はてなキーワード: 希薄とは
夫が突然転勤になって、とか、のっぴきならない事情でやむを得ず引越しをしたい。
引越し先は、遠ければ遠いほどいい。新幹線か飛行機の距離。いっそ外国でもいい。
ともかく急な異動が発令されたとかで、慌ただしく引越したい。
今の友人たちと物理的に距離をとって、カドが立たないやり方で、疎遠になりたい。
昨年、身体を壊して仕事をやめた。今はかんたんなパートをしている。
バーベキューに誘われたりだとか、LINEのグループだとか、一緒に結婚式に招かれたりだとか。
関東の南で生まれて育った。海が近い。そうきれいな海ではないけれど愛着はある。
最寄り駅から都心に出るには20分くらいの、わりに便利な街だ。
坂が多いから自転車は難儀するけれど、気に入りの喫茶店や安いスーパーがあって住みやすい。
友人たちのほとんどが、数駅離れただけのところに住んでいる。
都内に楽に通勤したいけどあまり都会に住むのはコストがかかるし、とはいえ海無し県には住みたくないし、なんだかんだ実家に近いほうが便利だし、ということになると消去法的にこの辺に居を構えることになるから。
LINEやFacebookの普及が拍車をかけて、友人たちとの距離は物理的にも心理的にも近い。
ナニを食っただとか、ドコへ行ったとか、コドモがどうしたとか、シゴトがこんな調子だとか。
自らSNSに発信しなくても、誰かのタグや、人づてのうわさ話であっという間に「近況」は伝わり合う。
むかしの田舎町どころのレベルでなくナニモカモは筒抜けで、監視し合ってて、がんじがらめな気がする。
いや自分のことが筒抜けになるのが恐ろしいのではない。
それ以上に、友人たちの(とくに知りたくもない)情報が流れてくるのがわずらわしい。
Facebookなら見なければいいけれど、LINEを無視すると心配されるのが面倒くさい。
ナニを食ったとか、テレビがどうしたとか、どうでもいいよ。
単に情報をシャットアウトすればいいんだろうけど、すべて無視ではカドが立つ。
だから急な引越しとかで物理的に距離をとって、友人たちからフェードアウトしたい。
引越しのドサクサにまぎれて携帯も解約してしまいたいから、やはり海外転勤がベストか。
身体を壊して、薬が手放せなくなって、要するに肉体的精神的に落ち込んでいるから、そう思うのかもしれない。
子どもができれば人間関係も変わるから、少しの辛抱なのかもしれない。
(でもセーシンにビョーキを抱えた女がコドモを持つなんていうのはあらゆる意味でムツカシイことだろうけど)
単に仕事をやめて、ひまなせいかもしれない。
ともあれコミニュケーション過剰が疲れる。
懐古厨というわけではないけれど、近況の送受信は年賀状くらいでじゅうぶんだ。
友人たちから嫌われたくはないし、私もあまり嫌いになる前に、そっと離れたい。
遠くの街でリセットしたい。
あるいは死にたいのかもしれない。
地方出身者が「田舎は人間関係が大変でさ~」って言ったらそれは、生まれ育った地元の友人関係や幼い頃からの近所付き合いを指していると考えて良い。
だけど東京圏の人は地方出身者から上記発言を聞いたとき、主語の「田舎」を「地方」として受け取ってるってことないかな。
地方移住に対する東京圏の人の「田舎は人間関係が」っていう意見って、そういう受け取り間違いが根拠になってるんじゃないかなって思ってる。
東京圏は極端に人間関係が希薄だから、それを基準にしちゃうと相対的に「大変」になるかもしれないけど、それでも地方出身者が言う「田舎は人間関係が大変」というのとはそもそも主語が違う。
話は変わるけど、地元の人間関係から逃れたいだけの地方出身者は、東京圏じゃなくて地方政令都市への移住がいいと思う。
東京圏は仕事や娯楽は多いけど、地方とは生活も価値観も違いすぎるから。
とある人口数万の地方都市で育った。20代後半。2人兄弟の長男。
小、中学生の頃なんかは、クラスに気になる女子はいても、普通にクラスメートでいられたらいいという感覚だった。ここまではよくある話だ。
中学卒業間際で、後輩の男の子に恋愛感情のようなものを感じてしまった。相当悩んだあげく、隠すことに耐えられなくなり、高1の夏に大々的にカミングアウト。
法には触れないまでも、当時は非常識なまでの暴走ぶりだった。ゲイというだけでなく、その暴走ぶりも噂は広まり、完全にそういう人と認識された。
だからといっていじめられることもなく、同級生も皆、変わりない関わりを持ってくれた。多少の後ろめたさはあったが、何だかんだで高校までは楽しかった。
他県の大学に進学した。キャンパスライフへの憧れとやらとは無縁で、大学生になったからと、特別やりたいこともなかった。
むしろ、たまに地元に戻って、プチ同窓会のごとく、久しぶりに会う友人が楽しみだった。
成人式を迎えた頃には、むしろゲイという自覚でもなくなっていた。かといって、彼女が欲しい理由もなかった。
都会に出たい理由はなかった。長男だし、親のことを気にかけられる距離で生きていくことがずっと望みだった。地元にいたほうが、昔からの友達とも関わりやすいはずと考えた。
だから地元で就職した。仕事に追われたり、ちょっとヲタク趣味にのめりこんだりしているうちに、30が目の前に見えてきた。
そろそろ真剣に相手を探そう! そう思ったが、現実は甘くはなかった。
友人とのかかわりは想定外に希薄になっていた。同窓会には呼ばれるけど、個人的に会うことはほぼ無くなっていたし、用もなく連絡を取るほどでもなくなっていた。
会社ではある程度の位置には居るが、お酒がほとんど飲めないということもあり、飲み会等は本当に「つきあい」程度。
女性社員の少ない職場。ちょっと前までは相手を探す意識もなかったし、まぁ手を出せる雰囲気ではない。
田舎ゆえに婚活イベントの類は少ない。あっても知り合いがいる可能性が高い。高校時代の話を蒸し返されるのではないかというのが、一番の懸念だ。
かといって、せっかく地元で得た今の仕事も捨てたくない。近場の大都市で出会いがあったとしても、そのあとが現実的ではない。
気がつくと、どの方面でも、数少ない可能性に賭けるしかなくなっていた。
いや、7つの子のお祝いに、みたいな、七五三みたいな感じかな?って思ってる。
着物だけど、買うなんかもちろんできない。
レンタルが嫌だってわけじゃない、着物のレンタルだって、アホみたいにピンキリであるしね。
でみだいたい最低限の値段からして高いじゃん?
たかが、そんな1日のイベントごときに、私にそんな無駄なお金を使ってもらう意味がわからない。
そもそも、人間関係が希薄な私に、そんな式典だ!遊ぶぞ!みたいな友人はいないから、
行く気もない。。でも、親的には、写真だけでも撮る!と言ってる。
私は、母親が着た着物を着ることにしてる。それにお金はかからないから。
(興味もないのでどうでもいいってのもある。)
私は、高校の頃は、たぶんもうすぐ自殺するだろうな。って思ってた。
頭が悪いから、進級とか卒業できなかったら自殺するつもりだったから。
専門学校を1年足らずで夢を追うからと言って、中退を許してもらった。
夢を追うと言ってフリーターを許された期間は4年くらい。
4年経ったら、フリーターなんかやめて、職を探しなさい。と言われてる。
でも、私は、中学も高校も、もうすぐ自殺するだろうな。って思いながら過ごしてたから、
今自殺しないのは、「夢を追う」と言って、好きなことをできてるから。
その好きなことが、成功すれば夢が叶うからであって、サボってる訳じゃない。よ。
当然、夢が叶うことがないなら、(この就職難でしかもフリーター4年ほどという経歴で)就職先探して、っていうほど
就職も簡単じゃないと思うし、そこまでして生きることに必死になるつもりはない、ニートになって、親から金を無心するわけにもいかない
ということで、私は夢が叶わないなら死ぬ。「就職しても夢をあきらめんなよwそこで止めないと、いつまでも夢を追ってる私っていうのが嫌なだけじゃん」とか、
言われるが、4年もかけて追って、叶わないなら、見込みがないから。ね。アホか。
いや、話が少しそれたけど、
そういう風に思ってるから、わざわざ着物にお金を無駄にかける意味がない。
もしかしなくとも高確率で私は4年後に自殺していそうだからね。うん、無駄でしょう。
葬式代もバカにならないんだぞ?!というけど、それはまあ、それ以上に生きてる間にかける金額と、葬式代。
それを考えれば安いものだろう。ねぇ。
メンヘラの条件は、以下のいずれかを満たしている事としてみます。
先ずは、メンヘラが陥りがちな心理状況です。
病的になると、恐らくは何をやっても、空回り。どうしようもない状態になるので、
定型のうつ病対策が効果的です。非定型については、省きましょう。
理由として、ドロップアウト、もしくは気味の人間なので、社会から見れば、同年代と比べ
価値があまりないのですが、少し語弊がある言い方をすると、最低限その間は
甘やかされてきたので、自分自身に力があるように思い込みます。
そう、思い込まないとやってこれなかったので、自己肯定するか、他所のせいにしていたはずです。
目的1つに絞って行動するのが常ですので、成果は出ます。寛解です。
1日1週間でわかるものではないので、数ヶ月はかかるでしょう。
社会との折り合いをつけるために、自分のおかしさ、異常さに気づいたしても、
ただ、身体上はよくなってもまだ早いかもしれません。
焦ると、巻き返しをしようと気張ればすぐにリバウンドです。
ここで、悪循環に入りやすい、もしくは同様の失敗をおかす可能性が
あるものとしては、第三者が口を出せない状況が続くということです。
とラフになにか言える信頼関係づくりが希薄だと、勘違いしたまま進んでしまいます。
あまり親しくない間柄では、善意のつもりが、イジメになってしまいます。
別段、直接「おかしい」と伝えなくても、相手に気づいてもらえればそれでいいので、
気づく力がありそうなら、何か伝わるようにしたり、見守ればそれでよさそうです。
言ってくれる人も鬼ではないはずなので、ここまでの痛みなら受け入れるだろう。
と勘案した上で伝えてくれていると信じたいところです。
薬というのは、毛布のようなもので、強い薬は分厚い毛布です。
外からの声、音が聞こえなくなる分、薬を断てば大きな声、音が強い刺激として入ってきます。
体調がよくなった上で、外界からの刺激全てに耐える力が出来てからが、本来の寛解にも考えます。
そろそろ本気を出していいとおもいましたか?
まだです。
最終調整に必要なのは、衰えた体力と、使わずにいて錆びた頭を動かすことです。
とても難儀です。1,2ヶ月で取り返すことは出来ません。
話がふりだしに戻って、通しでご覧になればわかるとおもいますが、最初の話です。
上記3点くらいまで来てしまうと、1年程度は調整が間に合わないようにも見えます。
ここまでは状況説明です。
ここで、詰んでいます。
なぜなら、上記3点の経験者は、精神面で持ち崩しやすいからです。
観測し続ける限り、ほんとうの意味で寛解はしていないし、思考が子供のままです。
社会の理不尽(とも思うべき折り合いの多さに慣れる)と付き合うには、
・レシピを見ない料理や、掃除といった、脳が無意識に手続きを考えなければならない事をする
シャープ99%減資のニュースへの反応は、初期の誤った流れを正すきちんとした解説記事がホッテントリに上がっているので今更感はあるのだが、何故か気が乗っているので私も書くことにする。
ただしざっくりだ(それでもえらく長文になったが)。正確を期して例外や留保をつけていくと誰も読まない文章ができあがるので一々そういうものは書かない。
まず資本金とは何か。
倒産する、しないに資本金がいくらかは関係ない。関係あるのは純資産の金額である。企業の資産から負債を引いたものが純資産。マイナスになったら債務超過。
資本金というのは純資産の金額の中で「この金額だけは配当しない」と設定・宣言した金額のことだ。資本金というのは債権者のための制度だ。企業が純資産をどんどん配当で株主に払い戻すと純資産が減って倒産のリスクが高まり債権者(銀行や取引先)は困る。仮に純資産が2000億円で資本金が1200億円だとするとこの会社は2000億円のうち1200億円は配当できない枠の中に入れたことになるので債権者にとっては安心なわけだ。資本金の大小が会社の信用とはそういうことだ。
一方で純資産が減って1200億円を割ったらこの会社は配当ができない。純資産が資本金の金額に満たない場合を資本の欠損というのだが、利益の積み上げで短期的に欠損を回復を期待できない場合どうするか。「配当しない」と宣言した枠=資本金の金額、を減らせばよい。これが減資だ。資本金が1200億円、純資産が1000億円とすると資本の欠損がマイナス200億円、このままではこの200億円が利益で埋められない限り配当できない。ここで資本金の金額を700億円に減資しまーすとすれば、資本金を超過する純資産300億円が配当可能になる。
たとえばシャープの去年(2014.3)の単体決算を見ると、純資産が1934億円、そのうち資本金が1218億円に設定されている。ほかに資本準備金という資本金の弟分が843億円設定されていて、両者合計で2061億円と配当できない金額枠が純資産を上回っているので、資本の欠損の状態にある。資本準備金というのは、資本金同様に、配当しない金額として設定・宣言されるものだ。実は減資の手続きというのは相当面倒だ。株主総会での決議、公告、異議を述べた債権者に弁済など色々しなければいけない。対して資本準備金を減らす手続きのほうは、もう少し簡単である。弟分というのはそういう意味だ。配当しない金額の厳格さを段階的に設けているわけだ。
シャープの2015.3の決算は赤字見込みと聞く。欠損は、利益で回復するどころか逆に大きく広がり、短期的に回復する見通しがないのだろう。だから減資である(前段階として資本準備金をゼロまで減少するのが通常である。おそらくそうするのだろう)。ただし本来資本金を1億円にまで減らす必要はない。1億円にまで減らしたのは後述する税務メリットのためと思われる。
ところである会社の資本金の金額というのはどのように決まっているのか。大まかには、会社に拠出された資金の金額の半分が資本金、残り半分が資本準備金として設定されるとおもってくれればいい。たとえば自己資金2億円で創業したら、1億円が資本金、もう1億円が資本準備金だ。純資産2億円に対して、資本金1億円、資本準備金1億円なので配当できない。出資された資産を配当してしまっては意味不明な状況になるので、出資された金額は資本金、資本準備金として配当不能になるようにされている。一方で事業による利益で増えた分の純資産は利益剰余金と呼ぶ。これは配当可能だ。
・事業拡大のためにベンチャーキャピタルや取引先から出資を受けた。
・更なる投資のために公募増資(投資家から更にお金を払い込んでもらうこと)をした。
・会社の信用(対債権者)をあげるために利益剰余金の一部を配当できない資本金に振り替えた。
こうして今まで積み重なってきた資本金が、シャープの場合1218億円なわけだ。
混乱しやすいものに「100%減資」というものがある。財政難の企業を公的資金などで救済するときに既存株主に責任を取らせる(要するに既存株主の持分を紙くずにする)ヤツだ。これは上述した減資とは全く種類が違う。シャープの場合は99.99%減資らしいが、仮に99.9999999999であっても100でないものは今まで述べてきた減資、100%減資だけは全く種類が違うものと思ってもらっていい。上述のとおり減資は純資産のうち「配当しない枠」に入れる金額を減らす話なので、減資をしても減資自体では株主の持分価値(純資産/株式数)に変動はない。
100%減資というのはいったん資本金の金額をゼロにするからそういう名前なのだが、重要なのはその後、既存株主の株を強制的に会社が無価値で取得するという仕組みのほうだ。当然、既に価値がなくなっている会社でしかできない。資本金の金額を減少させることではなく、強制的に株を取り上げることを主眼とする制度だ。その際に資本金ゼロが伴うから100%減資という名前を付けて呼んでいるだけだ。
シャープの減資は通常の減資なので株主持分の価値は何ら変わらない。だが一般的に減資する会社は苦しい会社なので減資とともに新たな出資がセットになっている場合が多い。シャープの場合も銀行が債務の株式化(デット・エクイティスワップというヤツ)をするらしいので、株式数が増えて一株あたりの利益金額は減少する。株式数が増えると希薄化で株価は下がるのが一般的だが、債務の株式化の場合債務が減って信用不安が減少するので株価にはプラス材料でもある(今回の債務の株式化のときに株価がどう反応したのかは知らない)。なお金融機関にとっては、万が一の倒産時に株主より先に弁済を受けられる「債権」から、その後の残りの財産しか分配されない(通常はゼロだ)「株式」に変えることは(もちろん経営状況が回復し売却益が出ることも大いにありうるのだが)通常は損な交換とされており、だから金融支援と言われる。
さて減資の目的についてだが、上述のとおり資本の欠損の填補が通常の目的であり、今回もそれが直接の目的であろう。ただし1億円まで極端に減らしたのは、そうすることで税務上のメリットがついてくるからである。税務上は大企業か中小企業かを資本金の金額で判断する制度になっている。そのボーダーが1億円以下かどうか。税制はもちろん中小企業のほうが優遇されている。といっても中小企業向けの優遇の金額は本来大企業である企業にとってはたかがしれている。外形標準税という、赤字でも企業規模に応じて払う税金が、中小企業には適用されない仕組みもあるのだが、その分利益にかかる法人税の料率が上がるので、大きな利益が出る大企業ではむしろ不利になる可能性もある。だから今までは大企業が税務上中小企業になるインセンティブは大きくなかった。今までは。
最近繰越欠損金の控除に大企業向けの制限ができた。繰越欠損金の控除というのは、当期出た赤字を将来の黒字とオフセットできて、たとえば当期赤字200億円、来期黒字200億円なら、来期は繰り越した赤字を黒字に通算して、税金の支払いをなくせる制度だ。こうしないと黒字のときだけ税金が取られてしまい業績が赤黒をまたいで変動する会社が著しく不利になるからだ。ただし、リーマンショックで出た巨額損失を将来の利益に充て続けてきたために、最近まで納税がなかった大企業(特に公的支援を受けた金融機関)が社会的に問題視されたこともあり、黒字の100%をオフセットして税金をゼロにすることができなくなった。今年までは生じる利益の80%まで、来年からは50%までがオフセットの上限だ。つまり、上の例で言えば、当期赤字200億円は来期の黒字200億円との相殺に、黒字の50%である100億円までしか使えない。黒字の残りの100億円には税金がかかる。使い残った赤字100億円は、2年後の利益と相殺することになる。長い目で見れば変わらないような気もするが、欠損金は使用期限もあるし(今までは9年、来年から10年)、1年後に使える100億円と数年先に使える100億円は財務上価値が違う(もう疲れたから詳述しないけど、割引率というやつだ)。要するに大企業には不利になった。中小企業ならこの制限を受けないのだ。シャープのように巨額の赤字を出した会社は10年以内に利益とすべて相殺できるかわからないので、また業績回復を見せるべき今後数年間において税金がゼロになるかならないかが変わるので、それなりにインパクトのある話だ。ほかの大企業の追随が続くようだと(世間イメージや銀行の反対などで、そうそう簡単にできるものではないが)、税法が改正されて中小企業の判定条件が見直されるかもしれないが。
以上です。疲れた。長文だ。張り切りすぎた。
ところで、以前に匿名ダイアリーで以下の文章を書き、僭越にも800ブクマ以上頂いた。
「何故、余っていたはずの会計士が足りないのか」
http://anond.hatelabo.jp/20150203104909
「余っていたはずの公認会計士がなぜ不足? 受験離れの背景に金融庁の失策も…」
http://www.sankei.com/premium/news/150502/prm1505020011-n1.html
タイトルや筋立て的に、私の書いたはてな匿名ダイアリーを参考にされた可能性があると思われる。
仮にそうでも特に問題なく光栄であるが、ブログとしてやっていたら連絡をもらってもう少し掘り下げて話せたのになあ、と思わなくもない。
はてなユーザーのレベルはネット上の集団の中では高いほうだと思うし勉強になることが多々あるけど、金融・経済・企業財務は苦手なのか、理解不足に基づく流れでブコメが形成されていることがある。最近では企業の内部留保批判や、トヨタが近年税金を払っていなかった?という記事など。
さて、巷で話題のシャープ99%減資ですが、一部報道で累積赤字の一掃と言っていますが意味がわかりません。
シャープの利益剰余金はまだマイナスになってないし、これまでの赤字は利益剰余金と相殺できていたので。
債務超過がどうこうと言っている記事もありますが、債務超過じゃないし、減資は資本金から資本剰余金に科目間で振り替えているだけなので、株主資本の総額としては減資しようがしまいが影響はありません。
債務超過に陥っている会社は例え減資しても債務超過は解消しません。
そもそも100%減資でない限り株主にとってはいくら減資しようが特に影響はありません。むしろメリットがあるくらいです。資本金は配当できないけど資本剰余金は配当できるので。
だから「この減資は投資家への重大な裏切りで~」とか的外れですんで気をつけてください。まあ現状を打開できない責任は当然あるわけですが。
あと「一度限りの延命措置で~」とかでもないです。一度限りでしかないのはそうですが、株主資本自体は変わってないので別に延命でもなんでもないです。
減資でデメリットがあるのは債権者、つまりはたくさんお金を貸してる銀行ですね。資本金は会社法的には債権者に対する最後の返済手段として維持しなければいけない金額ですから。
減資は債権者が不利で株主には有利な手続きであるため、株主総会決議は必要ではありますが、債権者がOKと言っていれば特に問題とはならないでしょう。
ただ、この後DESがあったり優先株の発行が行われた場合は既存株主が希薄化の影響を受ける恐れがありますが、何のために減資したか考えればしばらく増資はないんじゃないかと思います。
中小企業になると何が変わるかと言うと、税務上の優遇が受けられること、これに尽きます。会社法上は大会社のままだし、金商法上も特に影響ないですから。
中小企業の税制優遇はいくつかありますが、シャープの場合で最も恩恵を受けられるのは「繰越欠損金控除」でしょう。
繰越欠損金控除は、過去9年間の赤字を将来の黒字で補った場合に、その補った部分は法人税が課税されないというものです。理屈上は、企業がトータルで黒字になった場合に法人税を課税するのが公平なので、これに制限を掛けるのはおかしいと考えることもできるのですが、政治的な判断から過去9年の赤字に制限されています。
更に資本金1億円超の大会社は、赤字の出た翌年度以降の黒字について、単年度につき黒字の65%までしか控除できません。例えば昨年200億円の赤字を出して、今年100億円の黒字となった場合、繰越欠損金控除は100億円の65%の65億円しか使えず、35億円については法人税を支払うことになります。残りの赤字135億円については翌年度以降の利益と相殺していくことになります。この制限は昨年までは80%だったのが今年厳しくなり、さらに2年後には50%になる予定となっています。
中小企業の場合、9年間の制限はありますが、65%には制限されず、前述の例の場合100億円まるまる控除を受けられ、今年は法人税を納める必要がありません。だから今後少しでも利益が出せるようになった場合に、キャッシュを確保するために現状多額の繰越欠損金のあるシャープが中小企業となるメリットは大きいと考えられます。
中小企業になると欠損金の繰戻還付も受けられるようになるけど、これは前1年に納付した法人税の還付だから、欠損続きの今のシャープにはあんま関係なさそうです。
法人税の軽減税率や減価償却の優遇や交際費の一部損金算入はシャープくらいの規模だとあってないようなものでしょうが、研究開発費の税額控除の拡大は割と大きいかもしれません。繰越欠損金のある間はそもそも法人税がないので税額控除はしようがないですが、今後業績回復の兆しが見えたときに、新たな研究開発を行うと、それにかかった費用の数%を法人税の減額とすることができ、大企業よりも中小企業の方が税額控除の枠が大きいため、このへんでも中小企業の恩恵が受けられるんじゃないかなと思います。
あと外形標準課税の対象から外れるのも大きいかもしれません。赤字でも資本割はかかってしまいますから。
ざっと計算したら3億円くらいは節税になるんですかね。ただ今後外形標準課税の拡大があるかもしれないとのことですからどうなりますかね。
俺には生きる目的がない。夢もない。ただ漫然とゲームやアニメ等のコンテンツを浪費し、飯を食って生きながらえてしまっている。死にたい。
おそらく、かつては生きる目的はあった。勉学に励み、大学から研究の道へと進み、父親のように研究者として生きたかった。大学中に恋をし、早いうちに結婚したかった。社会の役に立てることをし、名声を得られなくとも慎ましく生きていきたかった。
だが大学の研究室で現実を知った。俺には新しいことを考え出す力が決定的に不足していた。学部生として配属されたときに最初に与えられた目的が希薄であり、自分で目標を作り目的を見出さなければならないことを知った。日々の作業はただただ雑務であり、教授の話す夢物語と現実の作業の差を感じた。そこには楽しさもうれしさもなかった。
結果、研究室に入って数か月で鬱状態となり、修士卒業までの3年を無駄に過ごした。元々の人付き合いスキルのなさもあり、在学中に出会いなどあるはずがなあった。利子なしの奨学金も取れたが、あてにしていた返済免除などとれるわけがなかった。
修士に入ってすぐ、研究の道へ進むことをあきらめた。得たことは、お前の目標とこれまでそれに走ってきた人生は間違っていたのだ、という現実だけだった。
社会的には「幸いにも」、俺にとっては「不幸にも」、俺がこれまで勉強してきた方面で、有名大学の推薦枠で、大企業の子会社かつそうそう潰れないメーカー会社に就職した。
大学での研究の道はあきらめても、企業の開発部門なら心機一転できるし、あくまで利益追求という目的があるから、君にはそっちのほうが向いているのではないか、と大学教授から勧められたからだ。
だが、入社して1年経った今、仕事にも生活にも虚無感しかない。
やりたいかもしれないと思っていたことはすでに分業化されており、統括の立場になるには20年はかかるであろうことが容易に予測できた。
研修後、ある程度希望を出した部署には配属されたが、全く興味がない仕事に半年従事させられた。人手が足りないから応援にいってこい、ついでに仕事の進め方を学んでおけ、と言われたが、いかにうまく手を抜いてサボるかを学んだだけで仕事の目的と意味をいくら聞いてもさっぱり理解できなかった。
楽しいともやりがいがあるとも全く感じられない。これを20年耐えたところで、俺のやりたいかもしれないことができるとは思えない。
別にやりたくもない仕事を押し付けられるのは社会ではよくあることだろうから、そこは仕方がないと思ってやるしかないのだろう。だが、仕方がないと思ってやるのは何故かといえば、仕事だからであり、なぜ仕事をやるのかといえば、金を稼いで飯を食って生きるためである。ではなぜ皆そんなにやりたくもない仕事してまで生きるのか?
色々な知り合いに相談してみたが、「生きてるから仕方ないじゃない」「死んだらほかの人が悲しむから」程度の回答しか得られなかった。
理由もなしにそんなに必死に生きていられるのか。言わないだけで目標とかこう生きたいとかあるんだろ?と勘ぐっても、それが何かは皆目見当がつかない。
さらに言うなら、俺にはそういう目標やらこう生きたいとかやらもない。
いや、正しくは最初に述べたとおりのことはあったが、もうかなわない夢物語と化している。代替案はない。
一山当てて海外を豪遊したいだとか、結婚したいだとか、そういうことはなくもないが、その理由は「そういうことをすれば他人から称賛されるから」というクソな理由であり、俺が自発的にやりたいことではない。
少なくとも、俺は俺が嫌いだ。俺の性格が嫌いだ。
俺の性格の本質は、自己中心的な完璧主義、そこそこの努力で他人に賞賛されたいと願っているゴミである。自分の思い通りにならないと泣きわめく子供である。
いくら表現方法を変えようと、手管を尽くそうと、我慢しようと、精神に負荷がかかると必ずこの性格が顔を出してしまう。変えられない形質というやつだ。
こんな性格を持つ俺自身を俺は全く好きになれない。むしろ大嫌いである。
自己啓発本とかでよく言われているように、まずは自分を認めなければ始まらない、だから認めたらどうだ?アホか、こんな人間なぞ信用もできないし認めてやることなんかできない。
だから、死にたい。俺には苦しんでまで生きる意味なんて、目標なんてないのだから。
一方で、この俺の行動を「構ってチャン乙」と冷めた目で見ている俺がいる。当然だ、こんなことを書いているのは俺かわいそうアピールに他ならない。
こういう風に書き散らしてみたり、酒を飲んで人に八つ当たりしたり。世から見ればこんなことをしているのはメンヘラとレッテルを貼られ、忌み嫌われ、蔑まれていく。
こんなことをする奴を助けてくれる奴なんていない。この世にスーパーマンはいない。いたら詐欺師か霊感商法か宗教勧誘だろう。
さらに、俺の周りには俺が生きたかったような人生を送っている奴がゴロゴロいる。まさに最初に挙げたような、研究職について人生順風満帆なやつが何人もいる。つきあっただの結婚しただの子供作っただの、というやつも何人もいる。仲良しグループですらそういう話題に事欠かない。
そういう話を聞くたびに、激しい嫉妬に駆られる。どうして俺はそうなれなかったんだ。どうしてお前らは。どうして。どうして。
生きているだけで、そういう話がどうやっても耳に飛び込んでくる。別に友達に限らず、仕事の付き合いでの雑談でも絶対に出てくる。避けることはできない。
俺は愛情というものがよくわからない。恋人や結婚相手、子供が欲しいとは思うが、それは社会的ステータスのために欲しいのであり、純粋に誰かを好きになったことはない。さらに口下手のオタッキーだから、これまでに付き合ったことなどないし、当然童貞である。
恋愛関係については何も知らない赤ん坊であるのだろう。だが、完璧主義のため失敗は許されない。付き合うためのきっかけもわからない。職場には女性がいない。出会い系は危険というニュースのイメージを子供のうちにさんざん刷り込まれている。街コンは行ってくれる知り合いがいない。そもそも、恋愛をするメリットが分からないまま、他人の恋愛事情に嫉妬している現状が意味不明である。
当然知識はある。山の深くへ入り込んでも、海へ入水しても、首を吊っても、道や線路へ飛び出しても、薬品やガスを使っても、風呂場でコンセントをショートさせても、すぐに死ねるだろう。他人への迷惑度など知らん。
ではなぜ衝動に駆られてもそうしないのかというと、きっと死とはどういうことかを知らないからだと思う。
幸か不幸か、物心がついた後では私の身内や親しい間柄の人間では未だに誰も死んでいない。葬式に出たことがない。ペットも飼っていなかったので、親しい生物の死に直面したことはない。
二度と会えなくなるということはわかっているが、理解したことはない。
死んだらどうなるのか?魂なんてものや天国地獄なんてものはないだろうが、そうあってほしいという願望はある。
俺がこの詰み状態から抜け出すには、俺のことを受け止めてくれるそこそこかわいい未婚女性と、ネットやゲームに張り付くよりも楽しく生産的な何かが必要なのだろう。あと金。
だがそれは降ってはこない。だが掴み取るためには今よりもっと酷い精神状態になりながら人生に打ち込まなければならない。だが、そもそもこれまでに目標を勉学以外で自発的に達成できたことなどない。
それらが欲しいなら、どうすればそれを手に入れられるか?という戦略を立て、目標と妥協点を立て、行動しなければいけないのだろう。そのような気力はない。そもそも前提として俺の性格が人間失格レベルなのだから、人生は詰んでいるのだ。
また明日から仕事だ。死にたい。死ぬのがだるい。死にたい。助けてくれ、だが無理なんだろう。死にたい。
15/5/11
私は
・1年前、長く付き合ってた彼氏にこっぴどく振られる
・それ以来男の人を信用出来ないでいる、という言い訳
相手は
・10個上
・私とは何度もデートしてくれてる
・噂に寄ればセフレは二人くらいいる
・そもそも私の事は気軽にご飯に連れて行けるカワイイ()女子大生としか思ってない
で、何が好きかって言う話を4点ほどあげたい
こちらから連絡を我慢してて、会いたいな〜と思っている時に限ってどうでもいいような連絡をしてくる。
私が追いたいタイプというのもあるのかもしれないけど、こうなると押すしかなくなって、どんどんはまってしまう。
与え過ぎない事が何よりも大切と言うけれど、それを体現されている。
・たまに嬉しいことを言ってくれる
たまに「君は○○が上手いよね♪」とか「○○は君にしか任せられないな♪」とか言ってくる。
そして、たまに「カワイイ奴だな〜♪」とか「好きになりそう♪」とか言ってくる。
私はバカなので、適当に言われている事は分かってるのに、そういう言葉にゴロゴロ転がされる。
どんどん好きになる。アホofアホ。
・とにかく適当
私がかっこいいと言っても、好きだと伝えても、適当に返される。
これが逆に楽しくて、直接伝えてしまう。
・顔がタイプ
で、こないだ久しぶりにデートしたんだよ。
15分待たされ、その間友達にLINEで「クソでもしてんのか?」とキレてた。
そしたら人に道を聞かれて、応え終わって後ろ振り返ったら、ニコニコして待ってた。
そんで歩いてると、「遅くなってごめんね♪」と言いながらgodi○aの袋をちらつかせてきた。
そんなんさぁ、全然クソでもなんでもなくてさあ、絶対チョコじゃん…美味しいじゃん…惚れるよね…
もう何でも良いやって思ったから自分の悩みとか彼の彼女の話をして。
彼女に関しては、別れるメリットが見つからないとか言って逃げられた。
「結局今の彼女以上に良い人が見つからない♪」と真顔で言われた。
なんだかつらかった。
いや、分かってたんだけどさ。
じゃあこうして二人で過ごしてる時間は一体なんなの?
こうして私がどんどん好きになって行く気持ちは一体なんなの?
私はいったいどうしたらいいの?
って、帰って来てから思った。
その時は、「うん、わかってた」と納得していた。
で、二軒目行った。
多分往復で30分くらいは歩いてたと思うけど、全然あっという間で、疲れなくて。
一緒にいて本当に楽なんだ。私の好きになる大きな条件として、無言でも楽しいって言うのがあるから、満たしまくってる。
二軒目でもずっとお話ししてた。
で、私はずっと思ってた事言ったんだ。
・元彼と別れて、男の人なんてこんなもんか…とかなり意気消沈して、男の人に偏見もってました。
(「あ。視野が広がった?それなら良かった♪」)
・はい、でも、あなたにたいして、打っても打っても響かないから、打ちまくったらこんなことになっちゃって。
・あなたのことを忘れる為には、今あるコマのなかで適当に付き合うしかないんじゃ無いかって思ってます。
(「そもそも、忘れようとしなくても良いじゃん♪(ニュアンス)」)
結局、
「僕は同じテリトリーの人とはそういうこと出来ないんだと思うんだ♪」
「社会人になったら変わるかもね?♪」
と言われた。
「私が本気で話すとそうやって逃げる!!!」とキレたら、
「あ、これが君が言ってた、駆け引きが上手いってことなのかな?」
といわれた。
帰りに私を家まで送ってくれた。
その帰り道、本格的に寝る事を誘われた気がする。
「そう言って、私が本気にしないって分かってるから言うんでしょ!」
とかおちゃらけてしまったんだよ、
念願かなって、寝れたな〜〜〜〜〜〜〜〜
たとえ寝れてもそれで終わっただろうし、毛の処理もしてないし、
今更ながらめちゃくちゃ後悔してる。
あの夜寝れたら、私今頃変わってたような気がする。
こんな自分がかわいそうで、だからこそ可愛いいから、彼に好きになってもらいたくって。
多分彼は、私の事好きだと思う。ただ、何をするにしても決定打が無いだけ。
私が褒めまくって好きってアピールしてるから、都合良く良い気持ちにさせてあげられてて、それでご飯につれてってくれるだけ。
自分を好いてくれる妹分みたいな感じなんだよ。
ようわかっとる。彼がクソだってこともようわかっとる。
実際にこの人と付き合ったら、私の身も心もぼろぼろになる。
そもそも私はわりとソクバッキーなので、自分の彼氏がこんなのだったらしょうもないし、めちゃくちゃつらい。
こうして、よくわかる頭の良さ持ってるから逆に厄介なんだ。
ただ、私の頭の中は彼の事でいっぱいで、我ながら頭悪すぎると頭抱えてる。
今一つだけ言えるのは、次にデートに誘われたらお母さんに、「女友達の家に泊まってくるね〜」と言いながら家を出るということ。
一発やって、心の整理をつけたい。更にとっ散らかる可能性が高いけれど。
『東大文科一類から、法学部に行かない人が増えている』な記事があった。
やりたいことが割と明確で、それが官僚や法曹じゃない人は『法学部以外』を目指し、
『目的意識、将来意識が希薄』な人が、そのまま『周りに流されて』法学部に行きがち、という記事。
文科一類って、開成とか灘とか出身者が多くて、『周りも東大に行くから、自分も行く』のような主体性ない人が結構いる。
法学部『でも』行くか、法学部『しか』行かない、という学生、それが法学部の一部には存在する。
この記事を見て、
『東大文科一類から、そのまま法学部に進学するか、それとも駒場の教養学部に残って別のことをするか、悩んでいた27年前の自分』
を思い出してしまった。
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか? 近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・どの家の冷蔵庫も然して変わりません。多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。全てはそこから始まる。その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150114/k10014682081000.html
セックスレス夫婦の数を示すグラフはこの10年間に一度の減少も示していなかった
このトレンドが本物だということだ
昨日久しぶりに顔を合わせたわたしを含む3人の学生時代からの友人同士は、ともに育児とセックスレスの問題を抱えていた
夫婦共働き、育児のアウトソーシング、供給過多な情報に揺さぶられ続ける物欲の処理
経済至上主義とされる世界においてその過当競争に歯止めがかからない限り、消費者はこれからもこれらの問題から時間を奪われ続けることになる
セックスレスの理由について、記事では面倒くさい、仕事が忙しい、なんとなくといった言葉が挙げられていた
仕事、育児、物欲処理に追われ続けている現代人にとって、夫婦だけの時間を削りだすことのハードルは今や超えることが困難なほど高い
このハードルが上がり続ける以上、パートナーとの性交渉は近くにあるようでいて、実は最も手の届きづらい性欲処理手段になりつつあるといえるだろう
しかし、これらはあくまでパートナーとの性交渉に対して挙げられた理由である
それでは人類における性欲の総量は、果たして減少していると言えるのだろうか
わたしはそれを否定する
現代人を取り巻く環境の大きな変化の一つに、スマートフォンの普及が挙げられる
仕事や生活に多大なる利便性ももたらしたことは今さら改めて必要するまでのないことである
こうしたテクノロジーは同時に、性的欲求を満たすこともカジュアルに進化させた
ロックを解除してからものの数タップで画面一杯に目新しいセクシャルな画像や映像を映し出すことが造作も無い時代である
スマートフォンというロケーションフリーであるテクノロジーは、いってみれば性的欲求の処理さえもロケーションフリーに変化させるテクノロジーでもあるのだ
つまりはそうして日々漸次的に性的欲求を処理できるようになった現代人にとって、パートナーとの性交渉は日々悪戯に貯めこむ性欲の処理を求めるものではなくなってしまった
つまりはセックスレスの一番の要因とは、カジュアルに性欲処理を行えるようになったテクノロジーの進化に他ならないのだ
性欲をカジュアルに処理できるようになったことでよりパートナーとの性交渉は希少性を高め、つまりは欲にほだされるではない真実の愛を見つめ合う時間へと変化することとなるのだ
セックスレスが進む未来には、男女ともがパートナーに対して性的な鬱憤をぶつけることなく、またお互いの時間を悪戯に奪い合うでもない、お互いの真実の姿を見つめ合うことができる夫婦2.0の時代が訪れようとしているとさえ言えるのではないだろうか
よし。意見はまとまった。
もうすぐ、出産を控えている。
そんな今、『母という病』 (岡田尊司)を手にとった。
子を生む前、このタイミングで読めてよかった、と思う。
本書は、様々なケースを紹介しながら、母とうまく関係を結べなかった子どもの不幸を説明している。
個人的には、多かれ少なかれ〝母という病〟は誰でも持っているのではないかと思うのだが。もちろん、私も。
私はずっと、それこそ30になるまではずっと、子どもは欲しくないと思っていて、それは、子どもにとって親は神のような存在になることの恐怖からだった。私の一挙手一投足、一言、だけではなく、存在そのものが1人の人間に影響を与える、そんな恐ろしいことはとてもできないと思っていた。
私は、母とも父とも、関係が悪いということはなく、ただ関係が希薄であり、それは大学から私自ら距離をとったからだ。中学時代から、ずっと早く家を出たいと思い続け、大学でやっと遠方に出てからは、ほとんど帰省しなかった。
母にまつわる幼い頃の記憶は、自分が否定されたことしかない。褒められた記憶はない。
叔父の家で少し癇癪をおこしたら殴られたこと、
友達の否定ばかりされ挙げ句の果てにその友達の前で『お母さん、◯◯ちゃんは嫌いよ』と言われたこと、
弟と一緒にスーパーでふざけていたら、『うるさいしずかにしろ』といわれ『弟のことは無視しなさい』といわれたこと、
父と喧嘩ばかりしており離婚するするといっては結局しないで、さっさと別れればいいのにといつも思っていたこと、
父の転勤話がでているのに自分は行く気は無いと言って小学校に何の連絡もしてくれず、父との板挟みになった私が自分から担任に申告して驚かれたこと、
いつの間にか家族の誰にも言わずに内職を始めており物件情報も集めていて、それを見つけた私に『お母さんは出て行くから』と言ったこと(結局出て行かなかった)、
進路希望を軽い気持ちで相談したら、泣いて否定されその後全力で怒られたこと。
何のきっかけか忘れたが、まだ幼い頃、脅しでハサミを母の腕に押し当てたところ無視され続け、そのまま母の腕をハサミでざっくりと切ったこともあった。
いつも髪をひっぱりあって喧嘩していた。
本書を読んで思ったのは、そっか、私は母に認められたくて、否定され続け、愛着が適正に育たなかったのかもな、ということ。
十代のころから、ずっと生きづらさを抱えていた。中学高校とだいたいの友達はグループをつくっていたが、私は一つに属すのではなくフラフラといろんなグループと付かず離れずでいた。
中学受験で入った学校はイジメなどはなく自由でおおらかな校風だったため、そんな私でも通えていたのかもしれない。
途中から、親もただの人間だと気付き、親に期待するのはやめ、いや、そもそも人に期待すると裏切られるだけだから最初から期待すべきではないという考えに至った。
大学時代は、水商売の世界に足をいれ、似たような生きづらさを抱える人の中に埋もれて安心感を得た。
ずっとずっと、自己肯定感を抱けずにいた。
なにも、私が特別などとは思っていない。こんな家庭はごまんとあるだろうし、こんな生きづらさは誰しも抱えているだろうと思っている。
ただ、親に健全に愛されて育ってきたんだろうな、と思わせるようなクラスメイト達の、会社の同僚達の無邪気さをみては、私はあんな風にはなれないしなりたくもない、と思っていた。
ーーー
でも今、もうすぐ子を生むにあたって、我が子には適正な愛着を育んで欲しいと思っている。
不必要な生きづらさは抱えて欲しくないし、自己肯定感を、基本的安心感をもった子に育って欲しいと強く思う。
基本的安心感とは、世界や自分といったものを無条件に信じることができることだ。基本的安心感がしっかり備わっている人は、何が起ころうとどうにかなると、未来を信じることができる。
本書では、ADHDも母との関係によるものだと述べている。もともと持っている子どもの傾向はあれど、それに対して適切なコミュニケーションが取られなかった場合にADHDなどの行動障害がひどくなりやすい、とのこと。(これが正しいのかどうかは私には分からないが)
もともとの子どもの性質は、人それぞれあると思うし、それに対してどう対応していくのか、がこれから親となる私に課されていること。
幼い頃、どれほど愛されたかでオキシトシン受容体の数がきまってしまい、オキシトシン受容体が少ないと子育てに歓びを感じにくく苦痛になりやすい、(つまりこれが負の連鎖なのだということか。)とも本書は述べている。
そうすると、私はオキシトシン受容体が少ないかもしれない、恐れている産後うつになりやすいのかもしれない、などとも思ってしまうが、その理屈を知っているのと知らないのとでは対応の仕方がまた異なる。
辛くなったら、周りに助けを求めながら、子を否定するとなく、暴力に訴えることなく、ダメなものはきちんと理由を説明しながら、自己肯定感を持った子に育てていきたい。
それが、出産を目前にした、今のわたしの気持ちだ。
■本文。
最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観=ジャンルは求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域を侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限に肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれた中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景は認識することができない。
そんな現代において、旧来の世界観に回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディアの特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲームは存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理は自身のセクシャリティ=現実の恋愛やセックスを前提としているが故に、現実と虚構を対比し優劣を決定する方向性で結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和と自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムをインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。
美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある。言い換えれば、自身のセクシャリティに対する意識が希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システムの機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。
そして、セクシャリティに対する意識が希薄である=前時代的であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスはあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦と素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代の価値観が無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックスは結婚後に初めて行うものと考える人々が未だそれなりの割合で存在していたということだろう。だから、美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業の二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所の二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。
さて、現代の物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済やテクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位で解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語がジャンルとしての秩序を失い、単なる情報の集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為の目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報を収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体へスタイルを変化させつつある。
つまり、他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏な日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景=楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲームが遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統に回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。
例えば、他者との関わりは、現実世界の他人や社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点も存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景=楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去の価値観のレプリカと捉えた上で、同時に時間的な意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見『ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズと判断される危険性を孕んでいながらも、過去と現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。
また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰的であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法で物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームのユーザーであり続けると思う。
■あとがき。
本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。
とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムのバックナンバーを順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年とちょっとの間、どうもありがとうございました。
■その1。
前回の原稿で、オタク業界に蔓延している過剰なヒーリング志向について軽く触れたのだが、今回はそのあたりを少し突っ込んでみたい。というのも、「癒し」という言葉が、やたらと濫用され、単にナルシズムを肯定する為の方便に陥っているような気がするからだ。
さて、過剰なヒーリング志向の本質は、常に表層的な感動状態を維持したいという意志で、まあ、完璧に「感動ジャンキー」に陥っているのだけど、実の所、表層的に感動させるのは案外、簡単だったりもする。「心の琴線」というスイッチを押してやれば良いのだから。そして、感動のスイッチを押してくれるのを待ち望む人々の需要に合わせ、感傷的な設定のおたく向けメディアも大量に供給される時代になったけど、その水準には千差万別あるのも確か。
で、今回取り上げるゲームは『終末の過ごし方』なのだけど、このゲーム、インタラクティブ性はほとんどない。あくまで、CGと分岐を加えたデジタル小説というスタンスである。その為、うっかりいつものくせで速読法を使ったら、一時間もかからずにクリアしてしまった。
プレイヤーの視点は主人公ではなく、あくまで読者という第三者で設定されていて、その距離感が淡々としたイメージを増幅している。でも、美少女ゲームのはずなのに、感傷的な気持ちだけが残るというのは、どこか肩透かしな印象も受けるし、ゲームとしては、正直言ってあまり評価できないけど、心の中にひっかかりを残すという点では、上手い作品だと思う。……そして、淡々としたイメージを大事にしたことが、良くも悪くも物語を支配している。
まず、終末が近いのに、あくまで日常の延長を望むという意志を描くには、やがて来る非日常との対比が必要なのだけども、非日常の予兆が感じられるのは、章ごとのプロローグ的なラジオと、登場人物の断片的な台詞だけだったりする。主人公達以外の行動を具体的に描いてしまうと、せっかくの世界観が崩れてしまうという危険はあるけど、それにしても、慎重過ぎた気はする。また「終末」が、実際は「週末」としての意味しか持たず、学校という閉鎖空間への追憶に留まってしまったことに、少々歯がゆさもある。
『終末の過ごし方』は、感傷的な演出や舞台を、意図的に仕掛けることで成功した作品だ。それは、需要に対して忠実な姿勢だと言えるし、作品の水準も高いんだけど……。
■その2。
確かに、筆者は昔、虚構としての学校を描き、虚構の追憶を描いた『雫』を支持した。感傷的ではあっても『雫』には、自分の中の闇や暴力性を見つめる視点があったし、自分が何者であり、何処から来たのか、その理由を解体し、文脈化しようとする意志があったように思う。
最近、ユーザーの嗜好が視野狭窄的になっているというか、感傷的な設定のみに過敏に反応して持ち上げ、他の要素に対しては全く盲目になるという妙な風潮が、急スピードでユーザーとメーカーの感覚を支配しつつあるような気がする。この風潮に乗った作品がヒットを飛ばしているのは、他のメディアでも顕著に見られる傾向ではあるが、美少女ゲーム業界では、更に明確な形で現れている。その責任が誰にあるかは、また改めて書くつもりだが……。
……しかし、それほどまでに「癒し」が必要なのか? 過剰な「癒し」を消費する世界は何なのだ? という疑問は、心に残ったままだ。
話がずれるけども……残念ながら、世界は方向性を失っている。向上心を生むべき壮大な目的は、社会のどこにも存在しないし、怠惰で澱んだ空気が世界を支配している。先日、「児童売春禁止法改正」という事件があって……まあ、それ自体は強行した側も反対した側も、本質とかけ離れたつまらない思惑で動いているのが見え見えで、滑稽な印象しか抱けなかったのだけど、そんな澱んだ世界だからこそ、そもそも少女ポルノが問題となった訳だ。
だいたい、少女ポルノに需要が無ければそもそもそんな話にはならないし、何で需要があるかといえば、少女の瑞々しい生命力を媒介として、一瞬でも澱んだ空気から解き放たれたい=癒されたいという潜在的意識があるからだろう。もっとも、それも安易な幻想ではあるんだけど。
だから、癒されたいという本質が研ぎ澄まされた結果として、ポルノメディアがエロから乖離していくという現象も起きる。元々、肉体性の希薄な二次元メディアである美少女ゲームでは、更に現象が極端になっていくのは当然なのかもしれない。
僕らが置かれている世界は、全体としての方向性を失った為に、社会と向き合う意志を持たなくても十分に生きて行けるし、自分の立脚点を相対化する必要に迫られることも無い……むしろ、それを持っている者、自覚的である者が排除されていくというパラドックスも生じている。
各々が「癒されたい」「楽になりたい」という快楽原則に忠実であるあまりに、自覚的な存在は、快楽原則を脅かす存在として、集団の中から自動的に排除されてしまう。そうやって完成された巨大な快楽原則=システムには、既に評価軸なんてものは存在しないし、結果として、罪の意識を漂白した、商品としての表層的な刺激だけが残ってしまった。
……だからこそ、優雅でも感傷的でもない、痛みを伴う物語が必要になっていると思うのだけど?
■総括。
本当は、それぞれのユーザーが、ゲーム(物語)に対して、どのような意志を感じるかが問題で、このコラムも、あくまで参考資料だと思って欲しいなあ……という訳で、なんだか賛否両論な『こみっくパーティ』だけど、次回、テストプレイが間に合えば取り上げてみようかなあ、と思います。
あと、批判するつもりは無いのだけど、なーんか、批判的な言い回しが多くなってしまう……というジレンマを抱えながらも、同時に、論評に耐えられるだけの水準が無い、つまらないゲームは最初から取り上げないのが、このコラムだったりもするので、ここは一つ、実際にプレイして、自分なりの感想を持って欲しいのだな。
■その1。
今回のテーマにあたって、かかしあさひろとロボット少女萌えの起源を辿っていたら、真っ先に出てきたのが、筆者が『メタルK』の冥神慶子で、かかしが『コブラ』のアーマノイドレディだった……まあ、実は、1965年にスタジオゼロが作ったアニメ『レインボー戦隊ロビン』に出てきた看護婦ロボット・ルルが筆者の知る限りでは、最古のロボット少女萌えであり、起源だと思うのだが、現在入手不可能なので、とりあえず忘れよう……。
それはそれとして、おたく向け作品の定番パターンの一つに、ロボット少女萌えというジャンルがある。『ToHeart』のマルチが大ブレイクした事で、美少女ゲームの世界では一気にメジャージャンルになった。
特に今年に入ってからは、『WoRKsDoLL』『MACHINE MAIDEN』『RIZE』と、ロボット少女ものが続けて出ている。筆者は『WoRKsDoLL』と『MACHINE MAIDEN』をプレイしたのだが、このジャンルでの定番なテーマである、人間性の欠落を補う為の美少女ロボットか、人間の欲望を充足させる為の美少女ロボットか、については『MACHINEMAIDEN』では対立するものとして描かれているし、『WoRKsDoLL』では選択するものとして描かれていた。ただ、『MACHINE MAIDEN』では、前者の概念が意図的に勝利している。これは、ユーザーが美少女ゲームに何を求めるかという意識の変化を反映したとも言える。
個人的な話で恐縮だが、筆者の本業はまんが編集者(ただし休業中)であり、仕事の参考用に市場の傾向分析をするのだけど、昨年あたりから、過剰な位に、癒しや郷愁をテーマにした作品を求める傾向が見られるようになった。元々、ユーザーの好みは、ハードエロとソフトな癒し系に別れる傾向があったが、かなり後者は先鋭化している。まあ、過剰なヒーリング志向そのものについては、場を改めて言及するが……。
■その2。
美少女まんがをエロ目的ではなく、「癒し」を目的として買う人が増えているという現実。それは、ゲームでも同じで、1キャラあたりのセックス描写が1~2枚程度な美少女ゲームが売れている理由は、この雑誌の読者ならば「CGのクオリティ云々~」に帰着させるんだろうけども、もう一つの背景として、ユーザー、特に男性の側に、失われつつある少女幻想へのニーズが高まっているという状況があると思う。
情報の氾濫が人間性を希薄にするというのは、いささかステロタイプな認識だが、「少女」の実像が曖昧になっているのは確かだ。たとえば、我々が考える現代の少女像は、概ね記号化されている。宇多田ヒカルを聴き、キューティコミックを読んで、援助交際に励む……といった程度が、おそらくイメージの限界なのだが、それはまた、多くのおたくにとっては唾棄すべきイメージでもある。何故なら、それは情報のキメラ化で生まれた「鵺」のような不快感が付きまとうからだ。そして、情報の氾濫により座標軸を失った人々は、古典的な価値観を求め出す傾向を示す。
■その3。
さて、ロボット少女の代表格としては、『ToHeart』のマルチが存在する。マルチには「少女」の記号がこれでもかという程、多く存在するが、これは、おたくが望む所の少女幻想を満たそうとすれば、年々侵食する大人の領域から逃れる為に、必然的に年齢が下がる。少女というよりは幼女にベクトルが向かってしまい、行き着く聖地は小学校の一階になるのだが、下がると同時に社会的な軋轢が生まれ、イノセンスとは別の要素も混じってきてしまうという欠点がある。というか、犯罪。
で、マルチの場合は、ロボットということでその障害を回避している。幼女=絶対的な処女性、ロボット=無機質の美、メイド=成熟した女としての意志が介在しない従順な存在、という要素群が、これほど見事に合致した例もないだろうし、だからこそ、ヒロインのあかりを差し置いてアイドルに成り得たのだ。ただ、個人的には、その濃厚な純粋性がちょっと……という心境ではある(単なるひねくれもの)。というのも、どんなに崇高かつ絶対的な少女を再現しても、ロボット少女はユーザーの欲望の為に用意された人工物に変わりはないのだ……。
ちなみに、この視点で見ると『マシンメイデン』には、問題が一つある。それは、タイトルは「機械の処女」なのに、アルシアは早々に処女を失ってしまうからだ(笑)。まあ、筆者などは、純粋性を維持した上で、淫乱さも持つなんて最高じゃん!と思うのだけども、逆に萌え要素が目減りしたと思うユーザーも多いのだそうだ。こうなってくると、何のための18禁ゲームなんだか分からなくなってくるのだが……。余談だが、ゲームの構造の相似性もあって、アルシアのキャラクターは、『ナチュラル』の千歳を彷彿とさせる。そういえば、千歳も従順でロボットのような少女ではあったが……。
話を戻すと、美少女ゲームが、少女まんが的な絵柄を用いて、イノセンスで従順な少女を描くことに腐心した結果、セックス描写を減らしていく一方で、当の少女まんがでは、あからさまなセックス描写が増えた。下手すると、18禁指定の美少女ゲームより、『少女コミック』や『マーガレット』の方が過激なエロを展開している状況もあるのだ……。そして、同じようにセックスを扱っていても、意図するものは正反対であり、保守的な価値観へ向かう男の子と、過激で積極的な女の子との距離は限りなく離れていく。その結果として、男性向けエロメディアの中にだけ、少女幻想が生き延びるというパラドックスも生じた。
今、手元に『火の鳥・復活編』の文庫版がある。というのも、現実の少女への絶望=人間性への絶望が、ロボット少女という形を取るならば、その描写のまんがに於ける元祖は、おそらく『火の鳥・復活編』に於けるチヒロであろう。念のため、ストーリーを軽く説明すると、交通事故で身体の大半を機械化されたレオナ少年は、全ての生物が無機物に見えるようになってしまった。
レオナはその代わりに、無機物であるはずのロボットに女性を感じ、チヒロというロボットに恋をする。無論、異常者として二人は社会から非難され、二人の恋はチヒロの電子頭脳に移植された記憶として昇華するが、結実した瞬間、醜いロボットと化した現実に直面する。
この話で一番痛いのは、普通の人間にとっては、機械剥き出しで無個性なロボットでしかないチヒロが、レオナの感覚では美少女として捉えられていることだろう。ロボット少女萌え属性な人には痛い描写だし、また、今日の状況を予見している描写でもあるからだ。
確かに、手塚治虫やトキワ荘の一派は、ロボットを描くことで人間性を問う作品を多く描いたし、ロボット少女も多く描いた。ただ、その存在を全面的に肯定することはほとんど無かった。何故なら、ロボット少女は、現段階ではあくまで空想の存在でしか無いのだ。ユーザーが現実の世界に生きている以上、何処かで折り合いを付けなければ、レオナと同じように社会から非難されるはずだったのだが……その点、現代のおたくは幸福だ。何故なら、おたくを取り巻くシステムもまた、完成されつつあるからだ。「メディアミックス」という、優しい収奪のシステムに取り込まれ、飼い慣らされた結果、ユーザーは電気羊ならぬ、電気少女の夢を、半永久的に見続けることができる状況が生まれた。しかし、システムの中に閉じることにより、一般社会との相対的な視点を失いつつあるユーザーもまた多いのだ。
従来のポルノグラフィが、無意識のうちにマチズモ(男らしさ)を規範としている以上、マチズモに耐えられずおたく化した人々が、相対する少女まんが的な技法と感性へ惹かれていくのは、当然のことだ。筆者にもそういう時期があったから、頭から否定はしない。ただ、世界(=社会)への目を閉じて、失われていく「少女」への感傷と、過剰に供給されるヒーリングアイテムを盲目的に消費し続け、快楽だけを享受している、最近のユーザーには、苦さと虚しさを感じるんだな……。
そう、僕らの居る世界は、天国かも知れないが、同時に地獄でもあるのだ。その認識だけは最低限、持っておいて欲しいのですよ。
■実はダメな人の総括。
相変わらず暴走している筆者です。えーと、ロボット少女だったら、個人的には『Automatic Angel~時計仕掛けの天使~』(樹崎聖)の笑(えみ)かなー。『BROTHERS』(小池一夫&叶精作大先生)のメモリーも捨てがたい(笑)。ちゃンとお兄ちゃン属性もフォローしているぞ!(笑)
さて、次回は「優雅で感傷的な美少女ゲーム」と題して、今回の続きです……いや、書いている方も痛いんですが、少女まんが的なポルノグラフィを供給する場所として、美少女まんがや同人誌の市場があったけども、同時にそれは収奪のシステムであり……というか。BGMは、ビーチボーイズ『グッド・バイブレーション』で。
人間の歴史の中で絶対に無視できないものだけど、水や空気や食べ物のように生存にそれが必須なものではない
でもそれが普通のことで、外国のように、国が宗教を決めたり、国民の宗教が統一されていることの方が不可思議に思われる
元来人間の精神というのは自由で、宗教を信じる自由、信じない自由もあるはずである
何を信じるかは個々人が決めればよいのだ
今の時代は、昔よりも幸せに生きられる人が多い時代なのだから、
たとえば、私の伯母はガンに侵されてから、夫の信仰するキリスト教に入信し、洗礼を受けた
そして死を受け入れて亡くなったと思う
でも祖母は、実家が神道の家だったので、祖父を葬儀を神道で行うといって、父と喧嘩した
今の私は祖母の気持ちがわからないでもない
いくら祖父の望んだことでも、自分の信じてきたことから外れたことをするのは受け入れがたかったのだろう
どうしようもなく辛い時期があって、辛さを忘れる方法を模索した時に、仏教の無常という考えに救われたことがあった
人間が生きるうえで、自分ではどうしようもなくなった時に必要なものがあって、それが宗教という形になっていると思う
今の時代は豊かなので、特に日本では、自分ではどうしようもないということが少ないのかもしれない
でも、宗教ってなんなんだということは考えてみてほしい
昔は死ぬほど好きな漫画がいくつもあった。本当に精神的に辛いときだって、「この漫画の続きを読むまでは死ねない」と本気で思っていた。
今でも漫画はたまに買う。読んでると面白い。でも続きが気にならない。漫画がつまらなくなったのではなくて、私がダメになっているんだ。
漫画を買うのは、凧糸を求めているからだ。このままだと、今生きている理由が希薄で、糸のない凧のように、ここではないどこかへ飛ばされていってしまうからだ。
皆はどうやって生きているんだろう?どうして毎日朝起きて今日を生きようと思うのだろう?どうやったらその動機を昔みたいに得られるのだろう?それとも皆そんなものなくても毎日健全に生活できてるのだろうか?あるいは皆この苦しみを抑えて毎日生きているのだろうか?でも私にはもう無理だ。どうしたらこんな苦しみや疑問を抱かずに毎日生活できるのだろう?
日常の生活態度に、あまり滅張(めりはり)りの感じられないタイプです。さほど冷たい人間では無いのですが、何事も表情が根暗(ねくら)で他人の顔色や思惑には、ひどく無頓着なタイプです。責任感や使命感は希薄な方ですが、その替り、他人が何を遣って居ようと、気にも掛けなければ批判もしません。判断力や物事の処理能力は、まあ普通です。喜怒哀楽に乏しくて、趣味や娯楽に熱中する事も殆ど無く、何が目的で、何が楽しみで、生きて居るのか他人には良く理解出来ないようなタイプです。
恋愛や結婚に対する積極さが欠けています。あちこちに網を入れて、能動的に獲物を掬い上げようとする積極さが無いのです。ただ漠然と釣り糸を垂らし、獲物が食い付いて来るのを、黙って待っているようなタイプです。貴方が女である場合ならともかく、貴方が男である場合には、黙って釣り糸を垂らして居るような消極さでは、かなり条件の悪い相手しか、釣り針に食い付いて来ないでしょう。偶々、素晴らしい相手が釣れたとしても、責任感の薄い根暗(ねくら)なマイペース主義者である貴方には、結婚生活の面で、相手に不満を抱かせる条件を沢山抱えて居り、今後は余程、人生観や性格の転換を計らないと、せっかく掴えた配偶者に、バイバイされる危険性が、かなり高いと思わなければ成りません。
職業適性
性格的に見て、絶対に不向きな職業は、芸能、芸術、文芸などの分野や、事業家、政治家、医師、看護婦(士)、保母(父)、警察官、刑務官、検事、判事、弁護士などを挙げる事が出来ます。極く一般的な内容の仕事でしたら、別に問題ありませんが、職場のリーダーとして、頭角を露(あらわ)すと云う訳には行かないでしょう。
対人関係
根暗(ねくら)なマイペース主義を、何とか修正出来ないものでしょうか。その他の面でも、もう少し意識の高揚を計る必要が有ります。人生の最終目標として、人に誇れるようなライフ・ワークを見つける事が出来れば、これからの人生を、大きく転換出来る可能性が出て来ます。