はてなキーワード: 矮小化とは
最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。
先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界は科学だろう、という思いは変らない。
余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分が積極的にフォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体が不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。
あらかじめ書いておくと、自分の見解は、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」である。しかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。
なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。
3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリの左派な左巻健男が石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたかは想像に難くない。
元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なからず割合がただのウヨアカウントであり、人権問題に危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。
ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベースに意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的にニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。
こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報の割合的にはごくわずかということになる。
俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分である。デマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨとニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。
この層、とひとくちにいっても、いくつかある。
まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲の唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。
言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。
正義の暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。
一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑や偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。
ところが、ネットは理系の研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタやアニメ談義が話が合うという理由で高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。
これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである。
しかし、本来の意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想に親和性を持つのはまあ時間の問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分の観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。
そうすると、本来は関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。
(この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。
後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要なカテゴリーかもしれない。
ネトウヨの定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近の人間が大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベルの定義みたいなものだ。物語シリーズはラノベかとか三毛猫ホームズはラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。
しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供でももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間は京大生でなければ狂人である。京大生でも狂人かもしれない。
菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。
ジャンルは違うけれど、所謂「キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。
ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。
RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。
ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイートの文章そのものであるかツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言を属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意を判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。
さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイートを自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うから、ニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。
ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうのアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合は問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい。
でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。
「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。
それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。
2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。
ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン、水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。
このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来の意味も、日本で独自に派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団は原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。
よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学の問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題や法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。
「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である。状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタだけが受けるものではなく、左派がいちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。
こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。
先日ツイッターで問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。
経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。
ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。
なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字を勘定してイメージしやすい「ロジカル」なものだからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。
これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレで経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業は給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済が大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。
ここ10年くらいのインターネットの歴史は、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。
1970年ごろの学生運動家だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。
俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。
申し訳ないけどそちらの言う「公害問題と同じ」とか「この問題の本質」ってのは正直言ってよくわからない
ニホンウナギの絶滅や漁業資源の枯渇は公害問題のように地方や僻地に住まう少数市民の犠牲だけで成り立つものではないし、それ以前に漁業資源の保護の議論は日本一国だけで行われるものではなく、クロマグロ保全のためのWCPFCのように国際規模で行われてるもので、「公害問題と同じ」ってのは見方として乱暴すぎでは
消費者が消費者の立場で意思を表明すること自体はかまわないし、まったく結構なことだと思うけど、「悪は**で我々は被害者である」みたいに話を矮小化するのは議論を反って混乱させるだけでしょ
ましてや最後の
なんてのはまったく見当違いで、そもそもあらゆる国家の元首や権力者は常に市民を虐げてきたし、そうした圧力者に対応しうる力として市民たちによる一般意志が機能しなかったことなんてないから。
※まず根本の前程として基本的な平等が保障され多様性を是と複雑な世の中の方が望ましいと凡人以下な一個人としては思う
障がい者は別料金(割り増し)にすればいい
→お前は自分や親兄弟親族が生涯健康で健やかに暮らせるとか思ってるの?
航空会社はたかだかアシストストレッチャー程度すら用意できない程度の投資すらできないのかよ
→前提としして飛行機は勿論交通公共機関である。ただし空を飛ぶ乗り物で起きるトラブルはバス電車と比べて対処の困難さは一様に比較できるものなのか?
事故の起きた施設への投資面よりも、搭乗者の全員が車椅子利用者でその時考えうる最大のトラブルが起きたときに死なせずに助け出す体制を常に要求されるわけで
あと最後に昭和じゃないんだからあのパフォーマスせずに、車椅子で事前に飛行機利用問い合わせたら拒否られたで改善するには足りる程度に大炎上させただろうに
少なくない人数ドン引きて、対価としては非常に高くついたのでは?
極論には極論で返しただけ。
本音のところロリショタレイプはトラウマに近いし見たくないと思ってる(非人間的かどうかはご勝手にラベリングして結構)けど、これは論として酷過ぎるからね。
>誘発させると思った。
それは貴方の主観ですよね? 私の挙げた文芸作品や数多の思想、報道に誘発の可能性は全くないとでも?
>~影響があるのであれば~
そう、問題はこれ。ずっとこれが分からないから議論が続いてる。
>~賛成派になったのは~ネトウヨ~
影響のあるなしが問題なのに、反対派(の一部)が気に入らないから転向? 冗談言ってもらっちゃ困るよ。左翼にも反対派はいるしオタク(と呼ばれている人達)にも規制派はいる。この人ははどれだけ文献に当たったの? 論文は何本読んだ? その果ての懸念表明ならまだしも、ネトウヨがおかしいから規制して影響を与えた漫画家は責任を取って辞めるべきだって?
これこそ単なる感情論であって、子供の被害を防ぐ事とは少しも繋がらないよ。問題を矮小化して「あの漫画さえなければ」って考えはどんな思想や作品にも通じる。
だから私は吐き気がするほど嫌いな凌辱同人にもペドレイプにも何も言わないでいる。自分が嫌いだから規制しろなんて我儘過ぎると思ってね。だけど、この意見にはそれすらないでしょ? 嫌いだからではなくて、擁護している連中が嫌いだから、なんだよ? 真面目に返答をするべき意見かどうか、もう少し吟味して「非人間的」と断じて下さいな。
そうそう、余談だけど私は"個人的に"は、史上最も多くの人に影響を与えて今でも多くの殺人の一因になってるのがキリスト教の救世主で、その次がイスラム教の預言者だと"思ってる"。戦争の原因は、多分お互いに相手を規制しようとしたから。人間的な増田さんはその辺りはどう思ってるのか、ぜひ聞いてみたいな。
手法のオリジナルはクジラックス先生じゃないから…という論法、もっとも危うい。
本当にあった犯罪をもとに漫画にしたて、それも性商品としての漫画として
広く世に出してしまったのだとしたらセカンドレイプ、犯罪教唆、どちらの点からみても
表現の自由は守られるべきだが、ヘイトスピーチが許されないように
本当に男性目線で女からしたらAVの比じゃないくらい怖いコンテンツを守っているなんて。
二次元オタは本当に下半身で生きてるんだなって思ったし関わりたくないって思った。
萌え絵を見ると吐き気がする人の気持ちが痛いほどわかってきたわ。
追記:
なぜ被害者を矮小化して表現を肯定するのか、ということが疑問だと問うている。
擁護側のロジックはいじめを「遊んでいただけ」という雰囲気に通じるものがある。
みんなやってることだから、で野放しにしていてはどんどん世の中は悪くなる。
おれは本当にムカついている
あんなデタラメな計画を通したために、高額の学費を払わされた挙句モノにならずに放り出される学生と、高額の補助金を税金で負担させられるのに
まともな公務員獣医師の就業を期待出来ない今治市民が、本当に可哀想だと思うからだ
何故結果が出ることが期待できないか?
文科省の元事務次官は、これから開業する加計の獣医学部に配慮して「石破四条件を満たしていない」という言い方に留めていたのだろうが、はっきり言って、
あの計画書は、文科省の審査に掛ける書類としては下の下、問題外
新設した学部をまともに運営することは到底出来ないと判断されて当然のもの、と思うからだ
現に、こういった記事も出ている(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/206543?pc=true)
「文科省の反発は既得権益を守るためのものだ!」と言う人を見かけた気がするので言及しておくが、アレはそれ以前の問題で、文科省がこれまで行ってきた
大学行政で合格ラインとしているレベルを遥かに下回っているために弾いているというだけのことだろう
おれの中では、このロジックがあって初めて、「忖度」が出てくる
首相は何も言っていない、というのは本当だろう
問題は、官僚の中に「首相のお友達を優遇すれば人事で評価される」と考えるゴマすり野郎がいるんじゃないか、ということだ
何故そう考えるのか?それは、複数の記事で元官僚の人達が言及している通り、2014年に内閣人事局が創設され、官僚のクビを官邸が一切合切握るようになったからだ
官邸の方を向いた行政をすれば評価され出世が出来る、というように官僚の行動をシステム面で変えてしまったことが本質的な原因ではないのか
当該CMのブコメ欄やツイッターでも散見された、「ワンオペ育児を美化している」という意見。
ムーニーのCMに感じたモヤモヤしたものの正体と、あれがリアルだと感じるお母さんに伝えたいこと。 - スズコ、考える。
良くも悪くも今もそれが自分も直面している現実であって、美化したり感動ポルノに仕立てていたりするCMよりよっぽど好感が持てた、と教えてくださった。
なるほど、と思った。
2つ目の引用は別人の発言らしいから、このエントリ主は今もあのCMを「ワンオペ育児の美化」と捉えているんだろうか。最後のコピー<その時間が、いつか宝物になる。>が現状のワンオペを「否定まではしていない」程度ならいくらか同意できる。
けど「美化」とまで言えるとは私は思えない。このCMの意図は、辛い現実にただ「寄り添う」ことじゃないのか。舌鋒鋭く批判したり、頑張ろう改善しようとハッパをかけるだけが「寄り添う」ことではない。むしろ、今つらい人に対する態度としては批判や声高な応援はご法度で、「私はあなたのつらさを知っている、理解している、ここで聞いている」とただ伝えることが最善であったりする。
確かにCMには「もっと部屋は散らかっていて、もっと髪も振り乱していて、もっとボロボロ」な姿は出てこないかもしれない。でもそれなら、現実のママの大半はあんな広い部屋には住んでないかもしれないし、役者さんのように美人ではないかもしれない。夫のいないシンママかもしれない。フィクションとしてのリアリティは、リアルそのものではありえない。必ず作為が存在し、意図が仕込まれる。
この手の炎上案件で問題にされるのは大抵が「意図しなかった意図」である。「リアルな日常を描き、応援したいという思いだった」(http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/10/unicharm-cm_n_16524060.html)つもりが、「本当はワンオペ育児を美化する意図があるんだろう」と受け取られる。moms don’t cryという楽曲名が「母親は泣くなというつもりか」と受け取られる(実際のところは知らないが、一般的に考えればこれはヒラリー・スワンク主演の映画『Boys Don’t Cry』のもじりじゃないかと思うのだが。ちなみに同作の主人公は性同一性障害であり、タイトルは当然ながら「男の子は泣くものじゃない」というようなよくある抑圧への反抗でもある)。
私は長々と、表現の話をしている。なぜならこれはCM映像という表現への反応から湧き起こった議論だからだ。現実の育児環境についての議論とは、どちらがより重要ということではなく、違うのだ。しかし、冒頭のエントリでは「CMによって抉られた古傷」に関する語りが多く、映像表現への批評は途中から影を潜めてしまう。あのCMのどこがワンオペ賛美であり美化なのか、「肯定してはいけない現実」を肯定していると見えるのか、どの表現がどのように問題であるかは語られない。楽曲か、カット割りか、役者の選定か、舞台設定か、照明か、コピーか、フィクションに込められたどの意図が読み違えられたのか。
CM批評をしたいんじゃないんだ、現状のつらさをなんとかしてほしいんだ、という意見もあると思う。でもそれならCMへの批判を通して伝えるべきではないんじゃないのか。現実の育児環境のここが問題なのだ、と直接に論じればいいだけではないのか。CMへの批判はCMへの批判でしかなく、現実の諸問題を改善する糸口としては遠回りすぎるし、なによりずれている。表現への批判が現実の諸問題を改善するきっかけになることがしばしばあったとしても、最初からそれを期待して表現を的に据えるのは手段が間違っている。CMを端緒とした議論であればまず問題視すべきはその表現であり、現実への対応は別の話だ。
エントリ主や、他のモヤモヤを感じた論者が話したいのはどっちなのだろう。CMの表現問題なのか、現実の育児環境に関する議論なのか。別の問題である二者を混線させてはいないか。その対応はむしろ無力感を増幅させる方向へ働きはしないか。表現は現実へ、現実は表現へそれぞれ影響を与えうるが、別物を同一とみなすのはリテラシーの問題になる。
私はこれを表現に関する議論として読んでいるから、ユニチャームが意図を説明しなければならなかった結果を残念に感じる。それは表現の多様な読み方を否定するものだから。表現への批判は自由に行われるべきだが、批判をしていると思い込んでいる受け手が実際に気にしているのが表現そのものではないのだとしたら、議論はずいぶんな徒労だ。
美化している、賛美しているという批評の言葉を、私はもっと詳しく知りたい。批評は表現の可能性を拡大するものだ。様々な読み方が可能だと知ることは、表現もまた様々な形を取りうる証拠になる。しかしもしあれらが批評の言葉ではなく現実問題に対する心情の吐露なら、使う言葉が違うのではないかと思う。まあその言葉もまた表現の一種ではあるわけで、私のような者にこうして「意図しない意図」を探られることもある。ただし使う言葉を選ぶことで読み取りエラーは減らせるのだ。だからこそ表現に問題があるなら適切な批評がなされてほしい。
この文章もまた、「育児の大変さを矮小化しようとしている」等と読まれるかもしれないが、そういった意図はないと事前に宣言しておく。
id:frkw2004 って奴がこの記事に対して
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51615
"「科学の目的は真理を探求することではなく、現実を説明することです。」これはいい言葉だ。宗教と科学が対立するものではないことを示してる。"
全く「良い言葉」なんかじゃない。
現実を説明するのは「世間が科学に対して求めている事」であって、「科学の目的」全てがそれに当たるという事は絶対に無い。
なぜなら、そもそも科学の中で我々が生きているこの現実についてを論じている部分は一部でしか無いから。
「現実世界には有り得ない世界設定だけれど、公理主義的に考えればこうなるハズ」という理論を追い求める、
人生とは回転ずしみたいなもんだ といった発言みたく大きい主語のごく一部を日常のより小さい事柄に置き換えることでなんでもないものだと乗り切りたい
しかしその簡単なものにもこだわりはあるのだと逆説的に問い小さな事柄にも気を付けている自分を再発見することでまけない自分を鼓舞したいのでしょう
増田には気になる異性がこだわりについて自分以外のなにかと気が合うという話をしていたのを耳にしてしまったりしてしょぼーんとなったことについて自分をなぐさめたいみたいなことがあったのでしょう
大丈夫 Nか少しCよりだよね うん そのほうが気が楽だし やっぱり相性は近いにかぎるよね(大丈夫という第三者の肯定と意見を反芻)
どうかな?きもちいい?
https://www.google.co.jp/amp/www.asahi.com/amp/articles/ASK4L53F3K4LPLZB012.html
日本がアジアの嫌われものとされて久しいが、安倍政権になってから、ネトウヨに毛が生えた程度の妄言を撒き散らすことで、日本が更に嫌われ、アジアの孤児として国際的村八分状態にまでなってしまった。
先日も中国人が反帝国主義への抗議として、日本の寺社仏閣に油を撒き、日本人の国家神道を清めて、廻った事があったが、元は韓国から始まった運動だそうだ。日本人は国際社会から如何に嫌われているか自覚し、猛省し、謝罪しなければならないところのことでしょう。
櫻井よしこなどと言う妄言保守言論人は小賢しげに、特定アジアなどと、日本を嫌うアジア諸国は極東の3か国にすぎないと問題の矮小化に躍起だが、それが今回、アジア全域に拡がっているのが証明された。アジアの賢人たるインド人にまで嫌われたのである。
もちろん他国の施設にカレー粉を撒くのは間違った行動である。しかし我々は天竺からの叱咤と捉え猛省し安倍政権を打倒しなければならないある。
なんか今バズってるらしい男性保育士の記事だけど最後の方に問題がたくさんあって怒りが収まらないので自分の思考を整理するためにメモします。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/
たくさんコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/s/travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/)がついているようだけども、はっきりいって的外れ。手ばなしにいい記事とか言ってる人のセンスがわからない。自分の差別意識に気づいていないのかな???
1ページ目の保育の現場のレポートはとてもいいと思います。現場を知らない人がこういうのなんだって知るのは大事。
このページの前半も、とてもいい。
保育園の整備の必要性だとか、保育士の専門性、子育てを核家族が担うのは限界がある現代で、保育園が保護者に子育ての専門知識やスキルのインプット・サポートになっているという指摘は本当にその通り。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/2/
千葉市長の掲げた「男性保育士活躍推進プラン」にSNSから批判がたくさんあったことに関する話に及んだところで、千葉市長は、自分にコメントを寄せたアカウントなどを全部過去発言なども遡って調べたと言って、こう述べる。
「マジです。この問題は、真面目に研究しなくてはならないと思いまして。で、調べていくと、“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々で、例えば女性の権利を守るために活動している方が非常にこだわっていらっしゃることも分かりました。もちろん、保育園に預けていた経験のある方で反対意見を出していた人もいましたけれども、それは本当にレアなケースで。例えばその人たちの中には、“旦那が自分の娘のオムツを替えているだけでも嫌”みたいな意見を言っている人もいました。でもそれはもう、ポリシーの話ですからね。生き方の」
ここのあたりの段落よんで、それまですごくいいねこの記事!って思っていた心がボキっとへし折られました。
私の周りで男性保育士活躍プランが出た時に批判していた意見を思い出すと、(かなりざっくりまとめると)実際に現実に起こっている小児への性的虐待をいかに防ぐか、そこが大事なのに、その議論をしなくて男性保育士を増やそう〜っていうのってどうなの?っていうことだったと記憶している。
(市長も「自分に寄せられたコメントを調べて」意見を言っているので、私も自分の周りでみかけたコメントから意見しますね)
で、そういうコメントの多くは、過去に学校とか教育現場で男性の教育者、あるいは家族や親族の中で年長の男性から向けられる性的な眼差しや振る舞い、そういったものに感じる「いやーな感じ」を思い出して、「やめてほしい」っていう感覚を抱いている、そう見受けられた。
この千葉市長の答え方の問題点は、そういう、過去の性被害体験につながるようなものも含まれているはずの批判を、十把一絡げに「“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々」と雑にまとめてるところだと思う。はっきり言ってこれはセカンドレイプではないですか?
この発言によって、「性的虐待の心配がある」という指摘が、「うるさいフェミニズムがなんか言ってる」という文脈にすり替えられてしまっていて、問題が矮小化されて対策が全く取られなくなってしまう。子どもを主役に考えるはずなのでは?子ども守れないよねこれじゃ?
性的被害やそれを守ろうとする人の意見をこうやって矮小化するのは、被害を防ぐことはできないどころか、温床にしてしまう可能性もあって本当に危険。
「とはいえ、例えば“性犯罪の9割が男性だ”という意見なども出ていました。こういう意見は、男性として受け止めなければいけない現実っていうこともありますよね」
「それはある種の真実でもあるし、そのご意見に至るなんらかのご経験をされてきたことを受け止めなければならないと思います。しかし、我々が議論しているのは、保育という世界の話です。ですから、保育という中において望むべきものについて、少なくても公的な側はしっかりと筋を通さなければならないと思います」
ここにきてトンデモ感が倍増。保育の世界の問題、と切り取って、対策を打とうとしないのは、いじめの問題を教育現場で「教育の問題なんで」って言って、本当は暴行脅迫、金銭の搾取なのに刑事事件にしないのと同じくらい悪質。
そもそも、ジェンダーフリーの何が悪いんですか?と小一時間問い詰めたい。
インタビューの最後の方で、「“男性の子育て”を多くの市民に理解してもらうという意味もありましたけど」とか言っているくせに、なんでジェンダーフリーに批判的なの?
ジェンダーフリーってそもそも「女性を守る」ってこの市長はインタビューで言っているけど、女性の方が男性に比べてハードモードだから、そこから守ろうよって言っているだけで、別に男女の間に格差がなければわざわざ守ろうとしなくてもいいはず。
女性の方が小さい・若いうちからレイプに遭いやすかったり、性的搾取(JKビジネス、って狂ってるよね、まだ学校行ってる高校生で医学的にも発達過程だったりするんじゃないの?な存在で性的サービス受けるとかさ…)されやすかったり、女性だけ家事育児を担うような風潮があったり、その影響で男性が正社員長時間労働化するから男性の方が賃金高くなって格差があったりするから、そこをイーブンにしようとするだけじゃん?
だから、ジェンダーフリーになったら、子育てに理解のある男性も増えるし、男性保育士も増えるだろう?なのに、そういうダブルスタンダードに気づかずになんとなく言っている。
そういうところが、ほんと〜〜〜にムカつきました!
あと、そもそも論として、「男性保育士活躍推進プラン」の政策的な面に対して分析すると、ダイバーシティを促進するために男性保育士の働きやすい環境を整備するというものらしいんですが。
https://www.city.chiba.jp/kodomomirai/kodomomirai/unei/documents/danseihoikusi.pdf
これ、つまり、男性保育士の数がめちゃめちゃ少ないから、将来男性保育士がこれだけ増えるように数値目標を立てましょう。それを達成するために魅力を発信したり、働く環境の整備をしたりしましょう。ということみたいなんですが。
環境とか魅力の発信もだいじだろうけれども、そもそも根本的に増やすために、じゃあなんで男性保育士がこんなに少ないの?っていうのをまずかんがえてほしい。
去年の待機児童問題の国会の議論以降いろいろ発表されてますが、ざっくり、女性だけで比較しても、全産業平均より5万少ない、男女全部平均すると、全産業平均に比べて10万少ないって言われてる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201605/CK2016050102000129.html
http://www.sankei.com/life/news/161205/lif1612050042-n1.html
冒頭記事にもある通り、子供の命と発達を担う責任重大な仕事で、最近はブラックな現場も多いというし、それだけ働いて、手取りが少なかったら、そりゃみんな辞めるよね?
ましてや、「結婚したら一家の稼ぎ頭」を期待される性役割分担を負いやすい、男性が、長く働けるだろうか?
だから、男性を増やすという施策をするよりかは、とにかく保育士という仕事の待遇をもっとよくする、根本的にはこれが男性保育士も増える本当の解決策だと思うんだよね。
もちろんトイレとかないんだったらそういうのの整備は大事だけど。でも給料安くてもトイレと休憩室よくなったから続けよ、って思わないよね。
あと、男性保育士批判を批判してる人に、子供を主役に考えてないっていう人いるけど、それも違うとおもう。
子供の性虐待防止のための現場の仕組みをもっとしっかり作ることが、男女関係なく、現場の保育士への疑いも晴らすし、子どもの安全も高める。
あと性虐待ではないけど、保育園での死亡事故は毎年報道されていて、これは根本的には「お昼寝中のうつぶせ寝をさせてはいけない」みたいなスキルの共有ができていなかったり、人手が足りなすぎて泣いちゃってる子どもをぐるぐる巻きにしちゃったりという、結局は現場の保育士への教育・人的リソースが足りていないせいでおきている。
だから、性虐待、暴力的虐待、ネグレクト、いろいろふくめて、子どもの安全性を高めるために、保育士の配置を増やしたり、研修のリソースを増やしたり、ということで対応するべきで。
そういう対応をちゃんとして、男性保育士に子どもを世話されたくない、という恐怖心を持っている人も、男性保育士が増えても大丈夫、って思えるような仕組み作りをしないといけないはずでは。
ネットの世論は福島から自主避難した横浜の児童へのおごりの強制は「いじめだろ!みとめろよ!」っていうのに、保育園で虐待を防ごうよっていう話にはなんでこんなに気づかないんだろうね。まあみんなが保育園行くわけではないからしょうがないのかな…
なんか今バズってるらしい男性保育士の記事だけど最後の方に問題がたくさんあって怒りが収まらないので自分の思考を整理するためにメモします。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/
たくさんコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/s/travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/)がついているようだけども、はっきりいって的外れ。手ばなしにいい記事とか言ってる人のセンスがわからない。自分の差別意識に気づいていないのかな???
1ページ目の保育の現場のレポートはとてもいいと思います。現場を知らない人がこういうのなんだって知るのは大事。
このページの前半も、とてもいい。
保育園の整備の必要性だとか、保育士の専門性、子育てを核家族が担うのは限界がある現代で、保育園が保護者に子育ての専門知識やスキルのインプット・サポートになっているという指摘は本当にその通り。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/2/
千葉市長の掲げた「男性保育士活躍推進プラン」にSNSから批判がたくさんあったことに関する話に及んだところで、千葉市長は、自分にコメントを寄せたアカウントなどを全部過去発言なども遡って調べたと言って、こう述べる。
「マジです。この問題は、真面目に研究しなくてはならないと思いまして。で、調べていくと、“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々で、例えば女性の権利を守るために活動している方が非常にこだわっていらっしゃることも分かりました。もちろん、保育園に預けていた経験のある方で反対意見を出していた人もいましたけれども、それは本当にレアなケースで。例えばその人たちの中には、“旦那が自分の娘のオムツを替えているだけでも嫌”みたいな意見を言っている人もいました。でもそれはもう、ポリシーの話ですからね。生き方の」
ここのあたりの段落よんで、それまですごくいいねこの記事!って思っていた心がボキっとへし折られました。
私の周りで男性保育士活躍プランが出た時に批判していた意見を思い出すと、(かなりざっくりまとめると)実際に現実に起こっている小児への性的虐待をいかに防ぐか、そこが大事なのに、その議論をしなくて男性保育士を増やそう〜っていうのってどうなの?っていうことだったと記憶している。
(市長も「自分に寄せられたコメントを調べて」意見を言っているので、私も自分の周りでみかけたコメントから意見しますね)
で、そういうコメントの多くは、過去に学校とか教育現場で男性の教育者、あるいは家族や親族の中で年長の男性から向けられる性的な眼差しや振る舞い、そういったものに感じる「いやーな感じ」を思い出して、「やめてほしい」っていう感覚を抱いている、そう見受けられた。
この千葉市長の答え方の問題点は、そういう、過去の性被害体験につながるようなものも含まれているはずの批判を、十把一絡げに「“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々」と雑にまとめてるところだと思う。はっきり言ってこれはセカンドレイプではないですか?
この発言によって、「性的虐待の心配がある」という指摘が、「うるさいフェミニズムがなんか言ってる」という文脈にすり替えられてしまっていて、問題が矮小化されて対策が全く取られなくなってしまう。子どもを主役に考えるはずなのでは?子ども守れないよねこれじゃ?
性的被害やそれを守ろうとする人の意見をこうやって矮小化するのは、被害を防ぐことはできないどころか、温床にしてしまう可能性もあって本当に危険。
「とはいえ、例えば“性犯罪の9割が男性だ”という意見なども出ていました。こういう意見は、男性として受け止めなければいけない現実っていうこともありますよね」
「それはある種の真実でもあるし、そのご意見に至るなんらかのご経験をされてきたことを受け止めなければならないと思います。しかし、我々が議論しているのは、保育という世界の話です。ですから、保育という中において望むべきものについて、少なくても公的な側はしっかりと筋を通さなければならないと思います」
ここにきてトンデモ感が倍増。保育の世界の問題、と切り取って、対策を打とうとしないのは、いじめの問題を教育現場で「教育の問題なんで」って言って、本当は暴行脅迫、金銭の搾取なのに刑事事件にしないのと同じくらい悪質。
そもそも、ジェンダーフリーの何が悪いんですか?と小一時間問い詰めたい。
インタビューの最後の方で、「“男性の子育て”を多くの市民に理解してもらうという意味もありましたけど」とか言っているくせに、なんでジェンダーフリーに批判的なの?
ジェンダーフリーってそもそも「女性を守る」ってこの市長はインタビューで言っているけど、女性の方が男性に比べてハードモードだから、そこから守ろうよって言っているだけで、別に男女の間に格差がなければわざわざ守ろうとしなくてもいいはず。
女性の方が小さい・若いうちからレイプに遭いやすかったり、性的搾取(JKビジネス、って狂ってるよね、まだ学校行ってる高校生で医学的にも発達過程だったりするんじゃないの?な存在で性的サービス受けるとかさ…)されやすかったり、女性だけ家事育児を担うような風潮があったり、その影響で男性が正社員長時間労働化するから男性の方が賃金高くなって格差があったりするから、そこをイーブンにしようとするだけじゃん?
だから、ジェンダーフリーになったら、子育てに理解のある男性も増えるし、男性保育士も増えるだろう?なのに、そういうダブルスタンダードに気づかずになんとなく言っている。
そういうところが、ほんと〜〜〜にムカつきました!
あと、そもそも論として、「男性保育士活躍推進プラン」の政策的な面に対して分析すると、ダイバーシティを促進するために男性保育士の働きやすい環境を整備するというものらしいんですが。
https://www.city.chiba.jp/kodomomirai/kodomomirai/unei/documents/danseihoikusi.pdf
これ、つまり、男性保育士の数がめちゃめちゃ少ないから、将来男性保育士がこれだけ増えるように数値目標を立てましょう。それを達成するために魅力を発信したり、働く環境の整備をしたりしましょう。ということみたいなんですが。
環境とか魅力の発信もだいじだろうけれども、そもそも根本的に増やすために、じゃあなんで男性保育士がこんなに少ないの?っていうのをまずかんがえてほしい。
去年の待機児童問題の国会の議論以降いろいろ発表されてますが、ざっくり、女性だけで比較しても、全産業平均より5万少ない、男女全部平均すると、全産業平均に比べて10万少ないって言われてる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201605/CK2016050102000129.html
http://www.sankei.com/life/news/161205/lif1612050042-n1.html
冒頭記事にもある通り、子供の命と発達を担う責任重大な仕事で、最近はブラックな現場も多いというし、それだけ働いて、手取りが少なかったら、そりゃみんな辞めるよね?
ましてや、「結婚したら一家の稼ぎ頭」を期待される性役割分担を負いやすい、男性が、長く働けるだろうか?
だから、男性を増やすという施策をするよりかは、とにかく保育士という仕事の待遇をもっとよくする、根本的にはこれが男性保育士も増える本当の解決策だと思うんだよね。
もちろんトイレとかないんだったらそういうのの整備は大事だけど。でも給料安くてもトイレと休憩室よくなったから続けよ、って思わないよね。
あと、男性保育士批判を批判してる人に、子供を主役に考えてないっていう人いるけど、それも違うとおもう。
子供の性虐待防止のための現場の仕組みをもっとしっかり作ることが、男女関係なく、現場の保育士への疑いも晴らすし、子どもの安全も高める。
あと性虐待ではないけど、保育園での死亡事故は毎年報道されていて、これは根本的には「お昼寝中のうつぶせ寝をさせてはいけない」みたいなスキルの共有ができていなかったり、人手が足りなすぎて泣いちゃってる子どもをぐるぐる巻きにしちゃったりという、結局は現場の保育士への教育・人的リソースが足りていないせいでおきている。
だから、性虐待、暴力的虐待、ネグレクト、いろいろふくめて、子どもの安全性を高めるために、保育士の配置を増やしたり、研修のリソースを増やしたり、ということで対応するべきで。
そういう対応をちゃんとして、男性保育士に子どもを世話されたくない、という恐怖心を持っている人も、男性保育士が増えても大丈夫、って思えるような仕組み作りをしないといけないはずでは。
ネットの世論は福島から自主避難した横浜の児童へのおごりの強制は「いじめだろ!みとめろよ!」っていうのに、保育園で虐待を防ごうよっていう話にはなんでこんなに気づかないんだろうね。まあみんなが保育園行くわけではないからしょうがないのかな…
だから、あれを「型どおりの反抗、型どおりの和解、型どおりの成長」としか見れていない人は、
あれをそう捉えなかった人の目に映っていた高解像度の微細な捉え方をすべて無下にしている、そういう傲慢さがあるわけだよ。
あなたがそう思ったことは勝手だし、ファンの人が受けた衝撃や感動の「種」になっていたさまざまなウンチクには永遠に辿り着かないし、そんな「種」の存在があることも想像すら及ばないだろう。
そういう人がいることはそれでいいけれども、だからと言って作品を矮小化するなと言いたい。
自分より心から楽しんでいる人がいて、ついでに世間的にもヒットしているのなら、「自分には合わなかった」と思うだけでよい。
「見たけど下らなかった」みたいな事をあえて言う下劣な感性の人が、ネットには多すぎるから辟易しているんだよ。
特に、アイドルものなんかはジャンル自体への偏見もある上に、一部のファンの気持ち悪さゆえイジメられやすい。
だからそういうキモオタなんかを揶揄したい人間が、作品にその矛先を向けることも多々あるように感じる。
まるで「自分はまともだぞ」「自分はもっといい趣味してるぞ」「自分はそんなチャチなものどうかと思う」と言って、
けれども、どんな作品のファンにも必ず、自分より優れた知性を備えた人がいる。いい歳のいい肩書もった人がファンだったりもする。
例えばあなたが海外ドラマを高く評価していて、アニメはヌルいと思っていたとしても、その両方にあなたより精通していて、そのどちらも高いレベルで楽しみ評価している人がいる。
あなたに無い着眼点でみる人、例えばまどマギを仏教の文脈で語る僧侶や、ラブライブをマネジメントの文法で語る人などもいる。
とてつもない熱量で、自分では気づきもしなかった考察をブログで重ねている人がいる。
鳥肌を立てながら、そこまで考えて作られていたんだと気づき敬意を表する、そんな純粋さが馬鹿にされてはいけない。
そういう人の存在を無視して、一括りにファンは自分より感性下劣であり、作品も見下してしまってもいいだろうというような傲慢な判断をする人は、
そういう視点でつけるケチは、結局いつも表面的な部分しか捉えていないことを銘記してほしい。
ロックバンドのオマージュをするのが陳腐だからと言って、別に作品としてはその部分でいかに新しい表現をするかを競っているわけではない。
あの回の迷走の仕方はなんでもよく、あれを通して何を伝えたかったのか、そこに注目してみてあげるのが作品に寄り添う普通の見方だろう。
ネットには、瑣末な描写や言動や辻褄に「あーハイハイ」「なんでやねん」となって気を取られてしまい、総体的な評価をフェアに出来なくなっている人が多く見受けられる。
妙な「事情通」ぶった自負があるせいか、へんなところに神経質になって気を取られ続けているため、素直にみていれば感動に繋がるはずの布石を取りこぼしている。
あるいは、元から上から目線で鑑賞していて素直に楽しむ気が元からないせいで、些末なツッコミに躍起になるのかもしれない。
ともあれ、物事が「いかに深いか」を十分に言語化して語ることはものすごく難しいんだよ。前提知識が多く多岐に渡るし途方もなく長文になる。
対照的に、物事が「いかに浅いか」を語って揶揄するのは簡単だし、そういうネガティブ情報は感染力も高い。
だから、自分が良いと思えなかったものにも、自分には捉えられなかった「深さ」があるのだろうなと斟酌して、静かに離れていく美徳を身に着けて欲しい。
それは結局、デフォルトで他人を尊敬するという良き人格に繋がっていく。
逆にそれができないで、何かをこき下ろすことに快感を感じる性質を卒業できないままだと、いずれ何にも感動できなくなって脳が凝り固まってしまうだろう。
間違っても、今後はそんな「『○○でござい』なんて言ってて本当にいいの?」みたいに他人を冷笑する考え方に陥らないでほしい。
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1081282
なので実は「日本は児童買春大国」とか言うのは単なるイメージで語ってるだけのアホなのだ。
この論法で物事を進めようとすると歪な手法ばかりとってしうまうようになる。
→ブコメで最初、日本が一番児童買春が多いみたいな馬鹿なこといったそこのあなたですよ。
よく考えたら正確に比較したことないから書き換えたんでしょうけど。
ちなみに橋本論法的な、日本人だけではなくて他の国の人もやっている。
また、その結論も決して間違っていない。
という反論をするのは下策中の下策だ。
「日本人だけではなくて他の国の人もやっている→なので日本人の罪を問うな」
とか
「日本人だけではなくて他の国の人もやっている→更に諸外国の方が酷い」
という部分まで言った際に初めてそれは間違っている。
と言える。
ところが「日本人だけではなくて他の国の人もやっている」の時点で反論する馬鹿が多すぎる。
「日本人だけではなくて他の国の人もやっている→だから諸外国にも日本人にも圧力かけましょう」
というかその方が多数派だろ。
は「歴史修正主義者 or 無知な人」で簡単に片付くので議論の必要はない。
togetterの人はちゃんとそれをやってる。
一部の日本人が日本を世界最大の売春加害国とかくだらねーことぶち上げて
グローバルで観たときに他国の売春問題を矮小化させる戦略をやりすぎたせいで日本人は他国の児童買春者とかを叩く圧力が弱くなっちまった。
他の国の人はちゃんと自国を叩きつつも日本を叩くとかやってるのに。