コンビニでバイトしたことないんだけどそういう風に教育されるの?
パンとかの柔らかいものと一緒に入れられると家に帰るまでにつぶれちゃうんだけど。
袋の底に横に入れてほしい。
まあ今夜はイブですけど。
バイト帰り、街を歩いても電車の中でも、乳繰り合ってるのは30代以上〜のカップルが目についた。
20代以下はちらほらいても、女の子でも一人なのが少なくない。
まあ友達と遊んだ帰りかもしれないけど、でもカップルなら7時8時ならまだ一緒にいるよね。
もう結婚10年は経ったであろう、おっさんおばさんが若者みたいにキャッキャしててなんとなく寒々しかった。
電車で指を絡ませあってたカップルも外見は40、50代だった。
日本ではティーンを中心にクリスマスの欧米化なんて言われて、カップルじゃなく家族で過ごすようになってるみたいだけど、
これからのクリスマスは商業主義の煽りくった高齢世代だけが、ガラパゴスイチャコラしてるようだと思うと、なんとなくやるせない気持ちになる。
図書室や図書館って日本ならほぼどこにだって有るけど、毎週行く人も一生行かない人もいる
それと同じで見下してるわけではないと思うよ
誰でも作れるコンテンツ、著作権無視、キュレーションで2億PV、カネを払う気のないユーザー
腐っててとても良い
落ち着く
俺も作ろうかな
はてなブックマーク - いじめ暴行で重体、市や同級生らに1億円超の賠償命じる:朝日新聞デジタル
いじめ事件が話題になるたび、「◯◯罪のことをいじめと呼ぶな」という意見がよく挙がります。
「いじめという軽く聞こえる言葉ではなく、◯◯罪というより凶悪に聞こえる言葉を用いて、事の重大さをはっきり示すべきだ」
というのがその理由で、概ねネットでは支持されている意見のようです。
ですが私は、2回2年間に渡っていじめを受けてきた者として、これに反対します。
「いじめのことを◯◯罪と呼ぶな」、と。
さて、いきなり喩え話で申し訳ないのですが、次のような状況を考えてみて欲しいのです。
とある人が、交際相手に暴力を振るったり、暴言を浴びせたりといったことを日常的に行った末に、
このような事件に対して、「DVではなく傷害罪と呼べ」と言う人たちがいたら、どう思いますか。
「加害した側を擁護しようとしているのかな」、あるいは、そこまで行かなくても、
「DVはDVだろうに何故言い換えようとするのだろう」、そう思ってしまうのではないでしょうか。
私が「いじめじゃなく◯◯罪と呼べ」という意見に対して抱く違和感は恐らくこれに近いです。
つまり、いじめという一連の許されざる行為の一つとして暴行や恐喝があるのであり、
それだけを取り出して暴行罪や恐喝罪と呼んでしまうのは、事件そのものを矮小化することになるのではないか、というのが私の懸念です。
上の記事の例で言えば、被害生徒がある日突然見知らぬ集団に殴られて意識不明になったとしても「暴行罪」なわけです。
そうした例と違う、という意味で「いじめ」の語を用いているのに、それを「暴行罪」と呼んでしまうのは、
DVを傷害と、計画殺人をただの殺人と、わざわざ貶めているようなものではないか、と思うのです。
もちろん、事件の重大さが正しく伝わっていないのだとしたら、そのことは問題だとは思います。
であり、言葉の方ではないのではないでしょうか。
あるいはせめて変えるにしても、「いじめ」そのものの言い換えであるような語(たとえば「家庭内暴力」に倣って「集団内暴力」とかでしょうか)によるものであるべきだと思います。
そのようなマネージメントが行われるなかで出世するひとは当然、恫喝を効率的に行ってきた人である。
この文化は一度出来るとなくならない。
人を潰してでも成果をあげるというやり方である。
労働集約的なビジネスモデルだと人件費の削減が利益に直結するので人件費削減が推し進められる。
人の売買で利益を上げたり、安い受注を繰り返すとこのようなビジネスモデルになる。
人件費を削減することが利益に直結するのでサービス残業をするのが賞賛され、社員にも行き渡っている。
サービス残業や勤務時間の誤魔化しをすることが素晴らしいこと・頑張っていることだと勘違いする社員が多い。
そこには原因や対策以外にも「起因者」の欄が設けられている。そこに名前を書かれた者の評価は1段階下げるという文化。
こうなるとコードを多くとバグを発生する確率があがり、その結果として評価が下がる確率があがるということになる。従って、多くの人はコードを他人に書かせようとする。パートナーという派遣にコードを書かせるようになると一人前である。
なおコードレビューやテスト仕様書、テスト結果のレビューを行い承認も貰っているはずだが、承認した者は起因者になることはない。末端の人間が被害者になるのである。
減点方式に似たないようになるが仕事しなければ標準の評価になるため、積極的な仕事がない部署が勝ち組部署と言われる。
なお品質管理は品質を管理するのではなく、品質を管理しているかを管理するので品質には責任を追わないなどのテクニックが使われており安泰である。
サービス残業などについてやりとり証拠が残るようメールで問い合わせると、即座に電話がかかってきてちょっと話があると言われ、会議室に呼び出される。
そこで意味不明な正当化の理由を述べられ、問い合わせ自体がなかったものとされる。
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
でも、一日一回は見る種類の客というのがいる。
それは、店に入ってくるなり
「タイトルも著者も出版社もわからないけど、ほしい本がある。内容はあんまり覚えてない」
僕は、本がとても好きだから、本がほしくて買いに来る人の気持ちがすごくわかる。
しかも本屋をしている。だから、できるだけ力になりたいと思う。
だけどさ、、、、、、、、、、
内容について聞き出そうとしても、男が出てくるとかそういう無限の可能性がありそうなことを言う。
そんなんで、わかるわけないじゃん、、、、、、、
ほしい本があったら、わからないなりに調べる術はあるんじゃないのか?って思う。
あなたが手に持ってる小さいコンピュータは調べものができるんですよ?
だけど仕事だし見つけ出したいから、こっちも必死になって探す。
うまいこと見つかる場合もあるけど、結局わからない場合ももちろんある。
そうしたら、しょうがないのかもしれないけどものすごいふくれっ面されるときがある。ガミガミ怒られることもある。
だけど、手がかりなかったらこっちも調べようがないよ。
だけど、この
>パソコンとインターネットの違いが分かるのは当然だし、スマホもタブレットも使いこなす。
>飛行機や新幹線のチケットはネットで買うのが当たり前だし、分からないことは全て自力で調べられる。
を読んで、意識が変わった。「溝」に気付いたのだろう。
僕が知った何らかの「溝」は、低学歴と高学歴の溝かどうかはわからないけれど。
そういうお客さんたちは、調べ方を知らないんだ。
そして、多分誰かに教えてもらっても、やらないんだと思う。
だけど、これは見下していることになるのかな?
ピュピュッピュー…ピュピュッピュー…あぁ…
丸ごと1羽でなく、脚1本。
脚の先にアルミ箔が巻いてある。
「ココ持って食べれば手が汚れないヨ」
とでも言うつもりだろう。
しかし、このままではチン出来ない。
結局、丁寧に巻いてあるアルミ箔を丁寧に剥がし取ってチンした。
それとも、冷たく脂の固まったまま食べろとでも?
こういう「親切ぶった不親切」が大嫌い。
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。