はてなキーワード: 中庭とは
おとといの夜に職場あがって附帯施設の中庭ぬけて帰ってたら屯(たむろ)してた女子中学生?高校生?茶髪で私服の子から人違いされて適当に無視して抜けたけど、きのうの夜に独りで現場に居残りしてたら通りかかった夜遊びしてる私服の子から唐突に
「ikemen」
と声を掛けられて、あ?外国語?なんて?と反応できなかったら、
「イケメン」
ともう一度いわれた。
(あ、こいつらたぶん昨夜に見間違いして声かけて来たやつらだ、え、なに、からかってるんだよな、てか顔も格好もぜんぜん好みじゃない、オバチャンみたいな化粧と声してるし)といったい何て返せばいいのかまよったあげくに、
「あ、どうも」
と答えてしまったら彼女らはニガワラと白けた感じの両方のアトモスフィアを醸し出してどこかへ去っていった。よかった。
(増田♂54歳の まあこんなもんですわ)
こういうのって何ていうんだ。こういうの、前にもあった。
倉庫の扉を開けるにはロメロが持ってる鍵が必要で、そのロメロに鍵を渡す指令を出せるのはジョーンズ船長だけで、ジョーンズ船長に会うには彼の機嫌がいいかどうかを確かめておく必要があり、それを料理長に教えてもらうためには煙草が必要で、サイモン博士から煙草をもらうためにはコカの実を渡さないといけないので、それを積荷からちょろまかすためにイズミルに…
のような。
ある問題を解決しようとすると別の問題を解決しなきゃいけなくなって、それを解くためにはまた別の課題が生まれて。
こんがらがった結び目を落ち着いてゆっくり解いていきたいけれど、果たして俺は今何個目の入口をくぐったのだったか。
入口から入ったら、別の出口を探してそこから出ないといけない。そうしないと、死ぬ。そのルールは理解した。ルールを破る者は羊ですらも捻り殺された、とロメロは言っていた。俺たちは声を揃えて「だから言ったのに」と進言を無視して入港したジョーンズをなじったが、いまさらだった。
最初に商館に入った(いや、上陸が最初か、もしかしたら入港自体が最初の「入口」だったかもしれない)俺は、2階に上がって館長の部屋を訪ねた。しかしそこはなぜかよく手入れされた庭園で、俺は混乱したが(今思えば運良く)元の場所に戻ろうとせず、庭園奥の聖堂(に見えた)の門を開けた。門の奥は俺が商館で用を済ませた後に行くはずの、何度か泊まったことのある宿泊所で、そこにはロメロが立ち尽くしていた。
ロメロによると俺は便所に通じるはずの扉から出てきたそうだ。そこで俺たちは情報を交換し、ジョーンズの阿呆をなじり、ため息をついてそれぞれに出口を探した。入ったところが違うのだから、俺とロメロの「出口」は別なのかもしれない。俺は中庭に通じる裏口から出たが、ロメロは「まだ探してみる」と言って俺を見送った。
それからはどの乗組員にも会っていない。
商館の1階で待っているはずの書記官と中尉はどうしているだろうか。
娼館、農具置き場、生まれ故郷の納屋、真っ暗な洞窟、だだっ広い牧場…などを通り過ぎて俺は今、原地人の家にいる。また「出る」のではなく「入って」しまった。もう何度、出ようとして別の場所に入ってしまったかわからない。死んだ目をした原地人たちはしかし親切で、食事をくれたり寝床を用意してくれたりする。ここでずっといればいいかと考えもしたが、俺はまた別の扉を開けてしまう。
奥に鏡だけがある真っ白い部屋。また「入って」しまった。今閉めた扉の後ろから、原地人たちの拍手と歓声が聞こえた気がする。
俺は止まったら死ぬ魚になったような気持ちで、また「入って」いく。セントクリストファーネビスの、より奥へ。さらなる深みへ。そこに映る自分を粉々にしながら鏡を割って。
企業運営なら入りやすいし、その上、無料なのがいいよね。それを入口にコマーシャルギャラリーも行ってみるとより広がるよ。
ちなみに、ここで言う企業運営ギャラリーとは、企画展を定期的に行う企業(財団含む)が運営する無料のギャラリーを指します。
サントリー美術館やアーティゾン美術館、SOMPO美術館のような企業運営でも有料の展示を行う施設は含みません。
(脱線だけど、SOMPO美術館のゴッホは当時批判も多かったけど、今では買って大正解だったよね。)
資生堂銀座本店の地下にあるギャラリー。バランス良くいい企画展が多い。
行くとたいてい企業文化誌「花椿」をもらって帰る。余裕があれば、資生堂パーラーでお茶して行けばいいんじゃないかしら。
DNPの財団が運営するグラフィック系のギャラリー。エッジの効いた平面作品をたくさん見られるよ。
銀座メゾンエルメスの8階にあるギャラリー。ドアマンのいる狭めの入口から入って、お店の奥のエレベーターまで行かなくてはならないので入るハードルがちょっと高いけど、レンゾ・ピアノの建築に入ることができる。展示のクオリティも高いよ。
フランス、日本に縁のある作家さんの展示が多い。入口が幅広で左のエレベーターへの通路も広いので比較的入りやすい。場所は銀座ね。
昔はポーラ美術館と同じようなガラス作品とかの展覧会をやっていた気がするけど、いつからか現代が多くなった気がする。ここも銀座。
表参道にあるコンテンポラリーを扱う。gggとは逆にインスタレーションとか映像が多い。お店の脇にあるエレベーターから行けるので入りやすい。
ワコールアートセンターの運営する複合施設。建築は槇文彦。ギャラリーはスパイラル主宰のSICF (スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバル)の展覧会以外はほぼレンタルスペースだけど、グループ展とか、他の用で表参道に行くときに寄るといい展示に出会うことがあるよ。
ナディフが運営するギャラリー。表参道にあったのが移転して恵比寿に。ナディフは元々セゾン美術館(!)の脇で「アール・ヴィヴァン」という美術書店を運営していた会社を母体としている。展示は個性的というか、独自の視点のあるものが多い気がするよ。
ファッションブランド のDIESEL が⼿掛けるギャラリー。アバンギャルドだったり、野性味のある展覧会が多いよ。
TOTOの運営するギャラリー。建築の展覧会を専門に行っている。2フロアあって、それが外部の中庭にある階段でつながる構造になっているため、そのことも含め展覧会として構成される面白い展示空間だよ。中庭を取り込む展示があったり、特に何もせず、息抜き的に通過させる展示があったり。
クリエイションギャラリーG8とガーディアン・ガーデンが2023年に活動終了し、東京駅にBUGが2023年9月にオープン。まだ行けてないから情報まで。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193038
学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。
ここでは、体育会部活の支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活がトレーニングルームを使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。
自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会の利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。
ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。
あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。
結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。
確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギやコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチを回避してるんだよな。日中にスズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫類である。
ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部や柔道部といった上意下達のイメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。
夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパスの中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベーターかトイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。
基本的に、体育会の人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。
例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性や女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。
ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日の部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。
まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。
大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都の山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制のイベントだったけど、ああいう体験って、あの時分じゃないとできない。
大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉のカフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。
教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。
大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。
今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。
どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっと少なすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。
さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社の講義室に似てる)で、中国明朝の歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。
授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。
出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部の人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。
これはいかん、と思って俺は、「ちょっと、ちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。
上記のニュースは私が入学する前の出来事だが、大学の体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。
結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学や福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。
https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html
上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学側はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。
ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的な存在についてはキッチリと管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。
不満ばかりを書いてる気がする。
大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部(サークル)である。
文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から。中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字で作品を創造する喜びを得ることができた。
あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。
最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分と仕事がひとつになっていく感覚。
こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味の活動にだってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会そのものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定の空間だったりもする。
ひとつ、少なくともひとつ、大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。
あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に、子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。
どのアニメかは忘れたけど、女の子がドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技のダンスのバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。
え、そんなものが面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ。
次
小学生の時は支援級はなく、クラスに1人くらい知的障害や自閉症の子がいた。
今思えばそうだったなという感じで、当時はちょっとみんなと違う感じの子がいるという認識だった。
隣のクラスにいた知的障害であろう子は、いつもニコニコ笑顔でぽっちゃりした男の子だった。
さやま よしのぶ君
隣のクラスだったけど、知ってるくらいめちゃくちゃイジメられてた。
「ブー!」って返事するように仕込まれてた。
本人はからかわれてるのがわからないから、いつもニコニコと優しい笑顔だったのを覚えている。
ある日中庭が騒然とした。先生達が集まって何かあったようだった。
さやま君が中庭の池に落ちたと後で聞いた。
いつも笑顔だったさやま君の泣き顔をその日初めて見た。
自分で落ちたのかもしれないし、誰かに突き落とされたかもしれないと思った。
親になってあの時のことを思うと、ご両親はきっと優しくてニコニコ笑顔の子供は愛されこそすれいじねられるとは思わなかったんだろうな。
子供は残酷だし担任ガチャだけじゃなくて、同級生ガチャもあるよ。
多くの数学者は最も美しい証明を見つけることに意欲を持っており、数学を芸術の一形態と呼ぶことがよくある。
「なんて美しい定理だろう」「なんてエレガントな証明だろう」と言う。
完璧な部屋の形状は、ルネッサンスの建築家によって、壁が一定の比率を持つ長方形の部屋であると定義され、それを「黄金分割」と呼んだ。
建築家は今日でも、最も調和のとれた部屋には黄金分割比があると信じている。
この数値は、多くの数学的現象や構造に現れる (例:フィボナッチ数列の極限)。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、均整のとれた人体と顔の黄金分割を観察した。
西洋文化やその他の文明では、均整のとれた人体の黄金分割比は、上部 (へその上) と下部の間(へその下)にある。
モザイクは、固体部分(木、石、ガラスなど)を重なりや隙間なく平らな面に組み立てる芸術形式である。
その洗練された形式では、モザイクには認識可能なパターンがあり、それが 2 つの異なる方向に繰り返され、中心も境界も優先方向も焦点も特定されない。
19 世紀には、数学的な観点から、タイリングには 17 個の対称性しか存在しないことが証明された。
アルハンブラ宮殿のモザイクは、考えられる 17 の対称性をすべて表していることが発見された。
タイリングを形成するとは、2 次元平面を幾何学的形状 (多角形または曲線で囲まれた形状) で重なりなく完全に覆うことを意味する。
タイリング画像を変更せずに仮想的に回転または反射できる場合、タイリングは対称と呼ばれる。
歴史上最も印象的なモザイクは、中世のイスラム世界で活躍した芸術家、特にスペインのアルハンブラ宮殿の美しく洗練されたモザイクを作成した芸術家によって制作された。
アルハンブラ宮殿は、グラナダの旧市街を見下ろす赤土の丘に、13 世紀初頭にムーア人によって建てられた。
ここは、膨大な量の模様、装飾品、書道、石の彫刻など、イスラム教の建築とデザインを展示するものである。
オランダ人芸術家MC エッシャーはアルハンブラ宮殿を 2 度訪れ、宮殿と周囲の中庭のタイルに見られる華やかな模様をスケッチし、カタログ化した。
これは、タイルが一定の間隔で表示または発生することを意味する。
何百年にもわたる熟練した建築、タイル張り、 (調和する力としての)対称性への深い敬意、(宗教と商業のための)幾何学の研究と知識により、17 の考えられる対称性グループすべてがアルハンブラ宮殿の壁に表現される。
自然界の結晶(雪の結晶、鉱物、宝石など) は、秩序と対称性規則に従って原子的に構築される。
非周期的タイリング、つまり周期性のないタイリングは 1960 年代に数学的に可能であることが証明されたが、当時は秩序はあっても周期性を持たない固体構造は自然界には存在しないと考えられていた。
1982 年、イスラエルのテクニオン大学のダン シェクトマン教授は、後に準結晶として知られる自然が作る非周期結晶の存在を予測した。
このような自然で作られた石は、ロシアの山岳地帯で最初に発見された。
2009年、この発見はプリンストン大学の教授であるポール・スタインハートによって科学的に発表された。
2011 年、シェクトマンはその予測によりノーベル化学賞を受賞した。
そうでないなら、美しさは見る人の目にあるか?
残るはイーシンチュウただ一つ。
鳥山明先生が亡くなったニュースは、あっという間に世界を駆け巡った。
世界はその偉大な業績を称え、そして悲しんだ。
「7つのボールを集めることができれば、我々の願いは叶えることができる。」
ドラゴンボールは本当に存在するのか。誰もが当然に考える疑問だ。
ところが彼が亡くなった数日後、とある出来事をきかっけに事態は急転する。
誰一人立ち入ることが許されなかった鳥山明の自室から、星が描かれた3つのドラゴンボールと漫画に登場したものと全く同じ形のレーダーを彼の長男が見つけたのだ。
父らしいと思いながら読んでみると、そこに書かれていたのは誰にとっても驚きの内容だった。
なぜなら、そこに書かれていたのは、彼が漫画家として成功できた本当の理由だったからだ。
いつものように学校からの帰りを急いでいると、道端にぐったりと座り込んでいる一人の老人がいた。
彼は、今にも息絶えそうな様子で鳥山明に語りかけた。
ここに探知機が一つある。とある最新製品の試作品なので見慣れないのは仕方ない。
この探知機に従って山に入っていくと一つの水晶玉が転がっているはずだ。
それをワシのもとまで届けにきてほしい。お礼は弾む。」
鳥山少年は一切疑うことのないような澄んだ瞳で言う事を聞いた。
そして老人には険しくとも、少年にしてみれば何でもないような山道をサクサクと登り、岩肌の隙間に挟まっている水晶玉を見つけた。
どこかから強く投げ込まれたようにめり込んでいたが、少年が手を伸ばすとまるでそれに返事をするようにゆっくりと光って地面に落ちた。
少年の手に握られている水晶玉を見て、老人は表情を激変させた。
先程までの息絶えそうな呼吸は激しくなり、目玉が飛び出しそうなくらいに開かれていた。
お礼を期待する鳥山少年から何も言わずに水晶玉を奪い取ると、彼は懐からさらに6つの水晶玉を出して眼の前に並べ始めた。
お礼を貰えなかったことに不貞腐れていたものの、少年の好奇心はすぐに老人の異様な姿に奪われた。
老人は興奮した様子で水晶玉を並べなが、「ついにやったぞ」「いよいよだ」といった言葉を繰り返している。
「いでよシェンロン!」
老人が突然叫ぶと、辺りは一瞬で昼のように明るくなった。
少年は急いで目を塞ぐ。
老人の声が聞こえないことが気になり、やっとの思いで薄く目を開いてみると、大きく口を開けて目をかっぴらいたままの老人が見えた。
老人の目線の先を追うと、そこに見えたのはこちらを見下ろすように中に浮かぶ大きな龍だった。
それに驚き老人を再び目を向けるが、老人は一点を見つめたまま動こうともしなかった。
気がつくと、周囲は夜よりも暗い闇と静寂に包まれていた。
老人が何も言えないでいると、目の前の龍は頭に直接語りかけてくるような声で「さあ願いを言え」と一言だけ言った。
その声が聞こえたと同時に老人の呼吸が荒くなり、何かを喋ろうにも喉が詰まって喋れないような、そんな様子で悶え始めた。
そうかと思っていると、老人は急に立ち上がり、大きく一つ息を吸ったかと思うと吐き出すことなくそのまま倒れ込んでしまった。
目は大きく見開かれたまま、ピクリとも動く様子はない。
突然のいろいろな出来事におどろいて動けないままでいる少年の頭に、さらに声が鳴り響いた。
「そちらの人間は願いが言えなくなってしまった。お前で良い。さあ願いを言え。」
少年は事態が飲み込めないまま、まるで夢でも見ているような気持ちでそこに立っていた。
亡くなった鳥山明の部屋から3つのドラゴンボールとレーダーが見つかった半年後には捜索チームが組まれていた。
添えられた手紙には、彼がドラゴンボールに出会った経緯についての漫画と、そうしてレーダーを利用して秘密裏にドラゴンボールを再度集め始めていたことに関する内容だった。
漫画が終わると、その後には自分がいつ死んでもいいように、その時はこれらのドラゴンボールは長男に託すと手書きの文字が書かれていた。いわば遺言状である。
彼が再び何を願いたいのかまでは書かれていなかったが、「これを見つけたということは俺はもうこの世にはいないということだ。それは残念なことだが大丈夫。俺はお前を信じている。」とだけ書かれていた。
生前に返しきれないほどの恩を受けたであろう彼の信頼できる弟子や、同じ時代にしのぎを削りあった漫画家や編集者たち5人が集まった。もちろんトリシマもいる。
はじめのうちはレーダーが一つしかないために捜索の効率はとても悪く、誰にも悟られないように慎重に進めていることもあって全く見つけることができなかった。
レーダーの範囲より外の反応はレーダーの端に表示されるだけなので、水平方向に移動した時に見られるわずかな収差をヒントに距離を予測して地点を絞り込んでいった。
飛行場が近くにないような場所はヘリコプターを使ったりもしたが、そうした交通手段が揃っている場所であることのほうが稀で、迂闊に他人を巻き込めないという状況も手伝っていたずらに時間ばかりが過ぎていった。
それでも地道に場所を絞り込み、一つは5,000m級の山の上、一つは1,500mの海底、一つはアマゾン奥地の原住民族に神と崇められている祭壇から、3つのドラゴンボールを集めることができた。
残りの一つは、日本とは国交のない、しかも今現在戦時下真っ只中の高い壁に分断された自治区の範囲に絞られた。
鳥山家長男は、難民支援を目的とした多額の資金を手に、そのために作った慈善団体の代表として同行することでやっとの思いで入国を許されることができた。
そのために使った金額は、実に鳥山氏が生涯稼いだ財産の半分以上に至り、彼の行動の一つ一つが世界中で報道されてしまうことで、余計な注目を集めることになった。
どこにいてもマスコミの目から逃れられない状況は足かせでしかなかったが、支援活動の間を縫ってはレーダーを確認し、やっとのことで場所を絞り込むことができた。
マスコミの目を盗み、現地のコーディネーターの反対をのらりくらりとかわしながら瓦礫の山を登る。
ドラゴンボールの位置を示すレーダーの点が中心に移動し、今まさに自分の足元に埋まっていることを指し示す。
しかし、どうやって掘り起こせば良いのか、途方に暮れながらひとまず座り込むことにした。
いたずらに瓦礫をめくってみると、それはまるで当たり前にそこにあるかのように淡く光を湛えて転がっていた。
それこそが紛れもないイーシンチュウだった。
とうとう最後の一つ、イーシンチュウを手に入れた彼は、支援活動も放り投げて早々に日本行きの便に飛び乗った。
残りのドラゴンボールを持ち歩くことで万が一のことがあってはいけないし、過酷な環境下で願いを叶えること自体が危険だと考えていた。
他のメンバーにしてみれば、彼が日本への帰国を急ぐこと自体がイーシンチュウ発見の合図である。
彼が日本に着く頃には、全てのメンバーが鳥山邸に集合していた。
すぐにでも願いを叶えたい気持ちを抑えて、皆で願いを叶えるための準備を進める。
ここまで一緒に戦い抜いてきた仲間である。誰の言葉で願いが叶っても良いのだ。
焦って願いが失敗してしまうことのないように、この日メンバー全員で何度も願いの言葉を練習した。
翌朝、目が覚めると外が騒がしかった。
その中心に横たわっていたのは、一部が焼け焦げてはいるがトリシマだと分かった。傍に黒く焦げたアタッシュケースが転がっていた。
メンバーたちは動揺を隠せないでいるが、リーダーである長男だけは落ち着いていた。
誰かが裏切り皆を出し抜こうとしたときだけに発動する罠が仕掛けられていたのだ。
鳥山明氏の遺言状とも言える漫画の一部、シェンロンを呼び出すシーンに手が加えられていたのだ。
正しい呪文は「いでよシェンロン!」であるが、漫画には「ででこいシェンロン!」に書き換えてあった。
そしてその呪文に連動するように、ドラゴンボールを格納しているアタッシュケースには細工がしてあった。
メンバーには直前に正しい呪文を教えるつもりだった。つまり、誰かが出し抜こうとして間違った呪文を唱えれば途端にアタッシュケースが爆発し、たとえそれでシェンロンが現れてしまったとしても、爆発によって願いを叶えることはできなくなるという仕掛けだった。
もちろん、位置情報によってこの建物を離れようとしてもアタッシュケースは爆発するようになっていた。
そのことは他のメンバーには伝えていなかった。
ざわつくメンバーを尻目に、リーダーである長男はレーダーを元にそこら辺に飛び散ったドラゴンボールを拾い集める。
流石のドラゴンボールだ。傷ひとつどころか、汚れさえも全くついていなかった。
動揺するメンバーに事情を説明して、この事故が自業自得であることを理解してもらう。
メンバー達は安心したような、それでいて何かに怯えるような表情をしている。怒りの表情を浮かべるものもいるがもう知ったことではない。
そんな状況を仕切り直すように「さあはじめようか」と、長男は一言だけ言った。皆は無言で頷く以外になかった。
いよいよだ。
「いでよシェンロン!」
途端に視界が光に奪われる。まだ朝だというのに、真夜中に突然目の前でナイター照明を焚かれたかのような明るさだった。
少しずつ目を開けて見上げてみると、まさに生前に父が漫画で描いたかのようなシェンロンがこちらを見下ろしていた。
「さあ願いを言え」
これも父が漫画に描いたシーンのように、直接頭に響くような声だった。
漫画で見ていた分、少しは冷静でいられたために周りを見回す余裕もあった。
周囲はすでに夜よりも暗い闇に包まれている。
どうやらこの周辺以外の時間が止まっているらしく、ここにいるメンバーたち以外に何かが動いているような様子や音は感じられなかった。
それならば騒ぎになることはない。焦る必要はないのだ。
メンバー達と目配りをする。
「どうした。さあ早く願いを言え。」
その声が皆の頭に響いたのを合図に、メンバー達は同時に願い叫んだ。
ここまできて裏切りがあったのであれば、それはもう仕方ない。
また探せばいいのだ。残ったメンバーの数だけ、探し続ければいいだけのことなのだ。
そんなことを考えながら願い事を言い切ると、「たやすいことだ」という一言が頭に響いた。
周囲が光に包まれると同時に目を閉じる。
そして眩しさが去ると、辺りに喧騒が蘇ってきた。
恐る恐る目を開けてみる。メンバー全員が不思議そうに顔をみあわせる。
それぞれの表情を見比べると同時に、自分たちの願いが叶ったことを理解した。
そう。皆の頭には、今まさに脱ぎたてのようなほかほかな暖かさに包まれた小さなリボン付きの純白なパンティーが、それぞれかぶらせられていた。
偉大なる巨匠であり我が父よ。あなたの願いはこれで間違いないだろうか。
皆で何度も相談した結果、どう考えてもこの結論にしか至らなかった。
https://anond.hatelabo.jp/20230504110406
はてなIDはもう10年以上前に削除済みのROM専だけど、今回トラバするためにわざわざIDをもういっぺん作ったよ。
身内に統合失調症がいるので、精神障害者やそういう人の家族に対しては理解があるつもりだ。
そんな私なので「精神異常者」なんて挑戦的な単語のタイトルを見たら、さーてどんな奴か読んでみたろと思うので読んだ。
事前に言っておくが、増田に対して説教するつもりは1点しかないよ。
その1点とは「精神異常者」なんて言葉を使ったことだけ(それも、動揺と怒りのため言葉を選べなかったのかもしれない)
読み進めて、2階から放尿でびっくりしたよ。だってうちの身内(以下、M)と同じなんだもの。
Mは、子供の頃絵を描くのが好きでテレビゲームがやたらと上手くてただ気を使ったり人とペースを合わせることができない奴だった。
クラスに必ず一定数いる「皆と違う」嗅覚がよく働く(そして大人に可愛がられる)タイプからはさぞかし標的にされやすそうな子供だった。
実際、昼休みに学校の中庭で同級生から小突かれているのを見かけたことがある。
私は昼休みはもともと中庭で植物を眺めながら過ごすことが多かったので、Mを見かけたときはテキトーに声をかけるなどしていた。
少なくとも私がMに話しかけるとき、同級生はMを小突くために近づくことはできなくなるからだ。
関係ないが、そういう機転(笑)を利かせることができる能力のおかげで彼らは大人に可愛がられるのだろう。
そんな事が子供のころから出来るなんて、器用で羨ましいことだ。
また、大人になった私が子供を「子供である」という点に起因して好意的に見ることは決してない理由がここにある。
話を戻そう。
もともとMは勉強(というか学校の授業)は苦手だったが、中学の頃からほとんどついていけなくなり、学校での虐めもひどくなった。
小学校は6学年あるが中学は3学年しかないので、私はMが中学でどんな様子で過ごしているのかその目で見ることはできなかった。
そんなMの様子を見た父親は、自分が低学歴のため低賃金の肉体労働を長く続けざるを得ない苦労をMに語って聞かせ、
「何でもいいから、高校にだけは行かなきゃ駄目だ。高校だけは行かないと人生おしまいだ」と叱咤激励し、
Mは父親の言葉をしっかり胸に刻み、高校へ行けない事を恐怖して半べそをかきながら机に向かい、公立高校の中では相当偏差値の低い工業高校へ入学した。
朝学校へ行ったはずのMが学校へ行かずに帰ってきて、言った。「外の人が全員、自分に「死ね」と言ってくる」
学校からは休学を提案されたが、Mは退学した。父親はMが高卒資格を得られなかったことを悲しんだ。
母はMに「皆と同じように高校を卒業しなくたって、神様はMを愛しているよ。今はいくらでも生きる方法があるし、勉強する方法も一つじゃない」と言って励ました。
その言葉は、Mが高校受験で泣きながら勉強してた時にも言ってやったのだろうか。
学校へ行かなくなったMは、お菓子を買いに行く以外の用事では外へ出なくなった。
食事の時間にはいたりいなかったりだったが、段々食卓にも来なくなった。
リビングから人の気配が少なくなると、部屋の中からそれを察知して出てきて、冷蔵庫を漁るなどしていた。
母親はMが食べるかもしれないからとおかずや冷凍ご飯を常備するようになり、冷蔵庫から野菜のおかずが減っているとはじめは喜んだ。
だが、Mが見境なく冷蔵庫の中のものを食べきってしまうようになると、家族みんなの事も考えろと言ってMを叱るようになった。
Mはますます部屋から出なくなった。時々、壁を殴る音が部屋から響いてくる。
ある朝母親の大声で目覚めて驚いて見に行くと、リビングの壁に穴が開いていた。Mが拳で殴ったのだ。
母親は半狂乱のようになり、「借家なのにどうするくぁwせdrftgyふじこ」みたいな事を言ってた気がする。
閉ざされたMの部屋のドアからは、酸化した皮脂の臭いがする。週に一度程度だけ、家族の繰り返しの説得で風呂に入っていたように思う。
とはいえ、部屋や布製品にこびりついている酸化した皮脂の臭いはどうにもならなかったが。
母親は、Mが風呂に入っている隙にMの部屋を掃除しようとした。
そこで当時成人男性の間で流行っていた女児向けアニメのキャラクターお〇ぷちゃんの二次エロ画像印刷物を見つけ、怒りながらMの鼻先に突きつけた。
私は最初「ああ、ロリは駄目だわ」と思ったのだが、母の口から「ポルノ」という言葉が出てきてそこからNGの母親に絶望した。
母は激高しMに大変な詰め寄り方をしていた。正直、あれはMがかわいそうだと思う。
ある日母親から思いつめた顔で言ってきた。「あなたの息子が窓から放尿している」と近所の人に言われたそうだ。
私は最初、流石に人間それはないでしょwwwと思ったが、ビビビビ…という音を耳にする機会はほどなく訪れた。
Mは部屋から出たくないあまりトイレにさえ行かなくなったのだ。大の方はさすがにトイレへ行っていたと思われる(と、信じたい)が。
Mはその後、母親に暴力をふるったため警察の介入を受け精神科へ入院した。
関係ないけど、夫(Mの父親)や子供(Mの弟)が暴力を振るわれた時は暴力を悲しんで涙を流し神に祈る母親を演じて終了だったのに、
自分が暴力の対象になった瞬間「アンタなんてもう知らない。神に悔い改めるか地獄に行くか自分で選びなさい!」と言って公権力に頼むとか笑える。
Mは障害者年金を受け取りながら病院に入院したり退院したり、母が関係を取り付けようとした(宗教の人が善意でやってる系の)障害者福祉施設や就労支援施設とのつながりを全て蹴って、
まともな人間関係も就業経験もないままアラフォーになる。両親がいなくなるまで、もうそんなに時間はないだろう。
もし、Mが中学の時にもっと別の選択肢を提示し、強迫観念から逃がしてやれてたら。
高校へ行かなくなったときに、何かこう…そういう子たちが行く優しく勉強できるところへ繋げてやれてたら。
そうしたら、少なくとも2階の自室から放尿することにはなっていなかったと思う。
今私が住んでいるところには、毎週同じ曜日同じ時間に奇声を発しながら通る女性がいる。姿は観たことがないが、声で家の前を通過しているのが分かる。
また、毎日使う通勤電車には、手を叩いたり大声を出したりするチック?の男性がいる。
彼らの姿を笑ったり恐れたり、不審な目でにらみつけたりする人が大勢いる。
しかし私には、彼らが羨ましい。毎週毎日、同じ時間にそこを通っているということは、
彼らには毎週毎日通えるコミュニティがあり、行った先には「おはよう」「さようなら」を言って関わってくれる人がいるということだ。
Mはそれを得られなかった。
せめて20代早々くらいで、週に1回とか2回とかのペースでもいいから、自分で通える就労施設とかへ所属できる程度に社会や人とのつながりを持てていたら。
ここまで書いておいてアレだが、悪いが私はMに関わる気はない。
私が女子大生だったころ滅多に部屋から出てこないMが私の部屋に静かにやってきて、ここで裸になってもいいか?と聞いてきたことがあった。
Mはなぜ私に嫌われているか本人は分かっておらず今のままではMが可哀そうだ、という家族もいる。じゃあアナタが親切にしてあげれば?私には無理です。
何の慰めにもならんと思うけど、増田は2階から放尿する奴が自分の身内じゃなかったことだけでもいくらかマシだったと考えて強く生きてくれ。
じゃあな。
新宿のモザイク坂が先週で営業終了との事で話題になっていたが、知る人は少なかろうがあそこは実は高架道路なんである。
斜路の高架道路に階段設えたりタイル貼ったりしたのがモザイク坂だったのだな。
じゃあなんでこうなったのかというのには経緯があるのでちょいと書いてみたい。
モザイク坂は京王デパートと小田急デパートに挟まれているように見えるが、実は小田急の駅上の京王デパートに隣接した所を通っている。
1.南側が狭くなっている
という事に気付くはずだ。https://goo.gl/maps/LoyBvgAkdnU7oubeA
この斜めは何かと言えば、そう、モザイク坂の高架道路斜路が上にあるんである。
1966年に今の地下広場を擁する西口の立体ロータリーが完成するのだが、その前には大歩道橋があった。今のモザイク坂登り口横の京王入口付近から丸の内線入口付近まで続く広くて大きい歩道橋があり、国鉄駅や小田急駅に接続していた。
これは小田急、京王←→国鉄←→地下鉄や国鉄←→バスの乗換客がぶつかる事を避けて分離するためだったと思われる。ペデストリアンデッキの走りだね。
国鉄は商売下手&流通事業は基本的に認められていない為に市街活性化の為に駅ビルは民間が建てて運用する事になり、小田急は自社改札~地下鉄までの権利を獲た。
さてそこで困ったのが駐車場をどうするか。当時はモータリゼーションの途上だったが、自動車は富裕の象徴でもあった。ならば百貨店の高級イメージの為にも駐車場は欠かせない。
そこで小田急線のホームの上に高架式の駐車場を作る事にしたのである。
まずは丸の内線上にビルを建て(現小田急ハルク)、そのビルから小田急線改札までに本館を建てる。
更にホームの真ん中辺りの上空に鉄骨を組んだ人工地盤を建設して地上4階の駐車場にする。
改札上空にも鉄骨を組み建て本館と連結させる。その拡張本館と空中駐車場を繋ぐ。
そして本館横の京王デパートとの隙間を登り口とする高架斜路で駐車場に繋ぐ。また、線路を大きく跨ぐ甲州街道に出れるようにこっちにも高架道路を作る。
なんでこんな凝ったデザインにしたの?と言ったらあれですよ。当時完成供用開始された首都高速道路。あの「未来っぽさ」を模す為にわざとビルの隙間を縫う高架道路にしたんだと思われる。
それに小田急本館の横に入口を設けられるからアピールしやすい。更に完成した時は歩行者デッキがあるからそこに車入口を作っても歩行者の妨げにならない。
ところが空中駐車場が出来て数年後には西口の立体ロータリー工事が行われ、地上+歩行デッキの二重構造で歩者分離していた交通が地上+地下の二重構造になってしまう。
更に京王デパートが開業すると歩行者の通行も増えて車が歩道を斜めに渡って斜路登り口に行くのが危険になってしまう。
しかも登り口横に京王デパートの入口が出来てしまった。更に小田急線の一階改札出口の横でもあってバス乗り場にも近く、更に更に地下への階段も出来てしまった。
そんな人とバスとタクシーがひしめく所に車で斜めに入っていくなんてとんでもない。
という事でこの登り口は廃止するしかなくなってしまう。後には歩道のガードレールでも塞がれてしまい、プチ首都高の高架斜路はトマソン化してしまった。
大きい電鉄デパートの間に錆びたゲートで塞がれた寂れた廃道があるという光景である。この状態で10年以上放置されていた。
空中駐車場の方は甲州街道側から入れるからそのまま供用されていた。また、空中駐車場は二層構造になってて一階降りると荷捌き場があったようである。
小田急としても始発駅のデパートのすぐ横に「廃」なものがある状態でいつまでも放っておくことは出来ない。
そこにミロードの建設の話が持ち上がった。ホーム上空で開いている空間に甲州街道側に連結するビルを建てようという計画だ。因みに当時南口はかなり寂れており、古い跨線橋に改札があるだけで、しかも甲州街道の陸橋の真ん中に出てしまう上に小田急にも京王にも乗り換えが出来ずに不便であり通行する人も余りいないような状態だった。
そこに敢えて出店するとともに小田急線の改札も設けて人流を作ろうという計画だ。
そして放置プレイ状態の廃高架道路を通路として活用する事になったんである。
だからモザイク坂は1990年代の中頃まで「モザイク坂」とは一般には呼ばれずにミロードと呼ばれていた。
当初のモザイク坂は今の様に斜路+階段半々ではなくて全域が緩い階段になっており、坂の途中にはキヨスク形式の店というかスタンドが途中に2軒程度あるだけだった。
坂を上がった先は広くなっているがここが元の空中駐車場で、駐車場としては廃止。でも西口地下に駐車場が出来ているから問題がない。
ここの空中広場は大きなサンシェード的なテントが掛かっていたのだが、テントが掛からない切れ目が斜めに通るようにしていた。またイベントスペースとステージがあって芸能人が来たりラジオのスタジオがあったりした。
この広場は明らかにフランスや欧州の古都にある都市中庭を模していると思われる。アパート群に囲まれた地上数階の場所に広場があってマルシェやバザールが開かれている、あの宮崎アニメ的なイメージだ。
また階段途中に平べったいキヨスク的な店舗が点在するのなんかはモンマルトル的だ。多分デザイナーはフランスあたりの都市の構造を知っている人物なんじゃないかと思う。
こうしてミロードの付帯物件だったので2000年くらいまで駅南口の方に抜ける事は出来なかった。
広場の左の方にミロードへの入口があるのだが売り場に入ってしまい、更に階が違うのでエスカレータで下りる必要があった。電車に乗る時に売り場を通過するのは結構ストレスになる。
駐車場は廃止できたが、デパートでは重要な搬入口は廃止出来ない。そこでモザイク坂上の広場は結構複雑な事になっている。
広場の左側(東側)には店舗があるが、じつはこの上は荷捌き場と搬入車駐車場になっている。
最後は通り抜け出来るようになっていたドン付きの上はよく見ると面台のようにミロード躯体との間に何やらスペースがあった。
https://goo.gl/maps/aYLf6WuWewEhw2bd8
実はこれは搬入車用の道路で、甲州街道から急坂で登ってきてここでクランクを曲がって左側店舗の上で荷卸しをするんであった。
このクランクと甲州街道の搬入車入口間は急坂になっているが、この区間は高架道路である。つまりミロードの下の方は駅ホームでその上の方の端っこには高架道路があるというスカスカ構造だ。ビッグサンダーマウンテンみたいである。
2000年頃?開通したミロード通り抜け通路は登ったり下ったり構造が複雑で、特に変な出っ張りがあった。
https://goo.gl/maps/Wqd4ZQC9qPdAnWof9
こりゃなんだ?
右には高架道路が急坂で下って来ていてその真ん中へんなのだ。つまりはこれは高架道路の橋脚が出っ張ってるのを避けてるって事である。
また、旧駐車場のミロード広場が鉄骨の人工地盤、モザイク坂が高架道路という構造の為にジョイントが存在する。
広場と坂の接続部と、高架道路の橋脚の上の各橋桁間に一見、排水路やメンテナンスリッドのようなものがある。
https://goo.gl/maps/LBz4QRy4tYHpZkCd7
これらはジョイントのカバーで、大地震の際は各構造物の揺れ方が違うのではじけ飛んでしまうので危ない。地震の際には離れるべき…もう立ち入りできないけど。
またこのジョイントカバーは階段途中の店舗の中にも存在し、坂に対して直交だけでなく、それにT字に交わるものもあった。
T字になっているのは店舗の奥の方が小田急本館躯体に支持されているからと考えられる。明らかに本館に食い込んでいる店舗もあった。
また、高架道路には両側に腰くらいのコンクリ壁があるが、京王側にはそれが残っていたが
https://goo.gl/maps/dTeGpTE7c3S3KeLv6
小田急本館側は店舗の奥行きが拡大されており、撤去して本館躯体まで床を拡大する工事が途中で為されたと思われる。
利用していた人らやここで働いていた人らもここが高架道路の上とは思ってなかったんじゃないだろうか?
阪神大震災で数多の高速道路、鉄道の高架橋が落下してしまい、急遽全国的に落下防止装置、橋桁を巨大チェーンやワイヤで橋脚と繋げるあれの工事をしたのだが、モザイク坂はやってあったのだろうか?疑問である。
動画の企画っぽい感じで自分はカメラ視点(所謂TPS)、ショッピングモールとかの飲食店が多く入ってるフロア(デパートみたいに格式高い印象ではなかった)で、各テナントの前にオモコロメンバーが一人ずつ立ってて店の特色を紹介したり一言コメントを行って次の店へ、って流れだったと思う。
夢としての導入は何かの企画展みたいなことをやってる場面からになるんだけど本筋には関係ないので省略。
登場した順(敬称略)に言うと
モンゴルナイフ:ローストビーフ丼専門店。スイーツ系の店かと思ったら予想が外れた記憶。でも、めっちゃ旨そうに食ってたので良し
原宿:天麩羅屋か寿司店。白い割烹着というか作務衣と帽子(日本料理屋の亭主が着てるようなアレ。伝われ)を着てた、拘り店主っぽさがあった
マンスーンかヤスミノ:どっちだったか定かでないのに加えて何の店だったかも忘れた。洋食系か
恐山:こいつだけ何故か食い物屋じゃなくてモールが独自に展開してるグッズの店だった。モールの名前がデカデカと印字されたTシャツとかアクスタ、キーホルダーなんかを売ってた。Alphaかモンナイに「ざんちって、そういうとこあるよね」と突っ込まれてた
かまど:親子丼の店。一瞬いいなと思ったけど、かまどだしなぁ……と思い直して辞めた
永田:焼肉屋。普通に「地獄に堕ちろ!」って言われてテンション上がった
Alpha:ヤンニョムチキンとか、その辺の流行の店だった覚え。普通に対面しても目線が外れてなかった
大体終わったかな、って所でパティオというか中庭みたいな開けた場所に出て、振り返るとミスドとかマックみたいなファストフードやチェーン店とか普通にあって、そういや紹介して貰った中にはそういう店なかったよなー……と思い至った途端に目が覚めた。
昨日から今朝にかけて見た夢なんだが今の今まですっかり忘れてたのを急に思い出したので記憶が褪せない内に書いておくことにした。
ケモノ、Fursuit文化に興味を持ったのがつい半年前で、まずは一般参加でどんなイベントなのか見てみたいという思いだった。
楽しいこともたくさんあったが、それと同時にこれがこの界隈の、さらにはこのイベントの常識なのだろうか…?と不安になる部分も多々あったので備忘録的に書いておく。
国内最大級のイベントというだけあってとにかく参加者が多い。フルスーツ、ハーフスーツ、リアル系、かわいい系、イケメン系…とにかくいろんな着ぐるみを一度に見ることができるのはこのイベントの醍醐味だと思う。
私は工房へオリキャラをコミッションという形で制作してもらう予定であり、現在はその順番待ちだがそのときにどんな体型にするか、ファーの長さはどれぐらいがいいのか、体の太さ…など実物を見て参考になる部分は大いにあった。
現在着ぐるみの作成を考えている人、自作を考えている人は写真ではなく実際に生で見ることでより具体的なイメージが付きやすいと思うので、JMoFに限らずイベントの参加は強くおススメしておく。
国内には様々なケモノイベントがあるがそれの多くは着ぐるみ向け、絵師向け、ハンドメイド作家向けなど内容が限られていることが多い。
これは規模の大きさによるものが大きいだろうがJMoFでは着ぐるみだけのイベントではない、ということを公式が明言している。その名言通り、期間中はイラストレーターのためのお絵描きブースやコミッション、手作りの小物やグッズを販売できるディーラーズルーム、果てにはDJイベントや車の展示、小説のコンテスト、プレゼンや発表といった様々なジャンルについての催しが開催される。
着ぐるみには興味ないがケモノは好きと言った人でも十分に楽しめるイベントになっている。
4日間開催されたこのイベントでは事前登録、当日登録のふたつの参加パターンがあった。
事前登録では開催の数か月前から登録が始まり、家に直接参加証が届けられるという手の込んだことも行われている。
さらに当日登録に至ってもケモノジャンルに限らずごたつく場面が多いものだが、QRコードから入力フォームへ必要事項を入力し、返信された内容を元に支払いを行う…という流れだった。当日参加もかなりの人数がいたが目立った混乱はなく、スムーズにさばけていたのはスタッフの長年の経験のおかげだろう。
さらに参加者はHN、本名、識別番号の3つが情報としてスタッフに渡る。これは今回のコロナ渦の中での開催という理由だけではなく、着ぐるみを着用するという特性上中の人の判別がつかないことによる不正を防止する目的だろう。普通のコスプレイベントとは違い顔が見えないことによる不正は予見できるものでありそれを最大限防ぐための対応としてはかなり洗練されていたように思う。
また体温測定に関しても問題ない体温だった人にはシールを配布するのだが、4日間とも色違いのシールを配布し不正を防ぐというデザイン面と機能性の両方を備えたもので感心してしまった。
例年どのような配置になっているのかはわからないが、なぜか受付がイベント会場と中庭を繋ぐ通路ど真ん中に設置されており、とにかく人・着ぐるみの往来が激しい。
受け付けは登録だけでなく物販、休憩所も兼ねており常に人の往来が激しい場所だったのだが、着ぐるみとの衝突、混雑はかなりの頻度で起きていたように思う。
さらにコロナ渦ということも考慮すれば人の流れは一方向にすべきであり、この配置には疑問が残る。
また通路にも関わらず写真撮影を始める者や談笑を始めるものも多数いた。スタッフは目の前にいたが注意しているところは一度も見ていない。
ホール入って右手に設置されていた本部だが、正面奥のトイレ側かホワイトボードが設置されていた場所へ配置するのが妥当なところだろう。さらにイベントホール側奥には中庭に近い場所へ出られる階段があり、転倒の危険がある着ぐるみを除いてそちらから出ていくよう誘導すべきだったように思う。
参加費を払った人には参加証が配られるがもはや形式的なもので、何処に行っても確認されることはほとんどなく、ホテルの外側からも入り放題出放題。
せめて中庭や受け付けだけでも確認するスタッフをつけておかないと参加費を支払わずに参加することは簡単にできそうである。
同じ国内開催のKemoconはスタッフがビブスを着用しており、それなりに目立つ格好をしている。1日この会場にいてスタッフだと明確にわかる人は数人程度しかいなかった。
中庭は着ぐるみ着用者がもっとも集まる場所であり、トラブルの起きやすい場所だ。
実際今回のイベントでも着ぐるみに対する痛みを感じるほどの強いハグ、付きまといなどの迷惑行為が報告されている。
しかし中庭にスタッフがいた様子は少なくとも私は確認できなかった。同行者もスタッフは見つけられなかったと話している辺り、前述のスタッフか判別しづらい状況も踏まえて中庭にはスタッフがいなかったもしくはいても目立っておらず意味がなかったと考えられるだろう。
最低でも1名から2名程度は中庭にスタッフが駐在すべきだと思うし、そのような迷惑行為が見られた場合は報告を待つのではなくまずスタッフが率先して注意すべきだと思う。
幸いにも人の良心によって大きなトラブルに発展する様子はなかったが、いつもめ事が起きてもおかしくないし、その場にスタッフがいて判断できなければ意味がない。
また中庭へ出る出口は人用の狭いドアひとつであり、しかも重たい上に開けっ放し厳禁の張り紙がある。
一般参加者がドアを開けて通らせてくれたりと対応していたが、大きな着ぐるみはぶつかったりその手前の階段でこけたりとこれもトラブルのもとになりやすい印象だ。
せめて中庭の巡回と兼任でもいいのでドア付近の対応は行うべきだろう。
長年このロワジールで開催されていることからホテルスタッフに何らかの協力を仰いでいる・ホテル側も了承している可能性はかなり高いが、それでも場所を借りているという立場上まずはJMoF側のスタッフが誘導や注意を行うのが筋というものだろう。
通路に関しての注意については事前にTwitterやサイトで注意喚起を行うだけでも違うのではないだろうか。
アテンドをつけていない人が目立つ。
人が多く混雑していることも原因だが、とにかく衝突・段差での転倒があちこちで見られる。
恐らく長年着ぐるみイベントに参加し、慣れている方も多いだろうがぜひ一度アテンドの必要性については考えてもらいたい。
特に中庭は階段付近、テラス、庭側と様々な場所に階段、段差があるうえ、泥の地帯、柵、植え込みも多数見られる。さらにはこの混雑具合である。
一般参加の中には女性もおり、視界の悪い着ぐるみとの衝突は何度も見られた。
ソファに寝ころんだまま2時間以上動かない着ぐるみもいるが、アテンドがいる様子はなく、スタッフの声掛けもなく放置である。
まず体調不良にならないよう公式から言われている「6-2-1ルール(6時間の睡眠、2回の食事、1回のシャワー)」を徹底することと、体調不良になった場合でも対応できるアテンドをつけるべきだろう。
長時間の座り込み、寝ころびは顔の分からない着ぐるみは基本的には避けるべきだろう。これも公式から明言されていることではあるが。
基本的には楽しいイベントであるがスタッフの雑さが端々に目立つイベントだった。
とにかく参加者の良心に委ねられている部分が多く、それが自由さや楽しさに大きく寄与している部分は否定できない。これは一般参加の私でもそう感じた。
しかしその良心が全ての人間に備わっていないことは残念ながら事実であり、トラブルやイベント存続について関わってくる可能性も大いにあるだろう。
造成地の住宅街なので周りに新築の家がいっぱい作られてるんだけど
周りの家を見てみるに「失敗だろうな」と思うのが結構ある
好みの問題とか将来的にリフォームでどうにかなる失敗は別にいいと思うんだけど
圧倒的に多いのが「開放感のある大きな窓」だな
当たり前だけど丸見えなんだわ
最近は窓ガラスやサッシの技術が進化したから大きな窓を付けることができますよ!って言われて付けたと思うんだけど
あんまり気にならないような角度に窓を向けてる家とかあるけど最終的には万年カーテンが付けられてる
狭い家で生活リビングの窓を開放にしたらそりゃ丸見えになるんだよね
高層マンションとかに住んでるとカーテンいらないからそのノリでやっちゃったんだろうけど戸建てには向いてないよ
隣の家の壁方向に中庭を作って大きな窓付けてる家もあるけど、そうなるとまた開放感無いから何やってるかわからん
まぁ、うちも「開放感のある大きな窓」を付けてしまったけどな!
ホロコーストマニアになって2年以上の私だけれど、ホロコーストには理解しにくい話も多いとは思っている。何故増田にしばしばホロコーストの話を投稿するかというと、こんな話「チラシの裏にでも書け」だと思っているからで、チラシの裏といえば増田しか思いつかないからだ。チラシの裏でなくてもいいネタはちゃんとnoteとかに書いている。
歴史とは「起きた事実」について考えることであって、起きた事実を「実際には起こらなかった」と考えることではないので、事実認定は慎重ではあるべきだが、単純にその事実が信じられないからと言って否定的に考えるべきものではない。
しかし、ホロコースト否定派は、「自分が信じられないことは起こらなかった」と考える傾向が極めて強く、フランス人の修正主義者として名高いロベール・フォーリソンはとにかく自分が信じられないからと、アウシュヴィッツのガス室を代表例として徹底的に否定した。
さて、そのアウシュヴィッツ(ビルケナウ)の火葬場の火葬能力が現代の火葬場に比べて桁違いに処理能力が高いという史実は、もちろん否定派は信じない。1943年6月28日付のアウシュヴィッツの建設部がベルリンの親衛隊経済行政管理本部に送った書簡には、収容所全体の火葬場の能力として1日あたり、4,756体の処理能力があったと記されている。これは計算上、15分で一体を火葬していたことになるため、現代日本では一体1時間かかるので、実にその能力は4倍もあったことになる。しかも、アウシュヴィッツの火葬場は連続稼働が可能で、火葬場が壊れない限り(実際には何度も故障修理していたが)延々と火葬を続けることすらできた。従って実質的には、日本の現代の火葬場の4倍の能力どころではなく、約二十倍の遺体処理能力があったのである。日本の場合、いくら頑張っても1日に最大五体だが、アウシュヴィッツの火葬場は百体近い。
何故そんな高処理火葬が可能だったのかについては、一つは、日本の火葬場では、というか世界中の火葬場がそうだろうが、一炉につき一体ごとにしか遺体を火葬してはいけないからである。これは当たり前の話で、遺骨を遺族が引き取る必要があるからだ。だから、普通は火葬炉を一回ごとに冷ましてから、台車などで焼け残ったものを炉の中から取り出し、遺族が箸で骨を拾う儀式を行うのである。もちろん遺体を炉に入れる前には通常、僧侶が付き添って儀式を行ってから、となる。清掃も必要だし、あれやこれやで一回転あたり最低でも2〜4時間はかかる。つまり、日本の現代の火葬場はそれ以上処理能力を上げられないボトルネックが存在するのである。火葬場の人員上の問題もあるので、1日五回転がせいぜいなのだ。
アウシュヴィッツの火葬場ではそんなボトルネックなどない。儀式など必要ないし、遺骨を遺族が引き取ることもないから複数人の遺骨が混ざっても大丈夫だ。とにかく大量に死人が出るので、遺体処分だけが目的である。だから、焼却を妨げない限り、遺体は常時複数を炉に入れて焼却し、炉の下に落ちた焼却灰(完全焼却などされていない)は焼却中にガンガン取り出し、炉内の遺体を入れる箇所に隙間が出てきたら、連続的に新しい遺体を投入してゆく。火葬炉は、三つ(あるいは八つ)のレトルトが内部でつながった構造になっているので、それらそれぞれのレトルトで火葬している限り、炉内はあまり温度が低下せず高温を維持できるようになっていた。このように温度変化が少ない状態が続くので、理屈上は火葬材も長持ちするのが特徴でもあった。ただし、戦時下に建設された火葬場なので火葬材の品質が悪く、故障は頻発したようである。
しかし、そんな高処理能力の火葬場があったのに、それでも火葬能力が追いつかないほどの死体は発生することもあった。1日あたり最大で一万人も殺していたとされる時期、1944年5月から7月にかけてのハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺を行っていた時期である。やっと本題である。
この時期、火葬場が足りないので、野外に穴(壕)を掘って遺体を焼却していたのだという。ゾンダーコマンドのシェロモ・ドラゴンの証言によると「長さ25メートル、幅6メートル、深さ約3メートルの穴が5つありました」だそうである。この証言の他にも野外焼却をやっていた場所もあった。司令官ルドルフ・ヘスの回想録によると、大半の遺体を野外焼却によって処理していたそうである。
否定派の疑問(難癖)の一つは、そんな大量の遺体を焼却するためには大量のガソリンが必要だったはずだから、終戦前年くらいの時期にそんな大量のガソリンを用意できたはずはなく、嘘に違いない、というものである。これはしかし、否定派は「ガソリンが用意できなかった事実」を証明していないので、難癖の域を出ないわけだが、実はアウシュビッツ収容所群の一つ、第3収容所であるモノヴィッツ収容所があったのは大企業であるIGファーベンの工場であり、ここではメタノールを製造していた。メタノールが燃料となることは言うまでもない。事実、誰の証言だったか忘れたが、野外焼却でメタノールを使っていたとする証言も見たことがある。
さらには、死体を焼却していると死体から脂肪分が溶け出して垂れてくるので、それを壕の底に溝を掘って溶け出した油をその溝に流して、別の場所に溜めてからその脂肪油を死体にぶっかけて燃料替わりにしていたのだという。もちろんそんな話否定派は信じない。
もう一つの難癖は、壕、すなわち地面に穴を掘ってそこに遺体を溜めて焼却することなど、科学的に考えてできるわけがないとするものである。何故ならば、穴の中が燃焼によって酸欠になってしまうからだ、という。しかしこれは、穴の形状にもよるはずである。凹型の壕ならば、それもあり得るかもしれないが、上に向かって広がっている穴ならばどうか。あるいは幅六メートルに対して深さ三メートル、長さ二十五メートルだから、これならば何となく酸欠になりにくい感じもする。もちろんその程度の理屈では否定派は納得したりはしない。
ところが調べていると、日本のあの関東防疫給水部、731部隊が撤退時に証拠隠滅目的で、大量の死体を同様に穴を掘って焼いていたとする証言があった。
外には穴が掘られており、穴の中に薪と"マルタ"が交互に積み上げられ、あとは火をつけるだけになっていました。(P93)
七棟と八棟の近くに、それぞれ大きな穴が一つずつ掘られていた。この穴に、直径一五センチぐらいの丸い鉄棒が何本も平行にわたされた。ちょうど、巨大なバーベキューの網のようである。
わたしたちは、二人一組になって各監房から「丸太」の死体を中庭に運び出した。運び出した「丸太」の死体は、鉄棒の上に並らべられた。
そのうえに、たしか重油だったと思うが、燃料がぶちまけられた。火が放たれた。瞬間、赤い焔とともにもうもうたる黒煙があがった。
「丸太」はこうして、次から次へと、鉄棒の金網の上で焼かれていった。全部で二〇〇体くらいはあったのではないか。(P116-P118)
残った骨などは砕いて近くの川に捨てに行ったというのだから、規模こそ違えど、やってることはアウシュヴィッツのまんまである。
論争相手にこれを示しても、どうやらホロコースト否定派であると同時にネトウヨでもあるらしく、731部隊の丸太処分の話など信じないのだという。
しかし懲りずにもっと調べていたら、広島の原爆でも、穴を掘って大量遺体の焼却処分をやっていたことがわかった。
ひる間の呻き声も次第に聞かれなくなって数多くの人が昇天していった そうして町のあちこちで穴が掘られやけただれた鉄骨を並べた上に死体がうづ高く積まれ油をかけて焼かれていった
穴に死体をうず高く積み上げ油をかけて火葬する風景が町のあちこちで見られた。 | NHK 原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ
調べたのはネットだけだが、他にもいくつか穴で遺体を焼いていたとする記述は見つかった。
まず焼却燃料について、終戦間際の物資に窮乏していたはずの日本ですら、原爆被害の酷い惨状でも燃料となる油があったとする事実は、ナチスドイツ親衛隊が運営していたアウシュヴィッツ収容所で終戦前年に「ユダヤ人絶滅」作戦という中で、燃料を用意できなかったとする否定派の理屈を非常に弱めるだろう。
そして、ネトウヨが731部隊を信じないとしても、原爆被害の実態を否定するのは難しいはずである。
ともかく、怒涛のように証拠だらけなので、否定派の難癖は無意味である。
しかし、では何故穴を掘って遺体を大量焼却していたのか? 実のところ、そこがよくわからない。穴を掘る意味がよくわからないのである。
高いところから油をぶっかけやすいからだろうか? それとも、焼却後に遺体処分として埋めるのが簡単だからだろうか?
何か知っている人がいたら是非教えてほしい。近所の図書館に行って、司書さんにまで手伝ってもらって文献を調べたが、それでも結局その理由がわからなかった。
※前回書いた似たような内容の増田日記は削除しました。とにかく、何故「穴を掘って」遺体を大量焼却していたのか? 何か知っている人は教えてくださいませ。
自分は典型的な学会2世で、2000年代前半に創価中学・創価高校(創価学園)に通っていた。
いかんせん20年近く前のことなので中学・高校を混同してたり不正確かもしれないけど許して。
地元の5歳ほど上の代に創価中学に合格したひとがいて、それなりの田舎だったこともありレジェンドのように語られていた。
そのレジェンドが通っていたのと同じ地元の塾に小4から通った。創価学会員はこの手の験担ぎが大好きなのだ。
前日に38度の熱を出してしまった。前述のレジェンドも同じようなことがあったなかで合格したらしく、カーチャンは興奮しながら唱題していた。創価学会員はこの手の(ry
当日は携帯ご本尊(お守りご本尊とも呼ばれる)をカーチャンに持たされた。どんなものかはググってくれ。
お決まりの「公共交通機関でお越しください」であったが、トーチャンの車の後部座席に寝ながら向かった。ゲートで係員に止められていたが、後部座席で寝込む俺を見て敷地内の駐車場に誘導してくれた。俺は眠くて寝てただけなのに。
通常の会場とは別室に設けられた体調不良者が集められた部屋で試験を受けた。ポカリ飲み放題で、毛布にくるまって行儀悪く立膝しながら快適に試験を解いた。
俺が受けた年は倍率11倍で過去最高だったとかそのあと聞いた気がする。
創価学園だからといって必ずしも池ちゃんと接触の機会があるわけではないが、俺のいた頃は入学式と卒業式は確定で池ちゃんが来ていた。
普段は会館で見る衛星放送の映像の中にいる池ちゃん(とそのスピーチ)を生で見られるということで、たぶん保護者が一番テンション高かったんじゃないかな。
うちもカーチャンがテンション爆上がりしていて、出席できるのは保護者の片方だけだったがトーチャンは問答無用で蚊帳の外に置かれていた。かわいそう。
ちなみに俺の在校中に池ちゃんが入学式・卒業式に出なかったことが2回ぐらいあって、それまでは皆勤だったから中々の衝撃を学会シーンに与えていたような記憶がある。
あとスピーチ中の池ちゃんはアゲどころで机を手でバンバン叩くことが多く、その少し後に流行ったやる夫AAの「だっておwwwwwバンバン」を見たときに池ちゃんだろこれって悪友と笑ったことがある。
入学式・卒業式ほどじゃない節目イベントのときに池ちゃんからメッセージや差し入れが届くことがあった。
終業式のときなんかに学年主任が「池田先生から差し入れいただきました!」って言って全校生徒にかっぱえびせんが配られるのが定番だった。
コンビニで売ってるようなサイズ感ではなく一回り小さいものだったので「けちくせー」と思った記憶がある。貰い物に文句をつけるな。
何より面倒くさくてウザかったのが、その手のことがあるたびにクラスでA5の便箋が配られて「今回の感想と決意を書いて提出しなさい」と先生から言われたことだった。学会員決意するの好きすぎる。
かっぱえびせんに感想も決意も出るわけもなく、俺は一回も提出したことないがそれで怒られた記憶はない。真面目な生徒は毎回提出していたように思う。
創価学会においては、唱題という行為をすればするほどえらいという価値観がある。本尊にむかってみんなで「なんみょーほーれんげきょー」と連呼するあれね。
校舎の一階に謎の立派な扉があって、その奥に20畳ぐらいの和室と本尊があった。
体育会系のメインストリームなひとたち(サッカー部や野球部)なんかは大きな大会の前になると、朝や昼休みに総出で唱題をしていた。練習すればいいのに。
ほかにも生徒会とかの意識の高い優等生は自発的に空き時間に唱題しに来てた。
ちょっと記憶があいまいなんだけど、誰でもアクセスできる部屋というわけではなく、部活で唱題する人と一緒に応援をしたい人とか、招待制というかクローズドな場所だったような気がする。誰も唱題していない時間に潜り込んで畳の上で昼寝した思い出。
小学生のころ休み時間にサッカーをするのが好きだった。地域のサッカークラブみたいなところにも入りたかったが親に許されず、そのまま下手の横好きで休み時間サッカーを続けていた。
中学に入学してすぐのころ、休み時間サッカーに混ざりたくてそれとなく輪に入ったら横で同級生同士が「なんで増田がここにいんの?プゲラw」と話しているのが聞こえてそれ以降休み時間に中庭に近寄るのはやめた。体育もスポーツも大嫌いになった。
当たり前だが同級生はみんなどこにでもいる普通の思春期10代だった。それまで接した創価学会の大人たちはみんな優しかったので、こんなんだったらこの学校に進んだ意味ないじゃんと思った。
創価学園を語るうえで欠かせないのが愛唱歌の存在で、校歌や寮歌のほかに10種類以上の愛唱歌と呼ばれる歌があった。
昼休みの中庭で、掲揚された三色旗の前で有志で愛唱歌を歌う活動があった気がする。
愛唱歌のうちとりわけ記憶に残っているのは「負けじ魂ここにあり」という歌で、気になる人は歌詞をググってもらえるとわかるけどテンションの上がりそうな勇ましい感じの曲だ。ここぞという機会で歌われていた。
1番から5番まである長い曲で、平時は1番と3番と5番が歌われていた。式典とかの機会だとフルバージョンだったかな。Radio MixとOriginal Mixみたいな。
いわく5番が一番大事だそうで、5番だけが池ちゃんが書いた歌詞だったかな?1番~4番の長い前振りがあって、5番に本命が来る。クラブミュージックか?
これを書きながらググった歌詞を見直したらメロディー覚えてて歌えちゃった。人間の記憶すごい。
創価学会では、学会本部に依頼すると池ちゃんに子供の名前を付けてもらえるサービスがあるのは有名。
池ちゃんネームの割合が結構高かった気がする。クラスに2,3人ぐらいはいた。
中学を卒業してエスカレーターで高校へ進学すると、創価大学への推薦を見据えて学校生活を送る必要が出てくる。
成績に関しては赤点取りまくらなければ大丈夫、ぐらいのラインだったと思う。欠席と遅刻は年間だったか累計だったかで10回まで、みたいな感じだった。
自分は創価大学へ行く気は早々に失っていたので、面倒くさいと思ったら勝手に早退して家でラグナロクオンラインやったりしてた。
成績はボロクソだったが赤点補習をきっちりとこなせば問題なかったので、留年とかそういう問題は皆無だった。なんだかんだで寛容で優しい学校だったと思う。
体育の赤点だけは、夏休みに登校して体育教師が顧問をするサッカー部と一緒にトレーニングをする、みたいな内容でそれが嫌で最低ラインの出席3分の2を維持するハックで乗り切った。
ちなみに一度受けた体育の赤点補習では、俺の休み時間サッカーの件の当事者がサッカー部だったのでそいつが居たが、妙に気遣ってくれたりしてむずがゆかった。あいつ良いやつだったな。
創価学会にはとにかく記念日が多いのだが、記念日の会合で池ちゃんがスピーチをぶると翌日には聖教新聞に全文が掲載される。
総合学習みたいな時間にはその聖教新聞がクラスで配られ一文読みをしていた。ここでもかっぱえびせんのときと同じようにA5の便箋に感想と決意を書かされる。一度も提出したことはないが(ry
池ちゃんのスピーチの全文を読んだことある人がはてなにどれぐらい居るかわからないが、池ちゃんのスピーチって基本的に中身がない(個人の感想です)
「〇〇(歴史上の偉人)は言った、ほにゃららほにゃらら。だから君たちも勉学に努めなさい」一同「ハイッ!」っていうのが池ちゃんスピーチの定番のやり取りで、勉強しろって説法をするときに引用でしか言えないのかこの人、と常に思っていた。
他には「戦争は悲惨だ、最低の行為だ」「いじめはよくない、いじめた人間が100%悪い」みたいなありふれた内容で、何をみんなそんなにありがたがっているのか分からなかった。そのためにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、具体的な方法や理論に言及することが皆無だった。せいぜい本を読めとか勉学に励めとかそれぐらいで、マセガキだった俺の好みの内容ではなかった。
「いついつの会合のスピーチ、めっちゃよかったよね~」と言っている同級生もいたが、松屋と吉野家ぐらいの違いしか俺には分からなかった。
創価学会は独特な語彙やネーミングが多いが、学校にもそれはあらわれていた。
中学のロッカールームは「鳳雛ホール」という名称だった。ほかにも学校内の講堂は「池田講堂」だったり、食堂が「栄光ホール」みたいな名前だった気がする。一番大きい体育館も何か独特の名前があったと思うが覚えていない。俺の卒業後に校舎が建て直されたりしてググっても情報が全然出てこない。
最寄り駅の鷹の台駅から学校までは10分以上玉川上水沿いを歩くのだが、玉川上水沿いの道は「哲学者の道」と呼ばれていた。哲学者の道を横に外れた場所に昔ながらの林があって、そこでエロ本を見つけたことがある。なるほど哲学者の道。
ちなみに近隣の武蔵野美術大学や白梅学園の生徒もここを使って通学していて、妙に大人の女性に見えたなあ。
白梅学園のバス停が前後を創価学園と朝鮮大学校に囲まれている画像なんかが有名だけど、不思議と朝鮮大学校に関する記憶がない。
終業式だか始業式を飛ばして悪友と学校を抜け出して武蔵野美術大学の学祭に遊びに行ったのは楽しかった。
悪友が「創価学園の生徒だけど質問ある?」みたいなスレを立ててVIPで爆伸びしていた。創価系の質問スレはググると結構多いけど、当時2chにどっぷり浸かっていた俺の知る限りでは悪友のスレが元祖だと思う。
校内の写真とかをガンガン上げていて大丈夫かと思った。今でもインターネットで出回る創価学園にまつわる有名画像のいくつかは悪友がアップしたもののはず。
基本的には学会二世しかいないので、典型的な創価学会員の世界観を持っている生徒が多い。
一方俺はネットde真実をゴリゴリにこじらせていたので、普段から池ちゃんや創価学会へ懐疑的なスタンスを公言していたが、それでいじめられたりするようなことはなかった。池ちゃんのいじめを許さないご指導が活きていたのかもしれない。
池ちゃんへのおかしいと思った点を熱心な生徒に話してみたりしたが、全否定されたり人格否定されるようなことはなくまともに議論じ応じてくれたように記憶している。
なにかの学校行事の決意発表大会みたいな学年集会の場で「俺は正直池田大作という人は別に好きではなくて~」みたいに自分の考えを披露したことがあるが(今思うとこじらせすぎている)、それでも「こう考えてる人がいることが分かってよかった。増田の言葉で聞けて良かった」とニュートラルな反応をしてくれた同級生もいたことが印象的。
一方で先生は頑迷な人が多かったように思う。一度英語の先生に「創価学会員はどうして個人なのに人の投票行動に介入するんですか?自分で決めるべきことなのでおかしいと思う」と言ってみたことがあるが、「人は選挙権のほかにも、個人として選挙をお願いする権利もあるんだよ」と答えになっていない返答をされた。いまでも意味わからん。
基本的にあまり好きな先生はいなかったが、現代文のH先生だけは好きだった。
やたらと情熱的な語り口で面白い授業をするひとで、いろんな国へ旅するのが好きで授業の雑談ではその話を臭いぐらいロマンチックに話すので好きだった。
ほかの教科はやる気皆無だったが、現代文だけはノートもしっかり取っていたし、試験前のノート提出もしていた。
あるときH先生に提出したノートを紛失された。丁重に謝罪されてノート点も満点つけてもらった(らしい)が、それ以降H先生の授業へ興味を失った。クソガキすぎる。大人だって失敗するときはあると今ならわかる。
平等や平和を謳う創価学会員もしょせんは人の子なので、スクールカーストは存在していた。
今でいう陽キャは「メジャー」と呼ばれ、陰キャは「マイナー」と呼ばれていた。
ちなみに親が幹部かどうかはスクールカーストには関係なかった。ただディベート大会で全国レベルの成績を残したり、生徒会役員だったりするようなインテリ勢は親が幹部っていうパターンが多かった。そしてインテリ勢はメジャーマイナーの括りにも縛られないアウトサイダー的雰囲気があった。
世は前略プロフィール全盛期、同級生のメジャー勢の女子が前略プロフィール(というかそれに付随するいわゆる「リアル」のページ)で飲酒パーティーの写メ(死語)をアップしていて、学校に垂れ込まれて停学になってた。
停学になったメジャーの女子たちはほとんどその後創価大学へ進学し、銀行員になったり不動産屋になったり売れないクラブDJから水商売の世界に入ったり、様々なよう。
履歴書の学歴の呪いについてのブコメをしている人がいるが、今のところ特に困難だと感じたことはない。
転職もしつつ順当にキャリアと年収を上げて生きてきたけど、「親が創価なんで」の一言でそれ以上深掘りされることも差別されることもない。