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はてなキーワード: 批判精神とは

2019-07-26

「終わりなき日常の終わり」とかいう終わってるコラム

アニメなんてなくても生きていける。

そう論じるのは簡単なことだ。

だが

人間そもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。

それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。

アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ音楽アイドルスポーツ観戦、特撮映画小説

多くの人間一見生産ものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。

まずこういったもの批判をすること自体禁酒法時代アメリカ天保の改革風俗取締令のようなナンセンスさがある。

すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。

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終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

まりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファン豹変し、本人を襲撃。アイドルアニメは、そのマーケットクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映労働争議で多くの人材放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメ製作ノウハウはあっても、資金的制作能力に欠けており、広告代理店テレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本キティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおマンガ翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーション前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守映画オリジナルストーリーうる星やつらビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSFさらにはもっとタイト大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生サークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数共通体験からだ。入学式修学旅行学園祭卒業式教室体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分個人人生空っぽな者、いや、イジメ引きこもりで中高の一般的共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生ガイ制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタアラサーアラフォーファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメ主人公は、のび太カツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後希望は、自分永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙立候補する、アイドルタレント芸人になる、小説マンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニ惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事待遇業界のあり方、物語方向性ファンとの関係見直しあらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

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京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人女性戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実劇場版企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。

また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。

日本オタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。

京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。

エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。

終わりなき学園祭としてひとつ象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、

うる星やつら漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、

近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパン基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。

しかアニメファンは常にコンテンツ新陳代謝さらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社からといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。

1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。

そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。

そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社非情なる現実

そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品供給できる会社を存続させてきた、業界良心の要石のような会社京アニであって、それはこういう批判俎上に上げるべき存在ではそもそもない。

事件からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。

このケースは犯人特性も含めて極めて異常であり、安易因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。

この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。

オタクにイキって食う飯は旨いか

まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造ものも見受けられる中、ひとつひとつ作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。

あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。


最後

人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである

そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。

2019-06-03

吉本バラエティメンタリティは終わりにしたい

例の松本人志発言が叩かれている。叩かれて当然だが、Twitterでこんな意見を見かけた。

──人としての思いやりを「偽善」と嘲笑し醜い本音吐露することを「正直」として高く評価する大阪の風潮が維新松本人志を生んだのではないか

https://twitter.com/Simon_Sin/status/1135190442876686336

正直「大阪の風潮」は言い過ぎだと思うが、ただ個人的には「吉本芸人バラエティのノリ」的な日本社会はそろそろ終わりにしたいと思ってる。

真面目な研究者が登場したら「なんやねんその髪型から入るあの感じ。

勉強が大好きな子どもが出てきたら「その分厚い眼鏡重くないんか」から入るあの感じ。

本気の人を笑いに変えてしまうあの感じ。

斜に構えるというのとは違う、何事も「いじる」、ちゃかす、あの感じ。

それが批判精神と結びつくことはなかった。個性に敬意を払うのではない、多数派安心感を与えるための迎合という「いじり」。「真面目の崩壊」などと言われて久しいが、「吉本的ノリの蔓延」が日本社会くびきになってきたと個人的に思ってる。正直、自分の子どもがこんなバラエティ社会に放り込まれるのだけは気の毒なので、どうにかしたいと思ってる。

松本は言いそう」ではない。松本はああいしかない。

松本とほぼ同時に放送された太田光発言も注目されている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190602-00128440/

太田は時々本気になる。「いじり」が政治社会批判に向くこともある。爆笑問題ダウンタウンの仲が悪いなどと言われるのはこんなところだと思う。

2019-03-02

anond:20190228233850

彼の考え方にはツイッターしろ新聞インタビュー寄稿しろ賛同するところが多いのだが、小説主人公はみんな、エリート公務員とか宇宙飛行士とか建築デザイナーとか歴史上の偉人とか、俺には手の届かないような超絶エリートばかりでどうも読む気になれなかった。

それでも「決壊」だけは読んでみたことがあって、ネット上のレビューなどではこの小説をつまらんと切り捨てる人もいるようだが、俺はそうは思わなかった。丁寧でまじめで思いやりのある人柄がよく出ていて心を打たれたし、だからこそ、他のメディア上で発する意見にもマイノリティへの思いやりや権力に対する批判精神が一貫しているのだと思う。

俺は、彼にはKKO主人公小説を書いてほしいと思う。普通の人レベルじゃなくてガチKKOで。ただし、彼はあまりにもKKOとは無縁の属性から、書いてみるとしたらきっととても大変なことだろうとは思う。

やっぱ無理かな?

2018-11-08

結局の所、博士課程院生文系)の民間企業就職って、そんなにいいも

はじめに

近年、諸要因に伴う労働プールの枯渇と求人倍率の上昇により、博士課程院生キャリアパスとして、日本でもようやく民間就職現実味を帯びつつある。

例えば、この前も数学科?の博士課程修了の方が研究職を諸事情により諦め、民間就職シフトしたことについての総括エントリをまとめ、バズっていた。

http://wakabame.hatenablog.com/entry/2018/11/04/190441

こうした潮流自体はもちろん喜ばしいことであると思う。しかし一方で、一人文社会科学院生であり、かつ一応数年間民間企業で働いていた人間として、民間企業でのキャリアパスが確保されること=バラ色の未来とはとても思えなかったという経験がある。

これは、①本質的博士課程院生日本民間企業で雇う際の歪み(特に非エンジニア職制の場合)と、②いわゆる「役に立たない」ことを研究している院生は、本質的民間企業価値規範にそぐわないメンタリティーを、大学院教育の中で滋養しているという二点に起因していると思う。

というわけで、極めて私的経験かつ、まったくもってエゴイズムの塊のような問題提起をあえてしておきたい。これは、前述したような近年の博士課程院生民間就職を過度に褒めそやす風潮に対し、挫折し結局研究業界に戻ってきてしまった人間として嫌味を言っておきたいという気持ちによる。

コンサル研究職、その似て非なる性質

私は修士終了後、まあいろいろあって博士課程進学と同時に民間企業就職をした。コレ自体、かなりイレギュラーではある。

仕事内容はまあ、詳しく言うと確実に特定されるので防ぐが、政策調査地方自治体計画策定コンサルである官公庁調査案件請負、クソみたいな――時々インターネット炎上するような――分析鉛筆なめなめを行い、官僚様と政治家様の願望にそぐう数値をでっち上げ仕事である

で、これは当然のことながら人文社会科学系の研究者の価値規範と真っ向から相反する。というのも、私たち人文社会科学系の研究者は、扱うデータがどのようなものであれ、そのデータ分析においては仮説を用意したとしても、最初から結論を用意するということはしないかである。ところが、この業界――まあいわゆるシンクタンク業界なんだけど――においては、最初から結論が決まっているので、データ分析はいかに結論でっち上げるかという方向に労力が注がれる。

これはなんでそうなるかというと、この手の仕事コンサルから派生しているかである。すなわち、元々コンサル業界倫理観においては客の求める結論をはじき出すということがある程度正当化されているので(外コンのプレゼン術を名乗る本は多くの場合ただのごまかしである!)、それに基づいて目の前のデータを弄ることに抵抗がないのだ。ただ、そのデータを弄る際に、人文社会科学スキルセットを援用するというだけなのである

で、問題はこのスキルセットが活用できるという理由でもって、人文社会科学系の院生がこの業界を志望し、実際雇われているという現実であるサンプルサイズは極めて少ないが、私の周囲を観察するのならば、このギャップにやられて会社を辞める人間は実に多い。特に「優秀」――ここでの「優秀」とはアカデミアでの評価である――な人間ほどである

事実、私は「優秀」ではないが、こうした現状に辟易して、言い換えるのならばアホなクライアント上司妄想に無理やり付き合うことに疲れて退職してしまった。

批判精神の醸成って、日本企業においては完全なディスアドバンテージなんだよね

なぜこうなるのだろうか。それは、人文社会科学系の教育カリキュラム価値規範が、現代日本企業と致命的にあってないかであると思う。

よく人文社会科学系の先生は、「常識を疑うこと」や、「新しい仮説を立てること」を大学教育の美点として強調する。私ももちろんこれらのことが本質的に良いことであることには同意したい。だが、これが現代日本新卒就職においてよく働くかといえば、まったくもって嘘である。というのも、少なから日本企業においてこれらのスキル必要となるポジションは、多くの場合前頭葉が退化した老人によって占められており、我々若手社員がやりうることは、老人が出した意味不明結論に向けて数字でっち上げることだからである。この作業は、前述した批判精神と真っ向から相反する者である私たちは、今まで培ってきたスキルセットをもってクソの世話をするのだ。

であるからにして、私は現在アカデミア教育は、少なくとも人文社会科学系に限るのならば、民間就職に対し逆作用しか生み出していないと考える。ただ、これはアカデミアが悪いとは必ずしも言えない。繰り返すがこれは高スキル社員を作り出せず、無駄に高コストジェネラリストという名の無能を社内に飼いながらスペシャリスト下請けを買い叩くという、日本企業伝統構造に起因しているかである。鶏が先か卵が先かは言い難いが、そもそも日本企業において、一部理工系エンジニア(計量系の経済社会心理なども含めてもよい)以外は、「無能」――ここでの「無能」とはアカデミックにおける「無能」を意味する――でなくては生きていけないのである

というわけで、現状の日本企業構造をそのままにしていては、博士院生をふくむ多様なキャリアを持つ社員活用なんかできっこないし、実際出来てなかったよ、ということを本エントリは主張するものです。

というわけで

金はないけどアカデミック最高!好きなことを好きにやれる環境って、結局俺たちには大学しか無いの。俺たちには理研産総研産学連携ベンチャーもない。同情するなら金をくれ。役に立たない研究しかしないけどね。

2018-09-04

はてなーってそのうち、はちまに手の平クルーするんじゃないか

と割と本気で思う

はてなーって保守速報なんかを叩く時には決まって「まとめサイト情報不正確」とか言ってるけど、結局そんなん単なるタテマエなわけでしょ

自分がムカつくから叩くだけであって、叩くためにわざわざそういう理由を持ち出してるに過ぎない

ゲームまとめサイトオタク巣窟オタク自分たちの敵、だからまとめサイト自分の敵、こういう雑な線引きでしかないの

でも最近はちまって、結構フェミ系の記事を上げるようになったんだよね

しかもあの手のサイトには珍しく、やたらとフェミ側に好意的なの

もちろん住民はいもの住民からコメント欄はだいたい反フェミで膨れ上がるし、そもそも男叩き女叩きのバトルでPV稼ぐのが目的で、別に中の人本心から好意的なはずはないんだろう

PV目当てにフェミ系の記事書いてるのは、例えばJINなんかもそうだったりする

ただ、あっちは普通にフェミには批判的で、わざわざ連中のキチガイじみた言説ばかり取り上げては、やる夫やらない夫AAドン引きさせるのが常だ

似たようなサイトでもそういう違いを出してくる

では彼らが自分らに媚びてきた時、果たしてその旺盛な批判精神はどうなるかというと、たぶん全然働かなくなるんじゃないかと思う

別にまとめサイトに限らず、人目を引くために変なことを書く奴らというのはいくらでもいるわけだけど、はてなーってそういうのによく釣られるじゃん

ソース不明ヨタ話でも嘘松でも、自分自分党派性に都合さえよければ全力でパクッと食いついちゃうし、疑いの目を向けられようものなら普段信じてもいない性善説まで持ち出して反撃するし、

しまいには真っ赤な嘘とわかった後になってもどうにかして持ち上げようとする

リテラシーが低い上に、それを恥とも思ってないわけ

お似合いなんじゃないの

2018-06-07

4コマ漫画の作者もネトウヨらしいという噂を見た。たしかにあの漫画を読んだとき古き日本的保守的思想でなんか嫌だなとは感じた。とくに会社上下関係などが気持ち悪かった。キャラクターかわいいけど、どうにも滲み出る思想気持ち悪くて1巻で挫折。まあ作品思想は滲み出てくるものだよな。

ネトウヨ作品共通してあるのは現状肯定自己肯定と思われる。批判的な視点存在しない。これは多くの日本人習性でもある。戦争責任と向き合わず日本スゲー、俺スゲーを言い続けてきた。だが日本はそうやって大きくなってきたのも事実で、だからこそ日本戦後とは一種カルトだったと思われる。

そしてもうそんな気の狂った夢も終わりの時期が来ているのかもしれないということ。目を覚まして現実と向き合うんだ。

日本芸術が育たなかったのもこうしたカルトの影響もあるかもしれない。エンタメ作品はそのほとんどがネトウヨ的要素すなわち現状肯定自己肯定を持っている。エンタメ作品に触れる客はそれを見て気持ち良くなるわけだ。自分肯定してくれて元気がもらえる、感動できるというわけだ。これは甘っちょろい幻想にすぎない。しかし客はそういったものを欲していた。だから制作者はどんどん飴を与え続けて愛撫しつづけた。甘えてくる客に優しく親切にできるだけ彼らが気持ち良くなれるようなものを作ってきた。

甘ったるいエンタメで育った人間自分肯定してくれないものを受け入れられない。幼稚なまま大人になってしまう。自己批判せず、現実を受け入れず、ただ「俺らは間違っていない。正しい。正義だ。批判するやつは差別主義者だ」と唱えていればよいということになる。現状肯定がすべてで、これ以上の改善など必要ない。すべては完璧で、穏やかで整っていて、甘く心地よい世界から、それを批判することなど許せないというわけだ。自分の完全な世界が少しでも動揺することを恐れている。だから批判は受け入れられない。現在ある完全な世界に浸かりきっていたいから。不完全な現実を指摘されるのは彼らには苦痛すぎるのだ。

たかラノベ批判されたくらいで40代おっさんたちが顔を真っ赤にしてぎゃーぎゃー喚く。これは一体なんなんだ? あまりにもグロテスクじゃないか。きみらはラノベ依存しすぎている。依存しすぎていてラノベ=俺になっているからこんなに必死なんだろう。自分アイデンティティなんだろう。いい年したおっさん中高生向けのエンタメ小説が少し批判されたくらいでブチ切れてしまう。完全にどうかしている。

はてなには目立つラノベオタクが30人程度はいるらしく、いつも固定メンバーが集まってブクマしている。彼らの中で批判精神を持つ者は存在しないから、いつもの固定メンバーが集まって、自己肯定しあっている。またやってるのかと呆れて観察させてもらっているが、ほとんどカルトのようだ。全員同じことを言っていて、自分意思なんかないようだ。ネット受け売りしか語れず、自分言葉を持たない人たち。

彼らを救うことなんてもう誰にもできない。40代にもなって中高生向けの陳腐エンタメ作品擁護でブチ切れしちゃう連中なんてどうやったって話が通じるわけないだろう。ネットde真実の層ともかぶるだろう。何が彼らをそうさせるのか。彼らの中でラノベとは一体なんなのか。「ラノベ定義できない」と言いつつ、ラノベ批判されるとキレるのはよくわからないことだ。結局自分の中でも「ラノベ」という単語の指示範囲がなんとなくあって、それが否定されたと思うからブチ切れてるわけだろう? そしてラノベ否定されるということは、自分自身が否定されたということとほとんど同じようなことなのだろう、彼らの中では。なんでそこまで依存してるんだ? そんなのラノベ依存症だろう。ラノベはきみらを救わない。きみらが50代60代になってもラノベを読み続けることは自由だ。しかしそのときにはラノベ否定されたくらいでブチ切れたりしないような精神的な成熟がほしい。まあむしろ60代になったらさらに厄介な人間になってそうなのがあれだが。

頑張ってほしい。

2017-10-24

anond:20171024095701

若者

全幅の信頼を寄せられるメディアなんてねーよ

そんなものがあったらみんなそれを見て解決する

貧困のない社会を今すぐよこせ、そういう社会なら暮らしてやる」ぐらいの理想主義


だって人間のやることだもん

利害や立場アンフェアな書き方になるし

何が重要情報かなんて判断そもそも神にしか出来ない


メディアへの批判精神と懐疑心はとてもよいけれども

「いま目の前にそういう理想的ものがないか自分選択しない」っていうのは無責任


メディアを見張って捏造不正には猛抗議してスポンサー突撃して

クソ記事記者実名掴んでネットサジェスト汚染して記者生命を断つべきだ

それはそれとして今現在選択もすべきだ

2016-12-30

増田よりも、底辺マイルドヤンキーといるほうが楽しいと思う

底辺マイルドヤンキーってのはともすれば

意識が高く意地悪い増田たちにぶっ叩かれまくる天敵だろう

かく言う自分はてブ界に住む増田の一人でもある。

ポリコレステマ批判精神はカウボーイが銃を持つようなものだろう。

自分もそれらを帯同する「良識的で善良な」圧倒的増田である

ヒョンなことから、付き合いで底辺界に住むマイルドヤンキーたちと

接触することが増えた。

底辺界の住人たちは、増田が心底憎み、目を合わせてはならない生物である

例えば子育ての話では、10代や20そこそこで何人も出産しているようなマイルドヤンキー達は

不幸の再生産を行う非国民のような扱いだ。

今年は付き合いでキャバクラガールズバーに行くようになったのだが

そこで働いている女の子は「訳あり」な人が割りといる。

例えば客先の営業に連れて行かれた、ビキニバーにいる20歳の巨乳美人ギャル

そのクビレから想像できなかったが、二人の子持ちである

インスタグラムに連絡先を自動同期していたから、その子アカウント勝手おすすめされ

中を見たら両腕にヤクザ系のスミを入れた不細工旦那が見れた。

ここ1ヶ月でボチボチ行くようになったガールズバー店員(清楚系ギャルというのがピッタリ)は

ぶっ飛んでいるぐらい酒が強く、プライベートでも朝まで飲んで

昼のバイトに出かけるというようなイカレ具合だ

の子子供の頃に親が離婚して、高校中退しており

15歳からクラブで酒を覚えた、いわゆる増田の敵である

14歳にはバージンを失っており、元カレの数は4人だが経験人数は20-30人という

ゲームで勝ったら秘密を聞いて良い、負けたら俺がおごるルールで聞いた。

誤解してほしくないが、経験人数とか聞くのはなしっていう前フリを受けたので聞いたのである

はてブ界の人間からすれば猿扱いされる御仁である

年末に朝まで飲んでその後、その御仁とアフターすることになった

店のシステムではなく、プライベートしてのアフターである

自分はもうおっさん増田であるので20歳程度の若娘とプライベート飲みなどの機会はとんとなかった。

そこで彼女の知り合いのダーツバーにいくことになり

これまた、ザ・マイルドヤンキーみたいな若者オーナーをしているのだが

その男も20そこそこである

オーナー店長イケメンで若くどう見てもヤンキー

着席早々にテキーラゲームである(全部オレの金だ)

そこで聞いたことあるようなないようなコール

増田にとっては呪詛であるが、マイルドヤンキーにとっての福音

をされ蛮族特有おもてなしを受けた。

例えばBOOWYonly youに合わせるコールなら

only you 飾らないで(飾りじゃないのよコンドーム!)

only you たった一度(1度と言わずに2度3度!)

みたいな敬虔増田が聞いたら、耳が破裂して廃人になる呪文を浴びせるのである

自分は半分マグルみたいなもんなので大丈夫だった)

上のコールは昔からあるらしいが。

女の子は多少のお触りOKでかわいくて

男はイケメン面白いことをしようとがんばってくれて

増田が立ち入るなと言っていた底辺界は決して悪くないのではないかと思った

というかときおりtwitterなんかで意識高い人たちが

顔写真なんかを晒しているけど容姿格差がひどすぎるだろ。

なんではてブ界の人々はちきりんイラストを具現化したような人しかいないのに

底辺界の住人はみんなイケメンだったり可愛いかったりするんだ。

こんなのっておかしいよ

僕ははてブ界で底辺ヤンキーは猿だって教えられたのに

これじゃあどっちが猿がわかりゃしないよ!

から飲みだして、ダーツバーを出たのは昼を過ぎていて

通算12時間以上飲んでたわけだが、こんなの何年ぶりだバカ

だけどいつも増田はてブブコメをして、社会を論じるよりも

完全に「生の喜び」を感じてしまった。

こんなのもう戻れないよ

飲みすぎて迷惑かけたかと思ったが

「楽しかった、また飲みに行こうね」と言われたら惚れてしまうやろ

思うに増田の心の狭さと、彼女たちの「とりあえずテキーラいっきしょ!」

みたいなノリの対比をしてしま

一体どちらが素晴らしい世界に住んでいたのか

世界観が壊れてしまった

イスラム教から仏教改宗しようか迷っている人は多分こんな気持なんだろう

瞑想運動が足りないんだよ」

主語がでかい

プリントアウトして病院へ」

などという煽りよりも

「もう飲めないのwヨワイーヨワイーw」

という蛮族の煽りのほうが遥かに心地よいということを知ってしまった。

俺はもうそちらへは戻れない

デンモクマイクくださーい)

2016-04-19

http://anond.hatelabo.jp/20160419234430

そうですね。

ちなみに2段落目も、

彼女死ぬ死ぬコンテンツは数少ない安心して見ていられるエンタメからだ。

のような、「あれは炎上芸だから死なないやつですよ」という内容ですね。

しか根拠を示さず。

個人的にはうまいとは思いませんが。

「Delete_Allさんは好きだけど、このエントリは正しいかな?」と思えるだけの批判精神が、はてなブックマーカーにあればいいだけの話なので。

2016-01-31

中高生ライトノベルを読むべきではない

http://togetter.com/li/931628

 このやり取りがネットで話題になっているようだ。

 口火を切ったSF作家は「ライトノベル向上心を持つ妨げになる」と主張している。これに対し、ライトノベル作家は「ライトノベルは単なる娯楽であり、向上心云々は関係ない」と反駁を試みている。togetterコメント欄はてブを見る限り、ライトノベル作家の肩を持つ人が多いようだ。

 さて、このやり取りでは「中高生ライトノベルを読んでいいか否か」ということが問われている。筆者は「中高生ライトノベルを読むべきではない」と考えている。ライトノベル社会への批判精神の涵養を妨害することが、その理由である

 ライトノベルの題材としては、学園生活や異世界での冒険といったものが目立つ。基本的にこれらは、社会的問題提示したりするものではない。また、ライトノベルの話は魅力的なものが多いと推測される。ライトノベルの根強い人気がその証明である。この2点より、ライトノベルはある種のプロフィードとして作用することが導き出される。つまり現実的かつ魅力的なライトノベルは、社会的問題に目を向けさせるのを防ぐ効果を持つのだ。

 本来中高生時代は、社会への批判精神を養う時期である社会への批判精神を養うには、勉学やボランティアなど様々な行動を通じ社会の不合理を体験したり、あるいは書物や新聞を読み考えることが必要不可欠であるしかしこの時期にライトノベルを読んだらどうなるのか。答えは火を見るよりも明らかだろう。

 そしてライトノベルを読み、社会への批判精神がなくなったらどうなるか。権力者供給する低劣な娯楽(ラノベアニメ漫画ゲーム大衆小説ギャンブル性風俗など)を貪る奴隷だらけになる。今の社会はそういう奴隷ばかりであるコスプレ喫茶で働く女子校生を題材にしたわいせつアニメに現を抜かす男性、酢こんぶみたいな名前中年男性グループ黄色い声をあげる女性男性器みたいな名前違法賭博にのめり込む工場労働者。彼らは全員奴隷である。そして奴隷がたくさんいることで、社会格差拡大は進み、近隣諸国との関係悪化環境破壊も進んでいる。

 学術書を読めとは言わない。しか岩波ブックレットであるとか、あるいは中央公論新社が出す新書などを読むべきである。全てではないものの、筆者のような浅学菲才の身でも理解ができる内容のものが多い。中高生ライトノベルではなく、こういう本を読み社会への批判精神を涵養すべきだ。

2016-01-17

純粋スタバ批判

スターバックス日本に来てからどれぐらい経つだろうか。近年まだ出店していない自治体で出店した所、大人気に…といったようなニュースを見た。

私は残念ながらスターバックスのあの店の感じも、あのコーヒーの味も元々苦手で、北米は元より、日本もできるだけ使わないようにしているのだが。

ここはネットからまだいいのだが、この手の発言を未だにリアルですると、明らかに周囲がドン引きしているのがよく分かる。勘違いしてほしくないのだが、スタバダメと言っているわけではない。私の好みでないだけで、それは彼らがまだトレンドだった遥か昔から変わらぬ想いだ。

自分には両親がいて幸いまだ健在であり、自分結構な部分を彼らには話をしていて共有しているつもりだ。

しかしこの点だけは失敗した。完全に私のミスだった。

明らかにどんなにそれが自分にとってはただの好みの話であると言っても、両親は自分たちが愛してやまず、よく通っているスタバ批判をされた事に明らかに機嫌を悪くしていた。

あのロジカルで、寛容だった両親がである

人間の理性とはなんなのか、そして批判精神とは何なのか。感情は不可分なのか。

ライプニッツはこういった。 Musica est exercitium arithmeticae occultum nescientis se numerare animi と。

2015-10-17

鴻上尚史英国留学は何の意味があったのか

鴻上尚史作・演出の「ホーボーズソング」を観劇した。20年前と全く変わらない方法しか感じられず、鴻上氏は今まで何をしてきたのだろうと不思議に思った。

俳優は、特に主要なキャストは魅力的な人々なのだろう。しかし一つの演劇を通した時に、全く何の感動も触発も発見もない、無意味体験だった。

私は虚構劇団舞台を見ながら、青年団女優がかつて平田オリザに対して言い放った言葉を思い出していた。曰く「こんな普通セリフを客席に向かって喋るなんて恥ずかしくてできない」と。その文脈で言えば、虚構劇団の皆さんは、恥ずかしげもなく客席に向かって喋り、踊る。そしてオープニングとエンディングと、劇中にも歌入りの音楽が流れる。セリフ説明的であってもお構いなしに、必要ならばプロジェクター用語解説まで入れながら日本社会文化について作者の批判精神を観客に伝えようとする。

誰かが私にに何か伝えようとすればするほど、私はそれが伝わってくるのを避けようとする。どうせろくなものじゃないからだ。私は誰かが控えめに、ささやか表現した行為から何かを読み取りたいと思う。現代とは表現者節度と鑑賞者の教養が組み合わさった時に共犯的な芸術が成立する時代なのだ

私は鴻上氏に馬鹿にされているように思った。「どうせ俺の芝居を見に来るような奴らはこういう表現を求めてて、これくらい親切にしてやらないと理解しないだろう」という侮りを感じた。あるいは彼は、理解されない事、伝わらない事を恐れているのかもしれない。しか有史以来、常に演劇を作る人、演劇を観に行く人がいるのは、そもそも人間孤独で、相互理解し合えないからではなかったのか。劇場とは他者出会特別場所ではなかったのか。

私の観た限り、今回の芝居には出会うべき他者存在せず、若者が代弁した鴻上尚史講演会しかなかった。20年前には社会に対して説得力があったのかもしれないが、今は何もなかった。

2015-05-13

ニンジャスレイヤー フロムアニメイシヨン最初の頃のこれはこうだから面白いの!俺はわかってるの!みたいなブログ記事でんでん現象みたいになってしまうような危機感があったのだが、はてなーのようなハイソ知的で常に物事から一歩上に距離をおいて批判精神を忘れずに冷静で的確なコメントをつけていく方々の御眼鏡に適ったようでよかった

2015-05-12

2chって宗教だよね

宗教嫌いの日本人だけど、2ch教は信じている不思議

日本国で起こっている経済の停滞や諸問題は、

2chで垂れ流されている悪思想国民洗脳されてるからなんじゃないかと思う時がある。

先人の残した知恵を本などで学ばず、

2chという手軽な情報源で幼稚な思想を吸収していく人たちの、

なんと多いことか…

2ch教は、負け犬思想がつもりつもって巨大化した化け物(生き物)のように、日本国存在している。

一歩足を踏み入れると、負け犬の"見えない場の空気"に

足を辛めとられてしまう…

洗脳され、人生堕落させていくにも関わらず、

本人は、洗脳されていると気づかない。

しろ、裏事情を知っている自分情報通でスゲーって思っていたりする。2ch情報は正しいと思いこみ盲信してる。

2ch教は、ニヒリズム蔓延させ、後ろ向きでひねくれた発想、批判精神をも植え付け、人生じわじわ破壊していく。

自業自得といえるのだろうか

かといって、表現の自由は守られてしかるべきなので

そうした場があるということも必要なのだが…

ブラックホールに足を辛めとられるリスク認識した方がいいよね。

2015-01-24

クソコラグランプリについて少しだけ

「一滴の毒」だからこそいいもの正義の側に立ってしまうとマズいと思うんだ。

ISISについてクソコラを作ってるネットユーザー達に知性や批判精神はない。おそらく彼らはいかにしてふぁぼとRTを稼ぐかしか考えてない。そしてだからこそ痛快だった。

(もちろん以上のような状況全部を意識的無意識的に把握してコラを投稿した人はいるはず)

しかしそれが「ISISの脅しに目もくれないクレイジー日本人」として、ある種の正しさとして表象され賞賛されそのことが相手に伝わった時、ヤバいカウンターをくらってしまうんじゃないか。

おそらくこの流れは何を言っても止められない、自然の摂理みたいなものだとは分かってるんだけど。

最近のこの事例の取り上げられ方が気になってしまったので、予言的にメモしとく。

2014-10-05

ホンモノより本質を捉えてると思うニセモノ芸術作品10

http://anond.hatelabo.jp/20141003100544

ブコメ好きな物評価されるよう啓蒙するか、そうじゃないもの評価を下げようとするか」に触発されて。

どちらかというと、自分は高次なものを読んで、低次なもの共通点を見いだして一人悦に入るタイプだとわかったので、記録してみることにする。

ここでのホンモノ=より高く評価されているジャンル、およびオリジナル、ニセモノ=より低く評価されているジャンル、およびコピーとする。

ちなみに嫌いなホンモノやニセモノも当然ながらある。映画自分にとっては舞台のニセモノで、基本、CGが多用されたアクション映画しか受け付けない。

文学の場合

好きなホンモノはシェイクスピアドスト。嫌いなホンモノは伊坂幸太郎。嫌いなニセモノは特にないが、ラノベは読んだことがない。

1.ソローキン「ロマン

 望月哲男曰く、“19世紀ロシア小説の百科事典ともいうべき体裁をなしている。プーシキン『オネーギン』、トゥルゲーネフ『猟人日記』、トルストイ戦争と平和』、ドストエフスキー罪と罰』、チェーホフ『黒衣の僧』『桜の園からのアリュージョン。また、19世紀ロシアの小説に現れるモチーフを混ぜ合わせた一種のカタログ的な側面がある”という本作。高次なものの高次なコピーなので一般受けするかどうかというと違うと思うが、割と読みやす大衆的ではあると思う。途中までは。途中からは文学を殺している。早稲田文学の力もあって、作者ソローキンは、最終的には篠山紀信グラビアを撮られる程の人気を獲得した。


2.ティメール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー

 ヒトラーに関連する作品は、どうも反省や真面目さを持ち合わせたものが多い。ヒトラーを嗤う。ヒトラーと笑う。この恐怖体験を面白く思ってしまうのは何故だ?もちろんヒトラーパロディならミュージカルプロデューサーズ」の中でも見られる。しかし、あの作品ではヒトラーゲイが演じていた。今回はヒトラーのものが、緻密なリサーチの上に、いかにも言いそうなことをくっちゃべる。それがなんだかおかしくて笑えてしまう。彼が目指した理想の方が、現状のドイツ極右政党移民問題に揺れる)より良く見えてしまうことがあるのは気のせいか?



絵の場合

好きなホンモノは17〜19世紀はだいたい。嫌いなホンモノはフェルメール。嫌いなニセモノはあまりいないが、村上隆には興味がない。メインカルチャーすぎてニセモノがホンモノっぽい。

3. エドゥワール・マネ『フォリー=ベルジェール劇場のバー』

 マネがゴヤベラスケスティツィアーノなどのポーズをそのまま借りてきたことは有名。エル・グレコの影響も指摘される。正直言ってゴヤ『1808年5月3日、 プリンシペ・ピオの丘での銃殺』の模倣である『皇帝マクシミリアンの処刑』はとてもじゃないがホンモノに敵うとは思わない、マネがマネなりの政治的美術的な意図作品に込めたことを加味しても、だ。しかしながら、総合的に過去画家たちを再構築したことに加え、何と言ってもベラスケスの『ラス・メニーナス』を解釈した絵、『フォリー=ベルジェール劇場のバー』が素晴らしい。『ラス・メニーナス』にまつわる作品は、ピカソダリも多数残しているが、そのいずれもがマネには及ばない。他の拝借作品に比べ、鏡のある構成・見つめられる人の不在の2つ以外、共通点がないマネ独自構成が光る。

4.ジェフ・クーンズハルク

NYホイットニー美術館で回顧展。バルーンを模したいくつかのアートがあるが、明らかにビニールしか見えないチープな質感の『ハルク』は実はブロンズ製。ブロンズバルーン特有の皺を模すという、高価で難しいものを使って、安価で簡単なものを再現する試みを行なっている。写真で見ただけでは決して分からないだろう、その意味のない凄さが凄い。1億6千万の値がついたというマイケル・ジャクソン陶器も、スキャンダラス話題性ではなく、実はアートとしては失われつつある高度な陶器制作技術をつぎ込んである、と考えることもできる。



ミュージカル歌手場合

ミュージカルのものが、オペラバレエ下位互換である。という風潮は、ある程度あるように思える。

この場合複雑で、自分はホンモノに興味が持てない。高い金払ってオペラを見てもあんまり感動しないのである

一方、ロイヤルバレエを出てミュージカルスターになることを選んだアダム・クーパー(今度来日)のように、この世界ではクラシックトレーニングを積んだ人が続々出て着ている。

5.ジェロニモ・ラッチ

現在ロンドンオペラ座の怪人ファントムを演じているが、将来ジョン・オーウェン=ジョーンズや、ラミン・カリムルーに次ぐ世界的なスターになるに違いない逸材。アルゼンチンクラシックトレーニングを受けてきた。なぜミュージカル界に進出したのかはよくわからない、しかも英国。ファントムの前はレ・ミズでJVJ役をやっていた。

6.シエラ・ボーゲス

今更だが、やはり彼女ソプラノミュージカル女優としては別格。彼女オペラトレーニングを積んでいるが、あのサラ・ブライトマン比較しても、こっちが怖くなるくらいの情念の込め方で、単なる美しい歌を、心を締め付ける歌に昇華させる無二の能力を持っている。サラのオペラ座の怪人比較すると、ああ、シエラがオペラ歌手にならなくて本当よかった、と思うのである。鼻とかぐじゅぐじゅで、めちゃめちゃになっても歌い続けるような、そういう地に足がついた役者根性を感じる。


ミュージカル場合


7.Avenue Q

こんなトニー賞を取ったような超メジャー作品を挙げるのも何だが、ブロードウェイ代表作として。パロディミュージカルは数多くあり、今年も50 shades! The Musicalなどが上演されていたが、その中でも珠玉の出来を誇り、オフブロードウェイで今も上演されている。ジム・ヘンソンマペットを使いセサミ・ストリートを思わせる設定と楽曲で、普段はクチにできない本音をぶちまける。その後作曲家はもう1つトニー賞を取った後「Let It Go」でアカデミー賞受賞。


バレエ場合

バレエオペラにとっては添え物、現代ダンスにとっては堅苦しい教科書的な物と見なされる、難しいポジションにある。

8.クランコ「オネーギン」

オネーギンはコピーなのか?オリジナルなのか?翻案なのか?単なるアダプテーションではないか、マンガアニメ化するのと同じじゃないか、ニセモノと呼ぶとは何事だ、と、きっとあなたは言うだろうが、オネーギンには本来の作品にあるべき重要な要素が2つ欠けている。まず、オネーギンは韻文小説であって、詩のような形態で描かれている。ダンテ神曲と同じく、単なる小説ではないのだ、とはいえ我ら凡人が、ロシア語を学び本来の魅力を解することはおそらく一生ないであろう。というわけでバレエにしてくれるととっても有り難い訳だが、ここでつけられた音楽は、他の物語バレエ作品と違って書き下ろされたものですらなく、チャイコフスキーが奥様向けに月刊誌に書いたピアノ曲オーケストラアレンジしたものである。このように、他のバレエ作品に比べて若干不利になる要素を持っている本作だが……結果はどうだ。シュツットガルトけが持つこの演目を、自らのレパートリーに加えようと、世界中の著名ダンサー客演にくるような、まさにワン&オンリー珠玉の名作に仕上がっている。人々の所作振り付けにしてしまうのは、この時代バレエの特徴で、クランコはその名手。昔はストーリーダンスが完全に分離されていて、ストーリーマイムで進んでいた。


ファッション場合


9.モスキーノ

ジェレミー・スコットの就任で、故・モスキーノを上回る直接的すぎるパロディファッションを世に送り出したモスキーノ。就任直後の2014a/wコレクションマクドナルド元ネタだった。

http://youpouch.com/2014/02/25/174143/

モスキーノ自身が持ち合わせていた反骨精神、批判精神、風刺の能力を彼がどこまで発揮できるかが見物。


漫画場合


10.冨樫義博

作品の中でいくつか画像トレースしたことで知られるが、28、29巻の表紙ではマネよろしく古代美術ポーズを借り、また30巻表紙では2年越しの伏線を仕込んでいるなど無駄に芸が細かい作者。マネは足がなくなり、ゴヤは耳が聞こえなくなっても描き続けていたのに……という気がしなくもないが、やはり彼の行動原理は極めて特異だと言えよう。それは、野火ノビタも指摘する、「強制された身体のマイナスへの変化と、強さに相関がある女性」への異様な執着である玄海、躯、ビスケパームコムギカイトキメラアントになったレイナも、もしかしたらアルカも。玄海以外は皆、見た目がマイナスに変化する方が強くなるという特性を備えている。そこに共通するのは、極端なまでの女性の“自立”であり、“私はわたしである”というぞんざいな主張形態である。好みの女性タイプとして、「見た目がいかつくて、強くて、自分を持っている人」と答える人は、「見た目が華奢で、守ってあげたくて、頼ってくれる人」と答える人に比べると圧倒的に少ないと思われるが、冨樫は、冨樫だけは、なぜか前者に“変化させられる”女性大好物なのである

そして、怪物の戦いを描く時、冨樫は必ず怪物の味方をする。更に言えば、怪物の味方をしてくれるから、もしくは自分も怪物であることに気付いたから、という理由しか人間を肯定できない。それは「君と僕はおなじだ」という同質性への反応であり、「私とあなた全然違う、私はわたしだ」という状況に身体的に追い込まれた玄海、躯、パームなどと対極をなす。そして、男性は、(女性に比べればよっぽど自分の意思で、積極的に)怪物化する。幽助も、目の移植を受けた飛影も、ゴンもだ。さらに、怪物化した男性は、“自立”した女性に縛られ、ある種“依存”する。戸愚呂の玄海への、飛影の妹への感情が形を変えた躯への、メルエムからコムギへの、コルトレイナ(とカイト)への、ゴンコアラカイトへの、キルアアルカへの“依存”は、このように示される。「お前があって自分がある」。こうした究極の女←男の関係性を何度も描き続けているのが冨樫義博であり、男性作家のこういった表現への執着は世界でも類を見ない。いや、そんなことないか。なんか、ヒラリー・スワンクはいつもそんな役どころな気もする。まあどうでもいいや、出来るだけ多くの芸術を見てこようとしたけれど、その一つ一つが冨樫義博をより特別存在にしていく。たか漫画たか漫画なのだけどね。「あたちに謝りながらあたちの言うとおりに働いて あたちのために生きるんだ」と蟲になっちゃった女性が男性に言い放つ、これが冨樫イズム。



終わりに

もちろんホンモノ/ニセモノなんて区切りはこのエントリしか通じない区分けで、世間には通用しません。

ここではあえて、ラノベみたいに「くだらねー」「所詮○○」ってレッテルを貼られそうなものを、「ニセモノ」と書いてみました。

ただ、いろいろな芸術を見て思ったこと。ライトノベル純文学より面白いとか、そんな逆転はありとあらゆる場所で起こっている。じゃないとバンクシーとかどうすんのさ。

入れようと思ったけど、仮にも「ニセモノ」と呼ぶのがおこがましいと思ったインスピレーション作品高橋源一郎日本文学盛衰史」。あれは評論として受け止めるのが正しいかと思って。

正直「元ネタ」と「パクリ」の区分自分でも難しかった。ま、とにかく自分パロディが大好きなのであるラップサンプリングとかも好き。圧倒的にオリジナル好きな物もあるけどね(高慢と偏見ブリジット・ジョーンズとか)。あと冨樫義博が好き。

2014-07-31

健全(=安全)な批判提言

提言

はてながいわゆる粘着増田投稿削除等を発表してからそろそろ1週間。

この間の動静を見る限り、増田批判精神が顕著に損なわれることはなかったようで、まずは安心している。

一方で、はてブユーザーの間では、気に食わない記事に対し、通報をちらつかせて削除を迫るような流れも出来つつあるように思う。

例えば、以下に引用するブコメからは、通報を背景とした削除要求の萌芽を見てとることができよう。

feita

ここに引用されているツイート後も私とよしきさんのやり取りは続いており、記事投稿者が私を貶めるために一部のみを抜粋した恣意的引用であると判断します。投稿者には記事の削除を要求します。

http://b.hatena.ne.jp/feita/20140729#bookmark-210985069

そして残念なことに、一部増田はてなに通知されれば記事が削除される恐れが全くないとは言えない。

そのため、仮に脅迫まがいの削除要求がなされたとしてもこれを完全に無視しさることは心情的に難しいのではないかと思われる。

よって、通報を背景とした削除要求の流れが加速すれば、記事削除等のリスクを抱える増田批判を手控えるという事態に陥る可能性も十分に存する。

それは増田の萎縮や批判精神喪失に他ならない。

現状において増田批判精神が顕著に損なわれてはいないとしても、状況は未だ予断を許さなものと言うべきである

そこで私は、増田諸氏に健全批判をするよう呼びかけたい。

健全批判は正当な言論であるから継続的に行おうが非難される筋合いのものではないし、相手が嫌がろうがやめる必要もない。無論法律やはてな利用規約にも抵触しない。

健全批判とはすなわち安全批判なのである

健全批判とは

健全批判とは、基本的には以下の条件をみたす批判であるあくまでも「基本的には」である。以下に述べるところをふまえたうえで、具体的状況に応じた判断をしていただきたい)。

  1. 真実の(少なくとも真実らしい)事実に基づくものである
  2. 必要もなく個人情報に言及しない
  3. 罵倒人格攻撃でない

第1の点については、むしろ批判内容妥当性との関係問題になるものではないか、と思われるかもしれない(言うまでもなく批判健全性と批判内容妥当性とは別の問題である)。

しかし、例えば事実無根横領容疑を捏造して政治家批判する行為想像してもらえば分かるとおり、虚偽の事実に基づく批判は、場合によっては批判健全性の観点から問題となり得るものである

常に真実事実に基づいて批判することは難しいとしても、健全批判を行おうとする者は可能な限り真実を追求する姿勢を持たねばならない。

第2の点については、多言を要しないだろう。

現代社会においては、ある個人に関する情報をどのように扱うか、ということについて、当該個人の判断がかなり尊重される。

したがって、必要もなく氏名や住所等の個人情報に触れることは、その扱いに関する当該個人の判断を害することとなりかねず、批判健全性が損なわれうるのである

第3の点については、単なるキレイゴトだ、と思われるかもしれない。

しかし、「罵倒人格攻撃をしない」というのは批判健全性を向上させるうえで簡易でしか効果的な方法である

最も重要ポイントは、主語を「人」でなく「論」にすること。この区別に頓着しない方が、増田には比較的多いように思われる。

可能であれば、一般に悪口と分類されるような表現を別の穏当な表現に置き換えるとなお良い。

こうした形式面にわずかに注意を払うだけで、批判健全性は格段に向上する。

具体例を挙げておく。

「君はバカだ」→「君の考え方は浅薄だ」

「君はクズだ」→「君の考え方は不誠実だ」

終わりに

以上、甚だ簡単ではあるが、健全批判有効性とその方法について述べてきた。

本記事が、通報を背景とした記事削除要求に対抗する一助となれば幸いである。

2014-02-08

真に中身のある女は腐女子界にいる。

http://anond.hatelabo.jp/20140208002745

正直、これと似たようなことを腐女子界隈で思うんだ。

実際、私がこれまでに知り合った腐女子の人々は総じて話題が多彩で面白く、それぞれ才能にも知性にも恵まれ、性格個性的で魅力的な人が多かった。

ネットはいつも「痛い腐女子」や「腐女子の痛い言動」がネタにされてるけどそんなのはごく一部。少なくとも私の周りにはいなかったし、見かけたこともない。

殆ど腐女子ネタ探しの為に漫画アニメは勿論のこと、映画ドラマ小説音楽演劇歴史アートスポーツ等々、実に様々な分野にアンテナを張っていて、総じて興味や関心の範囲が広い。

そうやって自分の好きなもの世界に対してとことん拘って情熱愛情を抱き捧げることができ、それらの作品やその背景に入れ込んでさらに関連の資料や分野にまで手を拡げて足を運んだりして調べたり、深読みや斜め読みをする習慣が付いてるから、それぞれの分野に対する造詣が深くなるし、独自の視点が鍛えられて自身の確固たる価値観も獲得出来てる。

それらの見解を周囲にも伝えて理解してもらうべく自らも表現創作に乗り出し、その質の向上の為にさらなる知識や技術の獲得のための努力を惜しまず、そしてより活動や発表の場を広げるための行動力にも長けているから、心身ともにタフでポジティブコミュ力も意外に有って、人脈も広かったりする。

加えて、腐女子ということで多かれ少なかれ既存セックスジェンダー葛藤や問題意識を抱えてるわけで、従って自身の性やジェンダーのあり方に対しても常に内省しているし、差別偏見に対する感覚批判精神も磨かれているし、自ずと実社会人間のものに対する視点も鋭くて深い。というわけで、こちらも話をしたり付き合っていて楽しいし、その度に見識や世界を広げられる充実感がある。

一方、腐女子BLが嫌いとかそもそも理解が無いとかいう「一般人」は、流行りのファッションとか店とかゴシップぐらいしか話題が無いし、音楽ドラマの嗜好や見解も通り一遍面白くない。ジェンダーロールや将来設計に対するスタンスも含めてそうで、如何に条件の良い男性と付き合って結婚して、自慢出来る子育てが出来るかどうかぐらしか考えていない。それこそ自分とその半径3mしか関心の無い人が多いのだ。従って付き合っていても面白くないどころか虚しく、疎外感を感じる。

したがって、増田界隈にいるような男性女性も)が真に親しくすべき人間はまさに腐女子界にいるはず。その辺を探し出してちょっとずつ話をしてみてはどうか。色んな面での見解が少しは変わるはず。

 
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