はてなキーワード: 探検家とは
ちょっと前の先日に
例の牛すじカレーなのに3日間煮込みすぎたのかよく分からないけど、
牛すじの鱗片というかぺんりんの1欠片もない牛すじがもはやエキスとなってしまっているのかもと思われる牛すじカレーをいただいたのね。
その時はとても牛筋が入っていませんでしたよ!とは言わなかったいや言えなかったんだけど、
でも美味しかったです!ご馳走様でした!はちゃんと言ったのね。
そんでまたそれに味をしめたのかしら?
私は牛筋の味はしめられてないんだけど、
また作ったと言うことで、
そのまたちょっとに今日は日替わり定食探検家としての私が楽しみにしていた何か月に1回かあるかないかの
日替わり定食が牛筋カレーだった日はその忙しくて出向くことが出来なくて、
牛すじカレーチャンスを飛び込み前転しすぎて逃してしまった矢先だったので、
というか
なんか奇跡なのかまぐれなのか?なんかスピリチュアルだわーって思いつつ。
思いつつもまたどうせ牛筋がエキスとして液体化している牛すじカレーでお馴染みの牛筋カレーなんでしょ?って思ったら、
なんかクタクタのちょっとは食べ応え歯応えを残していて欲しい私の好みの牛スジ肉ではない、
もはやこれもエキスとして溶けかけている牛筋の肉片が3つほど入っていたわ。
進歩している牛筋を微か遠くで感じる口の中で牛筋山脈に向かってヤッホー!って叫びたいところもうちょっとゴロゴロ牛筋感欲しい!って山脈にはヤッホー!って叫んじゃったところね。
もらっておいて文句を言っていて酷いと思うけど
私は期待していた牛すじカレー風を浴びたかったけど空っ風というか牛筋を感じることのない乾燥した牛すじカレーの話を主筋にしたわけなの。
もっとゴロッと食べ応えのある牛筋に期待したところだとしたとて
自分で作った方が多分私好みの牛すじカレーが出来上がること請け合いの仕上がりには自信があるわよね。
そんでさー
いっぺん私も腕によりを掛けて篩いに細かく小麦こそ振ってきめ細かくするような感じで、
よし!いっちょ私も牛筋カレー作ってみようかな!って思ったけど
ちょっと今のタイミングでは牛すじカレー作れない勢いの値段だったからビックリしたので、
こちらはゴロッと美味しく塊で存在感のある牛筋が入っていて私は思わずニッコリ!
ふとした瞬間に牛筋カレー欲を満たすことが出来てよかったわ。
あんまよく分かんないんだけど、
うーん、
人それぞれの牛筋カレーストーリーがあるのは承知の上なんだけど、
あまりにも牛筋がなくって
私もいつか自分が一番納得する、
食べ応えゴロッとした存在感の肉塊の牛すじカレーを作ってみたい野望に燃えるわ!
うふふ。
それだけで済ませたわ。
なんかタイミングとかのがしちゃって食べ損なった朝買ったサンドイッチどうしましょう?って感じね。
あと1回分ぐらいでなくなっちゃうので、
またこしらえて作っておかないとね。
夏の補給の水分は大切に!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
私は時として忘れてしまう日替わり定食探検家として今月の一応は献立表をメニューをチェックはしているんだけど、
やっぱり毎月のローテーションの日替わり定食メニューのパターンになってしまいがちなところ、
今月は抑えておきたいのは
その日は逃さないように要注意しておかなくちゃ!って今から気合い入っているところよ。
あと喫茶店のいつもたまーに行けたら行くでお馴染みの朝定食和食をやっている喫茶店とはまた別の喫茶店のモーニング。
こっちもまた当たり月だわ!
先月はハムサンドで前年と同じラインナップの月がわりサンドイッチだったんだけど、
早速賞味した甲斐があったわよね。
もうさ、
まあ最悪モーニングは行けっかも知れないけど、
ランチは忙しくて出れなかったり出れたりと、
そうなりがちなので、
ランチチャンスは逃したくないのよね。
ランチ行けるときはいってランチチャンスを獲得してなくてはいけないのよ。
はあ。
忙しいけど頑張るわ。
アイスのヒーコーにお願いしたんだけど、
甘いのとかいりません、って行ったのに甘いのにしか反応してなくて「とか」ってのにミルクは含まれていなくって、
ガムシロップは来ないけれど、
今度から甘いのとミルクは要りません!ってハッキリいわないとね!って学習する日々の毎日よ。
今日の分で無くなっちゃったのでまた補充して作っておかなくちゃって感じね。
暑くなってきたから
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
海外から訪れてくる人の欧米的な人って街中で歩いているときニューヨークスタイルで林檎を囓り歩き闊歩しがちなのよね。
ちなみにニューヨークスタイルってのは私が提唱したいとはおこがましくてそんなこと一切思っていないけれど
特に恵方巻きの時期にはこのニューヨークスタイルで恵方巻きを片手に持ってご機嫌さんに無言で恵方巻きを歩きながら食べるってのが毎年の常となっているところから、
食べながら歩くってことね。
両手に持って食べ物を食べながら歩くと普通に食いしん坊さんが街を歩いている!ってだけになるから注意が必要よね。
まあそんなことどうでも良いんだけど、
インバウンド人のほとんどの10割の人が林檎片手に持って囓りながら歩いているのよ。
あれ日本人がやったらキザの記号か歯槽膿漏ではありませんの記号になるし
かっこつけてる記号でもあるからあんまり街中でニューヨークスタイルで林檎は囓り歩かないわよね。
インバウンドの人だと様になるというか。
あと水持ち歩きがち。
大抵はというかほとんどの場合これも10割2リットルペットボトルのペットボトルを持って歩いているのよ。
彼らは水と林檎で出来ているのかしら?ってぐらい
ちなみに日本で言うところのバーモンド的なリンゴとハチミツが恋をしたって慣用句と意味がいっしょなのかしらね?
あ!でさ
もう1つ気が付いたんだけど、
リンゴ囓り歩きがちだけどその食べた後の林檎が街中に散らかってないところがまたそこはちゃんとしているのかも知れないわ。
いまそれやっていたらきっと日本中はリンゴの木だらけになっちゃってるじゃない。
たまーに
なんかこんなところになぜ突然果物のビワの木があって枇杷が実ってるの?ってなってるところあるじゃない。
あれのリンゴ版てーか
たぶん日本の昔のビワブームでニューヨークスタイルで枇杷食べ歩きながら闊歩していた私たちのパイセンこと先輩が枇杷食べた後の種をいろいろなところにポイポイ捨てていった今に至るビワの木の由来なのよ。
へーって思ったわ。
渋谷の街ってさ
夜とか深夜街がゴミだらけに道がなるけど、
なんか朝にはすっかり掃除されていて何事も無かったかのようになってるじゃない。
あれたぶんそのまんまだったら、
インバウンドの人たちが食べ持った歩いて捨てたリンゴのゴミだらけで
知らないけど。
なんか一時期はアジア圏の人たちが多かったけど
いま街を散策している人たちは見たところなんか欧米的なところからのヨーロッパだとかアメリカだとかそういう感じの人たちが多いのよね。
うふふ。
違うお店で買ってみました。
馴染みの味とはちょっと違う新鮮さがまた新鮮だわ。
朝のサンドイッチはやっぱり美味しくいただかないと!
水出しって言えないのは一旦お湯で抽出して冷やしているタイプだから厳密には水出しとは言えないかといって沸かしたとも言えないそんな感じなのよね。
一旦お湯でってのはその方が抽出成分がたくさんなんか出そう!って期待を込めてってところよ。
また味はどうかな?って楽しみよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
(2023/03/06) テーブルに追加できなくなってしまったので新エントリに移行
ID | いらすとやタイトル | いらすとやURL (h抜き) | 追加日 |
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b:id:pigorilla | ゆめかわ動物のイラスト(ぶた) | ttps://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_22.html | 3/6 |
b:id:nonsense61 | サンジのイラスト(ONE PIECE) | ttps://www.irasutoya.com/2021/01/sanji.html | 3/9 |
b:id:gesugesumi | アリクイのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_2595.html | 3/16 |
b:id:wakuwakutankentai | 探検家・考古学者のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_4151.html | 4/1 |
b:id:ito_taku | 急いで謝る人のイラスト(男性) | ttps://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_143.html | 4/13 |
b:id:satoucox | 折り畳み傘のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2013/10/blog-post_4243.html | 4/27 |
b:id:Ryumuscle | ゴリラの柔道家のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2019/03/blog-post_237.html | 4/29 |
b:id:mon0213 | カンムリアヒルのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2020/12/blog-post_790.html | 5/20 |
b:id:pinefield99 | パイナップルのイラスト(フルーツ) | ttps://www.irasutoya.com/2012/11/blog-post_22.html | 5/21 |
b:id:tansuni_tomogon | アナグマのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_5276.html | 6/15 |
b:id:nin_nikun | マリトッツォのキャラクター | ttps://www.irasutoya.com/2021/06/blog-post_29.html | 6/17 |
b:id:thanksall | 犬と女の子のイラスト(ペット) | ttps://www.irasutoya.com/2019/04/blog-post_67.html | 6/20 |
b:id:phain | クエスチョンマークを出している人のイラスト(棒人間) | ttps://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_19.html | 6/22 |
b:id:superfukajiro | 水面から出たサメのヒレのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2020/09/blog-post_516.html | 7/21 |
b:id:twelvedays | クビになった青い鳥のイラスト(※「文字なし」の方) | ttps://www.irasutoya.com/2023/07/blog-post.html | 7/29 |
b:id:p_papua | ペンギンの顔のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_9.html | 8/1 |
b:id:lemonjiru | スライスされたレモンのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_628.html | 8/2 |
b:id:rankato | ノリノリのAIのキャラクター | ttps://www.irasutoya.com/2023/04/ai.html | 9/14 |
b:id:meseta | キングペンギンのヒナのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_408.html | 9/19 |
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b:id:e-keisatsu24 | 「涼」と書かれた団扇のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_8536.html | 10/30 |
b:id:sekisetsu_ibuki | 煙突掃除のイラスト(昔) | ttps://www.irasutoya.com/2020/03/blog-post_247.html | 11/6 |
b:id:SentenceTonami | 落ち葉で焼き芋を焼く人のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_962.html | 11/9 |
b:id:watashichang | 毛づくろいをする猫のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_18.html | 11/11 |
b:id:zundayummy | ひらがな50音のイラスト文字(※「ず」) | ttps://www.irasutoya.com/2013/02/50.html | 11/14 |
b:id:aegithalium | シマエナガのイラスト(鳥) | ttps://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_85.html | 11/30 |
b:id:pipittan | メジロのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_87.html | 12/12 |
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b:id:sabanonitsuke | 前側の肩のストレッチのイラスト(男性) | ttps://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_969.html | 12/19 |
b:id:naijuku | 悪そうな動物のキャラクター(※ブタ) | ttps://www.irasutoya.com/2020/01/blog-post_204.html | 12/21 |
b:id:svchost | いろいろな葉っぱのマーク(※双葉) | ttps://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_195.html | 2024/1/8 |
b:id:saku_238 | コンピューターを使いこなす子供のイラスト(男の子) | ttps://www.irasutoya.com/2021/01/blog-post_42.html | 2024/1/8 |
b:id:omelet_ya_san | オムレツのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_3493.html | 1/30 |
b:id:investmentph | 投資をしている人のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_814.html | 2/11 |
b:id:mosakuneko | いろいろな表情の猫のイラスト「疑問・目がハート・居眠り・照れ」(※疑問) | ttps://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_84.html | 3/20 |
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b:id:syouhi | 老眼のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_458.html | 8/8 |
b:id:otoufumame | パックに入った豆腐のイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_99.html | 8/15 |
b:id:superfukajiro | 水面から出たサメのヒレのイラスト | ttps://www.irasutoya.com/2020/09/blog-post_516.html | 8/23 |
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b:id:twr7 | 米俵のイラスト(※顔を描き足している) | ttps://www.irasutoya.com/2013/05/blog-post_31.html | 10/14 |
b:id:node8888 | 寝転がってノートパソコンを使っている人のイラスト(男性) | ttps://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_11.html | 10/15 |
b:id:tedd707 | いろいろなライターのイラスト(※1つめ) | ttps://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_50.html | 10/15 |
トンテキのテキってなんだろう?
もしくは、
トンテキの敵ってなんだろう?って思いながら
テキはステーキのテキらしく
トンテキの敵はそれに匹敵する美味しいご飯が抜群に合うおかずって未だ発見されていないわ。
でさ、
今日の日替わり今月一番大当たり!って思ってお店の軒先に掲げて発表されてある今日の日替わり情報の写真をノールックで今日は何かな?って見ないつもりで飛び込み前転しながら入店しようと思ったけれど、
正確には指と指の間から見ちゃった!って言う方が健全で全うかも知れないんだけれども、
なんか思っていた期待した豚味もさることながらこれ調味料の味でのみで食べてるんじゃない?ってトンの肉自体の旨味を感じる前に、
ニュースで言うたまに出てくるバールのようなものでとここではそのステーキソースのようなものにまぶしまみれた感じの定食の仕上がりに
かつての宮崎美子さんばりにテカテカにピカピカに光った光沢の豚肉がその全てのシズル感で迫り来る迫力のが当たりだと思わせといて一番のハズレなのかも知れない!?って
それでちょっと今日のはガッカリかも知れない残念な日替わり定食と思った矢先だったのよ。
素材もとよりソースの濃い味付けだけを頼りにして食べさせてない?的なこのご飯の進み具合よ。
この無駄な宮崎美子さん級のシズル感でテカテカにピカピカに迫ってくる迫力。
酢豚形式の軽く素揚げした豚にどう見てもステーキソースを絡めていただけの感じがして私の口の中が酢豚の故郷を遠く感じさせるように馳せ参じて酢豚の気持ちになったぐらいだわ。
酢豚を食べさせたくなる迫りくる迫力の宮崎美子さん級のテカテカのピカピカなシズル感としては美事成功しているわよね。
で、じゃあさじゃあさ、
ビフテキのビフってなに?って思ったのよ。
ビフって幻の動物がいるのかしら?
ビフってそう思ったら謎じゃない?
レジェンド女ピン芸人の研ナオコさんがセロテープで鼻をあげて留めて変な顔で面白く見せる様子を私も人差し指でテープこそは貼らないものの指で鼻をあげて
そこで
ビフビフ!って
言わないわよ!!!
ってぐらいビフビフのビフって何の動物なのかしらって知らないまま食べていた今までの思い出を返して欲しいわ!
言ったセリフのその後に輪唱のように続いてセリフを言う感じに、
かと言って、
チキンのそれは
チキテキとは言わないじゃない、
そう言う時はちゃんとチキンステーキしかも皮パリパリバージョン!って
もしに仮にももし
テキのテキってなに?って
前半のテキか後半のテキか?どっちのテキのことを聞いているのか一瞬分からないかも知れないのでややこしい話しよね。
でも
テキサスで食べる本場テキテキ定食!ってそそられると思わない?
へいらっしゃい!
お客さんなかなか通だね!だけどそんなのないよ!
ヘイお待ち!
おやっさん!テキテキ定食のじゅうじゅう音がしてなっている熱々の鉄板の器の縁に親指かかってる!
ラーメンどんぶりにインしている親指のラーメン屋さんの大将じゃないんだから!もー!って
そして、
そのじゅうじゅうの鳴って音がしている熱々の鉄板の上にないと言っていたのにある塩コンブわさびトロロ山芋ソースをかけてじゅうじゅう言わせるの!
ハイコンテクストな内容のハイコントラストテキストで書かれたメニューは読みにくいったらありゃしないわ。
テキテキ専門店のハイコンテクストな内容のハイコントラストテキストで書かれたメニュー表のテクスメクス料理のテキテキ定食は的確に美味しい的な!
的な!!!
今ここに新しい早口言葉が誕生しました!って勢いで言いたいぐらいよ。
爆誕しないだけましよ!
って莫山先生が言ってました!
爆誕したって言っていいのは莫山先生か本格焼酎よかいちぐらいよね!そのぐらい私だって知っているわ!
間違っても大分むぎ焼酎二階堂ではないから!鍛高譚でもないし!
ゴールデンボンバーさんの女々しくての歌い出しの歌詞が分からなかったら、
たんたかたん、たんたかたん、たんたかたん、辛いよ〜って誤魔化せられるし。
私が知りたいのは
テキテキのテキが何のテキなのかってことと
ビフテキのビフが何のビフなのかってこと。
ってなるとさーてなると、
テキサスのテキ!
テキサスのサス!
ってそれぞれ何よ?って思うわ。
即席で使えるからその瀬川瑛子さんのモノマネ急場を凌ぐには便利だからオススメよ!
って思っていたら、
ビフアンドトンアンドチキの組み合わせの妙だとそれは王様の食べ物の食事だし。
あと厚焼き玉子焼きがあれば宴よ!宴!
そんな思いをしながら、
シズル感だけは抜群なハズレを引いたソースの味はバッチリ決まっているトンテキ定食を、
トンとテキとビフの謎が結局今日は解けないまま食べ終えて店を後にしたわ。
人は時として、
呼んでいる~胸のどこか奥で~
いつも心踊る夢を見たい~
っつてね!
うふふ。
こちらは多分大赤字タマゴ不足にもかかわらず厚さは厚く思わず胸も熱くなる変わらぬ美味さの味で
朝のタマゴは元気の源の元のよしつねだわ。
だんだん暖かくなってきたので、
温活もシーズン終わるまでにせっせと緑茶ホッツを消費しているワケなのよね。
お茶っ葉またなくなったら新たに買ってきてシーズン変わったら水出し緑茶ウォーラーにも出来るしね!
まあそんなところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「ネムミニミズ」は、森林や熱帯雨林などの陸地環境に生息する小型哺乳動物で、骨格の類似から鼻行類に近縁と考えられています。
体長は約15cm20cm程度で、褐色から橙色の毛皮を持っています。飛ぶことができない代わりに高速で走ることができ、主に果物や種子を食べます。繁殖期は夏から秋にかけてで、一度に13頭の子どもを産むことがあります。
・集団生活を送ります。仲間と一緒に生活することで安全を確保し、食物を共有することもできます。
・超音波を使ってコミュニケーションを行います。近くにいる仲間や敵から警告や情報を伝えるために使います。
・長い尾を持っています。この大きな尾はバランスをとるのに役立つだけでなく、繁殖期には見栄えをよくする役割も果たします。
1798年、イギリスの探検家Captain James Cookが、探検船「HMS Endeavour」で南太平洋を巡っていたとき、彼に同行した学者Dr. Thomas Wilsonが「ネムミニミズ」を発見しました。彼は船上で詳細な観察を行い、「驚くべき生物」と記録しました。「Endeavour」はオーストラリアを含む南太平洋の島々を巡回し、Wilsonは多くの新しい動植物を発見して調査しました。
たまーにいつもお手伝いをさせられている会社の人と用事があったついで且つお昼休み時間があったのでちょっと寄ったヒーコーショップでヒーコーご馳走になったの。
まあそのお店の名前は知っていてボトルヒーコーでも飲んでいたので知っていたけれども、
そこで飲む淹れたてのヒーコーのホッツコ―ヒ一は改めて味わってみるとその改めた味は酸っぱくて
ってかなり大袈裟に味の表現目盛りをマックスに振り上げて言ってるけど、
要は酸味のあるヒーコーで、
今まで知らずに飲んでいたヒーコーは深煎りのなのかしら、
私ちょっと苦い濃いのが好きなんだけど、
そのフレッシュで爽やかな酸味は初めてで
へーこんなホッツヒーコーもあるんだ!って改めて意識してその酸味をヒーコーに感じてみたところよ。
飲み慣れていない味をそれで美味しくない!と言ってしまうのは浅はかなので、
へーこんな味のヒーコーもあるのね。
って勉強になったわ。
というかさー
私その時に時間余しているんなら
私は喫茶店でヒーコーを目指して目的として飛び込み前転して入店しているんじゃなくて
まったくもってその人とは意見がサンドイッチだけに一致しなかったの。
まあご馳走になる手前、
サンドイッチも食べたーい!とはとても言えないじゃない。
そこまで私は図々しくはないと思うわ。
でさ、
その酸味のあるヒーコーをキメたとき、
あまり今の今までヒーコーの味とか気にしてなく無意識に飲んでいたので
色々な味があんのね!って
思ったけど私は知っているわよ。
増田ではヒーコーどうやって淹れて飲むのが一番最強に強まった飲み方だってのは
山に登って山頂で飲むヒーコーだってことをね。
私も一時期一瞬ヒーコー淹れるのに凝って
お湯を注ぐ口が細ーいドリップのするしやすいヤカンあんじゃない、
あれ買ってみたんだけれども、
一瞬で飽きたわ!
と言うか、
あんなにちょろちょろとちまちまと手首のテクニックを駆使してお湯をゆっくり入れられてらんないのよ!
細くゆーっくりヒーコーの粉に最初ちょっと掛けて膨らませて蒸らしてとかってあるじゃん。
それすらも楽しむことができなくて、
結局はいつもどうやってもテクニックがばっちり決まるブレのないコ─ヒ―メーカーで淹れるのが安牌!ってなったんだけど、
そのあとのさヒーコーを淹れた後の出た粉を片づけるのが面倒くさくて、
結局のところ家ではあんまりヒーコー飲まなくなっちゃったのよね。
そう思ったら、
またやって飲んで見ようかなと思いつつ
ヒーコーを全うに飲むには設備の整備が面倒くさくて
なんだかもっと手軽に簡単にしかも美味しいのがあればいいのに!って思うのよ。
あの口が細くなっている
ヒーコー淹れるのに得意なヤカンでゆーっくりお湯を丁寧に均等にしてやるのは
だったらオートマチックにできるヒーコーメーカーの方が便利だし、
あれは人類の叡智だと思うわ。
どうやったって誰がやったって
均等にお湯がちょろちょろと細く出る装置からいつ何回やっても同じ出方をするので、
淹れ方によって味が上下左右される難しいヒーコーにはどんともってこい!なのかも知れないわ。
それかあのフラスコ的なサイフォン式で淹れるヒーコーね。
どめんがくさい、
いや面倒くさい極みじゃない?
それとある程度の多くの量抽出した方が効率がいいってこともあるのかしらヒーコーに限っては?
だけど私ヒーコー飲む量はせいぜい1日1杯ぐらいで気が済むので、
2杯とかそれ以上は逆に要らなくて持て余してしまうわ。
ずっとあれ装置で保温していると煮詰まっちゃって味が変わるじゃない?
それも悩みなのよね。
だからあんまり家でヒーコー飲むなら今は緑茶って感じかしらね。
でも、
私が大体大概の場合概ね喫茶店へ行く目的はヒーコーじゃなくてサンドイッチなので、
そこは意見を一致させておきたいところね。
いつもの喫茶店のモーニングで食べるタマゴサンドにツナってコースメニューもあって
ってことについ先日初めて気が付いたわ。
そうなると、
もうまた別のところの喫茶店の月替わりモーニングのサンドイッチは毎月変わって目新しくて、
毎月の楽しみでもあるのよね。
今月はまだ行けてないから1月が終わるまでのうちに1月の月替わりのモーニングなにかしら?サンドイッチ探検家としてそれを堪能しなくてはならないのよね。
だから、
その冒頭で行ったヒーコーショップに不意に連れて行かれて、
私は月替わりのモーニングサンドイッチは今月なんだろう?って、
やっと1月を制覇できるその喫茶店に行くつもりの予定だったのに出来なくてなんだかもやもやよ。
あと残り少ない日数のうちに何としてでも
今月の月替わりモーニングサンドイッチは食べておかないと今月心残りよ。
今月残り少なくなってきているけど私のサンドイッチチャンスをゲット出来るか祈っていて欲しいわ。
私の好きな濃い苦いの塊のヒーコーで気に入っていたのに、
お店がなくなったのが残念でならないなと思っていたんだけれど、
その系列の別店舗がちょっと離れたところにあるのを発見したので、
同じ系列ならきっと同じはずよね?ってそう期待したいところよ。
そんでさ、
もうまた最近気付いたんだけど、
まあ喫茶店にいったらまずヒーコーは必ず絶対必須必勝であるじゃない。
絶対にあるヒーコーホッツで!ってそれこそノールックでメニューを見ずに頼んでいたんだけど、
こないだ初めてまじまじとメニューを見たら
なんか変な固定概念で喫茶店ではヒーコーのみを飲みたしなむものとばかり思っていたから、
味の苦手なヒーコーに当たったら次はミルクティーとかホットミルクとか頼めるじゃない!って気が付いてしまったわ。
我慢してヒーコー飲まなくても良かったのよ。
喫茶店にヒーコー以外の飲み物メニューがあるって発想が無かったので目から鱗よ。
一つまた賢くなったわ。
でもさ、
初めて行く喫茶店で何頼んで良いか分からないときはノールックホッツヒーコーよね。
そうそう、
また思い出したけど、
ヒーコーを淹れているところ見たことないのよ。
アイランドキッチンでぱっと見キッチンの中にヒーコーを抽出させる装置らしきものがないのよ。
どうやらある程度の量が入っているポットに作り置いてあるホッツヒーコーをそっからカップに注いで提供しているみたいで、
淹れたてだからもれなく美味しい!ってのも固定概念を覆すわよね。
ポットに作り置いてあるヒーコーも案外そこの美味しいのよ。
もう何が何だか何のヒーコーが美味しいのか正解なのか全くもって分からなくなるわよね。
ほんと今までサンドイッチばかりに一目散まっしぐらだったけれども、
この意識して飲んだら酸味の利いたヒーコーを味わってみて、
ヒーコーの沼にはハマらないけれども、
そのヒーコー沼にハマっている人の話を聞くとさ、
もしかして奥が深すぎて正解を叩き出せないから抜けられないんだわ!ってのがなんとなく分かったような気がする違いの分かる私的なダバダーの曲をハミングしそうだわ。
その違いだけは分かったわよ。
さてここで問題です、
うふふ。
お醤油で炊き込んであるのでツナと合わせてパンチがあって美味しいのよね。
ネーミングってそのぐらい大切よね!
寒くなるって言うから
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202211120000292.htmlより引用
>12日にツイッター投稿を行った元ジャニーズ事務所の滝沢秀明氏(40)が同日の投稿後、プロフィル欄も更新し、ツイッター投稿の「先生」がいることを明かした。
>滝沢氏は「冒険家」と記しているプロフィル欄に追記する形で「ツイートあげるのに1時間ぐらい格闘したわ。Twitterの先生に練習しながら作った!先生レスが遅いから時間かかるわ。でも大好き」とコメント。勉強中である様子を明かしている。
>滝沢氏は12日に、開設時の声明文画像の投稿以来4日ぶり2度目のツイートを行い、「はい、Twitter開設しました。大切な事はツイートしますね。Instagramも何故か始めました!適当にチラチラ見に来て下さい!」と、インスタグラム開設をあわせて報告した。ツイッターは初投稿以降、赤西仁、山下智久、錦戸亮や、YOSHIKIらが結成したバンドTHE LAST ROCKSTARの投稿のリツイートやプロフィル欄の更新はしていたが、テキスト文を打ち込むツイートは初めてだった。
引用おわり
この前の画像を逆さまにしてツイートした時も、クラスの陽キャが何度もコスられてきたネタをやった(けど周りはそれを指摘できず愛想笑いをしている)的な客観的には恥ずかしい光景が繰り広げられていたけど、この例を含む上記記事の「すきあらばツイッター初心者アピール」を見てると身体がかゆくなるような恥ずかしさを覚える。端的にいえば共感羞恥だ。
しかし、言うまでもなく自分はイケメンではないし陽キャでもない。まして火山探検家でもない。
こんなインキャの自分がなぜ滝沢氏のツイートに共感羞恥を覚えるのか…と考えて、思い当たった。
これ、ツイッターが世間に浸透し始めた頃の広瀬香美そのものなんだわ。
あの当時広瀬香美は勝間和代を先生としてツイッターを開設し、そのロゴをイヒッヒーと読み違えたり、ツイッター初心者あるある的なエピソードを日々投稿し、ほのぼのとした笑いを届けていた。
今から考えるとツイッターのロゴをイヒッヒーと読むわけがないし、今や(自分はガジェット好きだから今でも尊敬しているが、世間一般的には)名前も出すのも恥ずかしい人扱いされている勝間和代がちょくちょく戦略的アドバイスをしていたのだろうと想像がつく。
自分はあの時の「ツイッター初心者の広瀬香美さんをみんなで暖かかく見守っていこう」という雰囲気が苦手ではあったが、世間の空気に負けていいね(当時は星だっけ)を付けていた気がする。顔文字つけて引用RTとかしてたかもしれない。思い出すと恥ずかしい黒歴史だ。
その黒歴史の記憶を思い起こさせる光景が、まさか10年以上経って繰り返されるとは。
しれっと
今日は10月ユーリンチーです!って言っても誰も気付かれないから言ってみて!
ちなみに今日のランチの日替わりはユーリンチー定食ではございませんでした!
最近さ
近所の周りのランチが充実してきてお昼のメニューも刷新新しくなって毎日通い詰めたい足繁くなんだけど、
よっぽどの食いしん坊さんだね!って言われかねないので、
でも1日に行けるランチの回数は1回だとしても
週の日替わりランチを攻略するには連続で通わなければ意味がないのよね。
それはともかく、
なんだかランチ界隈がまた賑わってきている反面、
私はあんまり最近外にランチに出掛けなくなったのがなんとも皮肉ね。
昼飯の締めのデザート的なものがお盆に乗る日まで出す間まで待つわ!
ちゃんと真面目に考えると超絶難しい時間が一刻も早く刻一刻と過ぎてしまっていっこく堂さんの声が(声が)遅れて(遅れて)僕たち(私たち)聞こえてきます(聞こえてきます)って
もう今取材先の中継でもディレイが少なくなってる様な気がするから
あんなにいっこく堂さんレヴェルのディレイ芸って今の若い人とかの私も含めて意味が分からないのかも知れないわ。
なんで遅れてくんのよ?って
でもさ、
1行考えるのに超絶時間がかかっていたら締め切りの飯に力が入んないわ!
そんなこんなで、
お時間少しいただきますね!ってすき焼きランチを文章を1行1行だけなのに1行考えている間にあっと言う間にマジで5秒をと思えるほど早く到着して発注のすき焼きランチは焼き目の付いた豆腐を彷彿とさせるまでも無く本物の焼き目の入った豆腐で
それにちなんでちなまなくても、
今晩の夜更けの夜の晩ご飯には湯豆腐なんかいいんじゃない?って
美味しいお豆腐が売っていたら良いなって
大体豆腐って年がら年中あるので、
ためしてガッテンで取り上げられない限り、
安定して本気で湯豆腐を夜たべるには充分な食材だったりするわよね。
でもすっかり最近忘れていた日替わり魂が思い出されたわ。
うふふ。
昨日のお粥の残りの今日はニューカマーのシュウマイを導入したシュウマイ粥ね
食べ応え強さ的には餃子には劣るけど、
餃子の方がやはり暫定館1位が強いわ。
飲まなくちゃと言うことで、
起き抜け目覚めには丁度いいかもしれないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
うん。
でもゲーム、娯楽としての楽しさにおいてはプリグラが圧勝していた。
何が違うってキャラクターを集めるっていう楽しさの完成度が違う。
他のオートチェスのキャラはあくまで狙った構築を完成に近づけるためのパーツ集めとしての喜びしかない。
でもプリグラはどのキャラを買っても可愛い女の子を仲間にするという楽しさがある。
モーションも凝ってるし戦闘中のスキルもそれぞれに可愛らしい個性が出てる。
でも他のオートチェスは違う。
単なる有電源のボードゲームの駒以上のことをしてくれない。
それはまるで将棋のコマがそれぞれに定められた方向へと直進することしかしないような無味乾燥な機能だ。
その点においてプリグラは全く違った。
そもそもをして我々がテレビゲームに求めてやまなかったのはキャラクターだ。
いや、テレビゲーム以前から我々は、ドワーフやエルフや探検家やコズミックホラーや探偵に憧れてゲームの卓を囲っていた。
だがその憧れはいつからか冷めていき、気づけばそれぞれのキャラクター性はその駒の機能をビジュアルで表現するための機能だけを持つものになった。
筋骨隆々のドワーフの戦士はその耐久力を意味するだけのアイコンになり、人型の風光明媚といえるエルフの美女は高い魔法攻撃力を象徴するだけのモチーフと変わり果てた。
だがプリグラはそんな世界から我々を再びキャラクター遊びの喜びへと引き戻してくれた。
勝ち負けを通して自分の頭の良さを表現したいなら数学オリンピックにでも出ていればいい。
そしてプリグラにはオートチェスのチャンピオン達が集っている。
最高のオートチェスだ。
間違いなく
ありありやありなし、なしあり、
それよりか、なしなしって言う方が大人っぽくない?
いや、
ありなし、って言ったときと
なしあり、って言ったときで
砂糖とミルクどっちがありなしなのかその順番も気になるところだけど
あり寄りのなし、なのか
なし寄りのあり、なのか
弱めの中火とか強めの中火とか
なかなかフィジカルには難しい調整でもあるように、
きっと砂糖とミルクの絶妙などちらかに寄せるテクニックがあるのかも知れないわね。
でさー
話し変わるんだけど、
今日の日替わり何かなーって
私のもう一つの肩書きである日替わり定食探検家の異名を持ちまくっているんだけど、
私がメモしておいた
今月の日替わり献立表をみたの
私すっかり忘れていたけど、
もう10月じゃない。
てっきり10月の日替わりカレンダーも書き留めておいたと思っていたら、
思いっ切り9月のままで
窓から放おり出して捨てる様のように
すっかり月替わりしていたことを忘れていたわ。
だから今日また新しい今月の献立日替わりメニューを侵入調査すべく、
お店の前に今日の日替わりはこれです!って写真が掲載されているサイネージパネルちっくなものがあるんだけど、
今日初めてテーブルに座ったときに今日の日替わりはこれね!ってお楽しみクジを引くかのように楽しみにしていたかったので、
いやペッパー君より仕事できてるそのサイネージパネルを見て見ぬふりして
知ってた?
不覚にも頭を打ちつけてしまうところだったわ。
で早速私は今月の日替わりメニューを極秘入手してこれもこっそりなんだけどスマホで写真撮ったからもうバッチリよ。
もうそろそろフライトの時間ね!ってユリオカ超特Qさんが出発の時間になるより前に食べきらないと行けないフライト前のさ
ご飯食べようって思っても搭乗手続きする前だとソワソワしちゃうじゃない?
ハッキリ言うと私あまりこの
コスパに見合わないというか、
元気を出してって言い出しそうなぐらい大人しめの少し痩せたそのハンバーグに似合う服を探しに街に出るように控えめなハンバーグに
これまた大人しめの以下省略的なこれまた同じような痩せている海老のエビフライって二重表現をしても足りないぐらいの細い海老フライなの。
でも今日のエビフライトハンバーグ日替わりにも良いところがある!って私はそれらの良いところを10個でも見付けようとしてみて味わってみたの。
初回私はあんまり良い印象を覚えていなかったから期待していなかったんだけど
グルメレポートで「ふわふわ」「柔らかい」「ヤバイ」って3ついうボケを全部出来てしまいそうなほど
口当たり良く肉汁がほどけて溢れてきて
以前はバーグ、
揚げたてでサクサクで、
私はまたグルメレポートでいう3つのボケを言ってしまいそうだったほど美味しいのよ。
そこには大海原をかつて自由自在に泳ぎまくっていた海老の姿が見えたの!
活きが良いってことことなのね!って
箸ですくって海老フライに乗せようとしたタルタルソースが箸から落ちてしまって
タルタルソースも活きが良いのね!って
もうまだ5つぐらいしか良いところが見付かってないのに
10個良いところが見付かった気分になったわ。
でも5つで充分だったわ。
私のお腹は満たされたんだもん。
背中に牡蠣と虎がにらみ合っている刺繍が施してあるスカジャンを見たときのように
これもハンバーグと海老フライが定食としてそのステージで戦っている刺繍の施されたスカジャンが見えたのよね。
だから良いモノ見たな!ってね。
お腹も心も大満足ってワケ。
うふふ。
鮭おにぎりよ。
たまに食べる朝の鮭おにぎりが身体に染みウマで美味しいのよね。
そのままパリパリとパリで食べなくてもパリパリな海苔を海苔だけでいただいた方がいいわね。
ちょっとホッツ白湯ウォーラーからたつ湯気で炙るように海苔をかざせば
しっとりとしたタイプ手前の海苔にもなるから一度試して欲しいわ。
そう言うメリットもあるのよね、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
調べてみました!
ほとんど確実。何故なら、人口統計調査により、ユダヤ人の戦前戦後の人口差は550万人程度はあり、人口統計調査の誤差を踏まえれば600万人程度のユダヤ人が殺されたことはほぼ確実である。別々の研究機関や研究者によって何度も推定は繰り返されているが、めちゃくちゃ極端に低く見積もっても約450万人程度とされており、大差はないと考えて良いだろう。ちなみに、否認派向けに言っておくと確認できる限り、否認派できっちり人口統計調査をした人は存在しないようである。否認論が嘘であるとバレるからか?w 出典は、『ホロコースト大事典』(柏書房)、芝健介『ホロコースト ナチスのユダヤ人大量虐殺の全貌』など。
これは数字は概ね合っているが、明らかに死亡者数ではない。英語圏でいう「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」であろう。
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった[注釈 2]、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀 - 17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を大きく超えることはないと考えられている[7]。
んー、これはよくわからん。以下では1000万人は正しいかのように思えるが、はっきりしない。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した[29]。
何故はっきりしないかというと、こんな記事を見つけたからである。
さらなる批判を浴びたのは、ラス・カサスが挙げるインディオの犠牲者数が大幅に水増しされているとの“疑惑”だ。
たとえばラス・カサスは、征服前のイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)の人口を300万と記しているが、当時の複数の記録でも現代の研究者の評価でもその人口は100万を超えていない。同様にラス・カサスは、メキシコ中央部で400万、ペルー副王領でも同じく400万の生命が奪われ、1502年から42年までの40年間に2580万から2880万人のインディオが征服戦争の犠牲になったとしているが、当時の人口調査や統計では正確な数字を出すことは不可能で、「被害」の規模に確たる根拠があるとはいえない。
16世紀に新大陸で虐殺を行なったスペインが、当時もっとも「啓蒙的、人道的」だった[橘玲の世界投資見聞録] | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン
何にしても一体、1000万人はどこから出てきた値なのか知識がないのでよくわからない。ここに書いてあるように、正確な統計値があるとも思えない時代の数字にどれほど信憑性があると判断すれば良いのだろうか?
んー、これも上と同じで、正確な統計があるとは思えない時代の話だし、ちょっと調べた程度ではさっぱりわからない。しかし以下のような記事を見つけた。人口がもしそうだとするなら、1000万人はあり得ない。
インカ帝国は、13~16世紀にかけて繁栄した、アンデス山脈沿いの南北4000kmに及ぶ、現在の南米ペルーを中心とした広大な大帝国であり、最盛期には人口600万を有した。有名な遺跡として、標高2500mの高地に作られたマチュピチュ都市がある。
追記;↑と思ったが、Wikipedia「インカ帝国」によると、上の記事は間違いの可能性が高いように思われる。
前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで[1]約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ
しかしこの記事でも、虐殺の話はまるで出ておらず、「伝染病が壊滅的な打撃」ともあり、「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」の疑いが強い印象。
英語版Wikipediaを調べた。英語版は流石にやたら詳しい。これによると、1000万人は完全な出鱈目・デマである。デマ源を突き止めたいんだけどなぁ。
2010年のアメリカ合衆国の国勢調査では、自らがアメリカインディアンまたはアラスカ先住民であると認識しているアメリカ人は293万2,248人で、アメリカ人口の約0.9%でした[50]。 2011年のカナダの国勢調査では、自らがファースト・ネーション(またはイヌイットやメティス)であると認識しているカナダ人は183万6,035人で、カナダ人口の約4.3%でした[51]。 ヨーロッパ人が到着する前にアメリカ大陸に住んでいた人の数については意見の一致を見ていませんが、広範な研究が続けられています[52][53]。 52][53]現代の推定では、ヨーロッパによる植民地化以前に北米大陸に住んでいた人々の数は210万人から1800万人とされているが[54]、アメリカ国勢調査局は1894年に、1492年の北米大陸はほとんど何もない大陸であり、インディアンの人口は「50万人をはるかに超えることはなかっただろう」と主張している[55][56]。
インディアンの数は、感染症、ヨーロッパ人との衝突、部族間の戦争、同化、カナダやメキシコへの移住、出生率の低下などにより、19世紀には50万人を下回るまでに減少したという。主な原因はヨーロッパの探検家や商人が運んできた伝染病であった[57][58] 米国国勢調査局(1894年)は1789年から1891年までの102年間の戦争による特別な死亡者の推定値を示しており、その中には「個人的な問題」で殺された8,500人のインディアンと5,000人の白人が含まれていた。
米国政府の下で行われたインディアン戦争は40回以上にも及びます。彼らは、個人的な戦闘で殺された人を含めて、約19,000人の白人男性、女性、子供の命を奪い、約30,000人のインディアンの命を奪ってきました。実際に死傷したインディアンの数は、この数字よりもはるかに多いに違いありません。5割増しというのが安全な見積もりだろう[59]。
スターリンが粛清により大量の処刑者を出したのは史実であろうが、一千万人はいくらなんでも盛り過ぎである(実際には明らかにあり得ない非現実的な無茶苦茶誇張された数字もあったくらいであるが)。これは冷戦末期以降にソ連・ロシアが情報公開をしていて、確定はしていないが、概ねの数字はわかっている。おそらく粛清で処刑されたのは90万〜120万人程度と考えられる。
ソ連政府はミハイル・ゴルバチョフの時代にNKVDの後身ソ連国家保安委員会 (KGB) が「スターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたこと」を公式に認めた。さらにソ連崩壊後にはロシア連邦国立文書館 (GARF) がNKVDグラーク書記局が1953年に作成したという統計報告書を公開した。それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に1,575,259人の者を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が反革命罪および反国家扇動罪などに問われた政治犯であった。ソ連時代の統計[16]の開示[17]や、第三者による検証[18]を経ても、粛清された人物の合計数は今もなお公式に確定していない。
ウクライナへの人工飢餓として、ジェノサイド認定をしたらしいが、ジェノサイドと言えるのかどうかは議論の余地がある。しかし、何にしても、ホロコーストのように殺戮を目的とはしておらず、これもまた「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」であろう。
飢餓による餓死者の総数に関しては未だ議論が続いており、飢饉の犠牲者数についても学説によって250万から1450万人までの幅がある[7][2]。
この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために、国内の農産物を飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉が人為的に引き起こされたものであることは否定できない。ウクライナのユシチェンコ政権は、これをもってウクライナ人に対する大量虐殺であったと主張し、国際的な同調を募った。一方、現代ロシアの歴史家を中心に、大規模で悲惨な飢饉があったという事実認識には同調するが、飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人やカザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定する議論もあり、見解の相違は埋まっていない。
全然知らない話だが、以下を読む限り、「2000万人」は盛っていると思われる。しかもその大半は天然痘などの疫病であるようだ。しかし、相当規模の残虐行為を働いたのは事実であろう。
自由国政府は当初は象牙を、後には貴重な商品となっていったゴムなどの天然資源を開拓した。自由国の軍隊である公安軍(Force Publique)の支援を受け、その領土は複数の私的な採掘利権に分割された。英白インド・ゴム会社(英語版)はとりわけ、その領土から利益を得るために武力と残虐行為を用いた。コンゴにおけるその政権は強制労働をさせ、ゴム収集のノルマを満たしていないコンゴ先住民を殺害し切断した。何百万人ものコンゴ人がこの期間に犠牲となったが[4]、死者の多くはコンゴ川下流地域の人口の半数近くが死亡した天然痘を含む、ヨーロッパ人入植者との接触によってもたらされた新しい病気が原因だとも特定されている[5]。
自由国時代には過剰死によってコンゴ人口が急減したが、死者数の推定値にはかなりのばらつきがある。数字は推定値であるものの、この時期に死亡したコンゴ人は人口のおよそ5分の1にあたる1000万人にのぼるとされている[6][7][8][9]。最初の人口調査が実施されたのは1924年であるためこの期間の人口減少を数量化することは困難であり、ウィリアム・ルービンスタイン(英語版)のように、アダム・ホックシールドが引証した数値はほとんど証拠に基づかない推測であると主張する者らによって、これらの数字は議論されてきた[10]。
これは適当な解説サイトが見当たらないので、自分の知識だけで言うけど、これも飢餓でしょ。数値は知らないけど、これもまた「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」。
残り二つの中国のは自分で調べて。文字数制限で書けない。ともかく、人数の精度に問題あり過ぎだし、ホロコーストと同レベルで比較対象にできるものはない。ホロコーストはほんとに民族抹殺を狙った大量虐殺で、そんなものは人類史上見当たりません。かのアドルフ・アイヒマンは「欧州すべてのユダヤ人、1030万人を殺したかった」と述べたアルゼンチン逃亡中の録音記録があったりしますが、そこからもわかるようにユダヤ人絶滅は本気だったのです。
各地で、コロナワクチン接種者がコロナに感染して、かなりの症状がでたけど、重症化しなくてよかった。という報告が上がっている。
つまり、ワクチン接種者は、新型コロナに感染しても重症化しない。
素晴らしいことだ。
だが、重症化しないということは、同時に感染しても積極的に動き回ってしまう可能性があるということだ。
痛い思いをしてワクチン接種した人間が、ちょっとの熱で仕事なんて休んでいられないだろう。
多少の咳がでていても旅行はできる。
むろん、日本に限った話しでもない。
世界中でワクチンがそこそこ行き届いて、ワクチン接種者がマスクフリーになった国で感染爆発が起きている。
ワクチン接種者が窮屈な生活様式をやめて、自由に活動し始めた結果がこれである。
これは、大航海時代に免疫のない未開の部族を、免疫のある白人探検家が持ち込んだ病原体で滅ぼした光景を彷彿とさせる。
東京オリンピックでは、5万人のワクチン接種者が来日するという。
圧倒的に人気シリーズだけどあの「勇者」という謎の概念を中心に据えた世界観についていけない
勇者様、勇者様ってあの勇者を讃える世界観独特すぎて気持ち悪くない?
【追記】
なんか気付いたらブコメがいっぱいついてた
「勇者」という言葉に馴染みがなさすぎて勇者が職業ってどういう状態なのか頭の中で消化できんのよ
和田アキコじゃなくても「この方は何をされてる方なの?」って言いたくなるわ
同じファンタジーにいがちな職業でも、トレジャーハンターとか探検家とかそっちの方が職業として想像や理解できる
モブの反応(勇者は人類共通の既知の物)とプレイヤー(自分)の感情(いや、勇者って何?)のギャップを埋める物がゲーム中にないのが、自分がDQについていけない要因なのかもなあ
最初、ソシャゲとしても読み物としてもひどいなって点多すぎた。
でもそれでも、中盤って言っていいのかだけど、
中盤以降の「宙の乙女」「天神花見」「4章近畿編」は滅茶苦茶面白い。
俺が今まで触ってきたソシャゲやコンシューマーでは及ばないぐらい、
認めざるをえない良い体験だった。
1つも序盤にないのが辛いけど。
という感じで使われているように見える。
あんたが違う意味で使ってたなら、あんたにこの先書いてることは関係ない。
もし少しでもそういう意味で「完全に理解した」風に言ってたんなら、あんた向けに書く。
FGOベースのゲームデザインは苦行でやめてくれっていうのは超わかるんだが、
「何もない」は、いくらなんでも違う。
序章、1章、2章、初回イベント、3章は
そこまで遊んでやめた人は「何もない」って言っていいかもしれないけど、
その後のイベント2つとサ終決定後に発表された4章は滅茶苦茶面白かったんだよ。
しかもまだ最終章があるらしいんだよ。それが期待できるんだよ。
つまりオリジナルキャラたちで、ちゃんと気持ちのいい物語ができてる。
楽しい、いい、すごいゲームだな、そう思える瞬間がマジであってしまう。
ライスやチケゾーのメインシナリオとサクラ革命の4章シナリオで対決させたら、
ウマを落としたいんじゃないし格付けをしたいのでもない、
あのウマ娘を超えると言わせるほど特段に優れてたよと言いたいだけ。
だから「何もない」だけは、言ってる方が恥ずかしいって。
「いいオリジナルキャラたちがいて、ちゃんとハマれる話をしてる」までうまくやったんだよ。
プレイしてないっぽい人気IPの追っかけ二次創作ばかりしてる絵師が
「FGOのfate抜きは、無理だわな」とか言ってるの見て、キレそうになったわ。
というかキレたから寝付けないでこれ書いてるわ。
それ、俺的には機動武闘伝Gガンダムに対して観もしないで
とか言ってるのと同じに見えるから。
Gガンダムに対して「アムロとシャアを出さないから終わるんだよなぁ」だよ。
わざわざ機動戦士じゃなくて機動武闘伝って書いてんのに、アムロとシャアが出るかよ。
平仮名だったら7文字中4文字も違う、もうサクラ大戦IPじゃなくてサクラIPなんだよ。
機動戦士ガンダムIPじゃなくてガンダムIPって思うのはダメか?
で、機動武闘伝Gガンダムは知っての通り
ドモンとか東方不敗とかシュバルツとかアレンビーとか超いいキャラいっぱいいて、
見た人は「た、楽しい……こ、こんなのガンダムじゃない……いやでも、これはこれで……」
ってその強さを認めて、
新しい世界が脳にキマっちまった同志達で
「流派、東方不敗は!」「王者の風よ!」とかやりだしてんのに、
「ジオニックもアナハイムも出てこないんでしょ?カスじゃん」とか
言ってる方も残念、耳にした方も残念、悲しいだろ。
「いやそれがさ、最初はクソに思ったけど東方不敗ってやつがやばくて……」
と言ってきても
とか言ってるやつ。
どれだけ(うわ……こいつ、オタクとして痛え……)って状態かわかるだろ。
って。
中身がどんだけクスィーとペーネロペーの戦闘シーンが超絶でも、
ラストの展開がああでああでああ~~~ああああああああ~でも、
それを一切知覚できないまま
「ま、FGOのfate抜きって感じかな。見てないけど」ってドヤれよ。
そんぐらい、超偏った人や放火したいだけの人が発したネットの言説にのっかって、
的外れなことを言ってることにすら気づけてないあんたはかっこ悪い。
この文見たことは秘密にしていいから、こっそりツイート削除しとけ。
で、ちょっとだけ
「失敗したのは間違いないけど、何もなくはないんじゃねえの?興味ねえし触らねえけど」
って魂のステージを1歩進めてくれ。
俺を夢中にさせてくれて、
見事に金まで吸っていったそうか、ひめか、他乙女たちを無かったことにするから、
俺も寝られん。
ガンダムやウマでわかんない人向けに今度はアイマスで例えるわ。
しつこいのは知ってるわ。
例えばシャニマスに対して、
「アイマスなのに春香も千早も、卯月もしぶりんも出ないとか、FGOからfate抜いたようなもの。何もないって。サ終妥当すぎる」
「なんでアイマスなのにみんな髪の色が黒とか茶なわけ?モブなの?モブマス?」
って、
「何から何まで完全に的外れ」なこと言ってたらイタすぎるだろ?
自分を相当賢いと思ってるのに、たぶんそうじゃないってことが言動から滲み出てるやつ。
そんなのになるなよ。
革命がサ終発表のタイミングを測っていたであろう空白期にウマ娘を始めて、俺はずぼっとハマッた。
全体的な手触りとか、ゲームシステムはもちろん、攻略サイトかわしを内包してる点まで、ゲームへの造詣が違いすぎると思った。
でも、革命がサ終決定の発表と同時にリリースした4章近畿編はやったし、
やってみたら「ああ、やっぱり超面白いわこれ」ってなった。
とくに4章近畿編はメインシナリオでは初めての真剣味のある回だったから、
コメディからの感動系で楽しませてくれた宙の乙女や天神花見とはまた違った良さで大満足させてくれた。
序章、1章、最初のイベントはこれどうしてOKしたんだよって感じで辛すぎて、
俺が感じられた面白さまで生き残った人が少なすぎるってのはあるけどさ。
お願いする。
ぜんぜん興味ねえし触らねえけど(笑)」
のがかっこいいって。
それで、、、どうよ。
イケメンイケジョだったら
「いや…ビジネスとしては失敗でも、
泣けよ…今夜は俺の金で飲みな」
って言ってくれる。
抱いてくれ。
おやすみなさい。
いざ進め~や~キッチン!
今日はグランド日替わりメニューが月初とも言う月頭なので変わるなりよ!
その献立表もとい、
宝の地図をゲットしてきたところよ。
食べたい日替わりの日を線で結んでいけば、
宝の地図が浮かび上がってくるという、
文字通りよだれが出る垂涎ものでワクワクが止まらなくたまらないトレージャーハンティングよ!
日替わり定食トレージャーハンターを今日から名乗りたいな!って思ったわ。
でね、
ミステリーハンターは1回で4個ぐらいもハンティングしてるに対して、
日替わり定食トレージャーハンティングは1日に1食までと決まっているから、
希少価値的には日替わり定食トレージャーハンティングの方が勝っているって知ってた?
私は知っていたわ。
さらに!
4人で行ったとしても1日に1種類の日替わりしか食べることが出来ないから、
ただ共通点を挙げるとすれば、
これだけは認めて上げても言いけどね!
その宝の地図を食べたい日の日替わり定食を線で結ぶと五芒星が浮かび上がってくるの!
その中心にくるその日の日替わり定食が
シン日替わり定食ってところね。
話しはちょっとズレるんだけど、
子供って一筆書きを覚えて落書きするのが楽しいとき時期に五芒星描きまくるじゃない。
その五芒星の中心によ、
ちょっとざわつかない?
なにか蝶々とか蘇らせたいのかしら?って
私もふと先月の宝の地図を引っ張り出して、
結んだ五芒星の中心をみたら、
その月一番美味しかった日替わり定食だってことに今見て気付いたわ!
五芒星の中心のその日替わりの味わいが蘇ってくるかのようよ!
って美味いことを上手く言ってみたところで
ああ!そう言うことだったのか!って
インディージョーンズさんの映画で
壁に挟まれそうになってスライディングで飛び込んで閉ざされずセーフだったけど、
帽子が引っかかっちゃって脱げちゃって、
天井から下りて迫ってくる壁に挟まれそうな感じのギリギリで帽子をスーパープレーで奪還する!
あのシーンを思い出してやまないのよ。
とりあえず、
うふふ。
最近本当に新商品の新メニューのサンドイッチがなくって寂しいけど
五芒星の中心にサンドイッチをのせてみたら何か変わるかも知れないと思ったそれは違ってピラミッドパワーだったわ。
朝寒くて最近全然話題にしてない腰パワーが低い感じを高めていく感じで
ほっと朝からホッとに温めたいところね。
腰パワーを意識してもう1ヶ月も経つわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
最近の楽しみは今月の日替わり定食のカレンダーを眺めることです!
来月は献立何になるのかフライングでゲット出来たりするのかしら?
さて、
順調にタイムアタックこなしていけてるような気がするんだけど、
細々としたことをやってると後で何やってたっけ?ってなるから、
ちょっとタイムアタックメモを箇条書きでスケジュール帳に書いていったら、
欄に書き切れなくなって、
私こんなに細かいことやってるのかしら?って思わざるを得ない
ああ言われたら、
ココもいち早く書いて
増田タイムアタックと言わんばかりにバババと書き上げたいところ。
気持ち的には
いかにコーナーをギリギリで攻めてこなすかってところに重点があるんだけど、
それを測るためには
なんか時計じゃなく、
体育教師かなにやってるか分からない人かのどちらかの2種類の人にしか見えなくならない?
ページを検索してみたんだけど、
今気付いたんだけど、
言いたいところ!
体育教師かタイムキーパーか何やってるか分からない人の3種類の人のどれかにしか見えなくなるから、
でもあれ首にかけてるだけで、
なにか時間に厳しい人という周りに緊張感を与える効果もありそうで、
そう思いつつも
コンマ1秒でとめる遊びをずっとやってる人とも思われたくないし、
あれって絶対やるわよね!
バババって押して止めてコンマ1止め選手権は絶対ストップウォッチを持ったらやるじゃない。
きっとあれコンマ1秒で止まったら、
コンマ01秒止め選手権ともなるとあれはプロの選手でしか競えない大会だから、
止められっこないに決まってるわよね!
うふふ。
この一択しかないのかしら?最近のヒットサンドは!って言うぐらい、
美味しいからいいけど。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
事務所の近くにマンション風の建物の1階にひょいと仕出し弁当という看板があったので、
えいや!と暖簾をくぐってみたの。
実際には暖簾なんてないんだけど、
私の心の覚悟的な心理描写として心理暖簾があったってことだからね!
マンションの1階風の普通の住宅の感じにしか見えない仕出し屋さんがそこにあるとは誰も気付かないレヴェル。
実際には(揚げるのに10分)まで含めるのが正式名称のようで、
その心理的な描画とは裏腹に、
サクサクをじゅわっと包む餡が出汁が利いてて美味しかったわよ。
結構ガチ定番の心の心理描写っていちいち言うのはもう面倒くさくなってきたけど、
適当に私が思い付くお弁当のラインナップで打線を組めそうなほどのメニューは揃っているのよ。
だから、
結構この一見マンションの1階にある普通の住宅の窓にひっそりと仕出し弁当という
この「仕出し弁当」の木の看板は道場破りの勲章として持って行かれるんだなーってテイストの看板で
ちょうどここ2~3日私は日替わりという日替わり探検家として晴れ晴れしいデビュー戦を飾った、
あのブリ大根を優勝ベルトにした細かくディテールを再現したあの味を味わって以来、
日替わり冒険家と名乗るようになったんだけど、
ここも日替わり弁当があって、
日替わり冒険家欲をぞくぞくとかき立てるのよ。
でね、
本格前日予約に加え、
な、なんと!
前々日予約しか受け付けていないと言うデラックス極まりないお弁当も結構ラインナップがあって、
これでパリーグの指名打者制度の番付というか打順も決めれるほど、
ピッチャーはバッティングの練習をしないでいいぐらいなラインナップなのよ。
チラシもらったんだけど、
実際に見たときにガッカリするタイプじゃなきゃ良いんだけどなぁーって思わせぶりなそのチラシを私は1枚もらって帰ってきたの。
イースのアドルの書いた本が一体何冊あるんだよ!って思わずツッコみたくなるような、
何故イースたとえするかというと
今普通にVita版のイースやってからよ!っていう伏線も回収しつつ、
私はそのお弁当のメニューがフルラインナップ紹介してあるチラシで紙飛行機を作って飛ばしてみたの。
ああ!やっぱり超美味しい仕出し屋さんのチラシは紙飛行機にしたら良く飛ぶというジンクスを軽く超えるぐらいの距離を飛んで行ったわ!
だから私はその仕出し屋さんのチラシの一章を刻むために
チョップスティック!
つまり箸を握ったってわけなのよ。
まあそんな具合で
思わずワンコインだからって2つ買ったら食いしん坊さんに思われちゃうところがたまに傷だけど、
べ、べつに一人で2つお弁当を食べるんじゃないんだからね!って
しれっと「あ、同僚に頼まれたんです」って小芝居を打ちつつ涼しい顔の鈴木蘭々顔して
今度は2つ買えるかな!って思ったわ。
うふふ。
レモン炭酸水に追いレモンしたレモン果汁たっぷり炭酸ウォーラー。
この時期は白湯と言っても
沸かすのに茶がヘソだから
時間がかかるし、
飲んだら身体を目覚めさせるはずよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!