はてなキーワード: ロジカルとは
SNSやブログは基本的に「身内」や「ファン」が見るものだからだと思う。
自分の縄張り内で大声で「私が間違ってました」「私はバカでした」と宣言するのは自殺行為に等しく、そんなことやったら当人の脳内で構築されているであろうサル山のヒエラルキーから真っ逆さまに転落してしまう。
同じ謝るのでも、仮に「たった今フォローしたばかりの見知らぬ百人の前で謝罪しろ」だったら、だいたいの人がいけしゃあしゃあと平謝りするのじゃなかろうか。
「SNSのバトルは基本フォロワーに対するアピール」とはよく言われることで、このメンタリティが今日のあらゆるネットバトル戦術を規定している。
自分への擁護や相手への批判をRTするのは、自分のサル山を大きく見せようという、いって見れば暴走族がパラリラパラリラ鳴らしながらエンジンを吹かす行為と変わらない。
裏を返せば、現代ネットバトルの議論戦略は「身内」の規範に左右される。
もし、あなたの「身内」が自らを「理性的で、リベラルで、データと論理重視のスタイルを是とする」と規定するのなら、まさにその理想に叶うように戦っていかなくてはならない。ここで重要なのは「そう見える」のが大事なのであって、内実は問わないことだ。
傍から見てロジックが破綻していようが、データを捏造していようが、「身内」から「データを正しく運用していてロジカル」とみなされれば(あるいは周囲がそう思ってくれていると当人が思い込みさえすれば)その人のプライドは保たれる。負けてさえいないと態度で示せれば、全国民から謝罪を求められていたとしても勝ちなのだ。
要するに、現代ネットバトルとは個人の言論 vs. 個人の言論、思想 vs. 思想のぶつかりあいでなく、集団的な空気 vs. 集団的な空気、ポジション vs. ポジションのぶつかりあいなのである。
空気同士の衝突をなんと呼ぶかといえば、「縄張り争い」である。
歴史を思い出してみよう。
かつて、MUGENという伝説のチームがこの一帯を支配していた。
その圧倒的な勢力により、かえってその一帯は統率が取れていた。
だが、そんなムゲンの支配に唯一、屈することなく、たった2人で互角に渡り合った兄弟がいた。
決着がつかないまま、ある事件をきっかけに突如ムゲンは解散し、雨宮兄弟も姿を消した。
そして、その地区に5つの組織が頭角を現した。各チームの頭文字をとってSWORD地区と呼ばれ、そこにいるギャングたちはこう呼ばれている…
G-SWORD。
この5つのチームによるプライドをかけた闘いがはじまろうとしていた――。
課金は金を課す側の行動なので課される側が「課金した」はおかしいだとか、わかっちゃいるが通りがいいので使ってるだけだとか、いや子どもが誤って覚えて受験や就活で失敗したら大変だとか、そんなこと考えたこともない普通に使ってるよとか、この言葉へのスタンスは人それぞれだろう。
そこでちょっと唐突なんだけど、別件のついでで「課金」で占う性格診断ってのを考案してしかし使う当てがなくなっちゃったからお前らもしよければやってみてくれ。
俺は大学でこういう専門、まあ社会人間工学っていうんだけどそういうのの研究職やってて、あと今は社会になじめない人の自立を支援し社会復帰させるようなNPOのサイエンスアドバイザーみたいなのを複数掛け持ちしてる。
言語学は専門外だが、まあ個人と社会、社会と社会の関わり様についてはいっぱしの知見は持ってるつもり(この診断にはそれほど関係ないけどな)。
本当はもうちょっとお堅い感じなんだけど、増田向けに柔らかくしたり単純化したり等アレンジしてある。
下記Aからはじめて指示にしたがって選択肢をたどっていくだけだよ!
A 言葉は時代とともに変わるものだと思う Yes→Bへ / No→Cへ / わからない→Fへ
B 「課金する」の意味も変わっていいと思う Yes→Dへ / No→Eへ / わからない→Gへ
C 「課金する」という言葉を使う Yes→【保守・ハト派】 / No→【保守・タカ派】
D 「課金する」という言葉を使う Yes→【革新・タカ派】 / No→【革新・ハト派】
E 「課金する」という言葉を使う Yes→【中道・ハト派】 / No→【中道・タカ派】
F 「課金する」という言葉を使う Yes→【なんとなく流されちゃう系】 / No→【なんとなく反抗しちゃう系】
G 「課金する」という言葉を使う Yes→【考えるの面倒くさい系】 / No→【日常で使う場面がない系】
#うるせーから推敲したったよ('ω')。少しは読みやすくなっただろ?
自己啓発を嫌うのはお前の自由だよ。でもな。お前が全く変われないのは自己啓発本の責任じゃなくてお前の責任なんだよ。人のせいにするなよ。自分の人生に責任を持てよ。このレベルの話はお前が嫌いな『7つの習慣』にも書いてあるぞ。
今日は、特別にものすごく重要な話をするからさ、耳をかっぽじって聞くようにな。ほら、そこに正座しな。現在まだ20名、ホールの定員は残り480名だよ。 スッカスカやんけ!これが無料で読めるインターネットってのは凄いよ。つくづく便利な世の中になったもんだだと思うよ。じぇい近藤さんに感謝しな。
じゃあ、いくぞ!
オレがこれから伝えるのは「なぜ紙に書くと実現するのか?」といった論理的な根拠だ。
あ、ちょっとまて、ウサン臭いと思っただろ?ソッ閉じする前に最後まで話を聞いてくれよ。な?
紙に書いたら何がどう変化して、願望が実現したのかについて、そのプロセスを論理的に説明していくよ。
一般的にこの手の話、つまり「思考は現実化する」だとか「引き寄せの法則」を説明する際には、抽象的でオカルトチックな表現が多様されがちなもんだから、途端に宗教くさくなって説得力が失われてしまう。
例えば「潜在意識」って言葉とか。なんだよセンザイって。臭う。胡散臭くない?ところでセンザイとクサイで思い出したけどさ、最近どんなシャンプー洗っても臭いんだ。汗臭さ・ミドル臭や加齢臭を超越した、第四の体臭がするんだ。ひょっとして異次元生命体なのかな?
ああ……話が思い切り逸れたな。すまねえ。で、その胡散臭さのせいで、せっかくの貴重なノウハウが世に広まらないのは、さすがに悲しいよね。
逆に、オレがオカルトチックな表現は一切使用せずにロジカルに説明することで、もしお前らが本質を理解することができれば、実施に紙に書いてみようという気が起こるだろう?だからさ、3分間だけでいいから話を聞いてくれよ。
まあ、冒頭で偉そうに説教たれた俺だけど、自分も最初は半信半疑だったんだよね。願望を紙に書くって、なんの宗教だよ、書いて実現するなら俺だってハーバード卒で世界動かしてるわって。
でもね、俺は書いた。欲しかったからな。お前らは漠然とした願望をモヤモヤ抱いてるだけで絶対紙になんて書かないだろ?ここが人生の分かれ道。
で、手帳やノートに書いた文章を、毎日眺める。できれば声に出して読む。俺は全くズボラだからたまにしか見なかった。どーせお前らもズボラだろうから、数日に一回からでも始めてみようや。
んで、読み返すたびにどうなるかというと、「あ、俺は子供が欲しかったんだ」って、記憶が蘇るんだよ。
ここが最大のポイント。 もう一度書くぞ。
これさ、冷静に読んでみるとかなり頭の悪い話だと思わない?だって自分の願望だよ?自分が一番よく知ってるはずだよね?
にも関わらず、自分の書いた文章を見てやっとこさ、自身の願望を思い出すんだよ。
人間ってそれほどまでに頭が悪いんだよ。お前が考えているほど、人の能力は高くない。残念ながらね……。
みんな毎日、学校や会社で忙しいだろ?勉強や仕事に忙殺されて、本来自分が何を望んでたかすら忘れちゃうんだよ。仮にそれが、例え心の底から望んでいたことだとしてもね。
だから、書いた願望を読み返す必要が出てくる。見るたびに、自分が書いた願望が思い起こされるわけだ。「あ、俺は子供が欲しかったんだ」ってな。
そのたびに、子供のイメージが頭に浮かんで、「子供作るにはどうすればいい?」って頭の中で勝手に自問自答が始まる。
ここで一つ重要なのが、見返せば見返すほど願望自体は強くなっていく、ということ。そして、願望が強くなることで放っておいても行動力が強化されていく。
俺の場合、インポだったから、読み返すたびにインポを解決する策が、いろいろと自動的に頭に浮かぶようになった。
でも、読み返してもやっぱり1時間程度でそんな目標・願望なんて忘れられるんだよ。
面倒くさいし。さっきも言っただろ、人間はアホなんだよ。
だから、書かれたものをまた見返す。そのたびに頭にいろいろ思い出される。
そのうち、手帳を見ていない日常生活の中でも「子供作るにはどうすればいい?」って頭の中で勝手に自問自答が始まる。
俺の場合、不妊の解決策として「バイアグラを買う」「医者に行って精液検査して精子の運動率を診てもらう」 などといった策が、いろいろと思い浮かんだ。
願望を手帳に書くまでの俺は「医者に行くのは面倒だし恥ずかしいなぁ。そのうち行こう」で終わってた。
でも紙に書いてからは、読み返すたびに、いやがおうでも頭の中で「子供欲しいから恥をしのんでバイアグラ買う」「自慰して精子を紙コップに出して美人看護師に提出する」という解決方法が強制的に思い起こされる。
それが何度も何度も繰り返されるうちに、ズボラでぐうたらでダメ人間である俺の行動力に、火が付いたんだ。一気に点火したよ。
「そのうちやる」で、惰性で生きてきたズボラ人間が、急に欲望に忠実になり、いつの間にか覚悟を決め、血まなこになって不妊治療クリニックのHP検索してた。
あれだけ抵抗のあったバイアグラについても、気づいたら購入していた自分がいたんだ。
話はここまで。単純だろ?
どれもズボラな俺には負担で、手帳に書くまではずっと先延ばしにしていた事案だったんだ。そりゃそうだ、誰だって精液の提出なんて恥ずかしいからやりたがらないだろ?
そんな俺でも、手帳に書くことで願望に火が付き、その願望が自身の行動を後押ししてくれるようになった。
行動するのに根性は要らない。書いたものを何度も見て、思い出すだけでいいんだよ。
書かない限りは、自分の願望や目標ですら思い出すことがないからね。くどいけど、それだけ人間は忘れやすいようにできている。
ま、昔の偉いヒトも言ってたけど人間は昨日起きたことを忘れるからこそ、今日を生きていけるんだけどな。
最後に一つ。
ここに書いた話も、あんた2時間したら忘れてるよ。だから必ず、ブックマークするなりメモするなりしてくれよ。俺たちってアホなんだから。
苦しい発達障害の現状を伝えようと思う
彼は多動性の強いADHDだと思う。そして私は軽度のADHDだ。なぜ軽度と言っているのかといえば病院などで診断を受けているわけではなく自覚症状として勝手にADHDの気があると思っているからである。傾向を見ると間違いなくソッチの気があると自分でも断言できるのだが、ADHDテストなどを受けると辛うじてクリア(健常)してしまい、自閉的な強いこだわりであるとか衝動性は少ないので目に見える違和感は少ない。それゆえ今まで友人が出来、恋人が出来、定職にもありつけた。しかし、これが苦しい苦しい。
ADHDとはどういう病気かと言うと、キーワードクリックして詳しく調べてくれと言いたいところだが、簡単に言うと多動性と不注意性に分かれる。彼の場合は多動の傾向が強く、いわゆるお調子者、クラスでうるさいガキというやつだ。調子に乗ってウザいと嫌われるときもあれば、クラスのムードメーカーと愛されるときもある。しかしこの病気は、うるさく騒ぐことが面白いとウケる=認められる=嬉しいと思うあまり”やりすぎてしまう”ことが顕著で、決して迷惑かけてやろうと思っているのではなくて快楽に忠実に従って「どこでやめたらいいかわからない」だけなのだ。怒られたりして冷静に考えるとたしかに自分の行動はよくなかったなと終わってから初めて思える。彼の行動原理が分かるために切ない。アスペと違うのは空気や行間はわりと読める、でもやめどきがわからない。高難度の空気は読めないということになる。発達障害が高機能自閉症と言われる所以はここにあり、普通の生活は営めるんだけども細かいところが分からないのだ。でもこの「細かいところ」日本ではとても重要視しているために生きづらさを強く感じる。
私は不注意の傾向が強い。注意力散漫がどうとか学術誌には書いてあるが自分では注意力が散漫とは思っていない。知らない間に怪我したり忘れ物が多いとか遅刻をしやすいとかがあるけれどもみんなそんなもんでしょと思って生きてきた。しかしこの遅刻やらケアレスミスの頻度が多すぎるのだ。人間誰しも一度はミスを犯したり、忘れ物したり、寝坊してしまったりがあると思います。ADHDはほぼ毎日なにかしらやらかします。そうすると信頼を失っていきますよね。自己嫌悪に陥るからタチが悪い。いっそ脳の認知度レベルも落としてくれと思うこともある。それを許されないのがグレーゾーンのつらさ。私は遅刻魔のレッテルを貼られているし、大事なもの(ライブのチケット、パリのお土産、鍵、定期、財布)を幾度となくなくしてきた。平和な日本では財布や携帯を落としても大体の人が拾ってくれることを知っている。ディズニーランドのパスポートを駐車場まで持っていたのに入場前でなくして凹み、買いなおして貰ったが申し訳なく罪悪感で楽しめなかった事があった。
人間関係においてはからかってやろうと思うと行き過ぎてケンカを売っている状態になり嫌われる。でもからかわずにいられない衝動に駆られる。何の呪いだ
話を聞いていなく(聞いている途中で無意識に気がそれる)移動教室がどこのクラスで行われるかわからず授業時間始まっているのにもかかわらず彷徨い続けたことが人生で2度もある。
先読みが出来ない。モタモタ行動は遅い。帰りの会が終わり教室を1番に出ることは6年間皆無だった。
自分が生き辛さを強く感じ発達障害を疑いだしたのは大学生のころだった。大学生にもなるとゆとり教育などとも言っていられず自立が求められる、なにより友人知人の関係性がとても浅くなる。高校生までであれば今日は風紀検査があるよだの○○で移動教室あるよだの教えてくれる人が一人はいた。休もうものなら心配してメールの1本入る。だが大学生が授業フケこんで休むなんてザラにある。仲の良い友人だっていちいちメールしてこないのだ。私は始業日を1日間違え、無自覚のずる休みをしていた。それに気づいたのは翌日登校し「昨日なんで休んだんだよ~」と声をかけられてはじめて知った。ショックだった。大学では持ち物やレポート期限などをご丁寧にレジュメに発行せず口頭で伝えるものだ。手帳を普段携帯しないしメモってもそれを見ないので忘れ物の数が半端じゃなかった。また君か。やる気はあるのか。鬱になった。2限から始まる授業のほうが遅刻していた。余裕ぶっこいてダラダラ支度し、遅刻決定している時間に焦って家を飛び出す。そんなこんなで就活の時期になり自分が愚図なのを自覚していたので、誰よりも早く決めてやろう、そう意気込んだ。就活期間は3ヶ月、短期決戦で集中した。驚くことに志望していた会社にきまった。3年の11月ごろに決まっている奴なんか私くらいしかいなかった。
しかしうまくはいかない。見る目がないのでブラック企業にストレートインしていたのだ。めちゃくちゃ体育会系の会社にADHDの愚図が合うはずもなくいじめに逢い1年でやめた。1年がんばったのは逃げたくなかったこととすぐにやめるとその程度の能力しかないと思われ次の就職先に響くと思ったからだった。でもさっさと辞めればよかった。無理して働いたせいで心身共に病み、完全復活するまでに1年半掛かった。働いていた期間より長い。その後転職エージェントを使い再就職できたものの空白期間は当然つっこまれる。留学したとうそをついた。ADHDは怒られないようにうそを平気でつけるようになる。クズに拍車がかかる。ちなみにその1年の間に物は壊すわ顧客に失礼するわ遅刻もするわでいじめられる原因は自分が作っていることにうっすら気づきながらもミスは無意識に発生するためどうしようも出来ない。フォローもやりかたがわからないしうまくできやしない。リスクを未然に防ぐ想像力がなく、それによって起きたリスクに う ま く 対処できないのが特徴。
私が言いたいのは発達障害だからって有効な薬もなく対処療法になるし、一生ついて回るものだしどうにもできない。できるだけ健常なみなさんに広い心を持っていただきたく、我々もミスることを自覚して慎ましく生きなければならない。
発達障害って最近認知された言葉だけれど、急にふっと沸いた人種なのだろうか。
クラスに一人はやばい奴認定されていた奴がいたと思うが、あいつらは絶対にそう。でも特別支援学級に行くまででもない。
ほかにおっちょこちょいなやつ、忘れ物多いやつ、どんくさいやつ、こいつら全部軽度の障害。
ねえ、そう思ったら多すぎませんか。
なんでも規則でしばって、ちょっとでももたもたしていたら障碍児って、安直すぎやしませんか。窓際社員がいたっていいじゃないか。働きアリは全員が働いているわけではなく何割かはサボっていて、よく働いているアリグループを別のゲージにいれるとその中でまたよく働くやつほどほどのやつ、サボってるやつで役割が分担されるという。社会というのは何割か使えない奴がいて初めてうまく回るんですよ。私のようなかなりグレーなおそらく病名が付かないで”傾向”で済んでしまう人はずっとこれからの人生このまま生きていかなきゃいけないんですよ。働いて生活できるようにしないといけないし、結婚して家庭だってもちたい。発達障害は遺伝するから子を産むななんて悲しい事言わないでくれよ。人間やぞ。ショックなんやぞ。自分が障碍者かもって思ったことあるか。ガビーンだぞ。ショックすぎてむせび泣いたわ。これから先困難が予想されるけども、もう仕方ないから受け入れている。ひたすらメモにとってせめて忘れ物や遅刻はしないように気を使っている。
発達障害は往々にして鬱
高畑敦子の愛情によって、通常なら鬱を発症するはずが、裕太容疑者は明るいキャラクターを通している。
これってすごいこと、私は母親の教育は失敗に終わっていないと思う。
発達障害児は失敗行動が多いのでとにかく叱られたり嫌われたり自分でもやってもうまくいかないので塞ぎこみがち、というか凹むしかない。私は物心付いたときから割りと反抗的な性格もあってまわりからは規則を守れない奴とみられてきた。するとどうなるか。鬱になる。ずっと性格に卑屈な面が出てきてテンション低い、低度の鬱状態が延々続いていく。非行に走らなかったのは親が厳しかったためであるが鬱で息苦しい鬱蒼な毎日だ。高畑家はどうだろうか。おそらくやつの個性を認めて明るく育ててきたのだろう。途中まではうまくいっていたのになんとも悲しい結末だ。
ハメられやすい
私も若いころ経験があるのだが、予測行動を苦手とするために悪意を持った人間にハメられたり騙されたり非常にしやすい。そして騙されやすい。アホに違いないがアホっていうかなんというか知能テストはクリアするものの純粋ゆえに人を信じて騙されているんだろうなと思う。詐欺に引っかかる人、認知レベルが落ちている(高齢者など)か発達障害の傾向がある人だと思う。今回の事件、被害者は実際に被害にあっていると思うが、これまでもあいつならちょろいぜと美人局的な事件に遭っていそうだなと客観的に思った。
障害児の親も往々にしてそういう傾向がある。昔はお見合いだったから相手が不器用が過ぎる人間かどうか気づかず結婚していたのだろうと推測する。遺伝の可能性は否定できない。
また、高齢出産の影響も強い。卵子のタイムリミットをしっていますか。これはこの年齢を境に機能がガクっと落ちることを意味しているのだけれど、37歳なんです。今日本で結婚を意識する年齢って30歳前後ですね。仮に30歳の女性が結婚したとしてあと7年しかないんです。短くないですか。女性の社会進出や医療の発達などで晩婚・高齢出産をしても安心して生めるように環境はそろったけれども、肉体としてはあまり進化がない。元々人間の寿命は50年ほどでした。いたずらに長く生き過ぎているのかもしれませんね。精子も劣化します。男性は生涯現役だとばかりにジジイになっても性欲はおちないものですが、ジジイになればなるほど劣化します。精子が劣化しているとそれだけ不具合を持った子供が生まれやすい。福山雅治さんが先ほど第一子の妊娠を発表なされ非常にめでたいのですが46歳の精子はなかなかですね。顔はきれいだろうけれど、障害グレーが生まれる可能性高いです。イケメンは隠し子の1人2人いてもいいと思いますよw若いときに作ったほうがいい。
ここまで長く書いて何いいたいんだろうって話ですが、あまり糾弾せずちょっとどんくせえなくらいに受け止めてほしいということ。そして障害を持つものも幸いにして知能は高いのだから怠けたい衝動に突き動かされず、やるべき社会的行動にロジカルに対応すべき。ルーティーン作業ほどミスるので、日常生活をマネジメントしたメモをいたるところに張ってそのとおりに行動すればまだましかな?まったくの健常者だって忘れ物くらいするのだから、お互いがんばりましょうや、ということです。
昨晩書いた駄文(http://anond.hatelabo.jp/20160815210616)にたくさんコメントをいただきまして、興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
いくつか気になったコメントを拾って、コメントを付けていきたいと思います。
id:Domino-R その作品を自分の見たい様に見る権利を個々の観客は買っているので、作品のテーマ性と監督は関係ない。ただそれでも他人が自分とは違うもの・自分が見ていないものを見ていたと知るのは嫌だという人はいる。
id:honehonerock 「この映画は要するに◯◯ということ」と、要しないで欲しい、という欲望が人にはあるよ。2時間かけた映画の文脈そのものを愛しており、そのうち一欠片だけを特別なものにしないで欲しい、というような。
id:spacefrontier 自分も「作品をエンタメとしてのみ消化したい」派だけど、テーマを論じることについては「好きにしろ」(←ネタバレ)と思う。あまりお近づきにはなりたくないが。
どの説明も面白いです。こういう気持ちは尊重しなければいけないなぁと反省させられました。
id:yuiseki 作品を愛するあまり「この作品から◯◯というテーマを読み取れない人は見る目が無い」みたいな主語の大きい自分はお前らとは違って分かってます的マウンティングしはじめる人がたくさんいるから怒り出すのでは
id:lapk 別に完全エンターテイメントとして見るのもいいと思うんだけど、シンゴジラに関しては自分の気に入らない意見は見る目がない一般人の意見として見下したオタクの意見が目立つからウザいだけだと思う
id:minoton 映画は鑑賞されるものだから、作品から見出されたテーマが製作者の意図とはまったく異なっていることは問題ないと思う。ただ、あまりに鑑賞者のひとりよがりの(ロジカルでない、根拠が薄い)指摘はついてけないなと
これは難しい問題です。何でかというと、テーマの議論を展開するときにドヤァ感はどうしても出てしまうからです。
作者と自分以外、まだ誰も気づいていないテーマを開陳するのはやはり気分がいいものです。少しぐらいドヤるのも多めに見てくれるとありがたいです。
これは予想外の反応でした。
id:serio 増田が、「この映画にはテーマ性がない」という考えを一つの主張だと認めない理由が分からん。「格好良いゴジラを描きたい」といった動機で映画を作っちゃいけないのか?
id:fusanosuke_n 意味わからんな。これは純粋なエンターテイメントであってテーマ性とかメッセージ性とかない、というのも立派な作品解釈だろうが。
以下のように理解していただければ幸いです。
id:Josui_Do 「この作品にはテーマがない」は一つの意見だが「この作品にはテーマがないから論じるな」は語りたい人の口をふさぐ行為。それはよろしくない。
id:kash06 テーマが無い、と言われるのが困るのではなく「どうせテーマが無いのだから、語るな」とまで言われるのが困ってる気が。気がしただけ。
悲しいですが映画・漫画・アニメのテーマを論じる場はネットぐらいしかないという現実が・・・。
id:IkaMaru 無理矢理にでも高次元な読み解き方をしたがるのがオタクだった時代から、難しい話をされると怒るのがオタクの時代へ
id:aukusoe はっ! ToHeart2花梨シナリオはむーむーが恋姫の頃から描いているテーマが一貫しており、どう考えてもむーむー脚本だと主張していたウン年前の俺! ウン年前の俺じゃないか! 龍谷大学哲学部を舐めちゃいかんぜよ!!!
わろた
こんなイメージだと思う。
けど、実際、文系でも理系でもロジカルな考え方できる人はできるし、できない人はまあまあ多い。
学問をやるなら文系理系共に論理性も数字に対する強さも求められる。
だけど、理系の方が圧倒的に優れている点がある。
それは「前提を疑う力」だ。
理系は実験を通して、自分の仮説が間違えていることを経験する機会が多い。
条件を同じにしたのに、うまくいかず、明文化されていない要素が重要な役割をはたすなんてことはザラだ。
だけど、話していて思うのは、文系の人はそういうものを疑う力がとても弱い。
理系はうまくいかない場合、偉人の発想だったり、「そういうことになっていること」についても疑問の目を向ける。
(多くの場合、自分が別の事を見落としていることに気づいて終わるが)
もちろん、疑いだしたらキリがないのだが、それでも前提条件を確認するということがすごく苦手に思う。
全員では無いが、こういう傾向はあると思う。
さらに厄介なのが、大人の世界ではあまり疑うのはマナー違反だということだ。
前提条件を確認したいだけなのに、「こどもじゃないんだから」という対応をうけることもしばしばある。
社会的な習慣の方が重要視されるから、改善することが難しくなる。
日常生活で使わない方程式は覚えなくていいけど、この「前提を疑う力」をみんながもてばもっといい社会になると思うんだ。
書いてみてわかったのは、はてなブックマークで月間1位を取ろうが年間ランキングに入ろうが世の中には何の影響もないということです。あきらめましょう(挨拶)
とは言え、ひさしぶりに参議院選挙前に何か書こうかなーと思いつつモチベーションが上がらずにいたら世界同時株安が起きたので、これにからめつつあれこれ書いてみようかなーと思います。ただ、国内の政治状況は変わってないですし、結論はたいして変わらないと思います。
リンク先のタイトルに書いてある政党がなくなったとか言われても知りません。
というわけで、まずは上記のエントリー冒頭部分を引用します。とても大事な前提なので。
ここ15年ぐらいずっと言われてきた「デフレ不況」、デフレとは、物価が持続的に下落している状態を指します。
単純に考えればモノの値段が下がることはうれしいはずなのに、なんでデフレが問題なんでしょうか。
そんなことわかってるよと思われるかもしれませんが、順を追って説明するために書いておきます。
物価が下がって企業の売上が減ると、企業収益が減ります。企業は利益を出すためには費用も減らさなければいけません。
今回はこのうち、人件費を抑える、というポイントにしぼって話をします。
物価が下落したのと同じ割合で社員全員の給料を減らせれば何の問題もないのかもしれませんが、そういうふうにはできないですよね。
正社員の給料は、物価が下落する割合ほどには下がりません。これを「賃金の下方硬直性」と言います。
リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をしますが、その分をリストラされて収入が無くなる人がかぶるんです。
結局この被害を一番受けるのは、これから社会に出て仕事をしようとする若い世代です。求人が減って有効求人倍率が下がります。
企業はすでに雇用している人を解雇するよりも先に、新しく入ってくる人を減らすので失業率が高くなります。真っ先にこの影響を受けるのは若者です。
これがデフレを問題視するべき大きな理由です。若年失業者が増え、世代間格差が拡大していきます。
物価上昇率と失業率にははっきりとした相関関係があって、フィリップス曲線と呼ばれていますが、物価上昇率が低いと失業率が高くなります。
==========ここまで引用==========
引用部分から続く2014年のエントリーで私は、現政権の金融政策(世の中に出回るお金の量を調整)を肯定して財政政策(どこから取ってどこに配るのか)と成長戦略(規制政策とか産業政策とか)を批判しました。
当たり前ですが、その内容は今回も変わりません。
まずは、最近よく聞く「物価が上がったから実質賃金は下がって国民の生活は苦しくなっている」という話についての議論から始めてみようかなと思います。
引用部分で、「リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をします」と書きました。
収入が変わらずに物価が下がるのでお得です。この状況が、実質賃金が上昇しているということです。
物価より先に賃金が動くことはありません。商品の値段を変えたからといって、会社の給与水準はいちいち変動しないですよね。
ほとんどの企業では多くても年に1回、春闘の時期に給与水準が変わるだけです。
だからデフレ下では短期的には実質賃金が上昇し、失業しなければお得ですが、失業者がその分の割を食います。
長期的には、デフレのせいで給料が上がらないので失業しなくても損するのは皆さんご存知の通りです。デフレスパイラルというやつです。
そして、デフレ下で金融緩和をして世の中に出回るお金の量が増えて利益が上がっても、企業はすぐに給料を上げるわけではないので、物価が上がった分、実質賃金は下がります。
利益が出る前に給与水準を高くする企業なんてあるわけないんだから当然なんですが、でもこれがむちゃくちゃ大事です。物価が上がるのが給与水準よりも先なので、まずは実質賃金が下がります。
下がった分だれが得をしているのかというと、それまで失業していて新しく雇用された人たちです。
失業率が高いうちは、給料を上げなくても新しく雇えるので賃金はなかなか上がりません。失業率が下がり人手不足になり労働市場が売り手市場になってはじめて給料が上がっていきます。
だから「物価が上がったから実質賃金は下がって国民の生活は苦しくなっている」とか主張するのは本当にやめたほうがいいです。
マクロ経済をきちんと学んだことがある人間には「デフレに戻せ」と言ってるのと同じに聞こえるんですよ。
じゃあ、どういうふうに現政権の経済政策を批判してどんな主張をすればいいのかについて書いていこうと思います。
クルーグマン、スティグリッツ、ピケティといった名前を聞いたことがある人はそれなりにいるかもしれません。別に知らなくても何の問題もないです。
クルーグマン、スティグリッツはどちらもノーベル賞を受賞した経済学者で、日本では今年3月に安倍首相が相次いで会談を行ったことがニュースになりました。
ピケティは2014年12月に日本語版が出版された「21世紀の資本」の大ブームで日本でも有名になりました。
ちなみに、上記リンク先のエントリーは2014年11月、ピケティブームの直前に書かれたものです。(エッヘン)
そんなことはどうでもいいんですが、この三人のマクロ経済政策に関する主張はかなりの部分でとても似ています。
三人とも主流派経済学の左派に属する人たちなので、まー当たり前っちゃ当たり前です。
どういうものかというと、失業率が高い状況においては、金融緩和と大規模な財政出動をすべきというものです。
金融緩和についてはもう問題ないと思います。世の中に出回るお金の量を増やさないといけません。
その上で、財政政策(どこから取ってどこに配るのか)については、財政出動(たくさん配ること)を主張しています。
金融緩和によって実質賃金はいったん必ず下がります。この実質賃金低下の影響が大きい層、つまり給与所得者層(中でも特に低所得者層)に配るんです。
必要な段階とはいえ、物価が上がったのに給料が変わってない人は消費を抑えようとしますよね。
せっかく出回るお金の量を増やしたのにうまく循環しないと困るので、実質賃金の低下の影響を財政出動によって和らげるんです。
当然、このタイミングでの消費税増税は、愚策中の愚策です。消費を増やすために財政出動しなければいけないのに、逆にその層からたくさん取ってどうすんだって話です。
現政権の経済政策について批判しなければいけないのはこの財政政策の部分です。
雇用は増やしたけど再分配がまったくできていない、むしろ逆行しているから、低所得者向けの積極的な財政政策をもっとやれという批判の仕方をすべきです。
金融緩和や実質賃金低下を批判しても、雇用を増やしてほしい人たちからの支持を失うだけです。
別にすべての人が経済政策について全体像を理解してなきゃいけないなんて私はまったく思っていません。
ただ、マスコミ、知識人、ジャーナリストなどの、情報や知性のハブになるべき人たちが、必要に応じてその時々できちんと説明できればいいだけです。
そして、経済の話については、ここがものすごく弱いところです。
マスコミに期待するのは無駄だとしても、他の分野の話については専門的・学問的な知見の積み重ねに対して謙虚な人でも、経済の話だとまったくそれを無視するのってなんでなんでしょう(泣)
クルーグマンでもスティグリッツでもいいから入門書を一冊でも読んで全体像を理解して、その全体像の中で個別の論点をそれぞれ掘り下げればいいのにと思うんですが、権威のある経済学者の言葉から、自分の思いつきにあてはまる部分だけでパッチワークを作ってばかりで、知識人とかジャーナリストって勉強嫌いなんですか?
いちおう私について言っておくと、学者でもエコノミストでもなんでもなく、ただの経済学部出身者です。むかしひととおり学部で全体像を学んだことがあるだけです。
知識のハブになる人たちは、「経済学者にはわからないだろうが」みたいなマクラのポエムを書く暇があったら現代の主流派の通説ぐらいは知っといてほしいです。(偏見まみれ)
さて、イギリスが国民投票の結果、EU離脱派が勝利しました。イギリス人が移民に雇用を奪われたことが原因だと言われたり、でも実際に移民が多い地域では残留派のほうが多かったりといった状況で、いろんな人が理由を分析しています。
私も、私なりに思い当たる理由を書いてみようと思います。というか小見出しにもう書いています。
財政赤字削減を公約に掲げて2010年に首相になった英保守党キャメロン首相の「改革」が、間違いなく理由のひとつになっていると考えています。
名誉白人様ことめいろまさんがEU離脱を解説した一連のツイートを読むとわかりやすいんですが、都市部のインテリ(気取り?)は、失業率増加や公共サービスの低下を移民増加と直接的に結びつけて理解していることがよくわかります。
移民が多い地域でむしろEU残留支持が多かったことからもわかるように、緊縮財政政策(政府がなるべくお金をつかわない政策)による不景気、公共サービスの低下が、なんとなくのイメージとしての排外主義を加速させるという意味で、経済学の視点からも学ぶことの多い出来事だったと思います。
クルーグマンの言葉を借りれば「欧米が日本の失策から学ばずに、日本よりひどい失策をしたことに対する反省と皮肉」というやつです。今度は日本が失策からきちんと学べるといいですね。
ここはちょっと箸休めです。あんまり関係ないから読まなくてもいいです。
よくニュースなんかでも使われる「財政再建派」という言葉があります。財政再建派という言葉は、財政政策(どこから取ってどこに配るのか)において、増税(特に消費増税)による税収増と緊縮財政を主張する人たちに使われる言葉ですが、すごく誤解を招きやすい言葉だなーと思っています。
消費税を増税すれば、増税した年の財政赤字を減らすことはできますが、消費を落ち込ませることにより不況の原因になります。
15年以上にわたるデフレ不況によって増え続けた国の借金を、単年だけの税収増でどうにかできると考えるなんて無理があって、好景気による税収増を続けていくことでしか財政再建は成功しないと私は考えているので、せめて「増税優先派」とかにしてくれないかなと思ってしまいます。
財政再建すべきという目的は変わらないのに、片方を「バラマキ派」、もう片方を「財政再建派」と呼ぶのはいくらなんでもなぁとよく思います。
さて、リベラルが主張すべき経済政策です。ここまで読んでくれた方はもうわかりきってるとは思いますが、「金融緩和と低所得者層や子育て世帯への財政出動の組み合わせ」です。
現政権の経済政策のアキレス腱は財政政策です。2014年のエントリーにも書きましたが、
雇用を増やして失業者を減らしたけど、それでもまだ失業している人や低所得者層への再分配だったり世代間格差の是正には興味がないのが現政権で、
再分配に興味はあるけどその原資のために景気を良くしたり失業率を下げるための政策を最後まで採らなかったのが前政権です。
金融緩和を継続するということを大声で主張しましょう。投票先のない経済左派が泣いて喜びます。
そーですね!(やけくそ)
私はリベラリズムが好きなので、候補者や政党が何をどう言おうが、候補者や政党が争点を決めることはできないと思っています。
それぞれの有権者が勝手に優先順位の高い争点を決めて、それぞれの優先順位にしたがって投票してしまいます。それでいいと思います。
その結果、全体としては、これまで有権者にとっての優先順位が高い政策は、雇用や福祉、経済でした。これからも変わらないでしょう。
このことは、本来ならリベラル政党にとってはありがたいことのはずなんです!だって雇用を増やして失業率を下げる政策を主張すれば勝てるんですから!!
なんで勝てないんだろう!?雇用を増やす政策を主張してないからですね!!!
雇用が争点になったら困るリベラルって斬新ですね!!!!新しい!!!!!
本当に情けない、悲しいです。経済左派が雇用を最優先に投票先を選んだら、自民党に投票するのがもっとも合理的になってしまうんです。
相対的に一番ロジカルな経済政策を主張してるのが自民党だからです。
しかも、ここまでに書いたように、よりロジカルな主張が存在するのに、私はそれを主張してほしくてしょうがないのに、リベラルなはずの政党たちは逆方向に全力疾走してます。
自民党一強の状況を、右傾化とかそういう言葉に回収して馬鹿にすることに意味があるとはまったく思いません。
自民党も安倍首相以外の執行部は緊縮財政派がずらりと並んでますし、次の総理が経済で失政したら政権交代のチャンスも生まれるかもしれませんね。
それまで寝て待ちましょうか。そのときにはどんな党名になってるんでしょうね、すごく楽しみですね(棒)
ああいう軽い動きは今のところ一部(コロリド、ワンパン)で流行っていて、全影作画とともに今流行のピークなんだよね。ここで言うと、正統派なりょーちも系とyama系では後者なんだけど(もっと正確に言うと、yama系をひどくしたのが砂場系)。りょーちも系は生き残るとは思うんだけど、それ以降、すなわちyama系・砂場系・コロリドみたいなのは正直厳しい。yamaもらっぱるもTVから逃げたでしょ、それが限界を表してる。
細田の影無しは大衆に違和なく受けたけど、それは細田の演出あっての話なんだよね。あのロジカルな演出でキャラ画がどうのこうのという思考を挟む余地なんて無くなった。だけども砂場系以降のWeb系作画にはその後ろ盾となる演出がないわけで、まあ残念ながら大衆には受け入れられないんだよね。そもそも影無し難しいし。恩田、沖浦のレベルで初めて影無しを使えるんだけど、そこらへんはバカだから彼ら分かってない。難しいってことが分かってない上に、達成もできてない。挑んだから認めてみたいな幼稚な回路なんだろうなあ。
まあ土台がないと、上に建物は作れないよなあってはなし
http://anond.hatelabo.jp/20160306221417
おそらく、
当方は某宮廷院卒だが、正直理系文系の区別はナンセンスだと感じる。
1でも感情的な人間は多いし、2でもロジカルでない人もよくいる。
3で感情がないような人間もいるし、感情と天秤にかけて意思決定しているやつもいる。
だから理系だから感情がないととか、理系だから合理主義というのは偏見にすぎない。
多くは普通の人とそこまで違いはない。
(研究室生活してれば、まるで中学生の夏休みのような生活をしているのは結構いる)
強いて言えば、ロジカルシンキングができる人間の割合とメガネ率が高いことくらいだ。
たまに勘違いして自分のこと頭いいと思い込んでいるのもいるけど、
多分そういうのが勘違いしてネットで声を荒げているから目立っているだけで、本当にみんな普通。
なので、少数の共感性の低い理系や頑固な理系を見て全体がそうだと思わず、
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
就活は最終面接で落ちたら終わりである。そこで落ちたらそれまでの努力はパァになる。かといって最終面接以前で落ちてもそこで終わりなので、まずはリク面までいってリク面に通るようになることが肝要である。リク面対策本みたいなものは需要の割りに供給不足なので書いてみた。好きなだけ偉そうに書いたがまぁほとんど失敗談で、言い訳が半分くらいを占めている。
・就活の前提
悪意を持って騙されたことがあるわけではないが、まず友人の言葉は信用してはならない。信用していい情報は1次情報だけである。「商社は激務高給。」これぐらいならまぁよしとして、「~~の業界はマッタリ高給。」こんなの絶対嘘である。しかし信じてしまう。それどころか面接で「友人と話をしていても御社は~~な点があると聞きますしー」などと言ってしまう。阿呆の極みである。自分で情報集めをしていないことをさらけ出すようなものである。「何月何日の何々ビルでの何々セミナーにて御社の何々様から~~と伺いました。それを聞いて私は~~と思いました。」と言ってもいいぐらいである。その会社についての情報はその会社の大人から聞くのが一番である。確かに人事は悪いことは言わないみたいなことはあるが、大抵の学生よりはマシである。2次情報、又聞き、無料の情報、友人の言は信用しすぎてはならない。この文章もそうである、貴方の就活に責任があるのは貴方だけである。
・どの会社を受ければよいか
行きたい会社業界だけではなくて、受かる会社も受けたほうが宜しい。受かる会社というのは、2chの就職偏差値ランキングが低い会社や業界4番手5番手の会社ではない。なんとなく待遇がいい会社、どことなくウェルカムしてくれる会社、ちょっと無理なお願いを聞いてくれる会社、学歴厨の偏差値脳にもわかりやすくいえば関関同立の人が多い気がする会社、学歴を気にしなくて学閥がない(早稲田慶応がうるさくない)会社とかである。こういう会社は後からでも好きになれる、好きになれば行ける。加えて給料が悪くない会社、ホワイトな会社であれば万々歳である。ただしBtoBメーカーは最早大人気過ぎて受かる気がしないからもう受かる会社ではない。ちゃんと探せばあるにはあるらしい。あと大人気なせいで若手は薄給な気がする。東レとか。どこかで本当にそうか聞いてみて欲しい。人が多い業界で給料が高いということは、仕事も多いということである。とにかくマッタリ高給激ホワイトな会社に就職できるくらい器用ならこんな文章読まなくていいはずだからそういうのは一旦諦めるとはいわないまでも、別の道にも目を向けたほうがいいだろう。商社メーカーインフラマスコミコンサル志望なら、金融業界にひとつはここなら行ってもいいと思える業界を持ったほうがいい。メーカーに受からなかったから言ってるってのはある。
50社100社とエントリーする馬鹿がいるが、実のところ何がしたいのかわからない、何が向いてるかわからない、自分に何ができるかもわからない人はまぁ、たくさんエントリーして見聞を広めるしかないのである。自分の周りの人がエントリーしてる会社しか受けないのは無謀、周りの人が受けてない会社にエントリーして満足するのは危険である。エントリーは質・量より早さである。危機感に煽られて後から後から持ち駒を増やそうとエントリー増やしてしまうのはどうしようもないが、ESの時期にエントリーをポチポチするのは、無益な感じだった。一方で持ち駒ゼロの状態は恐怖である、セーフティネットのない地獄である。就活ルールが異なるので年ごとに違うが、エントリーから面接までが近いなら、最初に多めにエントリーをやりきって、残りの持ち駒をみつつ増やしていくべきである。10社しか受けない、と言いたいのであれば10人リクルーターがつくまではエントリー数を増やすべきである。エントリーした数は持ち駒ではない、エントリーするだけなら誰でもできるし誰でもやっていることである。何人リクルーターが付いているかぐらいを持ち駒と考えたほうがよろしい。
説明会は情報収集の場である。しかしその業界の収益構造、簡単な歴史、景気のよさ、社員の雰囲気、羽振り、人間性を確かめに行くつもりで会場に行って、メモとって、家に帰ってそのメモを読み返しても、クソの役にも立たないんだなぁこれが。説明会にはESを書くつもりで行け。ESで詰まるのは結局志望動機である。説明の最後に社員か内定者に、当時の志望動機を聞け、そしてそれに自分のエピソードをまぜてパクれ。志望動機いっちょ上がりである。普通にやって書けたらいいんだが、ES書けないからってネットで拾ってきた志望動機をコピペするよりはこっちのほうがまだマシである。説明聞きながら志望動機書いてる人が実際に居た、賢いと思う。お手本にすべきクズである。
業界研究は頑張れ、リク面に使える。人よりちょっとやるだけで社員さんの反応が違う。大切なのは量ではなく正確さである。不景気な業界に景気いいっすねと言ったらアウト。不安定な業界に安定してますよねって言ったらアウト。こいつはわかってないと思われる。まず業界まとめ本見たいのを立ち読みして「この業界はAである一方でBである」みたいなちょっと凝った言説を用意する。次にその業界の社員に「業界研究を始めたところなのですが、この業界はAである一方でBであると本に書いてあったのですが、これはなぜですか?このほかにどういった特徴がありますか?」みたいな質問をぶつける。すると「それはCだよ」みたいな答えが返ってくるので、その業界の別の社員に「Cって聞いたんですけど」聞き、「それはDだよ」と返してもらうのを無限にやれば、リク面でこいつ業界研究ちゃんとやってんなと思われる殺し文句の完成である。このとき若い人事はカスみたいな答えしかくれないので、自分の仕事の抽象化ができてるオッサンに聞こう。まぁ「この業界競争的ですよね」的なこと聞いたらだいたいOKだが、使いすぎると阿呆がばれるのできちんと質問は発展させたほうがいい。人間阿呆にはなんにも教えてくれないが、わかってるヤツにはもっと詳しく教えてくれるもんである。とにかく社員さんに「そーなんだよー、業界研究きちんとしてくれてるね、うれしいよ」と言わせたら勝ち。会社研究はこれを会社単位でやればいいだけ。就活生が会社に抱いているイメージが曖昧で願望入っててズレてるのと同じで社員の会社に対するイメージもそうである、質問をたくさんぶつけて正確な会社像をあぶりださないといけない。
・ES
クズ人間にも“通るES”は書ける。まぁそう信じないと始まらないからそういう風にポジッておこう。通るESを書くコツは、コピペしないことである。これはもう黄金律と言って差し支えない。何故なのかは自分で体感すると思うが、とにかくコピペしたESは通らない。市販の志望動機集、ネットで売ってるやつ、ただで手に入るやつ、全部だめ。前述のとおり説明会で聞いたのを丸パクリするほうがまだマシ、よっぽどいい。自分が書いた別の会社のやつを別の会社にあてはめるのも、コピーアンドペーストはやめたほうがいい、1から書くだけで文章がよくなる。コピペしても通る人は勿論通る。羨ましい。
5回も10回もリク面してくれる会社は本当にいい会社である。フィードバックしてくれるので、面接にたどり着くころには大体の質問に答えられるようになっている。しかしだいたいのメーカーなんかの採用活動ではそんなところまでしてくれない。元々の枠が少ない中で、そんなことまでしてくれる枠に入るのは至難の業である。ES→Webテ→「面談という名の1次面接」→不採用、という急流くだりみたいなコースも珍しくない。そんなイキナリの面接、相手が自分のことをまったく知らず、相手が自分にそんなに興味も持ってない面接の場に唯一持っていける武器がESである。面接ではトラップだらけのESでないと役に立たない。面接官の質問を誘導し、どんな質問が深掘りされても答えられる、そんなESが理想である。だからESは面接を念頭において書かなければならない。面接練習を極めてから書けばまぁ落ちないだろう。そんなことは無理だが。
そしてESは早く出せ。絶対に早く出せ。就活失敗する原因はわりとここにある。ESを早く出すメリットは、ESさえ出してしまえば自分でスケジュール管理をする必要がなくなることである。スケジュールとタスクの管理はメモ帳に全部書けば誰でもできるとして問題は自分がスケジュール通りにESを書けないことである。予定通りにESがかける人間なら今頃こんなに単位が残っているわけがないのである。貴方はESはいくらでもサボれる。明日締め切りでも今日やらない、そういう人間である。だが一方で、3月7日にリク面に来いと言われたら絶対に行く人間である。そこまでサボるやつはどうしようもない。ESを出したらリク面の案内がくる。そしてリク面の案内が来るようになったら、あとはもう言われるがままに会場に時間どおりに行くだけなのだ。それは簡単にできる。だからESは早く出すに限る。世間一般に言われてるメリットもたくさんあるしとにかくESは早く出すに限る。
具体的なES執筆の方法論は「ロジカル面接術」を読め。これだけは買って2.3回読むのをお勧めする、少なくとも一回立ち読みはしたほうがいい。低学歴向けぼったくり就活本にしか見えないのだがどうしてどうして良い本である。
ネカフェで書いたESも落ちる。ネカフェには息抜きのためにいくべし。
・Webテ一式
ESを極めれば面接も受かるが、Webテを極めても面接には受からない。労力の配分は効率的に、てゆーかよくわからない。どの種類であれ、Webテは謎、悩むだけ時間の無駄、やるべきときに手を抜かずにやれば十分。ほんまによくわからん。
外資コンサル等に行きたい人は徹底的に勉強すべし。その会社のWebテがどの形式なのか、何回あるのかを、人事でも先輩でも内定者でも誰からでもいいからとにかく聞き出して対策すべし。
便乗させて頂きます。
【ネタバレ注意】
ほめてません。
寝ずに普通に見れるけど、乗りきれなかった。
以下気になった点など。
・ストーリー上のご都合主義の展開はいいんだけど、肝心の科学的な部分がロジカルではないから感情移入出来なかった。もっと仔細な部分に科学的リアリティを持たせて欲しかった。作中のリアリティラインに乗っかれなかったてことかな。
・いいっていう人もいるけど、心情や状況に合わせたベタベタな歌詞の懐メロギャグがしつこくてサムかった。
・あと、ドリフのコントみたいに科学実験失敗で体から煙出す演出とか。
・タイムズスクエアやロンドン、中国の広場とか世界中で人々が大勢集まって固唾を呑んでオーロラビジョンを見守るシーンとか何なの?今時?これもギャグってことかな。 例え世界中で見守るとしてもスマホとかじゃない?
・主人公側と地球側で同じ台詞を2度繰り返す演出が何度もあって、気になった。
・マットデイモンの痩せた体がモロ代役。
・主人公のバックグラウンドが描かれず、変に人間ドラマにしてないのはよかった。
宇宙船の爆発ドッキングとか大仰なトラブルとかいらなかったな。単純に火星で生き抜くために知識と限られた資材と情報とポジティブシンキングでサバイブするだけのお話で良かった。知恵を絞って解決するって演出を徹底的にする方が自分には合った。
2度は見ないかな。
スターバックスが日本に来てからどれぐらい経つだろうか。近年まだ出店していない自治体で出店した所、大人気に…といったようなニュースを見た。
私は残念ながらスターバックスのあの店の感じも、あのコーヒーの味も元々苦手で、北米は元より、日本もできるだけ使わないようにしているのだが。
ここはネットだからまだいいのだが、この手の発言を未だにリアルですると、明らかに周囲がドン引きしているのがよく分かる。勘違いしてほしくないのだが、スタバがダメと言っているわけではない。私の好みでないだけで、それは彼らがまだトレンドだった遥か昔から変わらぬ想いだ。
自分には両親がいて幸いまだ健在であり、自分の結構な部分を彼らには話をしていて共有しているつもりだ。
明らかにどんなにそれが自分にとってはただの好みの話であると言っても、両親は自分たちが愛してやまず、よく通っているスタバの批判をされた事に明らかに機嫌を悪くしていた。
人間の理性とはなんなのか、そして批判精神とは何なのか。感情は不可分なのか。
ライプニッツはこういった。 Musica est exercitium arithmeticae occultum nescientis se numerare animi と。
を受けてたので結果、所感など。
知覚統合 114 処理速度 102
検査者さんからの結果説明とwebで拾い読みした浅い理解の上だと、4大卒ホワイトカラーサラリーマンのほぼ平均値という所であろうか。
検査内容詳細は割愛するが、1回3時間強とかなり長時間集中力を求められるものだったので、
ペース配分を調整するだけでいくらか違う数値が出そうな気もする。
言語性=ようは語学能力?に不安をもっていたので、結果をみるとそこそこ普通だった、という点に驚いたというか少し安堵。
これは何かというと処理・操作のための記憶能力だそうで、複数タスクを覚えてられない、物忘れが多いというような能力に側面してるとのこと。
自分のケースだと「耳から認識した数字に脳内でなんらかの処理をしアウトプットする」というスポット的な作業のみ特別苦手らしい。
これ心当たり存分にあるんだよな。
…人間サボった部分だけ衰えるのが早いのか
それとも元々の性質なのか。
多分両方だと思うな。
日本の教育では聴覚処理能力(例えば英語でいうリスニング)をクローズアップする機会が少ない、という話も興味深かった。確かに。
ところで、なんでこんな検査を受けてきたからというと別に自らの知能を客観視したかったという崇高なことではなく、単にADHDの検査をしてみたら?と主治医に勧められたため。これは後述。
念のため。
で、ADHD的には各能力数値ではなく数値間差を注視するということで、私の場合は各数値に有意性=バラつきが認められるとのこと。
最終的には、まあ平均値内には納まってるしADHDの帰来はあるものの障害認定するまでではないよね、という落とし所らしい。
この辺、各医療機関の判断に差がつきそうなところだとも思うけれども。
自認する能力に対してある一定の数字がでるって興味深いし説得力ある。
弱点は運用である程度カバー出来るし意識的に鍛える事もできるしね。
自分の場合は聞き取った数字を一旦メモするだけで処理能力が格段にちがう。
うつ病診断→一向に回復しない→セカンドオピニオン求めて転院→双極性障害(躁うつ)、ADHDの疑い→各種検査
という流れだったのでした。
因みに保険適用で2000円弱程度(初診費用除く)だったので、興味本位でうけてみるのもいいかも。ADHDの疑いがある、というと受けさせてくれると思います。
双極性障害の検査(光トポグラフィー)もまあまあ興味深かったのでまた機会があったら書きたい。
長文をインターネットに垂れ流すのは初めてだけど割と1000文字とか普通にいっちゃうのね。
最後に。
社会生活に疲れてる人、生き急いでいる人
大変だけど、なんとかゆるりと生きる術を見つけていきたいですね。
どなたかわかりませんが、この文章を最後まで読んでくれた人が万が一いたら。
お付き合いありがとうございました。
http://susumu-akashi.com/2014/01/wais-iii/
いい文章だな。