オカルティック・ナイン。視聴者がすごいと言うより、選民感を感じさせる作りになっているなと感じる。
シュタゲもそうだったが、まず最初のキャラ造形でふるいにかける。どんな人がふるいにかけられるかというと、偏屈で器の小さい人だ。煽るような表現をして申し訳ないけど、まさしくそう思うのだから我慢して欲しい。オタクにはそういう人が多いだろうから、1話切りする人が相当いただろう。
典型的なふるいだなと思ったのが、ネットスラングを多用するキャラがいること。ネットスラングに日常的に触れていて、ネタを理解できる人のうち、反応は2つに分かれる。
「あーハイハイ、クッサ、そういうのマジ勘弁」みたいに受け取る人と
「あーあるよね、そういう人もいるよねウフフ」みたいに受け取る人。
前者は、どちらかというと本当にコアなネット文化の理解者というよりは、にわか感がある人に多い気がする。例えば、にわかファンがよりにわかなファンを叩く光景と同じ原理が働くのだろう。つまりは、自分が理解者であることを自負したいから、他人が理解を表現することを脅威と感じたり陳腐に感じたりする。肥大した自我を守るために他者を矮小化するのだ。もしくは、自分では同族と思っていないかもしれないが、同族嫌悪の感情。いずれにしても、器の小さい人間のすることだ。
本当に理解が深い人は、他人の表現についてもどっしり構えて心静かに観察することができて、いたずらに攻撃的になったりはしない。ネットスラングへの造詣が深かったとしても、自身は現実でもネットでも一切スラングを使っておらず、おくびにも出さないタイプが多いかもしれない。要するに、理解を、自己と同一化していない。自己のステータスにしないしアピールもしない。だから自己と他者を「○○を理解する人/しない人」みたいに分けてマウントするようなことがない。結果として、どんな表現もフラットに受け止めやすい。創作となれば尚更だ。
中高生のころなら、そういうラベリング合戦に執心して見えない敵と戦っていた人も多かろうが、ある程度おとなになると、普通はしなくなるものだ。そう言いつつもこの文章自体がラベリング合戦同然の青臭さを帯びていることについては、見逃して欲しい。私もおとなになれなかった大きな子どもであり、自己矛盾型キャラなのだ。
さておき、作品全体が例に挙げたようなスラングのノリで構成されているわけではない。巨乳の電波系少女を出してきて、イチゲンさんに下品な萌えアニメかと思わせる部分もそうだ。結局それらは、重苦しい世界観を覆い隠すための、しかもそうである必然性が後々わかってくる類の仮面にすぎないのだ。
シリーズのファンであればそのことを重々承知しているので、ああいった初見バイバイな描写に惑わされることはない。けれどそうでない人にとっては、これでもかというほど辟易させる要素が詰め込んであると映る。特にマトモぶった偏屈な人ほどそう感じ、嫌悪感を抱きやすいのではないかと思う。
主人公がウザキャラで、アフィやニート属性であることもひっかけポイントだろう。これらは、現実ではネットほど非難される対象ではない。ネットの卑しい思考回路に染まっている人ほど、これらを執拗に叩く傾向がある。経済を理解している一定層以上の人間なら、アフィリエイト行為自体を叩いたり嫌悪したりはしない。やり方が悪いアフィリエイターが跋扈していることは事実だとしても、アフィ自体を嫌悪の対象にすることはむしろ危惧すべきものだ。ニートに対しても同じ。彼らは時代の産物であって、自己責任論で叩くべき存在というよりは、社会が救済すべきものだという認識が基本だ。そもそも作中の主人公は悪質なアフィリエイターでも、見放されるようなニートでもないので何も嫌悪する要素がない。むしろ可愛らしいものだ。
さらに言えば、忙しく目まぐるしいテンポ、伏線を匂わせる描写の密度が、一般的な作品と比較すると異常な域にある点もそうだ。テンポについては、ネットでは早口だと揶揄される。だが視聴していくと、この作品はむしろこのくらいのテンポが相応しいように感じられるだろう。それでも時折不自然なほど早口だと感じる部分はあって、そういう不自然さがどうしても許せない人がネットには多い。けれどインタビューによると、キャストもその部分には面食らっている。制作側もそれを理解していて、1話台本の冒頭に、どうしてこういう早口な演出が多用されているかの解説があったらしい。そこの部分は視聴者の我々が窺い知ることのできない所ではあるが。
ともかくネットというのは悪意的な見方の人間の声が大きくなりやすい。そして、クリエイティブな制作者に対する声も含め、他者への敬意や謙虚さが微塵もない罵詈雑言が並べ立てられている。そうしたものに思考を汚染され、流されてしまわないためには、実際の制作者やキャストの声を聞いて、かける思いを汲み取ることが重要だ。それはどのアニメ、どの映像作品にも言えることだが、オカンは特にそれが求められる作品だと感じる。
あまりにも密度が濃いので、結局大風呂敷を広げただけで伏線を回収しきれないんだろ、と馬鹿にする声も聞く。しかし10話までみてきた印象としては、かなり綿密に練られている。最新話をみるたび過去話を見返していくと、膝を打つような発見、「そういうことだったのか!」がそこかしこにある。だが、「どうせ回収できない、ご都合主義だ」と侮る声を発する人を納得させることはできないと思う。そういう見方をする時点で全てのフィクションはスポイルされると思うが、それに加えてオカン特有の事情がある。おそらく、アニメ単体では全ての事実は明らかにならない。コミック版は12話からアニメとは別のルートに入ったという告知がされている。アニメは2巻まで出ている原作ノベルを圧縮した内容ではあるが、すでにノベルの先の展開を描いている。アニメ展開に合わせたように発売日が延長→未定となっているノベル3巻もアニメとは別のルートに入る可能性が高い。つまり各メディアを律儀に追っている人ほど、全容を知れるという仕掛けになりそうだ(なんてうまい商売なんだ)。
けれども裏を返せば、そのへんの事情を知らないライト層には不完全な作品と取られる恐れもあるわけだ。そういう整合性に異常に執着するアニメファンは、爆死だなんだと言うだろう。それを見越していながら突き進むスタイルは、ある意味でロックな姿勢ではある。一方でそういう側面こそある種の信者ビジネスの肝だなと冷ややかに見ることもできるが、ストーリーの内容が内容だけに、楽しむことが好きなオタクならばシャレを効かせたメタ展開だと笑って受け止めるだろう。その八福神の会だか300人委員会だか分からないが、自分もそっち側に入信して、賤民には知り得ない真実に辿り着こうではないか、なんてノリにもなるというものだ。
思うに、大ヒットする作品というのは多分にカルト的要素を含むものだ。オカンにもその素地があると感じる。ラブライブにしろ、ガルパンにしろ、エヴァでもガンダムでもいいが、ああいった作品のファンは宗教的なところがある。単に作品が魅力的だというだけではなく、作品に思想が込められていて、そのメッセージ性がいわば「教義」となり、観る人を感動させ、伝播の原動力となるのだ。作品を観ることで、その教義を受け取り、コンテクストを共有する。その域までたどり着いた人はまさに信者であり、選民となる。往々にしてひねくれた演出、尖った演出の数々は、その選民感を増幅させるのに有効に働く。けれど、ついていけない人には、真逆に働く。
よく、「ノリについていけない」とか「登場人物に感情移入できない」という文句を言う人がいる。そういう人はおそらく、メタな感覚で作品を眺めすぎている。無意識に作品の向こうに作者を透かしてみていて、そうやってみる作者のことを「こいつはダメだな、こいつの作品はいけ好かない」と思っていたりする。それで作品本体をまじめに見れなくなっており、雑念がなければ感じ取れたはずの感動を取りこぼしているのではないか。原作者の志倉千代丸氏自身もおちゃめな発言をするタイプではあるが、それも一種のペルソナを演じているだけであって、硬軟かき分ける技量がある懐の深い作家であることは原作ノベルに触れると分かる。だから仮に登場人物がイタくても、キャラ造形が古臭くても、それに引きずられて作品自体や作者をイタいと思うのは間違いだ。
感情移入ができないことを問題視するのも、そもそもおかしな話だ。感情移入ができる、というか、キャラクターの(言外にあらわれる)感情が伝わってくるから感動できる、良い、というのは分かる。しかし、それが分からない、キャラの思考回路が伝わってこないからダメだ、とはならない。異なる価値観とか多様性に対するスタンスについて説教するわけではないが、はっきり言って、そういう人は、自分と近しい環境で生き、近しい感覚・行動原理を備えた登場人物が動く作品しかまともに見れないのではないか。フィクションには強烈な個性を備えたキャラがよくいるものだが、ほとんどの場合、どうしてそういう性格になったのかは察せるものだ。はじめは理解しがたい性格のキャラこそ、大いに想像力を働かせながら読み進め、自分には無かった思考回路や価値観にたどり着く感動が得られるものだ。萌え日常系アニメのキャラならともかく、脚本があるストーリーもののキャラであれば、そうやって「キャラを理解する」作業はたいてい報われる。思っているよりもずっと。そういう作業を序盤で放棄して、「こんなキャラは理解できない、受け付けない、リアルじゃない」と決めつけ、あまつさえ「キャラの作り込みが悪い」などと作品のせいにしている人のなんと多いことか。読書や映像鑑賞は、実は読む・観る側にも作品世界に寄り添っていく想像力や積極性、クリエイティビティが求められるものだが、「消費する側」という立場になりきって選好を重ね、消費の達人になっていけばいくほど、傲慢で想像力を停止した人間になっていくものなのだろう。
難儀なものではあるが、志倉千代丸作品に限っては、さらに、彼がイケメンで曲も詞もコードも書けてオタク力も高い上に金持ち、という超人的な要素があるせいで、僻みも加わってくるのかもしれない。けれども、作品を鑑賞する時というのは、そういう作者がいけ好かないだとか制作会社がどうだとか、そういう世俗的な感覚は基本的に切り離しておくべきものだと思う。そういう感覚を混ぜることで楽しめるならまだしも、雑念になるのならばそれを排除する努力を(作り手ではなく)読み手側がしなければならない。それが創作に対し敬意を払うことだと思うからだ。
どうにもオカンの話ではなくネットのアニオタ批判になってしまったが、これからの時代、コンテンツを楽しむということは、イコール、ネットの俗悪な風評とは距離を置いた賢明で物静かな「選民」になることだと思う。別に私のように選民意識をちらつかせて下層の民を殴ることはしなくていいが、そういう衝突もどんどん表面化していくのだろうと思う。もっと短文で動物的な形になるとは思うけれど。不快だが避けられないネットの未来。そんな未来だとしても、それでも、日本のアニメは「刺さる人には刺さる」方向性で突き進むのが向いていると思う。誰もが楽しめる優等生的な作品作りはディズニーあたりのお仕事。「刺さる人には刺さる」コンテンツ作りの先端を行くオカンのような作品に触れられることを私は幸せだと思う。