?絵本として面白いですか?
絵は凄い。でも、絵本の面白さってそこですかね。大事ですよ、絵は。でも、もっと大事なのは、そこから広がるセンス・オブ・ワンダーだと思うんですよ。『かいじゅうたちのいるところ』みたいな名作には、それがあるじゃないですか。
絵本の楽しさって、枚数・文字ともに制限された世界から、読み手が思い思いに広げる、広がる世界、そこにこそ絵本の豊かさがあると思うんです。要するに、ヤバイ世界をどれだけ見せてくれて、どれだけ僕らの心を刺激してくれるかじゃないですか。
僕の好きな絵本に「ガガガガ」っていうインディアン神話をもとにした絵本があるんですけど、これは凄いですよ。主人公は石と鳥がまぐわって生まれた子供で、物凄く長いへそと尻の穴を持っていて、邪魔な奴は尻の穴を首に巻きつけて、絞め殺しますからね。何を言っているかわからないと思うんですけど、そういう話だから仕方ない。
ヤバイ世界をどれだけ見せて、僕らの心をどれだけ刺激してくれるか、絵本の魅力ってそういう所だと思うんです。
「えんとつ町のプペル」はその点が極めて、極めて凡庸じゃないですか。何ですか、「風船をたくさんつけて空を飛ぶ」って、その児童作品で7兆回くらい繰り返されてきたモチーフは。何ですか、「ゴミに人の魂が…」って。その何度も繰り返されてきた展開は。登場人物の目的が「世界のはての綺麗なものを見に行く」っていうさ…イオン行け、イオン。何でもあるぞ、あそこには。
「絵がすごいなー」ってだけで、一回も「ヤバイものを見た感」が味わえない。「はらぺこあおむし」とか、絵からして強い(確信)ですからね。そういう驚きが一個もない。
さらに、質が悪いのが「あとがき」ですよ。「夢を語れば嗤われる世界(えんとつ町)で、それでも夢を見るからいじめられる」「捨てろといわれる夢を捨てられない象徴が、ゴミ人間」みたいに、一個一個メタファーを解説しちゃうわけですわ。これ最悪でしょ。「糞だせー」でしょ。読み手の中には、それぞれの世界が広がってたんですよ。きっと。このあとがきを読むまでは。
でも、このあとがきを読んだ瞬間に、読み手の世界の広がりは雲散霧消して、「西野のお説教」に矮小化されてしまう。もう、この「あとがき」の時点で、西野さんはどこまでいっても西野さんだし、西野さんは既に凄い人なんだけど、たぶん、ずっと西野さん以上にはなれないんだろうな、という次第。
西野さんはどこまでも絶え間なく広がっていて、もがけばもがくほど、きっと西野さんは西野さんの五臓と六腑に染み込んで、また西野さんが再生産されていくんだろうな。きっと。
不労所得とか、所得格差とか、職場環境の格差とか、そういうものを全て、働く働かないに矮小化して、バイナリーに自分は優れていると思い込もうとしている。
その過程で、自分が周りに迷惑をかけたり、自分が他人に劣後したり、自分がどれほどつまらない人生を送って来たか、全てを棚に上げている。
道徳の際限や客観性を恣意的に設定して、憂さ晴らしの道具に貶めている。
逆になぜそこまで可笑しいのか理解できない。頭おかしいとしか言いようがない。人が職を持たないことがそんなに可笑しいというのが理解できない。隠棲隠遁隠居、そういう熟語を知らないんだろうか?それくらい当たり前に人は厭世だとか世をはかなむだとかして浮世から遠ざかりたがる。それがそんなに可笑しいというのは、非常識だし、普通の感覚ではない。自分の感覚がおかしいのを棚に上げて普通の他人をそこまで笑えるというのは、自意識が寡少な異常人格者だ。
可笑しいし、そこまで構う理由も分からない。いじめの心理だとしか言いようがないし、その善悪を判じたり論じたりすることのできない道徳心の欠如に気づけないことに、呆れざるを得ない。
劣等感が無いはずがない。その裏返しとしてやけに大きな態度に出たりする奴はいるかもしれんが、劣後することは客観的事実で、恰もそういう自認をしていないかのように人格を攻撃するというのは、立派なヘイトスピーチにほかならない。
はてなブックマーク - いじめ暴行で重体、市や同級生らに1億円超の賠償命じる:朝日新聞デジタル
いじめ事件が話題になるたび、「◯◯罪のことをいじめと呼ぶな」という意見がよく挙がります。
「いじめという軽く聞こえる言葉ではなく、◯◯罪というより凶悪に聞こえる言葉を用いて、事の重大さをはっきり示すべきだ」
というのがその理由で、概ねネットでは支持されている意見のようです。
ですが私は、2回2年間に渡っていじめを受けてきた者として、これに反対します。
「いじめのことを◯◯罪と呼ぶな」、と。
さて、いきなり喩え話で申し訳ないのですが、次のような状況を考えてみて欲しいのです。
とある人が、交際相手に暴力を振るったり、暴言を浴びせたりといったことを日常的に行った末に、
このような事件に対して、「DVではなく傷害罪と呼べ」と言う人たちがいたら、どう思いますか。
「加害した側を擁護しようとしているのかな」、あるいは、そこまで行かなくても、
「DVはDVだろうに何故言い換えようとするのだろう」、そう思ってしまうのではないでしょうか。
私が「いじめじゃなく◯◯罪と呼べ」という意見に対して抱く違和感は恐らくこれに近いです。
つまり、いじめという一連の許されざる行為の一つとして暴行や恐喝があるのであり、
それだけを取り出して暴行罪や恐喝罪と呼んでしまうのは、事件そのものを矮小化することになるのではないか、というのが私の懸念です。
上の記事の例で言えば、被害生徒がある日突然見知らぬ集団に殴られて意識不明になったとしても「暴行罪」なわけです。
そうした例と違う、という意味で「いじめ」の語を用いているのに、それを「暴行罪」と呼んでしまうのは、
DVを傷害と、計画殺人をただの殺人と、わざわざ貶めているようなものではないか、と思うのです。
もちろん、事件の重大さが正しく伝わっていないのだとしたら、そのことは問題だとは思います。
であり、言葉の方ではないのではないでしょうか。
あるいはせめて変えるにしても、「いじめ」そのものの言い換えであるような語(たとえば「家庭内暴力」に倣って「集団内暴力」とかでしょうか)によるものであるべきだと思います。
オカルティック・ナイン。視聴者がすごいと言うより、選民感を感じさせる作りになっているなと感じる。
シュタゲもそうだったが、まず最初のキャラ造形でふるいにかける。どんな人がふるいにかけられるかというと、偏屈で器の小さい人だ。煽るような表現をして申し訳ないけど、まさしくそう思うのだから我慢して欲しい。オタクにはそういう人が多いだろうから、1話切りする人が相当いただろう。
典型的なふるいだなと思ったのが、ネットスラングを多用するキャラがいること。ネットスラングに日常的に触れていて、ネタを理解できる人のうち、反応は2つに分かれる。
「あーハイハイ、クッサ、そういうのマジ勘弁」みたいに受け取る人と
「あーあるよね、そういう人もいるよねウフフ」みたいに受け取る人。
前者は、どちらかというと本当にコアなネット文化の理解者というよりは、にわか感がある人に多い気がする。例えば、にわかファンがよりにわかなファンを叩く光景と同じ原理が働くのだろう。つまりは、自分が理解者であることを自負したいから、他人が理解を表現することを脅威と感じたり陳腐に感じたりする。肥大した自我を守るために他者を矮小化するのだ。もしくは、自分では同族と思っていないかもしれないが、同族嫌悪の感情。いずれにしても、器の小さい人間のすることだ。
本当に理解が深い人は、他人の表現についてもどっしり構えて心静かに観察することができて、いたずらに攻撃的になったりはしない。ネットスラングへの造詣が深かったとしても、自身は現実でもネットでも一切スラングを使っておらず、おくびにも出さないタイプが多いかもしれない。要するに、理解を、自己と同一化していない。自己のステータスにしないしアピールもしない。だから自己と他者を「○○を理解する人/しない人」みたいに分けてマウントするようなことがない。結果として、どんな表現もフラットに受け止めやすい。創作となれば尚更だ。
中高生のころなら、そういうラベリング合戦に執心して見えない敵と戦っていた人も多かろうが、ある程度おとなになると、普通はしなくなるものだ。そう言いつつもこの文章自体がラベリング合戦同然の青臭さを帯びていることについては、見逃して欲しい。私もおとなになれなかった大きな子どもであり、自己矛盾型キャラなのだ。
さておき、作品全体が例に挙げたようなスラングのノリで構成されているわけではない。巨乳の電波系少女を出してきて、イチゲンさんに下品な萌えアニメかと思わせる部分もそうだ。結局それらは、重苦しい世界観を覆い隠すための、しかもそうである必然性が後々わかってくる類の仮面にすぎないのだ。
シリーズのファンであればそのことを重々承知しているので、ああいった初見バイバイな描写に惑わされることはない。けれどそうでない人にとっては、これでもかというほど辟易させる要素が詰め込んであると映る。特にマトモぶった偏屈な人ほどそう感じ、嫌悪感を抱きやすいのではないかと思う。
主人公がウザキャラで、アフィやニート属性であることもひっかけポイントだろう。これらは、現実ではネットほど非難される対象ではない。ネットの卑しい思考回路に染まっている人ほど、これらを執拗に叩く傾向がある。経済を理解している一定層以上の人間なら、アフィリエイト行為自体を叩いたり嫌悪したりはしない。やり方が悪いアフィリエイターが跋扈していることは事実だとしても、アフィ自体を嫌悪の対象にすることはむしろ危惧すべきものだ。ニートに対しても同じ。彼らは時代の産物であって、自己責任論で叩くべき存在というよりは、社会が救済すべきものだという認識が基本だ。そもそも作中の主人公は悪質なアフィリエイターでも、見放されるようなニートでもないので何も嫌悪する要素がない。むしろ可愛らしいものだ。
さらに言えば、忙しく目まぐるしいテンポ、伏線を匂わせる描写の密度が、一般的な作品と比較すると異常な域にある点もそうだ。テンポについては、ネットでは早口だと揶揄される。だが視聴していくと、この作品はむしろこのくらいのテンポが相応しいように感じられるだろう。それでも時折不自然なほど早口だと感じる部分はあって、そういう不自然さがどうしても許せない人がネットには多い。けれどインタビューによると、キャストもその部分には面食らっている。制作側もそれを理解していて、1話台本の冒頭に、どうしてこういう早口な演出が多用されているかの解説があったらしい。そこの部分は視聴者の我々が窺い知ることのできない所ではあるが。
ともかくネットというのは悪意的な見方の人間の声が大きくなりやすい。そして、クリエイティブな制作者に対する声も含め、他者への敬意や謙虚さが微塵もない罵詈雑言が並べ立てられている。そうしたものに思考を汚染され、流されてしまわないためには、実際の制作者やキャストの声を聞いて、かける思いを汲み取ることが重要だ。それはどのアニメ、どの映像作品にも言えることだが、オカンは特にそれが求められる作品だと感じる。
あまりにも密度が濃いので、結局大風呂敷を広げただけで伏線を回収しきれないんだろ、と馬鹿にする声も聞く。しかし10話までみてきた印象としては、かなり綿密に練られている。最新話をみるたび過去話を見返していくと、膝を打つような発見、「そういうことだったのか!」がそこかしこにある。だが、「どうせ回収できない、ご都合主義だ」と侮る声を発する人を納得させることはできないと思う。そういう見方をする時点で全てのフィクションはスポイルされると思うが、それに加えてオカン特有の事情がある。おそらく、アニメ単体では全ての事実は明らかにならない。コミック版は12話からアニメとは別のルートに入ったという告知がされている。アニメは2巻まで出ている原作ノベルを圧縮した内容ではあるが、すでにノベルの先の展開を描いている。アニメ展開に合わせたように発売日が延長→未定となっているノベル3巻もアニメとは別のルートに入る可能性が高い。つまり各メディアを律儀に追っている人ほど、全容を知れるという仕掛けになりそうだ(なんてうまい商売なんだ)。
けれども裏を返せば、そのへんの事情を知らないライト層には不完全な作品と取られる恐れもあるわけだ。そういう整合性に異常に執着するアニメファンは、爆死だなんだと言うだろう。それを見越していながら突き進むスタイルは、ある意味でロックな姿勢ではある。一方でそういう側面こそある種の信者ビジネスの肝だなと冷ややかに見ることもできるが、ストーリーの内容が内容だけに、楽しむことが好きなオタクならばシャレを効かせたメタ展開だと笑って受け止めるだろう。その八福神の会だか300人委員会だか分からないが、自分もそっち側に入信して、賤民には知り得ない真実に辿り着こうではないか、なんてノリにもなるというものだ。
思うに、大ヒットする作品というのは多分にカルト的要素を含むものだ。オカンにもその素地があると感じる。ラブライブにしろ、ガルパンにしろ、エヴァでもガンダムでもいいが、ああいった作品のファンは宗教的なところがある。単に作品が魅力的だというだけではなく、作品に思想が込められていて、そのメッセージ性がいわば「教義」となり、観る人を感動させ、伝播の原動力となるのだ。作品を観ることで、その教義を受け取り、コンテクストを共有する。その域までたどり着いた人はまさに信者であり、選民となる。往々にしてひねくれた演出、尖った演出の数々は、その選民感を増幅させるのに有効に働く。けれど、ついていけない人には、真逆に働く。
よく、「ノリについていけない」とか「登場人物に感情移入できない」という文句を言う人がいる。そういう人はおそらく、メタな感覚で作品を眺めすぎている。無意識に作品の向こうに作者を透かしてみていて、そうやってみる作者のことを「こいつはダメだな、こいつの作品はいけ好かない」と思っていたりする。それで作品本体をまじめに見れなくなっており、雑念がなければ感じ取れたはずの感動を取りこぼしているのではないか。原作者の志倉千代丸氏自身もおちゃめな発言をするタイプではあるが、それも一種のペルソナを演じているだけであって、硬軟かき分ける技量がある懐の深い作家であることは原作ノベルに触れると分かる。だから仮に登場人物がイタくても、キャラ造形が古臭くても、それに引きずられて作品自体や作者をイタいと思うのは間違いだ。
感情移入ができないことを問題視するのも、そもそもおかしな話だ。感情移入ができる、というか、キャラクターの(言外にあらわれる)感情が伝わってくるから感動できる、良い、というのは分かる。しかし、それが分からない、キャラの思考回路が伝わってこないからダメだ、とはならない。異なる価値観とか多様性に対するスタンスについて説教するわけではないが、はっきり言って、そういう人は、自分と近しい環境で生き、近しい感覚・行動原理を備えた登場人物が動く作品しかまともに見れないのではないか。フィクションには強烈な個性を備えたキャラがよくいるものだが、ほとんどの場合、どうしてそういう性格になったのかは察せるものだ。はじめは理解しがたい性格のキャラこそ、大いに想像力を働かせながら読み進め、自分には無かった思考回路や価値観にたどり着く感動が得られるものだ。萌え日常系アニメのキャラならともかく、脚本があるストーリーもののキャラであれば、そうやって「キャラを理解する」作業はたいてい報われる。思っているよりもずっと。そういう作業を序盤で放棄して、「こんなキャラは理解できない、受け付けない、リアルじゃない」と決めつけ、あまつさえ「キャラの作り込みが悪い」などと作品のせいにしている人のなんと多いことか。読書や映像鑑賞は、実は読む・観る側にも作品世界に寄り添っていく想像力や積極性、クリエイティビティが求められるものだが、「消費する側」という立場になりきって選好を重ね、消費の達人になっていけばいくほど、傲慢で想像力を停止した人間になっていくものなのだろう。
難儀なものではあるが、志倉千代丸作品に限っては、さらに、彼がイケメンで曲も詞もコードも書けてオタク力も高い上に金持ち、という超人的な要素があるせいで、僻みも加わってくるのかもしれない。けれども、作品を鑑賞する時というのは、そういう作者がいけ好かないだとか制作会社がどうだとか、そういう世俗的な感覚は基本的に切り離しておくべきものだと思う。そういう感覚を混ぜることで楽しめるならまだしも、雑念になるのならばそれを排除する努力を(作り手ではなく)読み手側がしなければならない。それが創作に対し敬意を払うことだと思うからだ。
どうにもオカンの話ではなくネットのアニオタ批判になってしまったが、これからの時代、コンテンツを楽しむということは、イコール、ネットの俗悪な風評とは距離を置いた賢明で物静かな「選民」になることだと思う。別に私のように選民意識をちらつかせて下層の民を殴ることはしなくていいが、そういう衝突もどんどん表面化していくのだろうと思う。もっと短文で動物的な形になるとは思うけれど。不快だが避けられないネットの未来。そんな未来だとしても、それでも、日本のアニメは「刺さる人には刺さる」方向性で突き進むのが向いていると思う。誰もが楽しめる優等生的な作品作りはディズニーあたりのお仕事。「刺さる人には刺さる」コンテンツ作りの先端を行くオカンのような作品に触れられることを私は幸せだと思う。
そういうタイプの主張は「"俺にも黒人の友達がいる" メソッドだ!問題の矮小化!」つって以前に君の仲間達が刈り取っていきました
小学3〜4年の頃、いじめをしたことがある。俺がいじめていた「彼」は当時つるんでた仲のいい5〜6人の友人グループの一人だった。
友人グループとは言っても、一人のリーダー格とその取り巻きのような感じだったと記憶している。俺はそのグループ内ではNo.3くらいの立ち位置だった。
詳しい経緯やきっかけはもう覚えていないが、グループの中でもヒエラルキーが下の方だった彼には、普段の遊びの中で徐々に「リアクション芸」が要求され始めた。
特に彼に障害があるとか頭が悪いとかではなかった。何故彼がそうなったのかあまり覚えていないが、外で遊んでいる最中に転んだり、何かの拍子にボールが直撃したりした際に叫んだ言葉が面白かったとかそういう事だったと思う。当時見ていたテバラエティ番組の企画のように皆で公園で「ゲーム」をしたり、学校内で鬼ごっこや缶蹴りをする中で、彼には毎度のように何か知らの試練とリアクションが求められるようになった。
そのうち友人グループの間でどんどん遊びがエスカレートしていき、彼に対する仕打ちもどんどん過激になっていった。最もひどかったときはもはや単純な暴力だった。肩パンして痛がっているのを笑うような雰囲気になっていた。
そのなかで俺も、ヘラヘラしながら何度も彼に暴力をふるったことがある。所有物を隠した事もあった。多分もっと色々酷いことをしたと思う。確か良心が痛んだと思うが、その時は良心の痛みよりも仲間内で目立つことや皆が笑うことの方が大事だった。
今思っても本当にひどいことをしたと思うし、自分の中では凄く反省している。思い出すたび胸がズキズキする。
彼の母親が学校に殴り込みに来て、いじめは終わった(と思う)。
彼の母親はクラス全員の前で、息子が受けた仕打ちや家で落ちこんでいる彼の様子などを怒りを込めて話した。
俺は、少なくともグループ内で遊ぶときには彼は楽しんでいるものだと思いこんでいた。暴力を苦痛に思っていたことがショックだった。
俺はクラスの前で立たされ、怒鳴られて泣いて、涙ながらに彼に謝罪した。それまで人前で泣いた事が無かったのでそれもショックだった。
俺はそれ以降その友人グループとつるむのをやめた。怒られたのがきっかけでなんとなく空中分解したという言い方が正しいかもしれない。
彼の母親に怒られた日の帰り道に「これから人に優しくしよう」と決意したこと、帰宅してから事情を聞かされていた母親の前で大泣きしたことはよく覚えている。
今思えばこの経験がそれ以降の俺の人格形成に大きく影響した気がする。
中学に進学した俺はクラスメイトの中でも孤立している人や転校生と仲良くするようになった。いじめていた彼を同じ部活に誘った。そうすることが罪滅ぼしだと思っていた。
あれから20数年経っているが、俺がいじめていた彼は地元に帰ると必ず会う特に仲のいい友人の一人だ。
いじめていたことが良かったなんてこれっぽっちも思ってはいない。今でも思い出すと辛い気持ちになる。
他のトラバにある
というのはその通りかもしれない。
こういう「仕返し」でいじめをするパターンもあるのかもしれないけど、遊びの延長線上でいじめるパターンが多いのではないかと自分の経験から思う。
WELQの運営方針や内容の信頼性を巡って炎上が続いている。DeNAは慌てて専門家の監修を開始するというリリースを出しているが、遅きに失した形だ。
個人的な話だが、夏頃転職を考えていたこともあり、DeNAは候補の一つとして面接を受けてきた。メディア系の職歴であったため、DeNAパレット(同社のキュレーションプラットフォーム。Find TravelやMERYもこれ)においてプロダクトオーナーをやってほしいというオファーがあった。
その内の一つがWELQだった。WELQについて調べてみると、オープン半年で利用者600万人超のメディアになったと誇っていた。なるほどSEOが強烈に強く、適切な医療知識を持たない人々であればうっかりクリックし、信じてしまう可能性があるほど、順位もワードもこなれたものだった。記事のボリュームも圧倒的にあり、優位性は明らかで、それなりにやりがいのある仕事ができそうに思えた。
一方でマネタイズを真面目に考えると、著作権法や薬事法・医師法を遵守し、内容の信頼性を高めていかなければならないと思った。記事をパクられた側の抗議によるレピュテーションリスクがあり、広告ではきちんとしたクライアントが付かない。なによりユーザーが内容を不審に思い始めるのは時間の問題だろうと思った。
また、編集長という立場の人が明示されておらず(強いて言えば村田マリ)、記事も匿名がほとんど。署名記事でも著者が実在するのか不明。調べればクラウドワークス等で集めた医療従事者でもないライターが激安価格で記事を量産しているという。その内パクリ元のオリジナル記事が枯渇し、内容的には過去の焼き直しでジリ貧になっていく問題も抱えていると思った。現時点でも既に、同じテーマなのに書いてあることが違うという、メディアとしての主張に筋が通っていない部分が見受けられる(例えば食物アレルギーの記事)。まあこのあたりはパクリ元に収益を還元する仕組みを作ればYouTubeのような発展も有りや無しや、ではある。
これらのことを面接では鋭く主張してさしあげた。面接相手はKDDI出身でDeNAに来たというM氏だ。まずあった反論は「医師の監修は検討しているが、今はメディアとして完全に定着させることが先」とのことだった。要するに投資ステージなので外野はゴチャゴチャ言うなということなのだろう。しかしそこは永久ベンチャーを標榜しているとはいえ東証一部上場企業、いくら面接相手でもコンプライアンス意識なしというのをあからさまに伝えるのはまずいという意識があったのだろう、「将来的にはキュレーションを抜け出し、一次メディア化したい」という補足もしっかりあった。面接の自己評価としては、よりよい方向、健全な成長に導ける有能な人材であろうことを強く印象づけられたと確信し、渋谷ヒカリエを颯爽と後にした。
で、落ちた。「貴殿のための適切なポジションが社内にご用意できませんでした」という、転職業界ではテンプレート化しているお祈り文言だ。言うまでもなく、批判が図星で、わざわざ入社させてDeNAパレット事業の方向性を撹乱させることはしたくないという判断が働いたのだろう。
ファウンダーの南場智子はコンプガチャ問題で手痛い失敗をして以来、業界はもちろん、自社の事業ポリシーの健全化に務めてきた。この辺は著書『不格好経営』にも載っているとおりだ。公平性や透明性意識の浸透を狙ってスローガン「DeNA Quality」を定めた。しかし、WELQはもとより同社のDeNAパレット事業全体においてグレーなやり方がはびこっており、掛け声倒れに終わっている感は否めない。お友達感覚で連れてきた事業責任者にもそれを理解させ切れているのか。旦那の病気療養のために一旦引退し、そして得た医療健康系事業への熱い思いが、自らの社員・役員らによって反故にされている現状をどう考えているのか。
何も面接で落とされたから腹いせにこういうことを書いているのではない。むしろ今は受からなくてよかったとさえ思う。キュレーションという新しいメディアのあり方と、正確性や信頼性が最重要視される医療情報との食合せが悪かったという問題だけではない。WELQを閉鎖すれば終わりでもない。DeNAがソーシャルゲーム以外の事業の柱を作っていくうえで、体質を根本的に変えていかなければならない現状に直面しているのであり、それに対するしっかりとしたステートメントが必要だと考える。決してWELQだけに問題を矮小化するべきではないことを、DeNAは理解するべきだ。
補足:なおWELQの前身はMedエッジといい、こちらは比較的信頼性のある著者が書いていたり、転載元も医療系サイトだったりする、(相対的に)いいサイトなのだが、現在はMedエッジ時代に掲載された記事は埋もれてしまいがちになっている。
さっき初めて読んだんだけど、めちゃくちゃ感動した。
このお話のラストは、王子が蛇に噛まれて死ぬという、びっくりするオチで終わる。
んでこのオチの解釈を巡ってはさまざまな議論があって、ネットの解説を何個か見ているのだけど、どれもいまいちピンと来ない。
そこで自分で書く。
ネットでよく見る言説。
この説は、聖書の創世記にある「イブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまい、楽園を追放される」という話を類推する。
すなわち、王子≒イブ、蛇に噛まれたこと=蛇にそそのかされたこと、と考えるのだ。
そして『星の王子さま』で「楽園」と言えば「子供時代」を意味するであろうから、そこからの「追放」とは「大人になること」であろう、と推測する。
ただこの説の難点は、キリスト教においてイブは罪人であるということだ。この話をどう読んでも、王子が罪人であるというようには読めない。
しかも、『星の王子さま』の主題の一つが徹底した大人に対する批判にあることからすると、王子が大人になってしまうというオチはこのテーマにいかにもそぐわない。
したがって、この説のような読みは不可能ではないにせよ、本作の意義を極めて矮小化するもので、あまり採りたくない。
この説は、お話の全体にちりばめられた聖書的なモチーフに加え、①天から降りてきた王子が②死んで③天に帰るという展開が、福音書に描かれるキリストの生涯に似ていることを指摘する。
確かに指摘された点はキリストに酷似しており(モチーフの1つにしたのは間違いないと思う)、主役≒キリストという構図はいかにもそれらしい。
ただこの説の難点は、王子がキリストであると解したところで「だからどうした」という点がはっきりしないところにある。
聖書においてキリストが処刑されたことの意義は、過去・現在・未来における人類の罪を、神であるキリストが代わりに贖うことにある。
他方、王子は蛇の言葉に騙されて殺される。ここに何かの意義を見出す解釈もあるだろうが、キリストのような贖罪の意味はここにはない。
つまるところこの説を採用すると、ラストに王子が死ぬ意味がよく分からないことになる。なのでこれも採りたくない。
説って書いたけど、いまの俺の理解がこれ。
王子は基本的に生き死にに頓着が無い。砂漠の真ん中で水の最後の一滴が尽きた時、焦る主人公に対して王子は呑気にこんなことを言う。
「友だちがいたっていうのはいいことだよね、たとえもうすぐ死ぬとしても。ぼく、キツネと友だちになれてよかったなあ・・・・・・」
また、王子が蛇に噛まれて死んでしまい、魂が天国に召される際に、追いかけて来る主人公に対してこう言う。
「きちゃだめじゃないか。つらくなっちゃうよ。きっとぼく、死んだみたいに見えると思うけど、でもそうじゃないんだからね・・・・・・」
「わかるでしょう。遠すぎるんだよ。あそこまでこの体を運んではいけない。重すぎるんだよ。」
これらの台詞からうかがえる王子の死生観は、クリスチャンにそれによく似ている。
クリスチャンにとって魂の本籍は天国にあり、地上での体は仮初めの姿に過ぎない。したがって、死は消滅を意味せず、むしろ始まりであると言える。
だから王子は生き死にに頓着がないし、自分の死を悲しむ主人公に対して悲しむことはないと断言できるのだ。
この解釈を採れば、王子の死に対する向き合い方(≒クリスチャンの死に対する向き合い方)が分かることになり、本作のテーマを損なうことなく、王子の死が意義あるものとなる。
なのでこの説を採りたい。
http://anond.hatelabo.jp/20160702174925
毎度おなじみ gudachan@bonchacchanga の不定期活動報告です。
gudachanは自分の作ったまとめに対する反応を日々チェックしており、
自分の意見に肯定的な反応はRTしたりリプライで別のまとめのurlを送り付けたりしてさらなる承認に結びつけ、
逆に否定的な反応には相手にレッテルを貼りしばらく叩くという習性があります。
あんまりよくわからん。 QT 広島が6大都市に慣れなかった最大の理由は「郊外高速交通」の不在 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/1022672 @togetter_jpさんから
6:51 PM - 11 Sep 2016
ttps://twitter.com/kankimura/status/775149685510070272
ttp://archive.is/Rzdkj
そもそも本来「6大都市」というのは大正時代の「六大都市行政監督ニ関スル法律」で提示された古い概念。東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、の事を長らく指してきた。それを数だけ同じ「6」にして大都市圏に適用するから、「仙台か広島か」みたいな訳の分からない話になる。
6:55 PM - 11 Sep 2016
ttps://twitter.com/kankimura/status/775150719645028352
ttp://archive.is/ak7wN
ttps://twitter.com/kankimura/status/775151776936845313
ttp://archive.is/uTCGj
序に書いておくと、仙台と広島に対する「感覚」は住む場所によってずいぶん違うと思う。例えば、畿内の人間の多くは広島は割とよく行くので、「西にある福岡に次ぐ大きな町」という感覚があるけど、仙台にはまず行く事がないので、「東北の町の一つ」くらいの感覚なのではないだろうか。自分だけかな。
ttps://twitter.com/kankimura/status/775152846970904577
ttp://archive.is/xISD2
そもそも東国の人は、畿内から西に行く事が少ないでしょうし、移動する場合にも飛行機移動が多くなるでしょうから、地理感覚がつかみにくいですよね。我々が東北や新潟に行く際に地続きで行かないので、距離感覚がつかめないのと同じだと思います。
ttps://twitter.com/kankimura/status/775156122520997888
ttp://archive.is/Vdl5O
木村幹氏がgudachanのまとめについて以上のように反応しました。
6大都市という言葉にこだわって仙台と広島どちらが上かという話にそもそも意味がなく、
居住地域によって感覚も異なるので大した意味はないという指摘で、これはまあもっともな意見でしょう。
しかしgudachanにとって自分の主張を否定されることは人格の否定に等しく、到底受け容れられるものではありません。
仙台は発展しているとツイートしたら、面識のない「朝鮮研究学者」が、挨拶もよこさずに本人の感知しないスペースで冷笑を繰り広げて呆れた。この朝鮮研究学者は「東国」と言う言葉を用いて、仙台の発展を否定しようとしていた。これは完全にレイシスト、差別主義者の発想ではないか
4:22 AM - 13 Sep 2016
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775655913021542400
ttp://archive.is/REabK
Togetterのurlを貼ってその内容について感想を述べる、という当たり前にされている行為が、
gudachanの脳内で「挨拶もよこさずに本人の感知しないスペースで冷笑を繰り広げ」に変換されました。
「自分の主張は多くの人間に共有してほしいが、否定されることは我慢できない」という彼の自意識によって、
木村氏の特に何でもない感想すら「冷笑」に見えてしまうのが涙を誘います。
異なる意見を持つ人を尊重せず、表だって物を言えない陰口みたいな悪意をぶつけるのは匿名のネット原住民の常識ではある。しかし、一般社会になじむものではない。だが、Twitterを見ての通り、ざんねんなことに人文学系の学者には「逆張り冷笑系ネット原住民」は大勢いる。レイシストはクソだ
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656161953452032
ttp://archive.is/tT83X
なぜこれをレイシストだと気付いたかと言うと、私は数年前にネトウヨが「東夷が」と言う煽り・罵詈雑言表現を用いているのを、ネット原住民の総本山の掲示板のマトメ記事で見たことがある。こういうのは普通に考えてFacebookのコミュニティや昔の個人運営掲示板では一発退場である
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656428853874688
ttp://archive.is/xtkX1
関東一円を指して「東国」と言うことと関東や東北の人間を「東夷」と罵ることにはかなりの差があると思うのですが、
批判には反論ではなく相手の態度や言葉遣いを問題視し人格を否定するという習性のあるgudachanが今回なんとかひねり出したのがこの理屈です。
Twitter運営は相手が学者だろうが、こういうレイシストを排除するような仕組みを作るべきだと思う。普通に考えてほしい。2016年の日本で「東国」なんて言葉を使うのは学者だけだ。日常表現ではない。学者だからこそ知っている言葉を、悪意ある用い方をするのは、卑劣。学問の侮辱でもあるね
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656711659008000
ttp://archive.is/J7KTY
そしてこの「東国」には古来、百済からの渡来人がやって来た歴史がある。朝鮮学者だから知っているのだろう。知った上で悪意ある表現をしているのなら、それは「自称朝鮮の専門家」である桜井誠のそれと何も変わらないと思う。「東国」と言う言葉を用いて、仙台の発展を否定するレイシストはヤバい
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775657148747427841
ttp://archive.is/sFtjr
俺が嫌いなのが、こういう露悪「ユーモア」なんだよね。こいつらにとっては薀蓄こじらせたような悪意ある冷笑や逆張りがジョークか何かのつもりなんだよね。どう考えてもただのヘイト。俺が「朝鮮女子」をずっと問題視しているのもこれですよ。当事者に対するリスペクトがない。その逆しかない
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775658792792887296
ttp://archive.is/AnxNb
面識のない「朝鮮研究学者」は本当は何の変哲もない、そのへんの中小企業のオヤジかもしれない。何とでも自分を偽れるのもまたネットだから。ただ、俺が厄介だと思っているのは「東国」と言う言葉をことさら用いることで在日朝鮮人差別が増幅されることですよ。レイシスト一人のことはどうでもいいがね
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659223329878016
ttp://archive.is/ZH88b
社会への拡散力。これが恐ろしい。だってそうでしょ?在特会作った人だって元はNAVER掲示板のトロルじゃないか。NAVERの季節の話題専門のHOT掲示板(だったと思う)で運営の設定するテーマを無視してずっと歴史や領土について書き込んでた奴が、今や日本最大の極右勢力だもん
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659498308407296
ttp://archive.is/MAKQ9
朝鮮の専門家であれば関東大震災当時、在日朝鮮人虐殺があったことは知ってるはずです。そしてその虐殺に巻き込まれたのは東北人も多かった。つまり大和民族で日本人であっても関係なかった。「東国」呼ばわりは極めて危険だぞ。俺の先祖も東北人だからこれは許せないね
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659969345490944
ttp://archive.is/ibkgj
「東国」という言葉を使うことは在日朝鮮人虐殺に繋がることであり許せないとのこと。
いつの間にか木村氏は在特会に匹敵するレイシストということになったようです。
「東国」が問題であるならばgudachanが日頃使用している「裏日本」なども問題になる気がしますし、
前回の「地方人の分際でなんでそんなに偉そうなんですか」などはどうしようもないのでは?と思わずにはいられません。
女性に虐められる男子なんているのかなあー。日本は女性が男性に酷い扱いされる国。逆はないはず
おかゆ @okayu_desert
女性嫌悪・蔑視と萌えアニメ好きが結構被ってるあれはなんだろう。いや俺も萌えアニメはよく見るし、若い女性が近くにいると発汗して息が詰まるけどさ。やっぱ小中学校時代に女子にイジメられたり、陰口を叩かれたりした記憶はなかなか消せるもんじゃない。それを拗らせるとミソジニーに発展する。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769100353266716672
ttp://archive.is/YAbIc
gudachanは勝部元気氏に多大な影響を受けているのはご存知の通り。
リプライありがとうございます。でもそれってよくあるいさかいのレベルじゃないでしょうか。「女子=陰湿」みたいな性的な決めつけに繋がる発想だと思います。私は小学生の時も中学生の時も女子生徒とふざけあっていましたよ
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga ぼくは小学校時代に女子に虐められてました。男子と違い肉体的な暴力ではなく言葉の暴力とかですね。中学のときも一時的に裏で悪口を言われたりだとか。特に理由はなくて単純に「顔がキモイ」とか「暗いから」とかです。もちろん社会的には女性のほうが抑圧されています
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125069498888192
ttp://archive.is/wYfBZ
「女子からいじめを受けたことがある」と言っている人を「よくあること」と一蹴するgudachan。
本当のイジメというのは、力関係によって生ずるものです。これはレイシズムとかも同じですが、関係性が不均衡であるにもかかわらず、劣位の側が優位の側を凌駕して苛めるというのは到底可能性が少ないです。「痴漢冤罪」と一緒で。皆無ではないですが
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga 少なくとも「逆は無い」と断言するのは早計です。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125486106546176
ttp://archive.is/TUNRf
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125870330011648
ttp://archive.is/8v30X
たとえば同級生にキモイ奴がいればいじるのは普通の小学生のよくあることじゃないですか。自分も囃し立てる側にも、言われる側にもなりましたよ。クラスみんなを煽ったこともありますし、みんなから口を聞いてもらえなかったこともあった
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga 「女子=陰湿」だとは思いませんが、ぼくはまぁそういうイジメを受けたことはあるってことです。あとイジメを「よくあるいさかい」などと言うのはおかしいですよ。やられた本人からすれば生涯に渡ってトラウマになるレベルです。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126144683618304
ttp://archive.is/aiEXZ
そういうことは誰しも経験あるんですよ。やはり女子生徒が、男子生徒を一方的に標的にし、いじめをするということは、構造的に不可能だと思うので、よく自分の経験を見つめ直すといいと思います
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga 「女子=陰湿」だとは思いませんが、ぼくはまぁそういうイジメを受けたことはあるってことです。あとイジメを「よくあるいさかい」などと言うのはおかしいですよ。やられた本人からすれば生涯に渡ってトラウマになるレベルです。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126409352556545
ttp://archive.is/P07pJ
本当に酷いいじめのある学校もあるとは思いますし、田舎は酷いということを、私は地方都市出身の同級生から聴かされたりしましたが、それでも加害者は男子で、被害者は女子であることが多いです
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga よくあるレベルだからいいというものではないです。イジメという行為を矮小化するのはやめましょう。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126636595752960
ttp://archive.is/AOo7j
自殺などの深刻な事案もありますから、いじめはなくすべきです。理想は根絶。現実は難しいけど。それは人種差別と同じなんですね。そこは私もよくわかりますよ。でも女子は男子をいじめることはできません。絶対に
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga よくあるレベルだからいいというものではないです。イジメという行為を矮小化するのはやめましょう。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126838748614656
ttp://archive.is/nG0Qh
なんというか、女子にとって不快な男子生徒がクラスにいれば気色悪く思うのは当然のことで、それが自分に投げかけられたなら、自分自身の自己改善をするべきだったんではないでしょうか
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga いえ不可能ではないでしょ。事実として私は5~6人からいじめを受けました。学校、もっといえば教室という限られた空間なら「不可能」ではないです
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769127605551280128
ttp://archive.is/wtvNO」
いじめを受けたと思っている者に「お前が悪い」と言うのは端的に言ってセカンドレイプに類似する行為なのではないかと思うのですが、
勝部流フェミニズムに心酔しているgudachanには理解できません。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769128262798757888
ttp://archive.is/kPZps
確かにいかなる理由があってもいじめはいけないですよ。でも関係性の違いによって、優位のある側が劣位にさらされる側に対してあるべき振舞いとか、改善の努力までは否定できないはずだ
おかゆ @okayu_desert
いじめ被害者に「自己改善」を求めるなど、「自己責任論」の一種でしかありません。「被害者が悪いから加害がある」など加害者側の自己正当化にすぎません。とにかくいかなる理由があったとしてもいじめは絶対にいけませんよ。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769128803201277952
ttp://archive.is/lzVlN
もちろん私は顔がキモい人や暗い人も尊重される社会の方がいいと思います。また、子どもにとってのいい加減なものの見方で誤解があった可能性もありますが、いずれにしても、大人になった今まで引きずることではないですね
おかゆ @okayu_desert
「あるべき振舞い」とか「改善の努力」とはいったい何のことでしょうか?私がいめられた理由は主に「容姿」だったわけでして、そこに「改善努力をしろ」と言われてもどうしようもないです。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769131235272560640
ttp://archive.is/kexgK
お気持ちは十分お察ししますが、一方的な被虐の前に、まず「あの頃の自分」を振り返ることが、暗い過去と決別する第一歩だと思いますね~
おかゆ @okayu_desert
@bonchacchanga 幼少期に受けた心の傷は一生掛かっても消えるものではないです。「引きずることではない」など他人にそう簡単に言っていいものではないです。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769133168767094784
ttp://archive.is/MG7DP
嫌なら一発「やーめーてー!」って言えばいいんですよ。なんで言わなかったんですか?
おかゆ @okayu_desert
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769133375562977281
ttp://archive.is/EM2qg
絶対に構造的にありえない「女子生徒の男子いじめ」について、そんなのおかしいと声をあげると「セカンドレイパー男が性的被害にあった女性に投げかける言葉と同じ」と言われるんだからすげーな
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769138394014232576
ttp://archive.is/gWiXW
gudachanにとって自分の考えは絶対なので何が悪いと言われているのか理解することはできません。
一連の発言にこちらこそ「すげーな」としか言いようがありません。
このおかゆさんは基本的にリベラル風で正しい考えをしていそうなだけに、女性と男性の力関係をご理解いただけないのが大変残念である
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769140830279917569
ttp://archive.is/GLizg
たとえば合理性がなくて無駄が多い女性もいますね。でも、いじめをする女性はいませんよ。できないんですよ
おかゆ @okayu_desert
いや人の性格なんて人それぞれでしょ。特定の属性に「この性格の人はいるけど、あの性格の人などいない」って、それこそ差別的でしょ。
ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769141798853685248
ttp://archive.is/7SuRi
おそらく、gudahcan本人は自分が差別的な思考をしていること、本人が批判しているネトウヨと同じ思考洋式であることに全く気付いていないのでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20130706163318
それではまたどこかで。
世の中には、気持ちよく反論をする、あるいはよどみなく自説を述べることで自分をより論理的(な風)に見せるという目的のために、批判対象の議論を勝手に矮小化し単純化する輩がいる。
「冷房はつけっぱが良い」という話は、ただ「つけっぱの方が電気代が安くなった」という話だけでなく(諸条件によってはこれもありうるが)、「変に我慢して暑さが頂点に達するまで待っても、暑くなったところから一気に冷やすためには涼しい時間帯からゆるゆるとつけとくのと『同じくらい』電気を使う」(我慢するだけ損/不健康)とか「さらにその場合最高出力を全世帯で同時刻にかけることになり『ピーク電力』が上がる」とかのデメリットも勘案しての話であり、詳細は自分の状況に応じて考えようという程度の「提案」である。
しかるにこれら議論を全て捨象して単純に「エアコンつけっぱで電気代が安くなるわけないだろ」などと言い捨てて得意げな奴らが大量に発生した。
似たような事象は数年前「朝バナナダイエット」に注目が集まった時にも見られた。
これは本来「カロリーコントロールをすべきだ/したい」という目的意識と意欲があるものの、「では具体的にどこから手を付けよう」というところがわからない、もしくはそこを研究している時間がないという「意識は高いが忙しい層」に向けて、朝食をバナナに置き換えると「総カロリーの抑制」「朝食は抜かず、一日の活動に支障がない」さらに「食物繊維も取れてなお良し」ですよという考え方のヒントを与えたものに過ぎない。
「バナナを食べれば食べるだけ痩せる」なんて話はどこの誰もしていないのに、勝手にそのようなものの様に決めつけて「反論」し、気持ちよくなっている猿が雨後の筍のように現れたものである。
節電やカロリーコントロールといった生活の知恵に限らず、大抵の知識やテクニックとはこういうものである。
絵描きに「どうすれば絵がうまくなりますか」と質問すると、「デッサンをすると良い」とか「模写をする方が早い」とかいろんな答が返って来る。
結局は人の数だけやり方はあるという事だが、一点だけ誰が何を挙げている場合にも共通する前提がある。「それら練習を通して、自分の絵を客観的に反省し、描きたいもののイメージを鮮明に思い浮かべられるようにしろ」ということである。それをいちいち言葉にしないのは、それこそが「絵を描く」ということに他ならないからである。「絵を描く」ことをしたいと望む人間が、その時点での自分の技術的問題点を認識し「こういうところをもっとうまく描きたい」という問題意識を持って『いない』とか、「構想段階でもっと良いアイデアがポンポン出て来ると良いのに」という野心を持って『いない』とかいう事は、そもそも想定する必要すら意識に上らないからである。
にも拘らずこの場合もまた、現れるのである。その程度の常識的な問題意識も持たず、「デッサンをやってもうまくなんてならないぞ!詐欺だ!」なんてことを言い出す連中が…
おおよそ全てのアドバイスやティップスと呼ばれるものは、「問題意識」が相手にある事を前提に、その「問題意識」に取り組むとっかかりのヒントを与えるだけのものであって、問題意識の有無に係らず万人に適用可能な、ただああしろこうしろという指示のままにエスカレーターに乗っていれば勝手に問題が解決されていてくれるような、甘ったれにありがたい『完全な答』を教えてくれるような神様仏様はこの世に存在しないのである。
しかるにその程度のことも、人生十数年か何十年か生きてるのか知らないが、理解できないくそったれの甘ったれが世には溢れている。
あまつさえ、そうやって自分に問題意識がないだけのことを逆に笠に着て、問題意識のない自分にもすぐにご利益を与えてくれるドラえもんとはなれないアドバイザーをかように「論破」してみせたり無能呼ばわりしたりする。
自分では「頭の良い俺が不完全な証明を喝破してやった」なんて悦に入っているが、何の事はないただ自分の中に問題意識が足りなかったために相手が役に立つ話をしているのが何も理解できなかっただけである。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」とはよく言ったものだ。
実際は、動かないどころか、そんな自分を正当化し、あまつさえ相手より有能な人間かなにかの様に錯覚し出す。そうして誰にも「論破」されない全能感を、何も『しない』ことで肥大化させ続けるというアクロバティックを通り越してもはや永久機関的ですらある自己完結に至るのが真に無能な輩の生態なのである。
考える脳味噌のない連中ほど、自分の頭が良いものか何かのように思い込み、考える脳味噌がないゆえにその状態の矛盾にも気づかずますます確信を深めていく。
自分から動き、問題意識を蓄え、種々の知識がその問題意識を解決しうるものかという観点のみをもって議論し評価する、ということが出来ないのはただの前提条件に達してすらいない無能中の無能なのである、ということを、この永久機関の中に引きこもった連中が理解する日は来るのだろうか。
これが理解できない人が多すぎるようにみえるから、ネットは醜悪だ。
「作品Bなんてクソ作品を評価する時点で味音痴」みたいなマウントをする人。
好き嫌いや美醜の感覚は、正しいとか間違いではない。絶対的な評価はない。
そこに多数派少数派という概念が加わっても、一方が正しくなったりはしない。
何かを好ましく受け取る感性は、その人がそれを好ましく思える生き方をしてきた故だ。
その生き方はあなたの人生とは違うし、想像が及ぶものではない。
だからそこで、多様性を尊重してデフォルトで敬意を払わなければならない。
それが出来ない人は、おそらくこういう話を無意識に矮小化しているのだろう。
生き方の違いは、たんなる「個性の違い」で理解される範囲にとどまらない。
年齢の違い、性別の違い、経済環境の違い、容姿など体質的素地の違い、
それから来る、特定ジャンルに対する問題意識の高さの違いなど、多岐にわたる。
それぞれが複雑に差異を抱え、感性を異にしながら人生を紡ぎ上げていく。
ぱっと見「刺さる」層――セグメントが他者から見ても分かりやすい。
けれど今の時代の映像芸術は特に、セグメントがわかりづらくなっている。
むしろ、作り手の側も、わざとセグメントを複雑怪奇に設定する。
幼稚に思われがちなアイドルや特撮ものは社会派で意識高いテーマを内包する。
そして尖った作りを受け止めてもらえる人を探るような野心作がヒットする傾向がある。
だから「自分には合わない」「思っていたのと違う」作品を鑑賞する機会も多くなっている。
「楽しむための作法」を吸収していける人ならばなにも不幸はないだろう。
一方で、そうでない人もたくさんいる。
けれども、本稿で述べてきたことに想像が及ぶなら、
そして、次のことも同時に分かるはずだ。
さもなくば、安易に作品を「取るに足らないもの」と捉えてしまう。
それは、クリエーターに対してだけでなく、すべての他人に対して「侮る」姿勢だ。
そんなサイクルに陥っている人が、周囲に当たり前にいる。
そういう状況が、あまりにもネット上で普通になりすぎているのではないか。
ネットで見られるのは「批評」という皮をかぶせた「作品侮蔑」ばかりだ。
作品を理解するには、まず表現者の思想に寄り添わないといけない。
なぜなら、作品を出すことは、とりもなおさず思想の表現であるからだ。
思想というのが堅苦しく感じるなら、美意識や価値観と思ってもいい。
そんな大層なものが込められていなさそうな、フェチの塊みたいな
娯楽作品であっても、そのフェチの詰め込み方などに表現者の思想が表れる。
そういうものにまずは理解を示してみる姿勢がなければ、よさを感じ取れるはずがない。
それだけではなく、
表現の技術的価値や制作背景、時代背景なども織り込まないといけない。
莫大なエネルギーと解読時間が必要なのが「批評」という作業であるので、
「ふつーに面白さが分からなかった、繋がりが変、あの描写は変」
自分のネガティブな受け取り方をネットに排泄したくて仕方ない人がいる。
あるいは、断固として自覚はせず、マウントにマウントを重ねて、
「作品が好きだからこそ叩く」とか理由をつけて、作品に寄り添う気すらない
「オレ好みの『正しい』展開」的なものを主張し続ける人もいる。
そういった、他人の作ったものに乗っかって文句を言うような人のために
ネットがあるのだろうか?
今のネットは、もう「便所」ではない。
それならまだログの残らないリアルで友人相手に暴論かました方がいい。
この先人気をあつめるだろうと思う。
というよりも既に、人気のYoutuberなどを見ると、彼らは例外なく
ネガティブ感情を生むような物言いは華麗に巧妙に避けている。大人である。
こういうネットをディストピアだと思う人もいるかもしれないが、
今のところは、順当な変化だと感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
増田の文章は、怪獣映画を観たはずなのに画に対する指摘がひとつもありません。また、映画を観てそれを批判しているはずなのに、他の観客の意見・考えを想像で腐したり、増田が説明できる「ストーリー」について言及しているだけ。そしてその「ストーリー」が物語の「設定」に左右されるという認識も抜け落ちている。これははっきり言ってピント外れのたわごとで、他の観客に文句言ってるけど果たしてどっちがちゃんと映画を観てるんだかと思います。
ストーリーというのはなにも唯一絶対の正解があるわけではない。そして完成されたストーリーや端正な展開、隅々までコントロールされたお話は、実はスケールの矮小化を産む。例えば毎回起承転結が明確だったり意表を突く展開を繰り返す大河ドラマには、普通は大きなスケールを感じ辛いはずだ。
そしてシン・ゴジラは「怪獣映画」。これは、普通の映画と最も違う点だ。しかも古今東西世界一の「怪獣」の映画だ。スケールがケタ違いに大きい。言葉で書けば、米軍が出動して怪獣にやられるというそれだけのものだが、画面では筆舌に尽くし難い圧倒的な破壊が描かれている。そこにカタルシスはないの?
増田のいうようなここぞというときに気の利いた逆転アイディアを思いつくなどの小手先の展開が「日本や世界を滅ぼす怪獣映画」のフィナーレのカタルシスにふさわしいものだと本気で思うの?フィクション鑑賞時のルールという言葉を持ち出してるが、怪獣映画のルールというものは考慮しないの?
また、ストーリー構造について、わざわざ「からの喪失」という言葉を使ってるけど、これは普通「最大のピンチ」と言われる。ミスリードしてより狭いストーリーの型にはめようとしてるが、世界一の怪獣が出てくる映画において、チーム数人の人間の行動から生まれるピンチを見せるのと、世界の情勢からこの国において三度目の核攻撃を受ける可能性を愚直に堂々と持ってくる展開、どちらが最大のピンチにふさわしいのか。小手先で解決方を思いつくのと、巨大なプロジェクトとして解決方を提示した上でその成立過程を長時間見せる展開、どちらがふさわしいのか。
増田は「流行りに反発する俺カッケー」ではないかもしれないが「ストーリー構造の解説できる俺カッケー」の気はあるのではとは思う。
ストーリーに難がない映画だとは思わないし批判もどんどんするべきだが、ストーリー構造にこだわりすぎるあまり、「怪獣映画」という基本にして最大の設定に対する考えが抜け落ちているのは残念すぎる。そこを理解しないで批判をしてもピントが合うわけがない。AVに対してどんでん返しがない、と批判するようなダメさだと思いました。
この2つのバンドはヒップランドミュージックという同じマネージメント事務所に属しているんだけど
両者はメディア露出に対するバンドの考え方のトレンドを変えたバンドであると思う。
サカナクションのライブをテレビで見たのをきっかけに、バンドを聞くようになった人間。
といってもそこまでディープではない。
一年前からTSUTAYA DISCASで新旧問わず月に4枚CD借りるという
そういうわけで、日本のポピュラー音楽を聞きはじめてから日が浅いので、
で、最初の話に戻る。
バンドのメディア露出に対するトレンドを作ったバンドであると思う。
※追記
ブクマで、スペシャ(スペースシャワーTV)のライブ中継の時に視聴者に言った言葉との情報を頂いた。感謝。
バンドがテレビに出ない美学がバンドシーン、ひいては音楽シーンの衰退に繋がった。
http://natalie.mu/music/pp/sakanaction04
BUMPの藤原の発言の意図は当時の音楽シーンに詳しくない自分は想像するしかないのだが、
音楽と商業が結びつきすぎていて、音楽が音楽でない評価のされ方をしている
ヴィジュアルやルックスで音楽が評価されることを嫌ったのだと思う。
そんな感じか。
音楽の純度を高めたい。そんな感じ。
※追記
ブクマで教えて頂きました。横山さんのテレビに出なかった理由とか書かれていて(その日自分はMステ見てなかったけどツイッターが騒いでたのは覚えてる)、
一方でサカナクション。
アルクアラウンドというMVなどで知名度をあげてきた(あと大手フェスでのヘッドライナー)
インタビューを読んでみればわかるように、Mステ出たり、紅白出たり。
総合芸術というワードがサカナクションに対して使われたり、裏方の仕事やスタッフを紹介したりと
音楽だけでは勝負しない、というのがサカナクションのスタンスであろう。
(ちなみに山口はファッションと音楽の乖離を嘆いてNFパンチというテレビ番組まで作ってしまったが、自分はバンドがテレビに出てこなかったからそういうことになったのだと思っている)
テレビに出ない、テレビに出る、というバンドの大きな流れを作った2つのバンドだけど
個人的には、
音楽を音楽として純粋に聞いて欲しい、というBUMPの方が共感できるし、
正直、ビジュアルと音楽が結びつくとイメージが固まってしまうところがあるので、
嫌だと思うのだけど、まぁ個人的意見。
実際サカナクションはイメージの固定化前提、イメージを作って、
ビジュアル的要素を音楽とパッケージ化して売ってるわけだし。確信犯(語句の使い方違うな)。
(でもファッションと音楽が結びつくと、変に威張って排他的なやつが出てくるので社会の空気が窮屈になるな、とダサい人間である自分は思う。自分みたいな奴がファッションを抑圧してるという自覚はある)
メディアの使い方は悩んでるんだろうなって思う。SNSも含め。
テレビに出ないのと出るの、どっちが正しいかという話でもないし。
音楽を汚したくない、という思いは一緒だろう。
音楽の楽しみ方は人それぞれってことで。
ちなみに個人的な話で閉めさせていただくと、
ドーム行きたい。
http://anond.hatelabo.jp/20160604173035
上掲の雑文についたコメントの中に、「自分も『聖書』と『資本論』を読んでみたい」というものがあったのですが、ガイド無しでいきなりこれらの本にぶつかると、誤読する可能性が高いと思い、追記させていただきました。
まず、『聖書』についてですが、これは新共同訳のものを普通に読んでもらえれば大丈夫です。スマホ用アプリの中に聖書が無料で読めるものがあるのですが、訳が古い(?)ため、分かりにくいです。
読んでいてよく分からない点があれば、各種文献に当たるか、詳しい人に聞くと誤読せずに済みます。私は『新共同訳 旧約聖書略解』をよく参照していたのと、牧師さんがYouTubeでやっている聖書解説をよく観ていました(布教活動みたいになるのでURLは伏せます)。
次に『資本論』ですが、これは読んでいると言うだけで偏見を受ける本なので、必要がないならあんまりお勧めはしません。
それでも読むという場合、注意点があります。それは、『資本論』は全3部が有機的に繋がった本だということです。第1部で残された謎が第2部第3部で解決されたり、また、その逆もあったりするので、注意が必要です。読む場合はきちんと第3部まで読み通さないと、確実に誤読します。
この点、『資本論』をいきなりそのまま読んでも挫折するので、多くの人は入門書か解説書の世話になるかと思います。こういった本の中には、残念ながら、著者が第1部しか読んでいないと思われる本が多いです。第1部だけ読む場合、『資本論』の意義はきわめて矮小化されてしまいますので、第3部まで解説された(つまり著者が全ての体系を押さえている)本を選ぶのが肝要です。特に、インターネット上の『資本論』について書かれたサイトはほとんどこのたぐいのものなので、信頼しない方がよいです。
それと、私の表現が悪くて、あたかもビジネス本と『資本論』が同内容かのように思われた方が散見されたのですが、もちろん両者は異なります。そもそも書かれた目的が異なるので相違点を挙げていけばきりがないのですが、一つ言えることは、『資本論』は金儲けに伴うグロテスクな部分(ビジネス本の多くはこれを伏せているか、気付いていない)を明らかにしているところが大きく違います。
香りとかメロディとか、言語化しにくい感覚と記憶が結びつくと、その記憶が掘り起こされたときより鮮やかに感じる気がする。
職場で配るおみやげの話、なのだけどもう少し深刻な状況を増田が抱えているっぽい。これは増田名物「ぶっきらぼうだけど親切なトラバ」がついててよかった。
カットバックがわかりづらい。文体も凝ってる割に上手くないけど、なにか単純な言葉に還元できない情感が漂う。
→消えてた! 結構好きだったのだが……。と思ったら、ここにあった。この人が書いたということでいいのかな。http://radio.hatenablog.com/archive/2016/3
出産時のアクシデントの話。珍しくないとのことだが初耳だった。
野球選手としての清原のキャリアの振り返りと慨嘆。増田にはわりと珍しいタイプの記事と思う。
言うことはもっともではっきり言えば正しいのだが、増田はこのままで本当にいいのか。短すぎるってわかったんなら、なおさらもう一歩踏み出したりあがいたりしなきゃいけないんじゃないのか。
こういう世界もあるのかという感じ。いささか申し訳ないが、実に興味深く読んだ。
増田に多そうであんまりない風俗体験談(サービス受ける側)。たぶん多くの人が自分の性欲については自分が一番よく知っていると思い込んでいるけれど、必ずしもそうでもないこともあるということ。それを身をもって知れたのは快感そのものより重要な体験なのではないかと思う。
なにかが間違っていることはわかっているけどなにを間違っているかわかっていない、という感じなのかな。
イベントに罪はないけど組織や同調圧力とセットになるとクソになりうる、という話。増田の心意気は大いに買いたい。影ながら幸運を祈る。
軽妙な文章。なにか無責任な希望を漂わせるようなところがあって、読んでいて楽しくなった。この文体から繰り出される「彼ピッピ」にはやられた。
これで前に進めるのならいい話だと思うけど、読んだ感じまだ未練を引きずりそうな。でもそれもまた人生。顔を上げて進もう。
うーん。値段の問題はおいといても入口がわからない感じが圧倒的。知ってる曲が全くないように思えることが障壁かな。
自分の中の「小劇場系」の定義がかなり揺らいだ。とはいえこういう世界があっても不思議ではない。
少し本当らしさに欠けるが、言わんとすることはわかる、という感じの文章。
これは端的な正論、なのだけど、じゃあそれを埋めるためにどうすればいいかってことには簡単な解はないのだろう。
すごく丁寧な記事で記述内容に興味のない自分でも面白く読めたがまったくブクマつかず。まあそういうものかもしれぬ。
ここに書かれている自己分析が正しくないか、なにかまだここに書けていない理由があるんじゃないか、という印象を受ける。少なくともこれは嫉妬ではない。
増田の書き込みには国会まで届くものもあるという。この人の声ももう少し遠くまで届くといいのだけど。
正解はないし、取り返しのつかないこともめったにないのだから、その時思ったようにふるまえばいいのかなあ、とか。
これはかなりいいリスト。/よだれ多いたちだとスタイめちゃくちゃ使うんだよね(一日十枚とか)。安くてかわいいところあるといいよね。
セックスがらみの男女のディスコミュニケーションも増田には時々見られる。
→消えてた。
増田にはめずらしい追悼文。切れのいい文章でなかなか読ませる。トラバにもあるが、他の文も読んでみたいと思った。
これ微妙なところもあって、やっぱり内科が適切って場合も多い気がする。これは少し結果論に近い気はする。
謎のデュランデュラン再評価。テンション高いし、楽しそうですごくいい。かくありたいものである。
これはその通りだと思う。「異常」という切断は深刻さを矮小化させるおそれがある。
盛り上がった話題とは少しずれる視点なんだけど、面白い角度からの助言。
21XX年、日本人による乱獲によりクロマグロは絶滅の危機に瀕していた。
憶えておくと……別に得はしないかもしれないな。
まったく知らない世界の入口になりうる記事。増田に限らずこういう記事はよいものだと思う。
カノバレという言葉を知らなかった。熱量があって文章も上手いが一般性があんまりないという、増田向きの好文章。
これも文章が上手い(根拠はないが、直上のエントリと同じ人だったりしないだろうか)。たぶん日本のどこにでもありうる風景と雰囲気をきりとった好文。
知見の共有的にリンクしておく。
マジレスするなら、そういう人はいると思うけど、めぐり合う確率は低いだろう。それでも人を好きになっていいと思うし、いろいろ心配するのはその後ではだめか。
こういうのって難しいし必ずしも直接役に立たないかもしれないけど、誰かの小さな一歩のためのきっかけぐらいにはなるかもしれない、みたいなことを思う。
そう来るのかよ、の六行増田。
「主語が大きい」「例外はある」という批判を頻繁に見かけるけど、もとの文章を書いている人は主語が大きいことを自明のものとして書いているんじゃないの?
例外をあげて行くときりがないから、例えば、一般に「男はこうだ」「女はこうだ」(男女の話が解りやすいから具体例として挙げるけど)、ってしてるんじゃないの。
こういう例外があるよ! ばかり言っていてはなにも論じられないのではないか。あるいは議論が矮小化しやしないだろうか。
少なくとも「主語が大きい」批判をする際には例外が「どの程度ありうるのか」という可能性の頻度にいたるまでを示すべきだろう。
それが「主語が大きい」への最大の批判になる。だいたい「主語が大きい」主張ってのは主語の大きさに対して具体的なデータを用意していない。印象論だから批判が生まれる。
その批判は、ただ例外がある、という指摘では片手落ちと言うか充分ではない。どのようにどのひんどで例外があるのか、まで論じることで、初めて主語が大きい文章への充分な批判になる。