「主語が大きい」「例外はある」という批判を頻繁に見かけるけど、もとの文章を書いている人は主語が大きいことを自明のものとして書いているんじゃないの?
例外をあげて行くときりがないから、例えば、一般に「男はこうだ」「女はこうだ」(男女の話が解りやすいから具体例として挙げるけど)、ってしてるんじゃないの。
こういう例外があるよ! ばかり言っていてはなにも論じられないのではないか。あるいは議論が矮小化しやしないだろうか。
少なくとも「主語が大きい」批判をする際には例外が「どの程度ありうるのか」という可能性の頻度にいたるまでを示すべきだろう。
それが「主語が大きい」への最大の批判になる。だいたい「主語が大きい」主張ってのは主語の大きさに対して具体的なデータを用意していない。印象論だから批判が生まれる。
その批判は、ただ例外がある、という指摘では片手落ちと言うか充分ではない。どのようにどのひんどで例外があるのか、まで論じることで、初めて主語が大きい文章への充分な批判になる。